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2020年10月14日水曜日

2020年10月14日(ペトロの手紙一5)

ペトロの手紙一5
「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと歩き回っています。信仰をしっかりと保ち、悪魔に立ち向かいなさい。あなたがたのきょうだいたちも、この世で同じ苦しみに遭っているのは、あなたがたも知っているとおりです。しかし、あらゆる恵みの源である神、キリストを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で癒やし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。力が世々限りなく神にありますように、アーメン。」

あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと歩き回っています。この言葉をペトロが手紙に書いたとき、自身への主イエスの言葉を思い出していたに違いありません。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。」シモン・ペトロはサタンのふるいによって見事にふるい分けられてしまいました。その夜、ペトロは主イエスを知らないと三度にわたって口にし、最後には呪いの言葉まで飛び出してしまった。ほえたける獅子のようなサタンに食われてしまった。しかし、ペトロにとって悔いても悔やみきれない、悪夢のようなあの出来事は、主イエス・キリストの祈りによって包まれています。「しかし、私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。」主イエスはそう言ってくださいました。ペトロは、やがて立ち直ることができた。信仰を失わなかった。主イエスが祈ってくださっていたから。
「信仰をしっかりと保ち、悪魔に立ち向かいなさい」というのは、自分の信心や精神力の話ではありません。主イエスを信じて仰ぐ。私たちにできるのは、ただそれだけです。それだけでいいのです。主イエスを仰ぐとき、そこには私のために祈っていてくださるお方がおられます。だから、私たちは大丈夫です。「あらゆる恵みの源である神、キリストを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で癒やし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」
シモン・ペトロのために祈ると言ってくださった主イエスは、続けて言われました。「だから、あなたが立ち直ったときには、きょうだいたちを力づけてやりなさい。」この言葉に忠実に、ペトロは私たちの目を恵み深いキリストへと向けさせます。私たちがキリストを信じて、仰ぐようにと。悪魔の企みがどんなに苛烈であっても、私たちはキリストにある永遠の光の中で、イエスご自身の祈りによって守られています。

2020年10月13日火曜日

2020年10月13日(ペトロの手紙一4)

ペトロの手紙一4
「万物の終わりが迫っています。それゆえ、思慮深く振る舞い、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、互いに心から愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」

生きるというのは、簡単なことではないと思います。いろいろな困難があります。ことに、キリスト者として生きるというのにはさまざまな艱難があります。
「かつてあなたがたは、異邦人の好みに任せて、放蕩、情欲、泥酔、馬鹿騒ぎ、暴飲、律法の禁じる偶像礼拝にふけってきましたが、もうそれで十分です。あなたがたがもはやそのような度を超えた乱行に加わらないので、あの者たちは驚き怪しみ、そしるのです。」神を信じるから受ける苦しみには、付き合いが悪いから受けるそしりがあります。キリストに従うために、いわれなき誹謗中傷を蒙ることもあるではないでしょうか。
ペトロはそういう苦難をキリストの歩みの中に位置づけます。「キリストは肉に苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。」キリストご自身の歩み、そしてキリストがお受けになった苦しみに自分の苦しみの現実を重ね合わせることによって、私たちは今この時を生きることができるのです。
キリストに従って私たちが生きていくときにいちばん大切なこと、すなわちキリストご自身が大切になさっていたこと、それは「互いに心から愛し合いなさい」ということだとペトロは言います。三年間、主イエスと共に寝食を共にし、その言葉をいちばん近くで聞き、主イエスがなさる振る舞いをつぶさに見、ついには裏切り、しかし赦された男の言葉です。誰よりもよくキリストの愛を知り、キリストに愛されて今生きている人間が言います。「互いに愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」私たちは、そうやって愛され、多くの罪を覆って頂いたから今生きている。だからこそ、互いに愛し合おう。ペトロはそう呼びかけます。
今日一日の私たちの歩みを、主イエス・キリストの愛が導いてくださいますように。そして、「栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。」

2020年10月12日月曜日

2020年10月12日(ペトロの手紙一3)

ペトロの手紙一3
「キリストは、肉では殺されましたが、霊では生かされたのです。こうしてキリストは、捕らわれの霊たちのところへ行って宣教されました。これらの霊は、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者たちのことです。」

ある牧師がこのような話をしてくれたことがあります。あるとき、教会の青年たちがまだ幼い自分の息子をからかっているのに出くわしてしまった。彼らを咎めたが、心のモヤモヤが晴れなかった。自室に引き上げた後、晴れない気分のままで神学雑誌を開いた。そこに、主イエスを裏切って自殺をしたイスカリオテのユダの話が書かれていた。ユダはイエスを銀貨30枚で売り、すぐに後悔して自殺した。ユダは、そのまま滅びるのか?ユダが死んだほんの数時間後、主イエスは十字架にかけられて殺された。その死を、使徒信条は「陰府に降り」と言い表している。主イエスは陰府へ降って行かれた。それはまるでユダを追いかけているようではないか。主イエスはユダがいるところに行かれたのだ。この話を雑誌で見つけて読んで、牧師は、息子をからかっていた青年たちに向ける目が変えられたのだそうです。
主イエス・キリストは十字架で死に、陰府に降って行かれた。そこで何をしたのか?ペトロは「捕らわれの霊たちのところへ行って宣教されました」と言い表します。主イエス・キリストの手は、神に逆らって死んでいった者たちのところにも及ぶのです。キリストは陰府に降られた。だから、キリストがいない場所はどこにもありません。
箱舟は水を通って救われました。ペトロは、この水は洗礼を象徴していると言います。洗礼。それは、私たちの死を意味します。私たたちが水に沈められて死に、キリストにある新しい命に甦る。それが洗礼です。私たちも、洗礼を受けたときにもう降ったのです。キリストが行かれた陰府へと。私たちはキリストと共に死に、キリストと共に今生きています。
だから、私たちはもう既に死んだ者たちのことはキリストに任せましょう。キリストの手が届かない場所、キリストが行くことのできない場所はどこにもないのですから。ユダにもまたキリストの福音は向けられている。私たちにさえも。
今日一日も、主イエス・キリストの恵みがあなたと共にありますように。心から祈っています。

2020年10月11日日曜日

2020年10月11日(ペトロの手紙一2)

ペトロの手紙一2
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝えるためです。あなたがたは、
「かつては神の民ではなかったが、
今は神の民であり
憐れみを受けなかったが、
今は憐れみを受けている」
のです。

あなたは一体何者か?もしも私たちがそう問われたら、私たちは答えることができます。私は、神に選ばれた神の民です、と。そう、あなたは選ばれたのです。神の民として。あなたが神の民であるというのは、王の祭司であり、聖なる国民である、ということです。
祭司の役目は人々のために執りなしをすることです。隣人のために祈り、敵のために祈り、神の前でその人の罪の赦しを求めて祈る。それが、祭司の務めです。
聖なる国民とも言っています。「聖」というのは、他と区別された存在です。聖と俗とを区別する。それは、神のものをまさしく神のものとして区別し、神のものを神にお返しするということです。あなたは聖なる国民、神の民、神の所有物です。
謂わば、祭司として水平軸に開かれ、聖なる国民として垂直軸に伸びる。それが、神に選ばれた神の民のあり方です。私たちはちょうど十字架の横木と縦木の接しているところにいるようなもので、どちらの方向にも向かっているのであり、どちらかだけになってはならないのです。
それは、主イエス・キリストご自身のあり方です。キリストは「罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。」キリストは全く神のものとして聖なる方でありながら、完全に私たちに向かって開かれ、祭司としてご自身をさえ献げて私たちのための執りなしを完成させてくださったのです。それによって、私は今あるを得ている。それは「私たちが罪に死に、義に生きるためです。」

2020年10月10日土曜日

2020年10月10日(ペトロの手紙一1)

ペトロの手紙一1
「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、さまざまな試練に悩まなければならないかもしれませんが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊く、イエス・キリストが現れるときに、賞賛と栄光と誉れをもたらすのです。」

あなたがたは、信仰によって守られています!私たちは守られている。私たちをあらゆる攻撃から守る盾、雨から守る屋根、風から守るコートがある。信仰によって、私たちは守られています。「信仰」という字は、とてもうれしい字です。「信じて、仰ぐ」と書きます。信仰は「信心」ではありません。私たちの信じる心が問題なのではない、信じる力が問われているのではありません。信じて、仰ぐ。私たちはキリストを信じ、キリストを仰ぐ。ただ仰ぐだけです。キリストはご自分を信じ、仰ぐ者を守ってくださいます。私たちの信じる力が守るのではなく、キリストが私たちを守ってくださいます。
私たちは、今しばらく間、さまざまな試練に遭うことでしょう。しかしそういう時に、信仰が私たちを守ってくれる。他に、一体何が私たちを守りうると言うのでしょうか?
「あながたがは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救いを得ているからです。」
とてもおもしろい言葉です。あなたがたは、信仰の目標である魂の救いを得ている。目標というのは、普通はまだ得ていないもののことです。もう得ていたら目標にはなり得ない。ところが、魂の救いは信仰の目標でありながら、もう既に得ているのです。私たちは今もう救われているし、そしてその救いを目指して、主イエスを信じて生きています。信仰に守られて。
今もなお困難な日々が続きます。キリストは、私たちを守っていてくださいます。私たちも、私たちの言葉も営みも、すぐに変わったりなくなったりしてしまう儚いものでしかない。しかし、「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」のです。これこそ、私たちが聞く福音です。永遠に変わることのない神の言葉は、私たちのための救いを告げるキリストの言葉なのです。

2020年4月21日火曜日

2020年4月21日(ペトロの手紙一1)

ペトロの手紙一1
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救いを得ているからです。」
この言葉が使徒ペトロの書いた手紙に残されていることに大きな魅力を感じます。誰よりも主イエスを見てきた人です。他の誰よりも一緒に過ごし、ぞの声を直に聞き、主と共に歩んだ人です。その人が、同じようにこの目で主イエスを見たことのない私たちに向かって言います。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しているね」と。私たちの主イエスへの愛、キリストへの愛は、主を見て生きてきたペトロと比べて遜色ないと、この一人の使徒は私たちに言ってくれているのではないかと思います。
信仰って、一体何でしょうか?難しく考えていろいろな議論をすることもできるかも知れませんが、ここではシンプルに、一言でそのことを伝えてくれているのだと思います。信仰、それは主イエス・キリストへの愛です。まだ見たことのないキリストを愛し、キリストを信じる喜びに満たされていること。それが信仰です。主は、私たちの小さな愛や喜びを忘れることなく、その御心に留めていてくださることでしょう。
今、いわゆる「宗教」への評判はよくありません。人格を無視したり、人間の自己決定権を蔑ろにしたり、自分たちの信仰のために他人を犠牲にしたり、というイメージがいよいよ強まっています。私は牧師ですが、自分を宗教家だとは思っていません。「キリスト教」という宗教の信者だとも思っていません。私は、キリストを愛する者です。キリストを信じ、そのことを喜びとして生きている者です。そのことと、いわゆる「宗教」という営みとは違うと思っています。
私たちのキリストへの愛は、「信仰の目標である魂の救いを得ているから」であり、その救いは「死者の中からのイエス・キリストの復活を通して」私たちに与えられました。それは私たち人間の営みやその力の外にあることです。そのことをもって宗教だと評価してみせることもできるかも知れません。それならそう言ってもらっても構わない。しかし、私はキリスト教という宗教の教えや戒律を信じているのではなく、イエス・キリストという一人の方を愛し、その人格と御業に救われたと信じています。だから、私の願いは、キリストへの愛を深くしてください、ということです。ご自身の命をも下さったキリストへの愛を増し、私もキリストがしてくださったように生きさせてください、と願います。

2026年9月12日の聖句

あなた自身くれぐれも気をつけ、注意を払い、目で見たことを忘れないようにしなさい。(申命記4:9) マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。(ヨハネ20:18) 今日の御言葉を聞いて、自分は一体何を見てい...