今日の通読箇所:ルカによる福音書14:25~35、士師記19~21、詩編144
士師記19~21;
士師時代のイスラエルの大きな醜聞が、昨日の箇所に続いてもう一つ伝えられています。ベニヤミンを巡る出来事です。いろいろないきさつがあってベニヤミンの土地にあるギブアという町に一人のレビ人がその側女と滞在していました。町の人々は彼らが泊まっている家を取り囲み、男をなぶり者にしてやろうとします。「男は側女をつかんで、外にいる彼らのもとに差し出した。彼らは女を辱め、朝まで一晩中弄び、夜が明ける頃に彼女を放した。」彼女は、その果てに殺されました。死ぬまで弄ばれたのです。
これは、かつてソドムで起きたのとそっくり同じような事件です。ソドムは、その時に滅ぼされてしまいました。神に裁かれたのです。同じ罪をベニヤミンもまた重ねた。
レビ人は側女を家に連れ帰り、その死体を十二に切り刻み、イスラエルの各部族に送りつけました。彼らはベニヤミンが犯したこのとんでもない罪を悲しみ、ベニヤミンを討つことを決めました。「イスラエルの諸部族は、ベニヤミン族のすべての人々に使いを送って告げた。『あなたがたの中で行われたあの悪行は何だ。今、ギブアにいるならず者たちを引き渡しなさい。彼らを殺してイスラエルの中から悪を取り除くのだ。』しかし、ベニヤミンの人々は、同族であるイスラエルの人々の声に聞き従おうとしなかった」(20:13)。もはや、彼らは罪を罪として向き合い、それを共同体の中で正しく処理する自浄作用も失っていた。イスラエルの全部族は、ベニヤミンを討つこととし、主に誓いを立てたのでした。
しかし、実際に彼らを討伐した後、「同族であるベニヤミンのことを悔や(21:6)」みます。ところが主への誓いを破るわけには行かない。それで、彼らが考えついた解決策が、祭のときにベニヤミンの若者が他部族の娘を捕まえて、妻とすることを容認する、というものでした。
こうしてみてみると、最初にベニヤミンの中で起きた罪と、本質的にあまり変わらないことが、戦いの果ての妥協策として選ばれたように思えてなりません。女性を一人の人格あるものと考えていたとは思えない。士師記の最後の言葉は、この時代のイスラエルの混乱を象徴しています。「その頃、イスラエルには王がいなかった。そして、おのおのが自分の目に正しいと思うことを行っていた」(21:25)。私たちの目に映る「正しさ」の正体がどういうものなのか、この出来事は暴露しているように思います。この醜聞と自分とは無関係だと、一体誰が言えるのでしょうか?
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