2023年5月31日水曜日

2023年5月31日の聖句

6月の聖句:
神があなたに、天の露と肥沃な地を、豊かな穀物と新しいぶどう酒を与えてくださるように。(創世記27:28)

今日の聖句:
あなたはわたしの嘆きを踊りに変え、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。(詩編30:12)
希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、あなたがたを希望に満ち溢れさせてくださいますように。(ローマ15:13)

「希望の源である神」。使徒パウロは神さまをそのようにお呼びします。神さまこそが私たちの希望の源!私たちはこのお方に望みをかけ、この方のゆえに喜び、この方によって平和をいただいています。神を信じるから、私たちは絶望しません。
今日の旧約聖書の詩編第30編には、6節を見るとこのような言葉もあります。「夕べには涙のうちに過ごしても、朝には喜びの歌がある。」涙のうちに過ごす夕べもある。涙を流し、眠ることのできないときもある。しかしそれでも、神さまはその涙を喜びに変えてくださる。喜びの朝、喜びの歌をうたう朝が必ず来る。
ですから、今朝のところでは重ねて言うのです。「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。」粗布は悲しみの象徴です。悲しい時には悲しい装いをする。派手な服は着ることができない。ゴワゴワして粗末な粗布の服を着る。そのようにして悲しみを表しています。しかし、神が私の装いをも変えてくださる。あるいは、服だけではなく振る舞いも変えてくださる。私の嘆きを喜びの踊りに変えてくださる。今や粗布を脱ぎ、喜びの帯を体に巻いている。
主イエス・キリストにあって、今日、あなたに希望が与えられますように祈ります。私たちの喜びの日にも悲しみの日にも、キリストにある望みが豊かにありますように。神は必ずすばらしい恵みで私たちを満たしてくださいます。祝福がありますように。

2023年5月30日火曜日

2023年5月30日の聖句

主の手が短いというのか。(民数記11:23)
(イエスの言葉)「また、よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれを叶えてくださる。」(マタイ18:19)

今日の御言葉は、ぜひ実際に聖書を開いて前後をお読み頂ければと思います。誰かが罪を犯したとき、その人をどのように遇せばよいのか、という話を主イエスはしておられる。一人の罪人を巡って、主イエスはおっしゃるのです。「また、よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれを叶えてくださる。」
二人、または三人が主イエスの御名によって集まり、そこで祈りを合わせる。一人の罪人のために。その人が再び主イエスさまの御許に戻ってくるように。一人の罪人のためにご自分のすべてを捨ててくださった方の愛の中へ共に帰ることができるように。神さまはその祈りを必ず聞き、叶えてくださる。主イエスはそのように約束し、断言していてくださるのです。
「主の手が短いというのか」とあります。主の手は短く、主には救う力がないと言うのか、と主は問うておられます。私たちは、神さまの御力を侮ってはいないか?ご自分の独り子をも十字架にかけてまで私たちを救ってくださる神さまの情熱を見くびってはいないか?主の手は長く、その力は強い。私たちはそれを信頼し、このお方に救いの望みをかけて生きています。キリストは私たちのために今日も働いてくださっています。

2023年5月29日月曜日

2023年5月29日の聖句

銀は私のもの、金も私のもの
  ーー万軍の主の仰せ。(ハガイ書2:8)
信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。(使徒4:32)

4世紀に生きた教会の指導者、教父と呼ばれる一人にカッパドキアのバシレイオスという人がいます。このような言葉を残しています。

あなたの家で食べられることのないパン、それは飢えている人たちのものです。あなたのベッドの下で白カビが生えている靴、それは履物を持たない人たちのものです。物入れにしまい込まれた衣服、それは裸でいる人たちのものです。金庫の中で錆びついている金銭、それは貧しい人たちのものです!

深く真実を突く言葉です。「銀は私のもの、金は私のもの」と主なる神さまはおっしゃいます。私たちの神さまはご自分のすべてを与え尽くしてくださるお方です。しかし私たちは自分のところにため込み、隣人に与えることも神さまに献げることも惜しくなってしまう。銀や金、パンや履物、衣服、金銭、それらを手放し神に献げることでしか見えてこない神の恵みがあるのです。
主イエスさまは「私たちの日ごとの糧を今日お与えください」と祈るように教えてくださいました。神さまは必ず私たちを養ってくださる。必要な物を備えてくださる。そのことを信頼してよい、と他ならぬ主イエスが言ってくださいます。生まれたばかりの最初の教会は、主イエスの呼びかけに応えて持ち物を共有し、心を一つにしました。神の恵みに信頼しきる信仰者の群れがここにあります。

2023年5月28日日曜日

2023年5月28日ペンテコステの聖句

今週の聖句:
武力によらず、権力によらず、わが霊によるーー万軍の主は言われる。(ゼカリヤ書4:6b)

今日の聖句:
私自身がそれを取り囲む火の城壁となるーー主の仰せ。(ゼカリヤ書2:9)
五旬祭の日が来ると、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされた。(使徒言行録2:1,3~4)

ペンテコステを迎えました。ペンテコステのシンボルは炎です。ですので、ペンテコステになると赤い者を身に着けるという習慣もあります。神の霊が炎のような舌として弟子たちのところに現れ、一人ひとりの上に留まった。炎のようというのは、とても印象的な描写です。
炎は鉄を精錬します。炎で焼き、不純物を取り除く。鉄は清められ、また強くなります。預言者イザヤが天上の礼拝を垣間見たとき、彼は「ああ、災いだ。私は汚れた唇の者、私は汚れた唇の民の中に住んでいる者。しかも、私の目は王である万軍の主を見てしまったのだ」と言います。彼は神の聖さを恐れた。すると、セラフィムという、見た目は怪獣のような天使の一種でしょうか、そのような天上の生物が火箸で取った炭火をイザヤの唇に当てたのです。そして言います。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、過ちは取り去られ、罪は覆われた。」やはりここでも燃える炭火が人間としての罪や汚れを清めるものとして登場しています。
この炎のような舌は、私たちの上にも降っています。さがみ野教会もまた炎のような舌によって生まれた教会です。ほかに教会が生まれる理由があるでしょうか?神ご自身のお働き、その御力以外に、この世界にキリストの教会を生むものはありません。神は私たちを鉄のように精錬し、練り清めるために、私たちにもご自身の炎を送ってくださっています。私たちを救う、命の炎です。私たちに神の御業を届ける火です。私たちへの神の愛の炎です。今日、この私にも、神がご自分の炎をお送りくださっている。そのことを信じ、このペンテコステの一日を送りましょう。

2023年5月27日土曜日

2023年5月27日の聖句

主は真実の神で、偽りがなく、正しく、まっすぐな方。(申命記32:4)
神が私たちの内にとどまってくださることは、神が私たちに与えてくださった霊によって分かります。(1ヨハネ3:24)

神はご自分の霊を私たちに与えてくださった。御言葉はそのように語ります。明日はペンテコステです。神の霊が降ったことを記念する日。神さまはご自分の霊を私たちにお送りくださった。神の霊が降るとき、私たちに何が起こるのか。ヨハネによる福音書を読むと、主イエスは聖霊を「弁護者」と呼びながら、このように教えておられます。
「弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。(14:26)」
聖霊は私たちにキリストの言葉を思い起こさせてくださる。私たちがキリストの言葉を思い起こし、あるいはそれを信じたいと願うのは、既にそこに神ご自身の力が働いているからです。
あるいは、使徒パウロは言います。
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです。(ローマ8:15)」
神様ご自身の霊が私たちの内で神を父と呼び、それが私たちの祈りになる。私たちがたった一言でも「父よ」と祈るなら、それは聖霊が私の内にも働いてくださっているという証拠です。
今日の御言葉でヨハネは言います。「神が私たちの内にとどまってくださることは、神が私たちに与えてくださった霊によって分かります。」私たちがキリストの御言葉を思い起こし、あるいは神を父と呼んで祈るとき、それは神ご自身がこの私の内にとどまっていてくださるというしるしです。神は私と共にいてくださるとは信仰者が何気なく口にする言葉でもありますが、そこにはこのような深い意味がある。私のこの信仰すらも、神が共にいてくださると信じることも、そもそも神ご自身の霊によって与えられた思いに他ならないのです。
神さまは、ご自分の真実にかけて私たちを招いてくださっています。キリストがあなたを招く御声が今響いている。神はあなたを目の瞳のように愛し、待っておられるのです。

2023年5月26日金曜日

2023年5月26日の聖句

私たちの神である主は、ご自分がなさるすべての業において正しいのです。(ダニエル書9:14)
すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。(ローマ3:26)

今日の新約聖書の御言葉はここだけでは少し意味が分かりにくいので、少し前から話の流れを確かめたいと思います。「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。」キリストによって、神は罪人の罪を見逃し、義としてくださった。神は罪人に対する忍耐を示してくださいました。そのようなことを言いながら、今日のところに続きます。「すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。」
神が罪人に対するご自分の忍耐を示してくださった。この忍耐によって神の義が明らかにされた。神はご自分が義しい方であることを、罪を忍耐し、キリストの真実によって罪人を義とすることによって示してくださった。神は、ご自分がお一人で義しい方でいらっしゃることを選ぶのではなく、罪人を義とすることによってご自身の義を貫くことをお選びになったのです。驚くべきことです。
世の中には「正しい言葉」が溢れています。何かの間違いを犯したり、おかしなことを言ったりして袋叩きに遭っている場面を目にすることが少なくありません。他人事ではない。小さな私たちの人間関係の中でも、自分の正義に捕らわれて、自分は正しいという確信のもとに他人を裁いてしまうことは、よくあるのではないでしょうか。神さまは私たちの罪を忍耐することでご自分の義を示してくださいました。私たちの正義は怪しいものですが、神さまの義は本物です。独り善がりの義ではない。それなのに、その方が私たちを忍耐することでご自分の義を明らかにしてくださいました。私たちは、私たちをも義としてくださる神の義によって生かされているのです。

2023年5月25日木曜日

2023年5月25日の聖句

ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたから私のためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から決まっている。(ミカ書5:1)
だれもが認めるように、この敬虔の奥義は偉大です。「キリストは肉において現れ、霊において義とされ、御使いたちに見られ、諸国の民の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」(1テモテ3:16)

「あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい」と言われている者たちの中から、主なる神のために神の民を治める者が出る。あまりにも小さい者から、もっとも偉大な王が生まれる。とても不思議な言葉です。普通であれば、由緒正しく、どこから見ても見劣りのしない家系、文句のつけようがない強くて大きな者、そういうものから支配者が生まれる。昔の武士などは、自分がいかに由緒正しいかという箔をつけるために源氏とのつながりを買うようなことをしていたと聞きます。ところが神のためにイスラエルを治める方は、確かに神の約束に従ってユダの生まれではあるものの、その中でも「あまりにも小さい」と呼ばれる氏族から出て来る、というのです。驚くべき言葉ではないでしょうか。
ただ言われていることは「その出現は昔から、永遠の昔から決まっている」ということです。永遠の昔から、神ご自身がお決めになった王。神がお定めになった支配者。この方が私たちを治める。それは、神秘です。私たちの常識や、私たち人間の営み延長線上にうまれるのではなく、私たちの外から、神様ご自身がお定めになった御支配が始まっている。聖書はそう告げます。
「キリストは肉において現れ、霊において義とされ、御使いたちに見られ、諸国の民の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」
私たちの真の王、イエス・キリストは、肉において現れた方。神の子が弱い人間の姿をとって現れた。私たちの間を歩まれた。あまりにも弱く、あまりにも貧しいものになられた。その方が私たちのまことの王であって、神の国を私たちの間に来たらせてくださったお方です。この奥義は偉大です。私たちを神の国に迎える、神ご自身の救いの奥義です。

2023年5月24日水曜日

2023年5月24日の聖句

私の霊が萎え果てるときも、あなたは私の小道を知っておられる。(詩編142:4)
すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。(マタイ11:28)

今日の旧約聖書の御言葉は、詩編第142編4節の前半です。後半、つまり上掲の御言葉の直後にはこのように書かれています。「私が歩むその道で、彼らは私の網に罠を仕掛けた。」神が知っていてくださる私の小道、それは、誰かに罠を仕掛けられている道。自分に敵対している者でしょうか。心ない言葉、あるいは、罪に誘う甘言でしょうか。私たちには辛いことや悲しいことが起きます。そのために霊が萎え果ててしまう日もある。しかし、そのような日にも、神が私の小道を知っていてくださる。そこに慰めがある。
神さまは、私たちの「助けて」という声を決して聞き漏らすことがありません。耳を傾けて、私たちの呻きを聞いてくださいます。私たちには、辛かったり、悲しかったり、もうイヤになってしまうこともある。神さまはそのような私たちの進む小道を知っていてくださる。この「小道」という言い方も、慰め深いものです。決して大道ではない。たくさんの人が行き交う表通りでもない。しかし神さまは、私が進むこの道を知り、私を助けてくださる。だから、大丈夫。
主イエス・キリストが私たちを招いてくださっています。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」私のもとに来なさいという招きは、「あなたがたを休ませてあげよう」という約束によって、喜びの招きになります。主イエスさまは私たちを休ませてくださる。私たちは主イエスのところで重荷を下ろすことができるし、苦労から解かれる。キリストの与えてくださる平安が、私たちを憩わせてくださいます。
主イエスさまが私たちに与えてくださる平安は、不思議です。主イエスは「あなたがたを休ませてあげよう」という言葉に続いて、「私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい」とおっしゃいます。キリストの負った軛を負うときに、私たちは安らぎを得る、と言われるのです。キリストは、何よりも私の罪を負ってくださいました。キリストの柔和とへりくだりによって私は救われました。キリストの軛を負うときに、私たちは、私のためのキリストの柔和とへりくだりを最もよく知るのです。

2023年5月23日火曜日

2023年5月23日の聖句

あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおり、守り行わなければならない。右にも左にもそれてはならない。(申命記5:32)
(イエスの言葉)「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22:37~39)

「あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおり、守り行わなければならない。右にも左にもそれてはならない。」主なる神さまの御言葉に従い、主のみこころにしたがって生きる。主は私たちにそれを求めておられる。それでは、いかなる御心に生きることを求めておられるのか。主イエスさまがそれを明らかにしてくださいました。
「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」
神さまは私たちに愛することを命じておられます。私たちが主なる神さまを愛すること。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、私たちの神である主を愛する。そしてこれと同じように大事なこととして、隣人を自分のように愛すること。神さまとの関わりにおいても、隣人との関わりにおいても、ほかの何でもなく愛することを命じておられる。
しかし考えてみれば不思議なことで、愛は内発的な想いですから、命令されてできるものではありません。どんなに偉い人でも、権力者でも、マフィアのボスが脅したとしても、人に命令されても愛なんて出て来ない。愛する振りはできても、真心からの愛ではない。そうであるなら、神さまは、ぜ右にも左にもそれることのない愛を命じておられるのでしょう。
それは、神様ご自身が私たちを愛してくださっているからに他なりません。神様ご自身が愛のお方であるからこそ、私たちも神さまを愛することをお求めになるし、私たちの隣人同士の関係も愛の関係であることをお喜びになる。愛は、一方通行ではあり得ないからです。神さまは私たちを他者と共に生きるものに造ってくださいました。私たちは神を愛し、神に与えられた隣人と共に生きることを喜ぶように、神が私たちを愛を込めて造ってくださいました。ですから神を愛し隣人を愛せよとは、神に造られた自分らしく生きよ、ということではないでしょうか。

2023年5月22日月曜日

2023年5月22日の聖句

そこで、私は喜びをたたえる。太陽の下では食べ、飲み、楽しむことよりほかに、人の幸せはない。これは、太陽の下で神が与える人生の日々の労苦に、伴うものである。(コヘレト8:15)
主にあっていつも喜びなさい。(フィリピ4:4)

コヘレトの言葉は、旧約聖書の中でもとてもユニークで面白いものです。死を越える価値よりも、今の命を喜び、楽しめと言います。預言者たちであれば、神の前に悔い改め、今の儚い楽しみよりも来たるべき世に備えて生きよと言うであろうところで、コヘレトは死すべき命であるからこそ今を楽しめ、と言います。聖書はそうやって本当に多彩なメッセージが響き合っている。交響曲には弦楽器もあれば管楽器もあり、打楽器もある。いろいろな楽器が合わさって一つの芸術表現をします。それと同じように、聖書も様々な響きがハーモニーになって、キリストのお姿が浮かび上がってくる。コヘレトの言葉も、かけがえのない聖書のメッセージを伝えています。
「そこで、私は喜びをたたえる。太陽の下では食べ、飲み、楽しむことよりほかに、人の幸せはない。これは、太陽の下で神が与える人生の日々の労苦に、伴うものである。」食べ、飲み、楽しむこと。これこそ太陽の下での幸せだ、と言います。太陽の下での労苦に伴って、神様は食べたり飲んだりして楽しむ喜びをも与えてくださった。だからこれを喜んで享受し、楽しんだら良い、と言うのです。
もしかすると、私たちにはどこかで信仰とは禁欲のことだ、という思い込みがあるのかも知れません。しかしコヘレトはそうは言わない。限られた命であるからこそ、食べたり飲んだりする楽しみを神からのものとして感謝して喜んだら良い、と言うのです。こういう言葉を聞くと、「主にあっていつも喜びなさい」という言葉は、一つも抽象的なところのない、実に生活に密着した言葉であることに気づきます。私たちは神様に与えられた人生を現に喜んだら良い。神に頂いたものとして、感謝してうけたらいい。
私たちには、人生のすべてを知ることはできません。将来何が起こるのかを知ることは許されていません。将来については、神様がふさわしく備えてくださっていることでしょう。だからそれを心配するよりも、神に与えられた今日を楽しみましょう。その喜びもまた、神を賛美するハーモニーの一つのパートになるのです。

2023年5月21日日曜日

2023年5月21日の聖句

あなたの助けで再び私を喜ばせ、
前向きな精神で私を装い備えさせてください。(詩編51:14)
あなたがたの中に苦しんでいる人があれば、祈りなさい。喜んでいる人があれば、賛美の歌をうたいなさい。(ヤコブの手紙5:13)

今日の旧約聖書の御言葉は、ドイツ語訳の聖書を日本語に翻訳したもののようです。日本語版の「日々の聖句」の編集者の判断で、聖書協会共同訳や新共同訳、新改訳、そしてドイツ語からの翻訳など、そのときそのときに最もふさわしい訳文を採用しているそうです。今日の箇所ではドイツ語からの翻訳が選ばれた。とても興味深い言葉が登場しています。「前向きな精神で私を装い備えさせてください」。前向きな精神という言葉に興味をそそられます。
聖書協会共同訳では、同じ文章をずいぶん違うように訳しています。「導きの霊で私を支えてください。」この「導きの霊」をドイツ語訳では「前向きな精神」と訳していたのでしょう。面白いと思います。そして同時に明らかになるのは、この「前向きな精神」というのは、私たちの気の持ちようという意味ではなくて、神様ご自身が下さる導きの霊、つまり聖霊に由来する前向き、という意味だということです。もしかしたらこのような意訳も許される知れません。「神様にあって楽観的にならせてください。」
神様は私たちを助け、喜びを与えてくださいます。しかしこの詩編第51編は、深い悔い改めの詩編です。ダビデ王が姦通と殺人という、殆ど究極的に重い罪を犯したときの祈りです。喜びどころではない。絶望しかないし、周囲の人々にも深い失望を与えた事件でした。そういう時に喜びだとか前向きだとか、そういう言葉はとてもそぐいません。
私たちには、とても喜びようのない時があります。喜ぶことが許されず、あるいは自分の心の中からも喜びなんて生まれようがないときがある。しかし、神様は最低最悪の罪人を愛するためにキリストをお送りくださいました。この究極の神の愛の事実が私たちを新しくし、消えることのない喜びを与えるのです。決して表面的ではない前向きさ、楽観は、神様以外の何ものにも与えることができない。そういう確かな喜びを、神様は深い憐れみの中でお与えくださいます。それを信じ、キリストを仰いで新しい一週間の初めの朝へと進んでいきましょう。

2023年5月20日土曜日

2023年5月20日の聖句

私を求めなかった者に私は尋ね出され、私を探さなかった者に見出された。(イザヤ65:1)
先にいる者が後になり、後にいる多くの者が先になる。(マタイ19:30)

主イエスのなさった譬え話の中でも最も有名なものの一つは、失われた羊の話です。ある羊飼いが100匹の羊をもっていて、その内の一匹が失われたとしたら、この羊飼いはどうするか。99匹を野に残したまま一匹を探し、見つかるまで探し、見つけたら宴会を開いて喜ぶに違いない、というのです。主イエスはそれが当然だとおっしゃいますが、多くの人が思います。野原に残された99匹は大丈夫なのか、と。
この譬えは、主イエスが徴税人や罪人と一緒にいるのを見咎めたファリサイ派や律法学者の文句をきっかけに始まっています。明らかに、この99匹はファリサイ派や律法学者を意味しています。どうも彼らに対して厭味を言ったということではなさそうです。むしろ、失われた一人を見つけた神の喜び、その宴会にあなたにも入ってほしい、という招きであるのだと思います。
「私を求めなかった者に私は尋ね出され、私を探さなかった者に見出された。」「先にいる者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」今日私たちに与えられた二つの御言葉は、そういう神様の招きの言葉であるのだと思います。これまで神を求めたことがない人が、今や神を求めている。神様がそのことを深く喜んでおられる御言葉です。これまで「先にいる」と思われていた人よりも、むしろ「後にいる」と思われていた人が先にいる。神を求め、キリストの御許にいる。キリストがそのことを喜んでおられる。そして、先にいたと思い込んでいた人々をも招いておられます。さあ、あなたも私のもとへ来い、と。
キリストの招きは私たちの常識よりもずっと激しいし、情熱的だし、その手は長い。これまで神と関わりなく生きてきた人ばかりでなく、神の喜びを拒む「義しい人」をも諦めずに招き続けます。神様の愛は、諦めない愛です。ありがたいことです。主イエス・キリストが、今、あなたを招いておられます。私と共に喜ぼう、私と一緒に宴会をしよう、と。

2023年5月19日金曜日

2023年5月19日の聖句

ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。(サムエル記上17:47)
どんな家に入っても、まず、「この家に平和があるように」と言いなさい。(ルカ10:5)

今日の新約聖書の御言葉は、主イエス・キリストが72人の弟子たちを伝道にお遣わしになるときにかけた言葉です。ある家を訪ね、そこで福音を語ろうとするとき、まず何よりも先にその家に挨拶をする。しかもそこで告げるべき挨拶は「この家に平和があるように」だ、と言うのです。すてきな挨拶です。
もしも伝道する人の挨拶が「あなたは呪われている」とか、「早く自分の罪を認めろ」とか、「あなたのこういうところが悪い」とかその類いであったとしたら、伝道というのはなんと重苦しく、厭な役目なのでしょうか!しかし、主イエスは私たちにそういう言葉を託されたのではありません。「この家に平和があるように!」私たちは平和を告げるために遣わされているのです。(キリストの平和の中で、その光の中で、初めて自分の罪にもまた気付きうるのです。)
この平和は力で相手を押さえつけることによって実現する平和ではありません。「ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。」主なる神様は剣や槍に頼らずに平和を造り出すことがお出来になる。主イエス・キリストの十字架と復活による平和。神との平和であり、私と隣人との平和。キリストの平和を、神は私たちの間に与えてくださる。私たちはその平和を宣言します。キリストの平和がこの家にもありますように!そうやって祝福を告げるのです。
今日も、キリストの平和がありますように。あなたにも、あなたの家族にも。キリストの平和があなたの家にあり、そしてあなたが今日出かけて行って出会う人にも、あなたを通してキリストの平和が届けられますように。主にある祝福を祈っています。

2023年5月18日木曜日

2023年5月18日の聖句

人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。(箴言19:21)
さて、使徒たちは集まっていたとき、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」(使徒1:6~8)

旧約以来、聖書の民にとっての「救い」とは、イスラエルの国の再建でした。王ダビデの子孫が再び現れて、神の民イスラエルの王国を再建する。ですから主イエスが現れたとき、人々はイエスを「ダビデの子」と呼びました。この方こそまことの王に違いない、と期待したのです。ところが、いつまで経ってもイエスは王らしくふるまってはくれない。人々の期待通りの王になってくれない。罪人の家に入り、軍馬ではなくろばに乗ってエルサレムに入ります。イエスは王としては期待外れでした。期待外れの王は十字架にかけられた。ところが、そのイエスを神が復活させた。墓から甦った。それで、弟子たちは知ったのです。この方こそまことの王、メシアだ、と。「メシア」というのは、何よりも「王」という意味です。私たちはイエスをまことの王と信じている。
「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」という弟子たちの問いは、そういう文脈を考えるとよく分かります。復活し、まことの王になられたあなたはいよいよ国を再建してくださるのですね、と新たな期待を込めて問うたのです。しかし、またしても主イエスの答えは、弟子たちの期待とは違うものでした。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」
主イエス・キリストは私たちの期待に従って何かをなさる方ではありません。父なる神様の権威に従って私たちをお治めになります。しかもその御支配は、力によって私たちをねじ伏せるものではない。私たちをご自分の証人として遣わし、福音の言葉を語らせることによって始まる支配です。主は王となられた!この福音の言葉が、神の国がここに来ていることの証しなのです。
私たちもキリストが告げた神の国に仕えます。キリストが宣言した神の福音に生きます。神様がご自分の権威に基づいてお始めになった神の御支配は、私たちの間にももう既に始まっているのです。

2023年5月17日水曜日

2023年5月17日の聖句

主よ、怒りに燃えて私を責めず、憤りに任せて懲らしめないでください。(詩編6:2)
なぜなら、神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたからです。主は、私たちのために死んでくださいました。(1テサロニケ5:9~10)

後に教会の改革者と呼ばれるようになった修道士マルティン・ルターは、自分の罪を真剣に問い、修行に明け暮れました。修道院で清貧と貞潔を厳しく徹底し、それでも沸き起こる自分の罪に苦しみ、懺悔をし、また修行に没頭しました。そのような日々についてルターはこのように言っています。「いかに欠点のない修道士として生きていたにしても、私は、神の前でまったく不安な良心をもった罪人であると感じ、私の償いをもって神が満足されるという確信をもつことができなかった。」「私は罪人を罰する神の義を愛さなかった。いや、憎んでさえいた。……神は福音をもって苦痛に苦痛を加え、福音によって、その義と怒りをもって、私たちを脅される……」。晩年になって、ルターは修行の日々をそのように述懐しています。
なかなかルターほど真剣に自分の罪を問い、それに苦しむということはないかもしれません。しかし、自分の罪やそれに対する当然の神の怒りを本当に真剣に問うならば、ルターと同じ思いにならざるを得ないのではないでしょうか。
私たちにできることは、赦してくださいと祈ることだけです。自分で神さまの前に義を立てることは、真剣になればなるほど、不可能なことです。「主よ、怒りに燃えて私を責めず、憤りに任せて懲らしめないでください。」神が怒りに燃え、罪人に相応の報いをお与えになるのなら、一体誰が生き延びることができるでしょうか。絶対に、私たちは生き長らえることはできません。
ところが、修道士ルターが考えていた福音と、聖書が本当に教えていた福音とは、違うものでした。「なぜなら、神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたからです。主は、私たちのために死んでくださいました。」本当は、聖書は、神が私たちを怒りではなく救いに定めてくださったと言っている。本当のところ、どうしようもない罪人でしかない私を、キリストは愛し、救ってくださったと聖書は言います。ただ神の恵みによってのみ、私は救われた!そのことを知り、ルターの世界が変わりました。神の恵みを知って、ルターは神を愛する者に変わった。私たちも同じ福音にあずかっています。キリストの憐れみと愛が今日もあなたにありますように。

2023年5月16日火曜日

2023年5月16日の聖句

闇と死の陰に住む者たち、苦悩と鉄の枷に締め付けられる捕らわれ人が、苦難の中で主に叫ぶと、主は彼らを苦しみから救い出した。主に感謝せよ。その慈しみと、人の子らになされた奇しき業のゆえに。(詩編107:10,13,15)
義のために迫害された人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。(マタイ5:10)

義のために、すなわち神様のために迫害された人々。その人たちは幸いだ、と主イエス・キリストが言われます。他ならぬキリストがおっしゃるからこそ、この言葉は真実です。
私がこの御言葉から思い起こすのは、香港中会シーリン教会のかつての牧師ウィリアム・イェン先生です。ウィリアム先生は香港で伝道しておられましたが、香港に対する北京の支配が強まり、その自由が侵害される法律が立て続けに定められていった。ウィリアム先生はそれと闘っておられた。やがて、ウィリアム先生は香港で生きることができなくなってしまった。最初は台湾に、そしてその後スコットランドに逃れることになりました。最後はスコットランドで伝道し、教会を建て上げ、その矢先にコロナのために逝去なさった。ウィリアム先生の訃報を聞き、私は今朝の御言葉を思い起こしました。「義のために迫害された人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」
ウィリアム先生はご自分のために生きたのではなく、香港に生きる多くの同胞のために、彼ら・彼女らの自由と人権のために奮闘しました。自由も人権も、神がどのような人にも差別なく与えてくださったものです。体制派も民主派も、結局のところ香港社会の核心的価値はお金になってしまった、とウィリアム先生は嘆いておられた。しかしその中で、福音を信じ、神の国を生き、そのために迫害された。例えこの社会の誰がそれを評価せず、揶揄したとしても、神はすべてをご存じです。
「闇と死の陰に住む者たち、苦悩と鉄の枷に締め付けられる捕らわれ人が、苦難の中で主に叫ぶと、主は彼らを苦しみから救い出した。主に感謝せよ。その慈しみと、人の子らになされた奇しき業のゆえに。」神は必ず叫びを聞いてくださるし、義のために迫害されるものを救いだしてくださいます。主イエス・キリストの恵みと平和に生かされて、私たちもまた義のために生きる者でありますように。

2023年5月15日月曜日

2023年5月15日の聖句

主が国々からーー東からも西からも、北からも南からもーー集めてくださった人々。その人々は主に感謝するであろう。その慈しみと、人の子らになされた奇しき業のゆえに。(詩編107:3,8)
東から西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に宴会の席に着く。(マタイ8:11)

東からも西からも、北からも南からも。主なる神様が国々から集めてくださった人々。その人たちが主にあって心を一つにし、主に感謝を献げ、主を礼拝する。そういう救いの幻を見ている。それが今朝の御言葉です。
国々は、旧約聖書を見ると基本的にはいつも戦争をしている敵同士です。その戦いをしているのはイスラエルであることもあるし、他の国同士が敵対している場面もあります。イスラエルがそれに巻き込まれるということもある。とてもではないが一つになる見込みがない、その可能性も感じられない。そういう人々。それが、東や西、北や南にいる人々であり、それらの間に挟まれながら敵対しているイスラエル自身です。
今も、東と西の間で戦争が起きています。ウクライナに対し、西からは武器や弾薬が提供され、東からは侵略の手が伸びている。北と南の間では、富む者が貧しい者から奪い取っている、搾取の構図がはっきりと固定されている。一体どうしたら戦争がなくなり、富の不平等が解決するのか、私たちには皆目分からない。
キリストが「時は満ち、神の国は近づいた」と宣言なさったのは、まさにこういう世界の只中です。私たちにはどうしても、どうすることもできなくなってしまったこの世界。私たち自身の罪が傷つけているこの世界。しかしキリストの言葉は響いています。「東から西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に宴会の席に着く。」主がかつて敵対していた者たちを呼び集め、一つの食卓に着かせてくださる。その真ん中で、キリストが肉を裂き、血を流しておられる。ご自分を和解のささげ物にしてくださいました。キリストこそ、私たちの結び目。私たちの平和です。
今日も、キリストの平和がありますように。私たちへの神の祝福を、私たちが確かに信じることができますように。

2023年5月14日日曜日

2023年5月14日の聖句

今週の聖句:
神をたたえよ。
神は私の祈りを退けず
慈しみを拒まれませんでした。(詩編66:20)

今日の聖句:
(ダニエルの言葉)「私の神が御使いを遣わしてライオンの口を塞いでくださったので、ライオンは私に危害を加えませんでした。」(ダニエル書6:23)
(イエスの言葉)「私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。また、彼らを私の手から奪う者はいない。」(ヨハネによる福音書10:27,28)

私たちは羊の群れ。弱く、迷いやすく、事実道を誤ってしまう。しかしキリストは私たちの羊飼いでいてくださいます。キリストが私たちを養い、ご自分の命をかけて私たちを守り抜いてくださいます。だから、私たちはキリストの声を聞きます。私たちの真の羊飼いでいてくださるキリストの御声を。「私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。また、彼らを私の手から奪う者はいない。」
この世には、自らを羊飼いと装うたくさんの声が溢れています。他者を支配する人であったり、何らかの社会システムや「常識」と呼ばれるものであったり、そのときや場面によっていろいろな顔を持っている。まことの羊飼いは羊のために命を捨てましたが、偽羊飼いは羊を食い物にする。私たちは、私たちのために命を捨てるまことの羊飼いの声を聞き分けます。永遠の愛に満ちたキリストの御声を。
今週の聖句では、「神は私の祈りを退けず」とあります。神様は私たちの祈りを必ず聞いてくださる。私たちがキリストの御声を聞き分けるのよりも先に、神様が私たちの祈りの声を聞き分け、それに応えてくださる。最初から最後まで、私たちは神様の慈しみの中に置かれているのです。

2023年5月13日土曜日

2023年5月13日の聖句

わたしがあなたと共にいて助け、あなたを救い出す、と主は言われる。(エレミヤ15:20)
それゆえ、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。(ヘブライ4:16)

東京のど真ん中に銀座教会という教会があります。神学校に行っていた頃に何回か足を運んだことがあります。美しい礼拝堂でした。私たちの教会は長老教会の伝統を受け継いでいます。長老教会は礼拝堂は割とシンプルな作りが多い。銀座教会はメソジスト教会という伝統を受け継いでいます。メソジストは長老教会よりも多少壮麗な礼拝堂になっていることが多いように感じます。銀座教会でもそういう印象を受けました。
最も私たちの礼拝堂と違っていたのは、説教壇や聖餐卓がある礼拝堂前方の部分を腰の高さくらいの柵が囲っていたことです。わたしは、そういう礼拝堂の作りをその時に初めて見ました。何だろうと不思議に思って、銀座教会で研修をしていた神学校の先輩に、この柵は一体何かと尋ねた。すると彼は言いました。「恵みの座だ」と。どうやら聖餐の時、陪餐者は前に進み出て、この恵みの座、柵のところで跪いて聖餐にあずかるようです。キリストが整えてくださった食卓に進み出る。堂々と恵みの座に近づいて行く。
主イエス・キリストは両手を広げて私たちを待っていてくださいます。私たちも、誰はばかることなく堂々と進んで行きます。恵みの座へと。神が下さる命を受け取るために、私たちはキリストの伸ばした手にすがり、キリストの愛の中に帰って行きます。主イエスさまの祝福を信じて。
礼拝が、聖餐が恵みの座であることは私たちの教会でも全く変わらないことです。私たちはキリストが差し出してくださった命にあずかって生きています。明日は主の日です。礼拝を献げます。キリストの恵みにあずかって、時宜に適った助けをいただくために、堂々と恵みの座である礼拝へと進み出ていきましょう!

2023年5月12日金曜日

2023年5月12日の聖句

彼らは泣きながらやって来る。
わたしは彼らを、
慰めながら連れ戻る。
わたしは彼らを、
水の流れのほとりに、
つまずくことのない平らな道に導く。
まことに、わたしはイスラエルには父である。(エレミヤ31:9)
あなたがたは今も悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。(ヨハネ16:22)

「まことに、わたしはイスラエルには父である。」私たちはキリストに教えていただいたとおりに、「父よ」と神様に向かって祈ります。神様は私たちの父でいてくださる。主ご自身が私たちに言ってくださるのです。「まことに、わたしはイスラエルには父である。」
このお方が私たちの父でいてくださるとは、泣いている私たちを慰め、渇く私たちを水のほとりに、つまずく私たちを平らな道に導いてくださる、ということです。私たちの神様は慈しみ深い父でいてくださる。だから私たちは神様の優しさを信じて「父よ」とお呼びして祈ります。この方が必ず祈りを聞き、私たちを慰めてくださると信じて。
どのような思いで今日の朝をお迎えになっているでしょうか。疲れがとれていなかったり、何か心配になることで心を塞がれていたり、悲しみに覆われたりしていないでしょうか。そのような時にこそ、「父よ」とお呼びして祈りたい。この方は慈しみの父として私たちを慰め、必ず私たちの涙を拭ってくださるからです。
主イエスのくださる究極の慰め、それは主ご自身が私たちと再び出会ってくださることだ、と言われます。主イエスさまと顔と顔とを合わせてお目にかかる日が必ず来る。だから大丈夫、必ず私たちは喜びで満たされる。誰にも奪い去ることのできない喜びに私たちは覆われる。これが、主イエス・キリストの約束であり、私たちの父でいてくださる神様の約束なのです。

2023年5月11日木曜日

2023年5月11日の聖句

主はこう言われる。ぶどうの房に汁があれば、それを損なうな。そこには祝福があるから、と人は言う。私はわが僕らのために、すべてを損なうことをしない。(イザヤ65:8)
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17)

ぶどうの実が潰れて腐りかけているように見えても、もしもそれが発酵しているなら葡萄酒になります。そこには祝福がある。見てくれば悪くなっても捨ててはならない。人はそのように言う。人の知恵はそういうものだ。悪く見えても実際には良いものを探して、活かす。ところが、主なる神様のまなざしは根本的に違います。「私はわが僕らのために、すべてを損なうことをしない。」主なる神様は私たちに見所があるかどうかに関係なく、悪く見えるけれど本当は良いものだからということではなく、ただ私たちへの憐れみとご自身の愛のゆえに、私たちを損なうことなく救ってくださいます。
聖書は驚くべきことを言います。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」神様は私たちを裁くためではなく、救うためにキリストをお送りくださった。それは私たちに見所があるからとか、今はぐちゃぐちゃに見えてもよく発酵すれば改善の余地があるからとか、そのようなことには関わりが無いのです。ただキリストに示された神の愛が確かであるから、神は私たちを裁くのではなく救ってくださった。
今日生きる私たちのこの命は、主イエス・キリストの愛によって支えられています。私たちの命、存在、今日歩むためのすべてを、私たちを裁くのではなく救うお方が保ってくださっている。だから今日、私たちは生きることができるのです。

2023年5月10日水曜日

2023年5月10日の聖句

私の手は短すぎて、贖い出すことができず
私には救い出す力がないと言うのか。(イザヤ50:2)
すると、規定の病を患っている人が近寄り、ひれ伏して、「主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります」と言った。(マタイ8:2)

規定の病。以前使っていた新共同訳の聖書では「重い皮膚病」と翻訳されていました。旧約の時代では非常に忌諱されていた病気でした。旧約聖書にはこのような言葉があります。「規定の病にかかった人は衣服を引き裂き、髪を垂らさなければならない。また口ひげを覆って、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。(レビ記13:45)」そうやって、人が自分に近づかないようにするのです。今日のマタイによる福音書に登場する人も、同じように生きていたことでしょう。
この病にかかった人は本当に辛い目に遭わされていました。絶望という言葉などでは足りないと思います。そんな一人の人が、律法の禁を犯して主イエスの御許に近寄り、言うのです。「主よ、お望みならば、私を清くすることがお出来になります」と。主イエス・キリストはこの人におっしゃいます。「私は望む。清くなれ」!
もしかしたら私たちはすぐに、神様には私を救うことなんてお出来にならないのだと思い込んでしまうところがあるのかも知れません。あまり期待しすぎるとかえって自分が傷つくかも知れないから、適度なところでやめておこう、と。
ところが主なる神様はおっしゃいます。「私の手は短すぎて、贖い出すことができず、私には救い出す力がないと言うのか。」ひと言で言えば、「嘗めるなよ」ということではないでしょうか。神様は、私たちが神様を見くびり、私たちを救う力など無いと考えることをお許しにならない。神さまは私たちを救う力をお持ちだし、事実そのためにキリストを十字架にかけ、復活させたのです。
本当の問題は、主なる神様に私たちを救うことがお出来になるかどうかではなく、主が何を望んでおられるのか、ということです。そして今日私たちが聞く福音は、主イエス・キリストは私たちの救いを望んでいてくださる、ということです。キリストは私たちの救いを望んでいてくださる!
ですから、キリストは私たちの救いのための最もふさわしいことをしてくださいます。私たちを神の国に生かすために、私たちのための御業をしてくださっている。ですから私たちの祈りは、これです。「主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります」アーメン!

2023年5月9日火曜日

2023年5月9日の聖句

天の神は永遠に滅ぼされることのない王国を興されます。(ダニエル2:44)
(イエスの弟子たちへの言葉)「わたしの父がわたしに王権を委ねてくださったように、わたしもあなたがたに王権を委ねます。そうしてあなたがたは、わたしの国で私の食卓に着いて食べたり飲んだりするようになる。」(ルカ22:29~30)

主イエスは、時に途方もないことをおっしゃいます。あまりのことに言葉を失ってしまう。「わたしもあなたがたに王権を委ねます」とおっしゃっています。王権?弟子たちに?何という言葉でしょうか。
ここは少し文脈を見た方がよいように思います。時は主イエスが十字架にかけられる前の晩。いわゆる最後の晩餐での対話です。主イエスが弟子たちと共に食卓を囲み、パンを取ってご自分の体と言って与え、杯を取ってご自分の血と言ってお与えになった。すると弟子たちは自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、と言い争いを始めました。十字架を前にした主イエスの真剣さからしたら本当にひどくて、目を覆いたくなるような醜態です。これに対して主イエスは「異邦人の王たちはその民を支配し、民の上に権力を振るう者が恩人と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない」とおっしゃって、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」とお命じになった。そういう話に続けて、主イエスは今日の御言葉をお語りになったのです。
主イエス・キリストが私たちに与えてくださるという王権。それはこの世の権力者が振るっているような王権ではないようです。私たちが常識的に受け入れている王権とは違うようです。いちばん若い人のように仕える者になれ、と主イエスはおっしゃいます。事実、キリストご自身が弟子たちに仕えてくださいました。主イエスはこの食卓で、パンをご自分の体、杯をご自分の血と言ってお与えになった。実際に数時間後に主イエスはご自分の肉を裂き、血を流した。そうやって弟子たちのために仕えてくださった方が、私たちにも仕える王になれとおっしゃるのです。そして、王イエスに従う私たちという王は、神の国でキリストの食卓に連なることが許されている。私たちはキリストの下さる報いだけを求め、キリストがしてくださったように生きる。主イエスさま御自身が、私たちをそのような道へと招いてくださっています。

2023年5月8日月曜日

2023年5月8日の聖句

神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」(出エジプト記3:14)
神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。(ローマ8:31)

主なる神様は、モーセにご自分のお名前を「私はいる、という者である」と自己紹介なさいました。「私はいる、という者である」というのは不思議なお名前です。神様は何かの概念とか神秘的な体験とか、崇高な教えではなく、ご自身おられるお方です。モーセにあるいはアブラハムやダビデやシモン・ペトロや私たちに、出会ってくださるお方です。「私はいる、という者である」とおっしゃって。
モーセが神様と出会ったのは、ミデヤンにある山、ホレブでした。モーセはエジプトで生まれ育ちました。ひょんなことからエジプト人の王女に育てられました。しかし成人してからエジプト人が同胞ヘブライ人を虐げているのを見て彼を殺してしまった。そんなことから彼はエジプトを出奔して荒れ野に逃れ、ミデヤンの地にたどり着きました。彼は羊飼いになった。それから長い年月が経ち、神がモーセと出会ってくださったのです。
ヘブライ人ではあってもエジプトの王女に育てられたモーセがどのように主なる神を信じていたのか、あるいはそもそも信じていなかったのかはよく分かりません。実際、ミデヤンで生まれたモーセの息子は割礼を受けていませんでした。モーセ自身、殆ど神様のことを知らなかったのかも知れません。そんなモーセに、主なる神様が出会ってくださったのです。
「私はいる、という者である」という神様のお名前は、私はお前に出会う者だ、という響きを持ちます。神様は私たちに出会ってくださる方。どこかにある崇高な概念ではなく、私たちのところへ来られ、出会おうとされるお方です。神は、生ける神です。このお方は私たちにも出会おうとされます。毎日、新しく。
そしてそのお方が私たちの味方でいてくださる。「神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。」私たちと出会い、私たちと共にいてくださる方は、罪と悪の力から私たちを守り、救ってくださる。モーセを遣わしてエジプトの国、奴隷の地から導き出してくださった方は、私たちを救ってくださいます。キリストの力強い御手によって、私たちは今日も守られています。

2023年5月7日の聖句

今週の聖句:
新しい歌を主にうたえ。まことに主は奇しき業を成し遂げられた。(詩編98:1)

今日の聖句:
あなたを憎む者が飢えているならパンを食べさせ、渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは彼の上に炭火を積み、主はあなたに報いてくださる。(箴言25:21~22)
あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。(ルカ6:35)

私たちの生きる出発点は、ただただ、いと高き方の子、主イエス・キリストが私たちにしてくださったことです。ただキリストに愛して頂いただけ。それが私たちのすべてです。「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」と御言葉は証言します。キリストの愛によって私たちは命を受け、今生きています。
この事実が私たちの生き方を導く。「あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」神様が私に情け深くしてくださったように、私も情け深く生きよ、と聖書は言います。
ここで聖書は「何も当てにしないで」と言っています。神様との取引として私も敵を愛します、というのではない。何よりも先ず神様が神様に敵対していた私を愛してくださった。それはもう事実になっている。その神の事実に生きる時、私たちは神の子としてふさわしく生き始める。
今日は日曜日です。礼拝を献げます。私たちはこの主の日に、私たちの原点に引き戻されます。キリストの愛と憐れみに生かされている自分であることにもう一度新しく気づきます。主イエス・キリストの平和が私を生かしていることを再び知ります。その平和の中で、私たちはもう一度新しく隣人と出会うのです。

2023年5月6日土曜日

2023年5月6日の聖句

苦悩の中から主に呼びかけ、わが神に叫びを上げると、主は私の声を聞く。(詩編18:7)
イエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。(マルコ4:38)

「苦悩の中から主に呼びかけ、わが神に叫びを上げると、主は私の声を聞く。」この信用、主に守られている安心感、祈りが聞かれているという信頼。これが神を信じるということではないでしょうか。確かに、私たちには疑ってしまう時もあるかも知れません。どのような時にも信じ続けられるほど強くはないかもしれません。祈ってもむなしくなってしまう日もあるかも知れない。
あの嵐の中で主イエスと一緒に舟に乗っていた(はずの)弟子たちも、そうでした。「イエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、『先生。私たちが死んでも、かまわないのですか』と言った。」主イエスはこのように起こされて、舟に吹き付けていた風や波を止めてくださいました。これで一件落着、無事に済みました・・・とはなりませんでした。主イエスは弟子たちを叱ります。「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか。」主イエスは弟子たちの不信仰をなじった。
主イエスはこの舟におられるはずなのに、舟は風や波に襲われている。今にも沈みそうになっている。肝心の主イエスは・・・眠っておられる。そう思って、弟子たちは怖くなってしまいました。これは私たちの状況とうり二つです。教会という舟に、主イエスは共にいてくださるはずです。ところが私たちに吹き付ける風や波に対して、主は何もしてくださらない。主は眠っておられるのか。何もしてくださらないのか。「先生。私たちが死んでも、構わないのですか。」ところが、それは不信仰な問いだと主は言われます。主がここにおられることを知らないのか、と。本当に眠っていたのは主イエスではなく、弟子たちや私たちの信仰だったのではないでしょうか。
「苦悩の中から主に呼びかけ、わが神に叫びを上げると、主は私の声を聞く。」主は必ず私たちの祈りを聞いてくださいます。私たちはそのことを本気で信じましょう。不信仰には、私たちがそれに真剣に向き合い、付き合わなければならないほどの価値がないのです。私たちは不信仰ではなく信仰を尊びます。キリストを信じ、キリストを信頼して祈ります。この方は必ず私たちの祈りを聞き、応えてくださるから。私たちはキリストを信じます。

2023年5月5日金曜日

2023年5月5日の聖句

私はこの地の過ちを一日のうちに取り除く。(ゼカリヤ3:9)
この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。(1ヨハネ2:2)

旧約聖書のレビ記を読むと、旧約の時代の礼拝の作法についてとても細かく規定されています。特に罪を贖うための礼拝について、神に献げ物をするときのことについて丁寧に定められています。
「奉納者が献げものとする牛の皮をはぎ、その体を各部に分割すると、祭司アロンの子らは祭壇に薪を整えて並べ、火をつけてから、分割した各部を、頭と脂肪と共に祭壇の燃えている薪の上に置く。奉納者が内蔵と四肢を水で洗うと、祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。(レビ1:6~9)」
罪を贖うために神に犠牲を献げ、燃やして宥めの香りとする。そこには、私たちが神のものとして生きるとはいかなることなのかを真剣に問い続けた旧約の信仰の問いがあったのだと思います。神のものとしてふさわしくない自分を神の前にお詫びし、大切なものを献げ、神と和解させて頂くのです。
しかし神のものであるはずなのに、その真実とかけ離れた私たちの現実の深刻さは、無限です。どこまでも神の前に逆さまな私たちです。それは何よりも愛の破綻に現れる。神を真実に愛しえず、隣人をも真実に愛しえない私たちです。だから、神ご自身が真実なささげ物を御自ら献げてくださいました。「この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。」この方、すなわちイエス・キリストこそ、私たちの罪も世界の罪も宥めるための香り良きささげ物になってくださったのです。
「私はこの地の過ちを一日のうちに取り除く。」主は言われます。そのために、私たちではなく神ご自身が働いてくださいました。神ご自身がキリストを献げ、私たちの罪を取り除いてくださいました。私たちは罪から救われている。聖書はそう宣言します。
私たちと神との間を宥めてくださった主イエス・キリストに、栄光と誉れが代々とこしえにありますように。

2023年5月4日木曜日

2023年5月4日の聖句

わたしの舌はあなたの仰せを歌うでしょう。あなたの戒めはことごとく正しいのですから。(詩編119:172)
わたしは福音を恥としません。福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。(ローマ1:16)

キリスト教会のとてもすてきな特徴は、歌に溢れていることです。礼拝では讃美歌を歌います。最初は讃美歌が好きで教会に行ってみたという人もおられるのではないでしょうか。2000年間のキリスト教会の歴史で、数え切れないほどの無数の讃美歌が生まれました。いや、旧約の時代から考えれば、更にたくさんあります。私たちは神を賛美して歌い、祈りを込めて歌い、喜びも嘆きも、歌にして神に献げます。コロナのために、私たちの教会の礼拝でも讃美歌の曲数を少し減らしたり、一時期は一節のみ歌ったりもしました。しかし、歌うこと自体は止めませんでした。私たちは歌うことで信仰をつむぎます。
「わたしの舌はあなたの仰せを歌うでしょう。」私たちが歌うのは「あなたの仰せ」と言います。神さまの御言葉から私たちの歌が始まる。それは、主の御言葉がことごとく正しいものであるから。私たちは神の言葉に導かれ、神の言葉に基づいて歌う。
「歌いつつ、聖徒らと共に」という本があります。キリスト教会の葬儀について書かれた本です。2000年前の生まれたばかりのキリスト教会。まだ周りに多くのキリスト者はいませんでした。ちょうど今日本にいる私たちと同じようなマイノリティであったと思います。彼らは仲間が地上の生涯を終えると、昼日中に、歌をうたいながら葬りました。賛美の歌をうたって葬式をした。当時のローマ社会ではかなり奇異に映ったようです。当時の社会常識では、普通、葬式は夜の闇の中でひっそりと行うものだった。それを昼間に、しかも歌ってやっている。ところがキリスト教会の葬りは、そのスタイルのままで2000年間続きました。今でも私たちは歌いつつ葬ります。聖徒らと共に。私たちの舌は、キリストの福音を歌います。葬送の列にあってもこの賛美は終わらない。生きている時にも死ぬ時にも、キリストが私たちの救いだからです。
「福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。」神様の救いの御手は、私たちが考えているよりも遙かに長く、確かです。この救いをもたらす神の力を信じ、私たちは今日もキリストの福音を歌いつつ、歩んでいきます。

2023年5月3日水曜日

2023年5月3日の聖句

聖なる者となりなさい。あなたがたの神、主である私が聖なる者だからである。(レビ記19:2)
キリストによって希望に満たされた私たち皆が、キリストの栄光への賛美となるためです。(エフェソ1:12)

私たちがキリストの栄光への賛美となる!使徒パウロはそのように言います。驚くべき言葉です。私たちが賛美を歌うとか、賛美の祈りをささげるとか、それが普通の言葉だと思います。ところが使徒は驚くべきことに、私たち自身がキリストへの賛美になると言います。私たちの存在がキリスト賛美そのものになる!
聖書は私たちに先立って、私たちの真の姿を発見します。私たちは自分を小さく考えすぎているのかも知れません。私は信仰深くないし、つまらない人間だと思い込んではならないのです。キリストに望みを置き、キリストを希望とする私たちを、キリストはご自分の栄光への賛美そのものにしてくださっている。私たちの存在を通して、キリストの御名が賛美される。そんな驚きの世界がここに広がっています。
「聖なる者となりなさい」と今日の旧約では言われています。聖なる者とは、神のものという意味です。神のものとして生きろ、と言っている。私たちの立派さとか信仰のすごさを誇るというのではなく、ただただキリストの愛と憐れみに生かされ、神のものとして生きる。神に望みを置き、キリストの救いにすがって生きる。それが、聖なる者となるということです。ただ神の救い、その憐れみによって、神は私を新しくしてくださる。
キリストは私たちをご自分の深い愛によって愛し、命を与えてくださいました。この後は、私たちはキリストのものとして生きていきます。それが「私らしい」ということの本当の意味です。主イエス・キリストの祝福が、今日もあなたにありますように。

2023年5月2日火曜日

2023年5月2日の聖句

善であられる主が、神を求めることに心を定めたすべての人々に、憐れみ深くあろうとしてくださるように。(歴代誌下30:18~19)
(イエスの言葉)私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マルコ2:17)

「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
主イエス・キリストのお言葉です。そう、キリストは招いておられます。罪深いあなたを!あなたはキリストに招かれている。
ところが、もしかしたら私たちには、キリストに招かれるということが本当にはよく分かっていないのかも知れません。キリストは私たちを罪人だからという理由で招いてくださいました。他の理由はないのです。医者を必要とするのは病人だから、魂の医者であるキリストが罪という病気に冒されている私たちを招いてくださいました。医者が患者のところに行くのは、そうしないと患者が死んでしまうからです。相手が健康だからとか、まだまだ大丈夫そうだからという理由で医者はやって来ません。医者が来ないともっと病気がひどくなってしまうから、来てくれる。
「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」そうやってキリストは私たちのところへ来て、私たちを招き、私たちを喜んでくださいました。主イエス・キリストは罪深い私たちの医者、救い主です。
「善であられる主が、神を求めることに心を定めたすべての人々に、憐れみ深くあろうとしてくださるように。」もしかしたら、このすばらしい御言葉は、旧約聖書のある限界の中にある言葉なのかも知れません。キリストは私たちがご自身を求める前に私たちのところへ来てくださいました。「罪人」というのは、全く神に背き、神を求めることも愛することもしない人、という意味です。罪人である私を憐れみ、罪の病の医者として来てくださったキリスト。このお方の憐れみによって初めて私は救われ、そのことに気づいて初めて、神を求める心が芽生えました。キリストが来てくださったから、私は神を求めだしたのです。
この主イエス・キリストは、今日も私たちのところへ来てくださっています。私たちを招いてくださっています。罪深い私を。

2023年5月1日月曜日

2023年5月1日の聖句

そのしるしはいかに偉大であり、その奇跡はいかに力強いことか。その王国は永遠の王国、その支配は代々に及ぶ。(ダニエル3:33)
私たちは揺るがされない御国を受けているのですから、感謝して、神に仕えていきましょう。(ヘブライ12:28)

主イエス・キリストは「時は満ち、神の国は近づいた」と言って宣教なさいました。キリストが宣言した福音は、神の国の福音です。神の国が私たちのところへ来る。
私たちは主イエスのことを「キリスト」とお呼びします。キリスト、ヘブル語では「メシア」と言う。メシアとは、油を注がれた者という意味です。旧約聖書では油を注がれ、聖別されて就く職務として、王、預言者、祭司と三つあり、主イエスはまことの王、まことの預言者、まことの祭司としてキリストと呼ばれると言われます。それは確かにその通りなのですが、新約聖書が書かれた時代には、メシア・キリストの第一の意味は、何よりも「王」だったようです。主イエスはまことの王。一体どこの王なのか?神の国です。主イエスは神の国の王として、キリストと呼ばれる。
「そのしるしはいかに偉大であり、その奇跡はいかに力強いことか。その王国は永遠の王国、その支配は代々に及ぶ。」旧約以来、まことの神の支配が打ち立てられ、神の国がやってくると、神の民は信じてきました。例え自分たちの国がどんなにめちゃくちゃになり、自分たちの国がデタラメになったとしても、神はご自身の支配する力をもって私たちの王として私たちのところへ来てくださる。その約束されたまことの王、キリスト、それが主イエスなのです。
主イエスが私たちのところに来られ、十字架にかけられ、復活し、神のお立てになった王キリストであることがはっきりと示されました。主イエスが宣言した神の国は、このお方においてもう既に来ている。私たちは王であるキリストの支配する神の国にもう生き始めている。神の国の国民なのだ。ですから、聖書は私たちに訴えかけます。「私たちは揺るがされない御国を受けているのですから、感謝して、神に仕えていきましょう。」神の国の国民として、その民らしく生きよう、と言うのです。キリストが私たちのためにご自分の内臓を痛めて憐れみ、私たちを愛してくださった。私たちはこのお方の憐れみの内に生きる。このお方の憐れみを生きる。主が、私の内に働いてくださることを信じて。
今日、私たちの新しい一日は、主イエス・キリストの御国に生きる尊い一日です。祝福がありますように。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...