先日、ある人の葬式に出席しました。その方は生前、綿密に自分の葬式の計画を立てていました。自分の葬式は教会で、礼拝として行ってほしい、と。私たちの葬式は、礼拝です。日曜日にしているように祈り、神を賛美し、聖書を読み、キリストの福音が説教がされます。私たちは死ぬ時にも希望がある。今回の葬式では出席者が皆でハレルヤ・コーラスを歌いました。ヘンデルのメサイアの中で、この曲はイエス・キリストの復活を祝う歌です。キリストの復活こそ、私たちの希望の源。滅びることのない福音です。その意味で、キリスト者の葬式にふさわしい歌なのだと感じ入りました。
「愛は決して滅びない」と言っています。愛は死を超える意味を持つ、ということでしょう。死も、私を神の愛から引き離すことはできない。ただ、コリント一第13章の語る「愛」は、もちろん神が私たちを愛してくださっているということでしょうが、わたしたち自身の愛のことでもあろうと思います。あなたもこのような愛に生きていると聖書は言う。しかし、私の愛は決して滅びないだなんて言うことができるのでしょうか?ここに「決して」という言葉がありますが、あるときペトロはこのように言いました。「たとえ、みんながあなたにつまずいでも、わたしは決してつまずきません(マタイ26:33)」。主イエスが十字架にかけられる前の晩のこと。この数時間後に何が起こったのか、私たちは知っています。ペトロの「決してつまずかない」は結局つまずき、倒れてしまいました。私たちは誰もが決して滅びない愛に憧れます。だから不滅の愛は古今東西さまざまな文学の主題にもなってきました。コリント一第13章も、うっかりするとこの言葉が持つ美しさにだけ心を捕らわれて、ただきれいな愛をほめたたえるだけで通り過ぎてしまうかもしれない。しかし、このパウロの言葉はただ美しいだけでなく、痛い言葉です。私の愛の実態がどんなに愛にかけ離れているのかを見せつけます。愛から遠いというのは、ただ自己卑下するだけでは済みません。愛にかけ離れている。それが私の罪だからです。私たちはそこから救って頂かないと、もうどうしょうもないのです。
8節には、預言や異言、知識というものが登場しています。これらはどれも当時の礼拝と関わりがあったのだろうと思います。預言は、今で言えば説教のことです。異言は人には分からない、特殊な言葉による祈りです。知識というのは神に関する特別な知識です。いわば私たちの信仰の営みの中でも特に大事なものです。しかし、それらはいずれ廃れると言います。なぜなら、それらは一部分のものだから。私たちの信仰生活の営みの素晴らしさが私たちを救うのではないのです。むしろ、私たちの振る舞いは幼子のようなものにすぎない。不完全で小さく、大人として振る舞えない幼子です。だから神の御心のすべてを知ることはできない。今は鏡に映ったものをおぼろに見ているだけです。金属製の鏡は像がクリアではなかったのでしょう。今は不完全でしかない。しかし、私たちはやがて知るようになる。私が神から知られているように、私も知ることになる。聖書では、しばしば「知る」と「愛する」は同じ意味で使われます。私は神の愛の広さ、長さ、高さ、深さを知らないが、やがて知るようになる。私が生きる愛は、私の内から沸き上がってくるのではなく、神が生かしてくださる賜物なのです。だから、私も愛に生きられると望みをもって信じることができるのです。