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2019年10月27日日曜日

2019年10月27日(エレミヤ書51〜52)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書6:41~71、エレミヤ書51~52

エレミヤ書51~52;
力によって地を造り、知恵によって世界を固く据えられた方。この方が英知によって天を広げられた。主が御声を発せられると、天の大水はとどろく。地の果てから雲を上らせ、雨のために稲妻を造り、風をその倉から送り出される。人は皆、愚かで知識がない。鋳物師は皆、偶像のゆえに恥をかく。鋳物の像は偽りにすぎず、その中には息がない。それらは空しく、嘲笑の的。刑罰の時には滅びてしまう。ヤコブの受ける分はこのようなものではない。その方は万物を形づくる方であり、イスラエルはその方ご自身の部族である。その名は万軍の主。(51:15~19)
イスラエルは主の民でありながら主を捨て、空しいものの後を追って自ら空しくなってしまいました。神ならぬものを神としてあがめ、欲望の奴隷になって国は混乱し、遂には滅んでしまいました。主の裁きを受けました。しかし、彼らを裁いた同じ主が、彼らを回復させてくださいます。裁きのための道具としたはずのバビロンを逆に裁いてでも、主は熱情をもってイスラエルを回復させてくださいます。
空しいもののために恥を受けてはならない、人間が造ったものに過ぎない像にひれ伏し、自分たちの欲望を神としてはならない。そう呼びかけます。そして、天と地とそこにあるすべてのものを造る力をもって、イスラエルを救ってくださいます。「お前たちは、私の民だ」と言って、ご自分のものとして、滅びるままにはさせておかれないのです。
この方は、私たちの神です。私たちは、ご自分の胸を焦がし、ご自分が痛んでまで私たちを救って下さるお方を「私の神、私たちの神」と信じ、この方の独り子を救い主と信じています。主よ、救ってください。主よ、憐れんでくさい。そう祈りつつ、今日一日の歩みを始めていきましょう。

2019年10月26日土曜日

2019年10月26日(エレミヤ書50)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書6:1~40、エレミヤ書50

エレミヤ書50;
「カルデア人の地バビロンについて、主が預言者エレミヤを通して語られた言葉」(1節)。ここに記されているバビロンについての預言は、「バビロンは占領され、ベルは辱められた」(2節)と言われているように、バビロンに対する裁きの預言です。バビロンが倒され、イスラエルへの救いの預言がなされています。「その日、その時にはイスラエルの子らが来る、彼らもユダの子らも共にーー主の仰せ。彼らは泣きながらひたすら歩き、彼らの神、主を尋ね求める。彼らはシオンを訪ね、顔をその方向に向けて言う。『さあ、行こう。主に連なろう。永遠の契約が忘れられることはない』と」(4~5節)。
この章を読んでいくと、少し戸惑ってしまいます。イスラエルへの救いの言葉は好いとしても、バビロンが、いくら敵だとは言ってもここまで言われて良いものだろうか、と。「バビロンの地から逃れた者や難を免れた者の声が、シオンで、我々の神、主の復讐を、その神殿の復讐を告げ知らせる」(28節)。近代戦による戦争の惨禍を知る私たちには、戸惑いをも与える言葉ではないでしょうか。
私たちがこの預言の言葉を読むときに一つわきまえるべき事は、力の非対称性です。この時のイスラエルは、圧倒的に非力でした。政治的にも軍事的にも、すでに滅亡したイスラエルがバビロンに復讐することは実際上は不可能です。対等な力を持つ者同士の間の言葉ではありません。
もう一つには、復讐を求める詩編の祈りの言葉もそうですが、イスラエルや預言者にできたのは、祈ることだけです。復讐は神に属することであって、実際に手を下さすのは自分たちではありませんでした。そして、祈るだけというのは、言葉を換えれば神に委ねるということです。自分たちのこれからも、敵との関わりも、神様にすべてを任せる。私たちはそのようにして神様のもとに逃れていきます。

2019年10月25日金曜日

2019年10月25日(エレミヤ書48〜49)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書5:19~47、エレミヤ書48~49

エレミヤ書48~49;
モアブ、アンモン、エドム、ダマスコ、ケダルおよびハツォルの諸王国、エラムへの主の言葉がエレミヤの口を通して語られます。主は、ただイスラエルの神であるだけでなく、全地の主でいらっしゃるという事実に改めて気づかされます。これらの諸国も、神がお造りなった世界にあります。もちろん、私たちの国も。まだ旧約の時代なので、新約を知っている私たちの感覚ではなかなか捉えきれないようなところもあるかも知れませんが、しかし何よりもまずは主なる神様が異邦の国々をも治める方だという事実に目を向けたいと思います。
私たちに引き寄せて言えば「キリスト教は西洋の宗教だ」という考えをしない、ということにもなろうかと思います。確かにローマに福音が届けられて以来、教会は長いことヨーロッパに根ざして歩んできました。しかしそもそもアブラハムは中央アジアの辺りから出てきていますし、イスラエルは中近東です。いや、もっと根本的に、神様が世界の主でいらっしゃるということを私たちはもっと重んじるべきです。ですから、基本的に、神の民イスラエルが問われていることは、すべての人が同じように問われることでもあるのではないでしょうか。
「逃げよ、自分の命を救え。しかし、あなたがたは荒れ野の中のアロエルのようになる。自分の業と宝に頼ったので、あなたもまた占領される」(48:6~7)。私たちは自分の命を救うために、一体何に頼るのでしょう。神様は、私の業と宝に頼れ、とおっしゃっているのではないでしょうか。神の御許にこそ、私たちの救いがある。それは、誰にとっておも同じ事です。ここに救いがあります!ここに私たちの幸いがあります!私たちは、すべての人のための、キリストの救いの言葉を託されています。

2019年10月24日木曜日

2019年10月24日(エレミヤ書46〜47)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書5:1~18、エレミヤ書46~47

エレミヤ書46~47;
前の章から時代は遡り、ユダの信仰の改革者ヨシヤ王の少し後の時代です。ヨシヤはエジプトのファラオ・ネコとの戦争に敗れて死にました。しかしネブカドレツァル王率いるバビロンがエジプトを打ち破ります。ここにあるのは、この出来事についての言葉です。
エレミヤ自身、ヨシヤ王にはとても期待していました。ところがその期待が無残にも打ち砕かれた。その後、ユダは、信仰的にも政治的にも転落の一途をたどりますから、まさに分水嶺を悪い方に進んでしまった、ということになるでしょう。悪い方への変化が顕著になり始めた時代の言葉です。この時にエレミヤが語ったのは「だからあなたは恐れるな、わが僕ヤコブよ、おののくな、イスラエルよ。私はあなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から救い出す」(46:27)という言葉でした。希望があるから神を信頼しよう、と言ったのです。イスラエル自身には、外面的にも内面的にも希望は失われていました。エレミヤ自身、そのことを深く嘆いていました。しかし、神様に希望をかけよう、神様に立ち帰ろうと心を込めて説得しました。
私たち教会が今語るべきも、同じ言葉だと思います。「ヤコブは帰って来て、平穏の内に安らぎ、脅かす者はいない。あなたは恐れるな、わが僕ヤコブよーー主の仰せ。私があなたと共にいるからだ」(27~28節)。神様に立ち帰って平安を頂こう、ここにこそ平和がある、教会はそう語ります。
エジプトは、当時とても繁栄していました。捕囚が始まった後、ユダに残った人が難民になって身を寄せたいと考えたことも、当時の時代状況からしたら故なしのことではありません。大国で安心して暮らしたい。しかし、私たちの真の平穏は、主にある。主を知り、主を崇めるとき、私たちは本当に安らかに、隣人と共に生きることができるのです。

2019年10月23日水曜日

2019年10月23日(エレミヤ書44〜45)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書4:31~54、エレミヤ書44~45

エレミヤ書44~45;
第44章に記録されているエレミヤの預言は、43:8によると、タフパンヘスで語られた言葉です。これはエジプトの地名ですので、エレミヤはバビロンを恐れてエジプトへ下ってしまった人たちと一緒に行ったようです。第45章以降はこれよりも前の時代の言葉ですので、第44章がエレミヤの最後の預言です。エレミヤはエジプトで消息を絶ちます。
最後は、神様の言葉を無視してエジプトに下った事に対する罪の指摘がなされています。「なぜ、あなたがたは寄留するためにやって来たエジプトの地で、自分の手の業によって私を怒らせ、他の神々に香をたくのか」(44:8)。エレミヤが、自分に与えられた人生のすべてをかけて語り続けたことは、まことの神だけを神としてあがめるということです。エレミヤも、他の預言者たちも、結局彼らが言ったことはこの一点に尽きます。私たちは、一体誰を神としてあがめているのでしょうか。今、この時代のこの国に生きる者として、神様から問われます。
「すると、自分の妻たちが他の神々に香をたいているのを知っている男たち、大集団で立っている女たち、さらにはエジプトの地と上エジプトに住む民がこぞってエレミヤに応えて言った。『あなたが主の名によって私たちに語った言葉のことで、あなたに聞き従うわけにはいきません。私たちは口に出した言葉どおりにすべて必ず行い、天の女王に香をたき、注ぎの供え物を注ぎます。私たちは、先祖も王も高官も、ユダの各地の町やエルサレムの巷でそうしてきました。私たちはパンに満ち足り、幸せで、災いを見ることはありませんでした』」(15~17節)。
聖書が見ている罪の根は、ここにあります。神ならぬものを神とすることです。私たち人間は、パンため、満ち足りて幸せに生きるために、簡単に神ならぬものを神としてはばからない。そこに罪があります。皆がそうしているから、古式ゆかしい伝統だから、日本人だから、文化だから、・・・。いくらでも言い訳は挙がってきますが、主なる神様が私たちに求めておられるのは、「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない」という第一戒に示された御心なのです。

2019年10月22日火曜日

2019年10月22日(エレミヤ書42〜43)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書4:1~30、エレミヤ書42~43

エレミヤ書42~43;
バビロンに滅ぼされたイスラエルを監督していたゲダルヤが殺され、バビロンの怒りを恐れた人々はエジプトへ下ることにしました。エジプトは大国ですから、謂わば難民として身を寄せるということです。彼らはエレミヤのところへ来て言いました。「私たちのため、またこの残ったすべての人のために、あなたの神である主に祈ってください。ご覧のとおり、大勢の中から僅かに私たちだけが残ったのです。あなたの神である主が私たちに、歩むべき道、なすべきことを示してくださいますように」(42:2~3)。そして、彼らは言います。「私たちは必ず、あなたの神である主があなたを遣わして私たちに語られる言葉のとおり、すべて実行します。良くても悪くても、私たちがあなたを御もとに遣わす私たちの神である主の声に聞き従います。私たちの神である主の声に聞き従うのは幸せになるためです」(5~6節)。
ところが、実際にエレミヤが「もしあなたがたが、どうしてもエジプトへ行こうと決意し、そこに行って寄留するなら、まさに、あなたがたが恐れている剣がエジプトの地であなたがたに追いつき、心配している飢えがエジプトで追い迫り、あなたがたはそこで死ぬ」(15,16節)と預言すると、彼らはそれを決して受け入れようとはせず、拒みました。「かレアの子ヨハナンとすべての将軍、およびすべての民は、『ユダの地にとどまれ』という主の声に聞き従わなかった」(43:4)。
かつて、他の所で見たのとほとんど同じやりとりです。王の前に出たエレミヤ。人々に語り続けてきたエレミヤ。かつても、エレミヤを通して語られた神の言葉は拒否され、人々は自分の聞きたいことを預言者に言わせようとし、思い通りにならないときには怒り、迫害しました。私たちは神様の御言葉、聖書の御言葉をどう聞くのか。迫害されても御言葉を語り続けた一人の預言者の存在が、私たちに問いかけています。

2019年10月21日月曜日

2019年10月21日(エレミヤ書40〜41)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書3、エレミヤ書40~41

エレミヤ書40~41;
陥落したエルサレムで、エレミヤはカルデア人の手で釈放されることになりました。「そこで、私は今日、あなたに手にある鎖からあなたを解き放つ。もし、あなたが私と共にバビロンに来るのが良いと思うならば、来るがよい。私があなたの世話をしよう。一緒に来るのがよくなければ、やめるがよい。目の前に広がっているこのすべての地を見て、あなたが良いと思い、正しいと思う所へ行くがよい」(40:4)。こうしてエレミヤは、イスラエルの地に残ることになりました。彼はミツパにいるゲダルヤという男のところへ行ったのでした。
このゲダルヤという人は、バビロンが占領したユダに配置した総督です。ゲダルヤは、バビロンの王に仕えることを恐れず、この地で幸せになろうと民を説得します。しかし、占領軍の手先と彼を見た旧ユダ国の過激はたちは、ゲダルヤを殺し、クーデターを画策した。その作戦は一部成功し、ゲダルヤは暗殺されてしまったのです。「その時、ネタニヤの子イシュマエルと、彼と共にいた十人の部下は、立ち上がって、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤを剣にかけて打ち殺した。イシュマエルは、バビロンの王がその地の監督を委ねた者を殺した」(41:2)。これに対して親バビロン派のヨハナンらはイシュマエルに抗戦しますが、結局、バビロンの怒りを恐れてエジプトに下ることにしました。(その続きは、明日です。)
今日は、戦争に負けた後の瓦礫の中での混乱を描いている章です。皆が正しいと信じることをして、混乱が深まっていった様子が描かれています。今、私たちは、インターネットの普及などもあって誰もが声を上げられるようになりました。声なき者が声を得たことは基本的に良いことだと思います。しかし、なぜか混乱も深まっています。私たちは、自分が信じる正しさから抜け出せなくなってしまいました。そして「正しさ」は相対的なので、何が正解なのかは人によって違う。「正しさ」は混乱を招きます。。
具体的に私たちがどうしたらいいのかは、難しいところです。ただ、ここに描かれたエレミヤのあり方は、私たちへのヒントになると思います。エレミヤは、もともと、バビロンに移住してそこで根を張って生きろと言い続けてきました。主の怒りを受け入れ、バビロンでの新しい生活を受け入れろ、と。必ず神が回復してくださるときが来るから、と。しかし、実際に捕囚の時を迎えたとき、エレミヤ自身は瓦礫の中に留まりました。瓦礫の中で絶望している民のもとに残りました。エレミヤは、一番の貧乏くじを選びました。彼は自分の正しさに生きるのではなく、隣人に神の言葉、福音の言葉、慰めの言葉を届ける道を選んだのだろうと思います。

2019年10月20日日曜日

2019年10月20日(エレミヤ書38〜39)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書2、エレミヤ書38~39

エレミヤ書38~39;
エレミヤはエルサレムにとって厳しい預言をし、ここでも逆恨みを買います。エレミヤの言葉を聞いた高官たちは王に訴えました。「どうか、この男を死刑にしてください。あのようなことを人々に語り、この都に残っている戦士とすべての民の士気を挫いているからです。この民のために平和を求めず、むしろ災いを求めているのです」(38:4)。結局、彼は水溜に放り込まれてしまいました。
この水溜というのがどういう場所なのか、私にはよく分かりません。ただ「綱でつり下ろした」と言っているので、縦穴なのでしょう。直径どれほどの大きさなのでしょう。いずれにしても、深い穴蔵の中に押し込められて、泥の中に沈められてしまいました。その後王に助けられますが、「監視の庭」というところに留めおかれます。ゼデキヤ王は心底エレミヤを憎んでいたわけではないらしく、その言葉が気にはなっていたようです。ゼデキヤはエレミヤを殺すことなく、都のパンがなくなるまで、エレミヤの所へパンを届けさせました。エレミヤは、エルサレム陥落をこの監視の庭で迎えることになります。
レンブラントの作品にエルサレム陥落の時の預言者エレミヤの絵があります。悲しみと疲れに打ちひしがれたエレミヤにかすかな光が当てられ、画面の奥には、どうやら焼け落ちているエルサレムとおぼしき都が描かれています。預言者の表情が、すべてを物語っているかのようです。自分の命を狙われながら、神様に泣き言を言いながら、それでも神の言葉を語り続け、神に立ち帰れと訴え続けた預言者は、今、何を思うのでしょうか。
神は、そんな一人の預言者になおおっしゃいます。「私は必ずあなたを助け出す。剣に倒れることはない。あなたの命はあなたの戦利品となる。あなたが私を信頼したからであるーー主の仰せ」(39:18)。エレミヤは、ただ主だけを信頼する恵みにあずかったのです。

2019年10月19日土曜日

2019年10月19日(エレミヤ書36〜37)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書1:29~51、エレミヤ書36~37

エレミヤ書36~37;
エレミヤ書の後半はいろいろな時期の預言が出てくるので少し混乱しますが、今朝の36~37は、名君ヨシヤ王の後の時代のことです。基本的な背景としては、エレミヤはヨシヤに大変期待していました。しかしヨシヤはエジプトとの戦争で戦死し、道半ばでヨシヤを中心とした信仰復興運動は終わります。その後の王たちはどの王たちも神に従わないという点で大同小異でした。今日の第36章はヨヤキム王の時代、第37章はゼデキヤ王の時代。列王記を見ると、二人とも評価は同じで彼らは「主の目に悪とされることをことごとく行った」とあります。
彼らは、自分たちの聞きたいことにしか耳を傾けませんでした。先に第37章から見ると、こうあります。「主はこう言われる。『カルデア人は必ず我々のもとから立ち去る』と言って、自分たちを欺いてはならない。彼らは立ち去らないからだ」(37:9~10)。カルデア人とはバビロン人のことです。列王記を見ると、まさにゼデキヤの時代にエルサレムは陥落し、ユダはカルデア人の手で滅ぼされます。その前の時代から、もう国は持ちこたえられない状況でした。それでも王たちは根拠のない希望的観測をのべ、甘言をもって自分たちを欺く偽預言者の言葉を好んだ。この期に及んで、自分たちは大丈夫だと正常性バイアスが働いていたのかも知れません。人間の心の動きとしては、よく分かるところもあります。彼らは現実を見ず、神の言葉を無視し、あまつさえ、エレミヤはカルデア人に投降して自分だけ助かろうとしているとまで言ってのけた。そして、エレミヤを捕らえました。
第36章に戻ると、このような姿勢を象徴する事件が起きていました。エレミヤの言葉は彼の書記であったバルクが口述筆記していました。そのエレミヤの言葉巻物が読まれたとき、王宮の書記官たちはそれを畏れました。しかしヨヤキム王はその言葉を聞くと、聞いた側からその巻物を切り裂いて暖炉にくべてしまいました。「このすべての言葉を聞きながら、王もそのすべての家臣たちも恐れを抱かず、衣服を裂こうともしなかった」(36:24)。聞きたい言葉にしか耳を傾けようとせず、聞きたくない言葉は、それが神の言葉であろうとも、火で燃やして殺してしまったのです。
私たちに語りかける神様の御言葉を、私たちはどう聞くのでしょうか。私たちに耳障りな言葉にこそ、本当の救いがあるのかも知れません。何しろ、あの「新しい契約」(31:31)を告げてくださったのと同じ神様の御言葉なのですから。

2019年10月18日金曜日

2019年10月18日(エレミヤ書34〜35)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書1:1~28、エレミヤ書34~35

エレミヤ書34~35;
ゼデキヤ王がエルサレムにいるすべての民と契約を結んで奴隷の解放を宣言した後に、主からエレミヤに臨んだ言葉。その契約は、各自がヘブライ人の男女の奴隷を自由の身として去らせ、誰であれ同胞であるユダの人を奴隷とはしないというものであった。この契約に加わった高官とすべての民は、それぞれ男女の奴隷を自由の身として去らせ、再び奴隷とはしないということを聞き入れた。彼らは聞き入れた上で奴隷たちを去らせた。しかしその後、彼らは態度を変え、いったん自由の身として去らせた男女の奴隷を連れ戻し、彼らの男女の奴隷として仕えさせた。(34:8~11)
そもそも、レビ記25:39を読むと、イスラエルの中では同胞を奴隷としてはならないとされています。しかし、そのような律法も形骸化していたようです。異邦人を奴隷とする場合も、七年経ったら解放しなければなりませんでした。今回のゼデキヤと民との契約というのは、この七年目の定めを実行に移そうとしたのかも知れません。しかし、実際にはかけ声だけに終わり、実行には移されませんでした。
明らかに、奴隷を解放することが惜しくなったからです。他人を奴隷として働かせることに味を占めれば、もう奴隷なしの生活は考えられなくなってしまう。それが人間の罪の現実であるのではないでしょうか。
第35章にはレカブ人という人たちが登場します。彼らはぶどう酒を飲まず、土地を所有することもなく、天幕に住んでいたと言います。列王記下10:15に、ここに名前が挙がっているレカブ人ヨナダブが出てきます。彼はイエフ王と共にバアル預言者と祭司を滅ぼした人物です。彼に命じられたとおり、レカブ人は忠実に生きてきました。主なる神様は、そのことをとても喜ばれました。それに引き換え、ユダとエルサレムの人々は忠実ではなかった、ということが指摘されています。
レカブ人は、どうやらカインの末裔のようですが、はっきりしたことはよく分かりません。ただ、異邦人であることは確実です。奴隷を手放せないユダヤ人、神に忠実になろうとしなかったユダヤ人。そして、神に忠実であったレカブ人。結局、どういう国籍や民族性、文化なのか、そういったことは神様の前に大きな意味を持たないようです。むしろ、主に従い、隣人を愛することを、神は喜んでくださるのです。

2019年10月17日木曜日

2019年10月17日(エレミヤ書32〜33)

今日の通読箇所:ペトロの手紙二3、エレミヤ書32~33

エレミヤ書32~33;
エレミヤの故郷アナトトから彼の親戚筋の人が来て言いました。「ベニヤミンの地のアナトトにある私の畑を、どうか買い取ってください。あなたには主要県と買い戻す権利がありますから、あなたが買い取ってください」(32:8)。イスラエルでは土地に家名を残すために、何かの事情で土地を売るときには同じ家の者がそれをしました。アナトトから来た人は、これに基づいて「私の土地を買うべきはエレミヤよ、あなただ」と主張したわけです。エレミヤは神様からあらかじめこういう人が来ると言われていましたので、神様からの言葉と受け止め、その土地を買いました。
しかし、エレミヤは、もうユダの国が滅びゆくことを知っていました。カルデア人の脅威が迫っている。いや、エレミヤに畑を売りつけに来た人の目にだってもう絶望的な状況は明らかなので、少しでも土地を現金化しておきたいと考えたのかも知れません。
エレミヤはカルデア人について、神に向かってこう言っています。「今や、この都を占領しようとして、塁が築かれました。剣、飢饉、疫病のゆえに、都は攻撃しているカルデア人の手に渡されようとしています。あなたの語られたことは実現しました。ご覧のとおりです。主なる神よ、それでもあなたは私に、『銀で畑を買い、証人を立てよ』と言われました。都がカルデア人の手に渡されようとしているにもかかわらず」(24,25節)。アナトトの畑の購入は、先行投資としては究極的に無駄遣いです。
しかし、人間の尺度からしたら絶望しかないところにも、神様は新しい出来事を起こしてくださいます。「しかし、私はこの都に回復と癒やしをもたらし、彼らを癒やして、確かな平和を豊かに示す。そして、ユダとイスラエルの繁栄を回復し、彼らを初めの時のように立て直す。私に対して犯したすべての過ちから彼らを清め、彼らが私に対して犯し、背いた過ちのすべてを赦す」(33:9)。「その日が来るーー主の仰せ。私は、イスラエルの家とユダの家に語った恵みの約束を果たす。その日、その時、私はダビデのために正義の若枝を出させる。彼は公正と正義をこの地に行う。その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに暮らす。この都は『主は我らの義』と呼ばれる」(14~16節)。
人間的な尺度でみれば、希望は残されていないし、絶望しかない。土地を持つよりも打った方が賢い状況だったのでしょうし、買ったエレミヤは愚か者と見られたかも知れません。しかし、主の約束、回復の約束を信じるものは、他の誰も見ない希望を見るのです。私たちは人間として回復しうる根拠はないけれど、神はご自身を懸けた約束のゆえに、私たちを必ず救ってくださいます。「その日が来る。」主はそう言われます。

2019年10月16日水曜日

2019年10月16日(エレミヤ書30〜31)

今日の通読箇所:ペトロの手紙二2、エレミヤ書30~31

エレミヤ書30~31;
「その日が来るーー主の仰せ。私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ」(31:31)。主が新しい契約を結んでくださる日が来る、と言われます。イスラエルの家、ユダの家と契約を結ぶ日が。何気なくイスラエルとユダが並べられていますが、思えば驚くべき事です。イスラエルはすでに100年以上前に滅んだ国です。いや、ユダもすでに滅んでいます。もう滅んだものたちをもう一度立たせ、神との新しい契約を結ぶ当事者にする、と主は言われます。
「それは、私が彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に結んだ契約のようなものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らは私の契約を破ってしまったーー主の仰せ」(32節)。今日は第30章から読んでいますが、ここにはイスラエルの家、ユダの家の回復について語られています。神の民の回復と救いは、彼らの良い行いや民の決心によっては成し遂げられない、ということではないでしょうか。
「その日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれであるーー主の仰せ。私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。もはや彼らは、隣人や兄弟の間で、『主を知れ』と言って教え合うことはない。小さな者から大きな者に至るまで、彼らは皆、私を知るからであるーー主の仰せ。私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない(33,34節)」。主が私たちを赦し、私たちの罪を忘れてくださるのでなければ、どうして私たちは回復されうるのでしょうか。私たちの心に、主への愛と信仰を書き付けて頂くのでなければ、どうして私たちは主に向かって生きることができるのでしょうか。私たちは祈ります。「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え」と。主ご自身が私たちを救ってください、私たちを憐れんでください。私たちの今日一日が、そのように主に祈りつつ歩む一日でありますように。

2019年10月15日火曜日

2019年10月15日(エレミヤ書28〜29)

今日の通読箇所:ペトロの手紙二1、エレミヤ書28~29;

エレミヤ書28~29;
エレミヤはバビロンに捕囚された同胞に手紙を書き送りました。「イスラエルの神、万軍の主は、私がエルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に、こう言われる。家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べなさい。妻をめとって息子、娘をもうけ、息子には妻を与え、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そこで増えよ。減ってはならない。私が、あなたがたを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい(29:4~7)」。
受け取った人の気持ちを考えてみると、どうなのでしょうか。祖国は長い苦しみの末に戦争に敗れ、国家として崩壊し、人々は遠い外国に連れて行かれてしまいました。その捕囚先に来た手紙に、捕囚の期間は長いからしっかりと根を張り、次世代もそこで生きていけ、と言われているのです。あんまりにも人の気持ちを考えていないと、とても傷つくのではないでしょうか。
対してエレミヤと対決したハナンヤは、バビロン何ほどの者ぞ、神が助けてくださると言って、人々が言ってほしい言葉を預言します。しかしそれは主から出た言葉ではない、とエレミヤは主張します。私たちはこの後の歴史を知っているので、真実はまさにエレミヤの言うとおりだと分かります。しかし当事者に身を置いたとき、聞きたいのはハナンヤの言葉であって、エレミヤの言葉ではないのではないでしょうか。
しかし、主は言われます。自分たちの聞きたい言葉だけを聞いたときに何が起こるのか。「私がわが民に行う恵みの業を見る者もいなくなる。彼が主に逆らって語ったからである(29:31)」。私たちの願望から生まれる言葉は、私たちの想像の域を超えることがありません。しかし神様の起こしてくださる救いの御業は、私たちの思ってもみなかった、私たちの想像を完全に超えた、広くて大きく、すばらしいものです。いつでも、そうです。だから、私たちは自分の願いの殻の中に閉じこもってはならないのです。神様は、時に私たちの罪を糾弾し、聞きたくないことを聞かせます。しかしそれは私たちを試し、悔い改めさせ、大いなる救いに導き入れるためのプロセスです。その証拠に、私たちの誰も思いつかなかった救い主、神の独り子という救い主が、私たちのところへ来てくださいました。「こうして、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるのです(二ペトロ1:11)」。

2019年10月14日月曜日

2019年10月14日(エレミヤ書26〜27)

今日の通読箇所:ペトロの手紙一5、エレミヤ書26~27

エレミヤ書26~27;
神殿で、エレミヤが神に命じられたことを人々に語りました。「主はこう言われる。もし、あなたがたが私に聞き従わず、私があなたがたの前に置いた律法に従って歩まず、繰り返しあなたがたに遣わした私の僕である預言者たちの言葉に聞き従わないならばーあなたがたは聞き従わなかったがー、私はこの神殿をシロのようにし、この都を地のすべての国々の呪いの的とする(26:4~6)」。シロというのはかつてはサムエルが活躍した場所であり、神の箱が置かれた祈りの家でした。しかし、今はもうその機能を果たしていません。つまり、シロのようにするというのは、エルサレムのこの神殿を神は捨ててしまう、という裁きの警告です。
エレミヤのこの言葉は、激しい反発を招きました。「祭司と預言者たちは、高官たちとすべての民に向かって言った。『この人には死刑の判決を。彼は、あなたがたが自分の耳で聞いたように、この都に敵対する預言をしたからである』(11節)」。エレミヤの語る裁きへの警告を受け止めることなく、その発言は反エルサレム的だと言って断罪し、預言者も、預言者が語った言葉も、殺しにかかったのです。
第二次世界大戦のとき、ナチに抵抗した教会は弾圧されました。ナチやヒットラーに反対することは国家に対する反逆だと考えられました。その時、日本では、ホーリネス教会が国家の弾圧を受け、何人もの牧師たちが殉教しました。お上に逆らうものは国賊、売国奴と考えられていた時代です。今、私たちの国はどうなのでしょうか。今、巷では「反日」という言葉すら息を吹き返してしまいました。私たちは、一体誰に従うのでしょう。
エレミヤは迫害され、エレミヤと同じように誠実に預言をしていた預言者ウリヤは殺されました。神はもはやバビロンの侵略を甘んじて受けろとまで言います。エレミヤの言葉は、自国を愛する人たちにとって快いはずがありません。エレミヤがしたように、今日私たちが神さまをまことに神様らしく崇めて生きるとは何を意味しているのでしょうか?

2019年10月13日日曜日

2019年10月13日(エレミヤ書24〜25)

今日の通読箇所:ペトロの手紙一4、エレミヤ書24~25

エレミヤ書24~25;
預言者エレミヤは訴えます。「ユダの王、アモンの子ヨシヤの治世第十三年から今日までこの二十三年間、主の言葉が私に臨み、私は繰り返し語り続けてきたのに、あなたがたは聞き従わなかった。主は僕であるすべての預言者を繰り返し遣わしたが、あなたがたは聞かず、耳を傾けようともしなかった。そこで言われた。『さあ、おのおの、その悪の道から、あなたがたの悪行から立ち帰り、主があなたがたとあなたがたの先祖に与えた土地に、とこしえに住め。あなたがたは他の神々に従い、それに仕え、それにひれ伏してはならない』(25:3~6)」。しかし、人々はなおも耳を傾けようとはしませんでした。そこで、決定的な裁きの言葉が下されます。「私は、彼らの喜びの声と楽しみの声、花婿の声と花嫁の声、挽き臼の音、灯の光を絶えさせる。この地はすべて廃墟となって荒れ果て、これらの国民はバビロンの王に七十年間仕える(25:10~11)」。こうして、バビロンに捕囚されるということが、決定的な仕方で預言者の口から語られたのです。
私はこの御言葉を読んで、今日の新約の通読箇所として指定されているペトロの手紙の御言葉が描き出されているように思いました。「キリストは肉に苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた人は、罪との関わりを絶っているのです。それは、もはや人の欲望によってではなく、神の御心によって、肉における残りの生涯を生きるためです(ペトロ一4:1)」。苦しみを受けたとき、それがキリストの苦しみに与っているのだと受け止めることができれば、その苦しみはむやみに苦しいだけのものではなくなります。私たちをかつての罪の生活から清める試練になります。捕囚という現実が迫るユダの民にとって、この苦しみはどういう意味を持つのでしょうか。私たちの苦しみの現実は、私たちにとっていかなる意味を持つのでしょうか。「すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が崇められるため(ペトロ一4:11)」に、私たちは私たちの「今」を受け止めなおすことができるのです。

2019年10月12日土曜日

2019年10月12日(エレミヤ書22〜23)

今日の通読箇所:ペトロの手紙一3、エレミヤ書22~23

エレミヤ書22~23;
エレミヤ書には厳しく罪を指摘する言葉がたくさん出てきます。読んでいると、胸が苦しくなります。ここで語られている言葉が、どれも身に覚えがあるからこそ、ただ読み過ごすことができません。
「万軍の主はこう言われる。あなたがたに預言する預言者たちの言葉を聞いてはならない。彼らはあなたがたを空しいものにしようとしている。彼らが語るのは自分の心の幻であって、主の口から出たものではない。彼らは私を侮る者たちに向かって『平和があなたがたに臨むと主は語られた』と常に言う。また、かたくなな心のままに歩むすべての者に向かって『あなたがたに災いは来ない』と言う(23:16~17)」。
偽預言者たちは安易な慰めや、罪の赦しなき平和を告げるが、それは彼らの心の幻に過ぎない、と言います。主が語れたことではない。心の幻は、心に秘められた願望と言ってもいいのではないでしょうか。私たちが神様にこういうことを言ってほしいという願望が、このような偽預言者の口を動かすのです。自分の願うとおりの言葉を待っていると指摘されてしまうと、もう二の句を告げない思いになります。
しかし、私たちを救うのは、私たち自身ではありません。私たちが不真実であり、不誠実であるにも拘わらず、神様は私たちを救ってくださいました。「その日が来るーー主の仰せ。私はダビデのために正しい若枝を起こす。彼は王として治め、悟りある者となり、この地に公正と裁きを行う。その日には、ユダは救われ、イスラエルは安らかに暮らす。彼の名は『主は我々の義』と呼ばれる(23:5~6)」。神が立ててくださる王に治めて頂かなくては、私たちに真実が訪れることはない。私たちの不正義や不真実とは関わりなく、しかしその罪から私たちを救うために来てくださった方によらなければ、私たちが救われることはない。そして、神はそのような救い主を、私たちのためにお送りくださったのです。私たちのまことの王、キリストを。

2019年10月11日金曜日

2019年10月11日(エレミヤ書20〜21)

今日の通読箇所:ペトロの手紙一2、エレミヤ書20~21

エレミヤ書20~21;
第20章冒頭に登場する主の神殿の責任者で監督者でもある祭司イメルの子パシュフルという人が、エレミヤに預言をやめさせようと実力行使に打って出ます。エレミヤを足枷につなぎました。さらに、第21章では、ユダのゼデキヤ王がバビロンのネブカドネツァル王が攻め入ったときに、その脅威から救ってくれる神の言葉を預言しろと迫ります。どちらも、自分に都合の好い言葉を聞きたい、耳障りな言葉は聞きたくないといって神様を退けたという事件です。
その間に挟まれた20:7~18には、このような世間の要求と、神に語れと命じられたこととの間に苦しむ一人の預言者の苦悩と告白が記録されています。
「主よ、あなたが惑わしたので、私は惑わされました。あなたは私より強く、私にまさりました。私は一日中笑いものとなり、皆が私を嘲ります。私は語るごとに叫び、『暴虐だ、破壊だ』と声を上げなければなりません。主の言葉が私にとって、一日中、そしりと嘲りとなるからです(20:7~8)」。
エレミヤにとって一番問題なのは、神様でした。パシュフルやゼデキヤももちろん大問題ですが、それ以上に、神様に「語れ」と命じられていることが問題の根本でした。神に語れと言われて、それを実行に移すと、一日中笑いものにならざるを得ない。そしられ、仲間はずれにされてしまう。そうであるならば、エレミヤは思います。「私が、『もう主を思い起こさない。その名によって語らない』と思っても」・・・。エレミヤも、もういやだと思い、もう止めたいと悩みました。しかし、『そう思っても』、「主の言葉は私の心の中、骨の中に閉じ込められて、燃える火のようになります。押さえつけるのに私は疲れ果てました。私は耐えられません(9節)」。エレミヤの中で、神様の言葉が火のように燃え上がる。それを押さえつけることに、もう疲れ切ってしまった。そして、このようにも言わざるを得なくなります。「呪われよ、私の生まれた日は。母が私を産んだ日は祝福されてはならない(14節)」。まるでヨブのようなこの言葉は、深い絶望の言葉です。預言者が、このような深い淵に落とされ、呻きながら悲しみを口にしています。それは、神と人との間に立たされたものの苦悩です。
このエレミヤの苦しみ、呻きは、十字架のキリストの叫びに通じます。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」キリストは深く絶望した者がいる深い淵よりも、なお深く降られました。キリストが知らない絶望はない。キリストが届かない悲しみはない。キリストの苦しみは、私たちの罪が追い落とした苦しみだからです。キリストは、深い陰府のどん底にもおられます。

2019年10月10日木曜日

2019年10月10日(エレミヤ書18〜19)

今日の通読箇所:ペトロの手紙一1、エレミヤ書18~19

エレミヤ書18~19;
主からエレミヤに臨んだ言葉。「立って、陶工の家に下って行きなさい。そこで私の言葉をあなたに聞かせよう。」私は陶工の家に下って行った。見ると、彼はろくろで仕事をしていた。陶工は粘土で作っていた器を手で壊し、自分に気に入った他の器に作り替えた。その時、主の言葉が私に臨んだ。「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、私もあなたがたになしえないのだろうかーー主の仰せ。イスラエルの家よ、粘土が陶工の手の中にあるように、あなたがたも私の手の中にある。」(18:1~6)

この言葉を読んで、私は、自分が自分の価値をあまりよく分かっていなかったのだと気づきました。あまりにも自分を重く見過ぎていたと思いました。陶工からしたら、自分の作った器がよくない出来だとしたら、それが自分の名前で世に出回ってしまうことは恥です。だから壊してしまいます。あるいは、あまりよくない出来どころではなくて、穴でも開いていれば器の役に立ちません。そんなものはガラクタです。私が器としてどういう出来なのかは、私自身にはよく分かりません。その判断は、器自身にはできない。神様が判断することです。ですから、神様ご自身の評価に委ねるしかありません。私は、自分にこだわりすぎてしまって、作られた器としての分際を越えて、自分が陶工であるかのように思い込んでいたのではないか、と思わされました。
確かにエレミヤ書には厳しい裁きの言葉がたくさんあります。「私はこの都とそこに属するすべての町に、私が告げたすべての災いをもたらす(19:15)」。しかしそれは、闇雲に私たちを不幸にしようという神のたたりではありません。「彼らがかたくなになって私の言葉に聞き従おうとしなかったからである(15節)」というとおり、神様はご自分のもとに立ち返ってほしいという切なる求めを、私たちに向けておられます。私たちの真の幸いは、造られた者であることを否定して神様から自立することではなく、造られたものとして陶工の下にいることです。作られた者としての幸いは、ここにあります。

2019年10月9日水曜日

2019年10月9日(エレミヤ書16〜17)

今日の通読箇所:ヤコブの手紙5、エレミヤ書16~17

エレミヤ書16~17;
今日の冒頭に「主の言葉が私に臨んだ。あなたはこの場所で妻をめとってはならない。また、息子や娘を得てはならない(16:1~2)」という言葉があります。こういう預言者の行動を「象徴行為」と呼びます。第13章に亜麻の帯を岩陰に隠しておく、という不思議なエピソードがありました。これも象徴行為です。こういう行動は、言葉だけではなく預言者の行動や生き方そのものがしるしとして、預言としてのメッセージになるためになされることです。これから預言者を呼んでいくと、しばしば象徴行為が登場してきます。
エレミヤの場合、ここでは、結婚もせず子どもももうけないことでした。これは何を意味しているのか、どのようなメッセージなのか。続けてこのようにも言われていきます。「あなたは喪中の家に入ってはならない。嘆くために行ってはならない。私が、この民から私の平安を、慈しみと憐れみを取り去ったからだーー主の仰せ(5節)」。「私は、この場所から、あなたがたの目の前で、あなたがたが生きているうちに、喜びの声と楽しみの声、花婿の声と花嫁の声を絶やす(9節)」。このように、主なる神様がこの地から結婚や葬りといった人間の営みによる喜びも悲しみも取り去る、と言われています。それが神の裁き。それは彼らが「他の神々に従い、これに仕え、これにひれ伏し、私を捨て、私の立法を守らなかったためである(11節)」と言うのです。預言者エレミヤが結婚を禁じられたのは、身をもってその裁きを世に示すためでした。
私たちには私たちの罪の深刻さがよく分かりません。それは神様にしか分からないことなのかもしれません。「心は何にもまして偽り、治ることもない。誰がこれを知りえようか主である私が心を探り、思いを調べる(17:9~10)」。私たちの治ることのない「死に至る病(16:4)」は「命の泉である主を捨てた(17:13)」ことから始まります。私たちは、ただこう祈るだけです。「主よ、私を癒やしてください。そうすれば私は癒やされます。私を救ってください。そうすれば私は救われます(14節)」。アーメン。

2019年10月8日火曜日

2019年10月8日(エレミヤ書14〜15)

今日の通読箇所:ヤコブの手紙4、エレミヤ書14~15

エレミヤ書14~15;
預言者エレミヤは、主なる神様に祈ります。「私たちの過ちが私たちに不利な証言をしても、主よ、御名のために事をなしてください。私たちの背信は大きく、あなたに対して、私たちは罪を犯しました(14:7)」。エレミヤは民の罪を、わが罪として神の前で悔い改めの祈りをします。神を信じる一人の人の真剣な姿がここにあります。それは、プライベートな自分だけの世界の中に閉じこもるようなことではなくて、隣人のために一心に神様に向かう預言者としての姿です。
しかし、そうではない預言者もいたようです。「私は言った。『ああ、主なる神よ、預言者たちが彼らに言っています。「あなたがたは剣を見ず、飢饉があなたがたに臨むこともない。私は確かな平和を、この場所であなた方に与える」と。主は私に言われた。「預言者たちは、私の名によって偽りの預言をしている。私は彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、彼らに語ったこともない。彼らは偽りの幻と空しい占いと自分の心の欺きをあなたがたに預言しているのだ」』(13~14)」。偽りの預言者らは、自分勝手に主の名を騙って、民に安易な安心を預言します。しかし、主はそのようなことを語れたと言ったことはない、と彼らを断罪します。
偽りの預言者たちとエレミヤとの決定的な違いは、エレミヤが罪の悔い改めの祈りを自分の心を注ぎ出すようにして献げたのに対し、偽預言者が決してそのようにはしなかった、という点に見られます。エレミヤの一心に主に向かい、同胞のために御言葉を語り続けたあり方は、彼自身の心には大きな重荷になりました。「ああ、災いだ。私の母よ、あなたが私を産んだので、国中で私は争いの男、いさかいの男とされている(15:10)」。人々はエレミヤを憎み、呪いました。しかし、主の前に幸いとされるのは、エレミヤです。神様の前に到底立つことがゆるされない私たちの罪を神様の御前に悔い改め、罪の赦しの福音を砕かれた心で宣べ伝える者を、神は覚えていてくださることでしょう。この一人の預言者が、私たちを神の御前へと招いています。


2026年7月30日の聖句

自分の神を知る民は揺るがず行動する。(ダニエル11:32) 聖なる方、真実な方がこう言われる。「あなたは忍耐についての私の言葉を守った。だから試練の時に、私もあなたを守ろう。」(黙示録3:7,10) 今日の御言葉は「忍耐」と言います。必ず試練の時が来る。苦しみの時に忍...