2019年12月9日月曜日

2019年12月9日(ヨエル書2:15〜4:21)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録9、ヨエル書2:15~4:21

ヨエル書2:15~4:21;
シオンで角笛を吹き鳴らし、断食を布告し、聖なる集いを招集せよ。神殿の入り口と祭壇の間で主に仕える祭司たちは泣き、言うがよい。「主よ、あなたの民を憐れんでください」(2:15,17)。
神の裁きの中、聖なる集会をせよ、と神様はおっしゃいます。天安門事件が起きた時、東ドイツの教会は、ただ涙を流して嘆きの祈りを捧げるために教会堂に集まったと聞きます。嘆くための集会をした。嘆き、主の憐れみを求めて、言葉にならない祈りを献げました。私たちには、私たちの罪が招き寄せているこの世界の悲惨の中、神の前にそれを恥じ、嘆き、神の憐れみをただ待ち望む祈りの集会が、必要なのではないでしょうか。
神はその憐れみのゆえに、このように言ってくださいます。「私があなたがたに送った大群、すなわち、群がるばった、若いばった、食い荒らすばった、そしてかみ食らうばったが食い荒らした歳月を、あなたがたに償おう」(25節)。今朝このヨエル書と共に与えられているヨハネの黙示録9:3以下に登場するばったは、明らかにこのヨエル書の言葉を繁栄しています。ばったが神の裁きの担い手としてやってくる。サバクトビバッタのような、蝗害をもたらす恐ろしいばったがイメージされます。黙示録が告げるところでは、人知を超えるような恐ろしい姿をしています。蝗害は自然災害ですが、そこにも神の裁きの手があると告げます。しかし、それでもなお神はその裁きの手を下ろし、その歳月を償おうと言ってくださる。それは「主はご自分の地を妬むほど思い、その民を憐れまれた」(18節)から。だから、神様の御許に立ち帰りましょう!ここに命に至る道があるからです!
第3章には、裁きの時代を生きる私たちに、それを超える望みの幻を見せます。「その後、私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、男女の奴隷にもわが霊を注ぐ」(3:1,2)。息子や娘、老人、奴隷、彼らは皆社会的弱者です。裁きの日に、社会の中で切り捨てられる存在です。しかし神は彼らにこそご自身の霊を注いでくださる。幻を見、預言を語る。神の描くヴィジョンに生きる人、神が起こしてくださいます。「主の名を呼び求める者」(5節)を、神が呼び覚ましてくださる。私たちも、同じ神の霊によって命を与えられている。私たちに命を与えるキリストの福音に、今、立ち帰りましょう。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...