2020年6月30日火曜日

2020年6月30日(使徒言行録19:21〜40)

使徒言行録19:21~40
パウロの宣教旅行は、18:22で第二回が終わり、23節から第三回に入っています。第三回も第二回と同じようにギリシアを中心としたエーゲ海の周りを巡りました。この時にもエフェソでの伝道が進み、それがゆえに現地の反発も招きます。
「その頃、この道のことでただならぬ騒動が起こった。デメトリオと言う銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った。『諸君、ご承知のように、この仕事のお陰で我々はもうけているのだが、諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなど神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州の殆どの全地域で、多くの人を説き伏せ、改宗させている。これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるだけでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界が崇めるこの女神のご威光さえも失われてしまうだろう。』」
私はこの出来事を読んで、福音書に書かれている主イエスのお言葉を思い出しました。「私が来たのは、地上に火を投じるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、私には受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、私はどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一家五人は、三人が二人と、二人が三人と対立して別れることになる。」主イエス・キリストの福音がエフェソの地にもたらされることによって、対立が生まれました。それは、これまでこの地で生きていた者たちにとっては自分の生業の問題であり、生きるための手段が奪われる、という問題です。福音が届けられたところに分裂が起こるというのは、必然だと主イエスはおっしゃっているのだと思います。
パウロは、さらにそのような宣教の旅を続けていくことを望んでいました。「パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、『私はそこに行った後、ローマも見なくてならない』と言った。」ローマにまでも、伝道旅行に出て行きたい。確かにその願いは実現します。しかし、パウロは囚人としてローマに行くことになります。そうやってパウロが捕らえられねばならなかったのは、分裂をもたらす言葉を語り続けたからです。福音が分裂をもたらすのは、それが私たち人間の営みの延長からは生まれてこないからです。神さまがもたらすのでなければ、福音は生まれえない。だから、私たちはそれを拒んでしまう。しかし、そういう拒否の中で伝道し続ける者たちによって、私たちのところにも福音が届けられたのです。

2020年6月29日月曜日

2020年6月29日(使徒言行録19:1〜20)

使徒言行録19:1~20
エフェソで、パウロは何人かの弟子に出会いました。彼らに問います。「信仰に入ったとき、聖霊は受けましたか。」彼らは答えました。「いいえ、聖霊があるということなど、聞いたこともありません。」そこでパウロは、彼らが受けた洗礼について尋ねます。すると、彼らはヨハネの洗礼を受けた、と答えました。かつて、ヨルダン川で洗礼を授けたヨハネ。悔い改めの洗礼を授けたあのヨハネの洗礼を受けた人たち。この人たちは今エフェソにいます。わざわざヨハネから洗礼を受けるためにヨルダン川まで旅をしたのか。あるいは、その後エフェソに移住したのか。事情は分かりません。しかし、いずれにしても、かなり熱心に信じていたのではないかと思います。ただ、聖霊を受けてはいませんでした。それで、彼らはイエスの名によって洗礼を受け、パウロが手を置くと、彼らの上に聖霊が降ったのでした。
私たちの信仰の熱心ではなく、聖霊という神ご自身の霊の働きによらなければ、私たちが信仰生活を営むことはできません。しかしそう言われると、考えてしまいます。私は聖霊を受けているのか?そう考えると、心許ないような気持ちになります。使徒言行録に書いてあるような不思議な信仰体験、霊的な体験なんてしたことがない・・・と。
パウロは彼らにイエスの名による洗礼を授けました。さらに、歴史の教会は、主イエスご自身の命令に従って父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けることになります。教会で洗礼を授けられるとき、私たちは、聖霊を受けているのです。例えこちらにその実感がなく、自分とは無関係の話なのではないかと誤解したとしても、それは誤解にすぎない。洗礼を受けたとき、あるいは心の内に神を求める思いが芽生え始めたとき、私たちはすでに聖霊の働きの中にいたのです。私たちが気づかなくても。
13節以降を読むと、聖霊ならぬ悪霊が登場します。パウロはエフェソの信徒への手紙で、悪霊との戦いについて印象的な言葉を書きました。「主にあって、その大いなる力によって強くありなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるように、神の武具を身につけなさい。私たちの戦いは、人間に対するものではなく、支配、権威、闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊に対するものだからです。(エフェソ6:11~12)」聖霊を受けて生きるというのは、この世を支配する諸霊に対抗して生きるということです。今、世界は不安の霊に取り憑かれています。憎しみや怒りの霊、同調圧力の霊がこの世を支配しています。私たちはこれに対抗し、神の霊の支配の中に生きていく。そのために、霊の剣、すなわち神の言葉(エフェソ6:17)を手に取って、私たちはこの霊の戦いを闘います。

2020年6月28日日曜日

2020年6月28日(使徒言行録18)

使徒言行録18
アテネを去ってコリントへ向かったパウロは、その場所でアキラとプリスキラという夫婦に出会います。クラウディウス帝によってローマから退去させられ、コリントに逃れてきていた。この夫婦は、パウロにとってかけがえのない助け手になりました。
「パウロはこの二人を訪ね、自分も同業者であったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。」パウロは週日はアキラとプリスキラと一緒にテント造りの仕事をし、安息日になると会堂に行って、ユダヤ人やギリシア人と論じ合い、キリストの福音を証ししていました。
すると、そこに別れ別れになっていたシラスとテモテがやってきました。ベレアでの迫害の折にはぐれていたのです。シラスとテモテはパウロを追って、マケドニア州からコリントの地までやって来たのでした。その時、非常に興味深い出来事がおこります。
「シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対して、メシアはイエスであると力強く証しした。」まず、シラスとテモテがやって来た段階で、パウロはテント造りの仕事を辞めます。恐らくシラスとテモテがマケドニア州の教会からの献金を持って来たのでしょう。生活のための仕事を辞めたのです。そして、パウロは御言葉を語ることだけに専念しました。安息日だけではなく、週日も伝道だけのためにすべての時間を注ぎ込んだのです。すると、何が起こったのか?「しかし、彼らが反抗し、口汚く罵ったので、パウロは衣の塵を振り払っていった。『あなたがたの血は、あなたがたの頭に降りかかれ。・・・。』」パウロが伝道のためにすべての時間をつぎ込んだとき、パウロの口から出て来る福音の言葉への反発が生まれました。反抗と罵りに遭いました。それこそが教会が伝道に専心していることのしるしであるのかも知れません。
だから、神様ご自身が教会を励ましてくださいます。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私はあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、私の民が大勢いるからだ。」神さまに励まされて、パウロは一年半にわたってコリントの町に滞在して伝道に力を注ぎつくしたのです。
私たちの町にも、神の民は大勢いることでしょう。私たちがまだ出会ったいない、あるいはすでに出会っている神の民が、この町にも大勢います。私たちはこの時にあって、主イエス・キリストの福音を語り続けます。

2020年6月27日土曜日

2020年6月27日(使徒言行録17:16〜34)

使徒言行録17:16~34
パウロはアテネに着きました。ギリシアの文明の中心地です。今日の私たちでも知っているとおり、アテネはいろいろな神々を祀る都市です。町中に偶像があるのを見て、パウロは憤りを覚えました。パウロの偉いところは、怒ってその町のことなんて知ったことかと切り捨てなかったところです。「会堂ではユダヤ人や神を崇める人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合った。また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、『このおしゃべりは、何を言いたいのか』と言う者もいれば、『彼は外国の神を宣伝する者らしい』と言う者もいた。」
アテネの人々と論じ合っていたパウロ。パウロが伝えたのは、「イエスと復活についての福音」でした。アテネの人たちの多くは、新しいもの好きだったようです。パウロが語る珍しい話に興味を持ち、目新しいことを聞こうと思って集まってきました。それに対して、パウロは、キリストの復活の話をします。「神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」
ところが、復活の話を聞くと、アテネの人々の反応は激変しました。「死者の復活ということを聞くと、ある者は嘲笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせたもらうことにしよう』と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。」物珍しい外国人の話、外国の宗教の話、普段聞き慣れない異国の文化習俗の話として聞いていたときには面白がって集まってきていた人たちが、復活の話になると、途端に雲散霧消してしまったのです。
私は、これはとても本質的な出来事だと思います。そして、そのまま私たちの宣教の課題に直結します。聖書からいい話をしている間は耳を貸してもらえても、キリストの復活という福音の核心は聞いてもらえない。怪しまれる。「それについては、いずれまた」といなされてしまう。伝道しようと思ったら、誰もが経験することです。パウロも同じ経験をしました。しかし、それでも、パウロはキリストの復活以外の福音を宣べ伝えませんでした。例え聞いてもらえなくても、これこそ福音だと言って譲らなかったのです。それは、かつてペトロとヨハネが「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言ったのと、同じです。私たちは、キリストの御名以外の福音は持ち合わせていないのです。他のものは預かっていない。神さまが私たちに託してくださったのは、キリストの復活による福音、ただこの一つだけです。私たちも、今、同じ福音に生きています。

2020年6月26日金曜日

2020年6月26日(使徒言行録17:1〜15)

使徒言行録17:1~15
パウロはマケドニアを巡り、テサロニケへ、そしてベレアへと進んでいきます。テサロニケでは三週間にわたって、毎週の安息日に会堂で聖書の話をし、論じ合ったようです。「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアは、私が伝えているイエスである」と、パウロは語りました。それで、聞いていた者たちのうちの何人もの人がイエスを信じ、パウロやシラスの仲間になったのでした。ところが、ユダヤ人たちはそれを妬み、当局者に訴えます。パウロとシラスは皇帝の勅令に背いて「イエスという別の王がいる」と言っている、と。
少なくともここに書かれている限りでは、パウロは「イエスという別の王がいる」と、ユダヤ人たちが訴えているような意味では言っていません。彼らが言ったのは、「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアは、私が伝えているイエスである」ということです。なぜ、この言葉が、「イエスという(皇帝ではない)別の王がいる」という話になってしまったのか。
まず考えられるのは、妬みのために訴える口実をでっち上げた、ということです。しかし、そうであるにしてもまったく根も葉もないことをでっち上げても、すぐにえん罪だと気づかれてしまいます。でっち上げにしても、聞いた者に説得力のある言葉でなければ意味がありません。ということは、「イエスがメシアである」という福音のメッセージは、「イエスという別の王がいる」という言葉と、ある部分ではよく似た響きがあるということに他ならないと思います。
私たちは、イエスをメシア、救い主、キリストと信じています。それは、イエスを私の王と信じ、受け入れるということでもあります。テサロニケで問題になったのは、今日で言えば「政治的なメッセージ」です。イエスをメシアと信じれば全生活に対して影響がある以上、政治的な次元での変革は避けられないのではないでしょうか。それは、今私たちが○○党に投票すべきだというようなことよりも、もっと根本的なことです。私の実際的な王は誰か、という問いです。単に心の問題ではなく、私たちの生活が誰を王とした営みなのか、という問いです。パウロもシラスも、イエスを王として生き、そのために迫害されました。
思えば、主イエスご自身、十字架にかけられたときの罪状書きは「これはユダヤ人の王」でした。私たちの王は、十字架にかけられています。侮辱され、捨てられ、奪い取られた方が私たちの王である。それは私たちの生活への変革を呼び覚ます事実です。私たちはこの方によって、神に向かって「あなたの御国が来ますように」と祈るように召された、神の国の民です。イエスという別の王がいる。メシアであるイエスは私たちの王。それは、真理です。

2020年6月25日木曜日

2020年6月25日(使徒言行録16:16〜40)

使徒言行録16:16~40
トロアスでマケドニア人の幻を見たパウロたち一行はすぐにそこを出航し、マケドニア州のフィリピへ入りました。そこで、リディアという女性と出会います。彼女は紫布を扱う商人で、神を信じる人でした。リディアも、家族の者も、洗礼を受けます。
この町に滞在中、パウロとシラスはある占い師と出会いました。彼女の占いで周囲の人間は金を儲けていた。パウロたちは、彼女に取りついていた占いの霊を追い出してしまった。すると、彼女の主人らは怒り、パウロとシラスは捕らえられて投獄されてしまいました。「群衆も一緒になって二人を責めたてたので、高官たちは、二人の衣服を剥ぎ取り、鞭で打つように命じた。そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に入れ、看守に厳重に見張るように命じた。」パウロもシラスも、ひどい迫害を受けたのでした。
この占い師は、パウロとシラスの後についてきて「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と叫んでいたそうです。言っていること自体は正しい。しかし、パウロはあまりにしつこいので参ってしまいました。そこから考えられるのは、彼女の占いも、もしかしたらよく当たったのかも知れませんが、彼女自身にとっては人とのコミュニケーションを深めたり、愛の対話をするものとしては活きていなかったのではないか、ということです。彼女が占いができなくなったとき、主人は彼女で金儲けができなくなったことに怒りました。彼女自身の苦しみや、人間としての解放や、自由といったことにはまったく目を向けてこなかったのでしょう。むしろ、そういうことを気に掛けたのは、パウロなのだろうと思います。しかしパウロが彼女を自由にしたとき、主人の激しい怒りを買いました。一人の占い師の商品価値をなくしたからです。人間を人間扱いしない社会がそこにあった。
こうして牢に放り込まれたパウロとシラス。しかし、その牢獄の中で枷をはめられながら、彼らは賛美を歌っていました。夜中に地震が起こり、牢が壊れて鎖も外れてしまいました。看守は囚人が皆逃げたと思い込み、自殺しようとします。しかし、パウロは自分たちがここにいることを知らせてそれを思いとどまらせる。看守はパウロに問う。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」すると、パウロは答えます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」こうして、看守も家族も共にパウロの口からキリストの福音を聞き、彼らは洗礼を受けました。
リディアも、占い師も、看守も、パウロは人間扱いしたのだと思います。パウロは実際にキリストの福音に生き、人と出会ったのではないでしょうか。聖霊は、今も働いています。私たちの祈りにおいて、私たちの賛美において。私たちが出会う人との間に、今日、聖霊なる神が共にいてくださいますように。

2020年6月24日水曜日

2020年6月24日(使徒言行録16:1〜15)

使徒言行録16:1~15
「その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください』とパウロに懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神が私たちを招いておられるのだと確信したからである。」
使徒言行録はルカによる福音書と同じ人物が執筆しています。それはそれぞれの冒頭を読めば明らかです。その著者、恐らく医者ルカであろうと考えられています。今日のところは、パウロの旅にルカが始めて同行する場面を描いていると考えられます。「私たちは」という言い回しが初めて登場するからです。
なぜ、ルカがパウロの旅に同行したのか。その理由はここには直接には書かれていません。しかし、その理由を伺わせる書き方をしています。「さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊に禁じられたので、ガラテヤ地方を通って行った。ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。」(具体的な行程は、聖書巻末の第二次宣教旅行の地図を御覧くださるとイメージしやすくなります。)ここで、聖霊に禁じられた、イエスの霊がそれを許さなかったというのが何を意味しているのかはよく分かりません。ただ、パウロには持病があったと思われます。パウロ自身が書いた手紙を読むとそのことを強く推測させる言葉が出てきます。もしかしたら、この時、パウロの体調に悪い変化があったのかも知れません。そういう仕方で、神ご自身がアジア州での宣教、ビティニア州での宣教を禁じた。だから、医者であるルカがパウロを治療し、その後の宣教旅行に帯同したのではないかと考えられるのです。
パウロにとっては厳しいことであったと思います。宣教旅行という、神さまの福音のための働きに出ようとしたとき、バルナバとは分かれることになり、行こうと考えていたところには行くことができず、神さまの御心は一体どこにあるのかと深く悩んだのではないかと思います。しかし、そのおかげでルカが同行することとなり、それがゆえにやがてルカによる福音書や使徒言行録が書かれることになったと言うこともできます。そこにはやはり聖霊の導きがあったとしか言い得ないのではないでしょうか。
ルカは、パウロの伝道旅行に共に行きます。いや、パウロの伝道旅行というだけではなく、これはルカの伝道旅行でもあった。さらに言えば、神ご自身の伝道旅行です。そこにパウロもルカも、シラスやテモテも同行させていただいている。だから、「私たちはすぐにマケドニアへ出発することにした」のです。福音を求めている人、待ち焦がれている魂がそこにいるから。私たちは、今、計画していたことを聖霊に禁じられているときであるのかも知れません。辛い時期です。しかしこれは神の大いなる御業の始まりです。「私たち」の新しい船出が始まろうとしています。

2020年6月23日火曜日

2020年6月23日(使徒言行録15:22〜41)

使徒言行録15:22~41
異邦人がキリストを信じたとき、彼は割礼を受けるべきなのか?エルサレムで使徒たちが話し合い、その必要は無いと結論づけました。その結果を伝えるために、アンティオキア教会へ帰るバルナバとパウロに、使徒たちはバルサバと呼ばれるユダとシラスの二名を同行させて派遣しました。アンティオキア教会へ励ましの言葉を届けるために。この知らせを聞いてアンティオキア教会は喜び、さらに力に満ちて主の言葉、福音の言葉を宣べ伝えました。
そこで、パウロがバルナバに提案します。「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町にもう一度行ってきょうだいたちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか。」こうして、第二回宣教旅行が始まることになります。
ところが、今回の旅には最初から問題が起きたのです。バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネを連れて行きたかった。マルコというのは、第一回宣教旅行のときに途中で離脱してしまった若き仲間です。「パウロとその一行は、パフォスから船出したパンフィリア州のベルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった(13:13)」。このことでバルナバとパウロの間に大激論が起こります。バルナバは、マルコ(ヨハネ)にもう一度チャンスをあげたかったのでしょう。一度挫折した友を見捨てず、彼の信仰の再生をはかりたかったのだろうと思います。
しかし、パウロは違う意見でした。「しかしパウロは、以前パンフィリア州で自分たちから離れ、一緒に宣教に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。」恐らく、パウロは伝道の務めの責任を重く受け止めていたのだと思います。そして、この旅に厳しさをよく分かっていたのでしょう。事実、彼はこれまでもそうでしたが、これからも、厳しい迫害の中を旅し、鞭で打たれ、石を投げられ、投獄され、最期は殉教します。
パウロもバルナバも、間違ったことを行っているわけではありません。それだけに、彼らは折り合いをつけることができず、あれだけの盟友であったバルナバとパウロは、とうとう別行動をすることになりました。バルナバはマルコを連れてキプロス島への海路につきます。パウロはエルサレムから共にアンティオキアに行ったシラスを連れて陸路を選び、カパドキアから小アジア、ギリシアへと向かっていくことになりました。
仲間割れとも言えるかも知れません。しかし、聖書はこの事件をあまり消極的に伝えていないように思います。このような経緯があったにせよ、バルナバとパウロという素晴らしい伝道者がキプロスとカパドキアという二カ所に分かれていったことによってより広い人々が福音に聞くことになりました。教会の伝道の進展は、不思議です。人間としては失敗に見えたり、混乱に見えたりするけれど、その人間の混乱の中で神の御業は確実に進んでいきます。今も、そうです。今私たちが見舞われているコロナの混乱の中でも、私たちの思いを超えたところで神の業は確実に進んでいます。

2020年6月22日月曜日

2020年6月22日(使徒言行録15:1~21)

使徒言行録15
バルナバとパウロはアンティオキア教会に帰り、異邦人がキリストを信じたことを報告し、皆がそれを喜びました。ところが、ユダヤからやって来た人たちが違った反応を見せます。「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と、彼らは兄弟たちに教えました。その人とバルナバ・パウロとの大論争になりました。そこで、この件について協議するために、バルナバとパウロはエルサレムへ向かったのです。
バルナバとパウロは異邦人に神が働き、彼らがキリストを信じたことを報告します。ところが、ファリサイ派から改宗して信者になった人々が言いました。「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように教えるべきだ」と。モーセやバルナバは、ここに、ただの習慣や手続きといったような表面的な問題を超えた、福音の本質がかかっていることを見抜いていました。
まず、パウロたちは、神ご自身が異邦人を受け入れておられることを立証します。「人の心をお見通しになる神は、私たちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らを受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、私たちと彼らとの間に何の差別もなさいませんでした。」神は、誰であっても受け入れ、ご自分の霊を与えて新しくしてくださる。そこには何の差別もない。「それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖も私たちも追い切れなかった軛を、あの弟子たちの首にかけて、神を試みようとするのですか。」神が差別せず受け入れているのに、どうしてあなたたちが異邦人を差別するのか、と問いただします。神は、今何をしておられるのか?私たちのあり方は、それにふさわしいのか?そのことを問います。
そして、「私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」私たちは、自分の良い行いや立派さによって救われるのではないのです。ただ主イエスの恵みによって救われるのです。そこに本質がある。割礼問題は、その本質を揺るがしてしまう。だから、パウロもバルナバも、決して譲ることはできないと断乎として言ったのです。
ときどき、神さまの愛は、親が子どもを愛する愛のようなものだという人があります。私はそれは間違っていると思います。親の愛は、限りある小さなものです。子どもに平気で条件をつけてしまいます。悲しいことです。私たちの内から生まれてくる愛はその程度でしかありません。だから、そこから類推すると、神さまの愛にも条件があって、小さなものでしかないように思い込んでしまう。しかし、本当はそうではないのです。神の愛はキリストによって示された愛であって、そこには何の条件も差別もありません。それどころか、敵のためにご自分の独り子イエスを与えてくださる愛です。底知れない愛の世界に、聖書は私たちを招いているのです。

2020年6月21日日曜日

2020年6月21日(使徒言行録14)

使徒言行録14
リストラで、足の不自由な男を癒やしたパウロ。群衆はそれを見て驚き、言いました。「神々が人間の姿をとって、私たちのところに降りてこられた」。そして、バルナバを「ゼウス」、パウロを「ヘルメス」と呼んで、二人にいけにえを献げようとしました。バルナバとパウロはそれを見て自分たちの衣を引き裂き、叫んで言いました。「皆さん、なぜ、このようなことをするのですか。私たちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、私たちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そこにあるすべてのものを造られた方です。」
リストラの人々は、足の不自由な男が癒やされたことにさぞびっくりしたのだろうと思います。それはそうです。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった人間が、躍り上がって歩き出したのです。それで、そんなことができるからにはこの人たちは神々に違いないと思い込んでしまった。無理からぬことだ思います。
ゼウスやヘルメスなどと言われると、いかにも2000年前の話であり、いかにもギリシア文化圏の話であるように聞こえるかも知れません。しかし、案外私たちにも身近な出来事なのではないかと思います。自分にとって言い知れぬ恩のある人。あるいは、自分にはないような知恵を持つ人。力がある人。才能がある人。そういう人を前にしたとき、私たちはしばしば依存します。その人の意見が絶対になってしまったり、自分でものを考えることを放棄してその人の言いなりになってしまったりします。それは、事実上、その人を神さまに祭り上げていることに等しいのではないでしょうか。
パウロとバルナバは、リストラの人々の振る舞いに対して「偶像を離れて」ください、と訴えます。この偶像という言葉に、日本聖書協会共同訳では注をつけていて、直訳すると「空しいもの」という意味だと書いています。偶像とは、空しいもの。人を神と祭上げること、誰かに依存すること、言いなりになること、自分で考えることを放棄すること、それはむなしいことです。なぜなら、真の神さまが見えなくなっているからです。
バルナバとパウロはこのようにして各地で伝道し、帰途に就き、シリア州アンティオキアの教会に戻りました。自分たちを送り出してくれた母教会に帰っていきました。そこで神が「異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した」のでした。パウロもバルナバも、働いてくださっているのは自分たちではなく神さまだと知っていました。だから、神さまの御業を喜び、自分たちは証人に徹したのです。真の神さまの御業が、明らかにされるために。

2020年6月20日土曜日

2020年6月20日(使徒言行録13:31〜51)

使徒言行録13:31~51
ピシディア州アンティオキアに渡ったパウロとバルナバは、安息日に会堂に入ります。そこで聖書が読まれたとき、会堂長に「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください(15節)」と請われ、主イエス・キリストの話をしました。そして、その説教の最後に言います。「だから、兄弟たち、この方による罪の赦しが告げ知らされたことを知っていただきたい。そして、モーセの律法では義とされなかったあらゆることから解放され、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」人々はこの説教に喜んで耳を傾け、信仰に入っていきました。
「パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を崇める改宗者とが付いて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。」安息日ごとにキリストの言葉に聞き、神の恵みの下に生きていく。アンティオキア教会の人たちが生き始めた信仰生活を、私たちも受け継ぎ、継続しています。この教会にはユダヤ人も異邦人もいました。何人であろうと、どういう文化的背景で生きていようと、すべての人がキリストの恵みに招かれています。私たちの生き方の立派さや素晴らしさによってではなく、ただ神の恵みによって、私たちも神さまの御許へ招かれています。
しかし、ある人たちは、パウロとバルナバの下に大勢の人がやってくるのに嫉妬して彼らを口汚く罵り、パウロに反対しました。それどころか町の貴婦人や有力者を唆してパウロたちを追い出させます。迫害のために彼らはアンティオキアから出て行かざるをえませんでした。その時、二人は象徴的な仕草をします。「二人は彼らに対して足の埃を払い落とし、イコニオンに行った。」これは、かつて主イエスがおっしゃったことです。主イエスは弟子たちを宣教旅行に派遣するときに言われたのです。「あなたがたを受け入れない者がいれば、その町を出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに足の埃を払い落としなさい。」抗議のしるしというのは、証拠としてという意味です。ここに宣教に来て、福音を確かに告げた証しとして、そっと足の埃を落として次の町へ行く。自分たちを迫害する者へのしるしとしては、ささやかです。気持ちとしては砂を掴んで投げつけてやりたくなるかも知れません。主イエスは、ただそっと埃を落とすことだけをお許しになりました。聞いたのに受け入れなかった者の責任を問いつつ、しかしそれを相手と神さまとの事柄として主にお任せする。そういう姿勢なのだと思います。パウロとバルナバは、その言葉にここで従ったのでした。
このようにして、福音の言葉が小アジアで宣べ伝えられていきます。

2020年6月19日金曜日

2020年6月19日(使徒言行録13:1〜30)

使徒言行録13:1~30
シリア州アンティオキアの教会には、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデの幼なじみのマナエン、サウロなど、預言者や教師たちがいました。ここに、ニゲルと呼ばれるシメオンとキレネ人ルキオという人が登場します。「ニゲル」は「ニグロ」のことではないかと言われます。つまり、シメオンという人はアフリカ出身で、肌が黒かったということであるのかもしれません。さらに、「キレネ人」のルキオという人もいたとありますが、キレネは今のリビアにある都市名ですので、彼もアフリカの出身です。教会は生まれてすぐに、いろいろな肌の色の人がいたようです。
さらに、ここから先は推測ですが、主イエスが十字架にかけられた日のことです。「人々はイエスを引いていく途中、シモンというキレネ人が畑から帰ってくるのを捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後から付いて行かせた(ルカ23:26)」とあります。キレネ人シモン。この人は、アンティオキア教会の「ニゲルと呼ばれるシメオン」と同一人物なのではないか?そう想像することも許されるのではないかと思います。主の十字架を無理に担がされた一人の男が、その日十字架にかけられるイエスを目撃し、やがてこの方が復活したことを知り、神の子、救い主であると信じた。同じキレネ出身の仲間ルキオと共にアンティオキアの教会で信仰者として生きた。そうだとしたら、何と素晴らしいことでしょうか!
そのアンティオキア教会が、バルナバとサウロ(パウロ)を、宣教旅行に派遣します。聖書の巻末の地図の中にある「パウロの宣教旅行1」という地図の経路を御覧くださると、地名の理解の助けになると思います。シリア州アンティオキアを出発して、まずキプロス島に渡り、そこからアタリア、ベルゲ、アンティオキアへと進みます。この二度目に登場したアンティオキアはピシディア州アンティオキアで、出発地のシリア州アンティオキアとは別です。このようにして、バルナバとサウロ、そして彼らに同行したマルコと呼ばれるヨハネは各地で宣教をしました。(ただし、ベルゲに到着したとき、ヨハネはエルサレムに帰ってしまいます。後にこの出来事は火種になります。)
主イエス・キリストを神の子、救い主と信じる教会の群れが祈りをもって伝道者を送り出し、これまで踏み込んだことのない地に福音が届けられる。聖霊なる神さまの御業が、このようにして進んでいる。私たちが今日生きているそれぞの場所も、神さまと教会に、祈りをもって送り出された宣教地です。

2020年6月18日木曜日

2020年6月18日(使徒言行録12)

使徒言行録12
まるで神であるかのように振る舞うヘロデの二つの記事に挟まれて、使徒ペトロが牢獄から天使に導かれて出るという不思議な話が伝えられています。
ヘロデはヨハネの兄弟ヤコブを殺し、これが民衆に受けるのを見て、今度はペトロをも殺そうと画策します。ヘロデが迫害の手を伸ばしていく理由は、主イエスが殺されたのと同じ理由であったということでしょう。主イエスも、殺せ、十字架につけろと熱狂的に叫ぶ民衆の声によって殺されました。ポピュリズムがイエスを殺し、今度はヤコブを殺しました。だから、私たちは「みんながそうだと言っているから」という理由で、時代の空気にのってはいけないのだと思います。
そのようにして熱狂する民衆の声は、ついにヘロデについて、「神の声だ。人間の声ではない」と叫ぶに至ります。ヘロデもそれが気持ちよかったのでしょう。しかし、「神に栄光を帰さなかったため」に、ヘロデは死にました。医学的な意味での死因はよく分かりません。しかしはっきりと、これは神の裁きであったと聖書は私たちに伝えています。
これらのヘロデを巡る出来事を、私は、とても恐ろしい話だと思いました。ヘロデを祭り上げて「神の声だ」と叫ぶ民衆は、自分たち自身の声、世間の声を「神の声」と言っているのと同じだと思います。それは、私たちの社会でもまったく同じなのだと思います。特に今は社会の中で憎しみがむき出しになっているように感じます。怒りは、私たにを正義感という神の装いをまとわせ、世間の声を神の声のように響かせ、その声に同調する自分のあやうさに鈍感にさせてしまう。怖いことです。しかも私は私自身がそういう時代の子であることを認めないわけにはいかないのです。
そんな中で、不思議な、しかし静かな出来事が起こりました。日本の鎖でつながれていたペトロ、二人の兵士の間に捕らえられていたペトロのところへ、主の天使が来ました。「主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロの脇をつついて起こし、『急いで起き上がりなさい』と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。」ヘロデとヘロデを巡る熱狂とは対照的に、静かな出来事です。静かにペトロに語りかけ、ペトロを救って福音の証人として立たせる神の御業は、束縛の鎖を解き、ペトロを自由にしました。ペトロのために、神の前に身をかがめて祈っていた教会の仲間もここに登場します。神は、ご自身に身をかがめて静かに祈り、御言葉に耳を傾ける者をお忘れになることがない。キリストの証人として、何度でも遣わしてくださる。だから、世間の声に負けない大きな声が必要なのではありません。神を畏れ、御言葉に聞き、静かに祈っていていいのです。神さまご自身がこの世界の中で働いてくださっています。神さまにある静かな強さが、教会の力なのではないでしょうか。

2020年6月17日水曜日

2020年6月17日(使徒言行録11)

使徒言行録11
異邦人コルネリウスの家で、コルネリウスと彼の親類、親しい者たちにイエス・キリストの福音を宣べ伝えたペトロ。エルサレムの仲間たちはそのことに大変驚き、受け入れることができませんでした。「さて、使徒たちとユダヤにいるきょうだいたちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。そこで、ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、『あなたは割礼を受けていない者のところへ行き、一緒に食事をした』と言った。」
エルサレム教会にいた使徒たちは仰天したのだと思います。彼らはこれまで異邦人と付き合ったことなど一切無かったのですから。ペトロは、律法に禁じられている異邦人との交際を始めた。割礼を受けていない者たちが神を信じたといっているらしいが、まずは割礼を受けてユダヤ人になって、それから神を信じるのが物事の順序だろうと考えました。今、日本にいる私たちからしたら理解しがたい理屈ですが、彼らにとっては真剣な問いです。割礼を受けたユダヤ人であることが、彼らの誇りだったのです。
最近の米国での出来事を発端として、日本にいるアフリカにルーツを持つ人の声をラジオで聞きました。「日本には人種差別はない」と言う人がいるが、それは全然違っている。彼ら・彼女らが子どものころから経験してきたことは、聞くだけでも辛くなる話でした。私たちが無意識にしている差別は、他にもいろいろな場面であるのだろうと考えざるをえません。ユダヤ人にとっての割礼の問題には、似たような、無意識にすり込まれた感覚的なものがあったのではないかと思います。
神が見せてくださった幻に促されコルネリウスの家に入り、福音を伝えたペトロは言います。「主イエス・キリストを信じた私たちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、私のような者が、どうして神のなさることを邪魔することができたでしょうか。」この言葉を聞いた人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を崇めた、といいます。私たちの思いの狭さや短さを超え、それを打ち破り、誰をも無条件に招く神の御心に触れて、教会は新しくなりました。
エルサレムでそのようなことが起きているときに、別の場所でも大きな出来事が起こっていました。アンティオキア教会の誕生です。キプロス島やキレネから来たギリシア語を話すユダヤ人と異邦人とが形成する教会です。バルナバがここで伝道し、サウロを捜してここに連れてきて二人で伝道し、これからこの教会は、サウロ(パウロ)の異邦人伝道を支える教会になりました。このアンティオキアで始めて、弟子たちが『キリスト者』と呼ばれるようになったと言います。神さまの御業は、このようにして異邦人へと広がっていきます。神さまご自身が教会を通して働いておられるのです。

2020年6月16日火曜日

2020年6月16日(使徒言行録10:23b〜48)

使徒言行録10:23b~48
そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どの民族の人であっても、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れていただけるのです。神は、イエス・キリストを通して御言葉をイスラエルの子らに送り、平和を告げ知らせてくださいました。このキリストこそ、すべての人の主です。」

使徒ペトロはコルネリウスの家に行って、福音の説教をしました。コルネリウスはカイサリアのイタリア隊の100人隊長、異邦人です。彼は敬虔な人で、祈りと施しを大切にしていました。神さまはペトロに、神が清めたものを清くないと言ってはならないと教え、ペトロが異邦人コルネリウスに福音を伝えるように促します。彼は、それに応え、コルネリウスの家で福音を告げ知らせたのでした。
ペトロの説教を聞いたとき、この詩と言行録の中でも決定的な出来事が起こりました。「ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、異邦人にも聖霊の賜物が注がれているのを見て、驚いた。異邦人が異言を語り、神を賛美しているのを聞いたからである。そこで、ペトロは、『この人たちが水で洗礼を受けるのを、誰が妨げることができますか。私たちと同様に聖霊を受けたのです』と言った。」コルネリウスを始めとする異邦人たちに、聖霊が注がれました。
この使徒言行録では、第2章で、最初に使徒に聖霊が注がれました。教会が生まれ、彼らはいろいろな国の言葉で福音を語り出しました。次に、教会の仲間たちに聖霊が降りました。「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、堂々と神の言葉を語り出した(4:31)」。教会は心を合わせて一つの群れとして整えられ、持ち物を共有して助け合うようになります。やがて教会は迫害され、信者たちはちりぢりになります。その中のある者たちはサマリアに逃れた。サマリア伝道が始まりました。ペトロとヨハネも彼の地を訪れ、サマリアの人々のために祈ると、サマリア人に聖霊が降りました。「二人が人々の上に手を置くと、聖霊が降った(8:17)」。この聖霊は、キリストと出会ったサウロにも降ります。彼を異邦人のための伝道者へと造りかえます。そして、今日のところで、ついに異邦人自身の上に聖霊が降りました。異邦人も、聖霊を送る神様ご自身の御業に与ったのです。
私たちも同じ神の業に与っています。私たちも同じ聖霊をいただいています。私たちのうちに芽生えた神を信じる思い、信じたいという願い、小さな祈りのこころ、あるいは神さまへの反発もまた、神の御業がこの私のうちに始まっていることの証拠です。

2020年6月15日月曜日

2020年6月15日(使徒言行録10:1〜23)

使徒言行録10:1~23
カイサリアにいたコルネリウスという人は、とても敬虔な人でした。一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていました。彼はイタリア大隊と呼ばれる部隊の百人隊長でした。つまり、彼は異邦人でした。ユダヤ人ではなかった。この人のところへ、神はペトロを遣わそうとお考えになっていた。そのために、ペトロに不思議な幻を見せます。
昼、彼が祈っていたときのことです。「彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に降りてくるのを見た。その中には、あらゆる四つ足の獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、『ペトロ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声がした。しかし、ペトロは言った。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物など食べたことはありません。』すると、また声が聞こえてきた。『神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない。』」
旧約聖書、特にレビ記を読むと、食べても良い動物と食べてはならない動物について、細かく決められています。レビ記第11章が代表的な箇所です。動物は、反芻してひづめが割れていなければなりません。水の中に住むものは、うろこやひれがなければなりません。鳥は、猛禽は食べてはなりません。虫は、跳躍に適した後ろ足を持つもののみ食べて良いとされています。それ以外のものは、すべて食べてはならない。いわゆる宗教的タブーに属しています。現代でも、ユダヤ教徒やイスラム教徒は、そういうようなタブーを厳格に守っていて、化学調味料の成分として含まれるということさえも避けます。ですから、ペトロにとっては本当に驚くべき言葉であったと思います。食べてはならない生き物を、彼は生まれてこの方一度も口にしたことがなかったのですから。
神さまは、神が清めたものを清くないなどと言ってはならないと言います。明らかに、食べ物の話をしているのではありません。これからペトロが出会うコルネリウスの話です。異邦人であろうとユダヤ人であろうと、神が清めたものを清くないなどと言ってはならない、と主は言われます。ユダヤ人は、異邦人とは付き合わなかったからです。しかし、福音は、これまで汚れていると考えられていた異邦人にも届けられることになりました。神さまがそれを望まれたのです。主は、すべての人が福音を聞くことを願っておられるのです。

2020年6月14日日曜日

2020年6月14日(使徒言行録9:23〜43)

使徒言行録9:23~43
「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和のうちに築き上げられ、主を畏れて歩み、聖霊に励まされて、信者の数が増えていった。」
ここに「平和のうちに築き上げられ」と書いてあります。驚くべき言葉であると思います。外面的に見れば、教会は平穏無事だったというわけではありませんでした。確かにサウロは主イエスとで会って回心し、教会の仲間になりました。しかし、他にもたくさんの迫害者がいます。それに、サウロの存在自体が一つの問題です。「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。」それはそうだろうと思います。自分たちの仲間の振りをして油断させ、一網打尽にしようと思っているのではないかと警戒されても仕方がありません。というよりも、恐れられて当然のことをこれまでしてきました。
それだけではなく、サウロはユダヤ人の側から見れば裏切り者です。まだサウロがダマスコにいたころ、「ユダヤ人はサウロを殺そうと企んだ」と言います。これもまた、当然そういう話になるだろうなと思います。サウロがしてきたことを、サウロ自身がかつての仲間からされる立場になったのです。
サウロ一人を巡ってみても、教会の現実は、これで本当に平和と言えるのかと疑問を持たないわけにはいかないものでした。それなのに、どうして聖書は「教会は・・・平和のうちに築き上げられ」と言えたのでしょうか。
サウロのために、彼を信じて彼と教会との架け橋になってくれた人がいました。バルナバです。この人は、使徒4:36に登場していました。「レビ族の人で、使徒たちからバルナバーー『慰めの子』という意味ーーと呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足元に置いた。」この人がサウロを引き受けてくれました。「バルナバは、サウロを引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼が旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって堂々と宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで弟子たちと共にいて自由に出入りし、主の名によって堂々と宣教した。」
平和というのは、何もないこと、平穏無事なことではありません。波風は立つし、傷も負います。しかし、主イエス・キリストとの出会いがそこにあり、主にある隣人との出会いがあるところに、主の平和があるのではないでしょうか。隣人のために受ける傷を共に引き受ける共同体、それが教会であり、教会で経験する主の平和です。

2020年6月13日土曜日

2020年6月13日(使徒言行録9:1〜22)

使徒言行録9:1~22
最初の殉教者ステファノが石打にされたとき、サウロという若者が石を投げる者たちの上着の番をしていました。その後も彼は迫害の手を止めることなく、弟子たちはエルサレムにいることができなくなるほどでした。さらに「サウロは教会を荒らし、家々に入って、男女を問わず引き出して牢に送っていた(8:3」のです。その人がここに再び登場乗します。教会にとっては、敵です。
「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、迫害しようと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂宛の手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。」ダマスコの教会の人々にとっては、どんなにか恐ろしいことであったことだろうかと思います。
ところが、そんなサウロが主イエスと出会いました。思わぬことでした。「ところが、旅の途中、ダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか』と語りかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『私は、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが告げられる。』」サウロは、突然自分の人生の道に割り込んできたイエス・キリストと出会ったのです。
しかし、サウロは個人的に自分一人でイエスさまと出会って、心の中で神さまを信じました、という話ではありません。サウロには、「人」が必要でした。彼を助けてくれる「人」です。彼はそれまで憎んできたキリストを信じる「人」と新しく出会うことによってのみ、新しく生まれ変わることができたのです。だから、イエスは彼に「起きて町に入れ」と言ったのでした。
サウロに出会うために選ばれたのは、アナニアという人です。主がアナニアに言われます。「立って、『まっすぐ』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を尋ねよ。彼は今祈っている。アナニアと言う人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」アナニアは、当然、拒みます。その人は迫害者であって、仲間たちを何人も縛り上げてきたし、今回もこの町で酷いことをしようとしていたのです、と。しかし、主は重ねてアナニアに言われます。「行け」と。彼は私が選んだ器だから、と。
サウロはこのアナニアと出会うことで、キリストと出会いました。自分を赦すキリストの愛を、自分に手を置いて祈ってくれるアナニアを通して知りました。そしてアナニアは、サウロと出会うことでキリストと出会いました。自分を赦すキリストの愛を、サウロを受け入れることを通して知りました。私たちは隣人との出会いを通して、神さまと出会うのです。

2020年6月12日金曜日

2020年6月12日(使徒言行録8:26〜40)

使徒言行録8:26~40
フィリポはエルサレムからガザに下るさみしい道で一人のエチオピア人の高官と出会いました。彼は聖書を読んでいました。イザヤ書第53章です。「彼は、屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。誰が、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。彼の命は地上から取り去られるからだ。」この高官は、この不思議な言葉は預言者自身のことなのか、誰か他の人のことなのか、その意味を測りかねていたのでした。
なぜ、彼はこの言葉に興味を持ったのでしょうか。彼は聖書を読んでいた。そうは言っても、2000年前の話です。今私たちが手にしているようなコンパクトな一冊の本ではありません。預言者イザヤの書だけで大きな巻物だったに違いない。この人は女王の高官でしたから、そのような特別な、高価なものを手にしていたのでしょう。食い入るように読んでいたのだと思います。第53章まで読み進めて、立ち止まった。きっと、イザヤ書が伝えるこの言葉が目にとまったのだと思います。「誰が、その子孫について語れるだろう。」なぜなら、彼は宦官だったからです。
彼は思ったのではないでしょうか。自分と同じ痛みを知っている人がいるのか、と。この言葉は、この預言者自身のことを言っているのか、それとも、他の誰かなのか。彼の疑問は机上の話ではありません。この私と同じ痛みを知っている人は一体誰なのか、という切実な問いです。フィリポは、この聖書の言葉から、主イエス・キリストの話を宦官に聞かせたのでした。
聖書が私たちに伝えているのは、主イエス・キリストの話です。キリストを私たちに証言します。そのお方は、私たちの痛みを負い、私たちの傷を担ってくださったお方です。聖書は、「キリストという文脈」によって読むことが大切です。これを無視すると、思わぬ誤読が起きてしまう。
例えば、旧約聖書にはこのようにあります。「睾丸の潰れた者、陰茎の切り取られた者は、主の会衆に加わることはできない。(申命記23:2)」これを文字通りに読めば、宦官は排除されてしまいます。しかし、他の所では、「宦官も言ってはならない。『見よ、私は枯れ木だ』と。主はこう言われる。宦官が私の安息日を守り、私の喜ぶことを選び、私の契約を固く守っているならば、私の家と城壁の中で、私は、息子、娘にまさる記念のしるしと名を与え、消し去れることのないとこしえの名を与える。(イザヤ書56:3~5)」私たちの痛みを負ってくださった方は、ご自分を信じる宦官をお喜びになります。主イエスには何の差別も偏見もない。キリストは私のために痛みを負ってくださった。だから、フィリポは彼にすぐに洗礼を授け、この人は神を信じ、キリストと共に生き始めたのです。

2020年6月11日木曜日

2020年6月11日(使徒言行録8:1〜25)

使徒言行録8:1~25
「さて、散っていった人々は、御言葉を告げ知らせながら巡り歩いた。フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。」
ステファノが殉教しました。その場にいて、石を投げる者たちの上着の番をしていたサウロという若者は、エルサレムの教会に対するされに苛烈な迫害を繰り広げます。それで、使徒以外の者たちはちりぢりになって、ユダヤとサマリアの地方に広がっていきました。使徒言行録の冒頭で、主イエスは「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる」と言われました。この言葉を聞いたとき、一体誰が迫害の結果、サマリアに行くことになると予想したでしょうか。エルサレム伝道を終え、次はサマリアと戦略的に手を伸ばしたのではなく、迫害の結果、思わぬ仕方でサマリアに行くことになります。それが聖霊の力による広がりだと言うのです。
中学生のころにボーイスカウトをやっていました。屋外にかまどを造り、薪でご飯を作りました。あるとき、火力が強すぎてフライパンの油に引火し、燃え上がったことがあります。焦った私は水をかけました。すると、火は消えるどころか辺り一面に飛び散ってしまいました。家の中でなくて良かったです。当時、そんな事故を起こしていたことはとてもリーダーには言えませんでした!
サマリアへの伝道の広がり。私のイメージは、この時の火が飛び散ったイメージに重なります。消そうと思って水をかけると、却って辺り一面に火が飛び散ってしまう。そうやって、福音は広がっていきました。聖霊の火が辺り一面に広がるのです。
その先では、困ったことも起こりまっす。シモンという魔術師とで会うと、彼は使徒たちの働きに驚き、金を出して自分にも同じことできるようにしてほしいと言い出しました。そういう困ったことも起こりましたが、そういうものなのかも知れません。教会は、いつでも問題を抱え込むものなのだと思います。新しい出会いは、新しい混乱をもたらします。しかしそれこそが福音が進んでいる証拠です。
ここでの大切な言葉は「二人が人々の上に手を置くと、聖霊が降った」です。使徒に降り、弟子たちに降った聖霊が、サマリア人にも降りました。彼らも神の霊に生き始めた。彼らも、信仰に生き始めたのです。このサマリアは、かつて主イエスが訪れた地です。使徒たちの口から福音を聞いたとき、何年か前にやって来た主イエスを思い出し、喜んだのではないかと思います。ここでも、聖霊が働いている。私たちの計画通りではなく、思わぬ仕方で。私たちの想像を超えて、聖霊の火は燃え広がっています。今も!

2020年6月10日水曜日

2020年6月10日(使徒言行録7:17〜60)

使徒言行録7:17~60
教会が、教会の愛を保つために「信仰と聖霊とに満ちた人」の一人、そして恐らく筆頭として選んだステファノは、恵みと力に満ちて素晴らしい不思議な業としるしを民衆の間で行い、律法学者や長老たちの憎しみを買うようになりました。最高法院に連行され、「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません」と難癖をつけられます。大祭司から「訴えのとおりか」と尋問されたステファノがその問いに答えてした説教が、今日の箇所です。
この説教のメインは、モーセです。モーセは、絶えず人々の無理解に直面していました。若いころの出来事について、ステファノはこのように伝えます。「翌日、モーセはイスラエル人が互いに争っているところに来合わせたので、和解させようとして言いました。『君たちは兄弟どうしではないか。なぜ、傷つけ合うのだ。』すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言いました。『誰が、お前を我々の監督や裁き人にしたのか。昨日エジプト人を殺したように、私を殺そうというのか。』モーセはこの言葉を聞いて逃げ出し・・・。」この前日、モーセはイスラエルの同胞を痛めつけるエジプト人に復讐をして、殺してしまっていたのでした。
しかしその後、神さまはモーセに現れ、かつて人々が「誰が、お前を監督や裁き人にしたのか」と言って拒んだ者を指導者、また解放者になさいました。
しかし、その後イスラエルの人々は神さまに背き続けます。あるときは「自分たちの手で造ったものを楽しんでいました。そこで神は顔を背け、彼らが天の万象を拝むままにしておかれました」。そして、今、ステファノは目の前にいる同時代のイスラエルの人々に言います。「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。一体、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となったのです。」人々はそれを聞いて激しく怒り、ステファノに石を投げつけて、殺しました。
最初の殉教者ステファノは、律法をけなしているという言いがかりをつけられて、モーセを蔑ろにした先祖の罪をなぞる人々の手で殺されました。しかし、その最期の時、彼は天が開けて、神の右に立っておられるイエス・キリストを見上げました。主イエスご自身の歩みに重なるようなこの一人の信仰者の姿は、神に逆らう者に深く食い込む罪の恐ろしさを浮き彫りにします。この一人の信仰者の存在が、私たちに語りかけ、問いかけてくるものがあるのです。

2020年6月9日火曜日

2020年6月9日(使徒言行録6:1〜7:16)

使徒言行録6:1~7:16
そこで、十二人は弟子たちを全員呼び集めて言った。「私たちが、神の言葉をおろそかにして、食事の世話をするのは好ましくない。そこで、きょうだたち、あなたがの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人探しなさい彼らにその仕事を任せよう。私たちは祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊とに満ちた人ステファノと、ほかにフィリポ・・・を選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。

生まれたばかりの教会に弟子の数が次第に増え、問題も起こり始めました。ギリシア語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人との間のトラブルです。ヘブライ語を話すユダヤ人が、ギリシア語を話すユダヤ人のやもめたちの日々の分配を少なくしている、という苦情が出たのです。教会の場所はエルサレム。つまり、土地の言葉はヘブライ語。ギリシア語を話すユダヤ人というのは、地中海世界に散らばって外国で生まれて育ったユダヤ人のことです。移民の子ということになります。しかもその中のやもめということは、いちばんの社会的弱者です。そういう弱い立場にいる人たちが、教会の中でも軽んじられてしまっていたのです。これでは世間で起きていることと変わりがありません。教会は誕生した時から罪と無関係ではありませんでした。
この問題に対処するために、使徒たちは、食事の世話をするための専門の働き手を立てることを決めます。教会が、この世の原理とは異なる基準、つまり愛によって生きることに専心する人々がたてられました。教会の務めが分化されたのです。それは教会が愛の務め、そして御言葉と祈りの務めと、その両方が決して欠かすことのできないものであることを知っていたからです。教会の働きにはいろいろな種類や役割があります。しかしその目的は同じで、教会がキリストの体として整えられ、キリストへの愛と互いへの愛によって整えられることです。そうやって、教会に神様が託してくださった福音宣教に仕えます。
今、私たちはこれまでの教会の動きとは違う時間を経験しています。集まって一緒に何かをすることも、なかなかできません。しかし何事も、ここにあるとおりに他者への愛によって道が選ばれるのなら、神さまはそれを用いて、教会を一つの絆で結んでくださいます。絆には「傷(きず)」が含まれます。エルサレム教会では、社会的構造から来る差別が持ち込まれてしまいました。私たちの罪がもたらす分断を乗り越えるなら、必ず傷つきます。しかしその傷を引き受けることが絆であり、それが愛するということです。傷を引き受ける「絆」は、神さまが私たちの間に起こしてくださる愛の奇跡です。

2020年6月8日月曜日

2020年6月8日(使徒言行録5:17〜42)

使徒言行録5:17~42
「そこで、大祭司と仲間たち、すなわち、そこにいたサドカイ派の人々は皆、妬みに燃えて立ち上がり、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。ところが、夜間に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、『行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい』と言った。これを聞いた使徒たちは、夜明け頃、境内に入って教え始めた。」

民衆に福音を宣べ伝えていた使徒たちは、ついに大祭司たちの妬みを買うようになりました。使徒たちは再び逮捕され、牢屋にぶち込まれます。しかし、主の天使が来て、彼らを解き放ちました。そして言うのです。「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と。それで、彼らは夜明け頃にすぐにこの言葉に応えます。「これを聞いた使徒たちは、夜明け頃、境内に入って教え始めた。」
戦略的に考えたら、愚かな行為なのだと思います。十分に警戒すべき状況です。場所を変えるとか、やり方を変えるとか、方法を考えなければ同じことの繰り返しになるのは火を見るよりも明らかです。しかし、彼らはすぐに再び神殿の境内に行って、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えました。その一事にすべてを傾けました。
教会のなすべきことは、それに尽きるのだと思います。戦略的に有効な方法を考え出すよりも、出会う人に愚直に福音を伝えること。しかも彼らが宣べ伝えた福音は、これです。「私たちの先祖の神は、あなたがたが木に掛けて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。」主イエス・キリストにある罪の赦しの福音です。教会は、この言葉を愚か者のようになって伝道しました。
迫害は繰り返されます。また再び捕らえられ、尋問され、鞭で打たれ、イエスの名によって語らないように命じられます。「それで使徒たちは、イエスの名のために辱める受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えずメシア・イエスについて教え、福音を告げ知らせていた。」主イエス・キリストを信じ、その名による福音のあまりの素晴らしさに感動していたのでしょう。この素晴らしい福音を一人でも多くの人に知ってもらいたかったのでしょう。そのために、自分自身は愚か者のように福音を告げ、この御名の輝きに生きたのです。こうして、教会という信仰共同体の基礎が築かれました。

2020年6月7日日曜日

2020年6月7日(使徒言行録5:1〜16)

使徒言行録5:1~16
教会の人々が次々に自分の財産を売って献金しているのを見て、アナニアとサフィラ夫妻は気持ちが焦ったのだと思います。自分たちの財産も処分して献金することにしました。しかし、全部を献金してしまうことはできませんでした。それはそうだろうと思います。ただ、ほかの皆は「一人として持ち物を自分のものだという者は」いなかったので、人目を気にして、献金する額を自分たちの全財産だと偽ることにしました。夫婦で決めたのです。夫のアナニアは、こうして準備した全財産の一部を教会に持っていて、使徒たちの前におき、献金としました。ところが、それを見抜かれてしまいます。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金の一部を取っておいたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思い通りになったではないか。」彼はその場で死んでしまいました。かなりショッキングな出来事です。更に、それだけではありません。遅れて入ってきたサフィラも同じ嘘をつき、彼女も夫に続けて死んでしまいました。重ね重ね、読む者に少なからずショックを与えます。自分の献金を裁かれているような気さえしてしまいます。
アナニアとサフィラは、そんなに悪かったのでしょうか。全財産を献金しなければ、死をもって償わなければならないほどに悪いことなのでしょうか?
私は、この話の大切なことは、ここにいるのがペトロだということだと思います。ペトロは、かつてサタンにふるいにかけられて、見事にその誘惑に陥り、主イエスを否んだ男です。主イエスが十字架にかけられたとき、自分の命を守るために主を捨てた男です。アナニアとサフィラと、ペトロと、どっちが悪いのか。どちらと比べるようなことではないかもしれませんが、ペトロの罪は、もう自分では立ち直れないほどに決定的でした。
そのペトロが彼らに問います。なぜ、聖霊を欺いたのか、と。言葉を換えれば、聖霊によって、悔い改めるチャンスがあるはずだということではないでしょうか。ペトロとアナニア・サフィラ夫妻の違いはただ一つです。自分ではどうしようもない罪人であることはまったく同じです。違っていたのは、ペトロが罪を犯したときにイエスの憐れみの中に帰ったことです。ペトロは、この夫婦にも、その道があることを伝えようとしたのではないでしょうか。私も、自分ではどうしようもない罪人です。そして、主イエス・キリストは、この私がサタンに心を奪われるとき、私のためにも祈り、聖霊が悔い改めの心を与えようとしてくださっている。主イエス・キリストの憐れみの中で、私はそのことを信じます。

2020年6月5日金曜日

2020年6月5日(使徒言行録4:1〜22)

使徒言行録4:1~22
「皆さんもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中から復活させられたナザレの人イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられ、隅の親石となった石』です。この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
主イエス・キリスト、それは、私たちがこの方によって救われるべき名です。私たちはキリストのお名前によって救われる。ペトロはそのように宣言します。
冒頭の言葉で、「この人が良くなって」と書いてあるのは、昨日読んだ足の萎えた人のことです。彼の足が良くなったことから騒動になり、集まった人々にペトロがキリストの話をしました。すると、それを聞きつけた祭司たち、神殿の主管、サドカイ派の人々が近づいてきて、ペトロらの話を聞いて彼らを捕らえ、翌日まで留置したのでした。主イエスを十字架にかけるのを先導した人々が、ついに使徒たちへの迫害を始めたのです。それは、彼らが主イエス・キリストの名による救いを告げたからです。
教会がキリストの御名による救いを宣べ伝えると、必ず迫害されます。教会が生き生きと伝道した時代は、教会が体制側であった時代よりも、むしろ迫害されていた時代であったと思います。私などは気が小さいですし、すぐに人の顔色を窺ってしまう臆病者なので、こういう聖書の御言葉を読むと怖くなってしまいます。しかし、キリストご自身が迫害されて十字架にかけられたことを思うと、それを福音(良い知らせ)として語る以上、それは避けられないのだろうとも思います。
いや、ペトロやヨハネは、避けられないから、仕方がないからと言って、いやいや主イエスの話をしていたわけではありませんでした。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、ご判断ください。私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」話さないでいられないというのは、それだけキリストの御名による福音が素晴らしいからに違いありません。この宝を隣人に届けないわけにはいかないからでしょう。キリストの御名による救いの素晴らしさが、ペトロとヨハネと私たちの原動力です。
だからこそ、主イエス・キリストの御名が、今日もほめたたえられますように。

2020年6月4日木曜日

2020年6月4日(使徒言行録3)

使徒言行録3
ペトロとヨハネが神殿の境内で出会った人は、足が不自由で、いつもそこに座らされて施しを乞うていました。ペトロとヨハネが通りかかったときにも、彼らに施しを乞います。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見つめて、言いました。「私たちを見なさい。」彼は何かをもらえると思って期待します。すると、ペトロは彼に言いました。「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、彼の右手をとって立たせると彼は立ち上がり、躍り上がりました。
この素晴らしい出来事は、私たちキリスト教会に神さまが託してくださった宝は一体何なのかを伝えています。私たちに神さまが預けてくださったのは、銀や金ではありません。そうである以上、教会は金持ちになることはできないでしょう。人間的に考えると少し残念かも知れません。しかし、それでいいのです。もっと素晴らしい宝を、私たちは持っているのですから。
主イエス・キリストの御名による福音。これこそ、私たちに神さまが預けてくださった素晴らしい宝、何ものでも替えることのできない尊いものです。
この男が立ち上がり、ペトロとヨハネの後についてきたことから騒動が起こります。そこですぐにペトロは驚く民衆に向かって福音を語り出します。ペトロが語った言葉の内容は、要するに、主イエス・キリストのことです。キリストに私たちがどう関わったのか、そして、神さまはどうなさったのか。そのことを語ります。「あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。」私たちは、主イエスを殺した。十字架につけた。正しい方、神が遣わしてくださる方を拒んだ。しかしそれは、無知のためであったとペトロは言います。メシアの苦しみは、預言者たちの口を通して予告されていたとおりであり、それが実現されたのだ、と言います。つまり、神がメシアを苦しみに引き渡した。そして、ペトロは彼らに言いました。「だから、自分の罪が拭い去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」神は、アブラハムと結んだ契約にあなたたちを加えている、だから、神の祝福のうちにいる。ペトロはそのように言います。「それで、神はご自分の僕(イエス)を復活させ、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、この方があなたがたを祝福して、一人一人を悪から離れさせるためでした。」神さまは、私たちを招いてくださっている。
これが、イエス・キリストの名による福音です。どんなに高価な銀や金でも買うことのできない永遠の価値を持つ宝です。この宝が、私たちのものなのです。

2020年6月3日水曜日

2020年6月3日(使徒言行録2:25〜47)

使徒言行録2:25~47
「だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
ペンテコステの日の使徒ペトロの説教、しかもその最後の言葉です。イエスは主であり、メシアである。教会の語るメッセージを一区に集中させるならば、これに尽きます。神は私たちが十字架につけたイエスを主、またメシアとなさった。すると、人々は問います。「兄弟たち、私たちは何をすべきでしょうか」と。ペトロは答えました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。」
「悔い改める」というのは、聖書では、向きを変えることだと言われます。自分がしてしまったことを講解するとか、その結果自己嫌悪に陥るとか、あるいは反省するということとも少し違います。生き方の向きを変える。これまでと違う生き方を始めることを意味します。主イエス・キリストとで会ったとき、私たちの生き方が変わります。それは、ペトロが更に言葉を重ねて「邪悪なこの時代から救われなさい」と言ったとおり、この時代の精神との決別を意味します。
今の状況は、ウイルスという一つの被造物、しかも私たちの力ではコントロールできない被造物の力によって、私たちの造ってきた社会がテストされているという面があると思います。徹底したマネー主義、自己責任主義、排外主義、どれも、ウイルスを前にして何の力もありませんでした。しかし、今まさに、力が無い上に多くの人の犠牲の上で成り立ってきた社会のあり方に、何の反省もなしに戻ろうとしているように思います。「新しい日常を取り戻す」というかけ声と共に。「邪悪なこの時代から救われなさい」というのは、私たちが独善的に社会を裁き、見下し、半分世捨て人のように世間に世間への関心を捨てるということではありません。私たちはこの世界の中で、悔い改めて洗礼を受けたキリスト者として生き始めました。主イエス・キリストの後ろについていくキリストの弟子になりました。そのために、キリストが聖霊を与えてくださったのです。
そういう新しい生き方が、最初の時代の教会に現実化していました。「信じた者たちは皆一つになって、すべての者を共有にし、財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合った。」もちろん、2000年前と今とでは社会制度も違うので、文字通りに同じことをするということは不可能です。しかし、ここには今の時代精神に対抗するパワーがあります。心を一つにし、パンを裂き(聖餐)、神を賛美する(礼拝)共同体がこの世界にあるという事実は、神の福音がこの世界に向けられているという証拠に他ならないのです。

2020年6月2日火曜日

2020年6月2日(使徒言行録2:1〜24)

使徒言行録2:1~24
今週の日曜日はペンテコステでした。今朝の聖書の御言葉の第1節、「五旬祭の日が来て」の「五旬祭」が、ギリシア語では「ペンテコステ」という音の言葉です。50日目の祭りです。何から数えて50日目なのか?私たちからすればもちろん主イエスの復活を祝うイースターから数えて50日目なわけですが、これはもともと旧約聖書に出典のある祭りの日で、過越祭から50日目の祭りです。旧約聖書が定める三つの大きな祭りの一つです。だからこそ、使徒言行録2:1でも、大勢の人がエルサレムにやって来ていました。
レビ記23:15以下にある「七週祭」が、新約に出て来る五旬祭のことです。他にも、畑の借り入れの祭りとも呼ばれています。その名の通り、新しい穀物を刈り入れ、それを神に感謝する祭り。この季節に収穫するのですから麦の収穫の祝いでしょう。それぞれ収穫したものでパンを作り、神さまに献げます。
そういう日に、キリスト教会は生まれました。この日に起こった出来事は印象的です。五旬祭の日に使徒たちが一つの場所に集まって祈っていました。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話し出した。」炎のような舌が使徒たち一人一人の上にとどまった。すると彼らは、聖霊、つまり神の霊が語らせるままに外国の言葉を語り出します。何を語り合っていたのか?読み進めると分かるとおりに、主イエス・キリストの福音を語り合っていました。彼らの口から聞こえてくる言葉、そして先頭に立ってペトロが語る説教を、都に来ていたたくさんの人たちが耳にしたのです。
それは、まさに新しい実りの刈り入れのような出来事です。蒔かれた福音という種が結ぶ実りを刈り入れます。聞く人の心に届く言葉で福音を語り、そこで結ばれる実りを刈り入れる。それが教会の使命です。そのために、キリストが私たちに聖霊を与えてくださいました。
私たちも同じ聖霊にあずかっています。それは、信ずべき事柄、信仰の対象です。さがみ野教会も、座間の地で44年の歳月、福音を語り続けてきました。神さまの霊がなければ不可能です。「終わりの日に、私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ」と聖書に書いてあります。「すべての肉なる者に」です。主イエス・キリストの死と復活という福音を、神さまは私たちに託していてくださる。そのことを信じて、教会の新しい日々の営みを織りなしていきましょう。

2020年6月1日月曜日

2020年6月1日(使徒言行録1)

使徒言行録1
「さて、使徒たちは集まっていたとき、『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた。イエスは言われた。『父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。』」

「あなたがたの上に聖霊が降ると・・・」という言葉はあまりに有名ですが、こういう文脈で語られた言葉だったのか、と気づかされます。使徒たちは、十字架にかけられて復活したイエスに向かって問いました。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか。」主イエスは、そう問われてどうお思いになったのでしょうか。がっかりなさったのではないでしょうか。主が十字架にかかったのを目撃した者たちの言葉です。それどころか、墓に葬られ、甦ったイエスと再会した者たちの言葉です。それが、この期に及んで、「イスラエルのために国を建て直してくださるのは・・・」というのは、まったく分かってくれていない、これまで一体何を聞いてきたのか、と思われてもしかたがないような言葉です。
しかし、この言葉は、人間の有り様を真実に言い表していると思います。命まで献げてくださった方を前に、私たちは結局自分や自分の所属集団のことしか考えられないのです。主イエスが十字架に向かっていくときに、イエスに向かって、あなたが王座に着くときには私たちを右と左に座らせてくださいと言ったのと同じことが起きている。自分のポジションが関心の第一であって、主イエスがどんな思いで十字架にかかったのかを考えようとしない。その想像力を欠いている。私は、そこに自分自身の姿を見ないわけにはいきません。
主イエスがご自分の霊である聖霊を与え、主の復活の証人とすると約束したのは、そういう者たちでした。12節以下では自殺したユダに代わってマティアという人が使徒に選ばれます。思えば、彼らは皆ユダと同じです。いやもしかしたら、十字架にかけられるイエスを見捨てて逃げたのですから、自分で何かを考えて行動を起こしたユダよりももっと酷いのかも知れません。流されるままになり、結局は逃げたという意味において。そんな者たちを、主はご自分の復活の証人として選び、証人として生きるために必要な神ご自身の霊の力を与えてくださいます。私たちも、キリストの復活の証人です。復活の証人、それは、罪人を憐れんでくださるキリストの愛の証人でもあります。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...