2018年8月19日日曜日

コリントの信徒への手紙一2:6-9「世界が始まる前からの計画」

今日の聖書の御言葉を読んで、何人かの主イエスの弟子たちを思い出しました。まず、シモン・ペトロ。マタイによる福音書第16章に登場するエピソードです。主イエスが弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねた。ペトロは答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です。」主イエスはこの答えをとてもお喜びになりました。ところが、そのすぐ後、主イエスは御自分がこれからエルサレムで苦しみを受けて殺され、三日目に復活するという話を始めた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめます。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスはお答えになりました。「サタン、引き下がれ。」ペトロは、イエスをメシア、救い主と信じていた。しかし、ペトロが思い描く救い主は、十字架で犯罪者として殺されたり、復活するなんてバカげたことを言ったりしないない救い主でした。9節に書いてあるとおりです。「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された。」ペトロの発想にない仕方で、私たちが思いもしない仕方で、神さまは私たちを救ったのです。私たちが思いつくような救いって、どういうものでしょう?マタイによる福音書第20章には、他の弟子たちが登場します。ヤコブとヨハネという兄弟の弟子の母親が、イエスに願いました。「王座におつきになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」客観的に見れば、醜悪な言葉です。しかし、私たちの心にあるものに正直とも言えます。栄光を受けたい。報いがほしい。偉くなりたい。大きくなりたい。イエスは言われます。「あなたがたは自分が何を願っているのか分かっていない。」その通りです。私は、自分が願っていることが何を意味しているのか分かっていません。自分の姿を知りません。ヤコブとヨハネの母のような身びいきや自分と自分の周りさえよければという身勝手さは、殆ど、今の時代精神になっています。しかし、主は言われます。「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるのか。」明らかに、十字架のことを念頭におっしゃっている。主が向いておられるのは、私たちと正反対です。私たちはじぶんの栄光や大きくなることを求めるけれど、主は十字架へ、下へと向かっておられます。8節「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」主を十字架につけたこの世の支配者。それはピラトとも、ローマ兵とも言えるかも知れない。しかし、主を十字架につけたのは、「主よ、とんでもないことです」、「あなたが王座に着くときに…」と言えてしまう、同じような願いが叶えられないと不満を抱く、私たちです。そういう私が、主を十字架にかけて殺した。私の願いを、私が願うとおりに叶えてくれない神などいらないと言って、神を裁き、捨てて、十字架にかけたのです。しかし、誰も見たことも聞いたことも、心に思ったこともない救いの計画を、神は御自分を愛する者たちのために準備してくださいました。世界が始まる前から。私は主イエスを十字架にかけたけど、そのことでもって神は私を救ってくださった。私の代わりにキリストが裁かれ、神に捨てられて、私は救われた。それが神があなたのために準備してくださっていた十字架の知恵なのです。

詩編第119編161から168節「感謝の先取り」

「主よ、わたしは御救いを仰いで待ち、あなたの戒めを実行します。」待っている。今はまだ苦しんでいるから。頼りは神の言葉だけなのだ。「仰せを受けて私は喜びます、多くの戦利品を得たかのように。」今はまだ勝利したわけではないが、既にそうであるかのように喜ぶ。感謝を先取りしている。神の言...