2020年7月11日土曜日

2020年7月11日(使徒言行録27:27〜44)

使徒言行録27:27~44
14日も漂流生活が続きます。漂流が始まる前に船が転覆しないように船具を含む積み荷を海に捨てたので、潮と風に任せて漂うしかありません。助かる望みは全く絶たれてしまいました。
それから14日経ったときのことです。「夜が明けかけた頃、パウロは一同に食事をするように勧めた。『今日で14日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。』こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝を献げてから、それを裂いて食べ始めた。そこで、一同も元気づて食事をした。船にいた私たちは、全部で276人であった。十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。」まるで、主イエスがかつて弟子たちの前でしてくださったように、パウロはパンを裂いた。パウロという一人のキリストを信じる人物の存在が、この船の人々に食べる意欲を起こし、生きる望みを与えました。
私はこの時のパウロの姿から、ナチに抵抗して獄中死した牧師のディートリッヒ・ボンヘッファーの「私は何者か」という詩を思い出しました。ナチの牢獄で書いた詩です。長い詩ですが、最後に全文をご紹介します。ぜひ、お読みください。

私は一体何者か。
悠然として、晴れやかに、しっかりした足どりで、
領主が自分のやかたから出て来るように
獄房から私が出て来ると人は言うのだが。

私は一体何者か。
自由に、親しげに、はっきりと、命令をしているのが私の方であるように、
看守たちと私が話をしていると人は言うのだが。

私は一体何者か。
平然とほほえみを浮かべて、誇らしげに、
勝利にいつも慣れているように、不幸の日々を私が耐えていると人は言うのだが。

私は本当に人が言うようなものであろうか。
それとも、ただ私自身が知っている者にすぎないのか。
籠の中の鳥のように、落ち着きを失い、憧れて病み、
のどを締められたときのように、行きをしようと身をもがき、
色彩や花や鳥の声に飢え、やさしい言葉、人間的な優しさに恋いこがれ、
恣意や些細な侮辱にも怒りに身を震わせ、
大事件への期待に追い回され、
はるかかなたの友を思い煩っては気落ちし、
祈り、考え、活動することに茫然とし、意気阻喪しつつ、
あらゆるものに別れを告げる用意をする。

私は一体何者なのか。
前者であろうか、後者であろうか。
今日はある人間で、明日はまた別の人間であろうか。
どちらも同時に私なのであろうか。
人の前では偽善者で、
自分自身の前では軽蔑せずにはおられない泣き言を言う弱虫であろうか。
あるいは、なお私の中にあるものは、
すでに将来の決した戦いから、算を乱して退却する敗残の軍隊と同じなのか。

私は一体何者なのか。
この孤独な問いが私をあざ笑う。
私は何者であるにせよ、
ああ神よ、あなたは私を知り給う。
わたしはあなたのものである。

2024年4月19日の聖句

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