2018年4月15日日曜日

ルカによる福音書第24章13から35節「この目も開かれる」

イースターの日の午後の出来事です。二人の弟子が、エマオから約12キロ離れたエマオ村へ歩いています。一人の名前はクレオパ。もう一人の名前は分かりません。二人は夫婦で、エマオ村にある自宅に帰るところだったのではないかとも言われています。道すがら、この数日間のことを話し合っていました。主と共にエルサレムに来たこと、この都での一週間、そして十字架と復活。彼らが語り合い、論じ合っていると、イエスが彼らに近づき、一緒に歩き始め、何の話をしているのかと尋ねました。彼らの目は遮られていて、それがイエスだとは分かりませんでした。彼らは、この数日間のことをこの人が知らないことをいぶかしく思いながら、暗い顔で立ち止まり、話し始めました。暗い顔です。私たちの顔も暗くなることがあります。この一週間、どういう顔で過ごしてきましたか?家事や育児、介護のときに暗い顔になったこともあったかもしれません。テレビやネットから流れるニュース報道に触れて、暗い顔になったかもしれません。そんな時、私たちはこの世界を支配する物語りに呑み込まれてしまいます。それは暴力の物語であったり、諦めの物語、死の物語、マネーの物語、力の物語、…いろいろな物語の形を持っています。エマオに向かう二人の顔はなぜ暗くなったのか。19から24節の長いセリフを読んでいくと、結局、最終的に彼らが一番当惑したのは、今朝仲間の婦人たちが天使に「イエスは生きておられる」と言われたことです。その言葉に躓いたのです。それで、顔が暗くなった。私たちもこの暗さを知っているのではないでしょうか。イエスは生きておられる。それなら、なぜ、戦争が終わらないのですか?どうして病があるのですか?それならどうして悲しみがこんなに溢れているのですか?イエスは生きておられる、そう言われるからこそ余計に残酷な現実があるのではないでしょうか…?今朝のこの聖書の御言葉が雄弁に語っているのは、彼らは気づいていないけど、私たちは気づいていないけど、実はこの道にイエスが共に歩いていてくださる、ということです。イエスは彼らの言葉を聞いて、「物分かりが悪い」と言いながら、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだった」と、聖書の話を始められました。聖書の御言葉を聞かせてくださったのです。聖書の言葉によって、この世界の物語に支配され尽くしていた彼らを、キリストの物語、神の物語に引き戻してくださったのです。50年前にキング牧師が暗殺されました。彼は暴力の物語が支配する社会の中で、キリストの愛の物語に生きました。暴力が現実的だと考えられていた世の常識とは異なる物語に生きたのです。その原動力は、聖書の御言葉でした。「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだった」の「はず」は必ずのこと、必然を表す言葉です。神の必然があります。しかし私たちは自分の必然で生きています。それは自分の頑固さが生むものだったり、無感覚で冷めた心が生み出しているのかも知れません。しかし、主はそんな私たちの頑なさと対決して、私たちをもう一度キリストの物語に捕らえなおしてくださるのです。そのことを彼らが知ったのは、キリストと共についた食卓でした。イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて彼らに渡されました。聖餐の所作です。御言葉と聖餐によって主キリストは私たちと出会い、キリストの愛の物語に連れ戻してくださいます。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...