2018年5月6日日曜日

ローマの信徒への手紙第6章3から11節「扉は開かれた!」

この前の月曜日に墓参に行きました。妻の祖父母の遺骨が納められています。年をとってから二人揃って洗礼を受け、数年間の信仰生活を送りました。たいへんな時代を生き抜いてきた世代の人です。本人たちが信仰を得るよりも先に、神がその100年近い人生の旅路を生かしてきてくださっていたことを改めて思う一日でした。これまで多くの人たちが言ってきたとおり、人生は一つの旅なのだと思います。何よりも、聖書はキリストの御生涯を既に一つの旅路と捉えているのではないかと思います。キリストは、あのクリスマスの夜に飼い葉桶の中に生まれました。神の子である方が、謙って、僕の姿になってお生まれになりました。この世界は、神の子イエス様にとっては、異郷であったと思います。しかし、十字架の死に至るまで謙ることによって、神様がどんなに愛と憐れみに溢れ、私たちを愛してくださったのかを主イエスは示してくださいました。十字架にかけられ、イースターに復活したキリストは、40日間弟子たちと共におられて、やがて天に帰って行かれました。今年で言えばイースターから40日目は510日ということになります。主の昇天の記念日、それは、クリスマスとは逆に、まことに人でいらしたイエス様が天の故郷へと帰って行かれた日です。人間イエスの帰郷。主イエス様は私たちの人生という旅路がどこから始まってどこに向かっているのかを、身をもって教えてくださいました。私たちは神様の元から来て、神様の元へと帰っていきます。その間、私たちの旅路にはいろいろな出来事が起こります。生まれながらの境遇や時代に翻弄されることもあるし、思い通りにならないことの方が多いのかも知れません。しかし、私たちが気づくよりも先に、そもそも神がこの旅を生きるべき命を与えてくださったし、キリストがその旅で進むべき人間らしく生きる道を示してくださっています。主イエスが失われた息子の譬え話をしてくださいました。父を捨てて遺産だけをもらい、自己実現を夢見て好き勝手に生きた弟息子。放蕩の限りを尽くして財産を無駄遣いしてしまいます。彼の旅は、父親のもとを離れれば人間らしく生きられると思ったところに始まりました。自分の思うとおりに生きることが人間らしく自分らしいと思い込んで、実際には神様を捨てて生きました。もう一人の兄息子は父のもとにいましたが、不満のかたまりのような人物でした。やはり、弟と同じでこの父のもとにいては人間らしく生きられないと考えています。彼は弟のように実行に移せないで、代わりに弟や父親を心の中で徹底的に裁きます。キリストは父のもとから異郷のような私たちのところへ来られて、神様への従順を貫きました。私たちの前に謙り、十字架にまでかかりました。復活したキリストは、父のみもとへ帰還なさいました。主イエスは、いなくなった息子たちを自ら走って迎えに行く父なる神様のお姿を見せてくださいます。ここに私たちの帰る場所があるのです。改革者カルヴァンは、キリストの昇天が私たちに与える益について、このように言いました。「キリストは私たちのために地上に下ってこられたのと同じく、私たちの名において天に入りたまいましたので、そこで私たちのために入り口をお開きなりました。こうして、先には罪のゆえに閉ざされていた扉が、今や私たちに開かれたのです。」私たちが入るための天の扉は開かれています。さあ、この方の元へ帰りましょう。

マルコによる福音書第4章26から33節「空の鳥が巣を作るほどに」

主イエスは、世界一の説教者です。実にイメージ豊かな譬え話をたくさんしてくださいました。土に種を蒔く人。その情景を想像します。どんな種、どんな茎、葉でしょう。穂と言うからには麦でしょうか。実りの時、収穫の喜びの時を迎えます。もう一つはからし種です。小さな種です。ごまより小さい。でも...