2020年3月25日水曜日

2020年3月25日(マルコによる福音書6:1〜29)

マルコによる福音書6:1~29;
主イエスがご自分の故郷にお帰りになったとき、安息日に会堂で教えておられましたが人々は「この人は、大工ではないか」と言ってイエスにつまずきました。そして、「そこでは、ごく僅かの病人に手を置いて癒やされたほかは、何も奇跡を行うことがおできにならなかった」と言うのです。
驚くべきことを聖書は言っています。主はご自分の故郷であえて奇蹟を行わなかった、と言っているのではありません。そこでは「何も奇跡を行うことがおできにならなかった」のです。その理由は、明らかに、人々がイエスにつまずいたから。言葉を換えれば、人々がイエスを信じなかったからです。イエスは人々が信じてくれなければ奇跡を行うことがおできにならないのでしょうか。普通、奇跡はイエスが神の子でいらっしゃることのしるし(証拠)と考えられます。このような奇跡がおできになるからには、神の子であるに違いない、と。それならば、誰もご自分を信じない故郷では奇跡を行うことができなかったというイエスとは、一体何者だということなのでしょうか。
ところで、主イエスはご自分の12人の弟子たちを二人一組にして派遣なさいました。彼らは出て行って悔い改めを宣べ伝え、悪霊を追い出し、多くの病人を癒やしました。主がこれまでしてこられた御業を彼らに委ねたと見ることができます。そして、14節以降、洗礼者ヨハネがヘロデ王に殺害されたことが報告されています。弟子たちが遣わされた世界は、神の言葉を宣べ伝えて来たヨハネを殺す世界であり、神の言葉が抹殺される世界です。弟子たちの遣わされた世界の有り様を強く印象づける事件です。
この世界は、主を信じる者が福音宣教を待ってくれている世界ではありません。思えば、弟子たちももともとは同様だったと言わねばならないと思います。しかし、彼らは主と出会い、弟子としてこの世界に福音を携えて遣わされるようになりました。主の御業を預けられました。実はこうして主の弟子がこの世界に立てられ、遣わされるということ自体が、神の国が来ていることの証拠なのです。主は人知を越えた奇跡によってご自分の福音を証明しようとしたのではなく、弟子を派遣することによって、その口から神の国が宣べ伝えられることによって、神の子としてのご自分の御業を証しなさいます。
私は、最初の私の傲慢な問はひっくり返さないとならないのだと思います。もしも主が私の不信仰のために、私の躓きのためにご自分を明け渡し、十字架への道を進んで行かれたのだとしたら、ヘロデの世界で殺されてしまわれたのだとしたら、それによって生かされている私は一体何者なのか、と問わねばならない。そのようにしてこの世界でキリストに命を与えられ、御国の福音のために遣わされる者が生まれるということ自体が、もうすでに、神の国が来ている証しに他ならないのです。

2020年3月29日(マルコによる福音書8:1〜21)

マルコによる福音書8:1~21; 「弟子たちはパンを持ってくるのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせがなかった。その時、イエスは、『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい』と戒められた。そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始...