2024年9月30日月曜日

2024年9月30日の聖句

アブネルはヨアブに呼びかけて言った。「いつまで剣で決着をつけようとするのか。悲惨な結果になることが分からないのか。」(サムエル下2:26)
イエスは言われた。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ26:52)

「いつまで剣で決着をつけようとするのか。悲惨な結果になることが分からないのか。」本当にその通りです。しかし、私たちは剣を取ったら剣で決着をつけねばと思うようになるし、相手が剣を取っていれば剣で対抗せねばと思ってしまいます。しかし、それは悲惨な結果にしか至りません。歴史をひもといても、現に今世界で起こっていることを見てみても、それは明らかです。何よりも主イエスさまが断乎としておっしゃいます。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」私たちが手に握る剣は、やがて私たち自身を滅ぼしてしまう。
もちろん、21世紀の日本で生きる私たちが実際に「剣」を手にすることはないでしょう。ピストルを持つことだって私たちにはないし、拳で人を殴ることだって一生経験しない人がほとんどでしょう。しかし、例えば言葉で相手を殴りつけてしまうことはあるかもしれません。態度で相手を攻撃することも起こっているかもしれません。私たちも私たちなりの「剣」を握りしめているのかもしれない。しかし、剣を取る者は剣で滅びるのです。
主イエスさまは私たちに和解の福音を託してくださいました。和解は、相手への関心とへりくだりの愛に始まるのではないかと思います。相手を知る努力をし、相手の心に寄り添う道を探る。主イエスさまが私たちにしてくださったことです。キリストをまねたいと切に願います。

2024年9月29日の聖句

今週の聖句:
神を愛する者は自分のきょうだいも愛すべきです。これが私たちが神から受けた戒めです。(1ヨハネ4:21)

今日の聖句:
あなたがたは見知らぬ者を自分のように愛しなさい。(レビ19:34)
そこには、もはやギリシア人とユダヤ人、割礼のある者とない者、未開の人、スキタイ人、奴隷、自由人の違いはありません。キリストがすべてであり、すべてのものの内におられるのです。(コロサイ3:11)

今週の聖句で「自分のきょうだいも愛すべき」と言われている「きょうだい」は、私たちの思いを超えて大きく広がります。主イエスのなさった「憐れみ深いサマリア人」の話がまさにそうです。主は、私たちが誰かの隣人になるという話をなさいました。どこまでが隣人なのかという境界を定めようとする私たちにその境界を飛び越えさせて、隣人になることを教えてくださった。この「自分のきょうだい」も、ここまで愛せば自分の愛は十分と言えるという範囲を作るための言葉ではないでしょう。
「あなたがたは見知らぬ者を自分のように愛しなさい。」この言葉が既に旧約聖書に登場していることに驚きを覚えます。しかしはっきりとそのように言っている。私たちはキリストにあって愛の境界を乗り越える恵みにあずかっています。「そこには、もはやギリシア人とユダヤ人、割礼のある者とない者、未開の人、スキタイ人、奴隷、自由人の違いはありません。キリストがすべてであり、すべてのものの内におられるのです。」

2024年9月28日土曜日

2024年9月28日の聖句

私の口が語ることと心の思いとが御前で喜ばれますように。主よ、わが大岩、わが贖い主よ。(詩編19:15)
マリアはこれらのことをすべて心に留めて、思い巡らしていた。(ルカ2:19)

マリアの胎に宿った赤ちゃんが生まれました。その夜の内に野原で野宿をしていた羊飼いたちがやって来ました。彼らは口々に言ったのです。天使が現れて自分たちに言ったのだ、今日メシアがお生まれになった、と。私たちのための救い主が飼い葉桶に寝ている!すると、突然天の大軍が現れて神を賛美した。それで、私たちはお生まれになった救い主にお目にかかるためにここまでやって来たのだ、と。
マリアはこの不思議な出来事をすべて心に留め、思い巡らしました。マリア自身、数ヶ月前に天使の来訪を受けました。身ごもって男の子を産む、神はその子に父ダビデの王座をくださる、と言ったのです。天使の言葉を再び心に深く刻んだに違いありません。そして、羊飼いが口にする言葉を誰よりも喜んだに違いありません。マリアはこうして始まっている主なる神さまの御業を心に留め、思い巡らしていました。
私たちの心には一体何が詰まっているでしょうか?私たちの思いは何で満たされているでしょうか?私たちの口をついて出て来るのはどのような思いで、どのような言葉でしょうか?願わくば、それがマリアのように主の御業を思い巡らすものであり、私たちの口が語る言葉や心の思いが神に喜ばれるものとなりますように。主の憐れみに満ちた導きを請い求めます。
「私の口が語ることと心の思いとが御前で喜ばれますように。主よ、わが大岩、わが贖い主よ。」

2024年9月27日金曜日

2024年9月27日の聖句

私が創造するものを、代々とこしえに楽しみ、喜べ。(イザヤ65:18)
神が造られたものはすべて良いものであり、感謝して受けるなら、捨てるべきものは何もありません。神の言葉と執り成しの祈りとによって聖なるものとされているからです。(1テモテ4:4~5)

今日私たちに与えられているのは、素晴らしい解放の言葉です。この世界にあるもの、私たちの命をつなぐために必要な物。それらはすべて良いものなのであって、感謝して受けるなら捨てるべきものは何もない、と言います。私たちの肉体、食うこと飲むこと、そういったものは現実的だけど少しレベルの低い、必要悪とまでは言わなくとも信仰とは関係のない事柄、と何の気なしに思ってしまうことはないでしょうか。あるいは逆に、信仰の事柄は娑婆のこととは違う、非現実的で抽象的なことだ、と考えてしまうことはないでしょうか。今日の御言葉はそのような勘違いに「否」とはっきりと言っています。
聖書の舞台になったユダヤの側にギリシアという国がありました。素晴らしい哲学や文化が発展した国です。その哲学の営みは、日常の労働をさせる奴隷たちの働きの上に成り立っていました。労働は卑しいものであって奴隷がすること。労働から解放された自由人が哲学の営みをする。しかし聖書はそのようには考えていません。この世界にあるすべてのものは神がお造りになったのだし、働くということは神に与えられた使命です。「私が創造するものを、代々とこしえに楽しみ、喜べ。」神はそう言ってくださいます。
この世界にあるものはすべて神の慈しみの中にあります。私たちの営み、人間の手が作り出したものも、「神の言葉と執り成しの祈りとによって聖なるものとされている」のです。私たちは毎日の営みを神に献げます。私の命、私の生きるために必要な物。そのような物に関心を持ち、慈しみをもって養ってくださる方に信頼して、私たちは今日を生きていきます。

2024年9月26日木曜日

2024年9月26日の聖句


わが神よ、私は御旨を行うことを喜びとしてきました。あなたの律法は私の胸の内にあります。(詩編40:9)
イエスは(律法学者に)言われた。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイ22:37~39)

律法によって伝えられた神の御旨。主イエスはそれを二つの戒めに要約して教えくださいました。
「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」
主イエスさまは、私たちがこの戒め、律法に従って生きることを望んでおられます。もしかしたら私たちは神様の優しさに甘えて、却って神の言葉に従って生きるということをなおざりにしてしまっているところがあるのかもしれません。しかし主イエスは私たちが律法に記された神の御旨に従うことをお求めになっています。
「あなたの律法は私の胸の内にあります」と言っています。私たちの神である主を愛する、ひたすらな愛。隣人を自分自身のように愛する愛。この愛の掟を神は私たちの胸の内に与えてくださいました。だからこそ私たちは、心の内では「愛したい」と願っている。しかし私たちは何度も繰り返し愛に破綻する罪人です。愛にもとる人間です。主イエスさまの憐れみにすがるより他ない。キリストは神言葉に従って愛をもって生きたいと願う者をお見捨てにはならないでしょう。神を愛したいと願い、隣人を愛したいと願う者を、キリストが知らんぷりなさるというのはありえないことです。主イエス・キリストに向かって、愛の人にならせてくださいと祈り、今日の日を生きていきたいと願います。

2024年9月25日水曜日

2024年9月25日の聖句

(見よ、)私は主、すべての肉なるものの神である。私にできないことが一つでもあるだろうか。(エレミヤ32:27)
そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。」(マタイ28:17~18)

主は、この世界の神として、私たちに命をお与えくださったただひとりの神として、私たちの前で力強く宣言なさいます。「私にできないことが一つでもあるだろうか。」答は明らかです。「いや、ない。」神はすべてを支配する力を持っておられる。すべてのものの神、全能のお方です。
神はご自分の全能の力を主イエス・キリストにお授けになりました。「私は天と地の一切の権能を授かっている。」キリストは神に与えられたこの全権を、一体どのように発揮なさったのか。ご自分を十字架にかけた者たちを前にして、十字架から降りてみせるという仕方ではその力を行使なさいませんでした。ご自分の敵をすべて討ち滅ぼすという形で神に与えられた権能を発揮する、とはなさいませんでした。
主イエス・キリストは、神に授けられた天と地の一切の権能を、私たちを救うために発揮なさいました。「私は天と地の一切の権能を授かっている。」これに続く言葉は「だからあなたがたは行ってすべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい」です。私たちをご自分の弟子とし、神のものとしてのしるしである洗礼を授け、私たちがこの後はキリストに従って生きるように教える。そうやって私たちを神のものとするために、ご自分の力を発揮ししてくださるのです。
つまり、神が全能のお方というのは、何か抽象的な議論であったり、学者が机上で考え出した論理ではありません。私たちを救うための神の力です。十字架にかけられたキリストの権威です。この神の力は今日もあなたに向けられている。聖書はそのように語りかけてきます。

2024年9月24日の聖句

地が芽を生えさせ園が蒔かれた種を芽生えさせるように、主なる神はすべての国々の前で、正義と賛美を芽生えさせてくださる。(イザヤ61:11)
神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。(ルカ13:18~19)

神の国はからし種に似ている、と主イエスはおっしゃいます。ゴマよりも小さな、埃のような小さな種です。しかしそれが地に蒔かれると、成長して大きな木になり、枝には空の鳥が巣を作るほどになる。種は不思議です。最初の小さな種粒からは想像も付かないような大きな枝を張る木に成長する。神の国はその小さなからし種のようだ、と主イエスはおっしゃいます。
この譬えは、最初は小さなものでしかないという不思議を語りかけているように思います。思えば、主イエスさまの歩みの始めも小さなものです。飼い葉桶から始まりました。「神の国が来た」と主イエスが宣言なさったとき、最初になさったのはたった四人の漁師をご自分の弟子にするということに過ぎません。主イエスは誰もが目を見張るようなことを見せつけたり、皆が驚いて有無を言う間もなく信じないわけにはいかないような奇跡をやって見せたり、ということはなさいません。ごく小さなところで、しかしそこに確かに到来する神の国を力強く宣言なさいました。主イエスが蒔いた小さな種は、確かに神の国という実りを結びます。
「地が芽を生えさせ園が蒔かれた種を芽生えさせるように、主なる神はすべての国々の前で、正義と賛美を芽生えさせてくださる。」主イエスの蒔いた神の国は確かに実を結びます。正義と賛美が芽生えます。キリストの御業を信じましょう。キリストを信じて、この世の目からは小さなものに過ぎない福音宣教という愚かな業に、私たちもそれぞれのあり方をもって仕えていきましょう。

2024年9月24日火曜日

2024年9月24日の聖句

あなたは恵みを年の冠とされます。(詩編65:12)
神は恵みをくださり、天から雨を降らせて実りの季節を与え、あなたがたの心を食物と喜びとで満たしてくださいました。(使徒14:17)

天からの雨によってもたらせる季節の実り、私たちの心を満たす食物と喜び。それらはすべて神が備えたもの、神が私たちを生かすために与えてくださった恵みです。神の恵みによって私たちは命を保たれ、今日も生かされています。
「あなたは恵みを年の冠とされます。」年の冠、というのはとても良い言葉だと思います。私たちの生きる日々、毎日の営み、その年のすべての時間を彩る冠、その栄光。それは神の恵みです。私たちの毎日は神の恵みによって支えられている。
昨年末に亡くなった岳父の埋葬を昨日いたしました。埋葬の礼拝をしている最中は雨が降っていました。折しも突然秋が訪れて涼しくなった日でもあったので、屋外で礼拝を献げるには少し困難を覚えたことも事実です。しかし今改めてこの御言葉に耳を傾けて思います。岳父の人生の日々、その雨の日も、喜びの日も、すべての年月にわたって神が恵み深くこの一人の人物の歩みを支え、助け、必要なものを満たしてくださったことを。天から降った雨が地をぬらすように、神の恵みはすべての人に向けられています。
今日の私たちの一日の冠も、神の恵みです。私たちのこの祈りの時間の冠も、神の恵みです。主イエス・キリストに示された神の恵みによって私たちは命支えられ、今日も神の手の中で生かされています。ですから安心して、今日というこの日を誠実に生きていきましょう。

2024年9月23日月曜日

2024年9月23日の聖句

主は救いを知らせ、正義を国々の目の前に現された。(詩編98:2)
義に飢え渇く人々は、幸いである。
その人たちは満たされる。(マタイ5:6)

正義は主のもとから来る。それが聖書の確信です。私たちは、本音のところでは自分から正義が生まれると考えています。自分の正義に凝り固まって、自分の見ているものが正しいと思い込みます。しかしそんなものは本当は正義でも何でもないと私たちは経験的には知っています。しかし、それでもやっぱり自分の小さな正義に拘泥してしまう。
「義に飢え渇く人々は、幸いである」と主イエス・キリストはおっしゃいます。そうです。私たちは義に飢え渇いています。私たちが本当に渇き、本当に私たちになくてはならないのは、神の義です。神ご自身がお定めになった義です。あるいは、言葉を換えれば、神との義と呼ぶにふさわしい関係です。神の義を欠いていることこそが、私たちの渇きの本当の原因なのです。
だから、主イエス・キリストはおっしゃいます。「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。」神が満たしてくださいます。神にしか満たすことがおできにならないのです。「主は救いを知らせ、正義を国々の目の前に現された。」主が告げ知らせ、見せてくださる正義。そこに救いがある。
今も昔も、私たち人間がすることは変わりません。自分の小さな正義のためにあちこちで争いが生まれています。戦争のような大きな争いも、私たちのごく身近な人間関係でのいさかいも。根は同じです。神の義を欠く私たちの罪が生み出す混乱です。これを癒やし、満たし、救ってくださる神の義を求めて、祈りの道を上っていきましょう。

2024年9月22日の聖句

今週の聖句:
世に勝つ勝利、それは私たちの信仰です。(1ヨハネ5:4c)

今日の聖句:
この方こそ平和である。(ミカ5:4)
悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたからです。(1ペトロ3:9)

聖書は本当に私の現実をよく知っている、と思います。私は悪をもって自分に何かをして来る人にはそれ以上の悪をもってやり返したくなります。侮辱する人は侮辱し返したいです。しかし聖書は、それが現実だから仕方がないとは言わないのです。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたからです。」すごい言葉です。
しかし、なぜそう言いうるのかということによく注意を払わなければ、単なる「建前」の一つに終わってしまいかねない、とも思います。今日の旧約ではこのように言っています。「この方こそ平和である。」私たちの信じる神は、平和そのものでいらっしゃいます。神こそが平和。神が平和の神として私たちに出会ってくださった。その事実は、何よりも主イエス・キリストにおいて明らかになりました。そうであるからこそ、私たちにも平和が要請されている。ですから、キリストの下さった平和が骨身に染みるということが私たちの平和への道です。
平和は、祝福によって現実のものとなります。神が私たちを祝福してくださっている。そして私たちも互いに祝福の言葉を掛け合い、隣人への祝福を祈る。キリストが私たちの祝福になってくださったからです。キリストが十字架の上でなお私たちを祝福してくださっているからです。

2024年9月21日土曜日

2024年9月21日の聖句

一人の心が喜びを抱けば人々の顔を明るくし、
一人の心が苦しめば人々の霊は沈み込む。(箴言15:13)
(宦官は)喜びに溢れて旅を続けた。(使徒8:39)

フィリポがあるさみしい町で一人の人物に出会いました。エチオピアの女王の高官で財産の管理までしている宦官です。この人は馬車に乗って聖書を朗読していました。フィリポは宦官と歩みを同じくして語り合いました。そして、聖書が証しするのはイエス・キリストであると告げました。宦官は主イエス・キリストの福音を信じて洗礼を受けました。そして、宦官は喜びに溢れて旅を続けたのです。
主イエス・キリストとの出会いこそ、私たちの喜びです。私たちはキリストと出会い、キリストを愛し、キリストと共に生きていきます。私たちの人生の旅路は、イエス・キリストと共に歩む喜ばしい旅路です。
「一人の心が喜びを抱けば人々の顔を明るくし、一人の心が苦しめば人々の霊は沈み込む。」まさに、この御言葉の通りに喜びも苦しみも分け合い、共に負ってくださった。私たちのためにご自分の霊を深く沈み込ませてくださった。私たちの苦しみをも、キリストが共に負ってくださいます。ご自分の霊を沈み込ませて、私たちと同じところにいてくださいます。フィリピという一人の主の弟子を通して、この宦官は主イエスさまに出会った。このお方は、私たちの苦しみにも喜びにも共にいてくださいました。だから、宦官もキリストを知って喜びに溢れた。今日もキリストを信じましょう。私たちの喜びの日にも苦しみの日にも共にいて救ってくださる方を信じて、喜んで今日の日を生きていきましょう。

2024年9月20日金曜日

2024年9月20日の聖句

神は自ら天を広げ、大海の高波を踏み歩く。神は大熊座、オリオン座、プレアデス、そして南の星座を造られた。(ヨブ9:8~9)
私たちには、唯一の父なる神がおられ、万物はこの神から出、私たちもこの神へと向かっています。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在しています。(1コリント8:6)

私たちの唯一の父である神は、万物をお造りになったお方です。今日の御言葉はそのことを本当に大きなスケールで語っています。「神は自ら天を広げ、大海の高波を踏み歩く。神は大熊座、オリオン座、プレアデス、そして南の星座を造られた。」天も大海の高波も、神がお造りになった世界。それどころか、空に輝く星々も。現代の科学では、この宇宙は138億2000万年前のビッグバンという爆発によって始まった、と推測されています。それもまた神の御業。神がお造りになったこの宇宙です。宇宙を造り、輝く星々をお造りになった方。このお方は、父としての慈しみをもってこの世界をお造りになった。
世界だけではありません。「唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在しています。」この私も、神の父としての御業によって造られた。私のこの命は、この果てしない宇宙をお造りになった方が造り出してくださったものです。途方もない事実です。しかも、主イエス・キリストによって、私たちは存在している。キリストに示された神の愛が私たちを生み出してくださった。果てしない神の御手が私たちの存在の原因なのです。

2024年9月19日木曜日

2024年9月19日の聖句

(主よ、)あなたの僕を裁きにかけないでください。生ける者の中であなたの前に正しい者はいないからです。(詩編143:2)
イエスは女に、「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。(ルカ7:48,50)

主イエスさまが私たちを赦してくださるのでなければ、主が私たちを愛してくださるのでなければ、どうして私たちは生きることができるでしょうか。主が私たちの罪を一つひとつ覚え、数え、私たちを追求なさるのなら、一体どこに申し開きできる人がいるでしょうか。私たちは、誰にも知られたくないこと、誰にも話したくないこと、人に見せられないもの、人に見られたら生きていかれないようなものをたくさん抱えています。私たちは、ただただ神の憐れみを求めて祈るばかりです。「主よ、あなたの僕を裁きにかけないでください。生ける者の中であなたの前に正しい者はいないからです。」
私たちには本当に根深くて根強い思いがあります。自分は正しい。悪いのは相手であり、環境であり、神さまだ。自分に赦されなければならない罪があると認めることは本当に難しい。私たちには、神さまの前で自分のしていることを一度停止し、沈黙し、省みて、静まる時間が必要なのではないでしょうか。
私たちが生きるために本当に必要なものは、実はそう多くはないのだと思います。本当に必要なのはキリストの御言葉です。「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」私たちを解放して自由を得させるキリストの言葉が、私たちにはどうしても必要なのです。

2024年9月18日水曜日

2024年9月18日の聖句

一つの星がヤコブから出て、一つの笏がイスラエルから立ち上がる。(民数記24:17)
私イエスが天使を送り、諸教会についてこれらのことをあなたがたに証しした。私は、ダビデのひこばえ、その子孫、輝く明けの明星である。(黙示録22:16)

主イエス・キリスト。このお方はダビデのひこばえ、その子孫、輝く明けの明星。私には、この「ひこばえ」という言葉が特に心に残ります。ひこばえ、それは切り株の根元から生え出でる新緑です。木を切って、木がその幹を失っても、やがて残った切り株からひこばえが生えてくる。死んだかのように見え、もう何も生まれないように見えるところに、新しい出来事が始まる。
しかも、このお方は「ダビデの」ひこばえです。ダビデ。イスラエルの王です。その子孫からまことの王が生まれる、と約束されていました。「一つの星がヤコブから出て、一つの笏がイスラエルから立ち上がる。」神が宣言してくださった約束の通り、ダビデの家に新しい王、ダビデのひこばえであるお方がお生まれになった。未来が見えないところに希望が生まれ、絶望に支配された世界に将来が与えられました。
このお方は「輝く明けの明星」です。夜は暮れてその闇が深まっても、やがて夜は明けて朝を迎える。その朝のしるしとして明けの明星が輝く。その星を見れば、もうすぐにも朝がやって来ると分かる。キリストはその望みのしるしです。このお方が私たちのところに来てくださった今、救いは近い。神の国はもう来ている。ダビデのひこばえが支配し、王となられる神の国は私たちのところにもう来ている。王イエスの御許に救いがある。私たちはその事実を信じ、このお方の光を慕い求めて、今日も祈りの道を上ります。

2024年9月17日火曜日

2024年9月17日の聖句

あなたは恵みの年を冠とされます。(詩編65:12)
神は恵みをくださり、天から雨を降らせて実りの季節を与え、あなたがたの心を食物と喜びとで満たしてくださいました。(使徒14:17)

天から降る雨。それによって結ばれる実り。私たちの心を食物と喜びとで満たしてくださる。神の恵みです。神が私たちに命を与え、それを保つために恵みを与えてくださっている。私たちは神の恵みによって生かされています。
今日の旧約聖書の御言葉は、また素晴らしい御言葉です。「あなたは恵みの年を冠とされます。」主が私たちに恵みを与えてくださるその時、その日、その年を、主はご自身の冠としてくださる。神さまは私たちに恵みを与えてくださることをご自身の喜びとしてくださる、ということではないでしょうか。ご自身の栄光としてくださる、ということではないでしょうか。
これが神の愛ということではないかと思います。神さまは私たちの生きることを喜んでくださり、私たちを養うことをご自分の冠としてくださる。神さまは私たちを、生きていても死んでもどうでもいいものとはお考えにならず、私たちに与える恵みを大切にしてくださっているのです。
暑い夏がいつまで経っても終わりません。私たち人間の活動で、季節の移り変わりが大きく変わってきてしまっています。神がご自分の誉れとしてくださっている季節の実りが損なわれています。私たちが生きるために必要な物を神はすべて備えてくださっているのに、私たちの貪欲がそれを食い尽くしています。主の御前にへりくだり、足ることを知り、与えら得たものを喜んで感謝したいと願います。

2024年9月16日月曜日

2024年9月16日の聖句

主なる神が私を助けてくださる。
それゆえ、私は恥を受けることはない。(イザヤ50:7)
(ペトロは)風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。(マタイ14:30)

湖の真ん中で強風のために立ち往生していた小舟。その舟には主イエスがおられませんでした。主イエスは湖の上を歩いて、弟子たちの乗る舟に近づいてきてくださいます。ところが弟子たちは湖を歩いてくる人影を見て幽霊だと思って恐れました。主イエスだと知ったペトロは、主に願って自分も湖の上を歩いて主イエスのもとに行かせていただきます。主が来なさいと言ってくださった。その言葉に促されて彼は一歩、また一歩踏み出した。ところが「風を見て怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。」それが、今日の御言葉です。
ペトロは主イエスを信じ抜くことができませんでした。だから沈んだ。ここでの「湖」は、混沌の象徴です。死の力のしるしです。私たちに襲いかかってくる死の力、悪の力、罪の力は強い。私たちにはそれを自分の力で打ち破ることができない。主イエスにだけ、それがおできになる。私たちはキリストの力を信じ抜いているでしょうか。私たちを取り巻く混沌の力よりも主イエスの方が強いお方だと、私たちは信じているでしょうか。
「主なる神が私を助けてくださる。それゆえ、私は恥を受けることはない。」この確信を私たち自身の信仰として、今日、この日を歩んでいきましょう。主イエス・キリストの恵みと祝福によって、私たちは今日も歩んでいきます。

2024年9月15日日曜日

2024年9月15日の聖句

今週の聖句:
キリストは死を無力にし、福音によって命と不死とを明らかに示してくださいました。(2テモテ1:10b)

今日の聖句:
あなたが食べて満足するとき、主を忘れないように注意しなさい。(申命記6:11~12)
イエスは言われた。「よくよく言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではない。私の父が天からまことのパンをお与えになる。」(ヨハネ6:32)

キリスト者は箸の上げ下ろしも違う、と言われたことがあります。キリスト者らしい食事の仕方がある。どこが違っているのでしょう。ぜひ、ご自身の今日の食事のときに考えてみて頂ければと思います。
一つすぐに思いつくのは、食事の時に祈りを捧げるということです。この食事を与えてくださった神の恵みを感謝して、私たちは祈りを捧げます。「あなたが食べて満足するとき、主を忘れないように注意しなさい。」こう言われているとおり、私たちは主をすぐに忘れてしまいます。満腹して満足して、それを与えてくださった方のことをすぐに忘れてしまう。だから、私たちは繰り返し、食事の度に感謝をささげます。
神が、私たちのために天からまことのパンを与えてくださる。まことのパン、それは主イエスさまのことでしょう。主イエスさまを私たちのために与えてくださったお方は、主と共にすべてのものを私たちに与えてくださいます。キリストを信じ、キリストを見上げて、私たちの新しい一週間を歩んでいきましょう。今日の食卓を整えてくださるお方に、栄光と誉れがありますように。

2024年9月14日土曜日

2024年9月14日の聖句

思い煩いが私の心を占めるときも、あなたの慰めが私の魂に喜びを与える。(詩編94:19)
(イエスの言葉)「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。(ルカ22:42~43)

自分の心を探ってみると、なんだかいつでも思い煩いに占領されているように思います。忙しいとか時間がないとか、自分のペースに合わないことがあれば周りが悪いとか、改めて考えてみると、やらなくてはいけないことにばかり追い立てられています。これでは神さまに仕えているのか、やらなくちゃいけないことに仕えているのか、よく分かりません。思い煩っている。
「思い煩いが私の心を占めるときも、あなたの慰めが私の魂に喜びを与える。」主の慰めが、私には必要です。主に慰めて頂かなくては生きていかれない。主の慰めが私の魂に喜びを与える。
主イエス・キリストは、十字架を前にして神に祈っておられます。「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」主イエスは自分の願いを抱きながらもそれに固執するのではなく、神の御心にご自身を明け渡しておられます。祈りによるキリストの自由が私たちを救うのです。主イエス・キリストのこの祈りが私たちの慰めです。このように祈るお方であるからこそ、私たちを救ってくださるお方なのです。
思い煩いを抱くなら、そのときにこそキリストを見上げましょう。主イエスさまの憐れみによって、今日も生かして頂きましょう。

2024年9月13日金曜日

2024年9月13日の聖句

あなたの慈しみの業を現してください。
攻め来る者から逃れる者を、右の手をもって救われる方。(詩編17:7)
キリストの名のゆえに非難されるなら、あなたがたは幸いです。栄光の富、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(1ペトロ4:14)

キリストの名のゆえに非難される。キリスト者として生きていれば、誰もが経験することです。キリスト者であるということ、私たちの信仰、そのゆえに非難され、あるいは肩身の狭い思いをしないわけにはいかない。ところがその時、実はあなたたちは幸いだ、と聖書は私たちに語りかけます。なぜなら、栄光の富、すなわち神の霊が、その私たちの上にとどまっていてくださるから。神の霊がとどまっていてくださる。私たちは孤独ではない。神が共にいてくださる。キリストの名のゆえに非難される私たちと。
「あなたの慈しみの業を現してください」と、詩編の祈りを捧げた信仰者は言います。神の慈しみの御業によって、私たちは生かされているからです。神の憐れみによって私たちは命をいただいているからです。
神は、攻め来る者から逃れる者を、右の手をもって救われる方。私たちは神に守られ、神の右の手によって救われる。そのことを信じて、今日も生きていきたい。そう願います。

2024年9月12日木曜日

2024年9月12日

苦しむ人や乏しい人を義とせよ。(詩編82:3)
主があなたがたを、互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせてくださいますように。(1テサロニケ3:12)

「苦しむ人や乏しい人を義とせよ」と言われています。ということは、現実はその逆で、苦しむ人や乏しい人は「不義」と言われていた、ということでしょう。そうでなければあのように言う必要がありませんから。そして、そういう言葉が現にまかり通っているということは私たちにもよく分かります。自己責任という言葉が大手を振っています。乏しかったり貧しかったりするのはその人が怠けてきたから、頑張りが足りなかったから、能力が足りなかったから・・・。苦しむ人や乏しい人の苦しみは、乏しさは、自分でどうにかするしかない。そういうまなざしは、時代や社会が変わっても大きく変わらないものなのだろうと思います。
聖書は、私たちと異なるまなざしをもちます。「主があなたがたを、互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせてくださいますように。」互いの愛とすべての人への愛。愛することにおいて、豊かに満ち溢れさせてくださいますように、と言います。神がくださる愛。それが聖書の語りかけるメッセージです。
もしも今、私たちの周りに苦しむ人や乏しい人がいるなら、それは、神が私たちを愛に駆り立てているしるしです。もしも今私たちの周りに社会で軽んじられている人がいるなら、神は私たちを愛することへと促しておられます。主イエス・キリストが私たちにしてくださったように。私たちも愛することへと招かれています。

2024年9月11日水曜日

2024年9月11日の聖句

神よ、私のために清い心を造り、私の内に新しく確かな霊を授けてください。(詩編51:12)
この命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を目標としています。(1テモテ1:5)

「清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛」。私たちの生き方や信じ方、私たちの存在を定めるのは、このような愛です。主イエス・キリストご自身が、私たちにとっての最も大切な教えは、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なる神を愛することだとおっしゃいました。そして、あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさいとお命じになりました。キリストは私たちの愛をお求めになります。形だけ整えれば良いとか、人から余計な批判をされないようにやっている感を出せとか、そういうことはおっしゃらない。偽りのない愛。真心からの愛。神を愛し、隣人を愛する。
ただ、そのような愛は、私たちが「これでどうですか」と言えるものではありません。「清い心と正しい良心と偽りのない信仰から出て来る愛」。一つひとつを考えると、もう、途方もない気持ちになります。どれ一つを取ってみても、自分の現実から遠く隔たっている。そうであるからこそ、私たちは祈ります。
「神よ、私のために清い心を造り、私の内に新しく確かな霊を授けてください。」
清い心、新しく確かな霊を私たちの内に授けてくださるのは、神さまです。私たちの内にはそれはない。悲しい現実です。それが私たちが罪人であるということです。しかし、神は私たちの内に清い心を造ってくださるし、私たちの内に信仰を見出してくださる。「あなたの信仰があなたを救った」と宣言してくださったキリストは、私たちの内に信仰に基づく愛をも生み出してくださるでしょう。

2024年9月9日月曜日

2024年9月9日の聖句

幸いな者。主を頼みとする人。(詩編40:5)
(アンデレは)自分の兄弟シモンに会って、「私たちはメシアに出会った」と言った。(ヨハネ1:41)

娘が算数のよく分からないところがあると言って聞きに来ました。余りのでる割り算の方法がよく飲み込めなかったようです。たまには、父にも頼りになるところがあるのでしょうか。しかし人間の父には限界があります。多少は頼りになることがあったとしても、力の限界はあるし、ましてや彼女の人生のすべてを助けてあげることはできません。私たちは人間の父を遙かに超えたまことの父、主イエス・キリストが「父」として教えてくださったお方に頼らなければどうにもならないのではないでしょうか。
「幸いな者。主を頼みとする人。」詩編はそのように言います。主を頼みとし、主をまことの父と信じ、このお方を求める人は幸い!この詩編は神を信じる幸いを深く確信しています。
シモン・ペトロの兄弟アンデレは、ヨハネによると一足先に主イエスに出会っていたようです。アンデレはシモンに言いました。「私たちはメシアに出会った。」メシア、それは救い主のことです。メシア、それはまことの王のことです。「私たちはメシアに出会った。」この方こそ本当に頼りになる方、まことに信ずべきお方!
私たちに本当に頼りになる天の父がおられます。私たちにはまことの救い主イエス様がおられます。このお方はあらゆることの神でいらっしゃいます。すべての支配者でいらっしゃいます。主イエスさまのメシアとしての御支配こそが私たちを救うのです。主の平和が今日もあなたにありますように。

2024年9月8日日曜日

2024年9月8日の聖句

今週の聖句:
一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が心にかけていてくださるからです。(1ペトロ5:7)

今日の聖句:
優れた分別と知識を私に教えてください。私はあなたの戒めを信じています。(詩編119:66)
(テモテへのパウロの手紙)愚かで無知な議論を避けなさい。それが争いの元であることは、あなたも知っているとおりです。(2テモテ2:23)

20数年前にインターネットが普及しだして、誰でも発信できる素晴らしい社会になるような気がしました。ところが実際に起きたことは、面と向かっては言えないようなこと、言うべきではないようなことを、インターネットという匿名の空間で臆面もなく言えてしまうということでした。そしてその多くが、他者を傷つけ、不用意に心の中にある差別意識を顕わにし、自分の不全感を他人をこき下ろすことで満足させるものでしかありませんでした。愚かで無知な議論は争いの元でしかない。しかもそうやってこの社会に溢れ出てしまっている言葉の多くは、突き詰めれば自分の心の中にも同じものがあると認めざるを得ません。
「優れた分別と知識を私に教えてください。私はあなたの戒めを信じています。」神の憐れみを求めて、このように祈るだけです。優れた分別と知識。それを神がくださるのでなければ、私たちの社会は壊れてしまいます。主よ、憐れんでください。罪深い私たちを。

2024年9月7日土曜日

2024年9月7日の聖句

「願いごとがあれば、言いなさい。かなえてあげよう」と神はソロモンに言われた。ソロモンは「どうか、この僕に聞き分ける心を与え、あなたの民を治め、善と悪をわきまえることができるようにしてください」と言った。(列王記上3:5,9)
悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部与えよう。」すると、イエスは言われた。「退け、サタン。」(マタイ4:8~10)

ダビデの子ソロモンが王になったとき、神は彼に何でも欲しいものを願いなさいとおっしゃいました。その時、彼は自分の長寿を求めるのでも、栄誉を求めるのでもありませんでした。「どうか、この僕に聞き分ける心を与え、あなたの民を治め、善と悪をわきまえることができるようにしてください。」自分のためではなく神に託された民を正しく治めることができるように、知恵と識別の力を求めたのです。
神さまは、私たちにどのようなことでも祈ることを許してくださっています。しかし、どのような願いでも私たちを建て上げるわけではありません。神は私たちがどんなことでも神に祈ることを待っていてくださいます。しかし、すべての願いが私たちを神に向かって成長させるわけではないのです。
主イエス・キリストは悪魔と戦われました。悪魔などに求めずとも、主イエスが父なる神様に求めれば、神は何でも下さった筈です。しかし、それでは主イエスのなさる救いの御業は成し遂げられませんでした。主は貧しく、十字架にかけられるお方であるからこそ、私たちを罪から救うことがおできになったのです。
私たちはどのように祈るでしょう。私たちはどのような願いを神に献げるでしょう。自分自身のための願いに埋もれるのか、それとも、隣人のための願いを献げるのか。神は私たちの祈りを待っていてくださいます。

2024年9月6日金曜日

2024年9月6日の聖句

私たちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、私たちはあなたの前に嘆願を献げるのです。(ダニエル9:18)
あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。(エフェソ2:8~9)

私たちは神に祈ります。嘆願します。神様ご自身がそれを許してくださり、また祈りを待っていてくださることを信じて、私たちは大胆に神に祈ります。
聖書は、神さまが聖なるお方でいらっしゃることを伝えています。モーセは、柴が燃えるような光景を目にして主の御前に近づいたとき、足から履物を取るように命じられました。預言者イザヤは神の御前に自分がいることを知って、死なねばならないと恐れました。漁師シモンは自分の目の前にいる方がただならぬ方と知って地にひれ伏し、「私は罪深い者」と告白しました。神は聖なるお方。キリストは聖なる神の御子。私たちが当然のように祈ったり願ったりすることのできないはずのお方です。
「私たちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、私たちはあなたの前に嘆願を献げるのです。」「あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。」今日与えられている二つの御言葉は、ただただひたすらに、私たちの正しさや行いのゆえではなく神の憐れみのゆえに、神の賜物のゆえに、と言います。
私たちは祈ります。神に嘆願します。私たちの行いや私たちの正しさが祈りの正当性を与えるのではない。神が私たちを憐れみ、愛してくださって、私たちの祈りを待っていてくださるからです。神の愛のゆえに、ただそれだけの理由で、私たちは神に願うことが許されている。そうであるからこそ、私たちは大胆に神に祈ります。ご自分の愛のゆえに、神が私たちの願いに耳を傾けて、待っていてくださるからです。

2024年9月5日木曜日

2024年9月5日の聖句

あなたの民を救い、ご自分の民を祝福してください。とこしえに彼らを養い、担ってください。(詩編28:9)
群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、(イエスは)深く憐れまれた。(マタイ9:36)

主イエス・キリストは、私たちをご覧になって深く憐れんでおられます。ご自分の心も、肉体も痛めて、苦しみながら私たちに向かってきてくださる。「群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、(イエスは)深く憐れまれた。」この「羊飼いのいない羊」というのは、旧約聖書の預言書などに時々登場する表現です。王が正しく治めず、混乱し、人間としての尊厳も損なわれ、力ある者に踏みにじられ、傷つけられている民を指す言葉です。主イエスは、羊飼いのいない羊のように弱り果てている民をご覧になって、深く憐れまれました。
私たちは主イエスさまを「キリスト」とお呼びしています。キリストとは「油を注がれた者」という意味です。旧約聖書で油を注がれて任職される職務は基本的に三つで、王、預言者、祭司です。主イエスさまは真の王、預言者、祭司でいらっしゃる。そうです。キリストは真の王です。このお方は自分のために羊を食い物にはなさいません。「あなたの民を救い、ご自分の民を祝福してください。とこしえに彼らを養い、担ってください。」この祈りに、真実をもって応えてくださいます。いや、私たちが願っている以上に真実な王です。羊のためにご自分の命を捨ててくださる王でいらっしゃるのです。
私たちの新しい一日は、王イエスの祝福と救いによって彩られています。私たちの羊飼い、王でいらっしゃるお方を仰ぎ、崇め、今日の日を生きていきましょう。

2024年9月3日火曜日

2024年9月3日の聖句

前からも後ろからも私を囲み、御手を私の上に置かれる。(詩編139:5)
実際、神は私たち一人一人を遠く離れてはおられません。私たちは神の中に生き、動き、存在しているからです。(使徒17:27~28)

神は遠く離れてはおられない。神は側にいてくださる、神は私たちと共にいてくださる。言葉としては、よく聞く言葉です。キリスト者として生きていれば何度となく耳にする言葉。もしかしたら、少し手垢が付いてしまった言葉であるかもしれません。
ところが今日の聖書の御言葉は、私たちが思っているよりももっと神が肉薄しておられると伝えます。「実際、神は私たち一人一人を遠く離れてはおられません。私たちは神の中に生き、動き、存在しているからです。」神は側にいてくださるどころか、私たちは神の中に生きているのだ、と言います。私たちが今日生きて動いているのも神の中でのこと。私たちの存在そのものがすっぽりと神に包み込まれている。「近い」どころか、私たちは神の中にいるのだ、と言うのです。驚くべき言葉です。
旧約の御言葉も同じ驚きをもたらします。「前からも後ろからも私を囲み、御手を私の上に置かれる。」神は私の前を歩いておられる。しかしそれだけではない。後ろにも神はおられる。神が私を囲んでいてくださる。いや、前後だけではない。私の上には神の御手がある。どこからでも神が私を囲い込み、包み込み、私をあらゆるところから守っていてくださるのです。
今朝、どのような思いで目覚めたでしょうか。平安で喜びに満ちた朝だったでしょうか。その通りと言える人もいれば、そうではない人もおられることでしょう。神はそんなあなたを取り囲んでおられます。あなたの上にも神の手が置かれています。それどころではない、あなたの存在そのものがすっぽりと神の中に置かれている。喜びの日も、哀しみの日にも、その事実は決して変わらない。あなたの今日一日は神の中で動く一日です。

2024年9月2日月曜日

2024年9月2日の聖句

(主は)心の砕かれた人々を癒やし、その傷を包む。(詩編147:3)
この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。(1ペトロ2:24)

主イエス・キリストは、あなたを癒やしてくださる方です。あなたの砕かれた心、あなたの傷を、主イエス・キリストが癒やしてくださいます。そのことを、今日私たちに与えられているペトロの手紙では「この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです」と言っています。私たちは主イエス・キリストのお受けになった打ち傷によって癒やされた。
改めて考えてみると、キリストがお受けになった傷が私たちを癒やすというのは、どういう意味なのでしょうか。キリストの傷は一体どうやって私たちを癒やすのか。
このことについて、ペトロの手紙では、今日与えられている言葉の直前のところでこのように言っています。「そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。」そして、今日の御言葉に続きます。「この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。」そうすると、主イエス・キリストのお受けになった傷が私たちを癒やすというのは、私たちがキリストの傷によって罪に対して死んだということだ、ということになります。私たちを損ない、傷つけ、私たちの尊厳を踏みにじる最後の敵は罪です。罪が私たちを支配している。私たちを罪の力が屈服させてしまっている。しかし、キリストがお受けになった傷、キリストの十字架の上での死は、私たちの身代わりとしての死です。このお方が私に代わって死んでくださったから、あたしはもはや罪に対して死んだ。もう罪は私を支配しない。私たちはキリストのお受けになった傷によって癒やされた。罪から自由になったのです。
心の砕かれた人を癒やし、その傷を包んでくださるお方の御許に、今、帰りましょう。主イエス・キリストの十字架の傷によって癒やして頂きましょう。あなたの罪は、もう赦されたのです。

2024年9月1日日曜日

2024年9月1日の聖句

9月の聖句:
私は近くにいる神なのかーー主の仰せ。
遠くにいる神ではないのか。(エレミヤ23:23)

今週の聖句:
私の魂よ、主をたたえよ。
そのすべての計らいを忘れるな。(詩編103:2)

今日の聖句:
わが主よ、あなたは代々に我らの住まい。
山々がまだ生まれず、あなたが地と世界を生み出される前から
いにしえからとこしえまであなたは神。(詩編90:1~2)
イエスは(弟子たちに)言われた。「神を信じなさい。」(マルコ11:22)

山々が、この世界が、あるいはいかなる人間が私に襲いかかり、それがどんなに脅威であろうと、主はいにしえからとこしえまで私の神。この方がこの山々を、世界を、この人をもお造りになった方。私たちはそう信じています。どのような人も、どのような力も私は恐れない、と代々の信仰者たちが告白してきました。主イエス・キリストが「神を信じなさい」と励ましてくださるから。
自分の心がどんなに簡単に恐れに覆い尽くされてしまうかを思わずにおれません。そうであるからこそ、ただただ神に向かって憐れみを求めるばかりです。「主よ、私も神を信じます。信仰のない私をお救いください」と。
今日、神に与えられたこの一日、神を信じるために生きていきましょう。神を信じ、キリストにあって平安に生きていきましょう。主イエス・キリストを仰いで。私たちがこの肉体の目をもってまだ見たことのないキリストを愛して、言葉に尽くせないすばらしい喜びを抱いて、今日の日を生きていきましょう。

2024年8月31日の聖句

彼らは私の宝となる。人が自分に仕える子を憐れむように、私は彼らを憐れむ。(マラキ3:17)
(イエスの言葉)平和を造る人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)

平和を造る人々は、実にしばしば、この世では無力です。
主イエスさまが憐れみ深いサマリア人の譬えを話してくださいました。さみしい道で追い剥ぎに襲われて倒れていた人を助けてくれたのは、祭司でもレビ人でもなく、一人のサマリア人でした。この人は倒れている人を見て憐れに思い、近寄って介抱し、自分のろばに乗せて町へ連れて行き、宿屋に一緒に泊まり、宿屋の主人に金を渡してその後の看病を委ねました。
すごいことです。しかし他方では、小さなことです。何百人も救うような事業を始めたわけではないし、手当たり次第だれでも構わず助けるシステムを作ったのでもありません。たった一人の人を見て、憐れみに胸をかきむしられて、自分ができることをしただけです。できない部分は他の人に頼みました。主イエスは、この人がしたことこそ、あの倒れている人の隣人になることだとおっしゃいます。
一人の人の隣人になるというのは、考えてみれば無力です。大きなことができるわけではないかもしれない。私たちのすることは非力でしかないかもしれない。しかしそんなこと考えずに伸ばす憐れみの手を、主イエスは御心に留めていてくださいます。その平和を造る人を、神の子と主イエスご自身が呼んでくださいます。「彼らは私の宝となる。人が自分に仕える子を憐れむように、私は彼らを憐れむ。」
主イエス・キリストは、私たちにも同じ憐れみの心を与えてくださっています。私たちも平和を造る神の子として生きることができる。キリストがそんな私たちをご自分の宝と呼んでくださいます。

2025年1月20日の聖句

あなたにとって、主がとこしえの光となり、あなたの神があなたの誉れとなる。(イザヤ60:19) (イエスの言葉)私を見る者は、私をお遣わしになった方を見るのである。私を信じる者が、誰も闇の中にとどまることのないように、私は光として世に来た。(ヨハネ12:45~46) 主イエス・キリ...