2022年10月31日月曜日

2022年10月31日の聖句

公正と正義を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救いなさい。見知らぬ者、孤児、寡婦を抑圧したり虐待したりしてはならない。(エレミヤ22:3)
愛には偽りがあってはなりません。悪を退け、善に親しむ。(ローマ12:9)

「愛には偽りがあってはなりません」と言います。それは、私たちが愛することにおいて間違えやすいということでもあるのだと思います。愛を偽ってしまう。今日の旧約聖書の御言葉は、そのことをとても鋭く突く言葉です。
「公正と正義を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救いなさい。見知らぬ者、孤児、寡婦を抑圧したり虐待したりしてはならない。」
見知らぬ者、孤児、寡婦。社会の中で一番弱い立場にある人です。もしもこの人たちを軽んじたり、どこかで後回しにしたり、他の「重んじるべき人」と態度を変えたりしているとしたら、いくら彼らを愛していると言ったところで、その愛は偽りではないか。聖書は私たちにそう問うているのではないでしょうか。
今日は10月31日。宗教改革記念日です。マルティン・ルターの問いから始まった教会改革運動です。彼は95箇条からなる提題を公開しました。その第一は、このような言葉です。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めよ』と言われたとき、彼は私たちの全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである。」更に第二、第三の命題に進んでいくと、この悔い改めとは職務として行われる儀式のことではない、実際的で外的な結果をもたらすような悔い改めのことだ、と続きます。当時の教会で大きな問題になっていた贖宥状は、自身の悔い改めや先祖の救いをお金の問題に置き換えてしまいました。そうではなくて、心から神さまの前で罪を悔い改め、新しい生き方をしよう、と呼びかけたのです。
「愛には偽りがあってはなりません」という聖書の御言葉と、同じことを言っているのではないでしょうか。神さまの御前でも、隣人の前でも、私たちの愛に偽りがあってはならない。私たちの考えることやすることには、いつでも限界があります。どうしようもなく駄目な自分を見つめなければならないことも少なくありません。しかしそうであるからこそ、神さまの御前に悔い改め、真実な愛をくださいと祈りつつ、隣人と出会いたいと願います。神さまは必ず私たちを新しくしてくださる。そう信じています。

2022年10月30日日曜日

2022年10月30日の聖句

神である主は太陽、盾。(詩編84:12)
イエスは弟子たちに言われた。「あなたたちは何を怖がるのか。まだ信仰がないのか。」(マルコ4:40)

主、私たちの神さま。このお方こそ、私たちを照らす太陽。私たちをあらゆる災いから守る盾。私は一体誰を恐れよう。この詩編第84編の祈りの言葉を生み出した最初の信仰者も、そして私たちも、同じように信じています。「神である主は太陽、盾。」
この夏からずっと、統一協会を巡るニュースが報じられています。教会と名乗りながら、とても自分勝手に聖書を解釈し、いろいろな人を傷つけてきた団体です。私たちの信仰とは明確に異なる。しかし、それでもやはり、本当に悲しいことに、キリスト教会が生み出してしまったカルトでもあります。断罪して無関係だと言って済む話でもないと思います。とても難しくて、簡単ではない問題なのだと思います。
彼らの教えの誤りをいろいろと指摘することもできるのでしょうが、今日私たちはこのことを覚えたいと思います。「神である主は太陽、盾。」御言葉はそのように語りかけています。神さまは私たちを太陽のように、あるいはそれ以上に明るく、そして永遠に、照らしてくださる方です。温めてくださる方です。私たちが生きる時代が夜の時代であったとしても、主なる神さまという太陽は私たちを照らし続け、温め、私たちを救いの喜びに導いてくださいます。この光の喜びこそ、大切なことではないでしょうか。私たちは主を愛する喜び、そしてそれ以上に、主に愛される喜びをいただいて生きています。主が私の盾になってくださったから。私にはもはや恐れるものはない。
主がくださっている喜びが、神さまの愛のもたらす望みが、曲がってしまうことなくすべての人に届けられますように。心からそう祈ります。
私たちは、ただ神の恵みによってだけ、それだけの理由で救われました。だからこそ、私たちは祈ります。この世界のために。この世界で、神の真実の愛を求めてあえいでいるたくさんの人たちのために。私たちの太陽でいてくださる方が、この世を照らしてくださいますように。私たちを試みに遭わせず、悪いものから救ってくださいますように。

2022年10月29日土曜日

2022年10月29日の聖句

天よ、喜び歌え。地よ、喜べ。山々よ、歓声を上げよ。主がご自分の民を慰め、その苦しむ者を憐れまれるからだ。(イザヤ49:13)
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。神は、どのような苦難のときにも、私たちを慰めてくださいます。(2コリント1:3~4)

今日の聖書の御言葉には、旧約でも新約でも、慰めという言葉が出てきています。この「慰め」というのは、聖書に出て来る言葉の中でも特に美しい言葉だと私は思っています。新約聖書が書かれたギリシア語で「慰め」と翻訳される言葉は、「呼ぶ」という動詞に、「側」という意味の接頭辞がくっついてできた言葉です。ですから、「慰め」というのは、側に呼ぶ、あるいは側で呼びかけるという字を書くことになります。
「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。神は、どのような苦難のときにも、私たちを慰めてくださいます。」
神さまは、私たちの父として慰めに満ちたお方だ、と言っています。神さまは私たちの苦難のときに、私たちの遠くにおられるのではない。私たちのすぐ側にいて、私たちに語りかけてくださる方です。あるいは、私たちが側にいてくださいとお願いをすることができる神さまでいらっしゃる、というのです。この事実自体が、それだけでとても慰めに満ちているのではないでしょうか。
苦難のとき、神さまは私たちの側近くにいてくださいます。ただ単に側にいてみているというのではない。私たちの味わう苦難を、神さまはよく知っておられます。いや、私たち以上に味わい尽くしておられます。それが、主イエスさまが人となって十字架にかけられたという事実が意味していることです。私たちの側、しかし私たちよりも更に深いところにおられ、主は私たちの苦難を知り、私たちに慰めを語りかけてくださっている。それが、私たちの信じる神様です。
だから、私たちは神さまを賛美します。「天よ、喜び歌え。地よ、喜べ。山々よ、歓声を上げよ。主がご自分の民を慰め、その苦しむ者を憐れまれるからだ。」私たちを慰めてくださる方に、栄光と誉れが世々限りなくありますように。

2022年10月28日金曜日

2022年10月28日の聖句

律法を知らない子どもたちがこれを聞いて日々学び、あなたがたの神、主を畏れるようになる。(申命記31:13)
すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和があります。神は人を分け隔てなさいません。(ローマ2:10~11)

ラジオのニュースで聞いたのですが、東京都渋谷区の美竹公園が突如出入り禁止になったそうです。区の複合施設の整備計画の一環なのだそうですが、予定していたよりも半年ほど早く、しかも何の前触れもなく公園が閉鎖になった。それで、この公園で寝泊まりしていた路上生活者が閉め出されることになりました。他の場所に移動した人もいましたが、それを拒む人もいたそうです。
私は、とてもひどい対応だと思います。どこで生活しているのであろうと、その人にも毎日の暮らしを営む権利はあるのではないでしょうか。以前、ブラジルに行きました。大都会のサルバドルに着いて、車で2時間くらいかけてジョタカという農村にある教会へ行きました。その途上で、ブラジルの教会の石塚惠司牧師が、ここら辺の家は全部、自分の土地ではない場所に勝手にやって来て建てた家なんだよ、と教えてくださいました。一軒二軒ではありません。そういう家々で一つの集落ができるほどです。勝手に電線から電気を引いたりもしていました。迷惑だったに違いない。しかしブラジル社会はそういう暮らしをしている人を包摂していました。私たちの社会は、どうなのでしょうか?
件の美竹公園は、路上生活者を支援する弁護士らのサポートもあって行政との話し合いがもたれ、その後、生活していた人たちの出入りはできるようになったようです。私たちは、社会の網の目からこぼれ落ちている人をどうやって包摂し、共に生きるのか。
「神は人を分け隔てなさいません」と書かれています。ユダヤ人でもギリシア人でも。律法を行っている人も、知らない人も。律法を知らない人とは、恐らく異邦人のことです。外国からやって来て、信仰も違い、生活の基盤もない人たち。しかし彼にも福音はもたらされる、と聖書は言います。神は人を分け隔てなさらないからです。
神さまは私たちの引いた境界線を越境して進んで行かれます。キリストの手の届かない場所は、この世界にはないからです。

2022年10月27日木曜日

2022年10月27日の聖句

あなたは、あなたの神、主こそ神であり、真実の神であることを知るようになる。この方は、ご自分を愛し、その戒めを守る者には、幾千代わたって契約と慈しみを守る。(申命記7:9)
約束してくださったのは真実な方なのですから、告白した希望を揺るぎなくしっかり保ちましょう。(ヘブライ10:23)

私たちと神さまとの関係は、神さまの側の真実にかかっています。例え私たちが不真実であっても(そして実際に不真実なのですが)、神さまはいつでも真実なお方です。そして、ご自分の真実にかけて慈しみ深い方でいてくださいます。
「この方は、ご自分を愛し、その戒めを守る者には、幾先代にわたって契約と慈しみを守る。」神さまは、この言葉を御自ら違えられました。ご自分を愛し、その戒めを守る者には、と書かれています。ところが、神を憎み、神の戒めを無視し、神の独り子を殺した私たちに対して、怒りや呪いではなく慈しみを貫いてくださいました。幾千代にもわたる慈しみとあります。一世代20年としても、20,000年以上の時間です。神さまの慈しみは、私たちの想像を超えてはるかに大きく、長い。神さまの敵である私たちに対し、神さまは慈しみと真実を貫いてくださいました。
また、神さまは慈しみだけではなくご自分の契約を守る、と書かれています。契約というのは、神さまと私たちとの約束に基づく関係、ということでしょう。神さまは私たちをご自分の民として愛し、私たちは神さまを信じ、愛する。しかしこれも、私たちの不真実が損なってしまった関係です。それでも神さまはご自分の契約に忠実でいてくださる。普通、契約は双方に義務を負っています。しかし神さまと私たちとの契約は、神さまただお一人が責任を負い、固く守り続けてくださっているから成り立つ契約です。普通、それでは契約として成り立たない。しかし神さまは、そうやって私たちとの関係を守ってくださいました。
神さまは真実な方。主イエス・キリストは真実な方。この方の真実によって、私は生かされている。それが本当のことです。今日私を生かすのは、神の真実です。
だから、私たちは、神さまを信じたり、従っていれば、ご褒美として救われるのではない。どこまでも不信仰で不真実な私を、ただ神は憐れんで救ってくださった。その神のために私はどうやって生きようか。それが私たちの問いなのです。

2022年10月26日水曜日

2022年10月26日の聖句

神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての国民をご自分のものとされます。(詩編82:8)
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17)

「神よ、立ち上がり、地を裁いてください」と祈っています。善が善とされ、悪が悪とされるというのは、とても大切なことです。悪が善になったり、あるいはその逆だったりしては、私たちの社会は秩序を保つことができなくなってしまいます。もしかしたら現代はその点で非常に混乱してしまっていると言わねばならないかも知れません。善と悪との区別がつかなくなっていたり、あるいは人によってあまりにも善と悪との基準が違いすぎて、共通的な価値観が失われてしまっている。そうでなければ信頼関係が損なわれていて、そもそも議論をする共通基盤やプラットフォームがなくなっている。私たちが今体験している社会の混沌は、そういうところから生じているのかも知れません。
「神よ、立ち上がり、地を裁いてください」という祈りは、真実と不真実や善と悪を裁くのは、神さまだという宣言です。真実と虚偽の区別はあるし、善と悪との区別もある。全部が相対的で、曖昧で、人によって変わってしまうのではなく、それを裁く神がおられる。神のお定めになる秩序がある、ということではないでしょうか。
そのときに、もう一つの御言葉がとても大切です。というのは、私たちは得てして善悪の基準を自分自身にしてしまいがちだからです。そうやって結局はそれぞれが小さな神になって、お互いの正義がぶつかって、また混乱に陥ってしまいます。聖書は言います。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」神の裁きは私たちの考えている裁きではなくて、私たち罪人を救うことだ、と言うのです。これは驚くべき言葉です。神は罪人を救うことによってご自身の正義を貫かれたのです。神さまは悪人を赦すことによって、ご自身の善を全うされたのです。主イエス・キリストを裁き、このお方ひとりに罪の結果をすべて背負わせることによって。
神は私たちを裁いて滅ぼすために御子を遣わされたのではない。私たちを愛し、救うために、主イエス・キリストをお遣わしになりました。ここに神の正義が立てられた。私たちは自分の正義を握りしめて互いを裁き合いますが、神はご自分の正義によって私たちを愛し抜いてくださいました。この神の愛が、損なわれた私たちの世界を救います。神の国は、主イエス・キリストによって私たちのところへ来るのです。

2022年10月25日火曜日

2022年10月25日の聖句

主はヨナに言われた:あなたは怒っているが、それは正しいことか。(ヨナ4:4)
きょうだいたち、もし誰かが過ちに陥ったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を助けなさい。あなた自身も誘惑されないように気をつけなさい。(ガラテヤ6:1)

主なる神さまは預言者ヨナに命じました。大いなる都ニネベに行き、その悪を悔い改めるように言え、と。ニネベはアッシリアの都です。アッシリアは預言者ヨナの祖国イスラエルを圧迫し、やがて滅ぼしてしまう超大国です。ヨナはニネベに行くのがいやだったので、正反対の方角にあるタルシシュ向かって旅を始め、舟に乗って逃げました。しかし嵐に遭い、魚に飲み込まれ・・・という旅を経て、ヨナは遂に神さまの命令に従ってニネベへ行ったのです。
そこでヨナは神さまが命じたとおりに人々に言いました。「あと四十日で、ニネベは滅びる。」人々はヨナの言葉を聞いて悔い改めました。すると「神は、人々が悪の道を離れたことをご覧になり、彼らに下すと告げていた災いを思い直され、そうされなかった」(3:10)のでした。
このためヨナは非常に不愉快になり、怒りました。そして神さまに訴えます。「ああ、主よ、これは私がまだ国にいたときに言っていたことではありませんか。ですから、私は先にタルシシュに向けて逃亡したのです。あなたは恵みに満ち、災いを下そうとしても思い直される方であることを私は知っていたのです。」ヨナにとっては神さまの慈しみも、ニネベの人々が悔い改めたことも、そのために神さまが裁きを思いとどまったことも、全部不満でした。憎きニネベの人々には、罪の中で破滅してほしかった。だからヨナは怒りました。死んだほうがましだと言いました。それほど怒っていた。そんなヨナに向かって、神さまは問いかけます。「あなたは怒っているが、それは正しいことか。」
ヨナの怒りは、私たちにもよく分かる怒りであるかも知れません。ところが神さまは、この後ヨナにおっしゃいます。「どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。」それは当然だ、と神さまは言われます。あなたの敵であるこの都にも、たくさんの人や無数の家畜がいる。私は彼らを惜しく思う、と神さまは言われます。ヨナには、神さまがご覧になっていたものが見えませんでした。ニネベの人々を惜しむ神さまの御心が見えませんでした。自分の憎しみのために、見えなくなってしまっていました。神さまの慈しみは私たちからしたらあまりに果てしない・・・。
私たちの思いを超えた神さまの深い慈しみが、今日の私たちを生かしてくださっています。今日も祝福がありますように。

2022年10月24日月曜日

2022年10月24日の聖句

私たちの上に起こったすべてのことにおいて
正しいのはあなたです。
あなたは真実を尽くされたのに
私たちは悪を行ったのです。(ネヘミヤ9:33)
私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。(1ヨハネ1:9)

今日の旧約聖書はネヘミヤ記です。ネヘミヤ記は、バビロンに戦争で敗れて捕囚されたイスラエルの人々が、それから何十年も経ち、その時の世界の支配者ペルシアによって捕囚から解放され、遠い故国にもどって国を再建したときの出来事を伝えています。このとき、彼らはエルサレムに戻り、神殿とそれを守るための城壁を造りました。昔の立派な神殿とは違うものだったでしょう。しかし彼らは瓦礫の中にそれを造り、礼拝を始めます。この時代の礼拝の様子が、今日読んでいるネヘミヤ記第9章に記録されています。
「その月の24日に、イスラエルの人々は集まって断食し、粗布をまとい、土をかぶった。イスラエルの血筋の人々は立ち尽くし、すべての外国人との関係を離れ、自分たちの罪と先祖の過ちを告白した。彼らは自分たちの場所に立ち、その日の四分の一は、彼らの神、主の律法の書を朗読し、また四分の一は、罪を告白し、彼らの神、主を礼拝した。」
彼らは瓦礫の中から再出発するのに、何よりも先ず神さまを礼拝しました。そしてその礼拝で彼らがしたことは、聖書を読むことと、罪を告白することでした。この二つなくして自分たちの再生の道はないと信じたのです。
そうして罪を告白した言葉が、今日私たちに与えられている聖書の御言葉です。「私たちの上に起こったすべてのことにおいて、正しいのはあなたです。あなたは真実を尽くされたのに、私たちは悪を行ったのです。」自分たちや先祖の行いが間違っていたことを認め、神さまの正しさを前にひれ伏す。神さまが真実を尽くしておられることを、畏れをもって受け入れる。これは、今も私たちが引き継いでいる営みです。私たちも、今、礼拝で罪を告白し、神さまの御言葉を求めます。そうでなければ私たちは新しく出発できないからです。そして、神さまは罪を告白し悔い改める者を決して捨て置くことがありません。「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」この赦しの恵みの中、私たちの新しい一日が始まっているのです。

2022年10月23日日曜日

2022年10月23日の聖句

悪しき者に神は言われる:何のために、あなたは私の掟を数え上げ、私の契約を口にするのか。あなたは私の諭しを憎み、私の言葉をないがしろにする。(詩編50:16~17)
しかし、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れずにいる人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人になります。このような人は誰でも、その行いによって幸いな者となるのです。(ヤコブ1:25)

今朝のヤコブの手紙が言う「一心に見つめる」とは、愛をもって見つめるということであろうと思います。完全な律法、自由の律法を愛し、神の言葉として従う。主なる神さまへの実際的な愛を問うているのだと思います。
「何のために、あなたは私の掟を数え上げ、私の契約を口にするのか。あなたは私の諭しを憎み、私の言葉をないがしろにする。」これは主の掟を数え上げ、主の諭しを口にしているけれど、実際の生き方がそれを裏切っているという指摘でしょう。「何のために」と主は問うておられます。実際はお前は私の掟や諭しを憎んでいるのに、何のためにそれを口にしているのか、重んじる振りをしているのか、愛しているような見せかけの振る舞いをするのか、と言うのです。
とても厳しい問いです。それだけに、私たちの実態を暴いてしまう言葉です。神さまを信じ、神さまに従って生きているような顔をして、実際にはそれを裏切っている。人目につかないところでは、誰も知らないところでは・・・。しかし、すべてをご覧になっている方は、私たちのひそかな欺瞞を見抜いておられる。
そう考えると、とても恐ろしいことです。神さまを信じる歩みは、神様ご自身の赦しと愛がなければ決して成り立ちません。神さまの憐れみにすがるより他ありません。しかし、神さまは私たちが考えている以上に、大きく果てしない愛と憐れみで私たちを包み込んでいてくださいます。そのことに気づいたとき、私たちの生き方が変わるのではないでしょうか。私は私を愛してくださる方によって、新しくなることができる。そのとき、律法は無味乾燥な決まり事ではなく、自由をもたらす幸いの指針です。私たちを自由にする道標です。神さまの愛が骨身に染みたとき、私たちは本当に自由になることができる。聖書は私たちに自由をもたらす、神さまからの愛の手紙なのです。

2022年10月22日土曜日

2022年10月22日の聖句

私たちは何を行うべきか分からず、ただあなたに目を向けるのみです。(歴代誌下20:12)
信仰の創始者であり、完成者であるイエスを見上げ続けて参りましょう。(ヘブライ12:2)

詩編第123編にこのような言葉があります。
「ご覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ
はしためが女主人の手に目を注ぐように
わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ
憐れみを待ちます。」
主なる神さまの僕やはしためとは、神さまの御手に目を注ぐ人のことです。おとめマリアのところへ天使が来て、あなたは胎に子を宿す、その人は神の子救い主だと言われたとき、彼女は「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と応えました。マリアはまさに主なる神さまの御手を見つめ、その御心のままに自分も生きます、そのために私を使ってくださいと祈ったのです。
聖書は私たちに、目を神に向けようと励まします。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスを見上げ続けて参りましょう。」心が挫けてしまうとき、信仰が萎えてしまいそうになるとき、しかし、主なる神さまに向かって目を上げましょう。そこには尽きることのない恵みがあり、主イエスさまを私たちに与えてくださった愛があります。私たちの目を上げる。そして、主イエスさまを見る。主イエスのお姿は、聖書が私たちに余すところなく伝えています。このお方に神さまの御心が詰まっているのです。
「私たちは何を行うべきか分からず、ただあなたに目を向けるのみです。」これは本当に謙遜な言葉だなと思います。キリストこそが私の生きる基準だと言います。キリストを仰いで生き方を決めますと告白します。私たちのための神さまから尽きることのない祝福は、この方に余すところなく現れたからです。

2022年10月21日金曜日

2022年10月21日の聖句

主が私を遣わされた。シオンの嘆く人に、灰の代わりに頭飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、沈む心の代わりに賛美の衣を授けるために。(イザヤ61:1,3)
息子は言った。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」しかし、父親は僕たちに言った。「急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せなさい。」(ルカ15:21~22)

「主が私を遣わされた。」これは、私たちのことです。主なる神さまは私たちをお遣わしになりました。今日、私たちがそれぞれに生きる場所、それが職場であろうと家庭の中であろうと、趣味のサークルであろうと、公園でもスーパーマーケットでも、どこであっても、それは主に遣わされた場所です。
そして、そこで果たすべき使命が私たちにはある。神さまは私たちをある使命に付かせるために派遣なさいました。私たちの使命、それは「シオンの嘆く人に、灰の代わりに頭飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、沈む心の代わりに賛美の衣を授けるために」と書かれているとおり、嘆く人に喜びの知らせを告げることです。悲しむ人にキリストの望みを運ぶことです。心沈んでいる人のところへ行って、神を賛美する心を届けるためです。
賛美はどこから生まれてくるのか。そのことを失われた息子のたとえ話が伝えます。この息子は、家を遠く離れたところから惨めな姿で帰って来て、父に言いました。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」この息子は、もう自分には息子と呼ばれる資格がないと言いました。自分が父を捨てたからです。父を深く傷つけたからです。父の愛を無碍にしたからです。だから自分には息子たる資格がない。本当はこれに続けて、雇い人の一人にしてくださいと言うつもりでした。息子としてはもうここにはいられない。せめて雇い人に・・・。ところが父はその謝罪を最後まで言わせずに僕に命じます。「急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せなさい。」この子は私の息子!死んでいた息子が生き返ったのだ!さあ、喜ぼう!父はそのように言うのです。
これが私たちの身に起こった事実です。神さまは私たちのご自身の息子として受け入れて下さった。資格を問うことなく。これが私たちの賛美の源泉。だから、私たちは嘆きの日に喜ぶことができる。沈む心は賛美に代わる。神の尽きることのない愛が、私たちを神の子にしてくださったから。

2022年10月20日木曜日

2022年10月20日の聖句

主よ、私はあなたを賛美します。あなたは私に怒りを向けられましたが、その怒りを去らせ、慰めてくださいました。(イザヤ12:1)
イエスは言う:私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マタイ9:13)

主イエスのおっしゃることは、本当にすごいことだと思います。びっくりすることを言われます。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」主イエスはあなたを招いて折られます、罪人の皆さん!
「罪人」と呼ばれて、どう思われたでしょうか?私たちが主イエスさまに招かれた理由はただ一つです。私たちが罪人だからです。どうしようもなく救いがたいほど罪深いからです。もしも私たちが正しい人だったら、主イエスは私たちをお招きにはならなかったことでしょう。私がこんなに、本当にどうしようもない罪人だから、主イエスは私を招いてくださいました。そうでなければ救われようがないからです。
「主よ、私はあなたを賛美します。あなたは私に怒りを向けられましたが、その怒りを去らせ、慰めてくださいました。」神さまがお怒りになるのは当然の私。神さまに滅ぼされるしかない私。それが私の原点です。しかし、神さまはその怒りを去らせ、かえって私を慰めてくださいました。主は私を招いてくださって、信仰を与え、福音を聞かせてくださいました。「悔い改めて、福音を信じなさい」、と。
「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」主イエスは私たちを招いておられます。罪深い私を招くために、主イエスは来てくださいました。わざわざ、私のところにまで!主イエスは天に留まるのではなく、神の子としてのご自分の安全や快適を確保なさるのでもなく、賤しい僕の身分になって、十字架にかかってまで私のところに来てくださいました。罪人の私を招くためです。神は怒っておられるのではなく、私を慰めてくださいます。私が正しいからではなく、私が罪深いからです。
主イエス・キリスト。この方こそ私たちのすべてです。この方こそ私たちの救いです。この方こそ、私たちを愛し抜いてくださる神です。このキリストの恵みと平和が、今日もあなたにありますように。

2022年10月19日水曜日

2022年10月19日の聖句

急いで私を助けに来てください。わが主、わが救いよ。(詩編38:23)
盲人のバルティマイは叫んだ。「ダビデの子よ、私を憐れんでください。」イエスは立ち止まって言われた。「あの人を呼んで来なさい。」(マルコ10:48~49)

今日は旧約と新約のそれぞれに、主なる神さまに向かう必死の祈りが書かれています。「急いで私を助けに来てください。わが主よ、わが救いよ。」「ダビデの子よ、私を憐れんでください。」私は、この「急いで」という言葉が好きです。急いでください!助けてください!救ってください!憐れんでください!急いでください!私たちは、そう祈ってよいのです。
もしかしたら、どこかで「助けてください」という祈りは二流の祈りだというような思い込みをしてしまってはいないでしょうか。賛美の祈りや感謝が一流の祈りで、「助けてください」とか、ましてや「急いでください」などというような図々しい祈りなんて神さまに失礼だ・・・と。
しかし、主イエスは盲人バルティマイの叫びを聞いたとき、ご自分の足を止めて言ってくださいました。「あの人を呼んできなさい」と。主イエスは「憐れんでください」という私たちの叫びを聞いて、立ち止まってくださる方です。私たちは「助けてください」と祈ってよいのです。「急いでください」と祈ってよいのです。なぜなら、そういう祈りこそが神さまへの信頼の証しだからです。諦めることなく絶えず祈る者を、神さまは喜んで受け入れてくださいます。
この詩編の祈りも、「わが主、わが救いよ」と言っています。神さま、あなたこそ私の主。あなたこそ私の救い。他に救いがあると高をくくっていたら、真剣に祈れないのではないでしょうか。しかし、祈る人には他の救いなんてないのです。このお方以上に私を憐れみ、救ってくださる神々などいないのです。主イエス・キリストの父なる神様、この方こそが私の救い、私を憐れんでくださる方。一体、他の誰に祈るというのでしょうか。
主イエス・キリストは、祈る者を決して捨てません。この方は十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んだ方です。私の代わりに捨てられた方です。だから、もはや私の祈りが捨てられることはあり得ない。私たちはキリストのゆえに神の憐れみを信じます。信じて、神さまに祈ります。「急いで私を助けに来てください!」

2022年10月18日火曜日

2022年10月18日の聖句

主は命を奪い、また命を与え、陰府に降し、また引き上げます。(サムエル上2:6)
今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者である神、主がこう言われる。「私はアルファであり、オメガである。」(黙示録1:8)

「私はアルファであり、オメガである」と主なる神さまが言われます。アルファはギリシア語のアルファベットの最初の文字、オメガは最後の文字です。もしも日本語で言うならば、いろはの「い」とゑいもせずの「ず」ということになるでしょうか。最初であり、最後である、ということです。神さまはこの世界の最初であり、最後でいらっしゃる。初めにこの世界をお造りなり、最後に完成させる方。それは神さまです。
この世界の、というだけではありません。「主は命を奪い、また命を与え、陰府に降し、また引き上げます。」私たち一人ひとりの命の最初を、そして最後をお決めになるのは主なる神さまです。私たちを母の胎の中に形づくったのも、神さまです。いやそれどころか、私たちの親がまだ生まれてもいないまったくの闇のときに、すでに神さまの御心に私を留め、命を与えてくださったのはこの方です。そして、その神さまがやがて私から命をお取りになる。私たちの最後の日を決めるのは、神さまです。私たちはやがて死にます。しかし、私たちが降る陰府にも主がおられる。だから、陰府は既に陰府ではない。主がおられるからです。私たちが死んでもなお神さまは共にいてくださいます。そして、やがてキリストのように死から引き上げてくださる。私たちはそのことを望みにしています。
私たちの今日一日。そのアルファもオメガも、神さまです。私たちには自分の一日の営みすらも、自分で支えることができません。今日、私たちは命の最期を迎えるかも知れない。愛する人が最期を迎えるかも知れない。ところが私たちは無力です。何もできない。それは神さまの御手の内にあることです。死だけではない。私たちの今日一日の営みについても、自分の力の及ばないことはいくらでも出て来るでしょう。しかし、それも神さまの御手の内にあります。このお方が私たちの一日の小さな営みさえも憶えていてくださいます。
だから、私たちの祈りは「御名が崇められますように」であり、「御国を来たらせたまえ」です。私たちの思いを超えて御心を行ってくださる方に、栄光が世々限りなくありますように。

2022年10月17日月曜日

2022年10月17日の聖句

あなたは隣人の妻を欲してはならない。(申命記5:21)
愛とは、御父の戒めに従って歩むことです。(2ヨハネ6)

以前、あるキリスト者ではない方に言われたことがあります。聖書は抽象的で非現実的だ。例えば、聖書には「姦淫してはならない」と書いてある。しかし、世の中を見れば不倫のドラマが大うけしている。それにドラマでなくても、その本人にしてみれば、単に妻や夫と不倫相手と、会う順番を間違えただけで本気で考えているだろう。それを「罪だ」と言って決めつけるのはいかがなものか。そういう趣旨だったと思います。
一時期私の説教を聞いておられたことのある方だったので、私の言葉がその人に説得力を持たなかったことを申し訳なく思いました。しかし、それでもなお、やっぱり私たちには聖書の言葉に聞くことが大切だと確信しています。
「あなたは隣人の妻を欲してはならない」と聖書は私たちに命じます。確かに妻や夫以外の人との関係が文学でも映画でもドラマでも、多くの作品の主題になっているし、それが「純愛」と呼ばれることも少なくない。あるいは、当事者にしたらとても真剣なことも多いかも知れません。
しかしこの聖書の御言葉は、私たちの人間としての営みの延長線から生まれてきたものではなくて、隕石のように上から落ちてきたものなのだと思います。今日の新約の御言葉はこのように言います。「愛とは、御父の戒めに従って歩むことです。」御父とは、神さまのことです。神さまの戒めに従って歩むところに愛がある。私たちの人間関係や自分の欲するところ、自分の愛情、そういうものを神さまとの関係から捉え直すことを聖書は大切にしている。私たちの欲するところを叶えることが善だと思われがちですが、聖書は、神さまが欲しておられることは何かと私たちに問うています。そして神さまの望んでおられることを基準にして生きるところに、私たちの互いの間の愛も生まれるのだ、と訴えます。
聖書は、私のたちの現実「のゆえに」生み出されたものではありません。私たちの現実「にもかかわらず」、神が私たちにお与えになったものです。私たちが互いを愛するために、そして私たちが実は神の愛という何よりも確かな現実を生きていることに気づかせるために、そのためにキリストが私たちに何をしてくださっているのかを告げるために、聖書は私たちに与えられました。私たちは神さまの御前に、本当に罪深いものです。神さまが望んでおられる愛から遠く離れている。そんな私たちをご自身の愛の中に迎え入れるために、神は、イエス・キリストを私たちに与えてくださったのです。この神の愛の現実が、私たちを支えています。

2022年10月16日日曜日

2022年10月16日の聖句

あなたは裁きを曲げてはならない。人を偏り見てはならない。賄賂を受け取ってはならない。賄賂は知恵ある者の目をくらまし、正しき者の言い分をゆがめるからである。(申命記16:19)
互いに相手からの栄光は受けるのに、唯一の神からの栄光は求めようとしないあなたがたには、どうして信じることができようか。(ヨハネ5:44)

お金のもつ誘惑の力は、ものすごく強いです。「賄賂は知恵ある者の目をくらまし、正しき者の言い分をゆがめるからである」と言われています。お金の力によって正しいものも間違っていると言われ、間違っているものも正しいとされてしまう。裁きが曲げられてしまう。お金の力に正しさや価値観が打ち負かされてしまう。
香港の自由を守るため、信仰の筋を守るために闘い、一年前にコロナで亡くなったウィリアム先生は、香港の核心的利益は今やお金になってしまったと言っておられました。体制を擁護する人も、民主化を訴える人も、それぞれ自分の立場でお金を得ていくための発言しかしなくなってしまった。本当は神の国の価値観が必要ではないか。そのように指摘していました。私たちはどうでしょうか?お金の力は私たちの目をくらませ、正しさを歪めてしまう。その警告を重く受け止めましょう。
それは他人事というのではなく、私自身のこととして考えないわけにはいかない。自分のお金に対する弱さを痛切に思います。ウィリアム先生に同じ指摘をされねばならない自分なのです。
主イエスは言われます。「互いに相手からの栄光は受けるのに、唯一の神からの栄光は求めようとしないあなたがたには、どうして信じることができようか。」お金の力は、唯一の神が与えてくださる栄光を見えなくさせます。私たちの目に見えない方が与えてくださる栄光。その輝きや、それがどんなに尊い宝なのか。そのことを、私たちに見えなくさせてしまう。しかし、どうしてそれで神を信じることができようか、と主イエスは問いかけます。
私たちは弱い。だからこそ、主イエスご自身が貧しくなってくださいました。主イエスご自身が飼い葉桶に生まれ、裸で十字架にかかってくださいました。私たちを公正に裁くために。私たちの間に正義を打ち立てるために、神様ご自身が貧しくなってくださいました。私たちはキリストのお受けになった貧しさのゆえに、救われたのです。

2022年10月15日土曜日

2022年10月15日の聖句

私は主を仰ぎ見、わが救いの神を待つ。わが神は私に耳を傾けてくださる。(ミカ7:7)
地上のものにではなく、上にあるものを得るべく努めなさい。(コロサイ3:2)

主イエスが私たちに教えてくださった祈りは「天にまします我らの父よ」と祈ることから始まります。主イエスは、神さまは「天」におられるとおっしゃいます。天におられる神に祈れと、主イエスは教えてくださるのです。
天というのは、当然のことでしょうが、空の上の方という意味ではありません。上空何メートルなのかとか、もう宇宙になってしまうとか、そういう子どものような屁理屈をこねてみせる必要はない。私たちの手の及ぶところではない、神さまの領域ということでしょう。しかし、それでもなお、やはり私たちにとって天を見上げて祈るという姿勢は大切だと思います。私たちは多くの場合、縮こまるようにして、うつむいて祈ります。まるで神さまが自分の胸の中にいるかのように。しかし神さまは天と地を造った方であり、私たちの思いも、この世界のあらゆるものも、この方を収めてしまうことはできない。私たちは天を仰いで祈ります。「天にまします我らの父よ。」だから、私たちは「地上のものにではなく、上にあるものを得るべく努め」るのです。
地上のもの、と言っています。この世が褒めそやすあらゆる名声や富、安心感、みんなが「イイね」と言ってくれる価値ではないでしょうか。しかしそれらのものではなく、上にあるものを得るように努めなさい、と聖書は言います。上にあるもの。神さまが下さるものです。神さまが与えてくださるもの。神さまからの報いを求めるように努めなさい。
主イエスは、祈る者しか知ることのない喜びを私たちに与えてくださいます。神さまを賛美することでしか経験することのできない喜びを味わわせてくださいます。神さまを礼拝するとき、私たちは上にあるもの、神さまが与えてくださるものを頂いている。私たちは神さまの祝福の中を歩き始めています。
今日は土曜日です。備えの日です。私たちは、私たちの神に出会う準備をするために、今日一日の歩みへと出発していくのです。祝福がありますように。

2022年10月14日金曜日

2022年10月14日の聖句

万軍の主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたが天と地をお造りになったのです。(イザヤ37:16)
パウロは書く:こういうわけで、私は天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前で膝をかがめます。どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、力を与えてくださいますように。(エフェソ3:14~16)

ここでパウロが書いているのは驚くべきことだと思います。
「私は天と地にあるすべての家族の、『家族』という呼び名の元である御父の前で膝をかがめます。」
このように言っていますが、「すべての家族の『家族』という呼び名の元である御父」というところに注目したい。ここを読むと、神さまが父でいらっしゃるということが、私たちが経験する家族の家族たる源だ、ということになります。これは大いなる発想の逆転です。私たちは普通、神さまはまるで母親のように私たちを愛してくださるとか、父親のようにしつけるとか、そういうふうに考えます。私たちの知っている親子の関係を基軸にして、神さまとの関係に譬えてみせる。しかし、聖書は実はそう言っていない。神さまが父であるという事実こそが私たちの「家族」という呼び名の元なのです。事態は私たちが考えていたのとは逆だったのです。
神さまは父なるお方。それは、主イエス・キリストの父ということです。主イエスは神さまの父としての愛を完全に信頼しておられます。「父は私を愛してくださる」とは、主イエスのお言葉です。更に主イエスは同じ文脈の中で「私は羊のために命を捨てる」とも言っておられます。父なる神さまの愛に完全に信頼している主イエスは、私たちのためにご自分の命を捨ててくださる。父なる神様が主イエスを愛し、主イエスは私たちを愛してくださる。神の完全な愛が私たちにも向けられている。それが、神が父でいらっしゃるという事実の意味するところです。
この神の完全な愛から、私たちは新しく「家族」を知ります。神の父としての愛が主で、私たちの家族経験は従です。私たちの家族が不完全だから神さまの愛も不完全なのではなく、私たちの罪深い家族関係を神の完全な愛が癒やし、建て直し、新しくしてくださる。その新しさは、もしかしたら天の国に行くまで私たちが目にすることはできないかも知れません。しかし、神の愛は完全ですから、来たる日に必ず私たちの家族関係をご自分の完全な愛で覆ってくださいます。
栄光が、父である神に永遠にありますように。

2022年10月13日木曜日

2022年10月13日の聖句

主よ、私たちを御もとに立ち帰らせてください。私たちの日々を新たにしてください。(哀歌5:21)
私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたとき、神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。ご自分の憐れみにより、私たちは再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて救われたのです。(テトス3:4~5)

神の憐れみによって。それが、聖書の伝える信仰のすべてです。
しかし改めて考えてみると、「憐れみ」という言葉は、相手をかわいそうだ、気の毒だと思うことです。同情することです。神の憐れみということは、神さまが私たちをかわいそうだと思って同情しているということです。つまり、私たちは神さまからご覧になったときにかわいそうな状態になっている、ということになります。
これは、私たちの通常の感覚とはぶつかるのではないでしょうか。自分がかわいそうに思われているというのは私たちの誇りとぶつかります。プライドが許さないことです。自分の惨めなことを認めるのは、簡単なことではありません。場合によっては、卑屈になって自分はなんてかわいそうなのだと、自分で自分を憐れむということもあるかも知れない。しかし、自分への憐れみやそれを生み出す卑屈さと、自分を誇るプライドとは表裏一体です。第一、聖書が言うのは「神の憐れみ」であって、「自分で自分を憐れむ」ということではないのです。
「主よ、私たちを御もとに立ち帰らせてください。私たちの日々を新たにしてください。」この祈りの言葉は、自分たちの罪が生み出した荒廃の中で献げられたものです。自分たちが滅ぼしてしまった国の廃墟の中での呻きです。私たちは、本当に破滅しないとなかなか自分が神さまの御前にどれだけ憐れで惨めな存在なのかが分かりません。しかし神さまは私たちが罪の中でねじ曲がってしまうことを「仕方がない」とはおっしゃらないし、私たちが互いに愛に反する心に生きることの惨めさを深刻にご覧になっている。神さまを、隣人を愛することに失敗している私たちは、本当に惨めな存在です。神さまはそんな私たちの惨めな姿を憐れみ、そんな私たちを救うために、私たちの惨めさを洗い流してくださいます。「ご自分の憐れみにより、私たちは再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて救われたのです。」
私たちは自分で自分を憐れむことによってではなく、自分の力によってどうにかすることでもなく、ただ神の憐れみによって惨めさを洗っていただき、新しい姿になったのです。今日生きているのは、新しい私です。

2022年10月12日水曜日

2022年10月12日の聖句

東西のいたるところで主の名を畏れ、力を認める。(イザヤ59:19)
イエスは言う:人々は東西から、南北から来て、神の国で宴会の席に着く。そして、見よ。後の人が先になり、先の人が後になる。(ルカ13:29~30)

主イエスさまは私たちを神の国に招くために、私たちのところへ来てくださいました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とは、主イエスの宣教の第一声として記録されている言葉です。神の国が近づいた。もうここに来ている。主イエスはそのようにおっしゃいます。この神の国の宴会に、あなたも招かれている。あなただけではなく、東からも西からも、北からも南からも。世界中のあらゆるところから、主イエスさまに招かれている!主イエスは私たちの間への神の国の到来を宣言なさいました!私たちは、キリストが宣言した神の国に生き始めています。
そこでは、私たちにとっては不思議なことが起こります。「そして、見よ。後の人が先になり、先の人が後になる。」普通ではありません。先の人は先であって、後の人は後です。それが逆になってしまったら、私たちの社会は正常にまわりません。月曜日に、動物園へ行きました。モルモットやハツカネズミとふれあえるコーナーに行きたかったのですが、行こうと思ったときには既に事前予約が一杯になっていました。ただ一つ、朝一番の枠だけが当日に整理券を配布するというので、開園前に並ぶことにしました。(モルモットを抱きたいという熱烈な要望があったのです。)当日は朝が心配でしたが予定時刻に無事出発し、整理券を取ることができました。ところが、整理券をもらったら、係の人に「後の人が先になり、先の人が後になる」なんてアナウンスされたらどうでしょう。いや、後から入れるなら良いのですが、その権利すらも放棄しなければならないとしたら・・・。
主イエスがおっしゃった神の国の不思議は、私たちの常識とは違います。主イエスは、自己責任だとか、実力主義だとか、早い者勝ちだとか、そういう物差しで神の国を紹介なさいません。神の国、それは完全な神の恵みだけによって完成する場所です。私たちの競争や理想が生み出すのではない。後の者や弱い者を愛し、慈しむ、神の恵みが確かにする場所、それが神の国です。
「後の者が先になり、先の者が後になる。」だから、私も神の国に招かれているのです。ただただキリストの恵みだけによって。「後の者が先になり、先の者が後になる。」だから私もキリストの憐れみを頂いているのです。

2022年10月11日火曜日

2022年10月11日の聖句

今、あなたの聖なる住まいである天から見下ろして、あなたの民イスラエルを祝福してください。(申命記26:15)
シメオンは言った:私はこの目であなたの救いを見ました。これは万民の前に備えられた救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの栄光です。(ルカ2:30~32)

主なる神さまは天から私たちを見下ろして、私たちを祝福してくださっている。それは私たちの信仰の確信です。太陽の光が大地を照らすように。曙の光が暗い地を照らし、温めるように。天から射す神の光が私たちを照らし、私たちを生かしてくださっています。私たちはその祝福の光の中で今日の日を歩んでいます。
このシメオンという人物は救い主メシアと出会うことをずっと待ち望んでいた人です。まだ生まれて一週間の主イエスさまと会い、その時彼は「主よ、今こそあなたはお言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」と言いました。メシアと出会い、私は安らかに死ぬことができると言ったのです。それは、神さまが私たちに下さった救いを見たからです。しかも、私を個人的に、私だけを救ってくれるというのではなくて、万民の救い、ユダヤ人だけではなく異邦人をも救ってくださる救いでした。シメオン自身が想像していたよりもずっと広大で、途方もなく、すばらしい救いだったのです。主イエスさまと出会い、私の人生の意味はこの方との出会いだったのだとシメオンは悟りました。
主なる神さまは、今日もご自身のお住まいである天から私たちを見下ろしておられます。高みの見物ではありません。私たちを祝福してやまず、私たちが死の陰の谷にいるならそこに来て救い、私たちが罪と悪の中にうずくまっているなら私たちの手を取ってキリストの十字架を見させ、私たちを滅びから救うために、神は今日も私たちをご覧になっています。この神さまの御顔の光の中、私たちはこの朝を迎えたのです。
今日も、主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがありますように!

2022年10月10日月曜日

2022年10月10日の聖句

私の戒めを守り行いなさい。私は主である。(レビ記22:31)
あなたはこの世で星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。(フィリピ2:15~16)

今日、私たちに与えられているこれら二つの御言葉は、なぜこの二つなのかなと思わせるのではないでしょうか。なぜ、この二つが一つに組み合わされているのでしょうか。
「私の戒めを守り行いなさい」と言っています。主なる神さまの命令です。私たちは、ファリサイ派の人たちへの悪いイメージばかりが先行してしまって、戒めとか掟とか命令とかそういうものに、もしかしたらアレルギーがあるかも知れません。しかし、この「私の戒めを守り行いなさい」という言葉に続いて、「私は主である」とあるように、私たちが主なる神さまを信じ、神さまの民であるという事実と、この方の戒めを守り行うということとは不可分のことです。
例えば、一人の女性の夫になれば他の女性とは関係を持たない。この人の夫になったという自分の新しいアイデンティティが定める新しい生き方がある。一人の赤ちゃんの親になれば、新しい自分の生き方が生じます。それまでの自分とは生き方が変わる。新しい関係が新しい生き方を生みます。主なる神様と出会い、この方を信じ、この神さまの民となれば、その新しい関係が生み出す生き方がある。それは、先ほどの夫婦や親子に見られる関係でも分かるとおり、その新しさは本来は喜ばしい生き方であるはずです。新しい私の新しい生き方。主の戒めは、そのガイドラインです。
「あなたはこの世で星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」命の言葉、と言っています。神さまの戒めも、福音も、すべて命の言葉です。私たちを愛し、私たちを罪から救ってくださった主なる神さまの言葉だから。この方と新しい関係を生み出す言葉だから。「戒め」と聞いて窮屈に感じるのは、私たちの悪いイメージを押しつけているだけではないでしょうか。キリストの言葉は私たちにとっては星の輝きのように麗しく、尊いものです。私たちを新しくし、神さまの美しさに似せてくださる宝の御言葉なのです。
今日も、主は私たちに語りかけてくださっています。

2022年10月9日日曜日

2022年10月9日の聖句

主はモーセに言われた:私は彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立て、その口に私の言葉を授ける。(申命記18:18)
神は私たちを福音を委ねるにふさわしいと見なされましたから、私たちは人に喜ばれるように語るのではなく、私たちの心を吟味される神に喜んでいただけるように語るのです。(1テサロニケ2:4)

モーセに代わって神さまの言葉を託されたのは、ヨシュアという人物でした。やがてモーセは死に、ヨシュアがイスラエルの人々を導くことになります。しかしそのヨシュアもやがて死にます。聖書を開いてみると、ヨシュアの次は士師と呼ばれる人たちが、そのまた次にはサムエル、・・・と神さまはその時その時に応じて、神さまの言葉を伝える者たちを立ててくださいました。
しかし、そのようなたくさんの人たちとは比類しないほどはっきりと、まさに神様ご自身として神の言葉を伝えた方、この方ご自身が神の言葉そのものであったのが、イエス・キリストです。キリストはその存在そのものが神さまの語りかけです。ところがキリストは神さまの言葉を占有するのではなく、ご自分の弟子たちにお委ねになりました。主イエスの弟子たちが各地に出て行って教会が生み出され、それぞれの地にキリスト者が生まれていきました。使徒言行録によれば、そのすべての人に神さまの霊、聖霊が注がれています。だから、今の時代、神さまはご自分を信じるすべての者に神さまの御言葉を託しておられるのです。
「神は私たちを福音を委ねるにふさわしいと見なされましたから、私たちは人に喜ばれるように語るのではなく、私たちの心を吟味される神に喜んでいただけるように語るのです。」神さまの言葉、それは福音の言葉です。神の愛を伝える言葉です。神は愛だからです。だから私たちは、神の愛にふさわしく自分を整えます。神の福音の言葉にならって、自分を新しくされることを受け入れます。私たちが神の言葉にふさわしいものとなるために、御言葉自身が私たちを新しくしてくださいます。私たちも、神のもたらす喜びによって、喜びの人として新しくしていただけるのです。

2022年10月8日土曜日

2022年10月8日の聖句

見よ、予告したことは訪れた。だから、私は新しいことを告げよう。それが芽吹く前に、私はあなたがたに聞かせよう。(イザヤ42:9)
多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いてるものを聞きたかったが、聞けなかったのである。(マタイ13:17)

「私は新しいことを告げよう。」主なる神さまはそのようにおっしゃいます。それが芽吹く前に、主は私たちに聞かせてくださった!その「新しいこと」は、何と言っても主イエス・キリストの出来事に違いありません。神さまはご自分の御子を私たちに遣わして、私たちの救いとしてくださいました。キリストは私たちのところへ来てくださり、私たちの罪を負って十字架にかけられ、死から甦りました。「見よ、予告したことは訪れた。」神さまがおっしゃった救いの出来事は訪れました。私たちはその福音を聞いています。
「多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いてるものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」主イエスはご自分の目の前にいる弟子たちに、このようにおっしゃいました。私たちは彼らや、彼らの言葉を聞いた弟子たちが伝えた福音を耳にしています。たくさんの預言者たちがどうしても見たかったこと、どうしても聞きたかった言葉。それは、主イエス・キリストです。私たちはキリストの告げる福音を聞き、それに生かされている。
そして、今もなお私たちは福音の出来事を「芽吹く前」に耳にしています。キリストは復活し、弟子たちと共に過ごし、40日経ったときに天に昇られた。その時、再び来ると約束をしてくださいました。私たちはまだ芽吹く前に、その約束を耳にしています。キリストが再び来てくださるのを待ち望んでいる。
それがいつ、どのように起こるのかは分かりません。しかしキリストは必ず来て、この世界を完成させてくださる。私たちはそのことを信じている。その福音の言葉を聞き、それに生かされています。
私たちの今日一日は、主イエスさまを待ち望む一日です。今日は神さまの大いなる救いの歴史の中に意味を持つ一日です。今日はキリストが私たちの主でいてくださる尊い一日です。

2022年10月7日金曜日

2022年10月7日の聖句

主の怒りは一時でも、彼の恵みは生涯続く。夕べに泣き続けても、朝には喜びがある。(詩編30:6)
私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。(ローマ5:11)

今日の旧約聖書の御言葉を読んで、心にぐっと来るものがありました。詩編第30編。今から二千何百年も前に生まれた祈りの言葉です。一人の信仰者が言うのです。「主の怒りは一時でも、彼の恵みは生涯続く。夕べに泣き続けても、朝には喜びがある。」この人は、自分が今主の怒りに晒されているとしか思えない状況にあったに違いありません。つらい現実が周りにあった。その上、主の御前に罪を犯したという事実を思い知らされていたのでしょう。心が折れてしまいそうだった。しかし、主の怒りは永遠に続くことがない、と言います。むしろ永遠なのは主の恵みだ。怒りではない。主は恵みと憐れみ、慈しみを永遠の御心としてくださっている。私の魂よ、そのことを信頼せよと、自分自身に語りかけるようにして言うのです。
「夕べに泣き続けても、朝には喜びがある。」これも本当にすばらしい言葉です。涙に暮れる夕べを過ごしているけれど、必ず喜びの朝が訪れる。そのことを信じています。主の恵みを、慈しみを信じているからです。主が必ず私に喜びの朝を迎えさせてくださる。ただその信仰だけで生きているのではないでしょうか。
私たちも信じましょう。「夕べに泣き続けても、朝には喜びがある。」私たちも同じ神さまを信じ、同じ神さまの恵みに生かされています。涙の夕べは永遠に思えます。いつまで経っても、私の悲しみは終わらないと思う。しかし、必ず喜びの朝がきます。その証拠はちゃんとあります。そのことを使徒パウロは「私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています」と書きました。主イエス・キリストは私たちがまだ弱かったころに、罪人である私たちのために死んでくださいました。善い人のためであれば、死ぬ人もいるかも知れません。ところがキリストは私たちがまだ罪人であったときに私たちのために死に、それによって神の愛を示してくださいました。私たちはキリストの血によって義とされたのですから、神の怒りから救われるのはなおさらのことです。敵であったときでさえ、キリストの死によって神と和解させていただいたのですから、和解させていただいた今、キリストの血によって救われるのはなおさらです。
必ず、喜びの朝は来ます。キリストの血がその保証です。神の怒りはほんの一時にすぎず、慈しみこそが神の永遠の御心なのです。

2022年10月6日木曜日

2022年10月6日の聖句

主の道はまっすぐで、正しき者はそこを歩む。だが、背く者はそこにつまずく。(ホセア14:10)
あなたがたがそうしているように、互いに語り合い、築き合いなさい。(1テサロニケ5:11)

今日の旧約聖書の御言葉は、とても不思議な言葉だなと思います。「主の道はまっすぐで、正しき者はそこを歩む。だが、背く者はそこにつまずく。」この最後のところで「背く者はそこにつまずく」とあります。「そこ」というのは、文脈上、まっすぐな主の道のことだろうと思います。そうとすると、まっすぐな道につまずくということになってしまいます。もちろん、いくらまっすぐでもデコボコで、整備されておらずとても歩きにくいからつまずいてしまうということもあるかも知れません。しかしその道は「正しき者はそこを歩む」と言っているのですから、決して悪い道ということではないはずです。まっすぐな道、本当なら歩きやすい道であるはずなのに、そこでつまずいてしまう。なぜか。彼らは「背く者」だからだ、と聖書は言っています。
とてもよく似た話を主イエスがなさっています。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い。命に通じる門は狭く、その道も細い。そして、それを見いだす者は少ない。(マタイ7:13~14)」命に至る道であるはずなのに、その道は狭く、その門は狭いので、それを見いださない人が多いと言うのです。しかし主イエスとしては、命に至る門から入り、その道を歩いてほしいという心から思いを込めて語り続けてきたに違いありません。それなのに、人々はそれを無視し続け、耳を貸さなかった。そうすると、その人にとって、主イエスの示す門はどんどん狭くなり、その道は細く、みすぼらしくなってしまった、ということなのかも知れません。
しかし、聖書は私たちを招きます。「あなたがたがそうしているように、互いに語り合い、築き合いなさい。」互いに語り合うこと、互いを築き上げること。そうやって隣人のために生きるとき、私たちはまっすぐな主の道を歩き始めます。そして何よりも、私たちを招くキリストの愛に顔を上げるとき、あるいは顔を上げることもできない私にキリストの憐れみが注がれていることに気づくとき、私たちはすでにまっすぐな主の道を歩き始めています。今日、キリストはあなたをご自身の道へ招いておられます。

2022年10月5日水曜日

2022年10月5日の聖句

見よ、その日が来るーー主の仰せ。
私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ。(エレミヤ31:31)
彼らはイスラエル人です。子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。肉によればキリストも彼らから出られたのです。(ローマ9:4~5)

今日の御言葉はイスラエルに注目しています。歴史の中を実際に生きた一つの民です。神さまはアブラハムと出会い、彼をご自分が示す地へと導きました。アブラハム自身と、そして彼の子であるイサクと、そしてまたその子であるヤコブと、共に歩んでこられました。ヤコブの子どもたちはやがてエジプトへ移り住み、長い時間が経って彼の国で奴隷として圧迫されます。神はモーセを遣わして彼らを救い出し、十戒を与えてご自分の民として歩ませました。彼らは何度も何度も神さまを裏切り、不誠実の限りを尽くし、神さまとの関係を踏みにじるようにしてきました。しかし、神さまは彼らを見捨てませんでした。
「見よ、その日が来るーー主の仰せ。私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ。」新しい契約を結ぶ。神さまはそのようにおっしゃいます。何度も何度も神さまを裏切り、神さまの慈しみを無駄にし、不誠実を貫いてきたイスラエルの人々。しかし神さまはその手を断ち切ってしまわなかった。新しい契約。それを神さまは彼らの心に刻みつけ、彼らがこの後は心から神の御前に立ち帰って生きることができるようにと、招き続けておられる。
その究極のしるしが、主イエス・キリストです。私たちが普段あまり意識しない、しかしとても大事なことは、このお方がイスラエル人であるということです。「彼らはイスラエル人です。子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。肉によればキリストも彼らから出られたのです。」主イエスさまは、抽象的な存在ではありません。2000年前の特定の時代に、イスラエルという特定の国に生まれました。大工の子としてナザレの村で育ったのです。その国の歴史は、神さまの御前に過ちを繰り返してきた日々の積み重ねです。そういう具体的な人間の営みの中に、神の子イエスがお生まれになりました。この方が特定の時と場所、文化の中にお生まれになったまことの人間だから、特定の存在である私たちの救い主なのです。
今、ここに生きる私たちの救い主は、このイエス・キリストです。個別具体的なこの私のために、キリストは私たちの間に宿ってくださったのです。

2022年10月4日火曜日

2022年10月4日の聖句

主は孤児と寡婦の権利を守り、よそ者を愛して食事と衣服を与えることを愛される。だからよそ者を愛しなさい。(申命記10:18~19)
私はかつてよそ者でしたが、あなたがたは私を受け入れてくれました。(マタイ25:35)

昨日、とても悲しいことがありました。とあるSNSで「外国人生活保護反対」という言葉が飛び交っているのを目にしたのです。働きもせずに遊んで暮らしている外国人に何億円も使っているのはおかしい、自分の国に帰れといった趣旨の言葉がくっついていました。本当に悲しいことです。私たちの社会はこれほどにも深刻に心を失ってしまった。どうしてこんなに簡単に思いやりを手放してしまったのでしょうか。もしも困窮している外国人の友だちが一人でもいたら、同じ言葉を口にすることなんてできないはずです。
聖書は、社会のお荷物に見える人の権利を強く重んじています。「主は孤児と寡婦の権利を守り、よそ者を愛して食事と衣服を与えることを愛される。だからよそ者を愛しなさい。」よそ者を愛することを、主なる神さまは愛される。ここでは単に「外国人」とは書かずに、「よそ者」と訳しています。自分たちのコミュニティの外から来た人々のことです。自分たちの輪を乱す邪魔者かも知れません。得体の知れない怖い人かもしれない。そもそも自分たちにだって余裕があるわけではない。しかしその僅かなものを分かち合え、と聖書は言うのです。
「私はかつてよそ者でしたが、あなたがたは私を受け入れてくれました。」これは主イエスのたとえ話に出て来る言葉です。王様がある人々をねぎらい、あたたかく迎え入れる。そして言います。「あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに尋ねてくれた」。ところがその人たちはいつ自分が王様をそのように受け入れたのか、心当たりがありません。すると王様は続けて言いました。「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」
私たちが一人のよそ者を受け入れるとき、私たちは王(つまり、神さま)を受け入れている。私たちが弱く、困っていて、よそ者としてつまはじきにされている一人の人を迎えるとき、私たちはキリストをお迎えしているのです。
この時代にあって、心を取り戻しましょう。一人の「よそ者」は一人の人間であり、神さまが愛するかけがえのない存在です。キリストはこの「よそ者」と共におられるのです。

2022年10月3日月曜日

2022年10月3日の聖句

災いだ、陶器のかけらにすぎないのに、陶工や、自分を造った者と言い争う者。粘土が自分を形づくった者に「あなたは何を作るのか」と言ったりするだろうか。(イザヤ45:9)
天におられる私たちの父よ、御名が聖とされますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。(マタイ6:9~10)

聖書は、私たちは神さまに造られた者だ、と言います。それは大きな祝福の宣言です。陶工が心を込めて陶器を作り、それを愛するように、神さまは私たちを造り、私たちをご自分の作品として愛してくださっている。私の命も、私の存在も、神さまによって保たれ、支えられている。聖書はそのように宣言します。あなたは神に造られた者!
陶器のかけらや粘土が、自分を作った陶工に向かって「あなたは何を作るのか」と言うでしょうか。ましてや「あなたの仕事は失敗だ」とか「お前の仕事には意味がない」などと言うでしょうか。造った者と造られた者ですから、そのようなことは絶対にあり得ない。そのあり得ないことが起きてしまってはいないか、と聖書は今日私たちに問いかけています。もしもそうだとしたら、それは私たち自身の造られた者としての命や存在の土台を否定することです。私たち自身の命の意味も方向性も、全部を自分で否定する愚かな行為です。本当は、そうではない。私たちは神が心を込めて造ってくださった神の作品です。だからこそ尊く、かけがえがないのです。
だから私たちの祈りは、これです。「天におられる私たちの父よ、御名が聖とされますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」神さまのお名前が聖とされますように!私たちの口は神さまを賛美するために造られました。私たちの耳は神さまの御言葉を聞くために造られました。私たちの手は、神さまの御国を待ち望むために造られました。私たちの足は、神さまの御心に従って歩くために造られました。それが私たちにとっての最高の幸せだからです。そうやって、私たちは神さまの私たちへの慈しみに日々触れているのです。
今日も、主イエス・キリストにある祝福があなたにありますように。

2022年10月2日日曜日

2022年10月2日の聖句

災いだ、他人のもので自分のものを増し加える者よ。いつまで続けるのか。(ハバクク2:6)
あらゆる貪欲に気をつけなさい。有り余るほどの物を持っていても、それで生きる者は誰もいないからです。(ルカ12:15)

今日の旧約聖書の御言葉は「災いだ」と始まっています。「災いだ、他人のもので自分のものを増し加える者よ。いつまで続けるのか。」
主イエス・キリストは「幸いだ」と語りかけておられます。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。(ルカ6:20)」主イエスは貧しい人々に「幸い」と語りかけ、その逆に今既に豊かなものには「災いだ」と言われます。「しかし、富んでいる人々、あなたがに災いあれ、あなたがたはもう慰められている。」富を自分の慰めとし神を求めない者は不幸だ、と主イエスの強い嘆きが込められた言葉です。なんとかして神さまの御許に私たちを連れ戻そうと、主イエスは私たちに訴えておられます。
今日の旧約の御言葉も、主イエスとまったく同じ情熱をもっています。「災いだ、他人のもので自分のものを増し加える者よ。いつまで続けるのか。」豊かさの魔力に取りつかれると、私たちはそれが自分を幸せにすると思い込みます。もちろん生きるためにはある程度の富が必要ですし、現代社会の中で仙人のような生活はできないし、自給自足も無理があります。しかし、根本的に「私」を支えているものは一体何か、と主イエスは問うておられるのではないでしょうか。
それは、今日の旧約も新約も、共に私たちの貪欲を問題にしていることからもよく分かります。「あらゆる貪欲に気をつけなさい。有り余るほどの物を持っていても、それで生きる者は誰もいないからです。」他人のものを奪い、自分の欲望を満たそうとする。私たちにとって、一番身近な欲望です。一番私たちに襲いかかってくる罪です。
私たちの食卓に並ぶ皿は、世界の飢えと無関係ではありません。何も考えないことは、現代社会では恐ろしい残忍さです。世界の困窮と、私の満ちた皿。主イエスは、分かち合うことを求めておられます。私たちの命を支えるいちばん大切な根は、神さまが与えてくださる命。だから、与えられたものを感謝して分かち合うように、と主イエスは私たちをキリストにある貧しさへ招いておられるのです。

2022年10月1日土曜日

2022年10月1日の聖句

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらした。(イザヤ53:5)
キリストが私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。(1ペトロ2:24)

ただならぬ言葉、不穏な言葉です。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらした。」普通であれば、言ってはいけない言葉です。誰かを懲らしめることが私を平安にする。そのようなことが、果たして、本当に起こるのでしょうか。
犯罪の被害に遭われた方は、そういう気持ちになるかも知れません。ただ、凶悪な犯罪者であっても、例えその人が死刑になったとしてもどれくらい平安になれるのかは分かりません。犯人が死んでも、起きてしまったことはなかったことにならないのです・・・。
しかし、聖書は言います。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらした。」その理由について、この言葉の直前でこのように言っています。「彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。」もしも、自分の背きや過ちのために懲らしめられたのなら、自業自得に過ぎない。ところが、そうではなかったと言います。冤罪です。そして、この方の受けた懲らしめが私たちの平安になった。
主イエス・キリスト。このお方こそ、私たちのために罰せられた方。私たちに代わって罪人になってくださった方。私たちの代理として罪の結果を負ってくださった方です。
「キリストが私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。」
私たちはもう罪に対して死にました。今や私たちは義に対して生きている。この事実への驚きこそが、信仰です。キリストを信じるとは、キリストが私のために罰せられたことに驚き、そのために私が今や義に対して生きていることに驚くことです。
だから、キリストがお受けになった罰は私たちの平安です。ここで「平安」という言葉で事柄が言い表されていることを心に留めたいと思います。キリストの傷が私に平安をもたらす。私はこのお方の受けた傷によって平安に生きることができる。私がこれまでの人生の中で積み上げてきたことには、たくさんの取り返しのつかないことがあります。そのために人を傷つけてしまったし、神さまを傷つけてきました。どうしたってなかったことにはできない。キリストが十字架にかかって、その傷をご自身に引き受けてくださった。だから、私たちは生きられるのです。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...