「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」「隣人を自分のように愛しなさい。」
神への愛、隣人への愛を命じるこの言葉が、受難週に主が教えてくださった律法として記されていることは印象的である。主イエスは明確に十字架を見つめつつ、あらゆる掟のうちで第一のもの、第二のものとしてこの二つの御言葉を聞かせてくださった。神への愛、隣人への愛は、それ故、私たちにとってキリストの十字架抜きに考えることはできない。全く不可能である。十字架のキリストのお言葉としてのみ、私たちもまたこれに生きることができるし、また大胆にも現に生きていると言いうる掟なのである。
2.
律法学者は「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねた。しかし、主イエスの答は、「第一の掟」に続いて「第二の掟」をお教えになった。神への愛と隣人への愛は切り離して考えることができない。神を愛して隣人を憎むことはできないし、神を憎みながら真実に隣人を愛することはできない。
さらに言えば、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われているのだから、ここには自分自身への愛もまた命じられている。神、自分自身、隣人との三つの関係が愛によって形づくられる。それを、主イエスはお命じになったのである。
3.
これを尋ねたのは「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者」であった。「彼らの議論」とは何のことか。18から27節がそれを伝える。この文脈が大事なのだと思うのである。
事は、復活を信じていないサドカイ派の人々が律法から揚げ足をとるような質問をイエスにしてきたことに始まる。レビラート婚をした女は、復活の時に誰の妻になるのか?これに対し、主イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。・・・神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」復活はない。つまり、この世が全てということだ。死んだら全て終わりということだ。死を超えた復活という希望を認めないことになる。しかし、それは思い違いであると主イエスは言われる。神は生きた者の神なのである。
4.
死は残酷だ。私たちから愛の関わりを無惨に奪う。愛する人が生きている姿を見ることは、もう二度とできなくなる。その話し声を聞くこと、いつもの何気ない仕草を見ること、体温のぬくもりを感じることができなくなる。半年ほど前にある老婦人の葬儀に出席した。式の最後に夫が挨拶に絶った。涙ながらに、火葬は残酷ですと言った。愛する者を喪った経験を持つものであれば、恐らく誰もが同意する悲しみである。
しかし、主イエス・キリストは、神は生きた者の神なのであると言われる。これは、もう死んでしまっては神を神と呼ぶことも信じることもできない、などという意味ではない。断じてない。神は、もうすでに死んだアブラハム、イサク、ヤコブといった人々にとっても、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼ばれる方である。神が結んでくださる絆は死をもってしても断ち切られることがない。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、私たちも、死を迎えて後もまた神との関わりにおいては生きた者であり続ける。神は生きた者の神なのである。
5.
私たちの結ぶ愛の絆は死を乗り越えることができない。残酷なことだ。しかし、神が結んでくださる愛の絆は、死によって滅ぼされることがない。
「わたしたちは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマの信徒への手紙第8章38,39節)
私たちの愛は死によって滅びる。しかし、なお、キリストは私たちに愛をお求めになる。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」「隣人を自分のように愛しなさい。」神が私たちの滅びるしかない愛を完成してくださるからだ。キリストがわたしの愛を確かだと保証してくださるからだ。十字架にかかったキリストが、である。愛の掟。それは、私たちにとって、神が十字架のキリストにあってくださった賜物以外の何物でもないのである。