2020年11月19日木曜日

2020年11月19日(ヨハネによる福音書20:1~18)

ヨハネによる福音書20:1~18
イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

十字架にかけられ、墓に葬られたイエス。その墓はアリマタヤのヨセフという男の所有していたものでした。このヨセフと以前イエスのところへ来たことがあるファリサイ派の男ニコデモが、金曜日の内にイエスを埋葬しました。金曜日の夜から土曜日の日没までは安息日です。埋葬はできません。安息日が開けるのを待って、日曜日の朝早く、まだくらい内に、マグダラのマリアが墓に行きました。彼女はそこで復活したイエス・キリストと出会ったのです。
最初、空になった墓を目の当たりにしてマリアは泣きました。イエスの遺体を誰かが盗んだ。状況からしてそうとしか考えられないからです。そこに、復活したイエスご自身が来て、マリアに声をかけます。「女よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」マリアはイエスを園の番人だと思い込んで言います。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか、どうぞ、おっしゃってください。私が、あの方を引き取ります。」するとイエスが呼んだのです、彼女の名前を。「マリア」と。
この呼び声が世界を変えました。マリアは悲しみに暮れていました。イエスを失い、自分の手の届かないところに行ってしまったから。しかし、イエスはどこかに行ってしまったのではなくここにおられて、私の名前を呼んでくださるのです。「マリア」と。
私は主イエスがこうしてほかの何でもなく彼女の名前を呼んでくださったということに大きな魅力を感じます。主イエスが復活されて、私たちと出会うのは、私たちの名前を呼ぶためです。学問の真理を伝えるためとか、悟りの境地に導くためとか、そういうことではなく、私の名前を呼んでくださる神、それがイエス・キリストです。
主イエスの呼び声は、この世の命を越えて響きます。私たちも、私たちの愛する者も、やがてこの世の命を終えて眠りに就きます。しかしやがて、来る主の日の朝にキリストがその名前を呼んでくださいます。「マリア」と呼んだのと同じように、私たちの名前をも。私たちの命の終わりを越えるキリストの命の祝福が私たちのために準備されているのです。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...