2019年12月3日火曜日

2019年12月3日(ホセア書5〜6)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録3、ホセア書5~6

ホセア書5~6;
さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂いたが、癒やし、我々を打たれたが、包んでくださる。主は二日の後に我々を生き返らせ、三日目に起き上がらせてくださる。我々は主の前に生きる。我々は知ろう。主を知ることを切に求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、雨のように我々を訪れる。地を潤す春の雨のように。(6:1~3)
ここだけを読むと、とても慰め深い悔い改めの言葉のように思います。しかし、文脈をよく読んでみると、残念ながらそういう言葉ではないようです。神様は上記の民の「悔い改め」にこのように答えておられます。
あなたがたの慈しみは朝の霧、はかなく消える露のようだ。・・・私が喜ぶのは慈しみであって、いけにえではない。神を知ることであって、焼き尽くすいけにえではない。(4,6節)
民の悔い改めは朝の霧のようにはかなく消えていく、と言います。ちょうど、姦淫の女を迎え入れて夫婦となり、慈しみ、しかしまた裏切られた預言者ホセアの悲しみと重なる悲しみを、神は覚えておられる。きっと、人々は冒頭の悔い改めの言葉を唱えながら、いけにえを献げ、焼き尽くすささげ物を神の前に供えたのでしょう。しかし、神が求めておられるのはそのような形ばかり、その場限りの空しい「悔い改め」ではない。慈しみを、神を知ることを、神は求めておられます。それは、私たちの真心を求めてくださる神の慈しみの現れなのではないでしょうか。
どうして、自分はこうも神様を裏切り続けてしまうのだろうと思わずにはおれません。それについて、神様は「彼らの行いが彼らの神に立ち帰ることを許さない」(5:4)と指摘しています。私たちの普段の習慣が心の習慣となり、私たちが自分の生き方を神に向けることを許そうとしないのです。「私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。・・・私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」(ローマの信徒への手紙7:18,19,24,25)。この罪に囚われた私を救ってくださるのは、ただ、イエス・キリスト。このお方だけなのです。だから、私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します!

2019年12月7日(ホセア書13〜14)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録7、ホセア書13~14 ホセア書13~14; イスラエルよ、立ち帰れ。あなたの神、主のもとへ。あなたは自分の罪につまずいた。あなたがたは言葉を用意し、主に立ち帰って、言え。「どうぞ罪をすべて赦し、良いものを受け取ってください。私たちは唇の実を献げます...