2023年12月31日日曜日

2023年12月31日の聖句

今週の聖句:
私の時は御手にあります。(詩編31:16a)

今日の聖句:
ほんの僅かな間、私はあなたを捨てたが、
深い憐れみをもって、あなたを連れ戻す。(イザヤ書54:7)
私たちの主イエス・キリストと、
私たちを愛し、私たちに永遠の慰めと確かな希望を、恵みによって与えてくださった神である私たちの父が、
あなたがたの心を慰め、
すべての良き業と言葉で強めてくださいますように。(2テサロニケ2:16~17)

私たちの主イエス・キリストと、私たちの父でいてくださる神の永遠の慰めと確かな希望。
これが2023年の最後、私たちが神の約束の言葉として聞く福音の言葉です。私たちの「時」は神の御手の中にあります。その事実自体が既に慰めです。例え私たちが、自分は捨てられていると思ってしまうときがあったとしても、それはほんの僅かな間です。この私のすべての「時」は神の手の中にあるから。神が私を慰めてくださるから。主イエス・キリストにある確かな希望が私たちに与えられているから。
主イエス・キリストという神からの光は、暗闇の中に輝いています。私たちが絶望と思うときにも、そこにはすでにキリストという光が輝いています。主イエス・キリストの恵みと平和の中で私たちはこの年を終えることができるし、このお方の永遠の慰めは私から離れることはない。キリストにあって与えられた希望はいつまでも確かであり続ける。キリストの恵みがあなたにありますように。祝福を祈ります。

2023年12月30日土曜日

2023年12月30日の聖句

(自分を誘惑したポティファルの妻へのヨセフの言葉)「一体どうしてそのような大それた悪事を働き、神に罪を犯すことができましょう。」(創世記39:9)
神は私たちを汚れた生き方ではなく、聖なる生き方へと招かれました。(1テサロニケ4:7)

性的な意味でも、その他の欲においても、現代は不道徳な時代だとよく言われるような気がします。確かにそれはその通りなのでしょうが、しかし他方では、いつの時代も変わらないことのようにも思います。
今日の旧約聖書の御言葉は、ヨセフという若者がポティファルという主人の家の奴隷として働いていたときのことです。主人の妻がヨセフを気に入り、ちょっかいを出した。不倫に誘い込もうとしました。こういうことは、洋の東西を問わず、あるいは時代に関係なく、どこででも起きていることのようです。そして、そういう関係がどこかロマンチックで魅力的なもののように言われるのは、人間の宿痾のような習性であるのだと思います。
ところがヨセフは彼女に調子を合わせることなく言いました。「一体どうしてそのような大それた悪事を働き、神に罪を犯すことができましょう。」その結果ヨセフはかなり困った状況に追い詰められることになってしまいますが、それはまた別の話。今日はこのヨセフの言葉そのものを考えたい。
ヨセフは、神様の御前で生きていました。神さまが自分をどのようにご覧になるかという一点に関心を持っていたようです。目の前にいる女主人の機嫌や、若者である自分の肉体的な欲求とか、その場の空気や雰囲気、そういうものに流されなかった。それは彼が特別に倫理的で高潔な人物であったから、というわけではななかったと思います。ポティファルの家に行き着くまでのヨセフの歩みを見てみると、そのことはよく分かります。彼は家族に対してずいぶん失礼な振る舞いをしてきました。しかしここに至ってヨセフがあのように言えたのは、ただ自分は神の前に生かされているのだということに気づいたからです。神の前に生きているのだから、神に対して罪を犯すことはできない。
私たちは、今日、誰の前に生きるのでしょうか。誰のまなざしの中に生きていくのでしょうか。

2023年12月29日金曜日

2023年12月29日の聖句

あなたの神、主のもとに立ち返るとき、
主は、あなたを捕らわれの身から連れ戻し、
あなたを憐れんでくださる。(申命記30:2,3)
時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。(マルコ1:15)

「時は満ち、神の国は近づいた。」主イエス・キリストはそう宣言して、福音宣教をお始めになりました。神の国は近づいた!主イエスがそう宣言なさったからには、神の国は私たちのところに来ている。もう、神の御支配が始まっている。私たちの目にはまだそれが見えません。私たちの目に映るところは、主イエスのおっしゃったこととは正反対の現実だけです。しかし、今こそ私たちは信じましょう。キリストが宣言した救いを。キリストが宣言した神の国の到来を。神の国は私たちが死んで初めていくことのできる極楽浄土ではなく、今ここで既に始まっているキリストの御支配のことです。
「悔い改めて、福音を信じなさい。」キリストはそうお命じになります。今日の旧約でも、「主のもとに立ち返るとき」と言われています。悔い改めるというのは、立ち帰るということです。キリストのもとに帰っていく。言葉を換えれば、本来いるべき場所に戻るということです。私たちは、本来、神の国に生きるべく命を与えられました。キリストの宣言した神の国を信じ、キリストと共に生きることが私たちにとっては本来自然な生き方です。だから、「立ち返る」とか「悔い改める」という言葉を使っているのではないでしょうか。私たちは私たちの一番自然に、伸び伸びと生きることのできる場所に帰っていく。主イエス・キリストの御許へと。
もうすぐ、2023年も暮れゆこうとしています。そんな今こそ、主の御許へ帰りましょう。主イエス・キリストが宣言した神の国へ。私たちのためのキリストの憐れみの御支配の中へ、帰っていきましょう。いや、主ご自身が私たちを捕らわれの身から連れ戻してくださっています。キリストの驚くべき救いの手に中に、私たちはもう既に抱き寄せられているのです。

2023年12月28日木曜日

2023年12月28日の聖句

あなたは家畜のために草を、人間の働きに応じて青草を生やす方。こうして主はパンを生み出す。(詩編104:14)
いつも、あらゆることについて、私たちの主イエス・キリストの名により、父なる神に感謝しなさい。(エフェソ5:20)

「こうして神はパンを生み出す。」良い言葉です。本当にその通りだと思います。主が家畜のための草を生やしてくださる。それだけではない。「人間の働きに応じて青草を」生やしてくださる。自然に野原に生えている草だけではなく、人間が働いて生やそうと思っている青草もまた、主の御力によって生えている。素晴らしい信仰告白の言葉であると思います。
現代社会では、食べ物の生産過程が消費者である私たちから見えなくなりました。食卓に並んでいる食べ物のために、一体どれだけの人がどのような労苦を裂いているのか、私たちはよく知りません。そのための想像力も自分に乏しくなってしまっていることを認めないわけにはいきません。たくさんの人の労苦の結実として、私が頂いている食事が整えられている。更にその根本は、神がそのための草を生えさせ、青草を育み、牛を育て、魚を養っていてくださる。私たちはたくさんの人たちの労苦と神さまの大きな恵み深い手の中で生かされています。私たちの命は神に支えられている。その感謝を私たちは忘れがちですが、実のところ、神に支えられている命であることは確かです。
「いつも、あらゆることについて、私たちの主イエス・キリストの名により、父なる神に感謝しなさい。」私たちに命を与え、また私たちを愛し、生かしてくださる神の恵みに、今日も感謝しましょう。ご飯を頂くときにも、また生活の一つひとつについて、神が私たちへの慈しみをもって整えてくださったことを覚え、神の恵みへの感謝をもって、今日の日を生きていきましょう。

2023年12月27日水曜日

2023年12月27日の聖句

私は初めであり、終わりである。私のほかに神はいない。(イザヤ44:6)
だから、こう祈りなさい。「天におられる私たちの父よ、御名が聖とされますように。」(マタイ6:9)

主イエス・キリストがお生まれになった夜、天の大軍が主なる神さまをたたえて歌いました。「いと高きところには、栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」この最初の夜に響いた歌声がこだまするかのようにして、主をほめたたえる賛歌が2000年間響き続けてきました。
「天におられる私たちの父よ、御名が聖とされますように。」私たちは天で響く賛歌に声を合わせるようにして、こう祈るのです。主の御名が聖とされますように。すべての舌が主のお名前をあがめますように。本当の意味で主の御前にひれ伏すときにこそ、地の平和が実現すると私たちは信じているからです。
「御名が聖とされますように。」私たちはこう祈るとき、目が天に上げられます。私たちの日常の営みだけでは向くことのない、天へ。私たちの人間同士の営みの中での比較ややりとり、競争、そのようなものから目を離し、聖なるお方の御名をあがめる。しかしこの天におられる方、聖なるお方は、私たちのところにまで御子を下らせてくださったお方でもあります。高い天におられ、聖なる御名をもってご自分を現される方が、私たちのような卑しい人間の肉をお取りになった。聖なるお方が卑賤の道をたどって、私たちの間に宿ってくださいました。
「御名が聖とされますように。」私たちはこう祈る度に、地に低くへりくだってくださった方をあがめます。飼い葉桶に生まれ、十字架にかけられた平和の君の御前に跪きます。まことの神、私たちの前に低く下ってくださった神、このお方を賛美し、崇めつつ、私たちの今日の歩みを営んでいきます。

2023年12月26日火曜日

2023年12月26日の聖句

私があなたの救い主、主であり、あなたの贖い主、力ある者である。(イザヤ60:16)
この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいて私たちのために与えられ、今や、私たちの救い主キリスト・イエスが現れたことで、明らかにされたものです。キリストは死を無力にし、福音によって命と不死とを明らかに示してくださいました。(2テモテ1:9~10)

主イエス・キリストがお生まれになった!
この出来事が明らかにしたこと、それは神の恵みであったと聖書は言います。永遠の昔から与えられた恵みです。私たちのまだ生まれない先に。いやそれどころか、この世界が造られる前、すでに現された恵みです。この世界は、私たちの命は、神の恵みを頂く器として造られました。この世界は神の恵みのために造られた。
クリスマスの日、計り知ることのできないほどの果てしない恵みが明らかになりました。永遠なる神さまがお定めになった恵み。神の恵みの事実が私たちの命の道筋を定める。
この神の恵みによって、キリストは死を無力にしてくださいました。死の牙を抜いてくださった。キリストの福音は、私たちの命は神の祝福の中にあると宣言します。キリストの福音は、神が死を滅ぼしてくださったと明らかにします。死すべき者を生かすために、主イエス・キリストがお生まれになったのです。
ですから、私たちは神の言葉を聞き続けます。「私があなたの救い主、主であり、あなたの贖い主、力ある者である。」このお方の永遠の祝福に私たちは招かれているのです。

2023年12月25日月曜日

2023年12月25日の聖句

主よ、私は押し潰される。
どうか私を守ってくださるように。(イザヤ38:14)
今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった。(ルカ2:11)

主の2023年のクリスマスを迎えました。御子のご降誕を心から感謝し、クリスマスの祝福が皆様お一人おひとりにありますようにと祈ります。御子はお生まれになりました。2000年前に私たちの間に宿った御子イエスこそ私たちの救いです。私たちと同じ肉をとり、私たちのひとりになって弱さを知り、苦しみや悲しみを覚えてくださいました。
「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」この「今日」は、2000年前のあの日のことであり、同時に、私たちがこの福音の言葉を聞く「今日」のことでもあります。御子は私たちがその御言葉に聞くときそこに共にいてくださり、私たちの間で福音を実現してくださっています。
「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」この方こそ私たちの主であり王である方、私たちの真の救い主。私たちを罪の闇から救い、死の縄目から解き放ち、私たちを神のものとして勝ち取ってくださったお方。キリストが来てくださったから、私たちはもはや死からさえも救われている。
「主よ、私は押し潰される。どうか私を守ってくださるように。」そうです。私たちは押し潰されてしまいます。しかし、その重荷がどんなに重く、私にのしかかるものがどんなに私を押し潰してしまいそうになっても、神が私を守ってくださいます。今、私たちが味わっている苦しみも悲しみも、それはキリストにあって永遠の祝福に至るための通路に他ならない。神が守っていてくださいます。
「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」あなたは救われました。主イエス・キリストがあなたを救ってくださいました。罪から。死から。主イエス・キリストという救い主の手は、私たちをしっかりと掴んで、決して離すことがないのです。

2023年12月24日日曜日

2023年12月24日の聖句

今週の聖句:
恐れるな。私は全ての民への喜びを告げる。今日ダビデの町に救い主がお生まれになった。(ルカ2:10b~11)

今日の聖句:
見よ、闇が地を覆い、密雲が諸国の民を包む。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。(イザヤ60:2)
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。(ルカ2:15)

闇が地を覆い、密雲が諸国の民を包む。
文字通り、今私たちが知っている世界の様相そのものです。地が闇に覆われてしまって、呑み込まれてしまったかのようです。諸国の民が密雲に包み込まれて、もはやその不自由から抜け出ることができなくなってしまったかのようです。
戦争が続いています。ニュースを見るたびに、心が痛みます。一体どうしたら平和が訪れるのか。見せかけの平和、誰かに屈従を強いたり、強者の横暴を黙認したりするだけの偽物の平和ではない。弱い人、貧しい人、病の人、外国人や寄留者、差別されている人も享受できるまことの平和は一体どこにあるのか。
私たちは、主イエス・キリストに示された神の愛を信じて待ち望みます。祈ります。主の輝きは全地を照らすのだ、ということを。キリストの平和はすべての人のための福音なのだ、ということを。
主イエスがお生まれになった夜、天使は言いました。「私は全ての民への喜びを告げる。」全ての民、です。ありとあらゆる人のためのキリストの平和の福音。私たちすべての者のところへ神が下さった良い知らせ。飼い葉桶の中の幼子に始まった福音の事実を、私たちも信じ、このお方に平和を求めて祈り続けるのです。

2023年12月23日土曜日

2023年12月23日の聖句

(主の言葉)私が喜ぶのは慈しみであって、いけにえではない。神を知ることであって、焼き尽くすいけにえではない。(ホセア6:6)
愛は律法を全うするのです。(ローマ13:10)

もしも自分の誕生日に、子どもや孫が似顔絵を描いてプレゼントしてくれたら、それはとても嬉しい贈り物になると思います。いくらお金がかかっていたり立派に見えたりしても、もしそこに心がこもっていなければそれほど嬉しくはないかもしれません。
「私が喜ぶのは慈しみであって、いけにえではない。神を知ることであって、焼き尽くすいけにえではない。」
主なる神さまは、私たちの心を求めておられるのではないでしょうか。私たちが真心から神さまを愛すること、そして何よりも神さまからの愛をまっすぐに信じることを願っておられるのではないでしょうか。神さまは、私たちが主イエスさまを大好きでいる、そんなこよなき愛を何よりも喜んでくださるお方です。
今年もアドヴェントの期間が少しずつ深まっていき、まさにクリスマスの祝いを迎えようとしています。主イエス・キリストが私たちのところへ来てくださいました。神の愛のしるしそのものでいらっしゃる方が、私たちの間に宿ってくださいました。キリストは私たちの間に来てくださり、私たちのための神の愛を宣言し、実現してくださいました。キリストこそ、神さまからの私たちへの愛の贈り物そのものでいらっしゃいます。
主イエス・キリストの愛を胸に刻む一日でありますように。私たちのために飼い葉桶にお生まれになった方を求め、このお方の愛の中に憩う一日の歩みでありますように。主イエス・キリストの恵みを祈っています。

2023年12月22日金曜日

2023年12月22日の聖句

あなたが主の声に聞き従わないならば、主の手があなたがたの先祖に下ったように、あなたがたにも下るだろう。(サムエル上12:15)
完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れずにいる人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人になります。このような人は、その行いによって幸いな者となるのです。(ヤコブ1:25)

今日の御言葉は、私たちにある種の戸惑いを呼び起こすのではないでしょうか。普段聞いている話とちょっと違う感じがするからです。私たちは神の恵みによってのみ、信仰によってのみ救われる。私たちはそう聞いているし、聖書によればそれは事実です。私たちを救うのは私たち自身の功績ではなく、ただ神の憐れみだけです。神が私たちを救ってくださるのであって、私たちが自分で自分を救うことができるわけではない。それは、とても大切な真理です。
このようなことを考えてもいいかなと思います。主イエスが失われた息子の譬え話をしてくださいました。ある父親の息子が、父から財産を譲り受けるとすぐに遠い国に旅立って放蕩の限りを尽くし、その後破滅してしまった。彼は自分の過ちを悔いて父のもとへ帰ります。父はまだ遠くにいる内に彼を見つけて、走り寄って抱き寄せ、再び息子として受け入れました。この息子は死んでいたのに生き返ったと言って大喜びしました。
この息子は、翌朝、どうやって目を覚まし、新しい一日をどう送ったのでしょうか。どうせ父は何をしても赦してくれると嘯いて自堕落な生活を送ったのでしょうか。父を更に悲しませることを気にもかけなかったのでしょうか。そうだとしたら台無しです。
救いとは、神さまの御許で、赦された者としてふさわしく生きることです。神の愛を頂いた者として生きることです。もしもその愛を裏切れば、神さまは悲しまれることでしょう。さらにそれだけではなく、自分という存在、つまり無条件で受け入れられ、愛され生きている私という存在を否定することでもあります。私たちは神に愛されている者として、どう生きるのでしょうか。
律法は私たちが神に救われた人生を生きるためのガイドラインであり指針であり、羅針盤です。神を信じて、私たちは新しくなった。それは神さまが私たちの内に始めてくださった恵み深い御業です。私たちは神を信じて新しい私、これまでで一番私らしい私にして頂いた。御言葉の光が、私たちをもっとも幸いな人生へと導き出しているのです。

2023年12月21日木曜日

2023年12月21日の聖句

私があなたがたの中に霊を与えると、あなたがたは生き返る。私はあなたがたを自分の土地に安住させる。その時、あなたがたは主である私を知るようになる。(エゼキエル37:14)
主の霊のあるところには自由があります。(2コリント3:17)

主の霊を頂くとき、私たちは主を知る。どうして私たちに、主がご自分の霊を送ってくださることなしに主を知ることができるでしょうか。主を知り、たった一言「父よ」と私たちが口にするとき、そこには主なる神さまご自身の霊のお働きがあります。
信仰は、私たちの内在的な力ではない。私たちの決心や強い心の賜物ではありません。神が下さるものです。神が与えてくださる、神の賜物です。主を求める心、信じる心、祈りたいという願い、それは神が与えてくださる聖霊のお働きです。私たちはどんなに拙くても、どんなにたどたどしくても、小さな祈りの言葉が与えられている事実に、主の霊がこの私にも働いてくださっていることの確かな証しを見ることが許されている。
「主の霊のあるところには自由があります。」神の霊を頂いた私たちは、自由です。自由な神の子です。奴隷ではない。言い換えれば、本当に自分らしく生きることができる。神さまの御名をあがめ、神を信じ、神の子として、私たちは生かされています。
聖霊は、私にもまた与えられていて、キリストとそのすべてのよき賜物にあずからせ、私を慰め、永遠に至るまで私と共にいてくださるのです。

2023年12月20日水曜日

2023年12月20日の聖句

主をたたえよ。主はあなたの過ちをすべて赦し、あなたの病をすべて癒やす方。(詩編103:2,3)
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(1ヨハネ4:10)

今日の新約聖書の御言葉に「宥めの献げ物」という言葉があります。旧約聖書のレビ記に、この献げ物について書かれています。欠陥のない雄牛を焼き尽くして献げる。それはその人自身の代わりに献げられるいけにえ、贖いとなる。その雄牛は切り分けられ、頭と脂肪が祭壇で焼かれます。「祭司はそのすべてを祭壇で焼いて煙にする。これは焼き尽くすいけにえである。すなわち、主への火による献げ物、宥めの香りである。(レビ1:9)」
この献げ物は、その人自身の代わりとして献げられます。自分自身を神さまに献げる象徴として、傷や欠陥のない雄牛、つまり最上のものを神さまに献げる。宥めというのは、その献げ物を焼くときの香りのこと。自分自身を献げるという徴の意味を持つ香りです。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」主イエスご自身が献げ物になってくださったのです。私たち自身の代わりとして、キリストが宥めの献げ物になってくださった。神が私たちをご自分のものとして贖うために、御子を与えてくださったのです。
これは、考えられないほどすごいことです。先ほどのレビ記では、私たちの持つ最上の物である雄牛を自分自身の代わりとして献げよ、と命じられていました。一番良い物を献げる。ところが主イエスさまは、私たちの持つ最上の物ではない。神さまのお子様です。神様ご自身が私たちのために宥めの献げ物を準備してくださった。なぜなら、私たちには十分な宥めを献げることができないからです。私たちはどんなに最上の物を準備しようとも的外れになってしまう。神への愛をどんなに真摯に献げようとも、私たちの愛は偽りでしかない。それが、私たちが罪人だということです。罪の存在である以上、私たちがすることはどこか必ずねじ曲がっている。だから、神ご自身が最上の宥めを準備してくださいました。私たちを罪から贖ってご自分のものとするために、神がすべてを準備してくださった。それがクリスマスに起こった出来事なのです。

2023年12月19日火曜日

2023年12月19日の聖句

主の目は正しき人に注がれ、その耳は彼らの叫びを聞く。(詩編34:16)
希望をもって喜び、苦難に耐え、たゆまず祈りなさい。(ローマ12:12)

苦難に耐えることができるのは、何らかの見通しをもつことができるからだと思います。今は辛いけれど、この先どうにかなる。今は悲しけれど、そんな自分に寄り添ってくれる人もいる。この苦しいことにも何かの意味がある。そのような何らかの見通しを抱くことができると、希望が湧いてきます。
しかし、見通しの立たない苦難は本当に辛い。八方塞がりとか閉塞感とか四面楚歌とか、その種の言葉で表すしかないようなときは、本当に厳しく辛いことです。
聖書は「希望をもって喜び、苦難に耐え、たゆまず祈りなさい」と言います。一体どうしたら希望をもって喜ぶことができ、苦難に耐えることができ、たゆまず祈れるのか。一体どうしたらそのように生きることができるのか。
私たちキリスト者にとって、その根拠は究極的には一つしかないと思います。「主の目は正しき人に注がれ、その耳は彼らの叫びを聞く。」主が目を注いでくださっていること、主が耳を傾けて聞いてくださっていること。その事実への信頼。ただそれだけが私たちに希望と喜びを与え、忍耐を与え、祈る言葉を与えるのではないでしょうか。
主なる神さまが私たちに目を注いでくださっていること、耳を傾けてわたしの祈りをも聞いてくださっていること、その証拠は、ただ主イエス・キリストにあります。神さまのお子様が私たちのところにまで降ってきてくださった。そのクリスマスの出来事こそ、主の目が、主の耳が私たちに向けられている証しです。
だから、私たちは苦難の日にも希望をもって喜びうる。忍耐することができるし、祈れる。見通しがあるからです。主の目が、主の耳が私に向けられているということを、信仰をもって見通すことが許されています。その事実への信頼が私たちに望みの道を拓くのです。

2023年12月18日月曜日

2023年12月18日の聖句

神は時と時期を変え、王を退け、王を立てます。(ダニエル2:21)
主は権力ある者をその座から引き降ろし、低い者を高く上げる。(ルカ1:52)

あまりにも強大な国やその権力を見ると、これはもう永遠に続くのではないかと思ってしまいます。福音書が書かれた時代であれば、ローマでしょうか。この時代は今でも世界史で「ローマの平和」とまで言われるほどの時代でした。この後も何百年もローマの支配は続きます。
ダニエル書第2章の時代は、バビロンという国が中近東を支配していました。ユダを滅ぼした国でもあります。これも今での伝えられるほどの超大国です。
しかし、私たちは歴史として知っています。どんなに絶大な権力を誇り、永遠に続くのではないかと思われるような国々であっても、いつかは滅んでいきます。バビロンは滅び、ペルシアという国が勃興し、しかしそれも滅び、ギリシアの時代が訪れ、やがてローマの時代になる。しかしローマだって永遠の支配者ではない。やがてはローマ凋落の時代を迎えることになります。
人間の支配する力の絶大さや、それを支えるシステムの強固さを目の当たりにすると、私たちはついうっかりそれが絶対で揺るぎないもので、しかも正しいものなのだと思い込んでしまいます。しかしそうではありません。「主は権力ある者をその座から引き降ろし、低い者を高く上げる。」なぜなら、まことの王、本当の支配者は、この世界をお造りになった神さまだからです。
しかも神さまはこの世の支配者を引きずり下ろすだけではなく、低い者を高く上げ、貧しい者を満たし、飢えた者を養ってくださるお方です。私たちは人間の造り上げたいかなる力も、人間の主張する正しさも、頭から信頼してしまうことはありません。神の正義に適っているか。低い者を高く上げる神さまのなさり方にふさわしいのか。私たちにはそれを見抜く賢さが必要なのではないでしょうか。
私たちは、この世界に、証し人として派遣されています。主イエス・キリストが愛した一人ひとりを愛し、重んじ、尊ぶために、キリストが私たちを送り出してくださったのです。

2023年12月17日日曜日

2023年12月17日の聖句

今週の聖句:
主の道を備えよ。見よ、主なる神は力を帯びて来られる。(イザヤ書40:3,10)

今日の聖句:
神は人ではないから、偽ることはない。人の子ではないから、侮ることはない。(民数記23:19)
(パウロの手紙)神は真実な方です。だから、あなたがたに向けた私たちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。私はシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。(2コリント1:18~19)

神は真実な方。偽ることも、侮ることもない方。「然り」だけが実現したのであって、「然り」と同時に「否」ということなどはない、と言います。私たちの周りに溢れている言葉はそうではありません。「然り」と言いながら「否」と言い、「否」と言いながら「然り」と平気で言います。不真実な言葉が溢れています。
以前、本で「ダブルバインド」という言葉を知りました。バインドというのは、拘束とか束縛という意味です。二重の拘束。例えばこのようなことです。普段は自分で考えて行動しなさいと言っておきながら、実際に相手が自分の価値観から外れたことをすると厳しく怒る。あるいは「分からないことがあったら聞いて」と言っておきながら、実際に尋ねられると「そんなことも分からないのか」と怒られる。そういう矛盾した二つの命令をダブルバインドと呼ぶ。これをされてしまうと、相手はどうやっても怒られるしかないので、自分で考えたり判断したりすることを放棄し、相手に怒られないために唯々諾々と言うことを聞いたり、ご機嫌を取るしかなくなってしまいます。親と子の間でも、上司と部下との間でも、力関係がある人間関係であればどこででも起こりうる現象です。これは「然り」と「否」が同時に語られている。不真実な言葉です。
主イエスさまはそのようなお方ではない。キリストは「然り」を実現してくださった。神の大いなる「然り」を。私たちの存在そのものへの「然り」です。「あなたは生きていていい」という「然り」です。私たちの「否」、つまり罪を打ち破り、大いなる「然り」をもって赦し、包み、新しく生かしてくださる。このような主イエス・キリストの真実が私たちを救うのです。

2023年12月16日土曜日

2023年12月16日の聖句

(主の民への言葉)私は穀物と新しいぶどう酒、また新しいオリーブ油を送り、あなたがたを満ち足らせることができる。(ヨエル2:19)
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて弟子たちにお渡しになり、弟子たちはそれを群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。(マタイ14:19~20)

五つのパンと二匹の魚によってお腹をすかせた5000人の群衆を養ってくださった主イエスさま。この出来事は群衆をご覧になった主イエスの深い憐れみから始まっていました。主イエスは私たちをご覧になって憐れみを覚え、私たちを養うためにご自分の神の子としての力を発揮してくださるお方です。
実はこの奇跡ですが、聖書のどういうところに記録されているのかという文脈を確かめてみると、とても大事なことが分かります。この話の直前に書かれているのは、ヘロデが洗礼者ヨハネを殺した、という報告です。ヘロデは自分の娘に洗礼者ヨハネの首を要求されてそれに従い、ヨハネを殺しました。その直後にこの奇跡が記録されています。つまり、主イエスは神さまに仕えるヨハネを殺す世界で苦しみ、悩み、飢える民を養ってくださった。ご自分の神の子としての力を、このような世界で深く損なわれた人々を回復するために発揮してくださったのです。
「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて弟子たちにお渡しになり、弟子たちはそれを群衆に配った。」この主イエスの所作は、聖餐を思い起こさせます。主イエスがご自分の体と言ってパンを裂き、ご自分の血と言って杯を与えてくださった。私たちはキリストの体と血によって生かされている。この世界の中、神は私たちをご自分の民として回復するために、御子の下さる食べ物によって養ってくださる。私たちは主の備えてくださる食事に招かれているのです。

2023年12月15日金曜日

2023年12月15日の聖句

船で海に出た人々は、主の業、その奇しき業を見た。主に感謝せよ。その慈しみと、人の子らになされた奇しき業のゆえに。(詩編107:23,24,31)
私たちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった。島の住民は大変親切にしてくれた。たき火をたいて、私たち一同を迎えてくれたのである。(使徒28:1~2)

今日の新約聖書の御言葉は、パウロが乗った船が難破したときのことを伝えています。パウロは当局に捕らえられて、ローマまで護送されることになりました。海路でローマへ向かう。その途中で船が暴風に襲われて難破してしまった。船は大きく損傷しており、命の危険にさらされるような出来事でした。海上を漂う船が遂に上陸したのが、地中海に浮かぶ小さな島、マルタ島だったのです。
その島の住民との出会いは非常に印象深いものでした。人々は難船のために漂着した者たちを親切にもてなしてくれた。(この後にパウロを巡る不思議な出来事がありましたが、その話はまたの機会に。)島民たちが助けてくれたお陰で、一行は命をつなぎ止めることができたのです。
神さまは、このような不思議な出会いを通して私たちのための慈しみの業をなしてくださいます。「船で海に出た人々は、主の業、その奇しき業を見た。主に感謝せよ。その慈しみと、人の子らになされた奇しき業のゆえに。」具体的な目の前の人との出会いを通して、神さまは慈しみの御業を行ってくださる。
ですから、私たちは一つひとつの出会いを大切にし、尊びたいと願います。もうどうしようもないというときに、そこで出会った一人の人の手を通して、神さまは私たちを慈しみ深く取り扱ってくださいます。神さまはあらゆる手を尽くして私たちを助け、支えてくださいます。そういう神の恵みを発見する信仰の眼を開いていたい。そう願います。

2023年12月14日木曜日

2023年12月14日の聖句

光は正しき人に、喜びは心のまっすぐな者に蒔かれる。(詩編97:11)
天の国は、十人のおとめがそれぞれ灯を持って、花婿を迎えに出て行くのに似ている。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。(マタイ25:1~2)

十人のおとめの内の五人は愚かで、五人は賢かった。主イエスの譬え話です。愚かなおとめと賢いおとめ、どう違っていたのか。結婚式の日、介添え役のおとめたち。花婿の到着を待っていましたが、いつまで経ってもやってこない。いつしか彼女たちはうとうとして眠ってしまいました。すると真夜中になって、花婿がやってきた。彼女たちは自分のつとめを果たすべく外に出て行く。
花婿の到着が遅かったので、灯のための油が既に足りなくなっていた。賢いおとめたちは替えの油を持っていましたから、無事に明かりをともして自分たちの役割を果たすことができた。ところが愚かなおとめたちは替えの油を用意していなかったので、明かりをともすことができず、介添え役を果たすことができませんでした。愚かなおとめたちは外に追い出され、祝宴に入ることが許されなかった。
これは主イエスを待つ私たちの話です。私たちは主イエスが再び来てくださるのを待っている。ところが主はいつまで待っても来てくださらない。遂に、私たちはウトウトして眠り込んでしまう。しかしそれでもなお替えの油を持っているか、と主イエスは問うておられる。
替えの油とは、一体何のことか。祈りだとか、信仰だとか、そういった解釈が一般的なようです。きっとそういうことなのでしょう。しかしそれが何かということ以上に、主イエスさまをお迎えする備えをして生きるということがいちばん大切なのだと思います。私たちは、主イエスをお迎えするために、今日を生きているでしょうか。主を待ち望んで生きているでしょうか。
あの愚かなおとめたちは、サボっていたから油を準備していなかったというわけではないのではないかと思います。他のことが忙しかったのかも知れません。他の雑事のために心がいっぱいになっていたのかも知れません。いちばん大切なことは一体何か、いつの間にか見えなくなってしまった。私たちはどうでしょう。私たちの最も大切なことは一体何でしょうか。主イエス・キリストは、他の何を置いても私たちの救いのためにすべてを献げてくださいました。主イエスは神から見捨てられてまで、私たちへの愛を貫いてくださいました。このキリストをお迎えするための一日が、今、新しく始まっています。

2023年12月13日水曜日

2023年12月13日の聖句

見よ、私の舌に言葉が上る前に、
主よ、あなたは何もかも知っておられる。(詩編139:4)
主は、闇に隠されたことを明るみに出して、人の心の謀をも明らかにされます。(1コリント4:5)

今日の旧約の御言葉は詩編第139編の一節です。私は長いことこの詩編がどこか恐ろしいような気がしていました。神は私のすべてを知っておられるということを言っている詩編です。今日の御言葉は、ある意味でその究極的な言葉でもあると思います。「見よ、私の舌に言葉が上る前に、主よ、あなたは何もかも知っておられる。」言葉が舌に上る前、心の中にあるときにもう既に神はそれを知っておられる。ちょっと恐ろしいように思います。強権的な政治の国や、日本でも戦争の時などは、思想犯の取り締まりがありました。それに似たような印象さえ受ける・・・というと、あまりに極端な言い方でしょうか。しかし私がそういうような種類の印象を受けたことは事実です。「主は、闇に隠されたことを明るみに出して、人の心の謀をも明らかにされます。」
しかし私のこの考え方には、とても大事なことがすっぽりと抜けてしまっています。主イエス・キリストです。キリストは、闇に隠しておきたい私の内にあるどうしようもなく醜いもの、人様に知られては困る私の謀、神さまにお見せすることなんてできない罪深い思いを、私の代わりに引き受けてくださいました。主イエス・キリストは、私の舌に上る前の私の心にある罪深い思いまでも引き受けてくださってくださいました。そのお方が、この私に代わって神に棄てられてくださったのです。
ですから、これは愛の言葉です。神が私のすべてを知り、私の心までも究極的にご存じでいらっしゃること。神の前に隠された謀など一つもないこと。その上で、神は私を愛してくださいました。そんな私のために、主イエス・キリストは飼い葉桶に生まれてきてくださいました。神の前に隠れたものは何一つない。そうであるからこそ、キリストが私たちのところへ来てくださったのです。

2023年12月12日火曜日

2023年12月12日の聖句

神は第七の日を祝福し、これを聖別された。その日、神はすべての創造の業を終えて休まれたからである。(創世記2:3)
あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。(フィリピ4:7)

第七の日は祝福の日、休息の日、安息の日。神がこの天と地とそこにあるすべてのものをお造りになって、それらを完成し、休まれた日。それが第七の日です。
すべてを終えて完成した日が創造の七日間に含まれているというのは、とても面白いことです。私だったら何かをした日、何かを産みだした日、何か積極的なことをなした日々を記念しこそすれ、休みの日を記念するというのは考えなかったと思います。しかし神さまにとってはそうではなくて、休息の日も大事な創造の日の一日なのです。
この日、私たちはすべての業を中断します。毎日の営みを休みます。神さまが休息なさったことに始まるリズムです。私たちは第七の日、すなわち安息日を覚え、これを聖なる日として他と区別することを通して、神さまの創造のリズムに生き始めます。神さまの御業によって造られた世界で生かされている存在なのだということを体験します。
神さまは、この世界に命を造り出してくださいました。神さまの御言葉によって生み出してくださいました。神さまはお造りになった一つひとつのものをご覧になって、「良し」と言って祝福してくださいました。この世界にあるすべての命は神の祝福の中にあります。私たちは創造のリズムを心に、体に刻むことによって、神の大いなる祝福を自分の生きるリズムとして刻み込みます。
そして、私たちがやがてこの命を神さまにお返しししたとき、神は私たちのために大いなる安息を備えて待っていてくださることでしょう。その日にも神の祝福は変わりません。私たちは祝福の中で命を与えられ、祝福の中で大いなる安息へと向かっていく。その間の人生の日々にどのようなことが待ち受けていようとも、神の祝福の宣言は決して変わることがないのです。「あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。」

2023年12月11日月曜日

2023年12月11日の聖句

主よ、私の望みはすべてあなたの前にあります。
嘆きもあなたから隠されてはいません。(詩編39:10)
何事でも神の御心に適うことを願うなら、神は聞いてくださる。これこそ私たちが神に抱いている確信です。(1ヨハネ5:14)

神を信じるとは、神に祈るということです。神を信じるということの具体的な現れは、神に祈る姿に結実する。祈ることなしに信じるということは、あり得ないことではないでしょうか。
しかし私たちは同時に知っています。私たちはどう祈ったら良いのかを知りません。祈ろうとしても言葉に詰まってしまったり、何をどう祈って良いのか分からなかったり、祈っても実感が湧かずに空しかったり。祈ることの難しさも、私たちは身に染みてよく知っているのではないでしょうか。
祈りの原点は、私がどれだけ熱心に祈れるかとか、敬虔な気持ちを維持できるかとか、ちゃんと信仰に篤い自分でいられるかとか、そういうことではありません。「主よ、私の望みはすべてあなたの前にあります。嘆きもあなたから隠されてはいません。」祈りの原点は、神が私を知っていてくださるという圧倒的な事実です。
神さまは私の願いも、嘆きも知っておられます。私が知らない私のことをも、神さまはすべてをご存じです。私を深く知り尽くしておられる方の前に、私たちは祈る。神が知っていてくださるから祈れる。神が私のすべてを知り、その上で受け入れてくださっているから、神が私の祈りを待っていてくださるから、私は祈ることができる。
「何事でも神の御心に適うことを願うなら、神は聞いてくださる。これこそ私たちが神に抱いている確信です。」この御言葉のとおりであるからこそ、私たちは安心して何でも祈ることができるのではないでしょうか。今日の私たちの祈りの道を、主は、私たち以上によくご存じです。このお方が私たちの祈りを待っていてくださいます。

2023年12月10日日曜日

2023年12月10日の聖句

今週の聖句:
身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの救いが近づいているからだ。(ルカ21:28)

今日の聖句:
あなたのような業と力ある行いをなしうる神が、この天と地におられるでしょうか。(申命記3:24)
働きにはいろいろありますが、すべての人の中に働いてすべてをなさるのは同じ神です。(1コリント12:6)

神様は、私たちを用い、私たちを通して、この世で御業をなさいます。ですから私たちの願いは「御心をなさせたまえ」です。あなたの御心が、あなたのご意志がなりますように。私たちはそう祈る。私があなたの願いから外れてしまうなら、どうか私をただしてください。この塵芥のような私を、どうかあなたの御心に適うように変えてください。私たちはそう祈りつつ、この私の手を通して神が御心を行ってくださることを大胆に信じて、日ごとの業に生きています。「働きにはいろいろありますが、すべての人の中に働いてすべてをなさるのは同じ神です。」
今日はアドベントの二回目の日曜日です。二本目のロウソクに灯がともります。主イエス・キリストを私たちにお送りくださった神さまを仰ぐ礼拝を献げます。「身を起こし、頭を上げなさい。あなたの救いが近づいているからだ。」神さまがこの世界で行ってくださる一つひとつの御業は、救いの御業です。私たちを救うために神さまは力を振るってこの世界で働いてくださっています。そのために私たちをも用いてくださる。この手を通して、この足を通して、主イエスさまの御業を神が進めてくださっています。今日、私たちが献げる祈りも、私たちの小さな礼拝も、神はキリストの御業の一部として必ず用いてくださる。そのことを信じて、今日も主の御前に、祈りの道を上っていきましょう。

2023年12月9日土曜日

2023年12月9日の聖句

主よ、あなたは私の魂を陰府から引き上げ、
墓穴に下る者の中から生かしてくださいました。(詩編30:4)
(イエスの言葉)死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である。(ヨハネ5:25)

すさまじい言葉です。あまりのことに驚きを隠せないような言葉です。「死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である。」主イエスでなければ口にすることのできない言葉です。しかし主イエスがおっしゃったからには、真実の言葉です。神の子の声が響いている。死んだ者にも、生きている者にも。陰府の底にまで響く声です。天の高みにも響きます。生きている者も死んでいる者も、すべての者にキリストの声が響く。今や、その御声を私たちは聞いています。
主イエス・キリストが私たちに見せてくださる将来は、死んでもなお神の声が響くという将来です。死んだら終わりだとは主イエスはおっしゃいません。死んだら何もかも無になるとは主イエスはおっしゃらない。神の言葉は、私たちの命も死も超えて響き続けている。神の言葉、福音の言葉を聞き続けるというのが私たちの将来です。
ただ、死を超えた救いなどと言っても、現代社会では殆ど受け入れがたいものになってしまいました。ある種の宗教的なファンタジーの類いに属する話とみなされているのではないでしょうか。しかし私は同時に考えます。そうやって、この命を超えたところにある救いを拒んだところでこの社会に何が起こったのか、と。例えば、自分が死んだ後の時代に対する責任は、今だけここだけを見ていては持ちにくいと思います。あるいは倫理的に生きる根拠が自分という存在を超えたまなざしを無視しては世間の目になったり、自分のイデオロギーになったりすると思います。世間の目ほど無責任なものはないし、人間は自分のイデオロギーを貫徹できるほど強い存在でもないと思います。自分自身や自分の命を超えた存在や、救いを退けたときに、社会の混迷は深くなっているように私には思えます。
主イエスの御言葉は私たちの存在を超えて、永遠の響きを持って語られ続けます。私たちが死んだ後にもなお意味を持ち続けます。私たちを死から救う力を持っています。この言葉が私たちに命を与え、生きる意味を確かにし、私たちの生きるべき道の指針となる。これほど確かなことはないのではないでしょうか。

2023年12月8日金曜日

2023年12月8日の聖句

先にあったことを思い起こすな。昔のことを考えるな。見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。(イザヤ43:18~19)
天の国は人が畑に蒔くからし種に似ている。(マタイ13:31)

今日私たちに与えられているイザヤ書第43章の背景になっている時代は、まさに絶望と言うほかない時代でした。かつて戦争に敗れ、遠い地に捕囚民として連行され、国は壊滅した。故国と捕囚地との間には広大な砂漠があり、自分たちは相変わらず弱小です。もう、どうにもならない。自分たちの置かれた状況の悲惨と、あまりにも救いから遠い現実と。それが今日の御言葉の歴史的な背景です。
ところが、神様はどのようなときにも救いを宣言なさいます。「先にあったことを思い起こすな。昔のことを考えるな。見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。」神ご自身が新しい意味わざを行う、と言われます。どのような業なのか。続くところにはこのように言われている。「確かに、私は荒れ野に道を、荒れ地に川を置く。」広大な砂漠に象徴される自分たちの絶望的な状況、どうにもならないと思われる圧倒的な滅びを前にして、神様が道を敷き、川を流れさせてくださる、とおっしゃるのです。本当に力強い救いの宣言です。
しかし、その救いは、私たちの目にはなかなか見えません。神様はそうおっしゃるけれど、相変わらず民の間に広がっているのは荒れ野であり、自分たちを支配する強大な国々の脅威です。絶望ばかりが目に飛び込んでくる。しかし、神様の御業はもうすでに始まっています。からし種のように小さいので、私たちは見えない。しかしそれが蒔かれると必ず大きな木に成長する。「あなたがたはそれを知らないのか。」
今、私たちの前にはどのような光景が広がっているでしょうか。それが例えどのようなものであったとしても、神様の救いの御業は確実に進んでいます。私たちにそれが見えなくても、神様の御業は必ず進んでいる。荒れ野に道を、砂漠に川を置いてくださる。だから、今、私たちは神様の御業を信じましょう。必ず、私たちの前に素晴らしい御業を行ってくださるのですから。

2023年12月7日木曜日

2023年12月7日の聖句

イスラエルの人々は主を叫び求めて言った。「私たちの神を捨てたので、私たちはあなたに罪を犯しました。」(士師記10:10)
(ザカリアの言葉)「あなたは主に先立っていき、その道を備え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせる。」(ルカ1:76~77)

今日の旧約聖書の御言葉は士師記です。士師記はエジプトを脱出し、約束の地カナンに入ったイスラエルの民が定住生活を始めたときの話です。彼らは生活が安定するに従って主なる神様を裏切り、あるいは忘れていきました。生活の安定と反比例するかのようにして、信仰の面では急速に堕落していきました。
やがて、そんな安定した生活も外国の脅威によって崩れていきます。そのたびに人々は自分たちが神様を裏切ったことに気付き、悔い改めの祈りをします。私たちは私たちの神であるあなたを捨て、罪を犯し、他の神々に仕えてきました。そう告白し、神様の御前に懺悔を重ねていくことになる。神様はその祈りを聞いてくださって助けを送ってくださいますが、しばらくするとまた安定した生活の中で神を捨て、その道を誤っていく・・・ということの繰り返し。それが士師記に書かれていることです。
生活が安定し、毎日の生活に安心できると神様を蔑ろにしてしまう。私たちにも本当によく分かる気持ちです。士師記を読んでいると本当に自分の話が書いてあると思います。自分は、自分たちはうまくいっているとうぬぼれて神様を無視する。しかし土台である信仰が腐っていれば、その上に建てられている生活はやがて崩れてしまいます。うまくいかないと言って神様に祈り、罪に気づいて悔い改めて、また安定しだしたら神を忘れて・・・。聖書は本当に恐ろしいほどに私たちのことをよく知っています。
今日の新約の御言葉は、洗礼者ヨハネが生まれたときに父ザカリアが口にした言葉です。「あなたは主に先立っていき、その道を備え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせる。」ヨハネはやがて父の言ったとおり、主イエスさまの前に道を備え、人々を悔い改めに導きました。
今、アドベントを迎えています。アドベントの典礼色は紫です。紫は悔い改めを象徴する色です。主イエス・キリストをお迎えする私たちの心は、悔い改め。今こそ私たちはキリストをお迎えするために、自分の生活を省み、神様の御前に悔い改めの祈りをしましょう。神が下さる救いの道に導かれている者として、今静かに、罪の悔い改めの祈りの道を歩んでいきましょう。

2023年12月6日水曜日

2023年12月6日の聖句

あなたの嘆きの日々は終わる。(イザヤ60:20)
言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1:14)

「言」というのは、神の言葉ご自身である主イエス・キリストのことです。神の独り子イエスさまが肉となって、即ち一人の人間になられて、私たちの間に宿られた。クリスマスの出来事を告げている。
私は、この「私たちの間に宿られた」という言葉が好きです。主イエスさまは私たちの間に宿ってくださった。この「宿る」という言葉は、テントを張るという意味の言葉です。かつてイスラエルの人々がエジプトから導き出されて荒れ野の旅をしたとき、彼らはテント暮らしをしました。民の中央には、神様に礼拝を献げるためのテントが張られていました。ちょうどそれと同じように、主イエスさまは私たちの間にテントを張っていてくださる。私たちと出会うために、私たちと共に歩むために。この天地を造られた永遠の神様です。どんなテントでも、お収めすることなんてできるはずがありません。しかし私たちへの恵みと真理に満ちた神の栄光を見せるために、このお方が肉となって私たちに間にテントを張ってくださったのです。
テントを張る。それは、私たちの毎日の生活に伴っていてくださる、ということです。私たちの寝たり起きたり、食べたり働いたりという営みをする場に、神の独り子が来てくださいました。私たちが泣いたり笑ったり、嘆いたり喜んだりする生活の中に、神の子がテントを張って共に生きてくださっています。主イエスは私たちの寝食の場におられます。だから、聖書は言います。「あなたの嘆きの日々は終わる。」父の独り子として栄光の光が、私たちの生活にまで届けられているから。私たちはもはやキリストの恵みと真理によって生かされているから。あなたの嘆きの日々は終わる。
だからといって、すぐに困ったことや心底厭なことが消えてなくなるわけではないでしょう。問題が解決していくわけではないかもしれません。しかし私たちの生の現場には神の独り子がおられます。嘆く私たちを救うために、神ご自身でいらっしゃるお方が宿っていてくださるのです。

2023年12月5日火曜日

2023年12月5日の聖句

数々の過ちが私を責めたてます。私たちの背きを、あなたが覆ってくださいます。(詩編65:4)
時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の下にある者を贖い出し、私たちに子としての身分を授けるためでした。(ガラテヤ4:4~5)

神様は私たちと出会ってくださるお方です。神様の愛に触れ、私たちにも信仰が与えられていく。そうやって、わたしたちの口にも祈りの言葉が与えられます。祈ることは私たちの喜び。しかし、祈りはじめると次第に祈りが空しく感じられることがある。信仰がとても空虚に思えて仕方なくなってしまうことがある。そうではないでしょうか。
それは、祈りが深まっている証拠です。なぜか。祈りが深まり、信仰が与えられていくに従って、聖なる神様の御前に自分の汚れや過ちが明らかになるからです。だから、自分の祈りにはびこる不信仰に敏感になり、祈りが空しく感じられるようになる。自分の信仰に潜む偽善が神様に近づくほどに明らかにされてしまい、空虚に感じないわけにいかなくなってしまうのです。
「数々の過ちが私を責めたてます。私たちの背きを、あなたが覆ってくださいます。」この言葉は、私たち自身の思いではないでしょうか。
しかしそんな私たちのためにキリストはお生まれくださいました。「時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の下にある者を贖い出し、私たちに子としての身分を授けるためでした。」律法の下に、と言います。律法は私たちの罪を明らかにする。神様の御前に立ち得ない私であることが暴かれてしまう。しかしそのような私たちを神のものとして贖い出すためにこそ、キリストは一人の女から生まれてこられたのです。私たちを神の子とするために。
今日、この日の私たちの祈りも、信仰も、キリストによって神の子の祈りに、神の子の信仰にして頂いています。私たちがどのような者であろうと、それに関わらず神が私たちをご自分のものとしてくださった。主イエス・キリストにあって。
この救いの宣言の中に私たちは生かされています。

2023年12月4日月曜日

2023年12月4日の聖句

恐れるな、私があなたと共にいる。
たじろぐな、私があなたの神である。(イザヤ41:10)
神殿で子どもたちは「ダビデの子にホサナ」と叫んだ。(マタイ21:15)

神様は、恐れるなと私たちに命じます。神ご自身が私たちと共にいてくださるから。たじろぐなとおっしゃいます。「私があなたの神である」と、神さまの方からご自分を示してくださいます。
神様は「私があなたの神」と自己紹介なさる方です。普通、逆だと思います。自分に何らかの求めがあって、何かを信じたくて、自分が信じるべき神を選んで、「あなたこそ私の神」と祈りをする。ところが主なる神様は、神さまの方から「私があなたの神である」と名乗られます。私たちが探して、見つけて、自分の神と信じたのではない。神さまの方が私たちの前に来られて、この私こそがあなたの神だと言ってご自分を現してくださる。そこからすべてが始まった。
この方が私の神でいてくださるから、私の神として私と共にいてくださるから、私は恐れない。私はたじろがない。恐れないで済むし、たじろがないで済むのです。主が、この私の神でいてくださるからです。
この神様ご自身でいらっしゃる主イエスをお迎えして、子どもたちが叫んだと今日の新約聖書の御言葉は言います。「ダビデの子にホサナ」。ホサナというのは、救ってくださいという意味の言葉です。イエス様、私たちを救ってください。主よ、私たちが恐れず、たじろがないで済むように、私たちを救ってください!
今日、私たちは主イエス・キリストをお迎えする祈りを捧げましょう。ホサナと主イエスに祈り、このお方が今まさに私のところへ来てくださっているから、私は恐れないと告白しましょう。キリストと共にあるアドベントの一日を過ごして参りましょう。祝福を祈ります。

2023年12月3日日曜日

2023年12月3日の聖句

今週の聖句:
見よ、あなたの王があなたのところに来る。彼は正しき者であって、勝利を得る者。(ゼカリヤ9:9b)

今日の聖句:
主は再びシオンを慰める。(ゼカリヤ1:17)
シメオンはイスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。(ルカ2:25)

今日から待降節、アドベントに入りました。待降節には二つの意味があります。一つは、2000年前に主イエスさまがお生まれになったクリスマスを待ち望む、祈りの時。そしてもう一つ、再び主イエスが来てくださるのを待ち望む時でもあります。待降節は単に昔の出来事を早期するというのではなくて、将来私たちのところへ来てくださる主イエスさまを待つ祈りの時でもあります。
主イエスが来てくださる時、それは救いの時です。慰めの完成の時です。「主は再びシオンを慰める。」主なる神様が私たちを慰めてくださるときを私たちは待ち望んでいる。慰めが必要な私たちの毎日です。苦しみが続く日々を過ごしている方もおられるでしょう。しかしそれでも私たちはなお信じる。今は、恵みの時だと。それはキリストが必ず再び私たちのところへ来て、救いを完成してくださるからです。
シメオンは救い主が来てくださるのを待ち望んでいた人物でした。「シメオンはイスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。」待ち望むには、忍耐が必要です。しかしそれは我慢ではない。来たらんとする救いを待ち望む喜びの忍耐です。主イエスさまにお目にかかれるのを待つ、祭りの前夜の忍耐です。私たちのところへ来て私たちを救ってくださる方を私たちは待ち望んでいる。
今日一日の私たちの営みも、主キリストを待ち望む私たちの営みです。キリストの恵みがあなたにありますように。

2023年12月2日土曜日

2023年12月2日の聖句

主よ、憐れんでください。私は苦しんでいます。(詩編31:10)
弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。このままでは死んでしまいます」と言った。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。(マタイ8:25~26)

「主よ、助けてください。このままでは死んでしまいます。」そう言って主イエスに助けを求める弟子たちに、主イエスがおっしゃった言葉は予想外に厳しいものでした。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」弟子たちの言葉は不信仰から生まれる言葉だ、と言います。こう言われてしまうと怯んでしまうほどの言葉です。私たちも同じように祈るのではないでしょうか。「主よ、助けてください。このままでは死んでしまいます。」「主よ、憐れんでください。私は苦しんでいます。」そういう祈りを不信仰だとなじられてしまっては、もう二の句が継げません・・・。
今日の聖句の冒頭を見ると、「弟子たちは近寄って起こし」と書いてあります。この「起こし」という小さなひと言が大事だと思います。起こしたというからには、主イエスは眠っておられたことになります。これはガリラヤ湖での出来事です。主イエスと弟子たちとが一緒に舟に乗り込んだ。すると湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになってしまいました。ところが主イエスは眠っておられる。どうして主は眠っておられるのか。私たちが溺れ死んでも構わないのか。そう思って、彼らは起こしたのです。「主よ、助けてください。このままでは死んでしまいます。」
主イエスが不信仰だとおっしゃったのは、彼らが、イエスは眠っておられて自分たちのために何もしてくださらないと思い込んでいたからです。この時の弟子たちの置かれた状況は、私たちが今生きている状況とよく似ています。私たちもどんな嵐に遭い、どんなに船が転覆してしまいそうになっても、主イエスが起き上がって助けてくださるということをなかなか経験できない。主イエスが目に見えてここにおられるというわけではないのです。まるで眠りこけておられるかのように、主は私たちを助けてくださらない・・・。「主よ、助けてください。このままでは死んでしまいます。」
主イエスが不信仰とおっしゃったのは、私たちの信仰が眠りこけているからです。主は、まるで眠っていて、ここにおられないかのように、何もしていないのではありません。この方は私たちには見えなくても、今日も生きて働いておられます。私たちのために今日も働いておられます。なぜそのことを信じないのか、と主イエスは言われる。私たちに見えずとも今日も働いておられる方を信頼することを、主は私たちに求めておられます。

2023年12月1日金曜日

2023年12月1日の聖句

今月の聖句:
私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民の前に備えられた救いです。(ルカ2:30~31)

今日の聖句:
見よ、私は彼らを精錬し、試す。(エレミヤ9:6)
最後まで耐え忍ぶ者は救われる。(マルコ13:13)

苦しいときに辛いのは、「見通しがない」ことではないかと思います。あとどのくらいこの苦しい期間が続くのか、この先良くなるのか悪くなるのか、これから一体どうなっていくのか。苦しみが深ければ深いほど、これからへの見通しが立たなくなります。それはとても辛いことです。こうしたら良いんじゃないか、後これくらい耐えれば切り抜けられる、この苦しみにはこういう意味があるんじゃないか。そういうことが一切分からなくなってしまうと、本当に辛くなっていきます。
そんなとき、聞きようによっては今日の御言葉はとても残酷に響きます。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」最後まで?これ以上まだ?一体いつまで?「見よ、私は彼らを精錬し、試す。」試すって、あんまりにひどい仕打ちじゃないか?精錬と言われても、精錬されている内にもう何もなくなってしまいそうだ・・・。
何よりも大切なのは、この御言葉が主なる神様の御言葉だということだと思います。神様は私たちの慈しみの父としていてくださるお方です。確かに私たちの目に入るところは一部ですし、分からないことだらけ。苦しいことに押し潰されてしまう。しかそしれでも、なお、すべては慈しみに満ちた神の御手の中にあると信じましょう。
なぜなら、このお方は、私たちのすべての苦しみを引き受けるようにして主イエス・キリストを私たちにお与えくださった方です。私たちの苦しみに、なかなか意味は見えてきません。それならば、キリストの御苦しみはなおのことだと思います。神の子である方がなぜ苦しい目に遭わなければならなかったのか?一切の因果が通じない。ただ、私たちのためにそれを引き受けてくださったという神ご自身の愛にしか理由がありません。ですから、キリストの苦しみほど不当で理不尽な苦しみはない。このお方は、私たちの苦しみや呻きや痛みを誰よりもご存じです。キリストは苦しむ者の傍らにいてくださいます。このキリストを、私たちは塵の中に伏しつつ仰ぎます。

2024年2月24日の聖句

私はあなたがたに以前にもまさる幸いをもたらす。こうしてあなたがたは私が主であることを知るようになる。(エゼキエル36:11) (パウロの手紙)あなたがたのところに行くときは、キリストの祝福に満ちあふれて行くことになると分かっています。(ローマ15:29) ありがたい言葉です。「私...