今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一12、歴代誌下35~36、コヘレトの言葉8
歴代誌下35~36;
すばらしい過越祭を、国民と共に、大いなる喜びのうちに献げたヨシヤ王でしたが、エジプトとの戦争で死んでしまいました。その後のユダは坂道を転げ落ちるようにして転落の一途をたどり、ついにバビロニアに滅ぼされてしまいました。国の要人たちは遠くバビロニアまで捕囚民として連れて行かれてしまいました。
その時のこと、歴代誌はこのように伝えています。「これは主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地が安息を取り戻すためであった。荒廃の全期間、すなわち七十年が満ちるまで、地は安息を得たのである(36:21)」。人々がその地からいなくなることで、大地は始めて安息を取り戻した、と言います。なんと厳しい言葉でしょうか・・・。しかし、これが人間と世界との関係なのかもしれません。「実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています(ローマ8:22)」。この世界のすべてが救いの時を待ち焦がれて、呻いています。
ユダの地が、民がいなくなることによって安息を取り戻したというのは、民の罪が招いた苦しみに呻いていたということでしょう。私たちの生きるこの世界が呻いているのも、やはり、私たち人間の罪が招いた苦しみといわねばならないと思います。救いの時を、この世界が待っています。
歴代誌の終わりは、並行していた列王記とは違いました。捕囚から70年後、ペルシャの王キュロスにより、捕囚民解放の布告が出ました。その希望を見せています。私たち人間にとっても、この世界のつくられたすべてのものにとっても、神が救ってくださる救いの時、イエス・キリストが再び来てくださる時、その終わりの時が来るまで希望は完成しないのでしょう。それまでなお呻きの時が続きます。しかしこの苦しみから、必ず神が救ってくださいます。