2024年2月24日土曜日

2024年2月24日の聖句

私はあなたがたに以前にもまさる幸いをもたらす。こうしてあなたがたは私が主であることを知るようになる。(エゼキエル36:11)
(パウロの手紙)あなたがたのところに行くときは、キリストの祝福に満ちあふれて行くことになると分かっています。(ローマ15:29)

ありがたい言葉です。「私はあなたがたに以前にもまさる幸いをもたらす。こうしてあなたがたは私が主であることを知るようになる。」神が私たちに幸いをもたらしてくださる。それによって、私たちはこの方こそまことの神だとよく分かるはずだ、と言ってくださいます。
普通、分からせてやろうとか知らせてやろうとか、そういう台詞が出て来るとしたら事態は逆だと思います。目に物を見せてやる、よく分からせてやる。そんな言葉が出て来るとしたら、相手がすごく嫌がることをして自分の優位を示してやろうという意味でしょう。別にそれは映画かお芝居だけの話ではない。親が子に、そのような思いを抱いてしまうこともあるかも知れません。上司が部下に、客が店に、発注元が受注側に・・・。どのような人間関係でも、起こりうることだと思います。
ところが神さまは違います。私たちが考えるようなセコいことはお考えにはならない。恵みの業を行い、私たちに幸いを与えることによって、御自分の神であることを知らせるとおっしゃいます。その幸いこそ、キリストを私たちのために下さったということに他ならないのです。神から私たちへの最大の贈り物、主イエス・キリスト、神の独り子でいらっしゃる方を下さったことによって、私たちはこの方こそ神でいらっしゃると知ったのです。
だから、パウロはその祝福を届けるために、たくさんの人と出会いました。神が下さった一方的な恵みの贈り物を一人でも多くの人に届けるために。私たちも、その恵みの贈り物をいただいて、今日を迎えたのです。

2024年2月23日金曜日

2024年2月23日の聖句

わが神、わが神、なにゆえ私をお見捨てになったのですか。
私は叫びます。
しかし、私の助けは遠いのです。(詩編22:2)
すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。(マルコ15:38)

主イエス・キリストが十字架にかけられたとき、この詩編の言葉をもって御自分の叫びとなさいました。「わが神、わが神、なにゆえ私をお見捨てになったのですか。」主イエスがこの言葉で叫ばれたとき、この詩編の意味が変わりました。
この世界に、主イエスほど深刻に神に棄てられた人は他にはいません。主イエスはまさしく、文字通りに神に棄てられました。私たちは使徒信条の信仰に従って洗礼を授けられました。その信仰を毎週日曜日に繰り返し口に上らせるし、また、毎日の祈りの言葉としてもこの信仰告白をぜひ用いていただきたいと願っています。この中で、主イエスが陰府に降られたと告白されています。主イエスが陰府に降ったとはいかなる意味か。それが、この叫びです。主イエスは神に棄てられた。その事実こそ、主イエスの陰府降下が意味するところです。
イエス・キリストは神に棄てられた。陰府に降って行かれた。「わが神、わが神、なにゆえ私をお見捨てになったのですか。」主イエスが神に棄てられたからには、ほかの誰も、主イエスと同じように神に棄てられることはありません。私たちにも、確かに神に棄てられたとしか考えられない現実に見舞われることはあるでしょう。しかし、それでもなおあなたは神に棄てられてはいない。あなたに代わってキリストが神に棄てられたからです。だから、あなたは神に棄てられていない。それは真実です。主イエスが息を引き取られたときに神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたと書かれていますが、それは、キリストがあなたに替わって神に棄てられたということのしるしです。キリストが捨てられて、私たちと神との間を隔てるものはもはやなくなった。
ですから、私たちにとって、詩篇第22編の言葉の意味はもう変わりました。キリストが決定的に私のために捨てられたから、私たちは大いなる神の手の中でこの詩篇の言葉をもって自分の祈りとすることができるのです。「わが神、わが神、なにゆえ私をお見捨てになったのですか。私は叫びます。しかし、私の助けは遠いのです。」私たちは神に捨てられた者としてではなく、神の助けの中におかれた者として、そのように祈ることが許されている。神の手は私たちが思うよりも大きいのです。

2024年2月22日木曜日

2024年2月22日の聖句

喜びながら主に仕えよ。喜び歌いつつその前に進み出よ。(詩編100:2)
善を行い、気力を失わないでいましょう。怠ることなく励んでいれば、キリストの時に至り、私たちも刈り入れを迎えることになるのですから。(ガラテヤ6:9)

気力を失ってしまいそうになること、私たちにもあるのではないでしょうか。善を行うこと、愛を行うことに疲れ、その気力を失ってしまうことが私たちにもあります。そんなとき、一体どうしたら良いのか。
「善を行い、気力を失わないでいましょう。怠ることなく励んでいれば、キリストの時に至り、私たちも刈り入れを迎えることになるのですから。」
聖書は、私たちに思い起こすように言います。「怠ることなく励んでいれば、キリストの時に至り、私たちも刈り入れを迎えることになる」。刈り入れの時を迎える。私たちの労苦は無駄ではない。ただ、それはこの世での報い、この世での豊かさではありません。キリストの時、つまり世界が完成するとき、神の国が来るときです。神が私たちに報いてくださる。神が与えてくださる栄冠を目指して走って行こう、と言うのです。
私たちが気力を失ってしまうことのないように、私たちは神がくださる報いに目を上げます。神の下さる栄光を見上げます。神のところから、私たちへの答えが返ってくる。それだけが私たちの希望であり、私たちの慰めです。神だけは、決して変わることのないお方だからです。
「喜びながら主に仕えよ。喜び歌いつつその前に進み出よ。」神ご自身が必ず報いてくださる。そのことを信じ、喜んで主に仕えましょう。飽きずに善を行い、主イエスさまへの愛をもって、この世で仕えていきましょう。

2024年2月21日の聖句

だれが、「私は自分の心を清めた。私は罪から離れ、きよくなった」と言えるだろうか。(箴言20:9)
イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。」(ルカ5:22)

「何を心の中で考えているのか。」恐ろしい言葉です。主イエスさまにそう言われて、堂々と申し開きすることのできる人がいるのでしょうか?隠しておきたい心の仲間でもご存じのお方にそう問われて、一体何とお答えすれば良いのでしょうか。
「だれが、『私は自分の心を清めた。私は罪から離れ、きよくなった』と言えるだろうか。」
本当にその通りです。「私は清くなった、すでに罪から離れた。」どうしてそのようなことが言えるでしょう。全然罪から離れていないことは私自身が一番よく知っています。いや、私自身よりも深く私のことをご存じのお方の前で、どうしてそのようなことが言えるのでしょうか。
今、私たちは受難節を迎えています。主イエス・キリストは十字架にかけられた。私たちがかけました。神の子でいらっしゃる方を、十字架に。私たちのすべてをご存じでいらっしゃる方を、私たちが十字架にかけた。まことの神でいらっしゃる方を、十字架にかけたのです。私たちの心の中にあるものは、このお方を十字架にかけるに至る罪の思いばかりで覆い尽くされています。
しかし、キリストはそのような私の全部をご存じの上で、そのような私を愛し抜いてくださいました。すべてをご存じのお方が私のために歩んでくださった。その事実だけが私たちの救いであり、望みです。キリストにこそ私たちのための神の愛が込められている。主イエス・キリストを仰ぎます。私たちのために十字架にかけられているキリストのお姿を、私たちは今日も仰ぎます。

2024年2月20日火曜日

2024年2月20日の聖句

(エリヤへの主の言葉)「私はイスラエルに七千人を残す。すべて、バアルに膝をかがめず、これに口づけをしなかった者である。」(列王記下19:18)
しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈りなさい。神の愛の内に自らを保ち、永遠の命を目指して、私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。(ユダ20~21)

預言者エリヤへの主なる神さまの御言葉が今日私たちに与えられています。
エリヤの時代、イスラエルにはアハブという王がいました。妃の名はイゼベル。イゼベルは外国から輿入れしてきましたが、自分の国の宗教を持ち込み、イスラエルはバアルという神への信仰に支配されていました。エリヤはたった一人で450人のバアルの預言者と対決をし、勝利を収めた。しかしエリヤに対するイゼベルの怒りはすさまじく、エリヤは命からがらの逃亡生活を余儀なくされました。やがてエリヤは疲れ果て、文字通りに生きる気力を失ってしまいました。
そんなエリヤに神さまはもう一度新しく出会ってくださり、彼を力づけます。そのようなときの神さまの語りかけが、今日与えられている聖句です。「私はイスラエルに七千人を残す。すべて、バアルに膝をかがめず、これに口づけをしなかった者である。」
エリヤが生きる気力まで失ってしまった理由はいろいろあると思います。その小さくない理由の一つに、孤独感があったのではないかと思います。たった一人で戦うことへの途方もない疲れ。励まし合える仲間がおらず、もはや力が湧いてこないという失意。しかし、神さまはエリヤのために仲間を残してくださっていました。バアルに膝をかがめず、ただ神だけを礼拝する仲間を。私たちは決して一人では生きられないし、一人では信仰を守り抜くことができません。神は私たちのために共に生きる仲間を残してくださっている。あなたは孤独ではない。主がそう言ってくださっています。

2024年2月19日月曜日

2024年2月19日の聖句

主よ、あなたの業はなんと大きく
あなたの計らいはいかに深いことか。(詩編92:6)
全能者である神、主よ
あなたの業は偉大で
驚くべきもの。
諸国の民の王よ
あなたの道は正しく、かつ真実です。(黙示録15:3)

私たちは神さまを賛美します。神さまが大きく、素晴らしい力を振るって、私たちを救ってくださったからです。「あなたの業は偉大で、驚くべきもの。」
生物学者のレイチェル・カーソンさんが『センス・オブ・ワンダー』という本を書いています。センス・オブ・ワンダー。直訳すると「驚きへの感覚」といった意味でしょうか。本の亡いように即して言うなら、「自然に触れて深く感動する力」ということになる。良い言葉です。小さな頃に野山で遊んで、水の冷たさや太陽の日差し、木々の匂いの中でワクワクして過ごした感性を、センス・オブ・ワンダーという言葉で言い表した。
「あなたの業は偉大で、驚くべきもの。」この言葉には、神の恵みに驚くみずみずしい感性が込められています。この美しい自然を、不思議な命の神秘を創り出した神の御業を驚き、その偉大さをほめたたえる信仰の感性を、私たちも磨きたいと願います。
そして「主よ、あなたの業はなんと大きく、あなたの計らいはいかに深いことか」と語られているとおり、この世界を支える驚くべき神の御業は、この私にも向いている。私たちはそのことをも驚きを持って信じています。神が偉大な御力をもってこの私をも支え、愛してくださっている。今日も私たちはこの神の御力の中で、新しい一日を迎えているのです。

2024年2月18日の聖句

今週の聖句:
神の子が現れたのは、悪魔の働きを滅ぼすためです。(1ヨハネ3:8b)

今日の聖句:
正しい人は神の前に喜び祝い、心の限りに楽しむ。(詩編68:4)
主人は言った。「よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい。」(マタイ25:21)

神が喜んでくださることこそ、私たちの目指していることです。私たちの愛する主なる神さまが「よくやった」と喜んでくださる。その事実を私たちも喜ぶ、神へのこよなき愛に生きていきたい。そう願います。
「お前は僅かなものに忠実だった」と神さまはおっしゃいます。神さまが私たちそれぞれの人生にお預けになったものは、それぞれに違います。大きく見えるものも、小さく見えるものもあります。ところが神様からご覧になれば、それらはすべて「僅かなもの」です。私たちにはそういうものの大小がすごく気になってしまったり、比較をして苦しくなってしまったり、すぐに心が揺れてしまいます。しかし神さまからご覧になれば、それらはすべて僅かでしかない。その事実は、私たちに本当に深い平安をもたらすのではないでしょうか。「私はお前に僅かなものを任せた。」神さまはそうおっしゃいます。だから私たちに大事なことは、自分がお預かりしているものの大小を計算することではなく、任されたものに忠実であることです。神が喜んでくださること、ただそのことだけを心にかければ良い。他には何も必要ありません。
「正しい人は神の前に喜び祝い、心の限りに楽しむ。」神様の御前に、喜びと賛美を献げましょう。主イエス・キリストを呼び求め、神の御顔を仰ぐ祈りの一日を、今日、過ごしていきましょう。祝福を祈っています。

2024年2月17日土曜日

2024年2月17日の聖句

あなたがたイスラエルの山々よ、私はあなたがたへと向かい、あなたがたを顧みる。あなたがたは耕され、種を蒔かれる。(エゼキエル36:8~9)
それゆえ、きょうだいたち、主が来られる時まで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待ちます。(ヤコブ5:7)

想像を超えるような言葉です。イスラエルの山々への神の言葉です。山々に譬えられる、ある人々に対する言葉かなというような気もします。しかし、今日の旧約の箇所ですが、第36章8から9節ですが、少し省略されているようです。省略された部分も含めて、改めて読んでみるとこのように書かれています。「しかし、あなたがたイスラエルの山々よ、あなたがたは枝を出し、わが民イスラエルのために実を結ぶ。彼らの帰還が近いからである。私はあなたがたへと向かい、あなたがたを顧みる。あなたがたは耕され、種を蒔かれる。」
彼らの帰還が近い、とあります。預言者エゼキエルはイスラエルの民がバビロンに捕囚民となっていた時代の預言者です。遠い外国に連行されて、何十年も経ってしまった。やがて、神が捕囚民となった神の民を再びイスラエルの地に連れ帰ってくださる。そういう約束の中で、帰って来る者たちのためにあなたたちは再び実を結ぶようになる、とイスラエルの山々に語りかけた。それが今日の御言葉です。ですので、帰還民への救いの宣言であり、同時に、本当に山々への言葉でもあるのだと思います。
この世界も、そこにあるすべてのものも、神がお造りになったものです。私たちが生きるために必要な山も海もそこにある多くの実りも、神が育み、与えてくださった命です。神さまの慈しみの中で私たちは命を与えられて、生かされている。私たちは決してそのことを忘れてはならないのです。時に、忍耐が必要です。神の慈しみが見えなくなってしまうこともあるでしょう。しかしそのようなときこそ神の愛を信じましょう。この忍耐には意味がある。神が結んでくださる大地の実りによって私たちの命がつなげられるように、神の下さった尊い御子の命によって私たちに救いがもたらされているのですから。主イエス・キリストの祝福が今日もあなたにありますように。

2024年2月16日金曜日

2024年2月16日の聖句

人が死すべき定めにあることを胸に刻めるように、私たちを諭してください。そのようにしてこそ、私たちは知恵あるものとなるのです。(詩編90:12)
生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。(ローマ14:8)

代々の教会が語り継いできた一つの合い言葉に「あなたの死を覚えよ」というものがあります。特に中世の修道院で語り合われていた、と聞きます。「あなたの死を覚えよ。」それは、キリスト者のとても大事な人生観であると思います。
「人が死すべき定めにあることを胸に刻めるように、私たちを諭してください。そのようにしてこそ、私たちは知恵あるものとなるのです。」旧約の時代から既にそのように語られていました。その真剣さは私たちと同じです。人は誰もが必ず死ぬ。その事実を覚え、心に刻み、常に思い起こしつつ生きるから、私たちは知恵あるものとして生きうるのだ、と言う。しかもそれを不誠実に言ったり、諦めの思いで口にするのではありません。神が定めてくださった私の命には、神がお定めになった最後が来るのだと、神を信頼しつつ告白している。だから、私たちキリスト者の死は、平安につながっています。
神の子イエス・キリストは私たちと同じ人間になってくださいました。私たちと同じように死なれた。そして、復活した。だから、もはや私たちにとっての死の意味が変わりました。もはや死は私たちがよりよき生に生まれ出るための通路にすぎない。私たちは死んで、そして生きる。キリストのように。私たちは死を超える希望をもっている。
「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」生きているときにも、死ぬときにも、私たちは主のもの。主イエス・キリストの愛の中に、私たちの生も死も包み込まれているのです。

2024年2月15日木曜日

2024年2月15日の聖句

民がモーセのもとに来て、「私たちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。私たちから蛇を取り去ってくださるように、主に祈ってください」と言ったので、モーセは民のために主に祈った。(民数記21:7)
私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。(2コリント5:20)

神の御前に罪を犯し、その結果を引き受けて生きねばならない。それが私たちの現実です。民がモーセのところへ行って、私たちのために主に祈ってくださいと願ったように、私たちも祈りを必要としています。そんな私たちに、使徒パウロが言います。「私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。」
神と和解させていただく。これこそ、私たちにとって最も大切なことです。私たちの命にとって一番大切な、抜き差しならない問題はここにある。神と和解させていただく。私たちの暮らしの中で起こる問題の多くはここに由来するからです。私たちが神の御前に罪人であり、自ら災いを招き入れる生き方をやめようとしないから。いや、やめたいと願いながらも実際の生き方がそれを裏切っているから。
そんな私たちの前に、一人の使徒が立って言うのです。「私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。」キリストに代わって、と言います。大胆な言葉です。しかし、真実な言葉です。現代の説教者たちだって、同じ思いで御言葉を語っています。それだけではありません。改革者ルターの大切な教えの中に、「普遍的祭司職」(いわゆる「万人祭司」)というものがあります。すべてのキリスト者は隣人のための祭司として神に召されている、という教えです。キリスト者は、牧師でなくても、誰もが祭司。隣の人のために神との和解を祈り、和解の福音を証言する働きに神から召されている。
私たちは和解の福音の使者です。キリストにある神の和解の言葉を託されています。隣人のために、神との和解を祈ることこそ、私たちキリスト者のつとめなのです。

2024年2月14日水曜日

2024年2月14日の聖句

私は何者なのでしょう。そして私の民がいかほどのものなのでしょう。これほど多くのものを進んで差し出すことができるとは。すべてはあなたから与えられたものであり、私たちはあなたの見てから受けたものをあなたにお献げしたにすぎません。(歴代誌上29:14)
ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイ10:8)

今日は教会の伝統的な暦では「灰の水曜日」と呼ばれる日です。今日から受難節が始まります。受難節は主イエス・キリストが苦しみを受け、十字架へと向かい、そして実際に十字架にかけられたことを覚える時。そして、来るイースター、復活の主日に向けて祈りつつ備える時。そのように代々の教会で覚えられてきました。
受難節はイースター前の六回の日曜日を除く40日間と決められています。今年は3月31日がイースターなので、今日、2月14日が灰の水曜日。「灰」というのは悔い改めを象徴します。伝統的な慣習を守る教会では灰の水曜日に特別な祈りの集いをして、額に灰を塗るそうです。神様の御前に、主イエスさまを十字架にかけた私たちの罪を悔い改める祈りを献げるのです。
今日の御言葉でこのようにありました。「私は何者なのでしょう。そして私の民がいかほどのものなのでしょう。」これが私たちの祈りです。これはダビデが献げた祈りの言葉です。ダビデは、これから息子が王となって神殿を建築して神に献げるための準備をしました。そのために建材をそろえ、必要な資金を献金した。しかし彼はそのことでもって自分の成果を誇ったり、たくさんの献金をしたと言って傲慢にふるまうこともなく、「私は何者なのでしょう」と祈ったのです。
罪の悔い改めに生きる者の祈りがここにあります。私たちも神さまの御前に同じように祈ります。この私のような存在など、神様の御前に一体何ほどの者でしょう。ただ神の恵みによって、神の憐れみによって生かされているにすぎない。小さく、それ以上に罪深く、神さまに顔を上げて祈ることもできない私。そのような者をなお愛し、御心に留め、命を与えてくださっている。今日から始まる受難節は、キリストを十字架にかけてまで私たちを愛し抜いてくださった方の憐れみを深く心に刻む、祈りの日々なのです。

2024年2月13日火曜日

2024年2月13日の聖句

(主の言葉)「私の聖なる名を汚してはならない。」(レビ22:32)
(イエスの言葉)「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。」(ルカ6:46)

心に突き刺さるような厳しい言葉です。「主よ」と私たちは祈ります。神さまを呼び求めます。教会でも、神さまのお名前を口にして語り合います。主イエスは悲しみと憤りを込めておっしゃいます。「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。」それはイエス様の聖なるお名前を汚していることに他ならない。厳しい指摘です。しかし恐らく私たちなどが考えるよりも主イエスはずっと厳しい思いでいらしたに違いない。主の聖なるお名前が、私たちの実際の生き方によって汚されていることを深く嘆いておられるに違いない。
主イエスは、「なぜ私の言うことを行わないのか」と言っておられます。私たちの実際の生き方が、聞いていることや祈っていることに矛盾している、裏切っていると指摘しておられるのでしょう。私たちは、信じているとおりに生きているのか。主の言葉に聞いているとおりに生きているのか。
そう言われると、私はすぐに言い訳を始めたくなりますし、なんとかして今のままでもいいような屁理屈をこねたくなります。ある牧師がこんな譬えを出していました。父親が子どもに「早く寝なさい」と言ったとき、子どもがこんなふうに考えたらどうだろう。「お父さんは僕に早く寝なさいと言った。お父さんは僕が寝不足で不健康になるのが嫌なんだ。つまりお父さんは僕が早く寝ることではなくて健康でいることを望んでいる。僕があたかも健康であるかのように生きることがお父さんの願いであって、僕が早く寝るかどうかは関係ないのだ。」父はこんな屁理屈は許しません。しかし、私たちは神さまに対して似たような屁理屈をこねくり回すところがあるのかも知れません。
主イエスは、私たちが単純に主に従って生きることを命じておられます。そうやって私たちが実際に主のお名前を聖なるものとして実際に崇めることを望んでおられます。私たちは主に従う道へと導き出されています。

2024年2月12日月曜日

2024年2月12日の聖句

町に最善のものを求め、その町のために主に祈りなさい。町が平穏であるとき、あなたにも幸いがあるのだから。(エレミヤ29:7)
イエスがエルサレムに入られると、都中の人が、「一体、これはどういう人だ」と言って騒いだ。(マタイ21:10)

私たちは祈ります。私たちの生きるこの町のために。そして、この国のために。この国の平穏は私たち自身の幸いでもある。それは本当にその通りです。
しかし改めて思います。この町やこの国の平穏とは一体何か、ということを。一見平穏に見えても、実は平穏でも何でもないということも起こりえます。誰かに無理を強いたり、誰かにいやな思いをさせることでもって大多数の「平穏」が守られるということもあります。そのようなものが神さまの望んでおられる平穏でないことは明らかです。しかし、少数者にとっても優しい平穏や平和が実現するのは簡単なことではありません。少数者は多くの場合、これまで我慢を強いられてきた人です。必然的に、大多数にとっては少しばかり居心地が悪くなるということも含む。これまでの当たり前が通用しなくなるからです。
そんなことを考えたときに、今日の新約の御言葉はとても示唆に富んでいます。
イエスがエルサレムに入られると、都中の人が、「一体、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
主イエスが来られたとき、都は騒ぎになった。これは一体どういう人なのだ、と。言ってみれば主イエスの到来が人々の平穏を崩した。主イエスという存在そのものが一つの問いになった。主は、私たちのあり方をもう一度考えさせる神からの疑問符です。
私たちは、キリストが求めておられる平和を作り出す人として生きているでしょうか。キリストはそのために、御自分を十字架に献げてくださいました。キリストの血によって私たちに平和が与えられた。この平和の主が、私たちのところに来ておられる。キリストにしか、まことの平和は生み出せません。そして、キリストが来られたからには、まことの平和は確かに打ち立てられるのです。

2024年2月11日日曜日

2024年2月11日の聖句

今週の聖句:
「私たちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。」(ルカ18:31)

今日の聖句:
私の霊はあなたがたの中にとどまっている。恐れてはならない。(ハガイ2:5)
あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。(ヨハネ16:33)

神ご自身の霊が私たちの中にとどまっていてくださいます。神ご自身が私たちの内に住んでいてくださる。だから、神さまはおっしゃいます。「恐れるな」と。私たちは恐れてはならないのです。神が共にいてくださるから。神の霊が私の内にも住んでいてくださるから。私たちは恐れることなく、大胆に生きる。
主イエスさまはおっしゃいます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」主イエスは、勇気を出せと命じておられます。私たちにはこの世で苦難があることをよくご存じの上で、私たちがそのために恐れてしまうことを知って、なお主はお命じになります。「勇気を出しなさい。」なぜなら、主イエスさま御自身が既に世に勝っておられるから。
私たちと共にいてくださる神の霊は、世に勝利したキリストご自身の霊です。私たちは勝利者イエスと共に生きる。だから、恐れることはない。勇気を持って生きることができる。私が強いからではありません。私が勇敢な人間だからではありません。自分という人間に注目すれば、全くそのようなことはあり得ない私です。しかし、主が勝利しておられる。勝利者の霊がこの私の内に住んでいてくださる。だから、私たちは恐れることがないのです。

2024年2月10日土曜日

2024年2月10日の聖句

日夜、私の口はあなたの正義を、あなたの救いを語り継ぎます。しかし決して語り尽くすことができません。(詩編71:15)
(マリアの言葉)力ある方、その名は聖である方が、私に大いなることをしてくださいました。(ルカ1:49)

主イエスを胎に宿したおとめマリアの歌の一節です。「力ある方、その名は聖である方が、私に大いなることをしてくださいました。」マリアは、単に神さまが力ある方だとか、聖なる方だとは言っていません。その力ある方、聖なるお方が、この私に大いなることをしてくださった。この私にも御業を行ってくださるお方として、マリアは神さまのことを知っていたのです。
「客観的に言って神さまはこういう存在だ」という知識がいくら増えても、信仰にはなりません。そうではなくて、この私と出会ってくださり、この私に御業をなしてくださる方として神を知るということこそが、信じるということです。人間関係で考えてみても、誰かについての知識が増えても、それだけでは愛することにはなりません。実際に出会い、関係を結び、時を共有し、語り合い、・・・ということを経て、愛することを少しずつ学びます。まして私たちの目で捉えることのできない神さまであれば、なおのこと。「力ある方、その名は聖である方が、私に大いなることをしてくださいました。」神がそのように出会ってくださっているという事実に気付くとき、私たちの内に神への愛が、信仰が生まれます。
「日夜、私の口はあなたの正義を、あなたの救いを語り継ぎます。しかし決して語り尽くすことができません。」アーメン、と思います。語り尽くすことのできない神の恵みを、今日私たちも新しく味わい、賛美しつつ、この一日を歩んでいきましょう。

2024年2月9日金曜日

2024年2月9日の聖句

親身にエルサレムへ語りかけ、彼女に呼びかけよ。隷属の時は終わった、彼女の咎は償われているから、と。(イザヤ40:2)
すべての民にキリストの名によって告げねばならない。「生き方を改めよ。神はあなたたちの罪をお赦しになる」と。これをエルサレムから宣べ伝え始めよ。(ルカ24:47)

神から遠く離れ、罪と悪と死の奴隷となった私たちに、神は宣言してくださいます。「隷属の時は終わった、彼女の咎は償われているから」と。私たちは救われました。神が私たちを救ってくださいました。私たちはもはや罪の奴隷ではない。悪に属するものではなく、神の子です。神は私たちを死に定めるのではなく、もはや命に定めてくださいました。神の告げてくださる福音の言葉が、今、私たちの間に響いています。主イエス・キリストの祝福の光によって、私たちは照らされています。
だから、生き方を改めて神の御許に帰ろう、と聖書は呼びかけます。「生き方を改めよ。神はあなたたちの罪をお赦しになる。」私たちは罪の赦しの約束の中で、神に立ち帰る道がひらかれているのです。赦してもらえるかどうか分からないけれども勇気を振り絞って祈ったら、もしかしたら赦してもらえるかも知れない・・・などというのではありません。私たちが祈るよりも先に、私たちが神を信じるよりも先に、神がキリストにあって私たちに罪の赦しを、悪からの解放を、死からの救いを宣言してくださいました。私たちは今既に神の光の中に生かされている。キリストの福音が私たちに先立ちます。私たちにはこれしかありません。いや、これだけで十分です。
主イエス・キリストの恵みと祝福が、今日もあなたにありますように。

2024年2月8日木曜日

2024年2月8日の聖句

忍耐して主の助けを待ち望むのは味わいに満ちたことだ。(哀歌3:26)
自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。(ヘブライ12:1~2)

今日の旧約に「味わいに満ちた」とあります。まさに味わいに満ちた、良い翻訳だと思います。主の助けを味わう。しかも忍耐して主の助けを待ち望む。その味わいによって希望をいただいて、生かされる。それが私たちの営みです。
哀歌はユダ王国が外国に滅ぼされ、エルサレムの都が瓦礫の山になってしまった時代の祈りの言葉です。例えば今日の哀歌の第三の歌の一節にはこのようにあります。「私は主の怒りの杖で苦しみを受けた者。」本当に深くて苦しい絶望の中、呻くようにして口にされる一つひとつの言葉。それがこの哀歌の中に収められている。ですから、主の助けを忍耐して待ち望む、主の助けを味わうというのは、生やさしいことではなかったはずです。考えられる限り最大の悲惨を嘗めているところ。まるで暗くて深い穴蔵に押し込められたようなところ。そこに僅かに滴ってくる小さな雫に口元をぬらされるような、そんな僅かな希望にすがるようにして言うのです。「忍耐して主の助けを待ち望むのは味わいに満ちたことだ。」
これは、主イエスを見つめることなしにはできないことではないでしょうか。私たちのための救いそのものでいてくださる主イエスさまを見つめて、主イエスさまの愛にすがるようにして、私たちも神さまを求めます。ここに救いがある。そのことを信じて。それには忍耐が必要です。しかしキリストがその忍耐に必ず応えてくださいます。神がその御顔の光で私たちを包んでくださる。私たちはこのお方を信じて、主の助けを待ち望みます。

2024年2月7日水曜日

2024年2月7日の聖句

主は私を厳しく懲らしめられるが、
死に追いやられることはない。(詩編118:18)
そこに38年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは言われた。「起きて、床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した。(ヨハネ5:5、8~9)

私たちには苦しむことがあるし、理解できない出来事も起こります。今日私たちに与えられている詩編は、そのような苦しみを神さまとの関わりの中で捉え直しています。「主は私を厳しく懲らしめられる」。これは、他人が口にすることは許されない言葉です。あの人は神に懲らしめられている、罰を受けている。そのようなことは他人が決して言ってはいけないし、思ってもいけないことなのだと思います。あくまでも神さまと自分との関わりの中で、この苦しみを謙遜に受け止める者の静かな告白であるのだと思います。
「主は私を厳しく懲らしめられる。」しかしそれは主からのものだから、慈しみに満ちた主の手の中にあることを私たちは信じています。「死に追いやられることはない。」私たちは滅ぼされることはない。なぜなら、キリストが私に代わって滅ぼされたからです。私たちは神から捨てられて死ぬことはない。キリストが私の代わりに神に捨てられたからです。
主イエス・キリストに示された神の愛こそ、神から私たちへの御心です。私たちはそのことを深く信頼して、今この時に起きている出来事を受け止めなおします。主イエスは病気で苦しむ一人の人に目を留めて、「起きて、床を担いで歩きなさい」と言ってくださいます。私たちのために、主はその憐れみに満ちた御心を震わせてくださいます。私たちには理解できないことや呻くしかないことが起こります。その苦しみの中にキリストは共にいてくださる。十字架にかけられたキリストがいてくださる。その事実を私たちは信頼します。

2024年2月6日火曜日

2024年2月6日の聖句

(主の言葉)「あなたがたは、私にとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト記19:6)
あとは、義の栄冠が私ために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求める人には、だれにでも授けてくださるのです。(2テモテ4:8)

「主の現れを慕い求める人」とあります。主の現れ。すなわち、主イエスさまが再び私たちのところへ来てくださるその日、主が私たちの前に再びそのお姿を現してくださる日。私たちはその日を待ち望み、主のお姿を慕い求めて生きている。
まるで恋人のように。恋しい人の後ろ姿を見かけただけで心高鳴り、胸ときめく。そんな思いをもって主イエスさまを待ち望む。主イエスさまと顔と顔とを合わせてお目にかかり、親しく語り合うその日。キリストへの愛。それこそ私たちの信仰です。
今日の旧約の御言葉はこのようにあります。「あなたがたは、私にとって祭司の王国、聖なる国民となる。」一見すると先ほどの新約の御言葉との関係がよく分かりません。どういうことなのか。
祭司というのは、人々のために祈る者です。神様の御前に人々を執りなし、人々のために礼拝を献げるのが祭司の働きです。神さまは、私たちが「祭司の王国」として神と人とに仕えるのだ、とおっしゃいます。更にここには「聖なる」とあります。聖というのは、神さまのものということです。神さまに一心に向かい、神のものとして生かされている。それが「聖なる国民」ということです。祭司の王国、聖なる国民。それは、一心に神に向かい、それと共に隣人を見つめて人々のために祈りを献げる。
愛する主イエス・キリストのお姿に心ときめく信仰は、自分一人だけのために楽しむものではないのではないでしょうか。他ならぬ主イエスさまこそが私たちのために祭司として生きた聖なる神の御子です。私たちはキリストを愛し、キリストが愛する隣人を愛し、共に生きる生へと神に招かれています。

2024年2月5日月曜日

2024年2月5日の聖句

主は恵みを与えようとして、あなたたちを待つ。(イザヤ30:18)
私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じています。(使徒15:11)

聖書は主の恵みを語り出します。「恵み」って、一体何のことでしょうか。今日の旧約聖書をもう少し読んでみると、このように書かれています。「あなたはもはや泣くことはない。主はあなたの叫び声に応えて、必ずあなたに恵みを与えてくださる。」泣いている私たちに、叫んでいる私たちに、主が応えてくださる。主なる神さまが私たちに関心を持ち、私たちに応え、私たちを憐れんでくださっている。その事実こそ、「主の恵み」という言葉がなんとかして表現しようとしていることなのではないでしょうか。
「主は恵みを与えようとして、あなたたちを待つ。」主が待っていてくださいます。私たちが熱心に祈り求め、私たちが神を待ち焦がれて、やっとのことで神の恵みをいただくというのではありません。神さまの方が、私たちを恵むために待っていてくださる。驚くべき言葉です。
私たちは主イエスさまが示してくださった恵みによって救われます。キリストが私にも関心を持ってくださって、私のことを愛そうと私を待っていてくださるから、私は救われる。その事実こそ「主の恵み」そのものではないでしょうか。キリストは私のことをも待っていてくださいます。
新しい一週間が始まっています。私たちの日ごとの歩みも、主キリストの御手の中にあります。私たちの喜びの日も、悲しみの時にも、キリストの恵みが私たちを覆っている。その事実の中、平安に今日の日を歩んでいきましょう。

2024年2月4日日曜日

2024年2月4日の聖句

今週の聖句:
今日、あなたがたが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない。(ヘブライ3:15)

今日の聖句:
私を義とする方が近くにおられる。誰が私と争いえようか。(イザヤ50:8)
イエスは女に言われた。「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、誰も」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない。」(ヨハネ8:10~11)

この女は姦淫の現場で捕まったとして、主イエスのところにまで引きずり出された人です。律法では石打にするように定められていた。人々は、主が彼女を石打にしろと言うかどうか、固唾をのんで見つめていました。しかし主は何もおっしゃらない。人々がしつこく問い続けるので、主イエスはお答えになります。「あなたがたの中で罪を犯したことのないものが、まず、この女に石を投げなさい。」
主イエスのお言葉は、他人の罪をあげつらう人の醜悪さを浮き彫りにします。自分のありさまを忘れて他人を裁き、この人は罪人だ、死んで当然だと喚く自分のなんと醜いことか。恐ろしいことに、これは私たちの物語です。私たちはその事実に気付くことができません。しかし、主イエスは人々から裁かれる一人の女の味方になってくださいました。主イエスがあのようにおっしゃって、一人、また一人と彼女を取り囲む人がいなくなり、最後には主イエスと女の二人だけになったとき、主はおっしゃいました。「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」「主よ、誰も。」彼女が答えると主イエスは重ねて言われた。「私もあなたを罪に定めない。」
立ち止まって考えます。主イエスは、最低最悪の罪人の味方になってくださるお方です。そうであるからこそ、この私の味方にさえなってくださるお方です。人の罪をあげつらい、裁き、醜い姿をさらしているこの私。私こそ、石打にされねばならない罪人です。しかし主はなお私のためにも、罪からの解放の言葉を語りかけてくださっているのではないでしょうか。主が私の味方でもいてくださる。その事実が私たちの原点なのです。

2024年2月3日土曜日

2024年2月3日の聖句

私がこの目であなたを導こう。(詩編32:8)
イエスはシモンとアンデレに言われた。「私に付いて来なさい。」(マタイ4:19)

今日の旧約の御言葉は『日々の聖句』という今使っている聖書日課の日本語版をお作りになった方がドイツ語の聖書から翻訳をしたものだそうです。面白い表現だと思います。「私がこの目であなたを導こう。」ここに出てくる「私」というのは、一体誰のことなのか。この詩編の前後を含めて読んでみると、神さまがそうおっしゃっているというよりも、むしろ詩編作者が周りの者たちに言っている言葉と考える方がよいように思います。共に生きる信仰共同体の人々に目を向け、祈りに導くような呼びかけであるのだと思います。「私がこの目であなたを導こう。」祈りへの導きの言葉です。
私たちの信仰共同体は、お互いに目を向け、相手を見ることに始まるのだと思います。それはほかの誰よりも主イエスさまが私たちにしてくださったことです。主イエスは網を繕うシモンとアンデレをご覧になって、「私に付いてきなさい」とおっしゃいました。それで彼らは主イエスの弟子になった。主イエスが見つめ、声をかけ、彼らをご自分のものとしてくださったのです。私たちのことも見つめておられる。私たちをご自身の目で導いておられる。だから、私たちもお互いを見つめます。見つめ合い、互いに励まし合って信仰の道を、祈りの道を上っていきます。
さがみ野教会の前身の栗原伝道所は2月1日に最初の礼拝を献げました。神様の御前で礼拝を献げ、神を見上げ、神に目を注いで生きてきました。そして、お互いを見つめ、共に生きてきました。主イエスさまの「私に付いてきなさい」という御言葉によって呼び出されて、私たちは共に生きています。
主イエス・キリストのまなざしの中を生きていきましょう。そして、互いを見つめる愛の共同体を形づくっていきましょう。主が共にいてくださいます。主が私たちに先立って導いてくださいます。主が私たちのしんがりを守ってくださいます。

2024年2月2日金曜日

2024年2月2日の聖句

多くの民は来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。主はその道を私たちに示してくださる。私たちはその道を歩もう」と。(イザヤ2:3)
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが御もとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えられた。(マタイ5:1~2)

主の山、ヤコブの神の家。神さまが私たちと出会ってくださる場所。主イエス・キリストも、山で弟子たちにお語りになりました。たとえ山でなくても、私たちにも主との出会いの場所があるのではないでしょうか。静かに語りかける主の御言葉に耳を傾け、主との出会いを経験したかけがえのない場所が。
かつて私たちの教会でご一緒に信仰生活を送った山元篁牧師は、四尾連の山で神さまとの出会いの経験をなさったといいます。私たちにも、一人ひとりに、かけがえのない主との出会いの経験が、そのような場所があるのではないでしょうか。ある人にはそれはどこかの山かも知れないし、ある人には礼拝堂かも知れません。あるいは自室での静かな祈りの時であったかも知れないし、電車の中で一人祈っていたときかも知れません。祈る私に、聖書の言葉を通して静かに語りかける神さまの御言葉を、その福音を聞く。礼拝の中で語りかける御言葉を聞く。仲間と共に賛美を献げているときに、家族や共と語り合っているときに、愛する人との別れを通して・・・さまざまなしかたで、主は私たちと出会ってくださいます。
私たちそれぞれに合わせて、本当にいろいろな形で主は出会ってくださる。しかしそのどれにも共通して大切なことは、神さまの御言葉を聞くという経験であると思います。「主はその道を私たちに示してくださる。」それは、御言葉による示しです。「そこで、イエスは口を開き、彼らに教えられた。」私たちは主イエスさまの語りかけに耳を傾けます。神は私たちに御言葉を語りかけるという仕方でより深く出会い、私たちを御自分の民として整えてくださいます。
ですから今日も、私たちは静まって神の語りかけに耳を傾けます。このお方の御言葉に私たちの命があると信じているから。主イエス・キリストの祝福の言葉が私たちの一日を導いています。

2024年2月1日木曜日

2024年2月1日の聖句

今月の聖句:
聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。(2テモテ3:16)

今日の聖句:
主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。(詩編14:2)
私たちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。(2ペトロ3:18)

天から私たちを見渡されるお方は、ただ天にいて眺めておられるだけではありません。私たちのところにまで降りてきてくださいました。私たちのいる地の底にまで来てくださった。主イエス・キリスト。このお方こそ、私たちを探すために来てくださった神のお名前です。
「私たちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」イエス・キリスト。聖書はこの方を「私たちの主、救い主」と呼びます。そうです。この方こそ私たちを救ってくださるお方。私たちの主。聖書が書かれた時代、世間で「主」と呼ばれていたのはローマ皇帝だったようです。この世の権力者が神であるかのようにふるまっていて、人々はそれを喜んで受け入れていた。しかし本当に私たちを救ってくださる方、この私のところにまで来てくださった神はイエス・キリストをおいて他にはいない。ローマ皇帝ではないし、その後歴史の中に現れた無数の権力者でもない。イエスこそ主!
このお方の恵みと知識が私たちを成長させてくださいます。私たちはキリストに向かっているし、それに先立ってキリストが私たちを探してここまで来てくださった。溢れるようなこのお方の恵みが私たちを今日も覆っているのです。

2024年2月24日の聖句

私はあなたがたに以前にもまさる幸いをもたらす。こうしてあなたがたは私が主であることを知るようになる。(エゼキエル36:11) (パウロの手紙)あなたがたのところに行くときは、キリストの祝福に満ちあふれて行くことになると分かっています。(ローマ15:29) ありがたい言葉です。「私...