2023年3月31日金曜日

2023年3月31日の聖句

イスラエルの人々が主を叫び求めると、主は一人の救助者を起こし、イスラエルの人々を救われた。(士師記3:9)
(ザカリアの言葉)イスラエルの神である主は、ほめたたえられますように。主はその民を訪れて、これを贖われたからです。(ルカ1:68)

主なる神様はご自分の民を訪れ、これを贖ってくださった。ここには二つのことが言われています。主なる神様は、ご自分の民を訪れてくださった。そして、ご自分の民を贖ってくださった。どちらも、大切なメッセージだと思います。
主なる神様は、私たちのところへ訪れてくださる方です。神さまの方が私たちのところへ来てくださる。ザアカイは主イエスが自分の町に来ると知って、通りに出て行って見物しようと思いました。ところが彼は背が低く、誰も場所を譲ってくれなかったので木に登りました。イエスを見るために。ところが主イエスはザアカイがいる木の下まで来ると、おっしゃいます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」
この主イエスさまの言葉を読んで知らされるのは、ザアカイもイエスを探し木にまで登ってイエスを訪れたのでしょうが、それ以上に主イエスがザアカイを探して彼のところに訪れたのだ、という事実です。主イエスはザアカイめがけてこの町を歩き、ザアカイに会うためにこの木の下に来て、ザアカイを見るために上を向き、ザアカイに声をかけてくださった。主イエス・キリストがザアカイを訪れてくださいました。
主は私たちを訪れ、そして私たちをどうするのか?「これを贖われた」とあります。贖うというのは日常語ではありませんが、自分のものにするということです。しかも旧約聖書にある祭儀の意味合いが強い言葉遣いです。動物の血を流し、それを賠償として神様が民をご自分のものとする。
主イエス・キリストは私たちのところへ来て、私たちを神の民にしてくださいました。私たちはキリストにあって神のものです。キリストが私たちを贖ってくださったから。ご自分の血で。ご自分の肉を裂いて、私たちを神のものにしてくださった。だから、私たちも心と口を合わせます。「イスラエルの神である主は、ほめたたえられますように!」

2023年3月30日木曜日

2023年3月30日の聖句

天の下では、すべてに時機があり、すべての出来事に時がある。(コヘレト3:1)
イエスは十二人をそばに呼んで、彼らに話された。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子について、預言者たちを通して書き記されているすべてのことが実現するのです。」(ルカ18:31)

少し季節外れですが、クリスマスにはたくさんの讃美歌があります。その中でも「聞け、天使の歌」という讃美歌は特に私が好きな歌の一つです。このように歌います。「御子キリストこそ永遠にいます主。神の時満ちておとめに宿り、人となりたる神のみことば、インマヌエルの主、今宵生まれぬ。聞け、喜びの訪れの歌。」この「神の時満ちて」という言葉が特に好きです。主イエスさまは神の時が満ちて、一人のおとめに宿ってお生まれになった。私たち人間の営みの上では、いろいろな混乱が重ねられていました。神の民であるユダヤ人の数々の罪。ローマ帝国の支配。ヘロデ王の存在。本当にいろいろなことがあり、混乱し、私たちの世界はボロボロでした。しかし、私たちには混乱しか見えない世界の中に、神の時が満ち一人のおとめから神の子がお生まれになった。それがクリスマスです。
「天の下では、すべてに時機があり、すべての出来事に時がある。」神の時が私たちの人間の歴史や営みの中に突入し、新しい時を造り出している。キリストに出会うというのは、そういう出来事です。まさに「出来事」です。私たちを巻き込み、私たちを新しくし、私たちを神の御業の中で救う「出来事」。それが動くときが始まった。クリスマスに。キリストが十字架にかけられた日に。そして、キリストが墓から甦らされた朝に。その出来事は私たちのところにまで及んでいます。
そのために、飼い葉桶の中にお生まれになった方はエルサレムへと上って行かれました。私たちは十字架にかけられたキリストを仰いで、今日も祈りをします。私たちのための神の救いの出来事が始まっている「この時」を、祈りと信仰をもって生きるために。

2023年3月29日水曜日

2023年3月29日の聖句

すべての国々よ、主をほめたたえよ。
すべての国民よ、主をほめ歌え。(詩編117:1)
(五旬祭での人々の言葉)彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。(使徒言行録2:11)

五旬祭。旧約聖書では刈り入れの祭りとか七週祭といった名前で呼ばれています。ギリシア語で言うと「ペンテコステ」です。元は過越の祭りの50日後に祝われた祭りで、ユダヤの三つの大事な祝祭の一つでした。主イエスは過越祭の時に十字架にかけられ、復活なさいました。その50日後、弟子たちが集まって一つとなり祈っているところに神の霊が降った。
「五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話し出した。」
五旬祭はユダヤ人にとってはとても大事な祝祭です。ですから、各地から人々がエルサレムの神殿にやって来て礼拝をします。この当時、既にユダヤ人はユダヤ国内だけではなく周辺諸国一帯に散らばって生活をしていました。それぞれの場所で、普段はそれぞれの国の言語を話し、それぞれの文化の中で生きていた。ですからこの日に集まっていた人たちの多くはユダヤ人でしたが、母語はいろいろだったのです。そんな状況の中、聖霊を受けた弟子たちは「他国の言葉で話し出した」のです。集まった人たちは、自分たちの母語で神の偉大な業を弟子たちが語っているのを耳にし、びっくり仰天した。それが今日私たちが聖書から知らされている出来事です。
福音は、宣べ伝えられるべき言葉です。楽譜とよく似ています。楽譜はただ楽譜であるだけでは意味がない。楽譜は演奏されることを待っています。それと同じように福音も宣べ伝えられることを待っています。しかも、それぞれの心に届く言葉で。私たちのところにも日本語で福音を宣べ伝える人が来て、語りかけ、福音の言葉を届けてくださいました。そうして私たちのような世の果てにいる者たちも神をほめたたえています。私たちのところにまでキリストの良き知らせをもたらしてくださった神の霊の御業をあがめ、神を賛美しているのです。

2023年3月28日火曜日

2023年3月28日の聖句

主は私たちを造られた様を知り、
私たちが塵にすぎないことを覚えておられる。(詩編103:14)
わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。(2コリント4:10)

私たちが生きる現代社会は、少し前には考えることができなかったほど高度に文明が発達し、何でもできるようになりました。そのために手に入れたものもたくさんあります。いつでもどこででも、インターネットを使えば誰とでもつながることができます。地球の裏にいる人と顔を合わせて話し合うこともできます。医療も高度に発達しました。昔であれば治らなかった病気も次々に治療法が見つかっています。私たちはその恩恵を受けていますし、文明そのものを否定する必要はないと思います。
しかし、もしも私たちがそのために神様なんて必要ないと考えてしまうとしたら、それはひどく傲慢な考え方です。もう人間は神を必要としない。もはや神を必要とする幼稚な人類ではない。昔は神話や奇跡を必要としたかも知れないが、今やそのような迷信めいた宗教は必要ない。世界は大人になった。恐らく、それが「普通の」感覚であると思います。言葉にするかしないかはともかくとして。
もしかしたら、私たちの内にもそのような考えが忍び込んできているのかも知れません。この世界には、もはやキリストの福音は通用しないのではないか……?
聖書は言います。「主は私たちを造られた様を知り、私たちが塵にすぎないことを覚えておられる。」私たちは塵にすぎない。私たちの死を前にした無力を見つめています。土の塵から取られた私たちは、やがて塵に帰る。私たちはどんなに文明が高度になり、科学技術で万能に近づいたと思っても、死んで土の塵に帰ることには何ら変わりがない。あるいは、私たちには土の塵から命を造ることができないのです。私たちはどんなに科学技術が発達しても、命に対して無力です。
しかし、そのような私たちは神が造ってくださったものです。神が与えてくださった命です。私たちは土の塵にすぎない。しかしその土くれに過ぎない私たちの鼻に命の息を吹き入れたのは、神様です。私たちの命には価値があり、意味がある。それは神様が保証してくださいます。
それどころか、私たちの朽ちるべき命に、神はキリストを着させてくださいました。永遠の祝福を与えてくださいました。主イエス・キリストの祝福と恵みで、私たちを覆ってくださったのです。これほど確かな命の確かさがあるでしょうか。今日、私たちを生かす神の恵みの事実がここにあります。

2023年3月27日月曜日

2023年3月27日の聖句

神よ、御名のように、あなたへの賛美は地の果てにまで及びます。(詩編48:11)
行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。(マタイ10:7)

「御名のように」と今日の旧約聖書に書かれています。御名のように、というのはどういう意味なのでしょうか。これだけではにわかにはっきりしないところもありますが、私は次のように考えます。
出エジプト記第3章で、主なる神様がモーセと出会ったとき、神様はご自身のお名前を「私はいる、という者である」とおっしゃいました。とても不思議な言葉です。日本語には翻訳不可能な言葉ですが、そもそも原文のヘブル語でもかなり謎めいた表現です。「わたしは『いる』という者である」ではありません。「いる」が神の名ではない。「私はいる、という者である」全体が神のお名前だとおっしゃっているように思います。神様はどこかに静的に存在する崇高な概念のようなものではない。神様はここにおられ、御業をなさっている。モーセに現れたときには、エジプトで虐げられているご自分の民のために救いの御業をなさいます。そのために、神は人々の叫びを聞き、モーセと出会い、ご自分がここにおられることを宣言なさった。そういう神様の動きそのものが神のお名前だということなのだと思います。
「神よ、御名のように、あなたへの賛美は地の果てにまで及びます。」この「御名のように」というのは、そのようにして神がご自分の救いの御業を地の果てにまで及ぼしてくださる、ということではないでしょうか。神様の恵み深い御業の、果てしない広がりを言い表しているのではないでしょうか。それと同じように、神を賛美する歌声は地の果てにまで広がる。神の恵みを知るすべての人が歌うから。
「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と主イエスはお命じになります。私たちが地の果てにまで、神の御名とその恵みの御業を伝えるように、主は私たちを招いておられます。私たちが今日出て行くところは、キリストに遣わされた場所です。そこで私たちが天の国の福音を宣べ伝えるために。

2023年3月26日日曜日

2023年3月26日の聖句

今週の聖句:
人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、多くの人の身代金として命を献げるために来た。(マタイ20:28)

今日の聖句:
(神殿奉献の際のソロモンの言葉)神は果たして地上に住まわれるでしょうか。(列王記上8:27)
いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(ヨハネ1:18)

今日の旧約聖書のソロモンの言葉は、よく教会堂を建て、これを神様に献げるときに読まれる言葉です。「神は果たして地上に住まわれるでしょうか。」これに「天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです」と続きます。
神様がこの天と地とそこにあるすべてのものをお造りになった。ですから、私たちが生きている地上であろうと、果てしなく続く天であろうと、造り主である方を収めることなどできるはずがない。まして自分が造ったこの神殿などに神を入れてしまうことなんてできるわけもない。そのように言います。
ところが、驚くべきことが起こった、と使徒ヨハネは言います。「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」私たちの生きる地にも、果てしなく広がる天にも収めることのできない神様。私たちがこの目に捉えることのできない方。そんな神様を、しかし私たちにはっきりと示してくださった方がいる。父なる神様の懐にいる方、独り子なる神、この方が限りなく偉大な神様を私たちに余すところなく示してくださったのだ、と言うのです。
どうやって示してくださったのか。今週の聖句は「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、多くの人の身代金として命を献げるために来た」と書かれています。この御言葉に従えば、主イエスは私たちに仕えることによって父なる神を示してくださった、と言います。キリストは私たちに仕え、ご自分の命をも与えることによって神を示してくださった。独り子をさえ与える究極の愛であるご自分の御心を私たちに見せてくださった。私たちは果てしない愛の方として、父なる神を知ることが許されている。御言葉はそのように語るのです。

2023年3月25日土曜日

2023年3月25日の聖句

忍耐の力は強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる。(箴言16:32)
平和を造る人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)

「平和を造る人々は、幸いである。」主イエスがそのように言われます。他の誰でもなく、主イエスさまが。
平和を造る、というのはとても積極的な言葉です。平和を待ち望むというのなら、私もしています。平和になれば良いと願うのなら、誰にでもできます。しかし主イエスは「平和を造る」とおっしゃいました。私たちを平和を造る幸いに招いておられます。
私は、自分の意にそぐわない人のことはすぐに切り捨てたくなります。対話することに、正直に言ってすぐに疲れてしまいます。自分に仲良くしてくれる人やほめてくれる人のことはすぐに好きになります。こうして考えてみると、自分の好む平和なるものはずいぶんと受動的です。自分から平和を造ろうとするような積極性がなかったことに気付きます。
今日の旧約にも、やはり力強さを感じます。「忍耐の力は強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる。」この「忍耐」は我慢するということではありません。この「自制」は大人の振る舞いのようなものではありません。平和を造る積極的な力です。
「平和を造る人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」そのように言われた主イエスさまこそ、他の誰も比べることのできない、平和を造るお方です。キリストこそが平和です。そして、このお方こそが神の子です。神の子である方が平和を造ってくださった。平和を造る者は私と同じように呼ばれるのだ、と主イエスは言われるのです。
私は、自分がどんなに平和からほど遠いのか、考えざるを得ません。忍耐や自制の力がない。消極的に平和のおこぼれが転がってくることを求めている。それは、平和から遠いということです。いさかいを起こしているかどうかということだけではなく、平和の力に今現に生きているか否かを主イエスは問うておられるのだと思います。
「平和を造る人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」本当に不思議なことに、私たちも洗礼を受けたときに神の子と呼ばれるようになりました。このような私が。こんなに平和からほど遠い私が。それは、私たちがこの後は平和を造る幸い、神の子と呼ばれる幸いに生きることを望んでいてくださるキリストの力強い祝福を頂いている徴です。私たちは私たちをご自分の子と呼んでくださるお方の力強い御言葉によって、今日も生かされているのです。

2023年3月24日金曜日

2023年3月24日の聖句

主の言葉:私が繰り返し語り続けてきたのに、あなたがたは聞き従わなかった。(エレミヤ35:14)
イエスの言葉:幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。(ルカ11:28)

主イエスは私たちの間に神の国をもたらしてくださいました。キリストこそ神の国そのものです。神がここにおられ、神が治める新しい世界が始まっています。キリストは、神の国を神の愛の実りとして見せてくださいました。私たちは神を仰ぎ、神を礼拝し、神の愛の中に生かされていることに気付き、神を愛していきたいと願っています。
「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」と主イエスは言われます。ただ聞くだけで終わらせてしまうのではなく、神の言葉を聞いてこれに従うようにと主イエスは言われるのです。なぜなら、主イエスが語りかける御言葉に神の国が始まっているからです。神の愛の国がキリストの言葉の内にもう始まっているから。だからここに生きよ、と主は言われます。
「私が繰り返し語り続けてきたのに、あなたがたは聞き従わなかった。」これは、預言者エレミヤを通して告げられた神様の激しい悲しみの言葉です。なぜ、あなたたちは私に聞き従おうとしないのか、と主は言われます。もう既に、ここに始まっている神の国になぜ生きないのか。主はそのように、悲痛な叫びを上げておられます。
それでは、主なる神様が聞き従えとおっしゃる「言葉」とはどのような言葉でしょうか。預言者エレミヤは、例えばこのように言います。「彼らは姦淫し、偽りの中を歩み、悪をなす者の手を強め、誰も自分の悪から立ち帰らない。(23:14)」ここで言う「姦淫」は、恐らく偶像礼拝のことです。偶像礼拝とは、私たちの欲望を神とすることです。欲望を神としたときに悪が大手を振るい始める。そうすると、孤児や寡婦や在留外国人といった弱者が軽んじられ、強い者におもねり、不正が横行する。そのような悪の根は、まことの神を神としないことです。つまり、私たちがどう生き、またどういう社会を形成するかというのは、私たちがどのように神を畏れ、うやまい、礼拝するかということと一つのことです。だからこそ、神様はわたしの言葉を聞き従えと繰り返しおっしゃるのです。そうでないと、私たちも私たちの社会も壊れてしまうから。
キリストは、私たちの間に神の国をもうすでに始めてくださいました。今日の御言葉はとても厳しい響きを持ちます。しかしそれは、神の国がもう始まっている、神の愛の支配がもうすでにここにあることの裏返しだと思います。キリストは私たちをたった一人でも失うことなく神の国に生かそうと、私たちに御言葉を語り続けてくださっているのです。

2023年3月23日木曜日

2023年3月23日の聖句

大海のどよめき、波のどよめき、そして諸国の民の騒ぎを鎮める方。(詩編65:8)
ザカリアの言葉:イスラエルの神は、私たちを敵の手から救われることを誓われたので、私たちは恐れなく、生涯主に仕えることができる。(ルカ1:73~75)

今日の新約聖書の御言葉は、祭司ザカリアの言葉です。後に「洗礼者」と呼ばれる息子ヨハネが誕生したときに口からあふれた賛美です。ここでザカリアは神の救いを「私たちを敵の手から救われる」と言っています。神様は私たちを敵の手から救ってくださる。
それではこの敵というのは一体誰のことなのか。この時代のことだからローマだとか、ヘロデだとか、そういうものを考えているのでしょうか。どうも、ザカリアの言葉を読んでいるとそういう具体的な人や国家ということが考えられているのではないような気がします。むしろ、私たちを束縛する悪の力や死の力、そういったものが考えられているのではないか、と思います。
神は、私たちを敵の手から救いだしてくださいます。もしもその敵が外国や独裁者だとしたら、その救いは戦争やクーデターによるのかもしれない。ところが神様はもっと根本的な敵から私たちを救ってくださる。悪から、死からの救い。それは戦争によって、武器によって、クーデターによっては成し遂げられない救いです。その救いを、ザカリアは77節のところで「罪の赦しによる救い」と言っています。罪の赦しによらなければ、私たちが悪から解放され、死から自由になることはできないのです。
「大海のどよめき、波のどよめき、そして諸国の民の騒ぎを鎮める方。」ここに登場する海は、豊穣の海というイメージを持つ、命を育む海ではありません。大海のどよめき、波のどよめき。それが諸国の民の騒ぎの譬えになっている。この諸国の民の騒ぎは、恐らく戦争の騒ぎ、騒乱です。大海や波は、ここでは命を飲み尽くす荒々しい死の象徴です。しかし、神はそのような騒ぎを鎮めることがお出来になる方。罪の赦しによって、私たちを救ってくださるのです。
私たち自身の心も騒ぎ立ちます。神様はそれをも鎮めてくださいます。私たちに罪の赦しによるまったき平和を与え、私たちに神の前での静けさを与えてくださるのです。

2023年3月22日水曜日

2023年3月22日の聖句

私は失われたものを捜し求め、散らされたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病めるものを力づける。(エゼキエル34:16)
羊飼いは家に帰り、友だちや近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけましたから、一緒に喜んでください」と言うであろう。(ルカ15:6)

今日の新約聖書の主イエスの御言葉は、100匹の羊を持つ羊飼いがいて、その内の一匹が失われたら残りの99匹を野に残して、いなくなった一匹を探しに行くだろう、というたとえ話の最後の場面です。
いい話だなと思いながらも、実際的に考えるとちょっとつまずく話でもあります。野に残された99匹はどうなってしまうのか?子ども向けの聖書絵本とか紙芝居とかを見ると、羊飼いは何人かいて残りの99匹は仲間に託して一匹を探しに行くような絵が描かれているものがありました。確かにそういう話だと思えば安心できます。ところが、主イエスご自身はそのようなことをひと言もおっしゃっていません。主イエスはただ「99匹を荒れ野に残して」と言っただけなのです。むしろ、私たちに「え?」と思わせることがこの話の狙いなのではないかとすら思います。
聖書は失われたものを情熱的に捜し出す神様のお姿を描き続けています。創世記の最初の話でも、主なる神様はエデンで蛇に唆されて神に食べるなと命じられた実を食べてしまった二人を「どこにいるのか」と言って探しておられました。今日の旧約でも「私は失われたものを捜し求め、散らされたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病めるものを力づける」と言われています。神様が失われた者を、つまりアダムやエバを探しているのは、叱責し、断罪するためではありません。散らされた者を連れ戻し、傷ついた者を包み、病めるものを力づけるためです。
100匹の羊のたとえ話は、よく読んでみると、99匹を荒れ野に残したということよりももっと異常なことが書かれています。「羊飼いは家に帰り、友だちや近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。」ユダヤ人にとっての羊はペットではなく家畜であり、財産です。恐らく普通の羊飼いはたった一匹見失っても諦めていたと思います。惜しいでしょうが、家畜の一匹がいなくなっても生活に支障はないからです。むしろ99匹の無事の方が大事です。しかし主イエスという羊飼いはそうではない。たった一匹が大事だし、見つかったら嬉しいのです。この譬えで本当に以上なのは見つけたときの羊飼いの喜びようです。明らかに喜びすぎです。しかし、それだけ一匹が宝物なのです。
神様は、ご自身の宝である私たちを探し、抱き、癒やし、包んでくださるお方です。私たちへの神の情熱が、私に命を与えるのです。

2023年3月21日火曜日

2023年3月21日の聖句

人はパンだけで生きるものではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。(申命記8:3)
主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。(ヨハネ6:68)

「人はパンだけで生きるものではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。」この言葉は今日の旧約聖書の言葉ですが、それだけではなく新約聖書では主イエスさまの口から語られる言葉でもあります。私たちの日ごとのパンのために祈れとおっしゃった方は、同時に、私たちはパンだけで生きるのではない、と言われるのです。
ご飯は毎日食べないとお腹がすいて、飢えてしまいます。一日だって食べないとお腹がすいてお腹がすいて、いても立ってもいられなくなってしまいます。やがて餓死します。ところが、主の口から出る言葉、神の言葉はどうでしょうか。本当は、主の言葉を聞かなければ私たちの魂は飢えているはずです。霊魂の飢餓、霊性の危機に陥っている筈です。しかし、私たちは魂の飢えをなかなか自覚できません。お腹がすくように苦しくなり、すぐに自覚して対処できない。しかしそれだけに、私たちの魂の飢餓の深刻なことを主イエスは深くご存じなのではないでしょうか。
「人はパンだけで生きるものではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。」この言葉は、旧約聖書では、神がモーセに導かれて荒れ野に出てきた民のためにマナというパンを与えて食べさせたという話の中で出てきます。彼らにマナをお与えになったのは「人はパンだけで生きるものではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」ということを知らせるためであった、というのです。神様は私たちにパンと御言葉と、その両方が必要なことをよくご存じです。ですから私たちも、毎日のご飯を求めるのと同じ真剣さを持って神の言葉を求めましょう。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」神の言葉は私たちにとっては命の言葉、命を与える言葉だからです。私たちを生かす命そのものである言葉に今日も生かされて、生きていきましょう。

2023年3月20日月曜日

2023年3月20日の聖句

さあ、私たちも主の光のうちを歩もう。(イザヤ2:5)
イエスの言葉:私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。(ヨハネ8:12)

私は世の光である、と主イエスは言われます。世の光ということは、主イエスはご自分お一人が光り輝いているとおっしゃっているのではなくて、ご自身のその光で世に生きる私たちを照らしてくださるということでしう。私たちはキリストの放つ光に照らされている。それが今日私たちが聞く福音です。
今日の旧約の御言葉はイザヤ書第2章の言葉です。ぜひお手元の聖書をひらいて、1節から5節までをお読みいただければと思います。とても印象深い言葉です。2節で「終わりの日に、主の家の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる」と言っていますが、終わりの日、すなわち神が起こしてくださる救いの日について預言者イザヤが見たの幻が書かれています。主の家の山、救いの山が立ち、そこに多くの民がやってくる。そこで起こる救いの出来事は「彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦いを学ぶことはない」と言っているとおり、平和と和解の福音として告げられています。そして、今日の御言葉に続きます。「さあ、私たちも主の光のうちを歩もう。」
預言者イザヤは戦いによって痛めつけられ、疲弊し、生きる気力を失った人々を目の当たりにしていたのでしょう。たくさんの人々が暗闇の中を生きていました。しかし、主の光の中に私たちは生かされている。神が私たちを必ず救ってくださる。そのことを信じ、そのことによって希望を抱いていました。私たちも同じです。私たちの世界の現実がどんなに平和から遠くても、和解が不可能に思えても、必ず神はご自分の光で私たちを照らしてくださる。私たちは主の光の中に今生かされている。私たちはそのことを信じることができます。
主イエス・キリストご自身が、私たちの光として私たちのところへ来てくださったからです。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」キリストの命の光に私たちも照らされている。十字架にかけられたキリストを見上げ、キリストの放つ光の中、私たちもこのお方に望みを今日の日を置いて歩んでいきましょう。

2023年3月19日日曜日

2023年3月19日の聖句

今週の聖句:
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12:24)

今日の聖句:
主のように聖なる方はなく、あなたに並ぶ者はいません。(サムエル上2:2)
召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。(1ペトロ1:15)

聖書には謎に満ちた言葉がいくつもありますが、その中でも、今日出てきている「聖」という言葉が、もっとも謎であるのではないかと思います。これは、まだこなれた日本語になっていないからよく分からない、というわけではないようです。旧約聖書が書かれたヘブル語でも、「聖」という言葉は日常の言葉から派生したものではない。特別な用例しかないのだそうです。聖ということについては生活の延長からは分からない。聖書にい聞く以外に知りようがないのです。
「主のように聖なる方はなく、あなたに並ぶ者はいません」と言っています。主こそが聖なる方。聖、それは主なる神様の御性質をあらわす言葉です。モーセはミデヤンの地で燃える柴の間から語りかける主なる神様と出会ったとき、「こちらに近づいてはならない。履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地である」と言われました。預言者イザヤは高く上げられた玉座に主が座っておられるのを見ました。あまりの光景でした。ただ彼は天上で「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と声が響いているのを聞くことしかできず、聖なる神の御前に恐れました。聖なる方、それはただ神様だけです。
そして、「聖」は、神のものとされた者をもあらわします。「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。」神を信じる者は神のものとされる。だからこそ、神のものとしてふさわしく生きよ、と言うのです。
私たちは神のものです。聖なるお方のものです。私たちは聖を自分のものとすることはできないし、逆に放棄することも許されていません。神と出会い、この後は神のものとして生きるように召し出されている。聖なる者として生きる。それが私たちの新しい命の意味なのです。

2023年3月18日土曜日

2023年3月18日の聖句

すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。
善を行う者はいない。一人もいない。(詩編14:3)
いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。(マタイ7:14)

「狭い門から入れ」と主イエスはお命じになります。狭い門。私たちは普通この言葉を、例えば東京大学に入学するとか、司法試験に合格するとか、そういう意味で使います。この門を通ることのできる人はごくわずかしかいない。尋常ではない才能や努力によらなければ通過することができない。だから頑張らなければならない。主イエスも、そういう意味でおっしゃったのでしょうか。
「いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」
確かにこの門を見出す人はわずかだ、と主はおっしゃっています。この門は狭く、その道も細い。これを見出す人は少ない。だからそれを見出すように普段から頑張れ、もっと努力しろ。そういうことなのか。
主イエスは、そうはおっしゃっていないと思います。確かにこの門は狭いし、その道は細い。それを見出す人は少ない。というよりも、自分の努力や頑張りでそれを見つけよう、その門を通ろうと思ってもそれは不可能だ、ということではないでしょうか。しかし主イエスはなんとしても私たちにその門を通ってほしいと願っていてくださいます。だからこそ、私たちのところにまで来てくださった。私たちがこの門を通るために。なぜなら、この門はいのちの門に他ならない。私たちがこの門を通って命を得ることを主は御心としていてくださいます。
「すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。善を行う者はいない。一人もいない。」主イエスはいのちの門を見出すことのない私たちの現実を私たち以上にご存じです。だから、ご自分が道になって私たちをいのちの門へと導いてくださいます。ここに命がある、私を通って行け、と主イエスは招いていてくださいます。
私たちの努力によって、この門を通るのではない。そうではなくて、主が招いていてくださる。主がこの門を開いていてくださる。ここに命に至る道があると呼びかけていてくださる。ですから、今こそ主イエスさまの呼び声に応じて、この門から入りましょう。ここに命があります。

2023年3月17日金曜日

2023年3月17日の聖句

主よ、あなたのまなざしは、真実に向けられてはいないのですか。(エレミヤ5:3)
ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。(ルカ16:10)

今日の旧約聖書の御言葉は、私たちの多くの者が何らかの形で唇に上らせたり、心に思ったりしたことがある言葉ではないでしょうか。「主よ、あなたのまなざしは、真実に向けられてはいないのですか。」主よ、どうしてですか?どうして不真実が世界にはびこっているのですか?どうしてあなたはそれをお許しになっているのですか?あなたのまなざしは、真実に向けられてはいないのですか?
この世界にはびこる不正や不真実、不義を悲しみ、嘆き、痛んでいる人の言葉です。神様が真実な方だと知り、それを信じているからこそなおのことその悲しみが深いのです。
今日、合わせて与えられている新約聖書の御言葉は、一見するとつながりがよく分かりません。あまり関係のない言葉が書かれているようにも感じられます。この言葉が登場する文脈を見てみると、新約は主イエスのなさった「不正な管理人」という奇妙なたとえ話の中に出てきます。ある金持ちの管理人が主人の金を無駄づかいしていたことがバレてしまいました。クビになることを恐れた彼は、主人に借金している者たちを呼び寄せ、勝手に証文を書き換えて借金を棒引きします。そうやって恩を売っておいて、後で自分が無職になったときに助けてもらえるように手を打っておいた。するとそれを知った主人はこの不正な管理人のやり口をほめた、という話です。かなり変な話です。
主イエスはこのようにおっしゃいます。「この世の子らは光の子らよりも、自分の仲間に対して賢くふるまっている」、「不正の富について忠実でなければ、誰があなた方に真実な者を任せるだろうか」。どうやらこのたとえ話を読むと、主イエスは、私たちがただただこの世の不正や不真実を悲しんで泣いているだけなのを良しとはなさらないようです。もっと賢く振る舞い、もっと知恵を使って渡り合え、とおっしゃっているようです。思えば私たちが手にしている財は、すべてあの管理人と同じように神様からあずかっているものです。私たちはそれを賢く用いて友を作ればいい。その不正な富みに忠実になって、人のために使えば良い。その小さな忠実さ、真実を神はご覧になっているのだから、と主イエスは言われます。
今日の御言葉は私たちのこの世での生き方について不思議な示唆を与えます。この世の富みも財も、私たちが賢く管理し、用いることで、他者のために資することのできる有効な道具です。それをなし得る賢さを、主は求めておられます。

2023年3月16日木曜日

2023年3月16日の聖句

主は彼をご自分の瞳のように守られた。(申命記32:10)
神は愛です。愛の内にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。(1ヨハネ4:16)

神は愛です。これは、使徒ヨハネの言葉です。主イエスさまに足を洗っていただいたことのある人です。主イエスさまが十字架にかけられるのを、その真下にいて見上げていた人です。主イエスが復活させられた朝、墓から主のお体が取り去られたとマリアが知らせたとき、いの一番に墓に走って行って空になっているのを目撃した人です。復活した主イエスさまが愛の極みの中で弟子たちを訪れ、手と脇腹の傷跡をお見せになったとき、そこにいて、主の手と脇腹を見た人です。主イエス・キリストの愛を経験し、この愛によってしか自分は生き得ないと骨身に染みて知った人です。
その人が言うのです。「神は愛です」と。
神は愛です。私たちは愛を知りませんでした。神と出会うまでは。キリストが神の愛を示してくださったことを知るまでは、私たちは愛を知ることがありませんでした。心から沸き起こる感情や、情熱や、慈しみ愛おしむ静かな心を経験したことは、あったかも知れない。しかし、キリストが示してくださった神の愛のような愛は、他にはどこにもありませんでした。ご自分の独り子を与えてくださる愛です。私たちの前にかがんで足を洗い、僕になってくださる愛です。十字架にかけられ、愛を完成させたお方です。復活し、ご自分を捨てた弟子のところへ行って平和を告げる愛です。私を極みまで愛し抜いてくださるお方。
「愛の内にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」愛の内にとどまる。この「愛」は、自分から沸き起こってくる愛というよりも、キリストが示してくださった愛ではないでしょうか。そこにとどまる。そしてキリストが示してくださった愛は、私の内で私自身の愛を生み出してくださる。キリストの愛の奇跡が起こる。そのとき、私たちは神ご自身の内にいるのです。何という愛の奇跡でしょう。神は私たちをご自身の目の瞳のように愛していてくださるのです。

2023年3月15日水曜日

2023年3月15日の聖句

主の慈しみは私たちに力強く、主のまことはとこしえに絶えることがない。ハレルヤ。(詩編117:2)
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。(2コリント1:3)

大切な人に手紙を書くとき、どうやってその手紙を書き出そうかいろいろと思いあぐねます。時候の挨拶をしたり、相手の安否を気遣ったりという一見すると定型句にすぎないような言葉も実は決まり文句ではなく、それを受け取った相手がどう思うのか、いろいろなことを考えながらひと言ひと言を丁寧に書いていくのではないでしょうか。
使徒パウロの書いたこの手紙は、今日の箇所に先立つ2節での読み手への祝福、そして今日の御言葉である3節での神への賛美から始まっています。「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。」パウロが何よりも先に手紙の読み手と共有したかったのは、神を賛美する心だったのではないでしょうか。
しかもこの賛美は、主イエス・キリストの父なる神への賛美です。その父であるお方を「慈しみ深い父」さらに「慰めに満ちた神」とお呼びしています。神様は慈しみ深いお方です。私たちをあらゆる苦難の中で見捨てることなく、他の誰よりも私たちの側近くにいてくださるお方です。この「慰め」という言葉は、「隣で語りかける」という字を書きます。神様は苦難の中で私たちから遠く離れておられるのではなく、私たちの隣りにいて、御言葉を語りかけてくださる方。
それはまさに主イエス・キリストのお姿そのものです。キリストは私たちのところにまで来てくださいました。キリストは私たちのところへ降りてきてくださいました。私たちの苦難を共有するためです。このキリストが、今日も共にいてくださいます。このお方がほめたたえられますように。そして私たちの一日が、このキリストをお迎えする喜びと慰めに満ちたものでありますように。

2023年3月14日火曜日

2023年3月14日の聖句

私はすべての国と諸言語の民とを集めるために来る。彼らは来て、私の栄光を見る。(イザヤ66:18)
「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。(2コリント4:6)

今日の新約聖書の御言葉には「光」という漢字が何度も登場してきています。「栄光」というのは、日本語では「栄える」という字に「光」という字で表しますが、当然、漢字を使わない言語では別の言い方をするわけで、必ずしも光と関係があるということではないとも思います。しかしやはり「栄光」という言葉が言い表している事柄は、光に満ちたものであるのではないかと思います。神様の栄光と言ったとき、そこには神の輝き出るすばらしさが言い表されているに違いありません。
ですから、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」という表現がとても面白いと思います。栄光というキリストの御顔に輝く光を私たちが悟るための光、というのです。私たちの礼拝でも、聖書を読む前に聖霊の照らしを求める祈りというのを献げます。英語の式次第を見ると、この「照らし」という言葉はイルミネーションという単語で表されている。まさに光で明るく照らしてください、という祈りです。この光は聖霊の光です。聖霊なる神様が私を照らしてくださり、キリストの御顔の光、神の御栄光を悟らせてくださる。私たちは光の中で光を知るのです。この光は、すべて神の御許から照らされています。
「私はすべての国と諸言語の民とを集めるために来る。彼らは来て、私の栄光を見る。」この「諸言語」という言葉がいいなと思います。人間、言語が違うと物の考え方の枠組みが全然違います。日本人の多くが曖昧さに人間関係の機微を見出すことと、日本語の言語構造とは無関係ではないと思います。他の言語でも、さまざまな形でそういった傾向性はあると思います。しかしどのような言語であっても、あるいは文化や歴史であっても、すべての人が神の栄光を見る。神の栄光という光の中にいる。キリストの御顔の光に照らされている。聖霊の光の中で神を仰いでいる。神様ご自身が、そうやってご自身の光で照らしてくださっています。主なる神様の光に照らされているこの事実の中で、主の光の中を歩んでいきたいと願います。

2023年3月13日月曜日

2023年3月13日の聖句

なぜ国々は言うのか、「彼らの神はどこにいるのか」と。私たちの神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われる。(詩編115:2~3)
神はそのような無知な時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。(使徒17:30)

「私たちの神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われる。」神様の御業、その御支配の及ばぬ所はない、と言います。力強い宣言です。
私たちの力やできうることは、そうではありません。とても小さく、限られたものでしかありません。日曜日の礼拝の後に、牧師室を一階から二階に引っ越ししました。何人もの方に協力していただきました。こういう移動をすると、何がどこにあったのかよく分からなくなってしまいます。あの本どこだっけと思っても、見つけるのはかなりたいへんです。あの書類は・・・と思っても、もしかしたら不要だと判断して数日前に処分したものかもしれません。自分の部屋一つ管理するだけでもたいへんです。ところが神様は天におられ、すべてのことを御旨のままに行われる、というのです。神様の御力や支配力の大きさに驚嘆します。
「彼らの神はどこにいるのか」と言うのは、国々です。外国の人々、つまり主なる神様を信じていない人たちが言うのです。「彼らの神々はどこにいるのか。あの連中の信じている神は、本当に信じるに価するのか。神を信じる意味などあるのか」、と。
しかし、私たちの神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われる。これは、世界に対する信仰宣言です。神がこの世界を支配しておられる。御旨によって。神の御旨は、恵みと慈しみに満ちた、よき御旨です。私たちを生かし、命を与え、恵みをもって支えてくださいます。この神に立ち帰れ、と聖書は言います。「神はそのような無知な時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。」神様の憐れみの中に帰ろう、と聖書は私たちを招いています。

2023年3月12日日曜日

2023年3月12日の聖句

今週の聖句:
鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない。(ルカ9:62)

今日の聖句:
あなたの神、主は、あなたの手の業すべてに豊かな恵みを与えてくださる。(申命記30:9)
神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。(フィリピ2:13)

ここに「あなたの手の業すべてに」とあります。この「すべて」というのは良い言葉だなと思います。神様は私たちのしていることの一部分だけではなく、すべてについて豊かな恵みを与えてくださるお方です。私たちの毎日の営みの中に神様と無関係のものは一つもない。すごい言葉です。
しかも、そのすべてに対して神様が与えてくださるものは恵み、しかも豊かな恵みだと言います。これまたすごい言葉です。神様は私たちの生活の一つひとつの営みについて恵みを豊かに下さっている。私たちの毎日の営みは神の恵みの中で守られ、育まれ、支えられている。それが聖書の基本的なまなざしです。
今日も一日、そのことを深く信頼して歩んでいきたいと願います。今日は日曜日です。受難節の日曜日です。主イエスさまが十字架にかけられたことに深く思いをいたし、主を十字架にかけた自分の罪を悔い改める。その中の日曜日を明日迎える。日曜日は、受難節であってもそうでなくても、いつでもキリストの復活を祝う日です。主は十字架にかけられましたが復活し、私たちのところへ再び来てくださいます。私たちの営みに恵みを与えるため、私たちの毎日の生活の苦労をわが身を持って知っていてくださる方が、私たちのところへ来てくださる。私たちを救ってくださる。日曜日に私たちはそのことを心に深く刻みます。
主イエスさまの祝福と恵みが豊かにありますように。私たちの心の内にさえも神は働き、志を与え、私たちを新しくしてくださいます。神の恵みの中、それまでは伏せられていた私たちの目を上げさせてくださる。キリストにあって、私たちの新しい一週間が始まったのです。

2023年3月11日土曜日

2023年3月11日の聖句

モーセの言葉:見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福と呪いを置く。もし、今日私が命じる、あなたがたの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたがたの神、主の戒めに聞き従わなければ、呪いを置く。(申命記11:26~28)
イエスの言葉:あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる。(ヨハネ15:10)

主イエスが「私の戒め」と言っておられます。この戒めというのは、一般的な何かの戒めとか決まりということではなく、とても具体的な意味を持っています。この福音書で、主イエスは更に言われます。「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。」主が私たちにしてくださったように私たちが互いに愛し合うこと。主イエスはそれをご自分の命じる戒めだと言われるのです。
私たちが互いに愛し合うなら、私たちは主イエス・キリストの愛にとどまっていることになる。ということは、私たちが互いに愛し合うとき、それは単に私たち相互の中に閉じた人間関係にとどまらず、主イエス・キリストとの関わりがそこに生まれてくることになります。私たちが互いに愛し合うとき、そこに主イエスがおられる。主イエスさまとの関わりの中で、私たちは互いに愛し合う。主イエスはそう言われます。主が間に立っていてくださるのでなければ、どうして私たちが真実に愛し合うことができるのでしょうか!
互いに愛し合うこと、それが神様が私たちに準備してくださった祝福の道です。愛は、確かに祝福です。それを否定する人はいないと思います。真実に互いのことを思いやって愛し合うこと、人間関係の中でそれに優る喜びはないのではないでしょうか。
しかし同時に私たちが悲しみを持って知っているのは、私たちの間でいかに愛が安売りされ、陳腐なものに成り下がっているか、ということです。愛は単なる美名、あるいは建前にすぎないと決めつけられているところがある。むしろお金による豊かさや競争の勝ち負けの方が現実的だとされているのではないか。もしもそうだとしたら、そこ既に呪いの現実があるのではないでしょうか。私たちの愛が愛ではない逆さまなものになってしまっている。私たちの罪が生み出す呪いの現実です。
だからこそ、キリストが私たちを愛してくださったようにという原点が欠かせないのです。キリストと出会い、神と出会うまで、私たちはまことの愛を知りませんでした。自分の中から、まことに愛と呼ぶのにふさわしいものなど出ては来ないからです。しかしキリストが私を愛し、愛し抜いてくださったから、私たちは初めて愛を知りました。しかも確かに知りました。この原点以外の別の場所から、私たちが愛を始めることはできないのです。

2023年3月10日金曜日

2023年3月10日の聖句

見よ、イスラエルを守る方は、まどろみもせず、眠ることもない。(詩編121:4)
一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。(1ペトロ5:7)

今日の朝、どのような思いで迎えられたことでしょうか。いつもどおりに朝目覚めた方、寝坊した方、慌ただしく朝を過ごした方、まんじりともせずに夜を過ごした方、病床に伏せっておられた方、寝ている間に何度も目が覚めてしまった方、快眠で爽やかに朝目覚めた方・・・それぞれでしょう。しかし私たちがどのような朝を迎えたのだとしても、私たちは同じ神様の恵みにあずかっています。
「見よ、イスラエルを守る方は、まどろみもせず、眠ることもない。」
神様は私たちのために、まどろみもせず、眠ることもありません。私たちのために寝ずの番をして、私たちを守っていてくださいます。主は私たちのために寝ずの番をしてくださって、私たちが朝を迎えるために私たちを守っていてくださいました。それがどのような夜であったとしても、主が守ってくださっていました。
今日の朝の光も、神様が造ってくださったものです。主は私たちを暗闇の中に取り残すことはなく、私たちのために朝の光を与えてくださいました。そしてやがて私たちが天の御国においてキリストご自身が光となり、私たちを照らしてくださる朝が来る。その日、もう太陽さえも必要なくなるのです。
だから、聖書は私たちに言います。「一切の思い煩いを神にお任せしなさい。」私たちの思いは時に「煩い」になってしまいます。悩みに心を支配されてしまう。いや、向き合わねばならない事柄から逃げずに向き合い、そのために悩むことは大切なことです。私たちが自分の課題に取り組むこと自体は、神様が私たちにお与えになった大切な使命です。しかし、思い煩いに心が支配されて神様を見失ってしまうとしたら、それは本末転倒です。私たちは神様を仰ぐために生きているのですから。一切の思い煩いを神様にお任せしていい。「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」。そう、私たちのためにまどろみもせず、眠ることもない方が、私たちを心にかけていてくださる。そして、私たちはこのお方の光に照らされる希望を抱いている。だから大丈夫。私たちはこのお方の不寝番を、昨夜も頂いてきたのですから。

2023年3月9日木曜日

2023年3月9日の聖句

あなたの神、主は、あなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった。(申命記2:7)
(イエスが弟子たちに尋ねた言葉)「財布も袋も履物も持たずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが「いいえ、何もありませんでした」と言った。(ルカ22:35)

主イエスはご自分の弟子たちを、財布も袋も履物も持たせずにお遣わしになった。路銀もない。着替えや他の荷物を入れるための袋もない。履物の換えもない。ちょっとそこまで散歩にでも行くような恰好です。もしもそんな出で立ちで出かけて行って困ってしまったら、周りに人からはあまりにも準備不足だと叱られてしまいそうです。しかし主イエスは、財布も袋も履物も持たずに出かけて行って不足はなかったはずだとおっしゃるのです。そして、弟子たちは事実その通りでしたと答えている。
これは私たちにとってはかなりチャレンジングな言葉です。「そうは言っても、文字通りに何も持たないわけにはいかない」と留保をつけたくなる言葉です。ただ、私たちが聖書を読んで知らされるのは、主イエスご自身がまさにそういう出で立ちで私たちの前に来てくださったと言うことです。主イエスは貯金をお持ちではなかったし、おしゃれを楽しんだという様子もうかがえません。着の身着のままで私たちの前に来られた。贅沢は敵だ、という話ではありません。ご自身を生かしてくださる神様への完全な信頼に生きておられた。それが主イエスのお姿ではないでしょうか。
主イエスは、私たちが本気でご自分を信じることを求めておられるのではないでしょうか。ところが私はそう言われると怯んでしまいます。たじろいでしまいます。そこに私の罪があるのだと思います。主は私に、子どものように混じりけなしに神を信頼すること、自分の身を委ねることを望んでおられるのだと思います。そして、主への全き信頼に生きる幸いに私を招いておられるのだと思います。
「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」今度の日曜日に聞くこの御言葉は、このような神様への全き信頼を私たちに培う祈りなのだと思います。必ず主がわたしを養ってくださる。主はその信仰を、私にもお与えくださる。そのこと自体もまた、信ずべきことなのです。

2023年3月8日水曜日

2023年3月8日の聖句

地よ、地よ、地よ、主の言葉を聞け。(エレミヤ22:29)
あなたがたが耳元で聞いたことを、屋上で言い広めなさい。(マタイ10:27)

今日の旧約聖書は「地よ、地よ、地よ」と三度呼びかけています。この「地」というのは、私たちのことでしょう。神を信じている者たち、あるいは、信じているはずの人たち。そんな私たちに向かって「地よ、地よ、地よ」と三回繰り返して呼びかけています。これはただならぬことです。普通、三度も繰り返して誰かを呼ぶことはありません。相手が聞いてくれていない、自分の声が届いていない、あるいは、こちらを見ている相手の目をのぞき込むようにして、どうしても聞いてほしいという思いを込めて何度も相手に呼びかけて語り出す、ということかも知れません。いずれにしても、この「地よ、地よ、地よ」という繰り返しには、神様から私たちへのただならぬ思いが感じられます。
それではそうやって呼びかけながら私たちになんとおっしゃっているのか。「主の言葉を聞け」と言う。それでは、主は何と言っておられるのか。続く30節にはこのように書かれています。「主はこう言われる。この人を、子がなく、一生栄えることのない男として書き記せ。彼の子孫のうち、栄えてダビデの王座に着き、再びユダヤを治める者は誰もいないからだ。」詳しいことを見ることはここではできませんが、明らかにこれは裁きの言葉です。預言者エレミヤは神様から離れていくイスラエルの民への警告を語り続けてきました。神様からどんどん離れてしまう私たちの現実をご覧になって、神様は、何度も繰り返して私たちを呼びながらおっしゃるのです。「地よ、地よ、地よ、主の言葉を聞け。」主の言葉を聞き、裁きを告げるその言葉を聞いて、神のもとに立ち返れ。立ち帰って命を得よ。そういう神様の悲痛な思いが込められているのではないでしょうか。
神様は、いつも私たちを招いておられます。私たちが神様の言葉を聞き、神様のもとに立ち返ることを待っていてくださいます。神様は私たちの名前を何度も繰り返し読んで、主の言葉を聞け、わたしの言葉を聞けと呼びかけてくださる。わたしに立ち帰れ、と招いてくださっています。そして、その言葉を聞いたとき、私たちがそれを証しすることを願っておられます。「あなたがたが耳元で聞いたことを、屋上で言い広めなさい。」屋上で、誰にでも聞こえる場所で、私たちを求め、探し、招く神の言葉を、私たちも証しする。キリストの願いがここにあります。

2023年3月7日火曜日

2023年3月7日の聖句

私たちの神、主。私たちを見捨てないでください。私たちを見放さないでください。(列王記上8:57)
主があなた方の心を、神の愛とキリストの忍耐へとまっすぐに向けてくださいますように。(2テサロニケ3:5)

今日の新約聖書の御言葉は、本当にすてきな言葉だと思います。「主があなた方の心を、神の愛とキリストの忍耐へとまっすぐに向けてくださいますように。」まっすぐに向ける、という言葉がとてもいいなと思います。ところで、このように使徒パウロが私たちのために願うのは、私たちの心が事実として神の愛とキリストの忍耐からすぐに離れてしまうからでしょう。神の愛が分からなくなってしまう。神の愛よりも自分を取り囲んでいる困ったことの方が強くなってしまう。神の愛よりも、自分の周りを取り囲んでいる「現実」の方が現実感があると思い込んで、そっちの方を信じてしまう。
しかし、そのようなとき、実は私たちの心に問題があるのであって、神の愛を見失ってしまっているのではないか、と言うのです。
さらに、神の愛だけではありません。キリストの忍耐、とも言っています。神の愛と共にキリストの忍耐をも見失ってしまう。ヘブライ人への手紙にはこのような言葉があります。「あなたがたは、気力を失い、弱り果ててしまわないように、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを、よく考えなさい。(12:3)」主イエス・キリストが、私たちのために、私たちの反抗を忍んでくださった。キリストが私のために忍耐してくださった。そのことを思い起こせ、と言います。そうすれば、苦難の中で気力を失い、弱り果ててしまうことがないから、と言うのです。
神の愛を、キリストの忍耐を思い起こす。それこそが私たちの力の源です。「私たちの神、主。私たちを見捨てないでください。私たちを見放さないでください。」この祈りの言葉は、神の愛、キリストの忍耐への信頼の中で生まれる祈りです。まっすぐにキリストに目を向けて、今日も生きていきましょう。

2023年3月6日月曜日

2023年3月6日の聖句

万軍の主はこう言われる。あなたがたに触れる者は私の目の瞳に触れる者だ。(ゼカリヤ書2:12)
あなたがたが、これらの私の兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、私にしたのです。(マタイ25:40)

他人の目の瞳なんて、触ることは絶対にできません。一番の急所です。第一、指を人に伸ばしてきたら目をつぶってしまうし、絶対にそれを拒絶します。それでもなお目の瞳に触れてくる。主なる神様は言われます。「あなたがたに触れる者は私の目の瞳に触れる者だ」と。目の瞳のように私はあなた方を大事にしている、と言われるのです。
この「あなたがた」とは一体誰のことか。そのことについて、今日のローズンゲンは新約聖書に記された主イエスの御言葉を手がかりに明らかにしています。「あなたがたが、これらの私の兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、私にしたのです。」主がご自身の兄弟と呼ぶ者たち、しかも最も小さい者の一人。それが、主がご自身の目の瞳のように大事にする者たちだ、と。
更に、この主イエスの御言葉が語られている文脈を気にしてみると、「最も小さい者」とは誰を指しているのかが明らかになってきます。それは、飢えている人、喉が渇いた人、宿のない見知らぬ人、着る物のない裸の人、病気の人や牢に囚われている人。そういう人々のことです。この人たちのためにしたことは私にしたのである、と主は言われます。
この主イエスさまの御言葉は、たくさんの人々を励ましてきました。マザー・テレサも、この御言葉を胸に、愛の業に生きたそうです。トルストイはこの御言葉によって靴屋のマルチンの話を書きました。私たちは、この主イエスさまの御言葉を聞いて、今日をどのように生きるのでしょうか。私たちの前に現れる「最も小さな者」は、主がご自分の目の瞳のように思っておられる存在です。私たちが出会う最も小さな人にしたことは、主がご自身にしてくれたこととして御心に刻むとおっしゃるのです。私たちは、どのようにこの御言葉を聞き、そして今日を生きるのでしょうか。

2023年3月5日日曜日

2023年3月5日の聖句

今週の聖句:
キリストが私たち罪人のために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。(ローマ5:8)

今日の聖句:
主が語ると、そのように成り、主が命じると、そのように立った。(詩編33:9)
百人隊長のイエスへの言葉:主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの子はいやされます。(マタイ8:8)

主は御言葉によってこの世界をお造りになりました。神が「光あれ」と言われたから光が生まれました。神が「水は群がる生き物で満ち溢れ、鳥は地の上、天の大空を飛べ」と言われたので、水の中の生き物や空を飛ぶ鳥が生まれました。同じように、神が人をお造りになった。そして「宮井岳彦あれ」と神がおっしゃったから私は生まれましたし、それは皆さんお一人おひとりも同じです。神さまの御言葉によって、私たちは存在し、ここに生きています。「主が語ると、そのように成り、主が命じると、そのように立った。」
百人隊長が登場します。この人の息子は麻痺を起こし、家で倒れてひどく苦しんでいました。彼はその事実を主に伝えた。すると、主イエスが言ってくださったのです。「私が行って癒やしてあげよう。」しかし百人隊長は言います。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの子はいやされます。」私だったら、「ありがとうございます。急いできてください」と言うだろうと思います。しかしこの人はそう言わなかった。私はあなたをお迎えできるような人間ではありません。むしろ、ひと言おっしゃってください。御言葉をください。この世界を造った御言葉を、私の息子に命をくださった御言葉を下さい。そうすれば、私の子は癒やされますから。
主の御言葉への信頼。この人はただそれだけに生きました。自分の子どもの命を必ずこの方は救ってくださると信じ、御言葉を待ち望みました。今日、この主の日、私たちも御言葉を待ち望みます。キリストが語り、私たちに福音を告げる御言葉を。私たちを生かす命の言葉、神の愛の言葉を。「キリストが私たち罪人のために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」
キリストの祝福があなたにありますように。

2023年3月4日土曜日

2023年3月4日の聖句

主の仰せこそ清い仰せ。土の炉で精錬され、七度純化された銀。(詩編12:7)
私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。(ヨハネ6:63)

天然の銀は土の中でいろいろな物と混ざった鉱物として産出されます。炉で燃やして、純化する。しかもそれを七回も繰り返す、と言います。より純度の高い、鉱物として獲れたときからすると見違えるような輝きを放つようになるのでしょう。主の仰せはそのような尊い銀よりもなおのこと清く、純粋で、輝きに満ちていると言います。
この詩編の文脈では、「主の仰せ」というのは具体的な意味を持っています。直前の6節に主の言葉が記されています。「主は言われる。『苦しむ人が虐げられ、貧しい人が呻いている。今こそ、私は立ち上がり、あえぎ求める者を救いに入れよう。』」苦しむ人、貧しい人の呻きやあえぎを忘れることなく、耳を傾け、心に留めて救ってくださる神様。この救いを宣言する主の仰せ。これこそ土の炉で七度精錬した純銀に譬えられる主の清い仰せです。
聖書は私たちへの神の救いの宣言です。私たちを救う神の御言葉です。私たちは聖書の語る福音を、どんな銀や金よりも尊く聞き、これによって命を頂いています。ここに私の救いがある。ここに私の命がある。私たちはそう信じています。
「私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」主イエスさまの言葉です。ここで主イエスは、ご自身の言葉が霊であるとおっしゃいました。少し不思議な言葉です。キリストご自身の霊によって、福音の御言葉を語りかけているのだ、ということでしょう。あるいは、私たちに命を与えるキリストの霊は、キリストの御言葉によって私たちに働いている、ということだと思います。キリストの言葉、福音の言葉が私たちに命を与えてくださる。
それは、キリストの言葉が私たちへの救いの宣言だからです。私たちはこの福音を聞くために、教会に行きます。キリストの命の言葉を聞くために礼拝へ上ります。主イエス・キリストがご自身をかけて私たちに告げる尊い仰せ、主の仰せを聞くために、私たちは礼拝へ招かれています。

2023年3月3日金曜日

2023年3月3日の聖句

あなたは私の両足を広々とした場所に立たせてくださる。(詩編31:9)
(神があなたがたに、神を深く知ることができるようにし)心の目を開いてくださいますように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、悟らせてくださるように。(エフェソ1:18)

本当にすてきな御言葉だなと思います。広い場所!そのようなところに立ちたい、と心から思います。私たちが今いるのはどのような場所でしょうか。もちろん、家の広さの話ではありません。心のありようと言う方が近いでしょうか。そう考えると、広い場所というのは、悩みや苦しみなく伸び伸びとすることのできる場所、という印象を受けます。
今日の詩編の直前にはこのように書かれています。「あなたは私の苦しみを見つめ、私の魂の苦悩を知っておられる。あなたは私を敵の手に渡さず・・・。」ここを読むと、広い場所という言葉だけを考えていたときとは少し印象が変わります。今苦しんでいて、魂が苦悩を味わっていても、それでもなお広い場所にいることができる。神が私を敵の手に渡さないでいてくださるから。敵が目の前にいても、その敵が私をどんなに苦しめても、神は私をご自分のものとし続けてくださっているから。だから、苦しみや苦悩の中ででも、私は広い場所にいる。広い場所に立っている。神は私の両足を広い場所に立たせてくださっている、と言っているのではないでしょうか。
「(神があなたがたに、神を深く知ることができるようにし)心の目を開いてくださいますように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、悟らせてくださるように。」今日の新約の御言葉を読むと、神が私たちの心の目を開いてくださって、神の招きによる希望を悟らせてくださいますように、と言っています。神が悟らしめてくださらないと分からない希望、ということです。誰が見ても自明な、多くの人にとってのよいこと、ではない。神が悟らせてくださって初めて明らかになる希望。それは、苦しみの日にも広い場所に立つことのできる希望です。そのような希望は、私たち以上に深く苦しみを知っておられるお方によってでしか、得ることはできません。主キリストだけが、私たちに希望を見せてくださる。一人の罪人として十字架にかけられたお方に隠れた希望。私たちのために神が明らかにしてくださった希望が、ここにあります。

2023年3月2日木曜日

2023年3月2日の聖句

主のヤコブへの言葉:見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたのこの地に連れ帰る。(創世記28:15)
あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(1テサロニケ5:24)

主なる神様がヤコブに告げたこの言葉、これを主は今日私たちにも告げてくださっています。「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたのこの地に連れ帰る。」
主なる神様は、私たちと共にいてくださいます。今例え私たちがどのような私であったとしても、どのような状況にあっても、神様は私と共にいてくださる。私たちはそのことを信頼してよいし、それだけが私たちの慰めであり、励ましです。
「この地」と言っています。神様はアブラハムに、イサクに、ヤコブに、「この地」を与えると約束してくださいました。ですから「この地に連れ帰る」というのは、単に懐かしの我が家に帰ることができるとか、いつかは家族と再会できるとか、そういうことには留まらないもっと深い意味があると思います。主なる神様はご自分の約束を、決してヤコブからはなしてしまうことがないと言ってくださった。神様は決してヤコブを見捨てない。ヤコブをご自分の契約のパートナーとし続けてくださる。そういう言葉です。そして、それが「わたしはあなたとともにいて」という約束の意味です。
この約束は、ただただ、神様ご自身の真実にかかっています。「あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。」私の真実ではないし、私の熱心さや心の清さではない。神様ご自身の真実が私を救ってくださる。私を見捨てることなく、神様の約束の対象とし続けてくださる。それは、神様の真実が貫かれるから起こる出来事です。私の今日一日も、この神の真実に支えられている。神は共にいてくださる。そのことを信じ、新しい一日に出て行きましょう。

2023年3月1日水曜日

2023年3月1日の聖句

王はダニエルに言った。「お前たちの神こそ神々の神、王たちの主だ。」(ダニエル2:47)
(パウロの言葉)「アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられうますか。信じておられることと思います。」アグリッパはパウロに言った。「短い時間で私を説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」(使徒26:27~28)

今日の新約聖書に登場するアグリッパ王というのは、主イエスがお生まれになったときに幼児を虐殺したヘロデ大王のひ孫に当たる人物のようです。正式な名前はヘロデ・アグリッパ二世。紀元70年にエルサレムの神殿をローマ皇帝と共に破壊した人物だそうです。使徒パウロはそのアグリッパ王の前に立っています。
パウロはしばらく前に逮捕されていました。主イエスを救い主として宣べ伝えたことが問題視された。その後彼は最高法院で取り調べを受け、ローマから派遣された総督の下へ護送され、ローマ市民権を持っていたことから皇帝に上訴し、それにともなってユダヤの支配者であるアグリッパ王の前に立たされ、弁明することになった、というのが今日の場面です。この後、ローマに護送されていくことになります。
つまり、パウロは次々と時の権力者の前に引きずり出されたのです。一瞬でパウロの首なんてはねられてしまいかねない状況です。しかし、そこでもパウロは主イエスの福音を証しし続けました。それは、使徒言行録23:11、すなわちパウロが最高法院で取り調べられていたころのことですが、このようなことがありました。「その夜、主がパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムで私のことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。』(23:11)」パウロは主ご自身の励ましによって、アグリッパ王の前でも主を証しし、王に「短い時間で私を説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」とまで言わしめたのです。
今日の旧約に登場してくる「王」は外国の王であり、他の神々を信じている王です。しかしこの王もダニエルの信仰を目の当たりにして「お前たちの神こそ神々の神、王たちの主だ」と言いました。そう言わざるを得なかった。
ダニエルもパウロも、証しの人でした。しかしその証しの力は、彼らの固有の力ではなく神がくださったものです。私たちも同じ証しの人としてくださっているのです。

2024年5月22日の聖句

主はその民を贖い、契約をとこしえに定めた。(詩編111:9) この方(イエス・キリスト)こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。(1ヨハネ2:2) 主が民をご自分のものとしてくださった。御言葉はそのように宣言します。私たちも神の民、神の...