2018年10月21日日曜日

「今日の福音」のご紹介

*今日10月21日は姉妹教会の成瀬教会との講壇交換のため、「今日の説教」はお休みです。


このブログには掲載していませんが、火曜日から土曜日までの朝8時頃にメールで小説教の配信をしています。交読を希望する方はメールでお申し込みください。サンプルとして、10月19日金曜日に配信したメッセージを掲載します。


ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。(創世記6:9)
あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。(マタイによる福音書5:16)

ノアは神に従う無垢な人であった、と言います。この「無垢」という言葉は、傷がないとか完全という意味です。神さまに焼き尽くす献げ物としてささげる動物には、傷があってはなりません。そういう「無傷な」動物を現すときにも使われる言葉です。そうすると、自分とは違うノアのような特別に無垢ですばらしい信仰者の話ということになりそうですが、そうではありませんでした。例えば申命記18:13では、「あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない」と言われています。私たちも、全き者、無垢な者であって欲しいと神さまは命じておられます。主イエスもまた、言われます。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」光が輝くような立派な行いに生きて欲しいと、主イエスは命じておられる。
こういう言葉を読んで、どうお感じになるでしょうか。怯むような気持ちになったり、土台無理だというような思いになったりすることもあるのではないかと思います。私はそう思い込んでいました。しかし、今朝の主イエスのお言葉を読んで、ハッとしました。主イエスは、私たちにできもしないことを意地悪くおっしゃったり、それで私たちを恥じ入らせようとするような方ではない、と気づいたのです。旧約聖書のイザヤ書にこのような言葉があります。「論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。」私たちにはそれができなくても、神さまには、私たちを新しくすることもおできになるのです。
「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」そうおっしゃるとき、キリストは、私たちの光をもうすでに与えてくださっています。私たちには輝く光がある。主イエス・キリストの愛の光が、私たちの内に宿っています。私たちの行いを、天の父のすばらしさを証言する証しの言葉として、神さまが用いてくださいます。私たちは、そのことを信じたい。信じて、安心して、今日一日を生きていきたい。そう願います。

2018年10月18日木曜日

詩編第122編「主の家に行こう」

エルサレムへ行き、人々と心を合わせて神を礼拝することをこんなにも喜び、心を弾ませて旅路を進む。巡礼歌だ。「主の家に行こう」と、私たちも同じ思いで日曜日の朝を迎える。教会は主の家だからだ。「わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。『あなたのうちに平和があるように。』」私たちも同じ祈りをする。共に礼拝する兄弟、友のために。心を合わせて主の家に行き、共に主を礼拝する日曜日の朝は、なんと素晴らしいことか!

2018年10月14日日曜日

コリントの信徒への手紙一4:1-5「あなたはだれに対して忠実ですか?」

日本福音ルーテル東京教会の関野和寛牧師が、昨日、ツイッターにこんな書き込みをしていました。「聖書を開いて1日を始められる幸せ。人が誉める声でも、批判の声でもなく、神の声を聞ける喜びを。」すてきなツイートです。私たちはいつも忙しいですし、いろいろな声にさらされて生きています。私たちを誉めたり批判したりする声は、時に、私たちの心を神さまの許から奪い去ります。もちろん、人の声に耳を傾けられなくなってしまっては問題もあるでしょう。しかし、人からの評価を気にしすぎて、本当に大切な物差しを失ってしまうこともしばしばです。この手紙を書いたパウロは、コリント教会からの評価にさらされていました。初代牧師のパウロ、雄弁で有能なアポロ、本家本元のケファ(ペトロ)を比較し、教会の中には派閥さえ生まれていました。人々の評判でパウロが傷ついたということもあったかもしれませんが、それよりもこの分派争いが教会を損なうと見抜いていました。それで、パウロは人の評価や比較に左右されず、自分の生きるべき基準をしっかりとわきまえていたのです。「人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えるべきです」と言っています。この軸がはっきりとしていたので、「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」と言えたのです。
私たちは常に人からの評価にさらされています。イスラエルの初代国王サウルは人の評価に弱い人物でした。サウルが王になってすぐに大国ペリシテが責めてきました。兵たちは怖じ気づき、洞窟や岩の裂け目に隠れてしまう始末。戦場で次々に少なくなる兵や自分への批判を聞き、サウルは参ってしまいます。その時、信仰的な指導者のサムエルがそこに来て一緒に礼拝し、祈ってくれる約束でしたが、約束から一週間経っても来ず、しびれを切らしたサウルは祭司しかしてはいけない礼拝を自分の手で行います。そこにサムエルが来て、厳しく叱られてしまった…。サウルの考えの基準は、人からの評価や評判でした。だから軸がぶれて、大切にすべき事を大切にできなかった。
パウロはサウルが見失った軸に生き続けた人です。「神の秘められた計画の管理者」として忠実に生きました。管理者とは、英国のお屋敷の執事や、日本なら番頭さんのようなものです。大きな責任を任されていますが、主人に忠実であることが求められます。畑で働く小作人なら、所有者に忠実です。建物を建てる大工なら、施主に忠実です。神殿の祭司なら、神に忠実です。パウロはキリストに忠実です。だから自分の評判を上げようとか、自分の派閥を大きくしようなどとはさらさら考えてもみない。そんなことを基準にはしません。しかも、この管理者が仕えるのは「神の秘められた計画」です。原語では「神の秘密」という字です。神の秘密は、時に私たちにはあまりにも大きく、不安に襲われることもあるかもしれません。サウルのように。すると私たちは人の評価が気になり出します。しかし、神は御自分の秘密を明らかにしてくださいました。キリストの十字架でした。御子を十字架にかけて私たちを救おうと神はなさいました。このキリストに忠実に生きようとしたとき、人の裁きも、自分の裁きも意味を持たなくなった。キリストが「忠実なよい僕よ、よくやった」と誉めてくださるそのときを待ち望みましょう。

2018年10月10日水曜日

詩編第120編「人間関係の苦しみの中から」


--> 「平和をこそ、私は語るのに。彼らはただ、戦いを語る。」それは「不幸なことだ」と詩編作者は言う。私たちも、同じ不幸を知っている。鋭い矢のように自分を突き刺す言葉に傷つき、そして自分の口からでる言葉が更に相手を傷つける炭火をつけた矢であることに恐ろしくなる。主を、呼ぼう。「苦難の中から主を呼ぶと、主はわたしに答えてくださった。」この詩編は「都に上る歌」、巡礼をしつつ歌ったのだろう。主を呼ぶための旅をしながら。

2018年9月30日日曜日

コリントの信徒への手紙一3:10-17「神さまと会える場所」

 「あなたがたは、自分が神の神殿あり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」神の神殿、それは祈りの場であり、神と出会う場所です。神ご自身の霊が住んでくださる、神の家です。この「神殿」というのは、建物のことではありません。私たちのことです。神を信じ、祈り、神を礼拝する者たち。何よりも、神に呼び集められた私たち。私たちは神の神殿なのです。教会という神の神殿、神の家の土台は、イエス・キリスト、それ以外にはない。
 私たちさがみ野教会の教会堂の設計をしてくださったのは、姉妹教会高座教会のCさんです。どんなに大きな地震が来てもこの建物は大丈夫だと言っておられました。四本の重量鉄骨の柱が建物を支えています。しかし、どんなに太い柱でも、土台がしっかりしていなければ意味がありません。建物の生命線は土台です。パウロは教会を建物に譬えています。私たちの教会は、何を土台としているのでしょうか?それは、イエス・キリスト以外にはない、しかも十字架につけられたキリスト以外にはない。それがパウロの答えです。
 彼は言います。「わたしは熟練した建築家のように土台を据えました。」この「熟練した」という言葉は、直訳すると「賢い」という意味です。この手紙では独特の意味を持つ。1:18-25に登場します。世の知恵は賢さを求める。その賢さは、世の中で価値ありと認められたり、皆が素朴にうらやましがるような知恵でしょう。見栄えがするのでしょう。神さまは、そんな世界に生きる私たちを、愚かにも御子イエスの十字架によって救おうとなさいました。十字架の福音、それが神の知恵です。神の前で賢い建築家は、見栄えがする手段ではなく、イエス・キリストだけに集中して、愚かになって、イエス・キリスト以外の土台を据えようとはしないのです。例えそれが見栄えがしたり、効率的であったりするように見えたとしても。
 私たちの教会の土台は、イエス・キリストです。もう、この土台は据えられている。今、私たちの教会の危機の時期に教会を建て上げていくため、今年からの三年間を「望みを抱く信仰」という一つの主題を掲げて、毎年のステップワードを踏みながら活動しています。今年は、教会の交わりを主題としました。私たちは神の神殿。それは「交わり」で知る真実です。16節で「あなたがたは、神の神殿であり…」と言うとき、「あなたがた」は複数形ですが、「神殿」は単数形になっています。つまり、互いに独立した個人的な神の神殿がいくつもできるのではなく、私たちがみんなで一つの神の神殿を形成します。それは交わりにおける出来事です。その土台は、イエス・キリスト。私たちはこの方と聖書で出会います。この方の十字架の言葉を聞くのは、聖書からです。ですので、来年2019年は、聖書に親しむことを一つの主題とし、教会皆で聖書通読に取り組む計画を立てました。聖書が、私たちの交わりをただの気持ちいい人間関係がつくるのではなく、教会として、神の神殿として整えます。私たちは、聖書を読んで、十字架のキリストの前に立ち帰るのです。
 キリストの十字架という土台は、私たちが罪赦されなければ生きられない罪人なのだと確認をさせます。それは大きな祝福です。神は私たちとの和解を望む救いの神でいてくださるからです。

2018年9月26日水曜日

詩編第119編169から176節「自由をもたらす律法」

長い詩編第119編も、ここで終わる。一貫してそうであったし、この連でも再び思うのは、詩編作者の御言葉への愛だ。御言葉、それはこの詩編では特に律法を指す。「わたしの唇から賛美が溢れるでしょう。あなたが掟を教えてくださいますから。」ここには律法が不自由をもたらすという発想はない。むしろ、神の掟は私を自由にすると信じる。私が小羊のように失われたとき、私が生きるべき命の道を示すのは、他ならぬ神の戒めなのだ。

2018年9月23日日曜日

マルコによる福音書5:21-43「この出会いは、死で終わらない」

 先々週、ファミリーサンデーの礼拝では24bから34節の12年間病気だった女の話を読みました。今朝はそれをサンドイッチのように挟み込んでいるヤイロの娘の話と合わせて、再び開いています。二人の女性が登場します。共通点がいくつかあります。何よりもまず、二人とも女性です。当時の社会では、殆ど物の数にも入らないような扱いを受けていました。先々週、わたしが子どもたちに話したのは、イエス様は12年間病気だったあの人と出会いたかったのだ、ということでした。ちゃんと向き合って、イエス様と出会い、神さまと出会う、それが彼女にとっての本当の救いだからです。それは、ヤイロの娘も同じでしょう。主イエスは、社会の中で軽んじられ、数に入れられていなかった二人の女性たちと出会いたいと望んでいてくださる方です。だから、わたしとも出会いたいと望んでいてくださる、と信じることができるのです。
 もう一つは、12年間という年月です。病気の女性は、12年間苦しんできました。ヤイロの娘は12才で、最期の時を迎えようとしていました。12年間の病はあまりに長いですし、12年の生涯はあまりに短いです。彼女の父や色も、あの女性も、必死になりふり構わずに主イエスを求めました。救いを求めました。この祈りは、私たち自身の祈りではないでしょうか。23節にヤイロが娘のために「しきりに願った」と書いてあります。たくさんのことばを話したという字が使われています。私たちも愛する者のためであれば言葉を尽くして祈るし、自分自身のためにあの女のように必死に手を伸ばして主イエスを求めるのです。
 歌舞伎町の裏にある教会の牧師、関野和寛先生の『すべての壁をぶっ壊せ!』という本を最近読みましたが、そこでノルウェー人のヨハンという牧師の話が紹介されていました。彼にはメアリーという美しい妻がいたが、病で先立たれてしまった。とても気落ちし、周りの牧師たちも悲しみ、神さまは本当におられるのかと語り合っていた。ところが、その後、ヨハンはエバという女性と再婚しました。気落ちしたヨハンを気にかけていたエバが家に見舞ったとき、雪崩に巻き込まれ、二人で家に閉じ込められてしまった。その時、彼らは互いが必要だと気づいた。友人たちは、絶望の中に神はいる、人は変われると語り合ったそうです。
 教会は、ここに来れば病気が治るとか、死人が蘇生するとか言って伝道しません。私たちの願いが、必死に祈ってもその通りにならないこともあるし、その方が多いかも知れません。しかし、私たちは絶望の中でキリストと出会う。それこそが救いなのです。35節で娘の死の知らせを聞いたラザロはどんなに失望し、絶望したことでしょう。しかし、イエスは言われます。「恐れることはない。ただ、信じなさい。」私たちが無と信じ込んでしまう絶望の中に、神が働いておられることをイエスは見ておられたのです。皆が泣いているヤイロの家に着いた一行。イエスは三人の弟子と、ヤイロとその妻を連れて子どものところへ行きます。少女の手を取って、「少女、わたしはあなたに言う。起きなさい」と言われた。これは、私たちの愛する者たちへのことばです。キリストは、彼らの手をも取って、同じように起こしてくださいます。その復活の朝を、私たちは待っています。

2026年10月30日の聖句

主は貧しい者をちりの中から引き上げられる。(サムエル上2:8) そこで、マリアは言った。「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。この卑しい仕え女に、目を留めてくださったからです。」(ルカ1:46~48) 神さまは、ご自分の独り子を一人の女性に託され...