2020年8月13日木曜日

2020年8月13日(コリントの信徒への手紙一12)

コリントの信徒への手紙一12
「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」
パウロは教会を一つの体に譬えます。この手紙を受け取ったコリント教会は分派争いをしており、また、社会的に状況の身分にある者が、社会的弱者を蔑ろにするという構図がそのまま教会に持ち込まれていました。しかし、体はいろいろな部分が有機的につながって全体になっているのであって、体の中の弱い部分も強い部分も等しく必要です。一部があれば事足り、他の見劣った部分は必要ないとは決して言うことができない。それと同じように、教会は一つの体だと言います。
そういう意味では、教会は家族にも似ています。働き盛りの世代もいればお年寄りもいるし、生まれたばかりの赤ちゃんや騒がしい子どももいます。どの一人も必要ない人はいない。健康な人も、病気の人も、介護が必要な人も、いろいろです。そしてその誰もが必要です。そのはずです。
しかし現実には、例えば家族の中で、それが一つの体のように互いを尊び愛、弱い部分がかえって必要だという受け止めが、単なる「建前」に過ぎないと言わんばかりの出来事がたくさんあります。教会だって同じことはいくらでも起こりえます。教会はキリストの体だという聖書の言葉は建前に過ぎないのであって、実際はそうなっていないということもありえてしまいます。そして、それが私たちの罪の現実に他ならないと言わねばならないのだと思います。
パウロは、とても積極的に、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」と訴えます。「かえって必要」だとまで言います。「神は劣っている部分をかえって尊いものとし、体を一つにまとめ上げてくださいました。」その秘訣が、次の章に登場する「愛」であるということであろうと思います。体の中の弱い部分が存在することによって、共同体全体に愛という霊の賜物が生まれます。この愛という賜物こそ、教会を教会たらしめるしるしです。
私たちの現実は愛にはほど遠いものです。それは、当然のことです。私たちの罪は根深くしぶといのですから。しかし私たちを一つの教会にしてくださる神の愛の賜物はなおのことしぶとく、私たちを新しくします。私たちの目には弱いものを愛するというのは建前に過ぎないと映ってしまうかもしれません。しかし、神様が私たちを新しくしてくださるという事実は、なおのこと本当のことです。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...