2018年4月22日日曜日

ルカによる福音書第24章36から49節「あなたがたに、平和が!」

私たちの教会では、水曜日に祈祷会を行っています。今は、『愛と自由のことば』という本を読んで、その感想を語り合っています。一日一ページのアンソロジーで、いろいろな信仰者の言葉に触れることができます。皆で、一つの文章を読みながら語り合い、思い巡らし、神様のことを考えるのは楽しい時間です。仕合わせだと思います。エマオ村で主イエスに出会った二人の弟子は、夜の内にエルサレムに12キロの道を引き返し、仲間の弟子たちのところへ帰ってきました。「本当に主は復活した」というニュースを携えて。目指すところに戻ってみると、何と、主はシモンにも現れていて、皆はその話で持ちきりでした。どんなに嬉しかったことかともいます。その語り合いのなんと喜ばしいことであったのでしょう。ところが、思いもよらぬことが起こりました。そこに、何と、主イエスご自身が来られたのです。「あなたがたに平和があるように」とおっしゃって、主イエスが真ん中に立たれました。主イエス様の話をし、心燃えたと喜び、なんと幸いな時を過ごしていたことかと思います。しかし…彼らは主イエスを見て、恐れおののき、亡霊を見ているのだと思いました。…何と言うことか。他の話をしていたのならいざ知らず、主の話をして、しかも「本当に主は復活した」と語り合っていて、実際に主がここに来られたとき、よりにもよって亡霊だと思うなんて。何と言うことか。どうしてなのか。…そう思っていました。しかし、気づきました。これが、わたしの姿なのだ、と。復活は、私たちの信仰の土台です。キリストの復活がなければ、私たちの信仰は無意味です。そのことは信じています。それでも、私は、やっぱり恐れたり、おののいたりして生きています。まるで亡霊でも見たかのように正体不明の、神様もキリストも見失ってしまったかのような恐れを。それは運命だったり、不運だったり、名前のない力だったりするかもしれません。情けなくも、主が今ここに来てくださっていることに気づかず、ここにいてくださることを疑う私と、あの弟子たちと、一体何が違うのでしょうか。イエスを見て亡霊だと思い込んで、怖がる弟子たちに、主イエスはご自分の手と足を見せてくださいました。それで彼らは喜びます。しかし、まだ不思議で、信じ切れません。この福音書を見ていくと、この「不思議」という言葉が度々使われています。自分の理解を超えたことに驚き、不思議で、まだ信じ切れない。例えば、主がお生まれになったあのクリスマスの夜、天使に導かれてイエスの御もとに来た羊飼いたちの話を、人々は不思議に思いました。あまりのことに驚きながら、しかし信じ切れない。信仰生活は、もしかしたら、喜びと悲しみの中で、信仰と不信仰の一進一退なのかもしれません。主はそんな弟子たちに魚を食べて見せます。主イエスが肉体をもって甦られたことをはっきりとお見せになりました。深い憐れみです。その主イエスが、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、再び語りかけてくださいます。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に復活する。』」十字架と復活の言葉を。更に、今度はその先に進みます。「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」。私たちはその証人です。私たちは廃墟のような痛みの中でキリストに出会うのかも知れません。その痛みや悲しみは、主イエスの福音の証言として用いられます。

2024年4月19日の聖句

ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。(創世記6:22) (イエスの言葉)「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(マタイ7:24) 風水害や地震などの自然災害の多い場所に住んでいると、今日の主イエスの言葉はよく分かります。「岩の...