2022年11月30日水曜日

2022年11月30日の聖句

この方は疲れた者へ力を与え、
強さを貧しい者へ与えられる。(イザヤ40:29)
イエスは言う:私が命のパンです。私のところへ来る者は飢えません。また信じる者は、もはや決して渇くことがありません。(ヨハネ6:35)

今日、私たちは招かれています。イエス・キリストによって。キリストご自身の御許へ。この方は私たちのための命のパンです。私たちが飢えていてもこの方から食べ、渇いていてもこの方から飲めば、私たちは救われる。そう宣言しながら、キリストは私たちを招いてくださっています。
私たちは必ずしも、毎朝、喜びをもって目覚められるわけではありません。朝起きた瞬間から心が曇っていることもあるでしょう。それどころか、思い患いのせいで夜眠れないことだって珍しくないかも知れません。今朝はどうでしたでしょうか。
キリストは、それぞれの思いで朝を迎えた私たちを、今日新しく招いておられます。「私が命のパンです。私のところへ来る者は飢えません。また信じる者は、もはや決して渇くことがありません。」このお方はご自身を命のパンとして差し出してくださいます。ご自分を私たちに分け与えてくださいます。コロナになってすっかりできなくなってしまいましたが、以前、私たちの教会では聖餐のときに一枚のパンを分け合っていました。最初は丸いパンを牧師が裂き、長老が礼拝者のところへ届けます。礼拝者はそれを小さくちぎって分け合います。全員が受け取ってパンが戻ってくると、ボロボロに小さくなって帰って来ます。私はそれが好きです。キリストは私たちにご自分を裂いて渡してくださいました。私たちのためにご自分の体をちぎって、ご自分の命そのものを与えてくださいました。キリストが分けてくださる命のパンによって、私たちは生きています。
この方は疲れた者に力を与えてくださる方です。この方は貧しい者に強さを与えてくださる方です。主イエス・キリストの下さる命によって、私たちは今日というこの新しい一日を生きていきます。

2022年11月29日火曜日

2022年11月29日の聖句

若者たちは疲れ果て男たちは躓いて倒れる、
しかし主を待ち望む者は、新たな力を得て鷲のように翼を拡げて舞い上がる、
彼らは走っても弱らない。(イザヤ40:30~31)
ですから、私の子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。(2テモテ2:1)

どんなに若くて力強くても、勇士のように勇ましくても、力が尽きてしまったり気力が萎え果ててしまうことがあるでしょう。誰にでもあります。もう何もすることができなくなってしまったり、立つこともできなくなってしまったりすることが。
若いときには、自分には人生経験が足りないからできないとか、周りの人に若造扱いされて認めてもらえないからできないとか、考えがちです。しかし年を取れば、自分はもう若くないから体力も気力も保たないと思いがちです。人間として私たちの目につくものは、私たちの最後の力を奮い立たせる理由にならない。本当に辛い状況に追い込まれたとき、若いからとか経験を積んだからとか、男だからとか女だからとか、体力があるからとか知力があるからとか、そういうことは最後の最後で支えにならなくなってしまうのではないでしょうか。
「しかし主を待ち望む者は、新たな力を得て鷲のように翼を拡げて舞い上がる、彼らは走っても弱らない。」聖書はそのように言います。主を待ち望む者。それがすべてです。それだけが、どんなときにも変わることがなく、どんなにときにも支えであり続ける事実です。私たちがどのような者かということに関わりなく、私たちが強いか弱いか、年をとったか若いかに関わらず、どんなに望みがなかったとしても力を与える泉です。主を待ち望む者、主イエス・キリストを望みとする者。その人には、どのようなときにも、最後の最後にいたるまで支えとなるよすががある。
「ですから、私の子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」キリストの恵みがあなたを強める。どのようなときにも変わることのない恵みがあなたを支える。使徒パウロはそのように宣言します。主イエス・キリストの恵みと平和が、今日もあなたにありますように。

2022年11月28日月曜日

2022年11月28日の聖句

エルサレムよ、わたしはあなたの城壁の上に見張り番を置いた。終日終夜、彼らは一時も黙っていてはならない。(イザヤ62:6)
より確かに私たちは預言を持っています。だから夜が明けて明けの明星があなたがたの心に昇ってくるまで、その預言を、闇に輝く光として注意を払う方がいいのです。(2ペトロ1:19)

今日の新約聖書には「預言」という言葉が出てきます。少し唐突な感じを受けるかも知れませんが、聖書を開いて前後を読んでみると、主イエスが洗礼を受けたときに天から響いた声である「これは私の愛する子、私の心に適う者」という言葉を意味しているようです。つまり、主イエス・キリストを証しする聖書の言葉のことを言っている。主イエス・キリスト。この方こそ神の子、救い主。この事実が、そしてこの事実を証しする聖書の預言の言葉が、闇の中に輝く光だと言うのです。
夜が明けて、輝く明けの明星が私たちを照らす。私たちはキリストという光に照らされている。私たちはもはや暗闇の中にいるのではなく、キリストの光に包まれている。それが聖書の見ている現実です。
「私はあなたの城壁の上に見張り番を置いた」と書かれています。昼も夜も見張り番はそこに立ち、敵が攻めてくれば仲間たちにそのことを知らせます。しかし、このイザヤ書第62章に登場する見張り番は、敵を待ち構えているのではありません。救いを待ち望んでいる見張りです。主が来てくださることを待っている。花嫁が花婿を待ちわびるように、救い主キリストが来てくださることを待ち続ける見張りです。昼も夜も待ち続ける。黙ることはできません。救いの良き知らせを証しし続ける。キリストの光が既に照っている。私たちは輝く明けの明星、キリストの光に照らされている。闇が深まり、もう朝の光が射している。この福音を語り続けます。
礼拝は、この福音に私たちが触れる何よりのときです。私たちは朝の光であるキリストの光に包まれている。真夜中であっても、キリストの光が私たちを照らししている。この現実を、どうかご覧になってください!今自分は闇に包まれていると誤解しないでください。どこを探しても希望がないと思い込まないでください。もうすでに明けの明星が輝いているのです。キリストが私たちの闇の中に来てくださったのです。だから、もう大丈夫。救いは来たのです。

2022年11月27日日曜日

2022年11月27日の聖句

あなたたちは注意して、あなたたちの神、主があなたたちと結ばれた契約を忘れず、
あなたの神、主が禁じられたいかなる形の像も造らぬようにしなさい。(申命記4:23)
キリストは見えない神の似姿であり、すべての被造物の長子です。(コロサイ1:15)

「見えない神の似姿」というのは、とても興味深い言葉です。「見えない」のに「似姿」と言うのです。見えないのにどうして似ていると分かるのか、と言ったら屁理屈でしょうか。キリストが見えない神の似姿でいらっしゃるとは、いかなることなのか。
そもそも、神が見えないお方でいらっしゃるとは何を意味しているのでしょう。旧約聖書では、繰り返し刻んだ像を造ってこれを拝むなということを厳しく命じています。今日の聖句でも「あなたの神、主が禁じられたいかなる形の像も造らぬようにしなさい」、そのことによく注意しなさいと言っています。見えないはずの神を像を刻んでこしらえるというのは、神様に対するイメージの押しつけです。我が家では、毎晩寝る前に子ども聖書を読んで祈りをしています。今ちょうど、イスラエルの人たちがモーセと共にエジプトを脱出し、シナイ山に行ったところを読んでいます。モーセは山に登って十戒をいただきました。ところがその間、民はモーセを待つことができず、金の子牛の像を造ってこれを礼拝し始めていました。金の子牛は、自分たちの不安の埋め合わせです。あるいは、不便な荒れ野暮らしの便利さを整える象徴です。つまり、安心で便利な生活を求める民の願望の押しつけです。ところがまことの神様は、全く自由なお方です。私たちが神様のお姿やお顔を決めつけて押しつけることは許されません。まったくできないこと、してはならないことです。
しかし、私たちは神様を知ることができます。いかなるお方なのか。どのように私たちのことをお考えなのか。それは、イエス・キリストを通して知らされました。神は、私たちにイエスというご自分の独り子をお与えになるほどに私たちを愛してくださいました。神は、イエスというお方によって、私たちを罪の中に捨て置かずに福音を届けてくださいました。イエス・キリストが神の愛を明らかにしてくださいました。私たちのための神様の情熱を示してくださいました。キリストは私たちに、神を慈しみに満ちた父として紹介してくださいました。この神のお姿は私たちの願望の押しつけではなく、神ご自身がお遣わしになったキリストが見せてくださったものです。
キリストは見えない神の似姿です。この方を見つめれば、私たちにも神様がいかなるお方なのかが分かる。そして、キリストを私たちに見せ証言するために、聖書が私たちのところへ届けられたのです。

2022年11月26日土曜日

2022年11月26日の聖句

主の前を私は歩む。生ける者の地で。(詩編116:9)
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。神にとっては、すべての者が生きているのです。(ルカ20:38)

詩編第139編に、このような言葉があります。
「天に登ろうとも、あなたはそこにおられ
陰府に身を横たえようともあなたはそこにおられます。」
「闇はあなたには闇とならず
夜も昼のように光り輝く
闇も光の変わるところがない。」
それは、光も闇も、神様に造られたものだからです。天も陰府も、神様の御手の内にあります。神様がおられない場所はない。私たちの生きることも死ぬことも、すべて神様の御手の内にあります。
だから、主イエスさまは宣言なさいます。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」と。私たちの生も死も、すべて神様の御手の内にあるからです。私たちにとっては死は滅びです。しかし、神様は私たちが陰府に降ってもそこにおられ、私たちが闇に沈んでも、その闇の中にもおられます。神様に比べれば、私たちが闇だと思っているものもなお明るい。生も死も、光も闇も、神様の御手の中にあるから。
私たちは神様を呼びます。神様は私たちを生きる者としてくださいます。私たちの死を超えて、私たちは神様にあって生きる。生きる者として神様を呼ぶ。その私たちに、神様は必ず御顔を向けてくださいます。
「主の前を私は歩む。生ける者の地で。」この「主の前を歩む」というのが最も大事なことです。主の御前で、私たちは生きる者になる。私たちは主の御前に生かされています。私たちが死の床に就き陰府に赴くときにもなお、キリストは私たちと共にいて命をくださる。キリストが私たちを起こしてくださいます。

2022年11月25日金曜日

2022年11月25日の聖句

主は太陽を昼に与えて光とし、月と星を夜に与えて光とする。この方は海を動かして波は荒れ狂う。(エレミヤ31:35)
私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちはいたるからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。(1コリント8:6)

キリストが私たちにご自分の父として紹介してくださった神は、唯一の神だと聖書は訴えかけます。「この神からすべてのものは発し、この神に私たちはいたる」と言っています。これは、考えてみると、驚くべき言葉ではないでしょうか。
聖書は、世界が偶然できたとは言いません。たまたま始まったとも言いません。すべては神様から始まった。そうであるならば、この世界には意味があるはずです。そして、神様から「すべてのもの」が発した、と言っています。古代世界には、たくさんの創造神話のようなものがありました。日本には、日本書紀の天地開闢物語が伝えられている。これは典型的な「神話」の例です。例えば、天の橋に立って矛で混沌をかき混ぜて日本列島を造ったとされるイザナギとイザナミは、神武天皇の七代先祖とされているそうです。神々が作った国に、神の子孫たる王がいる。つまり、天地開闢物語は支配者の権威付けのための物語です。ところが、聖書は天地のすべてを神がお造りになったと言います。その上、神様と王は、変な言い方ですが、他人です。神の存在は王の権威付けとしては機能しない。聖書はそれを断固拒否します。むしろ王の罪を、そして王を含めたあらゆる人間の罪を赤裸々に暴露します。しかもその上で、すべてのものは神から発し、神にいたると言う。神がすべてをお造りになり、やがて罪から救って完成へと至らしめる。壮大な救いの物語に、すべての人や世界が招かれている。
私たちには、唯一の主なるイエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの神であり、私たちの救いです。すべての人の救いです。すべての人を愛する神の愛そのものでいらっしゃいます。太陽も月も、神に光を与えられました。太陽や月は、古代社会では神々と信じられ、崇められていました。しかし本当のところ、それも神に与えられた光です。キリストが父とお呼びになったお方こそが唯一の神。この方こそ、私たちがどんなに深い罪の暗闇に沈んでいても光を照らしてくださる救いの神、絶対的な愛の神でいらっしゃるのです。
キリストに、賛美。

2022年11月24日木曜日

2022年11月24日の聖句

主はこう言われる:私は恵みのときにあなたに応え、救いの日にあなたを助けた。(イザヤ49:8)
見なさい。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。(ルカ17:21)

キリストが私たちに示してくださった救いは、神の国が来る、という救いです。「時は満ち、神の国は近づいた」というのは主イエスの宣教の第一声です。神の国は近づいた。救いは来た。キリストはそのようにして福音を宣言なさいました。
もう、神の国は来ている。主イエスは神様の起こす救いの現実、私たちの目にはまだ見えていない救いの現実を見せてくださいます。そうすると、私たちはまだそれを見ていないので、現実的ではないなと思います。聖書はそう言っているかも知れないけれど、私の生活に何の意味があるのと、つい思い込んでしまいます。神の国はどこに来ているのか。あそこか、ここか・・・?一体どこを見たら、神様の救いが分かるのか。納得できるのか。
しかし、主イエスは、神の国は「あそこにある」とか「ここにある」と言って探し回る必要はないと言われます。「見なさい。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
神の国はあなたの心の中にあります、とは主イエスはおっしゃいませんでした。あなたの周りにあるともおっしゃいませんでした。「あなた方のただ中に」、です。独りぼっちの私ではなく、共に生きる神の民、教会に神の国がもう来ている、と言われるのです。
私たち教会の営みは、キリストを礼拝し、キリストの言葉を聞き、キリストのお体であるパンとキリストの血である杯に共にあずかります。独りぼっちでそれをするのではなく、キリストが造ってくださる共同体の中で、私たちは福音を味わいます。キリストに共にあずかるとき、私たちは神の国を味わっています。私たちは救いの前味を既に味わっているのです。
「私は恵みのときにあなたに応え、救いの日にあなたを助けた。」神の下さる恵みの日、私たちはキリストを賛美します。神の起こしてくださる救いの日、私たちは神の助けを喜びます。神様の御前にある私たちを、キリストは決してお忘れになることがありません。私たちは主キリストを共に喜ぶことによって、一つになるのです。何とすばらしい出来事でしょうか!

2022年11月23日水曜日

2022年11月23日の聖句

高く挙げよ、門戸らよ、自らの頭を、
立ち上がれ、太古の門扉よ、
栄誉の王がお入りになる。(詩編24:7)
自分を受け入れた者は誰でも、すなわち自分の名を信じる者たちには、この方は神の子となる力を与えた。(ヨハネ1:12)

門戸は頭を上げ、太古の門扉は立ち上がって開き、栄誉の王である神がこらえるのをお迎えせよ、と言います。新約聖書では、主イエスさまが「自分を受け入れた者」を神の子とする、と言います。主イエス・キリストが来られるのを待ち、お迎えする信仰に生きる者。すなわち、私たちのことです。キリストは私たちを神の子としてくださる。
伝統的な教会の暦では、この前の日曜日は「王であるキリスト」と名付けられた祝日です。教会の暦の一年の最後の日曜日です。私たちは王であるキリストを礼拝し、この一年を終える。そして、私たちの元へ再び来てくださるキリストを待ち望むアドベントに入っていきます。アドベントに私たちが待ち望むのは、私たちの王であるキリストです。
王キリストを待ち望む信仰に、生きておられますか。コロナになってからなくなってしまいましたが、少し前には学校の先生の家庭訪問という行事がありました。先生が各家庭にまわってこられる。私が子どものころを思い出してみると、明日先生が来られるとなると家の中がきれいになっていました。教会の家庭集会がある日も、いつもよりもずっときれいになっていました。大切な人をお招きするとき、私たちは家をきれいにします。王キリストをお迎えするための準備を、私たちはどのようにしているでしょう。しかもこの王は私たちを神の子にしてくださる王です。私たちは王である方の弟妹として、神の子とになる。この方が来てくださる、それが私たちの希望です。私たちの救いが実現する日です。その時を待ち望みつつ、私たちは今日の日を生きていきます。

2022年11月22日火曜日

2022年11月22日の聖句

ご自分に忠実なものを守られる方は、彼らの無法の者の手から救い出される。(詩編97:10)
すべてにおいて、私たちは自分たちが神への仕え人であることが分かります:鞭打たれるとき、監獄で、暴動のとき、労苦にあって眠れない夜に、飢えるとき、名誉のとき、恥辱のとき、そして悪評を受けるときも好評を博するときも、人を騙しているようで真実であることを表しますし、未知であるようで知られており、死んでいく人であるようで、ごらんなさい、私たちは生きています。(2コリント6:4,5,8~9)

今日の新約の御言葉の最後のところ、「死んでいく人であるようで、ごらんなさい、私たちは生きています」という言葉の「ごらんなさい」という一句が私は好きです。パウロは自分の受けた激しい迫害の話をしています。まるで死にゆく人のようにされている。それだけ辛い目に遭わされました。実際、パウロは鞭で打たれたり石を投げられたりしてきました。苦労を自慢しているわけではありません。主イエスさまのために受けた苦しみの中、死にゆくような私。しかし、見てください、私はキリストにあって生きているのです!パウロはそのように言います。キリストの命が、土の器のようにもろくて欠けやすい、今にも壊れてしまいそうな私の中で、宝のように光り輝いているのです。
だから、あらゆる苦悩の中でパウロは希望を持って生きています。好評や悪評という人間の評価にも心を奪われません。神様が私をどのようにご覧になっているか、主に喜んでいただいているかということだけを考えているからです。神様の目だけに関心を持っている。名誉にも恥辱にも動じることなく、キリストに仕えています。
それは、主キリストご自身が私のために恥辱や悪評を全部背負って十字架にかかってくださったからです。キリストの愛が私に迫り、私をただキリストだけに仕える者にしてくださった。それがパウロの自己理解です。パウロは、本当に自由な人です。人の目によって信仰を曲げてしまうのではなく、自分の評判を保つためにキリストへの愛を蔑ろにすることもありません。パウロが信念の篤い立派な人だからということではなく、キリストの愛を骨身に染みて知っているから、キリストに仕え抜きました。主なる神様が、今日も私を「無法の者の手から救い出される」と、固く信じているからです。
同じキリストの恵みと祝福が、今日も私たちに注がれています。キリストの愛が私たちに迫っている。私たちは死にかけているようでいて、ご覧ください、生きているのです!

2022年11月21日月曜日

2022年11月21日の聖句

私たちは神の前にへりくだり、行く道の無事を祈った。(エズラ8:21)
私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(ヨハネ14:6)

今日の旧約聖書が伝えているのは、エズラの旅の一場面です。旅の無事のために祈るひとりの信仰者。私たちも、今日一日の旅路の無事を神様に祈りましょう。私たちが行く道を神様が守ってくださり、また、私たちが今日出会う人々に神様の祝福を届けることができますように、と。
この祈りのためにエズラは神様の前にへりくだった、と書かれています。今日一日は、私の力や運によって成り立つのではなく、神様が守ってくださることでなすことができる、という信仰告白の姿勢です。私たちが生きる今日という日を、神様の御手の中においてください、と私たちも祈ります。
私たちは、今日この日に、主イエス・キリストという道を進んで行きたいと願っています。キリストが進まれた道であり、キリストご自身である道。父なる神様の御許へ続く道。真理の道です。いのちの道です。キリストが歩まれたように私も歩ませてくださいと私たちは祈る。私たちは自分の旅路のために祈るとき、ただ私が自分の行きたいところに無事に行けますようにとか、自分ひとりが安全でありますようにと祈るのではなく、キリストの道を歩ませてください、と祈ります。キリストが私にしてくださったように、私も共のためにすることができますように、と祈ります。キリストご自身が道だからです。キリストの真理によって、いのちを与えられたからです。
私たちの行くべき道の道標は、そのように考えると、主イエスさまが教えてくださった主の祈りなのではないでしょうか。私たちはこの祈りを口ずさみながら、その祈りの促す道に進んでいきます。キリストの歩みをこの私の歩みのリズムにするために、キリストと同じ言葉を口ずさみながら私も歩んでいきます。私たちはへりくだって、主イエスさまの祈りを口にしつつ、今日という日の旅を歩んでいきます。

2022年11月20日日曜日

2022年11月20日の聖句

立ち帰れ、不実な子どもたち、と主は言われる。
私はあなた方の主なのだから。
そして私はあなた方を呼び寄せ、シオンへと連れて行く。(エレミヤ3:14)
そして、彼はそこを立ち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて憐れに思い、走り寄って首を抱き接吻した。(ルカ15:20)

私たちの信じる主なる神様は、不実な子どもに「立ち帰れ」と言い続けてくださる方です。神様の、他とは比べられない深い愛とやさしさに満ちた言葉です。「立ち帰れ、不実な子どもたち。」私がどんなに不実であろうと、どんなに神様に背を向けていようと、神様はご自分の子として「立ち帰れ」と呼び続けてくださっています。呼んだ私たちが立ち帰るのを家の外に立って待ち、もしも帰って来たのなら「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて憐れに思い、走り寄って首を抱き接吻」してくださるのです。
聖書が告げる「救い」とは、神様の愛へ立ち帰ることです。今日の新約聖書は失われた息子のたとえ話の一節ですが、この息子は、父親(神様)なんて必要ないと思って家を飛び出しました。父のもとにいない方が人間らしく生きられると思いました。ところがその結果、人間らしさを失い、神様にいただいた命を損ねることになってしまいました。私たちの姿がここにある。しかし、私たちがどんなに駄目だったとしても、私たちの父である神様は私たちの想像も付かないほどの大きな愛を持って受け止め、抱きしめて下さる方です。「立ち帰れ、不実な子どもたち!」
神様の私たちへの愛は、私たちには想像も付かないほどに途方もないので、私たちにはときに疑わしく、理解しがたいものです。よく分からなくなってしまったり、理不尽に神様に怒りをぶつけてしまったり、神様なんていない方がマシだと思ってしまったり。聖書が私たちに見せる救いは、何よりも絶対で、何よりも確かで、何よりも大きい神の愛の中に私たちが帰ることです。私たちの本来いるべき場所、天の父の家、神の愛の手の中に立ち帰ること。あなたも神の子だ、と聖書は私たちに告げます。「立ち帰れ、不実な子どもたち。」神様は今日も私たちを待ち焦がれていてくださいます。

2022年11月19日土曜日

2022年11月19日の聖句

主は地の果てにいたるまで聞かせられた。「シオンの娘に言え:見よ、あなたの救いが来る。」(イザヤ62:11)
私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きな憐れみのゆえに、イエス・キリストが死者の中から甦られたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。(1ペトロ1:3)

私たちが毎日祈り聖書を読むときに思い起こすのは、自分が死ぬ存在である、ということです。私たちは毎日自分の死を思い、死を見つめます。それが信仰者の生へのまなざしです。
なんて暗いことを、と言われかねないかもしれません。しかし私たちは自分の死をキリストの光の中で見つめます。「神は、ご自分の大きな憐れみのゆえに、イエス・キリストが死者の中から甦られたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。」キリストが死者の中から甦られたから、私たちは新しく生まれた人間になりました。神様の憐れみがしてくださったことです。私たちは望みを持って自分の死を見つめます。自分には限界があることを深く知り、神様の前に謙遜になる。私たちは死ぬべき存在です。
主イエス・キリストの復活。この事実こそ、私たちの望みです。私たちの救いです。神が下さった福音のメッセージです。私たちは死んで終わりではない。望みが尽きて死を迎えるのではない。陰府に降ってもなお、そこにはキリストがおられるからです。
主は地の果てにいたるまで聞かせられた。「シオンの娘に言え:見よ、あなたの救いが来る。」
今日の旧約も、希望に満ちたすばらしい御言葉です。「見よ、あなたの救いが来る」と神様が地の果てにいたるまで宣言してくださいました。私たちにも、この宣言が届けられました。救いが来る。それを見よ!主は私たちに言ってくださいます。キリストは来られた。私たちのもとに。私の死の床にも。私の愛する者の死にゆくときにも。キリストは、救いは、来られたのです。

2022年11月18日金曜日

2022年11月18日の聖句

主はアブラムに言われた。「あなたの故国、あなたの親族、あなたの父の家から出て、私が示す地へと行きなさい。」(創世記12:1)
信頼とねばりを保ち続けて、神が約束されたことを受け取った人々を例にとってください。(ヘブライ6:12)

アブラハムはすべての信仰者の父とまで言われた人です。彼は、神様に招かれるままに旅に出ました。「あなたの故国、あなたの親族、あなたの父の家から出て、私が示す地へと行きなさい。」神様は、しばしば私たちにこのような命令をなさいます。私たちの教会の仲間の仲村オーランド先生と道子さんは、まさにそのようにしてペルーから日本に来られました。
キリストと出会うときに、私たちは誰もが同じように生まれ故郷、親族、父の家を離れる経験をするのではないでしょうか。私の尊敬する恩師、加藤常昭牧師は太平洋戦争のときに洗礼を受けました。まだ青年と言うには若い少年に近い年齢だったそうですが、洗礼を受けたときに自分は半分日本人じゃなくなったと思ったそうです。太平洋戦争のときのキリスト教会の立場を考えると、洗礼を受けるのはたいへんな決断だったと思います。半分日本人ではなくなった。もちろん、アメリカ人になるとかイギリス人になるとか、そのようなことではない。日本人であるという事実は変わらない。しかし、既に故郷を離れて、神の国の国民になっている。天皇の赤子ではなく、神の子として生き始めている。
「信頼とねばりを保ち続けて、神が約束されたことを受け取った人々を例にとってください。」新約聖書のヘブライ人への手紙はそのように言います。神が約束されたことを受け取った人々に倣うには、信頼と粘りが必要だと言います。アブラハム、オーランド先生、道子さん、加藤先生、そういった証人がたくさんいます。どの人も、神様に導かれて、故国や親族、父の家を離れて神に従っています。実家にいてはいけないという意味ではありません。半分日本人ではなくなる。これまでの家族の中にいた自分ではなくなる。その関係を大切にしながら、しかし新しい神様との関係に生き始めている。そして神様に遣わされた神の国の民として、故国に、親族に、家族に、私たちはもう一度出会うのです。

2022年11月17日木曜日

2022年11月17日の聖句

さあ、再び満ち足りよ、私の魂よ。主があなたに善いことをなさるからだ。(詩編116:7)
平和の主がどのようなときにも、あらゆる方法であなたがたに平和を与えてくださいますように。(2テサロニケ3:16)

ヘンデルのメサイアに、主イエスさまがお生まれになった夜、羊飼いが聞いた天使たちの賛美が登場します。このように歌います。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和あれ。人には善き御心があれ。」私たちの親しんでいる翻訳では、少し違う言葉になっています。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」実はどちらの理解も可能な言葉遣いをしています。どちらかというと、妥当性という意味では私たちが親しんでいる後者の訳文に軍配が上がるようです。しかし、私はヘンデルが用いた理解も好きです。神様の善き御心が、人々にありますように。これもまたクリスマスにふさわしい賛美です。
それを思い出したのは、今日の御言葉に導かれてのことです。「主があなたに善いことをなさる」と言っている。主のしてくださる善いことによって、私の魂は満ち足りる。あるいは、主なる神様はご自身が平和でいらっしゃるし、私たちにも平和を与えてくださる方。平和、それは神様の善き意志に他なりません。
私たちは神様の善きご意志によって、日々生かされています。私たちを支え、助けてくださる神さまのご慈愛が、私たちを包んでいる。神様を信じるというのは、神様の深い愛を信じることです。神様は私に罰を与えようとして待ち受けているのではなく、私を正体不明の運命によって弄ぶのでもなく、はっきりとした善きご意志をもって取り扱ってくださる方です。
そのようなことは到底信じようがない現実に、取り囲まれているかも知れません。ただ、飼い葉桶に生まれ、十字架にかけられたお方は、そのようなときにこそ私たちと共にいてくださいます。キリストがご自分の平和を今日私たちに与えてくださいます。キリストはあらゆる方法で、私たちに平和を与えてくださいます。

2022年11月16日水曜日

2022年11月16日の聖句

見よ、主を畏れること、これが知恵であり、
悪を避けること、これが分別です。(ヨブ28:28)
ですから、自分の内の光が闇にならないように気をつけなさい。(ルカ11:35)

今日の新約聖書の御言葉の直前の34節にはこのように書かれています。
「あなたの目は体の灯である。目が澄んでいれば、あなたの全身も明るいが、目が悪ければ、体も暗い。」そしてそれに続いて、今日の御言葉にいたります。「ですから、自分の内の光が闇にならないように気をつけなさい。」
私たちの光である目が曇り、悪くなって、光が闇になってしまわないように気をつけなさい、と言うのです。
確かに目は光を感じるための器官ですから、自分の体、つまり自分自身にとって目が光だというのはその通りなのかも知れません。しかしこれは象徴的な言葉なのでしょう。私たちは何を見ようとしているのか、何に目を向けているのか。それによって、例え肉体の目が開いていても暗くなってしまうことがある。目が悪くなって、光が闇になってしまう。そういうことがあるのではないでしょうか。あるいは逆に、盲目の人であっても、その心の目をどこに向けるかによって、闇ではなく光の中に生きているということに違いないと思います。
私たちの目は何に向かうとき、まことに体の光と呼ぶにふさわしくなるのか。それを示すのが、今日の旧約聖書の御言葉です。「見よ、主を畏れること、これが知恵であり、悪を避けること、これが分別です。」主を畏れ、悪を避けて生きること。主なる神様にこの目を向けるとき、私たちの目は光なのです。
先だって、皆既月食がありました。私もずいぶんと長い時間月を眺めて楽しみました。少しずつ月が欠けて暗くなっていき、皆既食になると今度は赤銅色に変わります。幻想的です。普通の満月も、あるいは他の日の月も、そして月食になっていても、すべては太陽の光を受けて光っています。その当たり方や地球との位置関係によって、あのような不思議で美しい色になる。私たちの「目」は、月と同じようにそれ自体が光ることはできません。私たちを包む光があるから、初めて体の光として機能することができます。私たちは主なる神様という光の中で、初めて光として生きることができる。その平安、その救いは、どんなにすばらしいことでしょう。キリストの光の中を、今日も生きていきましょう。

2022年11月14日月曜日

2022年11月14日の聖句

神である主はこう言われる。「立ち帰れ。あなたがたのすべて偶像から身を翻せ。」(エゼキエル14:6)
この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば神のみこころは何か、すなわち何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。(ローマ12:2)

「あなたがたのすべての偶像から」と言っています。私にも偶像がある、と言っている。ここで言う「偶像」とは、必ずしも木や石を刻んで造り上げた像ということではないと思います。あるいは、それに限らないと言った方が適切でしょうか。私たちの心を捕らえるあらゆる偶像から身を翻せ、と主なる神さまはおっしゃいます。
そのことを新約聖書では「この世と調子を合わせてはいけません」と表現しています。この世と調子を合わせるときに、私たちはいつの間にか、知らないうちに偶像に捕らえられてしまっているのではないか。
例えば、このようなことを考えても良いかもしれません。この数年、コロナのためにいろいろな経済活動が停まったこともあり、また戦争の影響もあって、物価が高騰しているのに給料は増えないという現象が続いています。だから日本はもっと成長しなければならない、と言われます。一方では確かにそうなのでしょう。社会の誰もが最低限に文化的な生活を維持するためには。しかし一歩立ち止まったときに、ここで言われている「成長」というのは一体何でしょうか。社会が言う「成長」は、ほとんどの場合、経済成長のことです。もっと言えば、GDPが大きくなることでしょう。国内で生産されたものやサービスの付加価値の合計です。しかしここでは、例えばボランティア活動のようなものは無視されます。家族や地域共同体の絆も計算に入りません。しかし経済的な規模はそこそこでもボランティアが盛んな社会と、経済的には巨大だけれどもお金が動かなければ誰も何もしない社会と、どちらが豊かなのでしょうか。この世が常識的にいちばん大事だと考えている価値は、本当に私たちを豊かにするのでしょうか。それは決して当たり前の前提ではないと思います。いつの間にか、当たり前のことや常識と思われていたことが、私たちを捕らえて放さない偶像になってはいないでしょうか。
神の御心は何でしょう。神さまは何を良しとされ、何をお喜びになるのでしょう。私たちは自分が出会う一つひとつのことについてそれを識別し、祈りの内に決断しなければなりません。どこに偶像ではなく主なる神さまを拝む道があり、それを実際に生きることになるのか。そしてその道は、私たちの本当に深い幸福の道です。なぜなら、私たちを愛を込めて造り、いのちを与えてくださった神さまの御心が、この道を整えてくださったのですから。

2022年11月13日日曜日

2022年11月13日の聖句

するとギデオンは言った。「もし私がみこころにかなうのでしたら、私と話しておられるのがあなたであるという徴を私に見せてください。」(士師記6:17)
私たちが何かをこの方の意思に沿って願うならお聞きくださる。このことが私たちの確信の基礎です。(1ヨハネ5:14)

ドイツのある讃美歌に、このようなものがあるそうです。
「私どもが心から請い求めることを、このお方は聞き届けてくださいます。
このお方は私どもが願い、理解していること以上に、
やさしさに満ちておられます。」
主イエス・キリストへの愛と信頼に満ちた歌詞です。このお方は私たちが心から願うことを聞き届けてくださる。私たちの祈りを聞いてくださるお方。私たちは祈りの度に、主イエスさまへのこのような信頼を新たにしたいと願います。
士師ギデオンはとても慎重で、どちらかというと疑り深い人物でした。神さまに仕えて働こうとするときにも、あまりホイホイその道を選ぶということではなく、慎重に慎重を期して決断しました。何よりも、「私と話しておられるのがあなたであるということ」について、慎重でした。そのための徴を見せてくださいとまで言います。
私に語りかけておられるのは、私を導いておられるのは、本当に神さまなのか。あるいはそうではなくて私が勝手に勘違いをして、神さまの御心だと思い込んでいるだけなのではないか。その一点を問い続けるということは、とても大切な信仰者としてのあり方ではないかと思います。神さまはギデオンの願いを聞き届け、彼に徴を見せてくださいました。神さまはご自分の御心に適う願いを聞き届けてくださる方です。私たちは深く神さまを信頼するからこそ、私の身勝手な願いや求めを神さまに押しつけてはいないか、そうではなく神さまの御心に謙虚に尋ね求める道はどこにあるのか、と祈りつつ探したいと願います。
深い神さまへの信頼に生きているからこそ、私たちは神さまの御心がなることが最善だと信じて、すべてを委ねるために祈りをささげるのです。

2022年11月12日土曜日

2022年11月12日の聖句

主に解放された者たちが帰ってくる。幸福感と喜びを彼らは得て、嘆きとため息は彼らから逃げ去る。(イザヤ51:11)
神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。(黙示録21:4)

自分の生活や毎日の暮らしを考えると、私たちには、いやになってしまうことも疲れてしまうことも、いくらでもあります。幸福感に包まれるときもあればそうではないこともあるし、焦燥感にさいなまれて本当に辛くなってしまうこともあります。今日の御言葉はそんな私たちの毎日の生活に光を照らす言葉です。
「主に解放された者たちが帰ってくる。幸福感と喜びを彼らは得て、嘆きとため息は彼らから逃げ去る。」「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」
どちらも、主なる神さまが私たちに何をしてくださるのかという一点に目を注いでいます。このような私であり、このような私の現実がある。そういう私たちを神さまはどう扱っておられるのか。主は幸福感と喜びを与えてくださる。嘆きとため息は逃げてしまう。神さまが私たちの目から涙をぬぐい取ってくださる。
もしかしたら、私たちの毎日の生活は、聖書が約束する慰めへの途上なのかも知れません。神が私の目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。まだ「ことごとく」ではないかもしれない。まだ私の目には涙が残ったままかも知れない。しかし、もう神はこの目の涙を乾かし始めてくださっている。主イエス・キリストが来てくださったからです。そして、完全に涙をぬぐい取り、もはや泣く必要がなくなる日が来る。キリストが再び来られるとき、神の救いの御業が完成する日が来る。私たちはその約束の日を目指して、今を生きています。
だから、私たちは嘆きやため息に埋もれそうになっても、なお希望を抱きます。私たちには望みがあります。主イエス・キリストが来てくださるからです。この目の涙をキリストがことごとくぬぐい取ってくださるからです。
長女がとても頑張って学校に行っているのですが、学校に行くとき、ときどき母親に言うのだそうです。お祈りして、と。不安なことや怖いことは私たちにはあるし、すべてをなくしてしまうことはできません。しかし、キリストは私たちと共にいてくださいます。私たちには消えてしまうことのない慰めと望みがある。キリストの手は、今日も私たちの頬に伸ばされ、この目の涙をぬぐい取ってくださっています。

2022年11月11日金曜日

2022年11月11日の聖句

主が与えて、主が取られた、主の名は称えられますように。(ヨブ1:21)
私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は本当に練られた実りを、本当に練られた実りは希望を生むということを。(ローマ5:3~4)

今日の新約聖書の御言葉は、4月まで礼拝で使用していた新共同訳や、或いはそれ以前の翻訳で暗唱している方が多いのではないかと思います。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」新しい聖書協会共同訳ではこのように訳されています。「苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです。」新共同訳では「練達」、聖書協会共同訳では「品性」と訳していた言葉を、「日々の聖句」では「本当に練られた実り」と訳しています。
この言葉を辞書で引くと、試練、試練によって確かめられるもの、証拠、などの意味があるようです。苦難が忍耐を生み、忍耐が「練達・品性・本当に練られた実り」を生む。苦しみによって練られ確かめられる私たちの人格や価値、ということでしょうか。苦しみは主にあって実りを生む。そしてその実りは希望を生み出す。だから、私たちは苦しみの中にあっても失望しない、と言っています。
今日、私たちにとって特別なのは、この御言葉がヨブ記の言葉と一緒に与えられているということです。「主が与えて、主が取られた、主の名は称えられますように。」ヨブは無垢な正しい人でしたし、非常に恵まれた人生を歩んできましたが、たちまちの内にすべてを失いました。その時に彼は言ったのです。「主が与えて、主が取られた、主の名は称えられますように」と。
先ほどの苦しみや忍耐、本当に練られた実り、希望というのは、単なる人生訓や標語にしてしまうことができない言葉です。それは、ヨブのような実際の私たちの苦しみの中でこそ響く言葉だからです。ヨブは本当に全部を失い、深く嘆きました。その嘆きの深さは、彼に親しい友人たちにも理解されないほどでした。それでもなお神を信じ続けるヨブの信仰も、彼の妻には理解されませんでした。ヨブは苦しみの中で、ただ神様だけに向かいます。神さまだけが自分の言葉を聞いてくださると信じ、訴え続けたのです。
本当に練られた実りというのは、深い嘆きをそれでも神さまにぶつけるところに生まれるのではないでしょうか。その実りは必ず希望を生み出す。ヨブを初めとして神を信じてきた無数の信仰者たちが、その事実を証ししています。

2022年11月10日木曜日

2022年11月10日の聖句

主にとっては、多くのもので助けるか少しのもので助けるかは重要なことではない。(サムエル上14:6)
ですから、あなた方が持つ信頼を捨てるな。それは大きな報酬があるのだから。(ヘブライ10:35)

私たちがこうして読んでいる聖書の御言葉は『日々の聖句』という小冊子に従っています。これはドイツにあるヘルンフート兄弟団というグループが既に300年近くにわたって発行しているものです。最近、この日本語版では、新共同訳や聖書協会共同訳、あるいは他の翻訳の聖書と並んで、ドイツ語訳の聖書を日本語訳したものも掲載されることがあるようです。ヘルンフートの人々が読んでいるドイツ語聖書の持つニュアンスをそのまま日本語に移そうと試みているようです。恐らく、今日の旧約聖書の御言葉はそういうものなのではないかと思います。ここを聖書協会共同訳ではこのように訳しています。「主が救いをもたらすのに、人数の大小は問題ではない。」
これはサウル王の息子であるヨナタンがペリシテ人と戦っていたとき、味方に対して主が私たちに救いをもたらしてくださると励ましている言葉です。私たちの人数が多くても少なくても、それを問題にせずに神さまが私たちを救ってくださる。
しかし今日の『日々の聖句』の日本語訳の元になったであろうドイツ語訳では、少し違う理解の仕方をしているようです。「主にとっては、多くのもので助けるか少しのもので助けるかは重要なことではない。」主が私たちを救ってくださるために、多くのものを用いて救うのも小さなものを用いて救うのも、大した問題ではない、神さまが救ってくださるのだから、ということであろうと思います。主が救ってくださるという事実自体に目を向けさせようとしている。これも、面白い理解だと思います。私たちには小さくてつまらない手段に見えたとしても、神さまはそのような評価をなさらない。神さまはどんなに小さくて弱くても、私たちがそれを蔑ろにしてしまっていたとしても、神さまの御業は進みます。どのようなときにも、神さまは救いのために進んで行かれるのです。
「ですから、あなた方が持つ信頼を捨てるな。それは大きな報酬があるのだから。」大きな報酬、と言います。これもまた面白い表現です。神を信頼することには大きな報酬がある。神さまはご自分を信頼するものを報いてくださる。私たちは自分の手にあるものや自分自身が強いか弱いか、大きいか小さいかということにこだわるのではなく、神さまを信頼し、神さまに依り頼んでいきましょう。

2022年11月9日水曜日

2022年11月9日の聖句

海が水でいっぱいであるように、そのように地は、主を知る知識で満たされる。(イザヤ11:9)
しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。(ヨハネ16:13)

今日のイザヤ書第11章は、クリスマスになるとよく読まれる箇所です。「エッサイの株から一つの芽が萌え出で」という月曜日に耳を傾けた御言葉から始まり、6節になると「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す」という平和のイメージが描かれています。救い主が来てその支配が地に及ぶとき、このような平和が実現する、と言います。「私の聖なる山のどこにおいても、害を加え、滅ぼすものは何もない」と神さまは言われます。そのような平和がなぜ実現するかと言えば、「海が水でいっぱいであるように、そのように地は、主を知る知識で満たされる」からだ、と今日の箇所に続いています。
主を知る知識で満たされるとき、私たちに平和が訪れる。この「知識」というのは、当然ですが、勉強によって得られる知識ということではありません。本を読んで調べて、書斎で研究をして獲得する知識ではない。神を知るというのは、神を崇めるために神を知るということです。そのようにして神を知るとき、私たちの間に平和が訪れる。
しかしその神を崇めるとか、神を知るということも、私たちが自分の力や精神力で獲得するものではありません。今、いろいろなカルト宗教が問題になっていますが、その過ちの一つはこの点にあると思います。信仰を自分の力で獲得すると考えると、私たちの営みはすぐに独善的で傲慢になります。私たちと無関係ではありません。信仰は、ただただ神さまが私たちに恵みとして与えてくださるものです。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。」真理の霊、すなわち聖霊が私たちに神を知る知識を与え、神を礼拝する心を与えてくださる。神を信じる信仰を、ただ神が与えてくださる。私たちは、それをただ手を広げて頂くだけです。
今日、私たちが少しでも深く神を知ることができますように。そのために、神様ご自身が真理の霊を送ってくださいますように。キリストの憐れみを求めつつ、今日の一日を歩んでいきたいと願います。

2022年11月8日火曜日

2022年11月8日の聖句

「私は若すぎる」と言うな、そうではなくて、私が派遣するところにどこへでも行き、私があなたに命じることをすべて語れ。(エレミヤ1:7)
恐れるな、そうではなく語れ、沈黙するな。私があなたと共にいるからだ。だから誰も無謀にもあなたを害するものはいない。(使徒18:9~10)

「私は若すぎる。」他にも「年を取り過ぎた」とか「経験がないから」とか「自信がない」とか「口下手だから」とか、いくらでも出てきます。そうではない、と主なる神さまはおっしゃいます。私たちがどのようなものであろうとも、そういう私たちをお造りになったのも、選んだのも、すべては神さまです。むしろ大切なことは「私が派遣する」と言っているとおり、神さまが私を派遣した、という事実です。それだけでよい、と神さまは言われるのです。
ずいぶん前に、NHKのプロフェッショナルという番組に、瀬谷ルミ子さんという方が出演しておられました。武装解除を仕事としている方です。世界中の紛争地に行って、ゲリラやテロリストや政府などを相手にして、武装解除するように説得しそのための援助する活動をしておられる方でした。とてもすばらしい方でした。あの番組では、最後に「プロフェッショナルとは」と問うて、その人の答えを聞きます。瀬谷さんは、「できない理由を探さない人」と言っていました。強烈な印象を残しました。時々リフレインしてきては胸に突き刺さってくる言葉です。
「私は若すぎる」などの言い訳は、私たちにとっては自分なりにもっともらしいできない言い訳です。しかし神さまはそういう私たちの抱えているいろいろな理由ではなく、ご自分が共にいることや、神さまがお遣わしになったという事実を私たちにお見せになります。「私は若すぎる」と言うなとおっしゃる神さまは、そのための根拠をもお示しになっています。神が私をお遣わしになった。それが私たちにとって本当はいちばん大切なことです。主が共にいてくださるなら、無謀にも私たちを害することは誰にもできない、とまで言います。私たちの肉体を損なうことはできても、魂を損なうことは誰にもできない。それは神さまにしかできない。
「神が共におられます。平安のうちに出かけて行きなさい。」礼拝の最後の派遣の言葉として、たびたび読まれるものです。まさに、神は今日も共にいてくださいます。だから、私たちに立ちはだかるものは何もない。平安のうちに、今日、神が遣わしてくださるところへ出て行きましょう。

2022年11月7日月曜日

2022年11月7日の聖句

エッサイの根株から新芽が生え、その中から若枝が出て実を結ぶ。(イザヤ11:1)
主は言う:わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。(黙示録22:16)

根株、あるいは切り株しかない。立派な幹があっても、もうそれが切られてしまった。根っこしかないような状態です。木としては見るも無惨な姿。しかし、そこから新芽、ひこばえが生えてくる。「その中から若枝が出て実を結ぶ。」ついに、実を結ぶほどに大きく生長する。
主イエス・キリストは、切り株から萌え出たひこばえのように、もう希望がないと思われるところ、もうおしまいだというエッサイの子孫からお生まれになりました。エッサイというのは、ダビデ王の父親の名前です。主イエスはダビデ王家の末裔の家にお生まれになった。しかしエッサイの家はダビデの時代から主イエスの時代まで、代々名門として続いてきた一家というわけではありません。確かに途中までは王家でしたが、国が滅びるのと一緒に没落した家です。捕囚後に系図の再建が行われましたが、その後、王家として復活したわけではありませんでした。主イエスの時代のヘロデ王は、ダビデ王家とは無関係の人間です。つまり、エッサイの家は切り株になっていました。かつては立派な木が豊かな実を結んでいたのかも知れないが、今やもう見る影もない。それが現実です。
しかし、まことの希望であるイエス・キリストは、エッサイの家からお生まれになったのです。このお方はおっしゃいます。「わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」この輝く明けの明星ということばも、本当にすばらしい希望に満ちた言葉です。キリストは明けの明星。この星が輝けば、もう夜明けが来たという徴です。朝は来た。キリストの光が輝いている。切り株や夜の闇、そういう希望がない世界に、キリストという光が宿った。ひこばえが育っている。私たちはキリストにあって、望みを抱いています。
もう一ヶ月もしないうちにアドベントを迎えます。私たちはキリストを待ち望んで今日を生きています。キリストの命の恵み、光の祝福に、私たちは照らされています。例え今それが見えなくとも、キリストは確かに来られ、そして私たちに光を見せてくださっている。明けの明星は、すでに輝いているのです。

2022年11月6日日曜日

2022年11月6日の聖句

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな
万軍の主。
その栄光は全地に満ちる。(イザヤ6:3)
あなたがを召してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のあらゆる場面で聖なるものとなりなさい。(1ペトロ1:15)

聖。それは、神さまの本質を表す言葉です。神さまは聖なる方。ただ神様だけが「聖」と呼ばれるにふさわしい方です。なぜなら、本質とは、他とは異なるそれだけの固有の性質を表す言葉だからです。聖、それは天地を造られたただひとりの神さま、主イエス・キリストの父である神様の尊い御性質です。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主。」これは預言者イザヤが垣間見た天での礼拝で響いていた言葉です。セラフィムという、六つの翼を持つという天の獣が、神を賛美して言っていたといいます。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主。」私たちの想像を超えるような光景です。これを目の当たりにして、イザヤは恐れました。聖なる神さまを前にして、もう自分は死ぬしかない。汚れた私はこのまま滅びるしかない。そういって、イザヤは恐れたのです。
聖。それは、神さまの神さまらしさと言い換えてもよいと思います。私たちをお造りになった神さまを前に、私たち人間は、しかも罪に汚れた人間は、本当であれば死ぬしかありません。汚れというのは聖の正反対です。汚れた者は滅びるしかない。しかし、神さまの聖は、聖なる愛として私たちの前に現されました。聖なる愛に満ちたお方は、私たちのためにご自分の独り子を与え、私たちに永遠の聖なる愛を示してくださったのです。神さまはご自分の神さまらしさを、私たちへの愛を貫くことによって示してくださいました。だから、私たちは本当であれば罪深い私が死なねばならない神さまの聖を前にして、命を戴き、神さまの前に生きるものとされたのです。
「あなたがを召してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のあらゆる場面で聖なるものとなりなさい。」私たちは、私たちを呼んでくださった方の聖なる御愛にならって、自らを聖く保つように、と聖書は呼びかけます。神さまと、キリストと同じようになることなんてできない。それはそうです。しかし、僅かにでもキリストに似たものとしてくださいという祈りこそ、聖なる愛をいただいた私たちの祈りなのです。

2022年11月5日土曜日

2022年11月5日の聖句

主よ、あなたの御手には力と権力があり、あなたに立ち向かうことのできるものは誰もいません。(歴代誌下20:6)
私は確信しています。死も命も、天使も諸勢力も諸権力も、現在のものも未来のものも、高きにあるものも低きにあるものも、他のどのような被造物も、私たちを私たちの主であるキリスト・イエスにある神の愛から引き離すことはできません。(ローマ8:38~39)

今日の新約聖書の御言葉は、私にとっては最愛の御言葉の一つです。「私たちを、私たちの主であるキリスト・イエスにある神の愛から引き離すことはできません。」私が強いからだとか、私の確信が深いからだとか、私が信仰深いから、というのではありません。キリスト・イエスにあって示された神の愛が確かだから、何ものであっても私を神の愛から引き離すことができない、と言います。この神の愛への確信こそが、「信じる」ということです。
「主よ、あなたの御手には力と権力があり、あなたに立ち向かうことのできるものは誰もいません。」旧約の御言葉はそのように言っています。ここでもやはり、神さまの御手の力と権力への確信と信頼を言い表しています。神さまの力を確信するとき、私がどのようなものかということは、ほんの小さなことになってしまいます。私の弱さや至らなさではなく、神さまの御手の力に目が向くからです。
私たちの信仰生活にとってとても大切な祈りの一つは、罪の告白の祈りです。先日もご紹介したルターの95箇条の提題の第一の命題ですが、「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めよ』と言われたとき、彼は私たちが日ごとに悔い改めることをお望みになったのである」と、「日ごとの悔い改め」と理解する伝統もあるそうです。私たちは日ごとに罪の悔い改めの祈りを捧げて生きています。この祈りは、自分の罪深さの中に拘泥したり、自分の至らなさへの自己嫌悪に浸ったり、自己憐憫にうずくまることではありません。圧倒的なキリストの赦しの恵みをいただくことです。キリストの愛の光の中で、初めて私たちは自分の罪を知ることができるのです。
私たちを神の愛から引き離すものは何もありません。それは、どのようなものであっても、不可能です。キリスト・イエスの愛よりも強いものはこの世界に存在しないからです。私たちはキリストによって示された神さまの絶対的な愛によって、今日も守られています。

2022年11月4日金曜日

2022年11月4日の聖句

あなたのことばは、私の心の喜びで慰めです。私はあなたの名を取って名付けられているではないですか、主、万軍の神よ。(エレミヤ15:16)
イエスは言う:あなた方が私の戒めを守るなら、あなた方は私の愛に留まることになる。(ヨハネ15:10)

今日の旧約の御言葉の最後のところの「私はあなたの名を取って名付けられているではないですか」という言葉の意味するところは、二つの可能性があるのかなと思います。一つには、エレミヤというこの預言者の名前。エレミヤというのは「主が高める」という意味の名前です。この「主」というのは神さまのお名前を意味する言葉、つまり固有名詞です。エレミヤという名前自体が、主なる神さまに由来して付けられた。両親が、彼の生まれたときに主がこの子を高めてくださいますようにと願いを込めて付けたのでしょう。
もう一つは、この人は「主の預言者」と呼ばれました。主のために仕えた人です。そういう彼の生き方そのものが主のお名前によって呼ばれるものとなった、ということであるのかもしれません。
いずれにしても、預言者エレミヤは主のお名前によって呼ばれる人物でした。そして、それは私たちも同じです。私たちも「キリスト者」と呼ばれます。キリストのお名前によって私たちは呼ばれる。すごいことです。
主のお名前によって呼ばれる預言者エレミヤは言います。「あなたの言葉は、私の心の喜びで、慰めです」と。主の御言葉が、エレミヤの命でした。御言葉に喜びを与えられ、御言葉に慰めを頂いている。そしてその御言葉を宣べ伝えるために生きている。それが、主のお名前で呼ばれているこの人の人生です。
私たちもひとりのキスと者として、同じ喜び、同じ慰めに招かれています。私たちをご自分の御子のお名前で呼んでくださっている方は、私たちにも恵みに満ちた神さまの御言葉を聞かせ続けてくださいます。私たちへの神の愛を告げ、私たちの救いを宣言する福音の言葉を。主イエス・キリストの恵みと平和が、今日もあなたと共にありますように。

2022年11月3日木曜日

2022年11月3日の聖句

わたしがイスラエルの家を、彼らの散らされた諸国の民の中から集めるとき、彼らによって、私は自分の聖なることを諸国民の前に示す。(エゼキエル28:25)
神の賜物と召しは神ご自身を後悔させることはありません。(ローマ11:29)

今日の旧約聖書の御言葉は、預言者エゼキエルを通して語られた神さまの言葉です。とても不思議な言葉です。イスラエルの家が散らされた諸国民の中から集める、と言っています。これは、戦争に敗れて捕虜になった人たちのことです。イスラエルの国は実際に国が崩壊し、多くの人が散り散りバラバラになってしまいました。どうして、そのような悲惨な歴史をたどることになってしまったのか。聖書はその理由を、彼らが神さまを蔑ろにして生きていたからだ、と言います。神さまの慈しみも愛も無視し、富や名誉や所有の欲を満たしてくれる都合の好い神々をこしらえた。神さまとの関係もおかしくなり、同時に人間同士の関係もおかしくなってしまったその結果、結局国は滅んでしまいました。
ところが神さまは、そうやって自滅した人々を諸国の民の中から集める、と言っています。自滅し、離散した人々をもう一度集めて救おう、と神さまはおっしゃいます。そして、そやって人々を救うことによって「私は自分の聖なることを諸国民の前に示す」というのです。神さまは、ご自分に背いて自滅した人々を救うだけでなく、そういう駄目な人を救うことによってご自分の聖を示す、と言います。これは驚くべき言葉です。これは、私たちのことです。古代のイスラエル人と同じように、私たちも神さまを蔑ろにし、人間関係をぶち壊し、自滅の道を突き進んでいた。しかし、神さまはそういう私たちを救ってくださいました。私たち罪人を救うことによって、神さまはご自分の聖なることをお示しになった。
しかも、「神の賜物と召しは神ご自身を後悔させることはありません」というのです。これもまた驚くべき言葉です。神さまは私たちをお救いになったこと決して後悔なさらないというのです。私たちがどんなに罪深く、駄目だったとしても、神さまはそんな私たちを救ってくださったことを後悔なさらない。そして、そうやってご自分の救いを貫くことによって、神さまはご自身の聖なることをお示しになる。ですから神さまが聖なる方でいらっしゃるというのは、私たちにとっては本当にありがたい事実なのです。

2022年11月2日水曜日

2022年11月2日の聖句

どうして、神は苦しんでいる者に光を与え、
辛く、死にあこがれている者たちにいのちを与えて、死が来ないのか。(ヨブ3:20~21)
それなのに、今なお私たちは、すべてのものが彼の下に置かれているのを見てはいません。(ヘブライ2:8)

今日の旧約聖書の御言葉は、ヨブ記に出て来るヨブ自身の言葉です。ヨブは無垢な正しい人でしたが、突如としてひどい苦しみに襲われました。理由のない苦しみでした。ヨブの絶望の言葉が、今日私たちに与えられた聖句です。「どうして、神は苦しんでいる者に光を与え、辛く、死にあこがれている者たちにいのちを与えて、死が来ないのか。」
ヨブは財産を失い、子どもたちを喪い、自身の肉体も心も激しく損なわれました。この苦しみの中では光すらも苦痛であり、死を望んでいる自分には生きることが絶望でしかない、と言います。自分の命を今もなお取らない神さまを恨んでいる。ヨブは本当に辛い絶望を味わった人です。
私は正直に言って、ヨブが味わったほどの深い絶望を知りません。これほど深く絶望したことは、私にはありません。しかし、この世界にはヨブのように絶望した人がたくさんいることは知っています。自分の生活すべき場所が戦地になっていたり、地獄のような圧政に苦しめられている人がいます。病気のために苦しむ人も、理不尽に家族を喪った人もいます。ヨブの呻きがいたるところであがっている。
神さまは一体何をしておられるのか。そういう呻きや問いが生まれるのは、当然のことだと思います。だから、聖書は言います。「それなのに、今なお私たちは、すべてのものが彼の下に置かれているのを見てはいません。」キリストがすべてを支配するはずなのに、私たちはまだそれを見ていない。そうではない現実がこの世にはあふれている。一体どうしたら良いのか。どう受け止めたらいいのか。
今日の新約聖書の御言葉の直後にはこのような言葉が続いています。「ただ、『僅かの間、天使より劣る者とされたイエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と誉れの冠を授けられた』のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれたのです。」つまり、私たちはキリストが苦しみ、死なれたことを見た。私たちが知っていること、目撃したことはそのことだけだ、と言っている。キリストは私たちと同じように苦しみ、死に、その死と苦しみというかたちで栄光と誉れの冠を戴いたのだ、と言うのです。
私たちは、今もなお苦しんでいます。死の苦しみがこの世界を覆っている。しかし、キリストはその世界に来られ、私たちの一人になって死を味わい、私たちの兄弟になってくださいました。このキリストは私たちの弱さに同情し、私たちを救ってくださる方です。私たちの望みは、ただこのお方にかかっています。

2022年11月1日火曜日

2022年11月1日の聖句

「喜べ、楽しくあれ、娘シオンよ。見よ、私は来てあなたたちのところに住むからだ」と主は言われる。(ゼカリヤ2:14)
ほめたたえられますように、イスラエルの神、主は。ご自分の民を訪れ、解放されたからだ。(ルカ1:68)

聖書はとても不思議な書物です。私たちのニーズから生まれたものではありません。もしもそうだとしたら、聖書にはもっと私たちが心地よくなるような言葉や、役に立つ人生訓ばかりが散りばめられていたに違いないと思います。
エジプトから脱出した神の民は、荒れ野の旅を始めました。旅の最初の目的地であるシナイ山に着くと、彼らの指導者モーセは山に登り、なかなか帰って来ません。しびれを切らした民は、モーセの兄アロンに要求します。「さあ、私たちに先立って進む神々を私たちのために造ってください。私たちをエジプトの地から導き上った人、あのモーセがどうなったのか、分からないからです(出32:1)」。彼らは、モーセがなかなか帰って来てくれない、しかもこの荒れ野の真ん中でどうしたら良いか分からない、エジプトにも行けず、約束の地にも行けない・・・という不安を解消するために、自分たちの願う神々を造り上げようとしました。自分のニーズを満たす神を生み出した。自分のニーズから始まる信仰を、聖書は偶像崇拝と呼びます。
ところが聖書の神さまは、偶像ではありません。私たちのニーズを超えています。私たちが神さまを造ったのではなく、神さまが私たちをお造りになった。この方は聖なる方。私たちが支配し、思い通りにすることができない方です。
しかし、神さまは遠く近づきがたく、私たちと無関係の方ということでもない。今日の二つの御言葉はそのことを語ります。「『喜べ、楽しくあれ、娘シオンよ。見よ、私は来てあなたたちのところに住むからだ』と主は言われる。」「ほめたたえられますように、イスラエルの神、主は。ご自分の民を訪れ、解放されたからだ。」どちらも、神さまが私たちのところを訪れてくださる、と言っています。私たちもこの世界もお造りになった方、聖なる方、ただおひとりの神。この方は私たちを訪れてくださる方。私たちのところへ来てくださる方です。この方は、私たちと出会ってくださる神さまです。
神さまが私のところへ来てくださった。だから「喜び、楽しくあれ」と言われているとおり、私たちは喜びます。愛する神さまが、私たちの大好きな主イエスさまが、今日も私の側近くへ来てくださっているのですから。

2024年12月13日の聖句

モーセは顔を隠した。神を見るのを恐れたからである。(出エジプト記3:6) イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」彼らが目を上げてみると、イエスの他には誰もいなかった。(マタイ17:7~8) 今日の新約聖書の御言葉は、ある高い山での出来事...