2020年6月29日月曜日

2020年6月29日(使徒言行録19:1〜20)

使徒言行録19:1~20
エフェソで、パウロは何人かの弟子に出会いました。彼らに問います。「信仰に入ったとき、聖霊は受けましたか。」彼らは答えました。「いいえ、聖霊があるということなど、聞いたこともありません。」そこでパウロは、彼らが受けた洗礼について尋ねます。すると、彼らはヨハネの洗礼を受けた、と答えました。かつて、ヨルダン川で洗礼を授けたヨハネ。悔い改めの洗礼を授けたあのヨハネの洗礼を受けた人たち。この人たちは今エフェソにいます。わざわざヨハネから洗礼を受けるためにヨルダン川まで旅をしたのか。あるいは、その後エフェソに移住したのか。事情は分かりません。しかし、いずれにしても、かなり熱心に信じていたのではないかと思います。ただ、聖霊を受けてはいませんでした。それで、彼らはイエスの名によって洗礼を受け、パウロが手を置くと、彼らの上に聖霊が降ったのでした。
私たちの信仰の熱心ではなく、聖霊という神ご自身の霊の働きによらなければ、私たちが信仰生活を営むことはできません。しかしそう言われると、考えてしまいます。私は聖霊を受けているのか?そう考えると、心許ないような気持ちになります。使徒言行録に書いてあるような不思議な信仰体験、霊的な体験なんてしたことがない・・・と。
パウロは彼らにイエスの名による洗礼を授けました。さらに、歴史の教会は、主イエスご自身の命令に従って父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けることになります。教会で洗礼を授けられるとき、私たちは、聖霊を受けているのです。例えこちらにその実感がなく、自分とは無関係の話なのではないかと誤解したとしても、それは誤解にすぎない。洗礼を受けたとき、あるいは心の内に神を求める思いが芽生え始めたとき、私たちはすでに聖霊の働きの中にいたのです。私たちが気づかなくても。
13節以降を読むと、聖霊ならぬ悪霊が登場します。パウロはエフェソの信徒への手紙で、悪霊との戦いについて印象的な言葉を書きました。「主にあって、その大いなる力によって強くありなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるように、神の武具を身につけなさい。私たちの戦いは、人間に対するものではなく、支配、権威、闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊に対するものだからです。(エフェソ6:11~12)」聖霊を受けて生きるというのは、この世を支配する諸霊に対抗して生きるということです。今、世界は不安の霊に取り憑かれています。憎しみや怒りの霊、同調圧力の霊がこの世を支配しています。私たちはこれに対抗し、神の霊の支配の中に生きていく。そのために、霊の剣、すなわち神の言葉(エフェソ6:17)を手に取って、私たちはこの霊の戦いを闘います。

2020年7月10日(使徒言行録27:1〜26)

使徒言行録27:1~26 パウロは皇帝がいるローマに向かって船で護送されることになりました。しかし、船出してすぐに向かい風のために思うように航海を進めることができなくなってしまいました。季節性の風なのでしょう。港に寄港しながら風が収まるのを待って、航海していこうとしていました。し...