2019年8月31日土曜日

2019年8月31日(エステル記9:16~10:3)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙二13、エステル記9:16~10:3

エステル記9:16~10:3;
エステルの出来事を記念して、プリムの祭が生まれました。ハマンの悪巧みが打ち砕かれ、その企みがハマンとハマンの家の上に降りかかり、ユダヤ人が生き延びたことを祝う祭です。
プリムは「プル」という言葉の複数形です。。プルは籤のことで、ハマンはプルを投げてユダヤ人殲滅の日時を決めていました。3:7に書かれています。ハマンがプルによって決めた日がアダルの月で、その13日に計画が実行されることになっていました。しかしこれまで見てきたとおり、大逆転が起こり、その日はユダヤ人の解放と救済の日になったのです。これを記念して、「アダルの月の十四日と十五日を毎年祝うことに定めた。すなわちユダヤ人が敵からの休息を得た日として、悲しみが喜びに、嘆きが祝いの日に変わった月として、これらを祝宴と喜びの日とし、互いに食べ物を送り合い、貧しい人々に施しをすることとした(9:21~22)」。アダルの月は、春の初めです。今でもプリムの祭は祝われています。プリムはユダヤの祭の中でも最も賑やかで開放的で、大人も子どもも一緒に仮装をし、オズネ・ハマン(ハマンの耳)と呼ばれるお菓子を食べるそうです。会堂ではエステル記が朗読され、朗読中に「ハマン」という名前が出てくると、人々は足を踏みならし、騒音を立てます。祭りの期間中は、あちこちで冗談を言い、お酒を飲むなど少々羽目を外した行為も許されているようです。
祭は、日常の外に人々を連れ出します。そして、日常を越えた視点で自分たちが何者だったのかに気づかせます。現代の社会には祭がすっかり失われてしまいました。せいぜい、縁日くらいでしかありません。その意味でも、礼拝の祭としての性格はとても大切です。私たちは週の初めに神の前で祭をし、日常の営みの外に出ます。外にしかない視点でアイデンティティと新たにし、日常の営みに戻っていきます。そうやって、自分が何者なのかを確認しながら生きていくのです。

2019年8月30日金曜日

2019年8月30日(エステル記8:1~9:15)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙二12、エステル記8:1~9:15

エステル記8:1~9:15;
運命の大逆転とでもいうべき出来事が、さらに決定的になりました。民族全体に、その逆転劇が広まります。エステルの勇敢な申し出により、ユダヤ人に決定づけられていた殲滅作戦は覆されました。ハマンは王の権威を着てその作戦を立てましたが、エステルとモルデカイは王の権威を与えられてこれを中止に追い込んだのです。
さらに、このような触れを出しました。「その中で王は、すべての町にいるユダヤ人に、集まって自分たちの命を守り抜き、迫害しようとする民族や州の軍隊を、子どもや女に至るまでことごとく根絶やしにし、殺し、滅ぼし、その財産を奪い取ることを許した(8:11)」。そして、この新しい定めは実行に移され、やはりここでもハマンの身に起こったように、悪巧みをした者の上にその企みが帰って行った。逆転したのです。
エステル記後半、特にこの場面については、現代の価値観からすると戸惑いを覚えることも確かであると思います。ここで起きたことは、民族的な報復であるからです。ただ、あまりエステル記を現代の価値観で裁いてしまうよりも、この書そのものが何を言わんとしているのかを聞き取ることの方が、事柄にふさわしいのではないかと思います。
エステル記は見えない神の見えない支配を信じ、「このような時のため」というその機(カイロス)に懸ける一人の信仰者の冒険を語ります。そして、それによって起こる鮮やかな逆転劇。それは、目に見えない神が、ペルシアという超大国の歴史をも、目に見えない仕方で支配しておられることの証左です。私たちの生きるこの世界は、混乱に混乱が重なり、あまりの悲惨に陥っています。しかし、それでも神の支配を私たちは信じます。私たちの生きるこの時代、もうすでにこのような報復は許されないのかもしれません。しかし、私たちは、抑圧され、虐げられ、小さくされたものと運命を共にしておられるお方こそがこの世界の歴史を支配していることを信じ、そのお方に懸ける。そのような信仰に生きたいと願います。

2019年8月29日木曜日

箴言6:6~11「怠惰の罪」


昔からの罪の告白の祈りの言葉に「私が言葉と思いと行いとによって犯した罪を赦してください」というものがある。近年これら三つにもう一つ「怠惰によって犯した罪」を加えて祈られている。怠惰の罪は私たちにしつこくからみつく。9から11節では特に「眠り」と関連づけて怠惰を語っている。主イエスがなさった十人のおとめの譬えを思う。私たちの信仰は眠っていないか、主を待つことを諦めて怠惰に身をやつしてはいないだろうか。

2019年8月29日(エステル記6〜7)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙二11、エステル記6~7

エステル記6~7;
鮮やかな逆転劇が起こります。ハマンは相変わらず自分にひれ伏そうとしないモルデカイに腹を立て、モルデカイを吊すために50アンマもの高さの杭を打ち立てました。2メートル以上もあります。
ところが、ハマンの企みとは違う所で、新しい出来事が始まっていきます。ある眠られぬ夜、王は宮廷の日誌を持ってこさせ、その朗読を聞いていました。そこにはかつてモルデカイが立てた功績が記録されていた。王の宦官の悪巧みをモルデカイが防いだという出来事があったことをクセルクセス王は知り、しかもモルデカイが褒美を得ていないことを知って、彼に栄誉を与えることにしました。どうしたらいいのか。王はハマンに質問し、ハマンの提案どおりにモルデカイにしてやるようにと命じます。ハマンはてっきり褒美を得るのは自分だと思っていましたが、その栄誉はハマンではなくモルデカイに与えられました。
そして、ついにエステルの酒宴が催され、王とハマンが招待されました。エステルはハマンの企みを王に暴露し、さらに彼がエステルに命乞いしているところを見た王が勘違いしてエステルを襲っていると思い込み、ハマンは死刑にされることになった。彼は、自分がモルデカイを吊そうと思って立てた柱に吊されることになりました
この鮮やかな逆転劇は、エステル記のクライマックスであると思います。このような逆転を起こせるのは、神様だけでしょう。人間の企みは神様の手の中にあります。一見すると人間の混乱に満ちていますが、実はその中でゆっくりと神様の御心がすすんでいきます。エステルもモルデカイも、ハマン自身も思い描いても見なかった新しい歴史が、目に見えない隠れた支配者の手によって進んでいくのです。私たちの歴史も、同じ方が支配しておられます。人間の企みを逆用なさる方の手の大きさが、私たちへの慰めであり、励ましです。

2019年8月28日水曜日

2019年8月28日(エステル記4〜5)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙二10、エステル記4~5

エステル記4~5;
ユダヤ人を殲滅するための勅書が出され、モルデカイも、すべてのユダヤ人たちも、刈らぬのをまとって悲しみ、灰の中に座り、断食し涙を流して祈りました。王宮の中にいたエステルだけは、そのことを知りません。モルデカイはエステルから送られてきた使いである宦官に、事の次第を言付け、次のように言いました。
「(モルデカイは)ユダヤ人を滅ぼし尽くすためにスサで発布された法の書面の写しを彼に渡した。これをエステルに見せて事情を説明し、彼女に、王のもとに行って王の前で自分の民のために憐れみを請い求めるように命じるためであった(4:8,9)」。しかしこれはエステルにとっても大変なことです。例え王妃であったとしても、ペルシアでは王から呼ばれるのではなく勝手に王の前に出ることは禁じられていました。王宮の内庭にいる王のもとへ近づいたとき、もしも王が金の笏を差し伸べてくれれば事なきを得ますが、そうでなければ死刑になってしまいます。エステルは、この30日間、王の召しを受けていませんでした。エステルにとっても文字通りに「命懸け」なのです。
それを聞いたモルデカイはエステルに言います。「あなたは、その他のユダヤ人とは異なり、王宮いる自分は難を免れるだろうと思ってはならない。もし、この時にあなたが黙っているならば、ユダヤ人への解法と救済が他の所から起こり、あなたとあなたの父の家は滅びるであろう。このような時のためにこそ、あなたは王妃の位に達したのではないか(13~14節)」。エステルはこの言葉によって決心し、王の前に進み出ていきました。
このモルデカイの言葉は、私たちにも、それぞれに迫ってくる言葉ではないでしょうか。私たちにも、命をかけるべき「このような時」があるのではないでしょうか。
エステル記には、神や主という言葉が出てきません。他の聖書の文書と読み比べると、これは大きな差です。神がなさったことは、あからさまには一言も書かれていません。神様はこの世界ではあたかも隠れておられるかのようです。神様のお働きは私たちの目にはっきりとは見えません。ですから、エステルの行為には何の保証もない。勇気を持って飛び込んで、結局は失敗して命を落とすかもしれない。それでも、神と人とのために自分のすべてをかけるべき「時」がある。そのために信仰のすべてを献げるべき「時」が必ずあるのです。

2019年8月27日火曜日

2019年8月27日(エステル記2〜3)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙二9、エステル記2~3

エステル記2~3;
クセルクセス王の後宮に新しい娘たちが集められました。その中の一人にユダヤ人の娘ハダサがいました。ハダサという名前にはヘブライ語で銀梅花という意味があります。ハダサは、しかし後宮に入ったときに自分のユダヤ人として出自を明らかにしませんでした。彼女の後見人である伯父のモルデカイの指示によるものです。恐らく、ペルシアの国でマイノリティであったユダヤ人というアイデンティティを明らかにすることは、生きにくさに直結したのであろうと思います。そこで、ハダサはペルシア語の名前を名乗りました。それがエステル、これは星という意味の名前です。エステルはクセルクセス王の寵愛を受け、妃としての冠を戴き、王は彼女のことを喜んで、諸州に免税までも行いました。
ちょうどその頃、ペルシアにハマンという大臣がいました。エステル記に登場するハマンの振る舞いを見ると、いかにも権威主義的で弱い者には威張り散らし、王には媚びへつらう人物として描かれています。ハマンは自分の権威を笠に着て、人々に対し、自分に向かってひざまずいてひれ伏すように要求しました。ところが、人をまるで神のように拝めという要求をはねつける人がいた。それが、エステルの後見人であったモルデカイです。エステルにはユダヤ人であることを隠すように言っていましたが、モルデカイ自身はそのことを隠してはいなかった。ただお一人の神にのみひれ伏すモルデカイは、ハマンの前に膝をかがめることは最後まで拒んだ。彼のそのまっすぐな態度が、ハマンの怒りを買いました。ハマンは王を唆して、ユダヤ人を殲滅する計画を立て、その勅令に王の印を押させることに成功してしまったのです。「この文書は急ぎの死者たちによって王のすべての州に送られ、第十二の月、すなわちアダルの月の十三日に、一日のうちに、ユダヤ人を若者から老人、子ども、女に至るまで一人残らず根絶やしにし、殺し、滅ぼし、また彼らの財産を奪い取ることとなった(3:13)」。
エステル記は、ここから大きく物語が動いていきます。しかしこの続きは、また明日。今朝のところでは、モルデカイという一人の信仰者が貫いた神を信じる者としてのはっきりとした態度を、私たちの記憶にしっかりと留めたいと思います。

2019年8月26日月曜日

2019年8月26日(エステル記1)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙二8、エステル記1

エステル記1;
エステル記はクセルクセスが支配していた時代のペルシアでの出来事です。キュロス王以降にイスラエルへ帰還した人々もいましたが、むしろそれは少数派で、大多数はペルシアに残って生きていました。その中にいたのががこの話に登場するエステルであり、モルデカイです。しかし今朝のこの第一章では、まだエステルもモルデカイもあずかり知らぬところから話が始まっています。
クセルクセス王と王妃ワシュティの出来事が、物語の第一幕となりました。宴席で上機嫌になったクセルクセス王は、集まった者たちにワシュティの美しさを自慢しようと考え、彼女に王妃の冠をかぶらせて皆に見せびらかそうとしました。クセルクセスは宦官に命じてワシュティを召し出そうとしましたが、彼女はこれを拒否。立腹しがクセルクセスは大臣たちに相談をします。彼らはワシュティの振る舞いは王のみならず国内すべての男たちにとって不都合だとして、ワシュティを王妃の座から追い落とすようにクセルクセス王に進言しました。王は言われてとおりにします。
ワシュティを巡って起きたことは、男性と女性の社会的な性差の問題と映ります。王の召しを断ったワシュティ。その理由は書いてありません。見世物にされることを拒んだのか、その日は体調が悪かったのか。いずれにしても、断るには大変な勇気が必要だったに違いない。思えばこのエステル記は、そのようにして命をかけて王という権力者の前に一人屹立する人たちの物語とも言えます。そう考えると、クセルクセスは自分の王という権力ある立場に寄りかかっているとも考えられます。私たちは、今、自分の足で立っているのでしょうか?

2019年8月25日日曜日

コリントの信徒への手紙一第15章20から28節「命の初穂」


 「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」とパウロは言っています。この言葉を読んで、あるローマ・カトリック教会の神父の言葉を思い出しました。神父たちは結婚しません。当然子どももいない。そのことで教会の信徒からさみしくないですかという趣旨のことを言われたようです。それに対して彼は、この世のことだけでキリストに望みをかけているなら確かにその通りだが、自分はこの世のいのちを超えた希望をキリストに抱いているからそのようなことはないと答えたそうです。私自身一人のキリスト者として、とても考えさせられる言葉です。私たちはこの世の命のことだけでキリストに望みをかけているのではありません。今のことしか見えなくなると、とても辛くなります。小さな事に一喜一憂し、何事かが起こる度にむなしくなってしまいます。しかし私たちはこの命を超えた希望を持っています。「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」初穂は最初の実りですから、当然次の実りがあります。この次の実りは私たちのことです。私たちも、キリストと同じようにやがてこの肉体をもって復活する。命の実りとなるのです。ですから私たちは死んだら終わりだという「信仰」には生きていないのです。
 そこで私が関心を持ったのが、23節で「順序」という言葉が使われていることです。この言葉は物事の順番という意味の他に地位という意味も持っているそうです。等級や階級など、普通は兵士の単位として使われる言葉だそうです。軍隊の秩序を表す。軍隊はある目的のために整えられた秩序を持ちます。この当時で言えば、ローマ帝国が領土を拡大するといったところでしょうか。23から26節にはキリストによって与えられる復活の命の順序が書かれています。キリストがすべてを支配し、最後の敵として死が滅ぼされると言います。キリストが死にも打ち勝って、これを占領して滅ぼしてしまわれる。今はまだそうなってはいません。しかし、今将に来たらんとしていることです。実際にキリストが復活して命の初穂となられたからです。
 この命の福音は、私たちの個人的な慰めとして訪れるのではありません。キリストは死に支配されない「国」をお造りになります。壮大なスケールの話です。キリストは神の国、天の国をお建てになるのです。私たちの今生きる現実はまだその手前を進んでいる。だからキリストに支配されるべきすべての支配、すべての権威、勢力が我が物顔で君臨しています。私たちの社会には裁きの言葉が飛び交い、憎しみが国を覆っています。隣人を裁いて止まない私たちの小さな権威はキリストに支配して頂かなければ救われることがないのです。
 キリストは御自分が支配する国を打ち立てるためにこの世界に戦いを挑んでおられます。この戦いは私たちを抑圧するものではありません。キリストは父なる神への徹底的な従順、十字架の死にまでいたる従順によって私たちを神の支配の中に入れてくださいました。私たちはキリストの戦いの実りです。このキリストが命の初穂として復活したからには、私たちもキリストの結んでくださった実りとしてやがて復活することになるのは、今や当然なのです。

2019年8月25日(ネヘミヤ記12〜13)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙二7、ネヘミヤ記12~13

ネヘミヤ記12~13;
ネヘミヤたちは完成したエルサレムの城壁を神様に奉献しました。城壁には、エルサレムに住んだり、エルサレムに礼拝に来たりする者の安全を守るという役割があります。しかす。しかしネヘミヤたちはこれを自分たちだけのものとは考えませんでした。だから、神様に献げたのです。神に献げ、神がこれをご自分のものとしてくださるように、という信仰の願いが込められています。
教会堂が建ったときにも、献堂式をします。この礼拝堂が自分たちだけのものではなく、神に献げられた神さまご自身のものであり、神様の御心のために用いられますようにと祈りつつ、献堂式をいたします。教会堂だけではなく、例えば私たちが住む家が建ったとき、新しく借りたとき、あるいは車でも洗濯機でも靴でも洋服でも、それを献げる祈りをしてから使い始める、ということは事柄にふさわしいと思います。
ネヘミヤたちは心を込めて礼拝をしました。神を賛美し、祈りました。「その日、人々は大いなるいけにえを献げ、喜んだ。神が大いなる喜びを彼らにお与えになったのである。女も子どもも共に喜び、エルサレムの喜びは遠くまで響いた(12:43)」。このネヘミヤ記の一つのキーワードは、喜びなのではないかと思います。廃墟の中で、やっと建った壁を見つめながら、彼らは聖書の言葉に耳を傾け、共に心を一つにして神を賛美して、喜びました。喜びを神に献げました。外面的にはまだまだ荒廃しています。生活は困難です。邪魔する者もいました。もしかしたら、あまり喜べるような状況ではなかったのではないかと思います。しかし、それでも喜んで神を礼拝し、神を賛美しました。神を礼拝することこそが、信仰者の力であり、喜びの源であるからです。それは誰の手によっても奪うことはできません。この喜びに、私たちも招かれています。

2019年8月24日土曜日

2019年8月24日(ネヘミヤ記10〜11)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙二6、ネヘミヤ記10~11、雅歌8

ネヘミヤ記10~11;
ネヘミヤたちイスラエルの人々による、神様への誓約です。「これらすべてを顧みて、私たちは誓約し、書き留め、私たちの長、レビ人、祭司が捺印した(10:1)」。「この他の民、祭司、レビ人、門衛、詠唱者、神殿に仕える人々、その地の民から離れて神の律法のもとに集ったすべての人、彼らの妻、息子、娘、理解のできるすべての人は、彼らの同胞の有力者たちに賛同し、神の僕モーセを通して与えられた神の律法に従って歩み、私たちの神である主の戒めと法と掟をすべて守り行うことに同意し、誓約するものである(29,30節)」。そして、具体的に、この地の民と姻戚関係を結ばない、安息日を守る、ささげ物のことなどを神様の御前に誓い、署名しました。
一つには、自分たちの生きる基準は他の人と同じように振る舞うということではなく、神様が何を自分たちに求めているかという点におく、ということです。聖書に従うというただ一点で、他の民と区別された神の民が形成されていきます。
もう一つには、歴史的に見ると、エズラやネヘミヤの時代に確立した律法に従う信仰生活が、やがて数百年経って主イエスの時代にファリサイ派へとつながっていった、という事実もあります。ファリサイ派というとそれだけで「いやな奴ら」という先入観を持ってしまいがちですが、それは誤解に基づく偏見です。崩壊した神の民が神様の御前に悔い改め、新しい自分たちの生き方を聖書に求めた。真剣に聖書に従って生きた。それが彼らの出発点です。ただ、その自分たちの真剣さに囚われるあまりに違う生き方をする者への裁きの心に駆られてしまった、という点が問題だったのだと思います。私たちも、御言葉に真剣に生きたいと願います。しかし、私たちを救うのは自分の真剣さではありません。ただキリストの憐れみだけが私たちを救ってくださいます。だからこそ、憐れみ深いキリストに従うことを基準として、神様の御前に毎日の生活を営んでいきたいと願います。

2019年8月23日金曜日

2019年8月23日(ネヘミヤ記9)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙二5、ネヘミヤ記9、雅歌7

ネヘミヤ記9;
「今日はあなたがたの神、主の聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない(8:9)」。そう言ってネヘミヤたちは神を礼拝しました。ごちそうを食べ、甘い飲み物を飲んで喜びました。主を喜び祝うことこそが神の民の力だからです。
こうして始めた礼拝で彼らがしたのは、次のとおりです。「イスラエルの人々は集まって断食し、粗布をまとい、土をかぶった。イスラエルの血筋の人々は立ち尽くし、すべての外国人をの関係を離れ、自分たちの罪と先祖の過ちを告白した(9:1~2)」。罪の告白の祈りをしたのです。そして「彼らは自分たちの場所に立ち、その日の四分の一は、彼らの神、主の律法の所を朗読し、また四分の一は、罪を告白し、彼らの神、主を礼拝した(3節)」。聖書を読み、それに導かれて罪を告白し、神様の御前に身をかがめて礼拝しました。
一見すると「嘆いたり、泣いたりしてはならない」という言葉と矛盾しているようにも見えますが、決して矛盾ではないと思います。ウェストミンスター小教理問答という本に、このような文章があります。「問87 命に至る悔い改めとは、何ですか。 答 命に至る悔い改めもとは、それによって罪人が、自分の罪を真に自覚し、キリストにおける神の憐れみを悟り、自分の罪を悲しみ、憎みつつ、新しい従順への十分な決意と努力をもって、罪から神に立ち帰る、そのような、救いに導く恵みの賜物です。」罪への嘆きは、それによって神の御許へ帰るための恵みの賜物です。ですから、ネヘミヤが言うところの嘆きとは、意味が違うのです。
さて、イスラエルの人々は長い罪の悔い改めの祈りをしていますが、それは先祖から続く長い歴史を解雇しながらの悔い改めでした。自分たちが生まれるよりも遙かに前から続く歴史のなかでの罪の悔い改めです。自分が生まれていないときのことだから知らない、とは言いませんでした。時間を越えた神の民の一員として、自分自身のこととして、先祖の罪をも神の御前に告白し、悔い改めました。私たちも、この社会に生きるキリスト者の一人として、同じ砕かれた心を持って悔い改めの恵みにあずかりたいという思いを新しくしました。

2019年8月22日木曜日

箴言6:1~5「友の保証人となったとき」


友の保証人になったために困難に陥ったときのことを告げている。外国人から借金した友人の保証人になったのだろう。そのときにはこうする。「わが子よ、そのときにはこうして自分を救え。命は友人の手中にあるのだから、行って足を踏みならし、友人を責め立てよ。」お人好しになれとは教えていない。自らを救うために必死になれと教える。そこで問われるのは債権者との関係ではなく、被保証人との関係。聖書はこのようなことも語る。

2024年12月13日の聖句

モーセは顔を隠した。神を見るのを恐れたからである。(出エジプト記3:6) イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」彼らが目を上げてみると、イエスの他には誰もいなかった。(マタイ17:7~8) 今日の新約聖書の御言葉は、ある高い山での出来事...