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2019年3月24日日曜日

2019年3月24日(民数記35~36)

今日の通読箇所:マルコによる福音書5:21~43、民数記35~36、詩編98~99

民数記35~36;
各部族への土地の分配の最後に、レビ人その家族が住むべき町が決められます。彼らはある部分に決まった領地を持つのではなく、全国48の町々に分かれて生活をする。そして、そのうちの6つの町を特に「逃れの町」とします。
この逃れの町は、故意ではなく過失で人を殺してしまったときに、血の復讐をするものからその人を守るために定められた町です。故意に人を殺害すると、律法の定めでは死刑です。しかし過失の場合、彼は逃れの町に逃げることができます。その町にいる間は、被害者の親族などがそこに来て殺害者に復讐をすることは禁じられます。その人は、事件があったときの大祭司が死ぬまでその町にとどまらなければなりません。その期間中に町の外に出て復讐されても、文句は言えない。しかし、大祭司が死ぬと、彼は自分の町に帰ることができる。それが、逃れの町の機能です。
こうしてみると、レビ人の町(所有地)は、他の部族の所有地とは意味が違っています。レビ人の町は自分たちのための取り分であるというよりも、イスラエル全体を血の復讐から守り、何よりも神様に目を向けさせるためのシンボルのような存在であるのだと思います。レビ人が住む逃れの町は、この世界で「犯罪者」と呼ばれる人が、なお生きられる場所であることが求められているのです。
教会は、どうなのでしょう。例えば最近、薬物に関する事件がありました。私たちの教会には、彼のための場所はあるでしょうか?社会の中でうまく生きられない人は、私たちの教会に場所を持っているのでしょうか?私たちの教会は逃れの町なのか。主イエス・キリストに、そう問われているのではないでしょうか。

2019年3月23日土曜日

2019年3月23日(民数記33〜34)

今日の通読箇所:マルコによる福音書5:1~20、民数記33~34、詩編96~97

民数記33~34;
今日の御言葉には、たくさんの地名が登場しました。地図を出しても、一つひとつたどれないほどにたくさんです。
第33章では、エジプトを出てからこれまでの旅程です。最初の旅立ちは、もう40年も前のことです。その年の第一の月の15日にラメセスを出ました。主なる神様の大いなる御業を頂いて、エジプトから「意気揚々と(3節)」出たのです。この旅の中では、「海の中を通って荒れ野に入(8節)」るという、特別な道もありました。あるいは、自分たちの指導をしてくれたアロンの死も、旅の間に経験しました。「祭司アロンは、主の言葉に従ってホル山に登り、そこで死んだ(38節)」。今、ヨルダン川の東岸、モアブの平野まで来ました。そういう場所まで来て、これまでの旅路を振り返っているのです。一つひとつの地名に刻まれた歴史があり、記憶がある。言うなれば、彼らの40年記念誌の一ページのようなものです。神の恵みの業があり、神に従い、信じ、礼拝してきた神の民がおり、あるいは背き、罪を犯したことがあり、それでもなお神は私たちを生かしてくださって、今日ここに私たちはいる。約束の地を前にして、そういう歴史を思い起こしているのです。
そして第34章は、これからの事です。いざ約束の地に入ったとき、その土地をどのように分配するのかということを記しています。それぞれどのように相続地を受けるのか、どうやってキチンと分け与えるのか。そのようなことを丁寧に定めています。この章は、これからの展望を伝えています。神の約束に生きる民の進むべき道を定めているのです。
神を信じる者は、このように、神の恵みに手を取って連れてこられた過去と、神の約束を信じて進んでいく将来の間に立つ現在を生きています。私たちが、今、神様の御前で思い起こす過去はいかなるものか。神様の約束を信じて描く将来はどのようなものか。そこには必ず神の憐れみと恵みがあり、私たちの罪をも赦し、将来に向かわせてくださる望みがあるのです。ちょうど、洗礼によって罪の私が死に、キリストの復活の命にあずかる新しい創造が約束されているのと同じです。
主イエス・キリストの恵みが、今日もあなたにありますように。

2019年3月22日金曜日

2019年3月22日(民数記31〜32)

今日の通読箇所:マルコによる福音書4:21~41、民数記31~32、詩編95

民数記31~32;
イスラエルの人々は、ヨルダン川の東岸に住んでいたミデヤン人と戦い、勝利を収め、その地を奪いました。それは「家畜を飼うのに適した場所であった(32:1)」ため、ルベン族とガド族に人々は、ヨルダン川の西岸ではなく、この場所を自分たちの相続地にしてほしいと願い出ます。しかし、モーセは当初この願いは間違っていると思っていました。かつて、彼らの親世代は、カナン偵察隊がその地にいる人々はあまりに強大だと言ったのに怖じ気づき、約束の地に行くことを放棄しました。神様は大変そのことに怒り、結局彼らは40年荒れ野をさまよう羽目になった。その罪を繰り返そうとしている、とモーセは考えたのです。
しかし、ルベン族とガド族の願いは、そういう事ではなかったようです。これからカナンに入ったら、自分たちは先頭に立って戦うと言います。また、「私たちは、イスラエルの人々がそれぞれの相続地を受け継ぐまで、決して私たちの家には戻りません(32:18)」という決意を表明します。それで、モーセも彼らの願いを認めたのでした。
約束の地での土地の分配は、このように、それぞれの事情を勘案しながら現実的に決められたようです。しかし、そこでこの戦いから退却することはありませんでした。私たちは、どうなのでしょうか。私たちも人生の持ち場は多様ですし、神様は多様な場での責任を私たちに託してくださっています。だから、私たちは主の戦いに怖じ気づいて退却することはありません。私たちの戦いは血肉を相手にするものではない。剣や槍、拳銃を持つような戦いではない。霊の戦いです。信仰の戦いです。この世で、キリスト者として生きること、これこそ私たちの戦いです。この世界でキリストに従うという戦いです。私たちはこの戦いを自分自身のためではなく、隣人のために戦います。ガドやルベンの人々がそうであったように。私たちが今日生きる信仰の戦いは、主のための戦い、この世界で神の国を宣言してくださっている主イエスの戦いなのです。

2019年3月21日木曜日

2019年3月21日(民数記29〜30)

今日の通読箇所:マルコによる福音書4:1~20、民数記29~30、詩編94

民数記29~30;
第七の月に行う贖いのための聖なる集会を定めています。レビ記にも記述があります。例えば16:29以下です。30節では「この日には、あなたがたを清めるための贖いがなされる。主の前であなたがたの罪はすべて清められる」と書かれています。第七の月の聖なる集会は、人々の罪を清めるための礼拝を献げるのです。
今朝の御言葉では、とても丁寧にこの礼拝について定められています。実にたくさんの焼き尽くすいけにえが献げられます。若い雄牛、親木、一切の雄の小羊、油を混ぜた上質の小麦粉。しかも、一日だけそういう礼拝をするというのではなく、新月の日、十日目、一五日目からの一週間(この時期は仮庵祭とも呼ばれます。)と、長く祭りの期間が続きます。そのたびに、焼き尽くして神に献げる献げ物が、何度も何度も、繰り返し献げられるのです。しかも、「これらは、請願の献げ物、あるいは自発の献げ物として献げられる焼き尽くすいけにえ、穀物の供え物、注ぎの供え物、会食のいけにえとは別のものである(29:39)」と言われているとおり、罪の贖い、罪の清めのための特別な献げ物です。他の礼拝行為とは区別された、特別な目的を持つ礼拝です。その目的こそ、罪の清めなのです。
毎年毎年、半月以上を費やして献げる罪の清めのための礼拝を経験するたびに、神様の前での私たちの罪深い姿を再確認したのではないかと思います。私たちは、キリストがご自分を献げて完全に支払ってくださったから、もうこの聖なる集会を繰り返すことはありません。しかしそうだからこそ、主イエスがご自分を犠牲にしてくださったことの深い意味を、受け止めたいと心から思わされています

2019年3月20日水曜日

2019年3月20日(民数記27〜28)

今日の通読箇所:マルコによる福音書3:20~35、民数記27~28、詩編92~93

民数記27~28;
ツェロフハドの娘たち、という人が登場します。彼女たちの名前は26:33にも登場しています。マナセ族の一員で、ツェロフハドという人には息子がおらず、娘だけだったと記されています。彼女たちはモーセのところに来て訴えます。自分たちの父は荒れ野ですでに死んだこと、そして父には息子がいなかったこと。そして、言うのです。「息子がいないからといって、どうして私たちの父の名が氏族の中から除かれなければならないのでしょうか(27:4)」と。これに対し、主なる神様は訴えの正しさを認めて、彼女たちが土地を相続することができるように法の不備を判例によって是正します。
これは、時代を考えると実に驚くべき事であると思います。聖書もある時代やそこで背景となる価値観と無関係に存在しているわけではありません。しかし、古代の父権社会の中で娘の相続をすでに認めているのです。それは、世の中の当たり前ではない聖書の新しい視点であったのではないかと思います。
その前提となるのは、神様が、一人ひとりの名を呼び、覚えていてくださるという事実なのではないかと思います。第26章にツェロフハドの娘たちが出てきたとき、すでにマフラ、、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァと名前をちゃんと記録しているのです。神様は、私たちが社会の中でどんなに小さくされていても、私たちを覚えていてくださいます。私たちが誰の目から見ても、小さく乏しいものであっても、主は私たちの名前を覚えていてくださいます。ここでは、父の地を息子が受け継ぐという当時の社会の「常識」が相手でした。私たちの社会の「常識」や「当たり前」を括弧の中に入れて、神様の御前に疑問に伏してしまいます。私たちの名を覚え、私たちの尊厳を守り尊んでくださる。キリストの愛の目は、私たちにも向けられています。

2019年3月19日火曜日

2019年3月18日(民数記26)

今日の通読箇所:マルコによる福音書3:1~19、民数記26、詩編91

民数記26;
民数記も第26章に入り、ずいぶんと時間が経ってきたようです。これから約束の地に入っていくにあたって、再び、人口調査が実施されました。新しい世代が、調査されたのです。第一章の人口調査よりも、もっと丁寧に書いています。個人名がこちらの方が多いのが一つの特徴であると思います。変わらないところは、12部族別に数えられているところ、あるいは細かい数字の違いはあれどどちらも約60万人であったことも共通しています。
民数記をここまで読んできましたが、何度も繰り返し、人々が神様に不満を漏らし、信じることをせず、神様の怒りを招いてきました。偵察隊の出来事の結果、最初の人口調査で数えられた出エジプト第一世代は、皆、旅の途中で死んでしまい、この人口調査には含まれていません。63から65節にそのことが書かれています。
最初の世代は皆地上の生涯を終えたけれど、もう一度数えたときにほぼ同じ人数であったということは、不思議なことです。しかしそれは、不思議な、神様の憐れみの御業であると思います。私たちは罪深くて不信仰だけれども、それでもなお神は私たちのために準備した祝福をキャンセルしてしまうようなことは、なさらないのです。
第二の人口調査の新しい要素は、「これらの人々に、その名の数に従って、土地を相続地として分配しなさい」と、神様の新しい恵みを頂くための土台になっているところです。土地が、人口調査に基づいて分け与えられていくのです。これもまた、神様の憐れみではないでしょうか。本当なら、人口調査は一回で十分なはずでした。世代を変えて再び人口調査をしなけばならなかったのは、私たちの罪のためです。しかし、それさえも、ご自分の深い恵みを届けるための手段として用いてくださるのです。
ですから、私たちは、今日ひたすらに神様の憐れみを求め、主イエス様の赦しの御言葉の前から、もう一度新しくされていきたいと願います。

2019年3月17日日曜日

2019年3月17日(民数記22〜23)

今日の通読箇所:マルコによる福音書1:21~45、民数記22~23、詩編89

民数記22~23;
モアブ人のバラクはイスラエルの人々が神に守られている様子を見て恐れ、不安になりました。興味深いことに、今日はイスラエルの人々の物語ではない。異邦の王バラクと、彼に雇われた異教の預言者バラムの物語です。
バラムの言葉を聞くと、とても信仰深い人のように感じます。バラク王から呼び出されたとき、預言者バラムは答えます。「あなたがたの国にお帰りください。私があなたがたと一緒に行くことを、主は許されないからです(22:13)」。それでも無理に連れて行かれて、イスラエルの人々が見える高台に行き、そこから彼らを呪うように強要されます。しかし彼は主なる神様から示されたことだけを語りますと答え、結果的にイスラエルを呪うどころか祝福してしまいました。「主が私の口に授けられたことだけを、私は告げるべきではないでしょうか(23:12)」。バラク王は怒りますが、バラムはその筋を曲げませんでした。
ここを読むと、バラムは権力に屈しない、信仰深い預言者であるようです。しかし、最初に見たとおり、彼は異教の預言者です。もともと、主なる神様に仕えてきた人物ではなかったのです。イスラエルを呪おうとしていた。ところが、主なる神様の力に負けたのです。それは彼が神様を信じていたからではなく、イスラエルを守る神の祝福の意志が圧倒的に強かったからです。
今朝の箇所にはイスラエルは登場しません。脇役でしかない。主になって動いているのはバラクであり、バラムでした。彼らはイスラエルを呪おうとしましたが、ことごとく失敗しました。私たちも、私たちの知らないところから災いが降りかかってくることもあるでしょう。誰かの悪意にさらされることもあるのです。実際に、被害を受けることだってあります。しかし、私たちが知らないところで、神の祝福の意志は固く、強いのです。たとえ私たちに予期せぬ事、好ましからざる事があろうとも、神様のその祝福のご意志が確かなことを、私たちは信じましょう。それは、キリストに表された神様の確かさなのです。

2019年3月16日土曜日

2019年3月16日(民数記20〜21)

今日の通読箇所:マルコによる福音書1:1~20、民数記20~21、詩編88

民数記20~21;
メリバの水の出来事。あまりにも不可解です。民が荒れ野で「ここは穀物もいちじくも、ぶどうもざくろもない所で、飲み水さえもありません(20:5)」とモーセとアロンに詰め寄り、主は「彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたは彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に水を飲ませなさい(8節)」とモーセに命じました。モーセは、「聞け、反逆する者たちよ。私たちがあなたがたのために、この岩から水を出さなければならないのか」と言って杖で岩を二度打つと、果たして水がたくさん出てきました。
ここまでは良かったのですが、神様はモーセとアロンに言われます。「あなたがたは私を信じることをせず、イスラエルの人々の目の前に、私を聖としなかった。それゆえ、あなたがたは、私が彼らに与えた地にこの会衆を導き入れることはできない」。実際、この第20章でアロンは死にます。そしてモーセも約束の地を見ながらも、そこに入ることはできませんでした。
何がいけないというのでしょう。神様が言ったとおり、岩から水を出したのではないか?モーセとアロンの何が神様の聖なる事を表さない行いだったのかは、聖書がはっきりと書いていないので良く分かりません。推測することはできます。神様は、このとき、「岩に向かって、水を出せと命じなさい」と言われました。ところが、モーセは岩を二度打った。細かくて些末な違いのようですが、「命じろ」と言われたのに「打った」のです。実は岩を打つという方法を、モーセは以前経験していました。かつて、主はモーセに言われたのです。「私はホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたがその岩を打つと、そこから水が出て、民はそれを飲む(出エジプト記17:6)」。モーセはその時その通りに行い、民は水を飲むことができました。モーセはその時の成功体験に基づいて、ここでも岩を打ったのかもしれません。命じるのか、打つのか。小さな差のように見えますが、実は、今神が語ってくださっている言葉を聞くのか、それともかつての成功経験に頼るのか、その違いは決して小さくないと思います。
今日、神様は私たちに何と語りかけておられるのでしょうか。今朝、私たちに救いを告げる主の言葉を、新しい思いと従う信仰を持って耳を傾けましょう。

2019年3月15日金曜日

2019年3月15日(民数記18〜19)

今日の通読箇所:ヘブライ人への手紙13、民数記18~19、詩編87

民数記18~19;
「イスラエルの人々に告げて、欠陥のない赤毛の雄牛、すなわち、傷がなくまだ軛を負ったことないものを、あなたのもとに引いてこさせなさい。あなたがたはそれを祭司エルアザルに渡し、宿営の外に引いてきて彼の前で屠る(19:2~3)」。そして、その牛は皮も肉も血も、汚物まで、すべて焼き尽くします。そしてその灰を集め、宿営の外の清いところで保管します。「それはイスラエル人の会衆のために、汚れを清める水を造るために保存される。これは罪を清めるためのものである(9節)」とされています。罪を清めるための牛が、宿営の外で屠られました。
今朝の新約聖書はヘブライ人への手紙第13章でした。このように書かれていました。「なぜなら、動物の血は、大祭司によって清めのいけにえとして聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。それで、イエスもまた、ご自分の血で民を聖なるものとするために、門の外で苦難を受けられたのです(11~12節)」。まさに民数記でいわれていたことを前提としながら、主イエス様が、町の外の丘の上で十字架に掛けられたことにいかなる意味があったのかということを言い表しました。それは、イエスの血によって、私たちが罪から清められたということだと言うのです。
受難節の一日を過ごしています。イエスが血を流して十字架に掛けられたことで、私の罪も清められた。そのことを、心に深く刻みたいと願います。自分で自分の罪を洗い清めることは、できません。自分で自分を清くすることができると思い込むから、偽善や傲慢な自分に足下をすくわれてしまうのかもしれません。しかし、私たちを清くすることがおできになるのは、ただキリストだけです。その事実が、私たちにとっては本当に大きな祝福なのではないでしょうか。

2019年3月14日木曜日

2019年3月14日(民数記16〜17)

今日の通読箇所:ヘブライ人への手紙12、民数記16~17、詩編86

民数記16~17;
イスラエルの民が歩んで荒れ野の40年は、彼らの罪があらわになる日々でした。コラというレビ人が、ダタン、アビラム、オンというルベン族の人と共謀してたくさんの一つを集めてモーセとアロンに対する反逆を企てました。この事件は長いこと尾を引いた、文字通りの「大事件」でした。
モーセは彼らに、こう言いました。「なぜあなたがたは主の会衆の上で思い上がっているのか(16:3)」。この「思い上がり」という言葉に、ギクッとしました。すぐに人を妬んだりうらやんだりする曲がった自分の性根を問われたように思ったからです。夜郎自大という言葉があります。昔、中国にあった夜郎という民族は自分たちの力量も、当時中国を支配していた漢民族の力も知らずに威張っていた、という様子から生まれた言葉だといいます。
モーセやアロンは、神様の御前にへりくだった人たちでした。彼らもたくさん失敗はしてきました。モーセは同法を守るためといいながらエジプト人を殺す殺人を犯し、アロンもコラたち一派と同じくモーセを追い落とそうとしたことがありました。あの金の子牛事件もアロンが首謀者の一人です。しかしこの荒れ野の日々も神様の訓練であったのだと思います。「主の鍛錬を軽んじてはいけない(ヘブライ12:5)」のです。神様に練り清められ、今、彼らはすばらしい知恵を持って人を裁くようになったのではなく、過ちを犯す者たちのために執りなしの祈りをする人になりました。「民の間に疫病が広まり始めていた。アロンが香をたき、民のために贖いをし、死んだ者と生きている者との間に立つと、疫病は治まった(17:13)」。私たちは試練の時に、愚かにも罪に罪を重ねてしまいます。しかし、その困難は神の鍛錬です。私たちが心を柔らかくし、隣人のために執り成す物になるための、神からの訓練の日々なのです。そして、何よりも、深い主イエス様の赦しへと帰るための神の招きなのです。

2019年3月13日水曜日

2019年3月13日(民数記14〜15)

今日の通読箇所:ヘブライ人への手紙11:23~40、民数記14~15、詩編85

民数記14~15;
イスラエルの全会衆は、カナンの地へ偵察に行った者たちが流した悪い情報を聞いて動揺し、嘆き、不平を言いました。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。この荒れ野で死んでいたらよかったのに。どうして、主は私たちをこの地に連れて来て、剣に倒れさせようとするのだろうか(14:2~3)」。そして互いに言い合います、「さあ、頭を立てて、エジプトへ帰ろう(4)」と。
そうやって不満を爆発させる大衆を前に、ただ、カレブとヨシュアだけが言うのです。「私たちが偵察に行き巡った土地は、実に良い地でした。もし、私たちが主の御心に適うなら、主は私たちをあの地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる地を私たちに与えてくださるでしょう(7~8節)」と。
奴隷の家であるエジプトから救われて、自由にされました。大いなる神様の御業によって、今ここに生きています。そして、神様はこれから乳と蜜の流れるすばらしい場所へ導いてくださいます。しかし、そんな神様の御業も、愛も、約束も、全部忘れて、目の前の困難でいっぱいになってしまい、不平不満と後悔に生きる。それは、神様を信じず、侮ることでした。この不信仰は、神様の大きな怒りを買います。当初は荒れ野でこの者たちを滅ぼそうとまで言われましたが、モーセの執りなしによってそれを思いとどまり、40年間荒れ野をさまようことになってしまいました。先に人口調査された成人たちは誰一人カナンに入れないと言われてしまいました。ここから、イスラエルの荒れ野の40年が始まった。それは、人々の罪が招き寄せた当然の結果だったのです。
しかも、事はそれで終わらなかった。神様の怒りを買ったと悟った大衆は後悔し、「さあ、主が約束された所へ上って行こう。私たちは罪を犯したのだから(39節)」と言い合います。ところがこれもまた神様の御心に適うことではなかった。モーセは言います。「あなたたちはどうして主の言うことに背くのか。そんなことはうまくいくはずはない。上って行ってはいけない(41~42節)」。何が間違っていたのか。彼らは、結局、神様が今何を言っておられるのかに心を傾けなかったのです。自分の経験や後悔、自分なりの状況判断、いいわけ、そういうものが何よりも力を持っていたのです。大切なことは、今、神様が何をおっしゃっているのか、ということなのです。
今日、神様はあなたに何を告げておられますか?今日は第15章に触れられませんでしたが、ここはそのヒントになるかもしれません。例えばこの章で繰り返されているのは、「あなたがたも寄留者も、主の前には同じである(15:15)」というような事柄です。このような神の言葉をどう受け止め、従っていくのか。これも一つのメッセージでしょう。
今日、主は、私たちに今日の御言葉を語りかけておられます。

2019年3月12日火曜日

2019年3月12日(民数記12〜13)

今日の通読箇所:ヘブライ人への手紙11:1~22、民数記12~13、詩編84

民数記12~13;
神様がイスラエルの人々に与えようとしているカナンへ、それぞれの部族の代表者に偵察に行かせました。それがどのような土地なのかを調べさせたのです。帰ってきた者たちは、その土地の実りであるぶどうを担いで帰ってきました。彼らは言います。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行ってきました。そこはまことに父と蜜の流れる地でした。これがそこの果実です(13:27)」。
この「乳と蜜の流れる地」という表現は、出エジプト記3:8にも登場していました。主なる神様がモーセに初めて語りかけてくださったときのことです。「私は下って行って、私の民をエジプトの手から救い出し、その地から、豊かで広い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、・・・、の住むところに導き上る」と約束してくださったのです。神様が約束してくださった地の素晴らしさを言い表す表現ですから、偵察隊は、まさに神様が約束してくださった場所はこんなにもすばらしかったと報告した、ということになります。
ところが、民数記では、話はそこで終わりません。28節です。「しかしながら、その地に住む民は強く、町は城壁に囲まれ、とても大きいのです。」ところが偵察隊の一人であるカレブは断固として訴えます。「私たちはぜひとも上って行くべきです。そこを手に入れましょう。私たちは必ずできます(30節)」。だが、他の者たちは「いや、あの民に向かって上ることなどできません。彼らは私たちよりも強いからです(31節)」。
神様が約束してくださった救いの素晴らしさをどんなに知ったとしても、敵の強さや自分の弱さを言い訳にして、「だから」と言っていては、その神様の約束を逃してしまいます。カレブは、神の約束だけを信じました。だから、「私たちには必ずできます」と大胆にも信じ得たのです。自分や環境を言い訳にすると、不満も生まれます。第12章のミリアムやアロンの不満も、自分のへそばかり見ているから生まれる妬みなのかもしれません。私たちの目は、何に注がれているのでしょうか。主なる神様とその約束の素晴らしさなのか、それとも、環境や自分自身ばかり見つめたところでつぶやく言い訳なのか。
主の御前で、キリストを思い巡らして、新しい一日を始めたいと願います。

2019年3月11日月曜日

2019年3月11日(民数記10〜11)

今日の通読箇所:ヘブライ人への手紙10:19~39、民数記10~11、詩編83

民数記10~11;
銀のラッパが造られました。出陣の合図として吹かれます。それだけではありません。「あなたがたの喜びの日、定められた祝いの時、毎月一日には、焼き尽くすいけにえや会食のいけにえを献げ、ラッパを吹き鳴らしなさい(10:10)」と言われているとおり、礼拝や祈りのしるしとしても吹かれていたようです。
ヨハネの黙示録にもラッパの音が登場します。「主の日、私は霊に満たされ、後ろの方でラッパのような大きな声を聞いた(ヨハネの黙示録1:10)」。ここではラッパそのものではなく、ラッパのようなとなっています。「その後、私が見ていると、開かれた扉が天にあった。そして、先にラッパのような声で私に語りかけた、あの最初の声が言った(4:1)」。ここでは、最初のラッパのような声が再びヨハネに語りかけています。その声は天での礼拝をヨハネに見せます。最初に登場したときも、主の日のことです。ラッパのようなこの声は、ヨハネを礼拝に招きます。
パイプオルガンの中には、ラッパの音を出せるものもあるそうです。私みは、いつか礼拝の前奏にラッパを取り入れてみたいという夢があります。ラッパの音が私たちを礼拝に招き、私たちの旅路の出発を告げるのです。そう考えると、ラッパの音は後奏にもふさわしいと言えると思います。
しかし、ラッパの音に導かれて実際に始まった神の民の旅路は、決して理想的なものではありませんでした。すぐに飢えと渇きのために不満が噴出します。毎日の衣食住のことと信仰生活とは、一つであると改めて思います。11:4の「民の一部の輩が飢えと渇きを覚え」の「飢え」という単語に、聖書協会訳では注が付き、「直訳:欲望に駆られて」と書いてあります。私たちの信仰生活は、いつでも、欲望や貪欲と隣り合わせです。だからこそ、悔い改めつつ、この歩みは進みます。主なる神様の御前に帰って悔い改めるとき、私たちは、もうすでにキリストを下さって赦しの福音に招いてくださっている神の、ラッパのような招きの声を聞くことになるのです。

2019年3月10日日曜日

2019年3月10日(民数記8〜9)

今日の通読箇所:ヘブライ人への手紙10:1~18、民数記8~9、詩編81~82

民数記8~9;
「彼らがエジプトの地を出て二年目の第一の月、主はシナイの荒れ野でモーセに告げられた。『イスラエルの人々は、定められたときに過越祭を祝いなさい』(9:1~2)」。あれから一年たちました。エジプトの地、奴隷の家から、神様の大いなる御業によって導き出されたあの日から。神が救い、ご自分の民としてくださったあの日から、一年がたちました。イスラエルの人々は、荒れ野で初めての過越祭を祝いました。家族の死などの事情があってその日に過越祭に参加できない物も含めて、皆が神様のしてくださった大いなる救いの御業を覚えて、神を礼拝し、祝ったのです。
こうして、兵役に就くことのできる男子だけで約60万人もいたイスラエルの人々の真ん中に、神を礼拝するための幕屋が建てられました。「幕屋を建てた日、証しの天幕である幕屋を雲が覆った。それは夕方になると幕屋を包む火のように見え、朝まで続いた。・・・雲が天幕から離れて昇ると、それと共にイスラエルの人々は進み、雲が一つの場所にとどまると、イスラエルの人々はそこに宿営した(16,18節)」。この雲に導かれて、彼らの旅は始まります。
救いの出来事を記念する過越祭から、イスラエルの荒れ野の旅は始まりました。礼拝するための幕屋を整えたとき、彼らを導く雲に包まれました。神の民の歩みを導くのは、神への礼拝であり、私たちが礼拝することを喜んでくださる神様ご自身なのです。私たちの一週間も、礼拝から始まります。私たちは、神の民である私たち教会を導いてくださる雲の柱、神様の御言葉によって行きもし、止まりもします。私たちが礼拝のたびに想起するのは、神のすばらしい救いの御業、すなわちイエス・キリストです。私たちはキリストの十字架を羅針盤としてこの世を旅する、神の民なのです。

2019年3月9日土曜日

2019年3月9日(民数記7)

今日の通読箇所:ヘブライ人への手紙9、民数記7、詩編80

民数記7;
今朝の民数記は、正直に言って、読むのがつらい箇所です。ひたすら同じことが12回繰り返されています。祭壇奉献に際して、イスラエルの12部族それぞれから同じ献げ物が神にささげられました。それを、キチンと12回繰り返して、同じように報告しています
例えば、このような書き方もできたはずです。「イスラエルの全部族の代表者たちは、それぞれ同じ献げ物を献げた。すなわち、聖所のシェケルで重さ130シェケルの銀の皿一枚、・・・」と。あるいは、二番目に献げたイッサカル族以下は、「以下同文」とすることもできたのではないかと思ってしまいます。もしかしたら私たちはあまりに便利なコンピューターを使い慣れすぎていて、昔の人よりもこらえ性がないのかもしれないとさえ思います。今では「コピーアンドペースト」という便利な機能もありますから、いちいち同じ文章を打ち直す必要はない。ただ機械的に淡々と続き、それをただ機械的に淡々と読むということになりかねないのです。
しかし、聖書はそのようにしませんでした。一人ひとり、つまり一部族ずつ、丁寧に献げ物を記録していきます。そこに意味があったのだと思います。何よりも、これは「祭壇奉献」の献げ物でした。祭壇での礼拝の献げ物は、レビ記で見たとおり、献げ物の量や方法が細かく決められていました。皆、それに乗っ取った献げ方をしたということになります。つまり、個々人のニーズに従った礼拝ではなく、神の求めに応じて礼拝スタイルが決められたのです。
神様が求めておられる献げ物を、神様が求めてられるとおりに、心を込めて献げる。そこに礼拝が始まります。礼拝において、神様は、私たちに親しく福音を語りかけてくださいます。「モーセが神と語るために会見の幕屋に入ると、証しの箱の上にある贖いの座、その上に据えられた二つのケルビムの間から彼に語りかける声が聞こえた。神は彼に語りかけられた(89)」。これは、私たちへの語りかけでもあるのです。

2019年3月8日金曜日

2019年3月8日(民数記5〜6)

今日の通読箇所:ヘブライ人への手紙8、民数記5~6、詩編79

民数記5~6;
第6章に「ナジル人」というものが登場します。これは、ある誓願を立てて自分自身を神にささげた人のことです。誓願を立ててナジル人となった期間は、「ぶどう酒と麦の酒を断ち、ぶどう酒の酢も麦の酒の酢も飲まず、どのようなぶどうの果汁も一切飲んではならない。ナジル人である期間は、ぶどうの木からできるものはすべて、種も皮も食べてはならない(3~4)」と定められています。生活のスタイルが変わります。
さらに、外面からも分かることは、その期間は頭の毛にカミソリを当ててはならず、伸ばしたままになります。もっと言えば、遺体に触ることも禁じられるので、家族の死体にも触ってはならないということになっています。
ナジル人としての誓願を立てた期間は、周りとは口にするものも見た目も、家族との接し方も変わります。少し特殊な生き方を求められると言ってよいと思います。
聖書の中を見てみると、何人かのナジル人が登場します。例えば師士記に登場するサムソンという人は、生まれながらのナジル人であったと言われています。彼は大変な怪力の持ち主でしたが、その力の源はナジル人であることですので、髪の毛にカミソリを当てると請願がたたれ、力が入らなくなってしまう、というエピソードも書かれています。
そのように言うと、聖書の中のお話で自分とは余り関係がないという感じがしてしまいます。しかし、考えてみれば、洗礼を受けるというのは、神様に身を献げるということに他ならないのではないでしょうか。もちろん私たちは髪の毛を切りますし、ぶどうから造ったものを口にするのも自由です。しかし、根本的に、私たちは自分をキリストのものと献げて洗礼を授けられました。それは、キリストが、私たちのためにご自分を献げてくださったからです。
ですから、キリスト者の生活は、キリストご自身の献身という絶対的な祝福から始まっているのです。今朝の箇所の最後にも、祝福がありました。この祝福の言葉を持って、今日一日の神からの祝福を頂きたいと思います。
「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔の光であなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように
主が御顔をあなたに向けて、あなたに平和を賜るように(24~26)」。

2019年3月7日木曜日

2019年3月7日(民数記3〜4)

今日の通読箇所:ヘブライ人への手紙7、民数記3~4、詩編78

民数記3~4;
イスラエルの他の部族は区別されて、レビ族の人々が数えられ、その役割が与えられました。よく読んでいくと、レビ人と他の部族とでは、数え方が少し違います。
「モーセとアロンは、・・・それぞれの氏族と、その父祖の家に基づいて、二十歳以上の男子一人ひとりの名を数え、系図に記した(1:17~1)」というのが、レビ人以外の人々の数え方です。しかし、レビ人の人口調査はこのようになっています。「レビの一族を、その父祖の家と、それぞれの氏族によって登録しなさい。生後一ヶ月以上のすべての男子を登録しなさい(3:15)」。
他の部族では20歳以上でした。これは、基本的に兵役に就くことのできる男子の数を調べるための調査です。しかし、レビ人の場合は、現役世代で幕屋の仕事をする男子の数だけではなく、生後一ヶ月以降のすべての人数を調べます。実はこれに対応するのは、他の部族についての「生後一ヶ月以上のすべての男子の初子を登録し、その名を数えなさい(1:40)」という命令です。レビ人は、他の部族のすべての男子の初子の代わりだ、というのです。家畜の場合、初子は神のものです。初子が神のものと言うことは、すべてが神のものだということです。初子はそのシンボルです。その考え方が人間にも適応されて、初子は神のものとされた。しかし人間を殺して献げるわけにはいきませんから、レビ人をイスラエルのすべての初子の代わりとして、神のものとしたのです。レビ人は、そのようにして他と区別して神のものとされました。レビ人の存在が、私たちすべての者は神のものだということを思い起こさせるシンボルだったのです。
私たちも、神のものです。私たちが神のものだというしるしをつけられたのは、洗礼の時です。私たちは礼拝堂に設置された洗礼盤を見るたびに、私も神のものとされたのだということを思い起こします。神のものとして神に仕え、祈りのつとめを果たすために、私たちは神に選ばれたのです。

2019年3月6日水曜日

2019年3月6日(民数記1〜2)

今日の通読箇所:ヘブライ人への手紙6、民数記1~2、詩編79

民数記1~2;
「あなたがたはイスラエル人の全会衆を、それぞれの氏族と、その父祖の家によって調べ、男子一人一人の名を数え、兵役に就くことのできる二十歳以上のすべての者を軍に登録しなさい(1:2~3)」。
出エジプト記、レビ記と続いて、いよいよ民数記になると「民」の方に視線が向けられていきます。これまではいつ、どのような礼拝を献げるのかということに関心が集中していました。ところが、ここでは、礼拝する神の民に注目が集まっているということであろうと思います。
その最初にするように命じられたのは、一人ひとりの登録でした。ただ漫然と人数を数えるだけではありません。それぞれの氏族、その家ごとに、秩序正しく登録されていきます。まるで、バラバラだった人々が一つの民に生まれ変わるかのようにして。
ここで登録された者たちは「軍」であったと言います。これから荒れ野を旅し、約束の地に入っていくとき、確かに戦いを余儀なくされました。そのための軍の編成ということになるのでしょう。しかしここは、今私たちが読んだときには新しい意味を見出すことができるのではないかと思います。
つまり、私たちも神の民であり、神の軍の一員なのです。新約聖書ではヨハネの黙示録でも、やはり、12の部族の人数が数えられていました。(第7章で、ここでは14万4千人が数えられています。)そして、ヨハネの黙示録は戦いのモチーフが多く登場しています。ただし、私たちの戦いは「人間に対するものではなく、支配、権威、闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊に対するもの(エフェソ6:12)」です。この世界を罪で支配する、大きな力との戦いです。私たちは神の軍の一員として、神の武具を身につけてこれと戦います。私たちはもはやバラバラではありません。教会の一員として、この世界の中で、神のものとして生きているのです。

2026年9月13日の聖句

今週の聖句: 一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が心にかけていてくださるからです。(1ペトロ5:7) 今日の聖句: 主は虐げられた人の砦 苦難の時の砦。(詩編9:10) みなしごや、やもめの苦労を見舞うこと、それが純粋で汚れのない父なる神への礼拝です。...