今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一11、歴代誌下33~34、コヘレトの言葉7
歴代誌下33~34;
三人の王が登場しています。マナセ、アモン、ヨシヤ。マナセとアモンは主の目に悪とされることを行い、ヨシヤは主の目に適う正しいことを行いました。マナセの行動について、聖書は「主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国民の忌むべき慣習に倣って、主の目に悪とされることを行った(33:2)」と言っています。マナセ、あるいはその息子アモンの行動の基準は、「諸国民の慣習」でした。周りのみんなが何をしているかを基準にして、自分の王としての行動を決めていたのです。マナセは王ですから、彼の王国の統治の行動基準は周囲の行動であり、自分のしたいことをしていた、と言って良いと思います。
それに対して、ヨシヤ王は父や祖父とは違う基準を持っていました。彼は主の神殿で発見された主の律法を基準として生きることを誓ったのです。「王は自分の場所に立って、主の前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記された契約の言葉を実行することを誓った(34:31)」。ヨシヤは主から頂いた「法」を基準として、自分の王としての振る舞いを定めたのでした。
私たちの国は、法の支配のもとにある国ということになっています。国の統治のために権力者は法をつくりますし、権力者は憲法によって支配されます。どんなに偉い人間も、法を蔑ろにしたり犯したりすることは許されません。最近いろいろな場面で法が軽んじられていることには、警戒すべきでしょう。ともあれ、法に支配されるというのは、どんなに偉い人であっても人間が自分のしたいままに支配することを許さない、というシステムです。これがすでにヨシヤたちが活躍した紀元前7世紀に重んじられていたのです。
もちろん日本はキリスト教国でも何でもありません。しかし日本にいるキリスト者たちには、国の支配者の振る舞いが神の前でどのようなものであるのかを見定める責任があります。「諸国民の習慣」を基準として、結局は人間が好き勝手に振る舞っているのか、あるいは法に従い、自分の好き勝手な支配をするのではない道を進むのか。主が与えてくださった律法に従うなら、貧しい者を蹂躙したり、奴隷から搾取したりすることはできなくなります。日本の法律は聖書の律法そのものではありませんが、同じ問いは、神様から私たちに向けられているのではないでしょうか。
歴代誌下33~34;
三人の王が登場しています。マナセ、アモン、ヨシヤ。マナセとアモンは主の目に悪とされることを行い、ヨシヤは主の目に適う正しいことを行いました。マナセの行動について、聖書は「主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国民の忌むべき慣習に倣って、主の目に悪とされることを行った(33:2)」と言っています。マナセ、あるいはその息子アモンの行動の基準は、「諸国民の慣習」でした。周りのみんなが何をしているかを基準にして、自分の王としての行動を決めていたのです。マナセは王ですから、彼の王国の統治の行動基準は周囲の行動であり、自分のしたいことをしていた、と言って良いと思います。
それに対して、ヨシヤ王は父や祖父とは違う基準を持っていました。彼は主の神殿で発見された主の律法を基準として生きることを誓ったのです。「王は自分の場所に立って、主の前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記された契約の言葉を実行することを誓った(34:31)」。ヨシヤは主から頂いた「法」を基準として、自分の王としての振る舞いを定めたのでした。
私たちの国は、法の支配のもとにある国ということになっています。国の統治のために権力者は法をつくりますし、権力者は憲法によって支配されます。どんなに偉い人間も、法を蔑ろにしたり犯したりすることは許されません。最近いろいろな場面で法が軽んじられていることには、警戒すべきでしょう。ともあれ、法に支配されるというのは、どんなに偉い人であっても人間が自分のしたいままに支配することを許さない、というシステムです。これがすでにヨシヤたちが活躍した紀元前7世紀に重んじられていたのです。
もちろん日本はキリスト教国でも何でもありません。しかし日本にいるキリスト者たちには、国の支配者の振る舞いが神の前でどのようなものであるのかを見定める責任があります。「諸国民の習慣」を基準として、結局は人間が好き勝手に振る舞っているのか、あるいは法に従い、自分の好き勝手な支配をするのではない道を進むのか。主が与えてくださった律法に従うなら、貧しい者を蹂躙したり、奴隷から搾取したりすることはできなくなります。日本の法律は聖書の律法そのものではありませんが、同じ問いは、神様から私たちに向けられているのではないでしょうか。