2023年4月30日日曜日

2023年4月30日の聖句

今週の聖句:
誰でもキリストのうちにあるなら、新しい被造物です。古いものは過ぎ去り、見よ、新しいものが生まれました。(2コリント5:17)

今日の聖句:
ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」(創世記28:16)
(弟子たちの言葉)道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内に燃えていたではないか。(ルカ24:32)

キリストは、私たちの内にもう既に働き始めてくださっています。聖書を開き、御言葉を聞いている今、もう既に。私たちがそれと気づかなくても。キリストがおられるとわきまえていなくても、キリストは既に私たちの内に新しい出来事を始めてくださっています。
「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内に燃えていたではないか。」これは、イースターの日の午後、エルサレムの都からエマオ村に歩いて行った弟子たちの言葉です。その日の朝、女の仲間たちが主が甦られたという知らせを持って来た。しかし彼らは帰って途方に暮れてしまった。この二人は、歩いてエマオ村に向かいました。そこに自宅があったのでしょうか。道々、彼らはその日の出来事を語り合います。するとそこに新しい道連れがやって来た。その人は、彼らに聖書の話をしてくれた。そしてエマオに着き、彼らが家に招じて一緒に食卓につき、パンを裂いた時、彼らはその方が主イエスだったと気づいた。そして言いました。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内に燃えていたではないか。」
道々、そこにおられたのが主イエスだったことに彼らは気づきませんでした。迂闊でした。しかし、それが人間の本当のところではないでしょうか。私たちの迂闊さよりももっと大事なことは、例え主と気づかなくても、もう既に彼らの内に主が新しい出来事を始めてくださっていた、という事実です。心が燃え始めていました。
「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」私たちも、同じことを口にします。主はここにおられる。御言葉に聞く私と共に。キリストの言葉を聞く私に、主ご自身が語りかけてくださっている。私たちはキリストの語りかけによって、もう既に新しく生まれているのです。

2023年4月29日土曜日

2023年4月29日の聖句

あなたは、あなたの神、主の前にひれ伏し、あなたの神、主があなたとあなたの家とに与えられたすべての恵みを喜びなさい。(申命記26:10~11)
この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富みに望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。(1テモテ6:17~18)

私たちが生きるためにはこの世の富が必要です。お金がなければ今晩の食事も食べられなくなってしまう。自分も、家族も、生きることができなくなってしまいます。ただ、富は私たちにとってとても激しい誘惑を引き起こすものにもなります。できれば必要最低限ではなく余裕のある生活をしたいし、もう少し言えばたまの贅沢を楽しみたい。いや、本当はあまり我慢しないで毎日を生活したい。お金を求めれば、お金に飽きることはありません。そして、何よりも、お金があれば大丈夫だとなると、神様なんて必要ないという気がしてしまいます。次第に、人に対しても神様に対しても高慢になる。
お金自体が悪いものということではないのだと思います。お金はただの道具です。人間が独りぼっちとかとても小さな規模の集団生活で、自給自足をして事足りるのであれば必要ないかも知れません。しかし社会を形成して生きている以上、どうしても必要です。肝心なことは、お金にしても食べ物にしても、それらはすべて神が与えてくださったのだという謙遜を学ぶことではないでしょうか。
それはお金だけではない。今日の旧約聖書の御言葉に聞くならば、家族も同じです。家族もまた神が与えてくださった。そのことを忘れる時、私たちは家族に対しても、家族ではない人に対しても、神様に対しても高慢になります。家族には、家族の中でしか分からない幸も不幸もあります。他人にはなかなか分からない事情や歴史がある。しかし神さまはそれもご存じです。神様にあって、私たちは家族とも出会い直すことができる。神が出会わせてくださった最初の相手が、家族です。
神様は私たちに生きるために必要な一つひとつのものを与えてくださった。だから、神に与えられたものを尊びつつ、同時に神様と隣人とのために献げることを神様はお喜びになるのでしょう。主なる神様が、私たちの間におられます。

2023年4月28日金曜日

2023年4月28日の聖句

鎧を着ている者は、鎧を脱いだ者のように勝ち誇ってはならない。(列王記上20:11)
あなたがたの霊と心で、新しくなりなさい。(エフェソ4:23)

今日の旧約聖書の御言葉は、ずいぶんと不思議な言葉です。まず、この言葉を国に上らせたのは、イスラエル王国のアハブ王という人物でした。この人はイスラエル史上殆ど最悪の王の一人と言ってもいい人物です。彼の時代、エリヤという預言者がイスラエルで活動していましたが、アハブ王はエリヤを激しく憎み、執拗に命を付け狙っていました。
ところがある時、アハブ王率いるイスラエルの国はアラムという別の国に攻め込まれてしまいました。すごい数の軍勢を持って攻めてきたアラム国の王の前にアハブはなすすべ無く、意気阻喪してしまいます。金も銀も妻子も差し出せ、お前の大切にしている者は全部私のものだと言うアラムの王に対し、アハブは力なく従うしかありませんでした。しかし、国内での突き上げもあり、アハブは精一杯アラムの王の要求を突っぱねようとします。それで口にしたのが、今日の御言葉です。「鎧を着ている者は、鎧を脱いだ者のように勝ち誇ってはならない。」要するに、「嘗めるなよ」という意味だと思います。結局、神様がアハブとイスラエルを助けてくださり、彼らは敵を打ち破ることができました。
今日の旧約の御言葉は元の文脈ではこのような意味であると思いますが、不思議なことに、聖書の中のひと言として新しい文脈の中に入れられ、更に今日の新約の御言葉と一つにされることで新しい意味を持つようになりました。
「鎧を着ている者は、鎧を脱いだ者のように勝ち誇ってはならない。」「あなたがたの霊と心で、新しくなりなさい。」私たちには、軍隊の着る鎧ではなく、霊の鎧があります。神の霊がつけさせてくださる武具がある。それを脱いでしまうのではなく、しっかりと着て霊の戦いに打って出る。血肉を相手にする戦いではありません。世に跋扈する悪霊、時代の霊との戦いです。
世界は、生きたいように生きるのが幸せだと教えます。ところが聖書は、神に従う者の幸いを説きます。時代は、運が悪ければ諦めも肝心だと教えます。しかし聖書は、すべてのことを神が計画し、導いていると宣言します。私たちは聖書の御言葉に聞き、平和の福音に生かされ、聖霊が与える愛や喜び、平和、寛容などに生きていきます。それが神の霊の与える武具だからです。私たちはこれをしっかりと着て、神の遣わすところへ出て行って主のために戦うのです。

2023年4月27日木曜日

2023年4月27日の聖句

私はあなたを形づくった。あなたは私の僕。
イスラエルよ、あなたは私に忘れられることはない。(イザヤ44:21)
神はご自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。(ローマ11:1)

主なる神様の憐れみは、私たちが考えているよりも遙かに深く、確かです。神様はおっしゃいます。「私はあなたを形づくった。」これは、昔話ではありません。現代の科学的な知見からは到底受け入れることのできない神話のようなものではない。私たちの命の意味、その尊さへの力強い神様からの宣言です。「私はあなたを形づくった。」あなたは神が憐れみをかけて造り、愛を込めて生み出した存在です。
旧約の中にはこのような言葉もあります。「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。たとえ、女たちが忘れても、私はあなたを忘れない。(イザヤ書49:15)」母が自分の乳飲み子を忘れる、自分の胎の子を忘れる。およそ起こることのないはずの出来事です。しかし、悲しみを持って私たちが知っているのは、起こるはずのないことが現に起こっている、ということです。母が自分の子よりも自分を優先してしまうことは現に起こっている。自分の感情や楽しみ、あるいは生きるためにやむなく。なおのこと父については言うに及ばず、です。そして私たちはそういう自分の経験や見聞きしたこと、自分の思い込みでもって、神様の愛や憐れみにも勝手に限界をつけてしまいます。神の愛と言っても、どうせこの程度のものだろうと心のどこかで線を引いてしまう。諦めてしまう。ところが、そうではない、と神様はおっしゃいます。「たとえ、女たちが忘れても、私はあなたを忘れない。」神様の愛は、私たちの予想よりも、思い込みよりも、ずっと深くて確かです。
「私はあなたを形づくった。あなたは私の僕。イスラエルよ、あなたは私に忘れられることはない。」神様は、ご自分がお造りになった私たちに対して、最後まで責任を持ってくださいます。私たちはそのことを信じてよい。神様の祝福は私たちの想像を超えて確かなのです。
私たちには分からないことがたくさんあるし、手に余ることばかりです。「どうして」という問いは私たちから離れることがない。ところが、「神はご自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない」という聖書の御言葉を私たちは信じ続ける。それは、主イエス・キリストがおられるからです。キリストという神の愛の確かな徴が私たちの前にいてくださるからです。これは、確実なことです。

2023年4月26日水曜日

2023年4月26日の聖句

再び、喜びと歓喜の歓呼、花婿と花嫁の声、そして「万軍の主に感謝せよ、主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と叫ぶ者たちの声を聞くようになる。(エレミヤ書33:11)
実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。(テトス2:11)

今日の旧約の御言葉は、エレミヤ書に書かれた言葉だということに注意を払いたいと思います。エレミヤ書はユダの国が崩壊していく時代の預言者です。祖国がめちゃくちゃになり、皆が悲しみの底に沈んでいくような時代に、神さまの御言葉を語っていました。ユダの国の人々だけではなく、エレミヤ自身、本当に辛い思いをたくさんしながら活動した人物です。

今日の箇所の直前の10節にはこのように書かれています。
主はこう言われる。あなたがたが、「ここは廃墟で人も獣もいない」と言っているこの場所に、荒れ果て、人も住民も獣もいないユダの各地の町やエルサレムの巷に、再び声が聞こえるようになる。

ユダは既に滅亡し、エルサレムの都は廃墟になっている。かつて聞こえた賑わいも、あの日の人々の往来ももはや見る影もない。ところが、そのような目の前の現実に抗うようにして預言者は言います。「再び、喜びと歓喜の歓呼、花婿と花嫁の声、そして『万軍の主に感謝せよ、主は恵み深く、その慈しみはとこしえに』と叫ぶ者たちの声を聞くようになる。」再び、喜びの声が聞こえるようになる。花婿と花嫁の声、喜び祝い、楽しむ越え。そして、主を賛美し、礼拝し、祈る声が響くようになる。預言者は、そのように回復の言葉を語ります。

「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」あの預言者エレミヤの預言は、成就しました。悲しみの中に喜びを、破滅のただ中に救いをくださった方がおられるのです。「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」私はよくこの御言葉はクリスマスの礼拝への招きの言葉として読みます。すべての人々に救いをもたらす神の恵み。主イエス・キリストという神の独り子、揺るぎない神の恵みが現れた。私たちを救ってくださる方。私たちの平和。私たちのための神の愛。ここに、すべての人々のための救いがある。聖書はそう宣言します。

2023年4月25日火曜日

2023年4月25日の聖句

まっすぐな人には闇の中にも光が昇る。あわれみに富み、情け深く、正しい光が。(詩編112:4)
私たちの苦難は一時の軽いものであり、永遠で比べもののないほど重要な栄光を創り出します。それは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。(2コリント4:17~18)

苦難の渦中にいる時、それは永遠に続くのではないかと思われます。それに苦難は苦難でも、その事柄の性質によっては、渦中でなくなった後もその傷がずっと残るものがあります。生涯消えることのない悲しみの傷跡を受けることも、時に起こるのではないでしょうか。
聖書は私たちのそういう現実をよく知りながら、なお言います。「私たちの苦難は一時の軽いものであり、永遠で比べもののないほど重要な栄光を創り出します。」これは、主イエス・キリストを信じるからこそ口にすることのできる言葉であると私は信じています。
キリストは、神の子でありながら私たち人間の一人としてお生まれになりました。私たちの弱さに心を寄せることのできるお方です。キリストの知らない悲しみ、キリストの手の届かない痛みは、この世にありません。私たちのために十字架にかけられ、神に棄てられて陰府に降ったお方は、私たちの絶望に深い憐れみを抱いてくださいます。
私たちは、主イエス・キリストを見上げます。十字架にかけられたキリストを仰ぎます。キリストは私たちの罪のために十字架にかけられ、私たちを救うために復活させられました。キリストが私たちを支えてくださる。だから、この苦難は一時のものであると、私たちはキリストにあって信じます。キリストにあって、永遠の栄光にあずかることを私たちは信じます。
キリスト。このお方こそ、私たちの慰めであり、望みであり、平和です。キリストこそが私たちの救いです。このお方こそ、闇の中に昇る太陽、神からの憐れみの光、情け深い神の平和そのものです。このお方の光が、今日、悲しむすべての人に照らされますように。

2023年4月24日月曜日

2023年4月24日の聖句

私の魂は主を待ち望みます。夜回りが朝を待ち望むのにまさって。(詩編130:6)
神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。(ユダ21)

夜回りは、兵士たちの中で夜起き、敵の夜襲に備えます。暗闇に乗じて敵が忍び込んでこないか、襲ってこないか、緊張しながら見張っていることでしょう。夜明けの少しずつ白み明るくなっていく空は、夜回りにとっては救いの光のように見えると思います。今夜も無事に生き延びることができた。私も、他の皆も。
「私の魂は主を待ち望みます。夜回りが朝を待ち望むのにまさって。」主なる神を、私は待ち望む。しかも、私の魂が待ち望む。自分という存在の深みから、自分という人間の根底から、主なる神を待ち望む。渇いた喉のようにカサカサになって、弱り切った私は、しかし主を待ち望んでいる。夜回りが朝を待ち望むのにまさって。切に、朝の光を待ち望むようにして、主を待ち望む。救いの主、私を訪れてくださるお方を。
今日の新約聖書の御言葉はユダの手紙の一節です。著者ユダはイスカリオテのユダではなく「主の兄弟」と言われる人物です。その手紙の中で、このように言われています。「神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」神の愛のうちに自分自身を保つ、というのはとってもすてきな言葉です。自分を一体どこに見出し、保つのか。神の愛のうちに他ならない。そこにいれば、何があっても絶対大丈夫です。何しろ神様の愛の中なのです。私たちの主イエス・キリストの憐れみは、私たちを永遠のいのちに導いてくださる。私たちはキリストの憐れみを味わい、楽しみ、神の愛のうちに憩うことが許されている。
この神の救いを味わいつつ、また待ち望みつつ、今日の私たちの祈りの歩みが始まります。主イエス・キリストの祝福と恵みが、今日もあなたと共にありますように。

2026年11月1日の聖句

11月の聖句: 主は国々の間を裁き 多くの民のために判決を下される。 彼らはその剣を鋤に その槍を鎌に打ち直す。 国は国に向かって剣を上げず もはや戦いを学ぶことはない。(イザヤ2:4) 今週の聖句: 赦しはあなたのもとにあります。あなたが畏れ...