2023年1月31日火曜日

2023年1月31日の聖句

神よ、あなたは変わることはなく、あなたの年は終わりがありません。(詩編102:28)
恵みがあなたがたと共にあるように。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から平和があるように。(黙示録1:4)

神さまは変わることのないお方。何という慰め、何という喜びでしょう!私たちは移ろいやすく、不確かです。決心はすぐに揺らぎ、志は挫折しやすい。私は信仰が弱く、私の希望はもろく、私の愛はむなしい。ところが神さまはそうではありません。神さまは変わることのないお方。どのようなときにも、どのような場合であっても、神さまの御心が移ろってしまうことはないのです。
その事実を使徒パウロはこのように言いました。「私たちが真実でなくても、この方は常に真実であられる。この方にはご自身を否むことはできないからである。(テモテ二2:13)」私たちは主イエス・キリストの真実によりかかっていいし、そうすべきなのです。どのようなときにも変わることのないキリストの真実が私たちの救いです。
ですから神が変わることのない方というのは、昔の頭のいい人が考え出した理屈ではありません。論理的な命題の類いではないのです。「恵みがあなたがたと共にあるように。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から平和があるように。」神が今も、かつてもおられ、またやがて来られること、それは神がいついかなる時にも恵みに満ちた方であるという事実と不可分です。神は変わることのないお方。それは変わることのない真実をもって私を愛してくださっているという事実と別々のことではありません。神は変わることのない方。それは、神の恵みと慈しみの経験、キリストの真実を経験する私たちの信仰経験と一つなのです。
神さまは、永遠に変わることのない真実をもって、今日も私たちを愛してくださっています。神さまは、今日もご自分の真実を貫いて私たちに恵み深くいてくださっています。主イエス・キリストの真実が今日も変わることなく私たちを生かしてくださっています。

2023年1月30日月曜日

2023年1月30日の聖句

主、私たちの神は
私たちが進んだすべての道で、
私たちを守ってくださった。(ヨシュア24:17)
見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)

マタイによる福音書は、とても長い系図から始まります。そして、ヨセフのもとに天使が来て、産まれてくる子は「インマヌエル」と呼ばれると告げます。インマヌエル、神は私たちと共におられるという意味です。思えば系図はただ人間の歴史であるだけではなく、私たち人間の歴史を負って共にいてくださる神さまの歴史です。神さまは、私たち人間の歴史を通じてずっと共に居続けてくださいました。ヨセフと、マリアと、そして私たちすべての者と神は共にいてくださる。
そのことを冒頭で伝えるマタイによる福音書の最後、終わりのところで何を伝えているのかといえば、「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という主イエスさまの宣言です。マタイによる福音書はインマヌエルから始まって、世の終わりまで私が共にいるという主イエスの宣言で終わっている。共にいてくださるキリストの約束が全体を覆っています。
キリストはどのようなときにも私たちと共にいてくださいます。いつでも、どのようなときにも。こんなに嬉しいことはありません。「主、私たちの神は私たちが進んだすべての道で、私たちを守ってくださった。」私たちと共にいてくださる神は、どのようなときにも私たちを守っていてくださいます。
昨日礼拝を捧げ、新しい一週間が始まりました。体調を崩しているという連絡が何件か入っています。自身や家族に困難を抱えながら出発していった人もいます。そういう私たちが出ていく場所は、神さまが私たちを遣わされた場所です。そこに行くために、神さまは私たちを独りぼっちにはなさいません。必ず神さまご自身が共にいてくださいます。キリストと共に、キリストの守りを信じて、私たちは生きていきます。この一週間も、主にあって新しく。

2023年1月29日の聖句

今週の聖句:あなたを超えて主は昇り、その栄光はあなたの上に現れる。(イザヤ60:2b)

今日の聖句:
主、万軍の神、再び私たちを慰めてください。あなたの御顔を輝かせてください。そうすれば私たちは救われます。(詩編80:20)
私たちの神は愛と慈しみにあふれ、この光は暗闇にいる全てを照らします。(ルカ1:78~79)

聖書はしばしば神さまを光のイメージで語ります。「万軍の主」という神さまの呼び名は、夜空一面に輝く星と関わっていたのではないかという話を聞いたことがあります。数えきることのできない星の光のイメージが、天の万軍を率いる神さまのイメージと重ねられていたのではないか、というのです。すてきなイメージだと思います。天を埋め尽くす星よりもなお多くの軍勢を率いる神さまの御力です。
神の光は、しかし夜空に輝く星の光だけではなく、朝を告げる曙の光でもあります。「この光は暗闇にいる全てを照らします。」暗闇の中にうずくまり、絶望している者にも神さまの光は届く。朝が来た。希望の光が私たちを照らしている。そのように告げています。しかもこの光は暗闇にうずくまる者を無理矢理引きずり出し、強い光で成敗してしまうような、暴力的なサーチライトのような光ではありません。神の曙の光は、神の「愛と慈しみにあふれ」る光です。私たちはこの光によって救われる。
今週の聖句は「あなたを超えて主は昇り、その栄光はあなたの上に現れる」といっていますが、これもやはり光の聖句です。主の栄光、主ご自身の光が私たちを超えて照らし、私たちは光に包まれている。この光が私たちを救うのです。
日曜日、主の日の朝を迎えました。今日、私たちは神さまの光の中を歩み、光からの光、主イエス・キリストを礼拝します。あなたを照らす光が来た!聖書がそう告げるキリストを仰いで、私たちの一週間が始まります。

2023年1月28日土曜日

2023年1月28日の聖句

ダビデのゴリアトへの言葉:お前は剣、槍、投げやりを持って私に向かってくる。しかし、私はお前に向かって万軍の主の名前によって行く。(サムエル上17:45)
この世と調子を合わせてはいけません。(ローマ12:2)

ゴリアトはペリシテ軍の屈強の戦士、しかも身長2.9メートルもあった大男です。イスラエルがペリシテと戦争をしたとき、ゴリアトは全イスラエル軍の前に現れて一騎打ちを挑みます。しかしそのような大男を前にしてイスラエルの人々は完全に怖じ気づき、戦意喪失してしまいました。
ところがそこに、兵士である兄たちのところへお弁当を届けに来た羊飼いの少年ダビデがやって来ました。ダビデはゴリアトを前に腰が砕けている兄や他の兵士を見て憤慨し、自分がゴリアトを倒すと言います。兄たちはダビデの言葉を聞きつけて、弟に腹を立てました。しかしダビデは引き下がらず、生ける神の戦列に挑戦し、侮辱するゴリアトを自分が倒そうと言います。遂に、ダビデの言葉は王サウルにまで届いた。ダビデは王の前に連れて行かれ、そこで自分があの男と戦うと言います。「あなたの僕は父の羊を飼う者です。ライオンや熊が出て来て、群れの中から羊を奪うこともあります。その時は追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かってくれば、たてばみをつかみ、打ち殺してしまいます。僕はライオンも熊も打ち殺してきました。ですから、あの無割礼のペリシテ人もあの獣のようにしてみせます。生ける神の戦列をあざ笑ったのですから。」それを聞いたサウル王は自分の甲冑を着けて戦えと言いますが、ダビデはただ羊飼いの杖と、河原で拾った五つの石だけを持って立ち向かったのでした。
ダビデは徹底してゴリアトを恐れません。神が自分を守ってくださっていることを確信していたからです。兄も王も他のイスラエルの兵士たちも、皆、口では何と言おうとも本音のところでは神を信じきっていませんでした。しかしダビデは完全に神を信頼していました。だからゴリアトと退治したとき、言ったのです。「私はお前に向かって万軍の主の名によって行く」と。ただ神だけを信頼し、神が共にいてくださることだけを根拠に、ダビデは立ち向かいました。
私たちは、この世と調子を合わせてはいないでしょうか。目に見えない神を信じ、信頼しして生きることよりも、自分の目に映るところや他の人が言っていることや社会の空気を信じてはいないでしょうか。私たちは何を信じ、何を信頼しているのか。御言葉は今日私たちにそのことを問いかけています。

2023年1月27日金曜日

2023年1月27日の聖句

義しい人は小川のほとりに植えられている木のようで、
時が来ると実を結び、
その葉は枯れることがない。(詩編1:3)
パウロの手紙:私はこう祈ります。あなた方の愛が知識とあらゆる体験にあって、ますます豊かになり、イエス・キリストによる義の実りで満たされて、神に栄誉と賛美がもたらされますように。(フィリピ1:9,11)

「あなた方の愛が知識とあらゆる体験にあって、ますます豊かになり」と書かれています。愛の豊かさは、知識とあらゆる体験に深く関わる。そのように言っています。愛は単に好きとか好ましいとか気に入っているという感情の延長にあるのではない。知識や体験が重要な役割を果たしている、ということではないでしょうか。
ここで言う「知識」は、人間に対する深い洞察や相手への姿勢、理解、知りたいという関心、そういったいろいろなことを含んでいるのではないかと思います。愛するというのは、相手の心を想像することです。相手がどのようなことを喜び、どのようなことを悲しみ、何を大切にし、何を欲し、また本当に必要なのか。相手の言葉や態度に隠れた、もしかしたら本人も気付いていない痛みや歴史があるのではないか。そういったことを想像し、相手の喜びを共に喜び、悲しみを共に悲しむ。そういう意味での想像力。それが愛の力です。別の言葉で言えば、思いやりです。
「あらゆる体験」とも言われています。ただの体験ではなく、あらゆる体験。私のとても尊敬している牧師が、かつてこのようなことをおっしゃっていました。幼少期から大人になるまで、ずっと苦労してこられた方です。そのことでもって、牧師になろうとしたとき、よく「あなたは苦労してきたからいい牧師になりますね」と言って頂いたそうです。しかしその先生はおっしゃっていました。苦労は時に人の心を固くする。自分の苦労なんて誰にも分からないとか、相手よりも自分の方が苦労してきたとすぐに思い込んでしまう。むしろそれよりも、相手のことを思う心、愛が大事だと考えている。
パウロが言う「あらゆる体験」というのは、やはりここでも相手への想像力を言っているのではないかと思います。自分のあらゆる体験から相手を想像し、また、自分の体験を超えた相手の体験をおもんぱかる。自分の体験に閉じこもるのではなく、そこから更に開かれて、相手の体験への思いを抱く。そこで愛が磨かれるのだと思います。
愛は、神が与えてくださる賜物です。私たちはとても小さくて視野も狭窄ですが、神は私たちに愛を与え、思いやりの人として新しくしてくださる。そのことを信じ、愛する愛をくださいと祈りたいと願います。

2023年1月26日木曜日

2023年1月26日の聖句

あなたは喜びを私の心にくださいます。それは穀物と新しい葡萄酒が豊かにあるときにもまさっています。(詩編4:8)
神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。(ローマ14:17)

穀物と新しい葡萄酒。それはどちらも生きるために必要なものです。葡萄酒は今では嗜好品ですが、当時のイスラエルでは生きるための必需品です。日本のように湿潤ではない場所ですし、衛生環境も悪く、ぶどう酒は大切な役割を果たしていました。ですから、穀物が無事に生育し収穫できたとき、そして、ぶどうをワインにして新しい葡萄酒ができあがったとき、それは大きな喜びだったと思います。これで、やっと次の一年を生きることができる。そういう命の喜びです。
しかし、そのような穀物や新しい葡萄酒の喜びに優って、神が下さる喜びを楽しんでいます。「あなたは喜びを私の心にくださいます。それは穀物と新しい葡萄酒が豊かにあるときにもまさっています」。なぜなら「神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜び」だから。飲み食いに優る喜びがここにある、と聖書は私たちに訴えています。
聖霊によって与えられる義と平和と喜び。どうして、義と平和と喜びという三つがここで数えられているのぜでしょうか。「義」というのは、神の義という意味に違いありません。神ご自身が打ち立てられる義、そして、神さまが私たちと結んでくださる正しい関係。聖書はそれを「義」と呼びます。何か抽象的で絶対的な正しさみたいなものがあるというのではなく、「義」は神さまとの関係の中で考えられています。
「平和」もやはり神さまがキリストにあって私たちと和解してくださったこと。そして、神さまが私たちとの間を平和にしてくださったことに基づいて私たちが互いに愛し合うこと。そこに平和が生まれる。従って「平和」も関係の中で考えることです。
そう考えると、最後の「喜び」も、一人で楽しくやってるとか面白がっているということではなくて、神さまとの関わりにおける喜び、神が与えてくださる喜びであり、また神の愛を共に喜ぶ私たち相互の喜び、あるいはキリストがしてくださったように互いに仕え合うときに生まれる喜びです。
すなわち、聖霊が私たちに与えてくださる義と平和と喜びは、どれも関わりの中で考えられることです。神さまとの関わりであり、神様にある隣人との関わり。共に生きる喜びです。それは、穀物にも新しい葡萄酒、つまり自分の飲み食いの安定や安心にまさる喜び。神さまはご自分を信じる者を、格別な喜びへ招いてくださっています。

2023年1月25日水曜日

2023年1月25日の聖句

義は命へと導く。しかし悪を追求することは死へと導く。(箴言11:19)
義に飢え渇くものは幸いです。その人たちは満ち足りるからです。(マタイ5:6)

昔、ボーイスカウトに所属していました。5年生の秋から入団してしばらく経って、小学校6年生か中学校1年生かのころのことです。毎年春と夏に何泊かのキャンプをしていましたが、夏のキャンプのとき、その最終日。テントを片付け、いよいよ帰ろうとバスに向かいました。テントを張った野営場は、確か川の側だったかと思いますが、バスに乗るために急な斜面を登らなければなりませんでした。すごく暑い日でした。何泊分もの重いキャンプ用具を背負って坂を登って、本当に暑くて喉が渇いて仕方がなかった。水筒も空っぽ、喉が渇いても飲むものもない。あの夏の日の喉が渇いて仕方がなかった記憶が、今でも鮮明に残っています。
「義に飢え渇くもの」と言っています。渇くというのはとても辛いことです。喉が焼けるようになって、カサカサで、苦しくて仕方がない。たった一杯の水でもいいから、飲ませてほしい。そうやって飢え渇く、しかも義に飢え渇くものは幸いだ、と主イエスは言われます。水を求めるように義を求める。神さまの義、神さまの義しさ、正義を求める。
思えばこの世界には理不尽なことがたくさんあるし、デタラメな出来事がたくさんあります。神さま、どうしてですかと問わねばならないこともたくさんあります。そんなとき、私たちは渇いているでしょうか。もっと正確に言えば、義に渇いているでしょうか。何か神さまとは別のものでその渇きを満たしたつもりになってはいないでしょうか。
本当に喉が渇ききって焼けてしまったとき、ビールを飲んでその渇きを満たそうとしても、その渇きは本当には癒やされません。お酒は却って脱水を促してしまいます。飲んだ瞬間は潤った気持ちになれても、根本的な渇きの解決にはならない。結局、自分でも知らない内にもっと渇いてしまいます。渇きを満たすためには水が必要です。そして私たちの魂の渇きは、神さまの義以外のものでは満たされないのです。
「義に飢え渇くものは幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」義を求め、義に渇くもの。その人たちこそが本当に満ち足りるのだ、と主イエスは言われます。神さまはご自分を求めるものを決して放ってはおかれないのです。義は私たちを命へと導く。主なる神さまこそが、私たちを潤すまことの救いです。

2023年1月24日火曜日

2023年1月24日の聖句

いと高き方はあなたの避けどころ。(詩編91:9)
イエスの言葉:あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。(ヨハネ14:1)

今、心が騒いではいませんか?心配事や悩み事に心が覆われてはいませんか?主イエスさまは、そんな私たちにおっしゃいます。「心を騒がせてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。」心を騒がせてはならないと主イエスがおっしゃるとき、ちゃんとその根拠もおっしゃってくださいます。「神を信じ、また私を信じなさい。」神を信じ、キリストを信じるとき、私たちは心を騒がせないで済む!主イエスはそう宣言なさいます。
今日の旧約はこのように言っています。「いと高き方はあなたの避けどころ。」いと高き方、天の父なる神、この方こそが私の避けどころ。「避けどころ」と言うからには、避けて良いということになります。私たちは逃げてよい。心を騒がせることから逃げてよいのです。
主イエスは、主の祈りの中で「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と祈ることを教えてくださいました。救ってください、助けてください、試みに遭わせないでください。私たちはそう祈っていい。どんな試みにも耐えうる強靱な精神力を持て、と主イエスはおっしゃいませんでした。試みに遭わせないでください、私たちを救ってください、助けてください。私たちはいと高き神を避けどころとし、助けを求める祈りをささげることが許されている。
それは、私たちにとって罪の力がそれだけ強いからだとも言えると思います。私たちを覆う時代の精神、悪の力、空中に勢力を持つ力は強い。悪から救いだしてくださいと祈らなければ、私たちはそれに打ち勝つことができない。主ご自身が私たちの避けどころとなってくださる。私たちの罪との戦いのための避けどころに。
心が騒ぎ、その心騒がせる事柄に心が支配されてしまうとき、私たちは神さまを忘れます。その意味で、心騒がせる事柄は私たちにとっては試みです。罪との戦いです。しかしその戦いの中で、救ってくださいとたった一言祈るとき、私たちは既にキリストご自身の勝利に連なっている。私たちはそう信じて、主ご自身が教えてくださった祈りを口ずさみつつ今日一日の旅路に出て行きます。

2023年1月23日月曜日

2023年1月23日の聖句

私が潰れないようにしてください、私はあなたを信頼しております。(詩編25:20)
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。(マタイ7:25)

「私が潰れないようにしてください。」今日の旧約聖書の御言葉です。この詩編の言葉は、ドイツ語の聖書を日本語訳したもののようです。聖書協会共同訳で読むと、受ける印象がずいぶんと違う翻訳をしています。しかし、このドイツ語訳もいいなと思います。
「私が潰れないようにしてください。」とても現代的な祈りだと思います。心や体が参ってしまうことを「潰れる」と表現することが多くなりました。そういう事態を「潰れる」と言い表すのは、自分の上に乗っかっているプレッシャーがとても重いからだと思います。ひどい重圧が自分の上にのしかかっていて、もう潰れてしまう。だから、私たちは祈ります。「私が潰れないようにしてください、私はあなたを信頼しています。」神さまを信頼し、神さまに依り頼んで、どうぞ私が潰れないように守ってくださいと祈る。これはそういう祈りです。
主イエスはおっしゃいます。「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。」家が潰れてしまうのはなぜか。地盤が軟弱だからだ。砂のような柔らな地面に家を建てると、建てるときには確かに楽だけれども雨が降って洪水が押し寄せ、風が家を襲ってきたら耐えることができない。地盤が軟らかすぎて、家を支えることができない。結局、砂の上に建てた家はすぐに潰れてしまう。
岩の上に土台を立てる。それは、主イエスさまの御言葉に従うことを意味します。主イエスの言葉を聞いて終わらせるだけではなくて、実際にそれに従う。それこそが岩の上に家を建てることに他ならない。先ほどの旧約の詩編でも、主への信頼をもって、私が潰れないようにしてくださいと祈っていました。主を信頼し、主に聞き、主に従う。そこに私たちの立ち続けうる確かさがある、と主は言われます。
今日、どれか一つ、主イエスさまの御言葉に従ってみませんか。主イエスのおっしゃった言葉を聞くだけではなく、従って、今日一日の歩みへと踏み出してみましょう。そうすれば私たちが潰れてしまうことは決してありません。

2023年1月22日日曜日

2023年1月22日の聖句

今週の聖句:人々が東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓につきます。(ルカ13:29)

今日の聖句:
あなたには、主よ、並ぶ者がいません。あなたは偉大で、あなたの名前は偉大です。あなたが御業で証明します。(エレミヤ10:6)
だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。(1コリント3:11)

偉大な方、偉大なお名前をもつ方。この方には他の誰も並び立つ者がない。私たちの信じる神様はそういう方です。この世界を造った方、この世界の王でいらっしゃる方。どのような人間も、自然の事物も、歴史の出来事も、この神さまに並ぶことはできない。例えそれがどんなに偉大な業績を残した人物であろうと、有名であろうと、権勢を誇ったのであろうと、すさまじい宗教的指導者であろうと。
「だれも、既に据えられている土台以外の物を据えることはできない」と使徒パウロは言います。パウロには、実際に教会に既に据えられた土台であるキリスト以外の何かを土台にしようとしている事態が見えていたのでしょう。コリントの信徒への手紙の一節ですから、コリント教会にそのようなことが実際に起こっていたに違いありません。そうすると、エレミヤ書が言っている、他に誰も並び立つことのできない神の偉大さということが、空文化してしまいます。意味のないお題目になってしまいます。つまり、神さまが偉大だとか、唯一の神だとか、並び立つ者のない方だとか、この天と地をお造りになった方だとか、そういうことはどれも実際的な意味を持たなければ仕方がないことだということだと思います。
私たちの実際の生活にとって、神が偉大な方だという事実はどのような意味を持っているでしょうか。私たちの毎日の生活は、神の偉大さを前にして膝をかがめるものになっているのでしょうか。コリントの信徒への手紙では、キリストこそ土台という話をするにあたって、とても丁寧にそのキリストは十字架にかけられた方だという話をしています。十字架にかけられ、私たちのために死なれた方が私たちの土台。私たちのために弱くなってくださった神の子が私たちの土台。その他にこの方に並び立つ者はいない。私たちの今日一日を意義あるものとする土台は、十字架にかけられたキリストです。その事実を前に、驚きつつ新しい一日を始めましょう。

2023年1月21日土曜日

2023年1月21日の聖句

わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。(ヨブ1:21)
主イエス・キリストを身にまといなさい。(ローマ13:14)

私たちが毎日読んでいる『日々の聖句』では、旧約と新約から一箇所ずつの御言葉が割り振られています。旧約に従って、新約の御言葉が選ばれているようです。今日の二つの御言葉の組み合わせは、私はこれまで考えたことがありませんでした。しかし、すばらしいと思います。目が開かれるような思いになりました。
今日の旧約聖書はヨブ記の御言葉です。ヨブは無垢な正しい人でしたが、身に覚えのない数々の不幸に見舞われました。子どもたちを全員失い、財産も失いました。そして自分自身、全身にひどい皮膚病が起こって苦しめられました。実は、サタンが神に、あのヨブのような無垢で正しく見える人も、神が彼に恵みを与えて幸福な人生を送らせているから神を信じているにすぎない、不幸に陥ればすぐに神を呪うと言った。そこで神が、お前の思うとおりに彼にしてみろとおっしゃって、ヨブは苦しむことになりました。しかしそのようなことをヨブ自身は知りません。ヨブは全く理由も分からない、理不尽な苦しみにさいなまれた。しかし彼は「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」と言い、神を呪いませんでした。
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。」それは、本当のことです。すべてを奪われ、考えられないほどの不幸に襲われながら、何も持たず裸で死のうとヨブは言います。私たちが生まれてから得たものは、自分で獲得したような気持ちになっていてもすべては神の恵みによって与えられたものです。ところがすぐに自分のもの、自分だけのものと思い込んでしまいます。しかし、裸で生まれた者なのだから、何も持たずに死ぬことが本当のことです。
私たちは、生まれたときも死ぬときにも、無力です。何も持ってくることも、持っていくこともできません。自分の生まれることも死ぬこともどうすることもできません。それなのに、神さまは私たちにキリストを着せてくださいました。洗礼を受けたとき、私たちはキリストを着ました。何とその衣は、私たちが死んでも朽ちません。いつまでも着たままです。火葬されても土葬されても、その衣だけは腐ってしまうことがない。なぜなら、私たちは何も持たず無力ですが、私たちを覆うキリストは墓から復活なさった方だからです。私たちは死を越えて輝くキリストを自分の衣として着ている。
ですから、私たちは安心して裸で死ぬことができます。何も持っていなくても大丈夫です。神さまが私たちにキリストを着せてくださっているのですから。

2023年1月20日金曜日

2023年1月20日の聖句

あなたが、隣り人に、何かを売ったり、彼から何かを買ったりするとき、誰もがその兄弟に損をさせて甘い汁を吸ってはいけない。(レビ記25:14)
わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています。(2コリント8:21)

公明正大に、と書かれています。。ギリシア語の原文の単語は「考える」という動詞の前に「前で」という接頭辞がくっついてできあがっています。ですから文字通りに直訳すれば「前で考える」ということになる。そしてこの文脈では、主なる神さまの前で考え、また人の前で考えるということになる。積極的な意味での「人目を気にする」ということになると思います。
人目を気にするというと消極的な意味、悪い意味になることが多いです。人目を気にして、正しいことを曲げて出る杭にならないようにする。正しさや価値観を大事にするのではなく、人目を基準にして周りに適応しようとする。更に、神さまがどのようにご覧になるのかということを無視して、人に悪く映らないようにすることばかりを気にかける。そのような意味になると、人目を気にするというのは非常に非倫理的な振る舞いになりかねません。
しかし、ここでは明らかにそのような意味ではない。人の前でというのは、ここでは「神の前で」ということと合わせて考えられています。人にも神さまにも隠さなければならないような、恥ずべき、間違ったことをしない。まさに「公明正大」にふるまう。神さまを信じる者の生き方は、この世で一人の市民として誠実に生きることと別々のことではないのです。
その上で、神さまは私たちにお命じになります。「あなたが、隣り人に、何かを売ったり、彼から何かを買ったりするとき、誰もがその兄弟に損をさせて甘い汁を吸ってはいけない。」隣り人に損をさせて自分が甘い汁を吸ったり、人を犠牲にして私腹を肥やしたりしてはならないといいます。なぜなら、その隣り人は主にある「兄弟」であり「姉妹」だからです。つまり、隣人との関係には、神さまがそこにおられて成り立っている。だから、目の前の人を私たちは兄弟として、姉妹として愛し、彼ら彼女らを食い物にしてはならないのです。
神さまが私たちの人間関係をもご覧になっています。そして、隣人の目を通して、神さまご自身が私たちをご覧になっています。今日、私たちは隣人とどのように関係を築くのでしょうか。

2023年1月19日木曜日

2023年1月19日の聖句

神は地の果てまで見渡し、天の下、すべてのものを見ておられる。(ヨブ28:24)
これら小さい者たちの一人でも失われていくのは、天のあなた方の父のご意志ではない。(マタイ18:14)

神さまはこの世界の造り主、また王として、天の御座におられてそこから世界を見渡しておられます。しかし神さまは同時に、小さい者の一人をも覚え、その小さなものが失われるのを良しとはなさいません。神さまのこの高さと低さ、ここに神さまの尊い御意思が輝いています。
今私は小学校のPTAの会長をさせて頂いています。少なくはない会員がいます。今年、PTAの活動をかなり小さくする大改革をしました。人数が多い組織になると、どうしても「組織」としてのまとまりが大事になります。しかしそればかりに目が行くと、一人一人の人間が見えなくなります。特に「会長」のような役職に就いてしまうと、その傾向が強くなります。会長といっても何ら偉いわけではないですし、神さまが天の御座におられるということの譬えには全くなりません。しかし、人間というのは本当に限界が小さな存在で、自分の立場や自分の見え方が絶対だと思いがちです。自分の役割や立場にこだわってしまうと、そこにいる人間が見えなくなってしまう。それは、残念ながらよくある話なのではないかと思います。
ところが神さまはそうではないのです。地の果てまで見渡し、天の下のすべてのものを見ておられるという偉大さと、小さな一人の者をご覧になり、またその一人が失われることのないようになさるということが、神さまにおいては完全に矛盾なく一つでいらっしゃる。その神さまの御心は、主イエス・キリストによって実現されました。キリストは神の子でありながら、ご自分をむなしくして僕の姿となり、へりくだって、しかも十字架の死にいたるまで従順でいらっしゃいました。このお方が小さな一人を愛する神さまのご意志そのものです。神の子が一人の小さな者のためにへりくだってくださったのです。
私たちを生かすキリストのへりくだり。私たちを決して失われたままにはなさらない神の子の卑賤。神の弱さという秘儀が今日私たちを生かしているのです。

2023年1月18日水曜日

2023年1月18日の聖句

あなたは、あなたが贖われたあなたの民を慈しみをもって導かれた。(出エジプト記15:13)
キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがを神のもとへ導くためです。(1ペトロ3:18)

神さまの私たちへの御心は慈しみ。聖書はそのように語りかけます。この世界をお造りになった方、この世界を治める王である方の私たちへの御心は、慈しみに他ならない。恐れ多いことです。本当にありがたいことです。「あなたは、あなたが贖われた民を慈しみをもって導かれた。」
この世界には、慈しみと相容れない言葉が溢れています。しかし神さまはそうではない。慈しみをご自分の御心とし、私たちに慈しみの言葉を語りかけてくださいます。聖書は、神さまの慈しみに満ちた言葉の集まりです。
神さまの慈しみは、究極の神の言葉であるイエス・キリストに余すところなく現されました。キリストこそ、神さまの御心そのものです。キリストが見せてくださった慈しみのわざ一つひとつが、神さまの私たちへの思いです。
「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがを神のもとへ導くためです。」
この世界には、慈しみと相容れない言葉が満ちあふれています。それは、私たちの罪が生み出す言葉です。神さまが慈しみに満ちたお方であるならば、憎しみや無関心は、罪です。神さまが愛に満ちたお方であるならば、利己的な言葉は罪の言葉です。しかしキリスト、正しいお方は、正しくない私たちのために死んでくださいました。キリストは十字架にかけられました。私たちがかけたのです。私たちが正しい方、キリストを十字架にかけて殺したのです。慈しみをその御心とする方を、私たちの愛の欠如が殺したのです。ところがそれは、私たちを神のもとへ導くためのただ一度だけの苦しみであったのだ、と聖書は言います。キリストの慈しみの方が私たちの憎しみよりも強く、勝っている。この聖書の福音に、今日、私たちは立ち帰りましょう。キリストの慈しみの中に生かされている幸いを存分に味わって、今日の日を喜んで生きていきましょう。私たちの今日一日を覆っているのは、キリストの慈しみなのです。

2023年1月17日火曜日

2023年1月17日の聖句

私は、あなたのみことばを自分の心に留めます。それによってあなたに抗して罪を犯さないためです。(詩編119:11)
あなたにゆだねられている良いものを、私たちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。(2テモテ1:14)

神さまは私たちの心に御言葉を留めてくださいました。それは私たちの良心と一つになって私たちを罪から遠ざけます。「それによってあなたに抗して罪を犯さないため」と詩編は言っています。罪とは、神さまに抵抗すること。神さまに逆らうこと。神さまが私たちの心に植え付けてくださった神の言葉を蔑ろにすると、私たちは罪の中に埋没してしまいます。
昨日、保育園の礼拝でお話をしました。主イエスが荒野で悪魔の誘惑をお受けになったときの話です。主イエスが40日の断食をしたときに現れた悪魔は、この石ころをパンに変えてみろと言います。主イエスは「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる」とおっしゃいました。この言葉が荒野の誘惑の一つの主題になっています。この後にも二つの誘惑を主はお受けになりますが、両方とも、聖書に記された神さまの御言葉によって悪魔と戦われます。しかも主イエスは字面ではなく、その言葉の背後にある神さまの御心に生きぬかれた。主イエスは罪を犯すことなく、神さまの御言葉に従い通されました。
神さまの御言葉、聖書の言葉こそが私たちを神さまに向けてまっすぐに立たせます。読んで私たちの心の中に入ってきた御言葉は、私たちの良心と一つになって私たちに語りかけます。私たちは神の口から出る一つひとつの言葉を食べ、それによって神の民として生きていく。神さまはご自分の言葉を私たちに委ねてくださいました。
「あなたにゆだねられている良いものを、私たちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」神さまは私たちにただ言葉を聞かせるだけではありません。神の言葉が私たちの良心と一つになるというのは、神様ご自身の霊、聖霊が私たちの心に働いているから起こる出来事です。神さまはご自分の霊によって私たちが心から御言葉を愛することができるようにしてくださっているのです。このお方の御言葉と霊の導きが、今日も私たちと共にありますように。

2023年1月16日月曜日

2023年1月16日の聖句

あなたが贖われた私の唇と私の魂は喜び、あなたをほめたたえます。(詩編71:23)
喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に、感謝するように。(コロサイ1:11~12)

聖書が私たちに伝えるメッセージ、聖書が私たちに宣言する福音は、私たちの頑張りに応じて神さまが私たちを救ってくださる、というものではありません。あるいは、まずもって私は罪深く、どうしようもないけれど神さまは救ってくださる、というものでもない。私よりも先に神さまがおられ、私を救い、私を既に光に中に置いてくださった。聖書はその事実を語ります。「光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたを預かれるようにしてくださった御父」。父である神が私を光に中にいれてくださった。最初にあるのは私の頑張りではないし、私の駄目さでもなくて、神さまの光のすばらしさです。私たちは、神の光の中にすでに照らされている私として、自分を知ることができる。それが聖書が私たちに告げていることです。
「あなたが贖われた私の唇と私の魂」と言っています。神が私の唇、私の魂を贖ってくださった。「贖う」というのは、神さまがご自分のものとするということです。私の唇も魂も、神さまはご自分のものとしてくださった。もはや私は神さまのもの。魂というのは、深い人間存在そのものでしょう。しかも、弱くてもろい、壊れてしまいそうな人間。そういう私を神さまはご自分のものとしてくださった。私のまるごと、全部を。神が贖ってくださった唇をもって、そして神が贖ってくださった魂のすべてをもって、私たちは神をほめたたえ、神を賛美します。喜びをもって、御父に感謝せよ!聖書は私たちにそう呼びかけるのです。
今日も、いろいろな出来事が起こると思います。しかしどこに行こうとも、何をしていようとも、私たちは神の光の中にいます。神が光を照らして下さっているとおっしゃるのだから、それは確実です。神の光の中、神のものとされた唇で私たちは何を語るのか。神がご自分のものとしてくださった私の存在の根底から、神を賛美し、神に感謝する一日を過ごしていきたい。そう願います。今日も祝福がありますように。

2023年1月15日日曜日

2023年1月15日の聖句

今週の聖句:私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。(ヨハネ1:16)

今日の聖句:
正義と公正を行うことを、主はいけにえよりも喜ぶ。(箴言21:3)
霊のない体が死んだものであるように、行いのない信仰もまた死んだものです。(ヤコブ2:26)

行いのない信仰は死んだもの。かなり強く、また厳しい言葉です。もちろん、私たちは良い行いをした報酬あるいはご褒美として神さまに救って頂くのではありません。もしもそうだとしたら、救いは恵みではなく、当然の報いです。そして神さまと私たちとの関係は取引関係であって、私たちは打算で生きることになります。しかし実際は、私たちのどんなに善い行いも私たちを救うことはできません。事態は私が自分で自覚しているよりももっと絶望的です。1万タラントンという天文学的な借金をしているようなものです。一生飲まず食わずで働いても返すことのできないような借金です。それなのに、神さまは全く無償で、ご自分の愛のままに私たちを救ってくださいました。神さまへの借りをチャラにしてくださいました。だから、救いは神の恵み。神のあわれみ。信仰は神の愛を信じること、神の恵みを信じることです。
しかし、神の愛を知りながらそれを無にする信仰もまた成り立ちません。人間関係であっても、自分の非を覆ってくれ、まったくの善意や愛から自分に良くしてくれる人には、自然とお返しをしたくなります。自然な気持ちです。まして無限の愛と憐れみを示してくださった神さまに、私たちは何をお返しするのでしょうか。
「正義と公正を行うことを、主はいけにえよりも喜ぶ。」正義と公正。私たちの人間関係において、神さまのお喜びになる正義や公正をもって生きること。人を偏り見たり嘘をついたりせず、また自分の損得のために誰かをひいきしたりしない。むしろ弱い人やお返しできない人を重んじ、愛する。それはキリストが私のためにしてくださったことです。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」豊かなキリストの恵みへの応答として、私たちはこの世に生きる隣人と共に生きていきます。

2023年1月14日土曜日

2023年1月14日の聖句

あなたの眼は私を見ていた。私という存在がまだ用意されていなかったにもかかわらず。そして、これから生じていくすべての日々があなたの書に書かれていた。(詩編139:16)
自分の命のことで心配するな。(マタイ6:25)

「自分の命のことで心配するな!」主イエス・キリストからの大いなる呼びかけです。私たちは自分の命のことで心配しなくていい。慈しみに満ちた神さま、私たちの天の父であるお方が私たちのことを心配し、配慮し、準備してくださっているからです。私たちは、自分の明日をこの方の愛にお任せしていい。主イエスさまはそのように宣言なさいます。「自分の命のことで心配するな!」
この神さまの慈しみの事実を、旧約の信仰者はこのように言い表しました。「あなたの眼は私を見ていた。私という存在がまだ用意されていなかったにもかかわらず。そして、これから生じていくすべての日々があなたの書に書かれていた。」
私たちの父である神様は、私という存在がまだ用意されていなかったときにすでに私たちを見ておられた、と言います。まだ母の胎にもいなかったとき。それどころか父母未生以前の闇に、もうすでに神さまは私の父として私をご覧になり、覚え、ご自分の命の書に名前を記してくださっていました。それが私たち神を信じる者の、自分の存在以前への確信です。私の存在を私は私自身によって支えることはできません。私は私が死んだ後にはいなくなってしまうし、それと同じように生まれる前には存在しない。私たちは自分の命の前に対しても後に対しても無力です。命の前も後も私たちにはどうすることもできない。そこには滅びしかない。ところが、神さまはそうではありません。無であり滅びしかない私たちの命ですが、神さまは私たちが全く存在していないときに既に私を憶えていてくださる。それと同じように、私が死んで消滅した後も私を覚え、見ていてくださいます。「そして、これから生じていくすべての日々があなたの書に書かれていた。」
私たちはかつては存在しなかったし、やがて無に返って滅びます。しかし、神さまは私たちのこれから後のことも憶えていてくださり、キリストにあって私たちを滅びから救ってくださる。そして、私たちの死からの救いは、かつて私たちが洗礼を受けたときに既に始まりました。洗礼は、私たちの死の象徴です。洗礼を受けたとき、私たちは一度死に終わっている。そして、キリストにある甦りの命に生き始めている。神さまの御目の中で、私たちの新しい命は既に始まっているのです。だから、キリストは言われます。「自分の命のことで心配するな!」

2023年1月13日金曜日

2023年1月13日の聖句

恐れるな、おびえるな。昔から私はあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたは私の証人。(イザヤ44:8)
私たちはキリストの代わりの使節です、神が私たちを通して勧告しているからです。だから今や私たちはキリストの代わりに願います。神と和解させていただきなさい。(2コリント5:20)

今日の新約聖書の御言葉には、とても興味深い表現がでてきます。「私たちはキリストの代わりの使節です。」使節、と言っています。辞書で引くと「国家の代表として他国へ派遣される人」と説明されています。外交使節、というように使われています。そして私たちはキリストの代わりの使節、すなわち、キリストに代わって、神の国の代表としてこの世に派遣された者たちです。
使節は本国からのメッセージを伝えるために派遣されます。総理大臣や大統領のような人の親書を相手側に渡す。その役目を十全に果たすことができなければ、祖国と派遣先の国との良好な関係を構築することはできません。使節の役割は重大です。
神さまは私たちの手に神の国からのメッセージを託してくださいました。だから、私たちを発奮させるかのようにおっしゃいます。「恐れるな、おびえるな。昔から私はあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたは私の証人。」恐れずに天の本国から託されたメッセージの証人としての役割を果たすように、と神さまは言われます。
神の国からこの世界へのメッセージは「神と和解させていただきなさい」という、和解の福音です。もしも私たちが語るべきメッセージが外交関係の決裂や、政治的な駆け引きを強いられるものだったら、私たちの役割は何と重苦しく、辛いものでしょうか。しかし私たちは和解の福音、神さまと私たちとの平和の福音の証人として、和解の使節としてこの世界に派遣されている。だから恐れるな、と神さまは言われます。
今日、私たちの話す言葉や行う一つひとつのことが和解の福音にふさわしいものであることができますように。天の本国のメッセージを余すところなく証しするものとなりますように。祈りをもって、今日一日を歩んでいきましょう。

2023年1月12日木曜日

2023年1月12日の聖句

さて、イスラエルよ。主、あなたの神がなお、あなたに求めていることは何か。あなたの神、主を畏れること、主の道すべてを歩むこと、主を愛すること、あなたの神、主に対して心を尽くして、いのちを尽くして仕えることではないか。(申命記10:12)
しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。(1ヨハネ2:5)

主なる神さまが私たちに求めておられることは何かと問い、このように言います。「あなたの神、主を畏れること、主の道すべてを歩むこと、主を愛すること、あなたの神、主に対して心を尽くして、いのちを尽くして仕えることではないか。」主イエスご自身も、ある人が最も重要な律法は何かと問うたとき、主なる神さまを愛することと、隣人を自分のように愛することだとお教えになりました。神さまは一貫して私たちの愛をお求めになるお方です。私たちの愛をお求めになるというのは、神様ご自身が私たちを愛しておられるからです。
今日の申命記の御言葉は直後の13節に直結しています。聖書協会共同訳で、12節の最後から見てみるとこのようになっています。「主に、心を尽くし、魂を尽くして仕え、私が今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。」ここにある「主の戒めと掟を守って」というのは、それをすればご褒美に幸せになれますということではなくて、主が語られる戒めと掟、そこに私たちが幸せに生きるためのガイドラインがあるということです。神さまの私たちへの御心は、私たちが幸せになることです。申命記に記された戒めと掟にその道が示されている。私たちの幸せを望む神さまは、私たちを愛していてくださいます。
今日の新約聖書の御言葉も、同じイメージを私たちに与えます。「だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。」そして、ヨハネの手紙を読んでみると、神さまの言葉、神さまが私たちに命じておられること、神の戒めとは、私たちが互いに愛し合うことです。私たちがキリストにあって互いを愛し合い、仕え合うとき、そこに神の愛が全うされている。聖書はそう言います。
神を愛し、私たちが互いに愛し合うとき、私たちは幸せになることができる。それが聖書のメッセージです。しかしそれは何と難しいことでしょう。そうであるからこそ、キリストが私たちの間に来てくださいました。私たちの前にキリストが屈んで足を洗ってくださいました。神は私たちに独り子を与えることで愛を全うしてくださいました。このお方の愛が、私たちに幸せをもたらしてくださいます。

2023年1月11日水曜日

2023年1月11日の聖句

主が私の願いを聞き、主が私の祈りを受け入れてくださる。(詩編6:10)
あなたが祈られるときは、自分の小部屋に行き、扉を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父はあなたに報いてくださる。(マタイ6:6)

隠れたところで祈りなさい、と主イエスは命じておられます。隠れて祈るというのは、祈ることの本質に関わることです。祈るというのは、神さまに祈ること。神さまに申し上げること。そして、神さまの御声を聞くこと。そこに他の人の入る余地はありません。
例え夫婦であっても入り込むことはできません。使徒パウロは言っています。「(夫婦は)互いに相手を拒んではいけません。ただし、合意の上で、祈りに専心するためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。(1コリ7:5)」祈るためにそれぞれ別の時間を持ち、一人神さまに向かう。それほどに、一人祈る時間は貴く大切なものです。
愛する人に信仰をもってほしい、神さまを信じてほしい。そう願うとき、私たちは祈ります。それに、私たちには祈ることしかできないのかもしれません。もしもその願いを神が叶えてくださってその人が洗礼を受けたのなら、後からその人に「私、実はあなたのために祈っていたんだよ」とは言わない方が良いでしょう。祈ることは私と神さまとの問題ですし、神さまを信じることはその人と神さまとの問題です。私たちの祈りを神さまは必ず聞いてくださっているのですから、神さまを信頼してただひたすら祈って良い。
「主が私の願いを聞き、主が私の祈りを受け入れてくださる。」同じ確信をもって、これまで無数の信仰者たちが祈ってきました。隠れたことを見ておられる主が私たちの隠れた祈りを聞いてくださっています。聖なる神さまの御前で私たちが献げる祈りを、神さまご自身が聞いてくださっています。祈る私たちがいる場所は、まことに恐れ多い場所です。それは命を造り出す神さまの領域であり、私たちを支配する聖なるお方の御前です。大胆にもそこで祈る私たちに、神様ご自身が目を注ぎ、耳を傾けて、私たちの祈りを待っていてくださいます。主なる神様ご自身が、今日、あなたの祈りを待っていてくださいます。

2023年1月10日火曜日

2023年1月10日の聖句

モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さねばならないとは。」神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。」(出エジプト記3:11~12)
イエスの言葉:いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。(マタイ10:16)

モーセはヘブライ人の家に生まれ、ファラオの王女に育てられ、荒野に逃れ、このときもう既に80歳になっていました。それまでの長い人生がありました。楽しくて安定していた時期もあったでしょうし、失意の時期もあった。荒れ野に逃れてから家族を得た彼は、自分の人生はこれでいくのだと思っていたに違いないと思います。ところが、モーセ自身も全く予期していなかった出来事が起こりました。神さまと出会ったのです。モーセの神さまとの出会いの始まりを、聖書はとても印象的な彼自身の言葉で始めています。「道をそれてこの大いなる光景を見よう。」山奥で燃える柴を見て、彼は道をそれてみようと言いました。自分の道だと思っていたところからそれて大いなる光景に直面したとき、その柴の炎の中から神さまが語りかけ、彼の人生は変わりました。モーセ自身は全く予期していないことでした。
神さまは、エジプトに行って、ヘブライ人たちを解放するようにファラオに言えと命じます。あまりにもむちゃくちゃな要求です。ファラオが「うん」というとは考えられません。モーセの反応は当然のものです。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さねばならないとは。」
ところが、神さまはモーセの問いに直接的にはお答えになりませんでした。神さまはただ言われます。「わたしが、あなたとともにいる。」神がお前を遣わすのだから行け。神さまはただそのことだけをお命じになりました。
これは私たちの常識では考えられないことです。ファラオと交渉してヘブライ人を解放する。そんな大それたことをできやしない。自分はそんな人間ではない。モーセがそう考えるのは当たり前のことです。どうしてですか?どうして私なのですか?それに対する神さまの答えはただ一つ。「私がお前と共にいる。」
キリストは、私たちを狼の群れの中に羊を送り込むようにして私たちをお遣わしになります。ただ、キリストが共におられるという約束だけ。それしか私たちにはない。しかし、それだけがあれば十分だ、とキリストは言われます。今日、キリストはあなたと共におられます。さあ、行きましょう。

2023年1月9日月曜日

2023年1月9日の聖句

有罪のものに寄り添って、証人として暴虐を隠してはならない。(出エジプト記23:1)
兄弟姉妹たち、真実なこと、尊いこと、義しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判のよいことは、役に立とうと、名声を得ようと、とにかく心に留めなさい。(フィリピ4:8)

聖書はしばしば私たちの現実に反対することを言います。今日のところは典型的だと思います。「真実なこと、尊いこと、義しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判のよいことは、役に立とうと、名声を得ようと、とにかく心に留めなさい。」確かに誰も、誰も真実なことや尊いことを軽んじはしないし、大切だと思っています。しかし現実には、私たちの社会の中に真実や義しいことの立つべき場所が残っているのでしょうか。
「有罪のものに寄り添って、証人として暴虐を隠してはならない。」聖書はそのように言います。しかし私たちは、新聞やニュースなどでも、有罪であるはずの人が無罪となり、その逆に無実の人が有罪にされるケースをたくさん見ています。裁きがねじ曲げられて、結局、暴虐が隠されてしまっています。
私たちの社会では、真実や義しさは、「現実」という言葉に阻まれているべき場所を失ってしまいました。人間社会から真実は追放されています。この社会の有り様は、そこに生きる私たちにとっては本当に絶望的です。
去年の後半は統一協会のニュースがしきりにながされました。それに端を発して、別のカルト宗教の話もいろいろされていました。この時代に、まだ神を信じているなんてひどく非人間的だという空気が広がっています。しかしカルトが信じさせているのはそもそも神ではなくて人間にすぎません。そして、神さまこそが真実であり、義そのものでいらっしゃるのであり、また、愛そのものでいらっしゃるのですから、神さまを無視したところに人間らしい社会を造ることは不可能です。私たちは主イエス・キリストの父なる神様の真実によって、初めて生き返るのです。
私たちのまわりにも、神さまの深い愛を必要としている人がたくさんいます。主イエス・キリストのご慈愛に渇いている人が大勢います。キリストの真実を証しし、キリストの恵みを届ける歩みとなりますように。祝福を祈ります。

2023年1月8日日曜日

2023年1月8日の聖句

今週の聖句:神の霊が駆り立てる者たちは神の子です。(ローマ8:14)

今日の聖句:
あなたがあなたの貧しい兄弟に与えることに
労を惜しんではならない。(申命記15:10)
与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。(ルカ6:38)

今日の新約聖書の御言葉と同じルカによる福音書で、今日よりももっと先の方、第14章にこのような主イエスのお言葉があります。「宴会を催すときには、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、彼らはお返しができないから、あなたは幸いな者となる。正しい人たちが復活するとき、あなたは報われるだろう。」善いことをするなら貧しい人や体の不自由な人にしなさい、と主は言われます。なぜなら彼らにはあなたへのお返しができないから。そうであるなら、彼らではなく神があなたたちにお返しをしてくださる。だからあなたたちは幸いだと言うのです。
「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。」それは、神さまが与えてくださるということです。だから隣人に対しては何も期待せずに与えなさいと主は言われます。それどころか、あなたにお返しをすることができない人を選んで与えなさい、とまで言われるのです。すごい言葉です。
しかし、もしかしたら、神さまに対してさえもお返しを期待せずにいる方がより高潔だと思う人もいるかも知れません。そもそも貧しい人に与えるのは善いことなのであって、それをするのは神も含めたあらゆるお返しを当てにしてのことではない。善いことは善いことだからする。それだけだ。そういう考え方も、確かにとても高潔で道徳的に立派なように感じます。しかし、主イエスは神のお返しをあてにしていいと言われます。神が報いてくださることを信じよう、と言われます。それは、私たちが神さまの御目の前で生きることにこそ、本当の幸いがあるからです。神さまがほめてくださること、神さまが喜んでくださること、それが私たちの心からの喜びです。そのお返しは私たちの欲望を満たすものではないのでしょう。この世が与える豊かさとは違うものでしょう。しかし、確かに神は報いてくださる。神さまさえも括弧に入れてしまうというのは、実は、とても高慢なのかも知れません。
神さまの御前でこそ、私たちは本当に人間らしく、愛をもって生きることができる。人からのお返しを当てにせずに与えられる。それは、私が人目の前ではなく、聖なる神さまの御前に生きているから。そこに私たちの幸いがあるのです。

2023年1月6日金曜日

2023年1月6日の聖句

ヒゼキヤは重病であった。そして主に祈った。主は彼と語られ、彼にしるしを与えられた。ところがヒゼキヤは自分に起こったことにふさわしく報いることはなかった。彼の心は高ぶっていたからである。(歴代誌下32:24~25)
神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。(1ペトロ5:5)

歴代誌下第29章にヒゼキヤ王が最初に登場したとき、聖書はこの人についてこのように評価しています。「彼は父祖ダビデが行ったように、主の目に適う正しいことをことごとく行った。」例えば、主の神殿を修理して整えたり、当時すでに過越祭が祝われなくなってしまっていたのを再開したり、国にはびこる偶像を取り除いたりしました。そのヒゼキヤ王が重病になったときのことです。死にさらされる病でした。しかし彼は主なる神さまに祈りました。そして、主なる神さまはその祈りに応え、「彼にしるしを与えられた」。つまり、彼のその病は癒やされた。しかしヒゼキヤは神が与えてくださった恩恵にふさわしく報いることがありませんでした。そして、それは彼の心の高ぶりから来るものだと神さまは見抜いておられた。結局、彼自身の上にも、彼の国の上にも、神の怒りが降る結果になってしまいました。
このときの彼の心の高ぶりというのは、一体どういうものだったのでしょう。神がしるしを与えて彼が癒やされたとき、彼がふさわしく報いなかったというのは、一体どういうことなのでしょうか。
もしかしたらヒゼキヤは、病が癒えたのは自分の祈りの成果だと思ったのかも知れません。私たちの祈りが呪術と違うのは、祈りの力が思い通りの効果を引き出すという考えがないことです。祈りは、神さまへの語りかけです。神さまがそれに応えてくださったのであれば、それは<神が>応えてくださったということです。<私の>祈りの力や私の熱心さではない。あくまでも大切なのは神様ご自身です。神さまの憐れみが働いている。ヒゼキヤはとても信仰深い人でしたし、誠実に神さまを信じ、従ってきました。そのヒゼキヤでさえも、祈りにおける焦点が神さまではなく自分自身になってしまったのだとしたら、これはたいへんなことです。ましてや自分の祈りは、神さまに一体どう聞かれるのだろうと思います。祈りにおける高慢。それは、祈っているようでありながらその実自分にばかりこだわる私たちの罪を暴露します。
「主よ、お赦しください。私の愚かな祈りの数々を。愚かであったのです。私の祈ることそのものが。」私たちの祈りは、ここから始まります。

2023年1月5日木曜日

2023年1月5日の聖句

神よ、あなたは私の若いころから私を教えてくださいました。私は今なお、あなたの奇しい御業を告げ知らせています。(詩編71:17)
主よ、今こそあなたは、おことばどおり、僕を安らかに去らせてくださいます。私の目があなたのみ救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを。(ルカ2:29~31)

今日の新約聖書の御言葉は、シメオンの言葉です。律法に定められているとおり、まだ生まれたばかりの主イエスを両親がエルサレムの神殿に連れて来た。彼らは貧しい家庭でしたので、山鳩一つがいか若い家鳩二羽を献げて礼拝をするのです。そのとき、シメオンという人がそこにいました。彼は正しい人で信仰に篤く、イスラエルの慰められるのを待ち、聖霊が彼に留まっていた、と聖書は伝えています。彼は、主が遣わすメシアに出会うまでは死なないと聖霊からのお告げを受けていた。その人が、両親に連れられて神殿に来た主メシア、イエスに遂に出会ったのです。
「主よ、今こそあなたは、おことばどおり、僕を安らかに去らせてくださいます。
私の目があなたのみ救いを見たからです。
あなたが万民の前に備えられた救いを。」
このシメオンの言葉は、後に讃美歌として歌われるようになりました。「ヌンク・ディミティス」と呼ばれています。聖餐のときに賛美されることも多いのです。この目で主の救いを見ました、万民のための救いを。主は今私をお言葉どおりに安らかに去らせてくださいます、私は安らかに死ぬことができます。代々の信仰者たちは聖餐を頂く度にその信仰を新しくしてきました。
シメオンは、自分が何のために生きているのかをよく知っていました。私はメシアと出会うために生きている。私と万民とを救ってくださる神さまの御業を見るために生きている。それは今日の詩編の御言葉が「奇しいみわざ」と言っている、神さまの大いなる御業です。旧約の民も待ち望んでいた救いの御業。シメオンはそれを遂に目撃した。私たちも、主イエス・キリストに現れた神さまの救いの御業を仰ぐために生きています。シメオンや詩編の祈り手たちが待ち望み、仰いだ救いを私たちは聖書に教えられ、キリストを想起し、キリストと出会うために新しい一日に出発していきます。

2023年1月4日水曜日

2023年1月4日の聖句

主の使いはエリヤに触れて言った。「起きて、食べなさい。あなたは長い道のりを控えているのだから。」(列王記上19:7)
萎えた手と揺らぐ膝を強くし、自分たちの足で確固とした歩みを進めなさい。(ヘブライ12:12~13)

エリヤは、イスラエルにアハズという王がいた時代の預言者です。アハズ王にはイゼベルという妃がいました。外国から輿入れしましたが、イゼベルは自分の国の神々も一緒に持ち込み、アハズはイゼベルの言うままに主なる神を捨てて外国の神々バアルをイスラエルに導入します。イスラエルの信仰は壊滅的な状態になりました。預言者エリヤは繰り返し主なる神に立ち帰るように忠告し、警告しました。そのため、彼はイゼベルから激しく憎まれていました。
あるとき、エリヤは450人ものバアルの預言者らと対決し、これに打ち勝ちました。このときの出来事が決定的で、エリヤはイゼベルから執拗に命を狙われ、エリヤ自身も生きる気力を失ってしまいます。それで、エリヤは神さまに訴えたのでした。「主よ、もうたくさんです。私の命を取ってください。」エリヤは主なる神さまを信じる偉大な預言者、しかも旧約聖書を代表する預言者です。しかしそのエリヤも疲れ果て、絶望し、希死念慮に捕らわれたのです。
神さまは、そうやって希望を失ってしまう現実が私たちにはあることをよくご存じです。だから、聖書は言います。「萎えた手と揺らぐ膝を強くし、自分たちの足で確固とした歩みを進めなさい。」そしてそのために、神さまは私たちを助けてくださいます。
どん底にいたエリヤのために、神さまは何をしてくださったのか。「主の使いはエリヤに触れて言った。『起きて、食べなさい。あなたは長い道のりを控えているのだから。』」神さまはまずエリヤを食べさせて下さいました。これは、本当に私たちの現実に即しています。お腹が減ったままで絶望に打ち勝つのはとても難しい。神さまはエリヤのお腹を満たしてくださって、旅を続けさせ、ついにエリヤは神の山ホレブにたどり着きました。かつて、モーセが神さまから十戒を頂いた場所です。イスラエルの信仰の原点のような場所です。しかしそこに導くために、神さまはまずエリヤのお腹を満たしてくださったのです。私たちの心が大事なのと同じように、肉体も大事です。キリスト信仰は心の問題ではなく、心も体も含めたトータルな人間存在そのものの事柄です。
だからこそ、主イエスさま御自身、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ることを教えてくださいました。神さまは私たちの心にも肉体にも関心を持ち、私たちのまるごとを救うために、今日も御業をなさっているのです。

2023年1月3日火曜日

2023年1月3日の聖句

主よ、私の案件を裁き、私を贖ってください。生き返らせてください、あなたの仰せにより。(詩編119:154)
しかし、主は真実な方です。あなたがを強くし、悪い者から守ってくださいます。(2テサロニケ3:3)

私たちの救いは、主が真実なお方であるという事実にかかっています。今日の新約聖書の御言葉を、私なりに直訳するとこのようになります。「しかし真実です、あなたたちを助けてくださり、そして悪い者から守ってくださるところの主は。」これを見ても明らかなとおり、この文章は「真実」という言葉をとても強く前面に出しています。主が真実な方でいらっしゃるから、この方は必ず私たちを助けてくださるし、私たちを悪い者から守ってくださいます。主はご自身の真実にかけて、必ず私たちを救ってくださいます。
ですから、私たちも神さまに助けを、悪い者からの守りを求めて祈りましょう。「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ!」主が私たちを贖ってくださり、私たちを生き返らせてくださいます。この「贖う」という言葉は、家族としての責任を果たすという意味がある言葉です。神さまは私たちの家族として、真実にその責務を果たしてくださる。私たちが奴隷になれば買い戻し、私たちが悪に引き渡されてしまうことがあれば取り戻し、私たちが迷いでてしまえば見つけ出してくださいます。キリストが真実なお方だから、それは本当のこと、真実なこと、確実なことです。
詩編作者は「あなたの仰せにより」と言いました。神さまの仰せ。神さまの御言葉に従って。だから、私たちはこの一年、神さまの御言葉に耳を傾けて歩んでいきましょう。これは私たちに救いをもたらす言葉であり、私たちのための家族になってくださるお方の愛の言葉であり、主イエス・キリストの真実そのものである、私たちの命の言葉なのです。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなた方一同にありますように。アーメン!

2023年1月2日月曜日

2023年1月2日の聖句

エフライムは私のかけがえのない息子、喜びをもたらすこどもではないのか。しばしば脅しもしたので、かえって思いをかけずにはいられない。だから、私のこころは砕かれ、憐れまずにはいられない、と主は言われる。(エレミヤ31:20)
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを生かしてくださいました。(エフェソ2:4~5)

今日の旧約聖書の御言葉は、ドイツ語の聖書を日本語に翻訳したものだそうです。聖書協会共同訳では次のように翻訳しています。
「エフライムは私の大事な子ではないのか。あるいは喜びを与えてくれる子どもではないのか。彼のことを語る度に、なおいっそう彼を思い出し、彼のために私のはらわたはもだえ、彼を憐れまずにはいられないーー主の仰せ。」
冒頭にあるドイツ語からの翻訳では「(神が)しばしば(エフライムを)脅しもした」とありましたが、聖書協会共同訳では「彼のことを語る度に」と翻訳されているので、受ける印象がずいぶんと変わってきます。「脅す」と「語る」というのでは全然意味が違います。なぜここまで極端に異なる翻訳が可能になるのでしょうか。
実はここは少し難しいところです。もともとは「言う」とか「語る」という動詞が使われています。ただ、動詞の形が強意形という、動詞の意味を強める形になっています。この動詞が強意形で使われると、敵対的な意味で語るというニュアンスを含む場合もあります。ドイツ語訳はそちらの意味で解釈して「脅す」としたということなのでしょう。また、新共同訳もここは「退ける」と訳していたので、ドイツ語と同じ解釈をしています。聖書協会共同訳や他の英訳などでは単に「語る」という解釈を採用していました。どちらも可能です。
細かい話が長くなってしまいました。いずれにしても今日の御言葉の中心は、神さまのあわれみであることは間違いありません。あわれみを受ける私たちの有り様は、それにふさわしくなくむしろ神の怒りが適当な現実です。しかしそれに勝る神のあわれみは、ご自身の御心を砕き、痛めながら私たちに向けられています。神さまからご覧になれば、本来私たちに穏やかに話すことよりも、脅し、裁くことが正当です。しかしそれを凌駕する途方もないあわれみのために、私たちを愛してくださいました。背きの中に死んでいた私たちを生かしてくださいました。私たちは神のあわれみと愛の途方もなさの中で、今日という新しい一日を始めていくのです。

2023年1月1日日曜日

2023年1月1日の聖句

2023年の聖句「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です。」(創世記16:13)
1月の聖句「神は、お造りになったすべてを見られた。見よ、それはとても良かった。」(創世記1:31)
今週の聖句「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(ヘブライ13:8)」

1月1日の聖句
私の魂は、生きておられる神を求めて渇いています。いつ行って、神のみ顔を仰げるのでしょう。(詩編42:3)
だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。(マタイ7:8)

主イエス・キリストは言われます。求めなさい!探しなさい!門を叩きなさい!主イエスは私たちが神に求めて祈り、神を探し、神の御前に門を叩くようにと命じておられます。祈ること、それは主イエスから私たちへのご命令です。喜ばしい命令です。ありがたい命令です。なぜなら、神さまは必ず求める者に応え、探す者にご自身をあらわし、門を叩く者に開いてくださる方だからです。神は私たちの祈りを聞いてくださる方です。
「私の魂は、生きておられる神を求めて渇いています。」私たちの渇く魂を、神さまが放置なさることはありません。神さまはキリストを遣わし、私たちが渇き、這いつくばるその傍らにまで降りてきてくださいました。まさに神は「エル・ロイ(私を顧みられる神)」です。祈ることは、私が一所懸命に神の顔を探し求めることではありません。なんとか神さまに気づいて頂いて、どうにか願いを伝えることではありません。私が神を求めるよりも先に神が私を求めていてくださり、私が神を探すよりも先に神が私を捜しに来てくださっていて、私が門を叩くよりも先に神が開いてくださっていることに気づくことです。私たちを顧みてくださる方は、もう既に私たちをご自分の御顔の光で照らしていてくださいます。私たちはその光に照らされている。
「いつ行って、神のみ顔を仰げるのでしょうか」と詩編作者は訴えました。今です。今、まさに、主イエス・キリストが来てくださっています。私たちに神の御顔をお見せになるために。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...