2021年4月30日金曜日

2021年4月30日(詩編119:45〜48)

詩編119:45~48(ワウ)
私は自由に歩みます。
あなたの諭しを尋ね求めているからです。
あなたの定めを王たちの前でも話します。
何ら恥じるころはありません。
私はあなたの戒めを愛し、喜びとします。
私はあなたの戒めを愛し
  それに向かって両手を上げ
あなたの掟に思いを巡らします。(45~48節)

「あなたの定めを王たちの前でも話します」と言っていますが、恐らくこの「王たち」というのは、イスラエルの王たちではない別の支配者たちのことであろうと思います。つまり、同じ信仰を共有していない支配者たちのことです。そうでなければ、わざわざ「何ら恥じるところはありません」と言う必要がないので、主なる神様を信じていない人を前にしても主の定めを表明し、そこに生きていきますという宣言であろうと思います。
私が母教会で出会ったあるキリスト者がしてくださった話を思い出しました。その方は今はもう80歳くらいでいらっしゃると思いますが、私が学生だった頃(20年くらい前)に伺った話です。一般の企業で勤め上げた方です。彼の会社の屋上には社長が建てた小さな社があった。社員たちは朝礼か何かの時にそこを参拝することを求められていた。しかしこの方はキリスト者でしたから、それはできなかった。そこで、事情を話し、参拝しない許しを得たのだそうです。ただし、この方は自分がキリスト者であることを盾にとって周りを顧みずに断固拒否したのではありません。誠実に仕事をし、周囲の信頼を得て、お前がそう言うならと言って頂いたそうです。私にとっては忘れられない、信仰の証しでした。
主の定めに生きることは、自由になることです。周りの空気に従うことも不自由ですし、周りへの思いやりを忘れて自我を通すことも不自由です。私たちは神さまへの愛と喜びをもって信じます。神さまへの愛と喜びは、隣人を愛し、共に生きる喜びと矛盾しないはずです。私たちは神が与えてくださった愛の掟、キリストの愛が込められた御言葉を思い巡らし、神と隣人への愛をもって、今日も生きていきます。

2021年4月29日木曜日

2021年4月29日(詩編119:33〜40)

詩編119:33~40(へー)
空しいものを見ないよう、私の目をそらせ
あなたの道で私を生かしてください。(37節)
御覧ください。私はあなたの諭しを慕います。
あなたの義によって私を生かしてください。(40節)

空しいものを見ないように、私の目をそらさせてください。そういう祈りに触れて、私はヨハネの黙示録の言葉を思い出しました。「しかし、ティアティラの人たちの中で、この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる深みを知らないあなたがたに言う。私は、あなたがたにほかの重荷を負わせない。ただ、私が来るときまで、今持っているものを固く守りなさい(黙示録2:24~25)」。ティアティラの教会は、偶像礼拝にいざなう偽預言者が現れていたようです。神ならぬものに教会の人々を誘いゆく。ティアティラ教会は行いと愛と信仰と、あらゆる面で優れていました。しかし、この偽預言者を大目に見てなすがままにさせているところに大きな問題がある。そのように指摘されています。
そういう話の流れの中で、「しかし、ティアティラの人たちの中で、この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる深みを知らないあなたがたに言う」と言われています。この偽預言者に惑わされず、ただ神様だけを礼拝することをやめなかった人たち。この人たちは「サタンのいわゆる深みを知らない」と言われています。神さまは、彼らにほかの重荷を負わせることはないのです。
うっかりすると、神さまだけのことではなくて、空しいものやサタンの深みと言われているようないろいろな事もよく見て、しっかりと比較した上で神さまを信じた方が良いと考えてしまいがちです。しかし、聖書は、それは必要ないと言うのです。むしろ、空しいものから私の目をそらさせてくださいと祈ったらいい、と言います。神さまは、ご自分を信じること以外の重荷を私たちに負わせないのです。
私たちが愛し、慕うのは、空しいものでもサタンの深みでもなく、「あなたの諭し」、つまり神さまの御言葉です。これこそが私たちを生かしてくださる。私たちは単純な心を持ってまっすぐに神さまを信じてよいのです。

2021年4月28日水曜日

2021年4月28日(詩編119:25~32)

詩編119:25~32(ダレト)
私の魂は塵の中に伏しています。
あなたの言葉どおりに私を生かしてください。(25節)
私の魂は悲しみのあまり溶けてしまいそうです。
あなたの言葉どおりに私を立ち上がらせてください。(28節)

「私の魂」という言葉が繰り返されています。魂というのは、どこかに浮かんでいる人魂のようなもののことではありません。ヘブライ語のネフェシュという単語です。息とか喉、あるいは命といった意味もあります。ここでの喉というのは、基本的には渇いた喉、砂漠で渇き、カサカサになった喉を指すそうです。聖書で「魂」というのは、もろくて弱い人間としての存在を表す言葉です。
魂である私が、塵の中に伏している。悲しみのあまり溶けてしまいそうになっている。もともともろくて弱い存在ですが、悲しみの中でなおのこと弱り果て、自分では立ち上がることができないほど傷ついている。それがこの詩編です。
そのようなとき、この詩編が求めているのは「あなたの言葉どおりに私を生かしてください」ということです。神さまがその御言葉によって宣言した救いの約束の通りに私を生かしてください、と祈ります。そうでなければ、立ち上がることができないのです。
今日の箇所では、最後に「あなたの戒めの道を走ります。あなたが私の心を広げてくださるからです」と言っています。とっても良い言葉です。悲しみ、塵に伏すようなとき、私たちの心は狭いところに閉じ込められて、息苦しくなってしまいます。そういう狭くなってしまった心が広がるのは、神さまの戒めの道を走るとき、私を生かしてくださる神さまの言葉に従うとき。この詩編はそのように言っているのです。
これは大いなる解放の言葉であると思います。私たちは、悲しくて悲しくて仕方ないとき、塵の中に倒れて自分では立ち上がれないとき、自分の根性でどうにかしなくてよいのです。神さまの御言葉に耳を傾けて、そこで宣言されている福音を信じて受け取ればよい。それが私たちの救い。圧迫された私たちの心を広くするのです。悲しみに沈む私への確かな慰めは、キリストが父とお呼びする神さまが与えてくださいます。

2021年4月27日火曜日

2021年4月27日(詩編119:17~24)

詩編119:17~24(ギメル)
たとえ高官たちが座し、私に何を言ったとしても
あなたの僕はあなたの掟を思い巡らします。(23節)

この言葉を読んで、私は内村鑑三不敬事件を思い出しました。1891年、第一高等中学校の教員であった内村鑑三が、教育勅語奉読式で天皇の御名に対して最敬礼をしていなかったということで非難を受け、社会問題化し、その後内村は依願退職することになりました。各界でさまざまな反響を呼び起こした大事件でした。日本キリスト教会の牧師である植村正久がこの事件について意見を表明しています。「吾人は新教徒として、万王の王なるキリストの肖像にすら礼拝することを好まず」、「何故に今上陛下の勅語にのみ礼拝をなすべきや」。つまり、プロテスタント教会は徹底してマリア像もキリストの像も、聖人の肖像も排しているのに、なぜ天皇の勅語に礼拝しなければならないのか、と問います。そして、内村を糾弾するこの時代の精神に対して、このように言います。「吾人の良心を試練するの出来事」という文章からの言葉です。

こうした風潮は、「憲法にも見えず、法律にも見えず、教育令にも見えず、ただ当局者の痴愚なる、頭脳の妄想より起こりて、陛下を敬するの意を誤り、教育の精神を害」するするものであり、「かかる弊害を駁撃せざるを得ず、これを駁撃するのみならず、中学校より、また小学校より、これらの習俗を一掃するは国民の義務なりと信ずるなり」、「事の大小こそ異なれ、運動会等の申し合わせと毫も異なることなく、まったく校長その他自余の人々の頭脳より勝手に案出せるものに過ぎざるなり。」

今朝の私たちに与えられた聖句では、「高官」と言われていますが、国家的権力者でも世間でも、あらゆる力のもとは同じです。そのような権威が何を言おうとも、私は神とその御言葉だけを礼拝する。この詩編も、植村も、また内村も、その信仰に立っていたのではないでしょうか。
その根拠は「私はこの地では寄留者です」という19節の言葉に言い表されていると思います。私たちは寄留者。天の故郷を目指す旅人です。この世界では仮住まいに過ぎません。だから、本国である神の国の国民として、この世界にあってただ神だけを礼拝して生きていくのです。

2021年4月26日月曜日

2021年4月26日(詩編119:9~16)

詩編119:9~16(ベト)
私はあなたの掟を楽しみとし
あなたの言葉を忘れません。(16節)

私の持っていたイメージではおよそ結びつかない言葉が結びつけられていました。「私はあなたの掟を楽しみとし」と言うのです。「掟」と「楽しみ」とは、およそかけ離れたものだと思っていました。しかし、この詩編は神の掟を楽しむと言っています。神さまが与えてくださった掟に従うことは、楽しいこと。それは神さまを信じることが楽しいことだからです。この詩編を読むことによって、私たちはそのことに気付きます。
神さまに従うのは、しかめっ面をしてすることではありません。楽しいことです。掟という言葉が持っているイメージは、精進してそれを守ること、厭でも絶えなければならないこと、というような気がします。もしも「掟」が、誰かどこかの偉い人に無理矢理命じられて、仕方なく従わなければならないものだとしたら、それは楽しいとは言えないと思います。「自粛要請」に喜んで従う人は少ないと思います。しかし、神さまの掟はそうではありません。
神さまが私たちに与えた掟の代表である十戒は、このように始まっています。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」(出エジプト記20:2)。神さまは、奴隷の家から導き出し、救い出した者に掟を与えます。かつては奴隷であった者が再び奴隷とならないために、自由に生きるための指針として、喜んで生きるための道案内として、掟をお与えになったのです。
自由に生きているつもりでいながら、私たちはしばしば何かの奴隷になります。願望の奴隷であったり、人目や世間体の奴隷であったり。しかし神さまは私たちを奴隷にはしておかれません。奴隷の家から解放してくださったのですから。私たちは自由な愛の選択として、神さまに従います。神さまを信じることを楽しみます。人間らしく生きることのできる広い場所が、ここに広がっているのです。神さまが私たちを自由にしてくださいました。人間らしく生きる道を拓いてくださいました。私たちは奴隷としてではなく神さまに従う者として生きる自由へ、招かれています。

2021年4月25日日曜日

2021年4月25日(詩編119:1〜8)

詩編119:1~8(アレフ)
あなたは命じられました。
あなたの諭しを固く守るように、と。
私の道が確かでありますように
あなたの掟を守るために。
そうすれば、あなたのどの戒めに目を留めても
恥じ入ることはありません。(4~6節)

詩編119は176節にも渡る長大な詩編です。しかしただダラダラと続いていると言うことではなく、8節ずつ22のまとまりからできています。それぞれの連の最初に「アレフ」とか「ベト」などと書いてありますが、これらはヘブライ語のアルファベットの名前です。例えば1から8節は、すべてアレフという文字から始まっています。その意味で、極めて韻文らしい詩編ということができます。(ちなみ、「アルファベットによる詩」と書いてある詩編はすべて何らかの仕方で似たような作りになっています。)
文字の上だけではなく、内容も一貫しています。主の律法、戒め、掟、言葉などのキーワードが散りばめられている。これらはすべてモーセ五書と呼ばれる創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記そのもの、あるいはそこに書かれた律法を指しています。今日与えられた1から8節では、主の掟を守り、私の道が確かな者でありますように、と祈っています。神の命令に従って生きたいという願いの告白です。
もしかしたら、私たちには、新約聖書のファリサイ派批判を少し誤解しているところがあるのかも知れません。「律法を守る私」が「守らないあなた」を差別したり、自分を誇ったり、自分の力でやっていけると考えることは謬りだと思います。しかし、主イエスは律法を廃止するのではなく、完成するために来られました。律法は、キリストを信じる私たちの生きる道案内です。ツアーコンダクターです。
1節では、主の律法に従って生きる者は幸いだと言います。神さまを信じ、神さまに従うことは私たちの幸い、私たちの喜び。神さまは私たちを我慢や根性の道に招いたのではなく、神の愛を生きる喜びへと招いてくださいました。神さまの前に生きるときにこそ、私たちの道は確かであるのです。

2021年4月24日土曜日

2021年4月24日(詩編118)

詩編118
私は激しく突かれて倒れそうだったが
主が私を助けてくださった。
主こそ私の力、私の歌。
私の救いとなってくださった。
歓喜と勝利の声が正しき人の天幕に響く。
「主の右の手は力を振るう。
主の右の手は高く上がり
主の右の手は力を振るう。」(13から16節)

「主こそ私の力、私の歌。」力強く、美しい言葉です。特に後半が私は好きです。主こそ私の歌。主をほめたたえ、主を賛美し、歌う。主ご自身が私の歌になってくださって、私は主を賛美することで今を生きる。そういう信仰者の告白です。
それは、激しく突かれて倒れそうな私を、主が助けてくださったからです。「激しく突かれた」と言っています。誰かに苦しめられたのでしょう。ただ18節を見ると「主は私を厳しく懲らしめた」とあるので、単に誰かに嫌がらせをされたと言うだけではなく、そこに神さまご自身の手を見ているのです。神さまご自身が私を懲らしめておられる。私は突かれている。しかし、主はそんな私を助けてくださった。主ご自身の右の手、主ご自身が力を振るって、私を助けてくださった。その確信が、このような賛美になって口から溢れているのです。
だから、「主のもとに逃れるほうが、人間に頼るよりもよい」と言っています。私を助けてくださるのは、救ってくださるのは、主なる神様をおいてほかにはない。私は主のもとに逃れ、人間には頼らない。
そして、22節以降、私たちがよく知っている言葉が出てきます。「家を建てる者の捨てた石が、隅の親石となった。これは主の業、私たちの目には驚くべきこと。」これは新約聖書でしばしば引用される言葉です。捨てられた石、隅に放られて、しかし驚くべきことに親石(建物を建てるための礎石)になったその石は、主イエス・キリストを指している。また、「祝福あれ、主の名によってこられる方に」という言葉も、主イエスに向けられる賛美として新約聖書で登場します。
主イエス・キリストこそ、私たちの救い。助け。そして、私たちの力。私たちの歌。主の名によって私たちのところへ来てくださったお方に、栄光と誉れがありますように!

2021年4月23日金曜日

2021年4月23日(詩編117)

詩編117
主を賛美せよ、すべての国よ。
主をほめたたえよ、すべての民よ。
その慈しみは私たちに力強く
主のまことはとこしえに絶えることがない。
ハレルヤ。(1~2節)

とても短い詩編です。それだけに、ぎゅっと内容が詰まった詩編です。すべての国、すべての民に向かって呼びかけます。「主を賛美せよ、主をほめたたえよ」と。すべての国、すべての民と言うのですから、異邦人、つまり別の信仰をもっている人への呼びかけということになるのだと思います。これまで主なる神様を知らなかった人も、イエス・キリストを礼拝したことがない人も、どんな人でも、さあ共に神を賛美しよう、神をほめたたえよう、と呼びかけます。
これは私たちの切なる願いです。今神さまを信じ、キリストの愛によって生かして頂いている私たちだけではない。あらゆる人が神の愛に生かされていることに気付き、共に神を礼拝する幸いを味わうことができますように、という願いです。それは、私たちの信仰が、喜びの信仰に他ならないからです。私たちは罰を恐れるからではなく、たたりに遭うからとか、いい人になって賞めてもらうためにではなく、圧倒的な神の愛と神の恵みに生かされていることを知らされたから、神を礼拝しています。

その慈しみは私たちに力強く
主のまことはとこしえに絶えることがない。

詩編はそのように言います。神の慈しみは私たちを越えて力強く、永遠です。神の慈しみが変わってしまうこと、無くなってしまうことは、ありえないことです。主イエス・キリストによって示された慈しみだからです。
昨日、一番下の娘があんまり頑固だったので私はとても激しく怒ってしまいました。その後、自己嫌悪に陥りました。どうしてもっと気持ちに寄り添ってあげられなかったのだろう、どうしてまず話に耳を傾けようとしなかったのだろう、どうしてあんなに怒ってしまったのだろう・・・。親の愛なんて、所詮は小さなもの、限りあるものです。いや、「親の愛」などと一般化せずに、「私の愛は」と言うべきなのでしょう。私の愛は小さく、醜く、そもそも愛とも慈しみとも言うことはできないものです。しかし、神さまの愛は変わらない。神さまのまことはとこしえに絶えることがない。この神の慈しみとまことは、こんなに醜い者にも向けられている・・・。ハレルヤ、と神を賛美する以外に、私はもはや言葉を持たないのです。

2021年4月22日木曜日

2021年4月22日(詩編116)

詩編116
あなたは私の命を死から
目を涙から
足をつまずきから助け出してくださった。
主の前を私は歩む
生ける者の地で。
私は信じる
「とても苦しい」とあえぐときも
「人は皆嘘つきだ」と口走るときも。(8~11節)

「私は主を愛する」という告白から始まっています。主は嘆き祈る私の祈りを聞いてくださる方、私に耳を傾けてくださる方。私の祈りを聞いてくださる神さまの愛。それに気付いたとき、私の内にも神さまへの愛が生まれます。絡みつく死の綱、迫り来る死の脅威、私が苦しみと嘆きに突き当たるとき、私を救ってくださるのは神さまに他ならない。主イエス・キリストにあって、私を救ってくださった。その神の愛に気付いたとき、私たちの内に神への愛が生まれます。
私たちの主なる神様への愛は、「良いとき」だけのことではありません。自分の願いが叶えられたり、思わしいとき、神さまへの愛を実感できるようなときだけの愛ではない。主イエスを十字架にかけてまで私たちを愛し抜いてくださった神さまは、私たちの逆境の時にも、私たちへの愛を変えることがないからです。
私たちの命を死から、目を涙から助け出してくださるのは、神さまです。私たちの足をつまずきから助けてくださるのも、神さまです。「とても苦しい」とあえぐとき、それでも私たちは主の前を歩きます。「人は皆嘘つきだ」と口走るような状況でも、キリストは真実な方です。
私たちは、一体どうやって主にお返しすれば良いのでしょう。この詩編では「主の名を呼ぼう」と言っています。主の名を呼ぶというのは、祈るということでしょう。主に叫ぶということでしょう。主を愛し、主を求め、主を信じるということでしょう。私たちの救いはこのお方にある。この神を私たちは愛し、その真心を込めて、祈りを献げるのです。

2021年4月21日水曜日

2021年4月21日(詩編115)

詩編115
なぜ国々は言うのか
「彼らの神はどこにいるのか」と。
私たちの神は天にいまし
御旨のままにすべてを行われる。(2~3節)

銀や金で造った神々を崇拝している人々が言うのです。「彼らの神はどこにいるのか」と。どういう状況で献げられた祈りの詩編なのかはよく分かりませんが、何らかの理由で銀や金で造った神々を礼拝している者たちから責められたり、馬鹿にされたり、虐げられたりしていたのであろうと思います。主なる神様を信じること、あるいはそもそも神さまを信じるということ自体、それは作り話の空想だとか、意味がないとか、怪しい特殊な人のすることだとか、自分たちとは関係のない西洋の宗教だとか、いろいろなことを言う人、いろいろな目で見る人がいます。この詩編も、そういう時の祈りの言葉なのではないかと思います。
銀や金で造った神々は偶像だと詩編作者は言います。銀や金で造ったというのは、そういう豊かさを求める人間の願望や欲の繁栄です。それは人が造ったものに過ぎない。人が造ったものは神ではない。だから、「口があっても語れず、目があっても見えない。…それを造り、頼る者は皆、偶像と同じようになる」(4~5,8節)。預言者エレミヤが言ったとおり、空しいものの後を追えば空しい者になってしまう。
だから、はっきりとした態度を示すのです。「イスラエルよ、主に信頼せよ。この方こそ彼らの助け、彼らの盾。」銀や金で造った神々がどんなに豪華でありがたそうに見えたとしても、よしんば拝む者にとって御利益があったとしても、そのようなものを拝みはしない。主なる神様こそ、私たちの助けだからです。私たちの救いは、主にかかっています。だから、言います。「主が私たちを思い起こし、祝福してくださるように」と。ほかの何者をも頼ることなく、ただ主なる神様だけを頼り、この方に救いを求めて祈る。誰に馬鹿にされたとしても、嘲られたとしても、主を誇り、主を信じ、主の救いを仰ぐのです。
だから、この詩編の冒頭では言っていました。
「主よ、私たちにではなく
私たちにではなく
あなたに名にこそ、栄光を与えてください
あなたの慈しみとまことのために。」
私たちに栄光が与えられるのでは、意味がないのです。それでは結局私の誉れや願望の実現が救いの要になってしまいます。そうではなく、主なる神様の慈しみの確かさが明らかになり、主の愛に栄光があることこそが、私たちのまことの救いに他ならないのです。

2021年4月20日火曜日

2021年4月20日(詩編114)

詩編114
イスラエルがエジプトから
ヤコブの家が言葉の違う民の中から出たとき
ユダは主の聖所となり
イスラエルは主の治めるところとなった。(1~2節)

かつて、エジプトの国、奴隷の家にいたイスラエルの人々。主なる神様は彼らを救い、言葉の違う民、エジプト人が治める国からイスラエルの人々を出してくださいました。
荒れ野を旅するイスラエルのために海の中に道ができました。エジプトを出てすぐの時の出来事です。一度はエジプトからイスラエルの人々が出て行くのを認めていたファラオは、その後すぐに奴隷としての労働力が惜しくなり、再びイスラエルを捕らえるために戦車に乗って彼らを追った。その時に、主なる神様がイスラエルのために海の中に道を拓いてくださったのです。
それだけではありません。ヨルダン川の中にも道ができました。今度は40年間の荒れ野の旅の最後、パレスチナに入っていくときのことです。春の水が多い時期でしたが、神さまが川の中に道を通してくださって、彼らは約束の地に入っていくことができたのです。
神さまは、イスラエルの人々を覚え、守り、その道を切り開いてくださいました。神様ご自身がエジプトの国、奴隷の家から救いだしてくださったから。その救いは彼らの旅の間中変わることがなかったのです。
私たちの信仰者としての旅路もまったく同じです。神さまは私たちのためにも、海を開いて道とし、川を後ずさりさせて私たちのために通路を拓いてくださいます。その究極的な道は、キリストの復活によって拓かれた、死を通り抜ける道です。改革者ジャン・カルヴァンがジュネーブ教会信仰問答という本を書いています。キリストの十字架の死について書いているところで、キリストが十字架にかけられて死に、私たちへの神の呪いを引き受けてくださったということを書きながら、このような問答を提示しています。

問 しかし、われわれは死ぬことを少しもやめないのですから、この勝利はわれわれに何かの益をもたらすように思われません。
答 それは何ら妨げになりません。なぜならば、信徒たちの死は、今や彼らをよりよい命へ導くための、通路に他ならないからであります。

私はこの言葉が大好きです。キリストの十字架、そして復活が、私たちの死を単なる通路に変えてくださったというのです。死は大きな海の波や大河の流れように、私たちの力ではどうすることもできません。しかし、キリストが十字架にかけられた今、死はもはや単なる通路に過ぎない。キリストにあってよりよい命に私たちが生まれるための、通路に他ならない。私たちを治める神の国の支配は、私たちの死にゆくときにも確かであり続けるのです。

2021年4月19日月曜日

2021年4月19日(詩編113)

詩編113
主はすべての国を超えて高くいまし
その栄光は天を超える。
私たちの神、主のような方がほかにあろうか。
高きところに座し
天にあっても地にあっても
  低きに下ってご覧になる方。
弱い人を塵の中から起こし
貧しい人を芥の中から高く上げ
高貴な人々と共に
民の中の高貴な人々と共に座らせてくださる。(4~8節)

神さまはすべてのもの、この世界に存在するあらゆるものを超えて高くにおられる方。すべては神さまによって造られたのであって、神はすべてを支配しておられる。しかし、この詩編の興味深いのは、神さまがただ高いところにおられるということだけを語っているのではない、というところです。
「天にあっても地にあっても、低きに下ってご覧になる方」。神さまはただ高いところにおられるだけではありません。いや、高きにおられて、そこから眺めているだけでも、神さまとしては十分でしょう。ところが主なる神様は遠い天、高いところから眺めるだけではなく「低きに下ってご覧になる」のです。私たちの神さまは、低きに下られるお方です。
子どもが転んだとき、遠くに立ってそれを見て、親はよく言ってしまいます。「何やってるの!」しかし本当に子どもに必要なのは、隣に行ってかがみ込んで、手を差し出すこと、怪我をしているところをよく見て、手当てをしてくれることであろうと思います。私たちの神さまは、私たちのために低きに下ってきてくださいます。
弱い人を塵の中から、乏しい人を芥の中から引き出してくださるのは、主なる神様です。弱い人や貧しい人を引き上げて「民の中の高貴な人々と共に座らせてくださる」とも言います。貧しい者と富む者が和解し、共に座ることができる。一つの食卓を囲むことができる。そのような平和の道を私たちの前に開くために、主イエス・キリストは私たちのところにまで降ってきてくださったのです。

2021年4月18日日曜日

2021年4月18日(詩編112)

詩編112
正しい人には闇の中にも光が昇る
恵みに満ち、憐れみ深く、正しい光が。(4節)

正しい人とはどういう人のことなのでしょうか。上の言葉に続く5節にはこのようにあります。「恵みに富み、貸し与える人は良い人。その人は公正に事を行う。」また7節には「悪評も恐れず、その心は主に固く信頼している」、9節には「貧しい人々には惜しみなく分け与え、その正義はいつまでも続く」とあります。
正しい人というのは、貧しい人に与える人、惜しみなく貸す人、悪評を恐れずに公正を行う人、そういう人のことだと言っています。このような人には「闇の中にも光が昇る」というのです。その光は恵みに満ち、憐れみ深く、正しい光。正しい人はそのような光に照らされている。そもそもこの詩編は「幸いな者、主を畏れ、その戒めを大いに喜ぶ人」と1節で言っているとおり、神さまに従って生き、貧しい人に慈しみを示し、弱い人を愛する者の幸いを喜ぶ内容になっています。従ってこの光というのは、神に従う者に向けられる神の御顔の光ということを意味するのだと思います。
現代の私たちの社会では、本音のところではここで言われている正しさの価値が認められなくなっているように思います。建前としては立派でも、本音の部分では余裕もなく、また貧しい人と言っても相手も聖人君子ではないので、思いを裏切られもする。聖書が私たちに教える正しさに生きることの難しさに気付かされます。
イエス・キリストこそ完全な意味で正しい方です。キリストこそ、貧しい人、病に苦しんでいる人、孤独な人、そのような人々のところへ行き、与え尽くし、共に生きた方です。キリストこそ、どんな暗闇の中でも神の光の中におられる方です。キリストはご自分に向けられた神の光を私たちに届けるために、私たちのところへ来てくださったのです。

2021年4月17日土曜日

2021年4月17日(詩編111)

詩編111
ハレルヤ。
私は心を尽くして主に感謝を献げる
正しい人々の集い、会衆の中で。(1節)
主はその民を贖い
契約をとこしえに定めた。
その名は聖であり、畏るべきもの。(9節)

旧約聖書はほとんどがヘブル語、新約聖書はギリシア語で書かれています。聖書は世界中の言葉に翻訳されています。翻訳というのはもとの言語を別の言語の意味に移す作業ですが、いくつかの言葉は意味を明らかにさせることよりももとの言葉の音をそのまま残しています。例えば「アーメン」。アーメンというのは「本当に」とか「真実に」という意味ですが、意味ではなく音を残している。そして、今日出てきた「ハレルヤ」もそういう言葉の一つです。
「ハレルヤ」という言葉は、「ハレル」と「ヤ」に分けることができる。ハレルというのは、「あなたたちは賛美せよ」という意味で、「ヤ」は主なる神様のお名前を現す言葉です。ハレルヤ、それは「あなたたちは主を賛美せよ」という意味です。
「ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝を献げる。正しい人々の集い、会衆の中で。」この言葉を読むと、神さまを賛美するという礼拝の営みが個人的なこと、独りぼっちで完結することではないということが分かります。私たちは互いに「さあ、主を賛美しよう!あなたたちも、共に」と呼びかけ合いながら礼拝をするのです。
私たちは神さまの御前にあって、一つの民になります。私たちは神に贖われて神のものとなった神の民です。共に神を礼拝します。神さまは、そんなそんな私たちと契約を結んでくださいました。契約は、信頼と約束に基づく関係です。神さまは私たちが立派だからとか、見栄えがするからということではなく、私たちが誰よりも弱く、小さいからこそ私たちを選び、ご自分との信頼関係の当事者にしてくださいました。私たちは神さまの聖なるお名前を賛美し、崇め、礼拝するために、一つに呼び集められているのです。

2021年4月16日金曜日

2021年4月16日(詩編110)

詩編110
主は、私の主に言われた。
「私の右に座れ
私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」(1節)

この詩編110は新約聖書で何度か言及されている詩編です。それだけ重んじられていたということだろうと思います。しかも、主イエスを預言する言葉として聞かれた詩編です。
主イエスご自身がこの詩編を引用しながら、「ダビデがメシアを主と呼んでいる」と指摘しました。つまり、メシアはダビデに先立つ存在だと言われた。主イエスの神の子キリストとしての御性質を表す言葉として、この詩編が紹介されています。
もう一つ新約聖書でこの詩編が決定的な意味を持つのが、ヘブライ人への手紙です。この詩編を引用しながら、このように言っています。

神は、かつて天使たちの誰に向かって、こう言われたでしょうか。
「私の右に座れ
私があなたの敵を
  あなたの足台とするときまで。」
天使たちは皆、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に奉仕するために、遣わされたのではありませんか。(ヘブライ1:13)

ヘブライ人への手紙では天使にまさる存在としての神の御子を語り、それが主イエスであると訴えます。神はこの御子を通して世界をお造りになった。だから、御子は神の右におられ、この世界を支配しておられる。この詩編を手がかりに、この手紙はイエスの御支配を明らかにします。
さらに、詩編に戻って4節にこのようにある。

主は誓い、悔いることはない。
「あなたは、メルキゼデクに連なる
  とこしえの祭司。」

この祭司メルキゼデクもヘブライ人への手紙で大切にされる存在です。5:6でこの言葉が引用され、第7章でメルキゼデクについて論じられています。細かなことは省きますが、メルキゼデクという存在を通して、主イエスが私たちを祭司として永遠に支配するということを書いている。
このようにこの詩編は、主イエスが私たちの王として、あるいは祭司として、私たちを神のものとして支配するということを理解するために大切な意味を持った詩編です。私たちの信じるキリストは、まさにここで言われている「私の主」に他ならないのです。

2021年4月15日(詩編109)

詩編109
私の賛美する神よ
押し黙らないでください。
悪しき者の口が
欺きの口が私に向かって開き
偽りの舌が私に語りかけます。
憎しみの言葉が私を取り囲み
理由もなく戦いを挑んで来ます。
私の愛に反して、彼らは私を訴えます。
私は祈るばかりです。(4節)

言葉に傷つけられた人の祈りの言葉です。悪しき者の口、欺きの口、偽りの舌、憎しみの言葉。20節にも「これが、私を訴え、私の魂を悪く言う者らへの・・・」とあります。しかも、「私の愛に反して」と訴えているところを見ると、最初から仲が悪かったり憎しみあったりしている者が相変わらず私の悪口を言っているということではなさそうです。以前は良好な関係だった、あるいは少なくとも自分はよい関係を築こうと努力していたということなのでしょう。ところが今その相手は私を憎み、ひどい言葉をぶつけてくる・・・。そういうことではないでしょうか。
6節以下を見ると、かなり激しい言葉が並んでいます。「子どもらはみなしごに、妻はやもめになるがよい」とさえ言っています。他にも「金貸しが彼の持ち物一切を奪い取り、見知らぬ者がその稼ぎをかすめ取るように」とも言っています。呪っている。「これが、私を訴え、私の魂を悪く言う者らへの、主からの報いとなるように」(20節)。
私たちは、こういうことを神さまに訴えてもよいのです。正直に祈っていい。呪いの言葉、相手の不幸を願うような祈りでさえもすることが許されている。ただ、それをどう扱うかは神さまの側の問題です。呪いの祈りをすることはできても、幸いなことに私たちには人を呪い殺す力は与えられていない。祈った後は、神さまに問題を預けてしまった方が良いのです。
私たちは「わが神、主よ、私を助けてください。あなたの慈しみにふさわしく私を救ってください」と祈ります。神は必ずその祈りを聞いてくださいます。私を悪く言うその人をどうなさるかは、神さまの問題。祈る者は、その悪口からすでに解放されているのですから。

2021年4月14日水曜日

2021年4月14日(詩編108)

詩編108
あなたの愛する人々が助け出されるように
右の手で救い
私に答えてください。(7節)

この詩編108はとても興味深い詩編です。前半の2節から6節までと後半の7節から14節までの二つの部分から成り立っています。さらに、前半は詩編57:8~12とほとんど同じです。108:2の最後の行と57:9の一行目が僅かに違いますが、それ以外はほとんど同じようです。また、後半は詩編60:7~14と同じです。ぜひ、読み比べてみてください。つまり、この詩編は第57編と第60編の一部分を抜き出し、それらを組み合わせて新しい詩編にしたもの、ということになります。
詩編57は1節の表題を見ると、「ダビデがサウルを逃れて洞穴にいたとき」とあります。サウル王の家臣であった青年ダビデは人望があり、また軍人としてもとても優秀で、民衆から絶大な人気がありました。サウル王はダビデを妬み、また脅威に感じ、彼を殺そうと企んだ。ダビデの命を狙われていたときの祈りの言葉として、詩編57は覚えられています。
それでは詩編60にはどういう事情があるのでしょうか。同じように1節の表題を見てみると「ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰って来て塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき」と書かれています。こちらはダビデが王になった後のことです。他国と戦争をしたとき。ダビデの家臣ヨアブはエドム人を討ったようですが、イスラエル全体としては苦境にあります。2節を見ると「神よ、あなたは私たちを拒み、打ち倒し、怒っておられます」とあることからも分かります。
詩編57は言ってみればダビデの個人的な苦境からの救いを求める祈りの言葉。詩編60はイスラエルという共同体全体の苦境への救いを求める祈り。個人的な救いと共同体全体の救い。この二つが組み合わされているのが、今日の詩編108ということになります。
詩編一〇八では、詩編60に見られる共同体全体の危機のための祈りが詩編57のダビデという一人の信仰者の救いへの確信によって、乗り越えられています。「あなたの愛する人々が助け出されるように、右の手で救い、私に答えてください」という祈りの言葉は、一人の信仰者が神の救いを信じ、確信することで、共同体全体の救いの確信に昇華されているのです。私たちの信仰は個人的な事柄以上の意味を持ちます。この私への救いは、共同体の救いと一つだからです。私たちは自分のためだけではなく、隣人のためにも信じるのです。

2021年4月13日火曜日

2021年4月13日(詩編107)

詩編107
「主に感謝せよ。
まことに、主は恵み深い。
その慈しみはとこしえに。」
主に贖われた人々はそのように唱えよ。
主は、彼らを苦しめる者の手から贖い
国々の中から集めてくださった。
東から西から、北から南から。(1~3節)

この詩編には、何度も繰り返されている言葉があります。
「苦難の中で主に叫ぶと
主は彼らを苦しみから助けだした。」
この言葉が6節、13節、19節、28節に繰り返されています。さらに、もう一つあります。
「主に感謝せよ。その慈しみと
人の子らになされた奇しき業のゆえに。」
こちらは8節、15節、21節、31節に繰り返されています。この詩編は2節に「主は、彼らを苦しめる者の手から贖い」と言っているとおり、苦しむ神の民を神が救ってくださったと繰り返し証言している。その時に、先ほどの二つの句が繰り返されているという構造になっています。
例えば4節では「彼らは荒れ野をさまよい、不毛の地で人の住む町に至る道を見いだせず、飢え、また渇き、命は衰え果てようとしていた」とあります。私はこの言葉を読んで、ブラジルのマッタ・デ・サン・ジョアン教会で信仰者として生きた日住慎一さんを思います。希望を持って入植したブラジルのジョタカはほとんど不毛の地というべき場所で、最初は何の作物も実らないような、貧しい土地であったそうです。ブラジルは治安も悪いし、豊かなでもありませんでした。たいへんな苦労をした。そういう中でキリスト者であり高座教会のメンバーであった佐々木光雄さんと出会い、信仰に導かれていった。今、日住さんの農園は本当に豊かな作物を実らせています。「苦難の中で主に叫ぶと、主は彼らを苦しみから助けだした。」何よりも大きな助け、かけがえのない出会いは、神様ご自身が出会ってくださったことではないでしょうか。だから、教会で生き、神さまをたたえる人生を全うされたのです。「主に感謝せよ。その慈しみと、人の子らになされた奇しき業のために。」アーメン!

2021年4月12日月曜日

2021年4月12日(詩編106)

詩編106
主は言われた、「彼らを滅ぼそう」と。
しかし、主に選ばれたモーセは
主の前で破れ目に立ち
滅ぼそうとする主の憤りをそらせた。(23節)

神さまの御前にあるイスラエルの人々は、神さまが常に示してくださった慈しみを裏切り、反抗することの連続でした。主の業を忘れ、偶像を造ってはこれにひれ伏し、神さまの前に悪を重ねました。荒れ野で神さまはモーセに言われます。「彼らを滅ぼそう」と。しかし、モーセは「主の前で破れ目に」立ったのです。
破れ目に立つ。どんなに立派な城壁があっても、あるいは堅牢な壁があっても、破れているところがあればそこから攻め込まれてしまいます。すてきなドレスで見栄えよく装っても、破れ目があればやがて全体的に裂けてしまってボロボロになります。破れ目は、そういう弱いところ、あるいはもっとはっきり言えば、神さまの前に罪深いところのことだと思います。神さまの取り計らいを信頼できずに金の子牛を造ってひれ伏したり、神さまに期待して祈ることを止めてしまったり。私たちの破れ目がある。
しかし、イスラエルの破れ目にモーセは立ちました。いちばん罪深いところを覆うようにして、イスラエルの人々のために祈り、神さまに赦しを請いました。そのモーセのゆえに、神さまはイスラエルの民を受け入れ、やがて約束の地まで連れて行ってくださったのです。
しかし、モーセが死んだ後も、イスラエルはひたすら破れ目だらけの有り様でした。それは私たち自身を省みればよく分かります。そして、究極的に私たちの破れ目を覆ってくださったのは、イエス・キリストに他ならないのではないでしょうか。私たちのいちばん弱く、罪深く、赦しがたいところを神さまの御前に新しくするために、キリストは私たちの破れ目に立ってくださったのです。
だから、私たちは、自分という城壁や服を見つめながら「破れている」とを嘆かなくてよいのです。キリストが新しくしてくださったから。そして今度は私たち自身も隣人の破れ目に立つ者として、キリストは私たちを新しくしてくださいます。今日も、キリストの平安があなたにありますように。

2021年4月11日日曜日

2021年4月11日(詩編105)

詩編105
主に感謝し、その名を呼べ。
もろもろの民に主の業を知らせよ。
主に向かって歌い、主をほめ歌え。
すべての奇しき業を語れ。
主の聖なる名を誇れ。
主を求める者たちの心は喜べ。(1~3節)

主の聖なる名を誇れ、と言います。そして、この詩編は主なる神様がした「奇しき業」を思い起こします。すなわち、主がアブラハムと結んだ契約をとこしえに守り、イスラエルの人々を救ってきてくださったことを思い起こすのです。ヨセフの時代から、やがてエジプトで奴隷となった人々を救い出し、荒れ野の旅路を守ってくださったことが言及されています。神さまの救いの御業を思い起こし、それゆえに、主の聖なるお名前を誇ろうと呼びかけているのです。
新約聖書では、パウロも同じようなことを言っています。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りとしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです。この希望が失望に終わることはありません。」キリストは、私がまだ罪人であったときに私のために死んでくださった。正しい人やいい人のためにキリストが死なれたのではなく、罪人である私のために。だから私には希望がある。この希望は決して失望に終わらない。私はこの希望を誇っている。それどころか苦難をも誇っている。キリストにあって、苦難は苦難のまま終わることがないから。
パウロは、今日与えられている旧約聖書の詩編と同じ信仰に立っています。神さまのしてくださったこと、奇しき神さまの御業、つまりキリストの救いの御業を思い起こすとき、それを誇らないわけにはいかなくなる。罪人を愛してくださった神の愛を、私の誇りとする。そのように言うのです。
私たちも、誇りましょう。このキリストに愛して頂いていることを。神さまが私を愛してキリストを下さったことを。誇りを持って、神を賛美しましょう!

2021年4月10日土曜日

2021年4月10日(詩編104)

詩編104
主の栄光がとこしえにあるように。
主がご自分の業を喜ばれるように。(31節)

大いなる自然、そこに生きる動植物、遙かな天も大きな海も、すべてのものを見つめながら神を賛美します。これらがすべて神の御手の業によって造られたものであり、これをお造りになったかの素晴らしさ、偉大さ、大いなる御手の御業によるものであることを深く知り、神を崇めています。
神さまがお造りになった世界は、完全です。完全な神さまの配慮と善意によってこの世界は造られました。例えば、このように書いてあります。

あなたは泉を湧き上がらせて川とし
山々の間に流れさせる。
野のすべての獣はその水を飲み
野ろばも渇きを癒やす。
空の鳥は水のほとりに巣を作り
こずえの間からさえずり歌う。(10~12節)

神さまのご配慮は、この世界のすべてのものに及びます。野の獣の飲み水も、巣を作るための木も、神さまの善意の中で準備されています。さらに興味深いのは「こうして主は地からパンと、人の心を喜ばせるぶどう酒を生み出し、油で人の顔を輝かせる」と言っていることです。私たち人間が食べる物もぶどう酒も、すべては神さまの善意の中で準備されたのだ、と言うのです。
なんとすばらしい世界観!私たちの命は神さまの愛の中で支えられている。この世界は神の善を映し出すすばらしいものだという確信がここにはあります。
そうであるからこそ、私たちはこの世界を大切に守らなければなりません。この世界は一部の人のために準備されたものではありません。力ある者が自分のために収奪したり、独占したり、奪い取ったりすることは、完全な善である神さまのよしとなさらないことです。それに、将来の世代から奪い取ることも許されない。将来世代に付けを残すしかたで自然世界から搾取することは、悪です。
私たちの命は、神さまの善意によって支えられています。今日も、神さまが私たちに慈しみをもって新しい一日を与えてくださいました。主を愛し、隣人を愛する一日を送りたいと願います。

2021年4月9日金曜日

2021年4月8日(詩編103)

詩編103
天が地よりも高いように
主の慈しみは主を畏れる者をはるかにしいのぐ。
東が西から遠いように
主は私たちの背きの罪を遠ざける。(11~12節)

「私の魂よ、主をたたえよ」と、この詩編の最初と最後に書かれています。主をたたえよ、と自分自身の魂に語りかける。自分の存在の内奥、そのいちばん深いところから、神を賛美します。
なぜ神を賛美するのか、ということがとてもはっきりした詩編です。「主はあなたの過ちをすべて赦し、あなたの病を癒やす方」。私たちの過ちや罪。神がそれを赦してくださる。そのことを賛美しています。罪は、まるで病気のように私たちの存在に食い込みます。最初から「どうせできもしない」と諦めるのではなく、本気で罪を退け、キリストに倣って生きようとするならば、私たちは本当に深い挫折を味わわざるを得ない。何か聖書の言葉を、たった一つでも本気でそれに生きようとするならば、自分がいかにキリストから遠く離れているかをまざまざと見せつけられます。一体どうしたら私たちは罪から自由になることができるのか。
神に赦して頂く以外の道はないのではないでしょうか。主の慈しみは、天が地よりも高いように、私たちを遙かにしのぎます。主は、私たちを背きの罪から遠ざけてくださいます、東が西から遠いほどに。私たちの心がけや努力ではなく、神さまが私たちから試みを去らせてくださる。だから、私たちも新しくなることができるのです。
私たちは、弱くてもろい一人の人間に過ぎません。「主は私たちが造られた様を知り、私たちが塵に過ぎないことを覚えておられる。」私たちは草のように枯れ、消えてなくなる儚い存在です。「しかし、主の慈しみは、いにしえからとこしえまで主を畏れる者の上に」あるのです。私たちは弱いですし、何よりも罪深いです。しかし、神さまはそのような私たちに慈しみを見せてくださいます。
だから、神を賛美しようとこの詩編は呼びかけます。私たちも、心を合わせて言いましょう。「私の魂よ、主をたたえよ」と。時には自分の思いや感情に逆らってでも。キリストからの罪の赦しの圧倒的な福音宣言を、時に私たちが実感できず、納得できず、喜べなかったとしても。それでも神はもうすでに私たちを赦してくださっています。だから、主をたたえましょう。私の魂よ、主をたたえよ!

2021年4月8日木曜日

2021年4月8日(詩編102)

詩編102
主はすべてを失った者の祈りを顧み
その祈りを軽んじられませんでした。
このことは後の世代のために書き記されるべきです。
新たに創造される民は主を賛美するでしょう。
主はその聖なる高き所から目を注ぎ
天から地を見ました。
これは、主が捕らわれ人の呻きを聞いて
死に定められた子らを解き放ち
人々がシオンで主の名を
エルサレムでその賛美を語り伝えるためです。(18~22節)

1節の表題に「苦しむ人の祈り。弱り果て、主の前に嘆きを注ぎ出すときに」と書かれています。2節以降を読むと、まさにそういう祈りの言葉が書かれています。「この叫びがあなたに届きますように。苦難の日に、御顔を隠さず、私に耳を傾け、呼び求める日に、速やかに応えてください。」そして、苦しみ呻く言葉が続きます。
私は、こういう嘆きの詩編は、私たち自身の嘆きの時に本当に大きな力を持つと実感を込めて申し上げたい。自分の苦しみの日、嘆く言葉も見つからないようなときに、この詩編の言葉を朗読すると、それだけで何かが癒やされます。この場合、朗読することが大切です。声に出すことには意味があります。
そして、そのような嘆きの祈りを、神さまは決して軽んじることがありません。人間は、しばしば逆です。「すべてを失った者」を軽んじます。まるで、不幸な人と一緒にいると自分にもそれが伝染するかのようにして。罪深いことです。しかし人間の現実です。ところが神さまはそうではない。すべてを失った者の祈りを軽んじることがない。それどころか、天から呻きを聞くために目を注ぎ、耳を傾けていてくださるというのです。私たちが祈るのは、本当に慈しみに満ちた方です。
私たちの生涯は短く、私たちは弱い存在です。しかしそのような私たちの祈りを聞いてくださる方がいる、そのような私たちを軽んじないで愛してくださる方がいる。それはなんと慰めに満ちた事実でしょう。だから、私たちは安心して祈ることができるし、この方に向かって嘆き、呻くことができるのです。

2021年4月7日水曜日

2021年4月7日(詩編101)

詩編101
慈しみと公正を私は歌い
主よ、あなたに向かってほめ歌います。
私は全き道を悟ります。
あなたはいつ、私のところに来られるのか。
私は全き心をもって
わが家の内を歩みます。(1~2節)

神に従い、慈しみと公正に生きるという信仰の表明の詩編です。全き道を悟り、そこを歩んでいくこと、神の御前に生き、神の慈しみと公正を求めること。それはとても尊い、神さまへの応答です。神を信じ、その恵みと慈しみに生かされていることを知ったとき、私たちの生き方は変革されます。神さまに喜んで頂くことを求めます。神を愛し、神に仕えて生きる新しい人生を生き始めます。
「私は邪悪なことを目の前に置かず、主に背く行いを憎みます」と言っています。邪悪なこと、すなわち神さまを無視する生き方、神に与えられた隣人を蔑ろにした利己心、そういうものを「目の前に置かず」と言います。目の前に置かないということが大事なのだと思います。例えば5節では「隣人をそしる」ということが考えられている。人の悪口ほど楽しいことはない。そういう言葉が口に上ると後で罪悪感を覚えるが、その時は快感です。陰口だけには限らず、私たちは弱い存在です。誘惑に弱く、利己的です。
だから、主イエス様は「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え」と祈ることを教えてくださいました。主イエスは、私たちが目の前の悪に打ち勝つ強靱な精神力をもつようにとはお求めになりませんでした。神さまに「助けてください」と祈ることを教えてくださいました。神さまに誘惑を退けてください、と祈るように主イエスは言ってくださったのです。
邪悪なことから話した目をどこに向けるのか?この詩編は言います、「私はこの地の誠実な者に目を向けます」。誠実に生きている人に目を向け、その生き方を真似るというのは、信仰生活の具体的なあり方です。神に従う誠実な人、真摯に神と隣人との前に生きている人。その歩みに倣って、私も神と隣人を愛する者にならせてください。そう祈る一日でありたいと願います。

2021年4月6日火曜日

2021年4月6日(詩編100)

詩編100
全地よ、主に向かって喜びの声を上げよ。
喜びながら主に仕えよ。
喜び歌いつつその前に進み出よ。
主こそ神と知れ。
主が私たちを造られた。私たちは主のもの。
主の民、その牧場の羊。

感謝して主の門に進み。
賛美しつつ主の庭に入れ。
主に感謝し、その名をほめたたえよ。
主は恵み深く、主の慈しみはとこしえに。
そのまことは世々に及ぶ。(1~5節)

主こそ神と知れ!詩編100はそのように高らかに歌います。私たちも、今日こそ深く知りましょう。主こそ神であると!主イエス・キリストの父である神、主と呼ばれるすべてのものの主、あらゆる神と思われているものの神。そのようなすべてのものを造ったのは、このお方です。主こそ神、私たちはこのお方を崇め、賛美を献げ、礼拝を献げます。
この方を、詩編は牧者と呼びます。「私たちは主のもの。主の民、その牧場の羊。」私たちは主なる神様に養われている羊です。昨日、家族でイースターのお祝いをしました。雨が降っていたのですが、愛川の牧場へ行きました。羊も牛も、すべての家畜はキチンと屋根のある場所に休んでいて、牧場の人が世話をしていました。餌をやり、床をきれいにしていました。羊飼いは羊のために雨の日も晴れの日も世話をします。羊が生きるために必要なものを備え、羊を危険から守ります。私たちは主のもの、主の民、主に養われる牧場の羊。これほどありがたいことがあるでしょうか。
私たちは感謝をもって主の門へ進み、賛美をもって主の庭に入る。主のそば近くで主を崇め、主と共に生きていきます。主の恵みと慈しみを信じて。今日の私たちの歩みが主のお名前を賛美するものであり、主に仕える業でありますように。キリストを愛し、隣人を愛して、主に仕え、隣人に仕える者として、主イエス・キリストご自身が整えてくださいますように。主の御名が崇められますように!

2021年4月5日月曜日

2021年4月5日(詩編99)

詩編99
主は王となられた。
もろもろの民は震えよ。
主はケルビムの上に座しておられる。
地は揺れよ。
主はシオンにおられる偉大な方。
主はすべての民の上に高くおられる。
彼らが偉大な畏るべきあなたの名を
  ほめたたえるように。
主は聖なる方。(1~3節)

主は王となられた!そのように宣言し、そして訴えます。「もろもろの民は震えよ」と。主は偉大な方、王、聖なる方。このお方を前に、民は震えよと言います。神さまの「聖」についてのこの感覚を、私たちは失ってはならないのだと思います。
主イエスが甦られたとき、墓でそれを知らされた女の弟子たちについて、マルコはこのように伝えています。「彼女たちは、墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」これが、キリストの復活という神の御業に直面した人間の反応です。これ以外に一体何と応えられるのでしょうか?
神さまの御業に直面したとき、神さまの臨在を知ったとき、私たちは人間として震え上がるしかない。この方が聖なる方だからです。私たちだけではない。大地さえも揺れます。天も地も、私たちの力の範囲の外にある大きなものですが、自然世界がどんなに大きくても、それをお造りになった神さまの御手はなおのこと大きく、偉大です。地も神の前には揺れる。
「主はケルビムの上に座しておられる」と言っています。このケルビムの上というのは、十戒が納められた契約の箱の蓋の上のことです。贖いの座と言われることもある。神殿の一番奥の至聖所、年にたった一回だけ大祭司が入って礼拝をする場所。そこに神の座があると信じられてきました。もちろん、きらびやかな祭壇であれば神を納めることができるということではなく、神がその聖なるお名前をここに留めてくださるということを畏れをもって信じていた。つまり、この「主はケルビムの上に座しておられる」という言葉は、神さまの御前での礼拝を思わせる言葉です。
私たちは神さまの御前に震えます。神を畏れる。そして、私たちは神を礼拝します。神を礼拝するとき、私たちは神の御前にいる。そのことを畏れをもって信じ、御前にひれ伏して神を賛美し、礼拝の民として生きるのです。

2021年4月4日日曜日

2021年4月4日(詩編98)

詩編98
全地よ、主に向かって喜びの声を上げよ。
歓声を上げよ、喜び歌え、ほめ歌え。
琴に合わせて主にほめ歌を歌え
琴と歌声をもってほめ歌え。
ラッパと角笛の音に合わせて
王なる主の前で喜びの声を上げよ。(4~6節)

主イエス・キリストは甦られました!
主イエス・キリストの復活を祝い、キリストを死者の中から引き上げられた父なる神様に心からの賛美を献げます。「全地よ、主に向かって喜びの声を上げよ!」私たちも心を一つにして神さまを賛美します。歓声を上げて、喜びの歌をうたって!
神を賛美するとき、私たちは上を向くことができます。下を向いていた目を上に上げることができます。喜び、歌い、賛美を献げましょう。心を込めて、神さまを賛美しましょう。
私の家では、夜寝る前に子どもたちと一緒にお祈りをします。子どものための祈祷集を読みます。子どもたちのお気に入りのページは、いろいろな楽器で神を賛美しようという祈り。詩編150からとられた祈りのようですが、この詩編98もよく似ています。太鼓やシンバル、ギター、ラッパ、いろいろな楽器を鳴らして神を賛美しよう、という祈りの言葉です。最初は読んでいるだけだったのが、いつのまにかいくつか実際にタンバリンやトライアングルが登場して、楽器を鳴らしながらお祈りするようになりました。子どもたちも、喜んで神さまを賛美しています。
私たちは神を賛美し、新しい歌を神さまに献げて、神さまの慈しみをほめたたえます。神さまの救いの御業を喜んでたたえます。それは、主イエス・キリストによって示された神さまの愛への小さな応答です。海も、世界も、川も山々も、神に造られたすべてのものが神を賛美しています。私たちも、一緒になって神を賛美します。そのために、私たちは造られたのですから。

2021年4月3日土曜日

2021年4月3日(詩編97)

詩編97
主は王となられた。
地は喜び踊れ。
多くの島々は喜べ。
雲と密雲は主を囲み
正義と公正が王座を支える。(1~2節)
まことに、主よ
  あなたは全地の上におられるいと高き方。
すべての神々にまさり、崇められる。(9節)

受難週の土曜日になりました。受難週祈祷会は金曜日に終わり、土曜日は沈黙の日です。聖書にも、この日のことはルカによる福音書に「女たちは、安息日には戒めに従って休んだ(23:56b)」と書いてあるくらいで、あまり多くは語られていません。マタイによる福音書には、ファリサイ派やピラトがイエスの復活を隠蔽するための企みをしますが、それくらいのことしか報告されていない。主イエスご自身は墓におられ、弟子たちも逃げ、女たちがイエスの埋葬をもっときちんと整えるために安息日が終わるのを待っていた。沈黙の日。それが、受難週の土曜日の出来事です。
そんな日に、私たちには詩編97が与えられました。意図してこうなったわけではありませんが、これも神さまの導きの中で与えられた御言葉であると思います。「主は王となられた」と神を賛美します。イースターを先取りするような賛美です。私たちは神さまの御前に喜び、神をほめたたえ、崇めるために、明日、復活の主日の礼拝を献げます。キリストが王となられたことを喜び祝うために、私たちは礼拝をします。
「まことに、主よ、あなたは全地の上におられるいと高き方。」これは、本当のことです。キリストこそが全地の上におられる方。私たちの目に映るところは、まるで安息日の土曜日のような現実かもしれません。キリストのお姿が見えず、弟子たちは逃げ、女たちは悲しみのうちに埋葬の準備をする。しかし、キリストの復活の栄光はすでに始まっています。私たちは「主は王となられた」と賛美をするために、今日、この備えの一日の祈りの道作りをしていくのです。この「現実」をも支配しておられる、まことの王を崇めるために。

2021年4月2日金曜日

2021年4月2日(マルコによる福音書15)

マルコによる福音書15
ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り下ろしてその布に包み、岩を掘って造った墓に納め、墓の入り口に石を転がしておいた。(46節)

主イエス・キリストが、十字架にかけられました。夜通し不正な裁判をし、先導された民衆の叫びによって死刑が確定し、午前9時にはもうすでに十字架にかけられていました。兵士も、そこを通りがかる人も、皆、イエスを侮辱しました。一緒に十字架にかけられている者たちにも嘲られました。
昼の三時に、イエスは大声で叫ばれます。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」主イエスは、ご自分が神に見捨てられたこと、神に呪われて死ぬことを、誰よりもよくご存じでした。人から侮辱されること、嫌われて憎まれること、裏切られること、そのようなことよりも神に捨てられることが本当に恐ろしいことだったに違いありません。マルコが伝えるキリストの最後の言葉は、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」というものでした。
このようにして息を引き取ったイエスの遺体を、アリマタヤ出身のヨセフという男が引き取りました。埋葬するためです。彼はピラトに願い出て、イエスの遺体を引き取り、亜麻布を買ってそれに包み、墓に葬りました。亜麻布については、このときそれを買ったと書かれています。しかし墓は、イエスを埋葬することにしてそれから掘ることなんてできません。「岩を掘って造った」というのですから、普通に考えれば何日もかかります。つまり、ヨセフはすでに準備していた自分の墓にイエスを埋葬したということなのでしょう。これはとても示唆的だと思います。
イエスは葬られました。ヨセフの墓に葬られました。ヨセフがやがて葬られるはずだった場所に、イエスが代わって葬られました。イエスは、ヨセフに代わって死んだのです。同じように、イエスは私たちに代わって死んだのです。イエスは私たちに代わって侮辱され、嘲られ、十字架に釘で打ち付けられました。いや、そのようなことよりももっと深刻なのは、イエスは私に代わって神に捨てられたということです。イエスは私に代わって叫んだのです。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と。私に代わってこのように死に、このように葬られた。この方こそ、本当に神の子だったのです。

2021年4月1日木曜日

2021年4月1日(マルコによる福音書14)

マルコによる福音書14
そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「私がそれである。
あなたがたは、人の子が力ある方の右に座り
天の雲に乗って来るのを見る。」
大祭司は衣を引き裂いて言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒瀆の言葉を聞いた。どう思うか。」(61~63節)

主イエス・キリストが裁かれました。神を冒瀆した。これはユダヤの法廷、大祭司が裁判官を務める法廷ですので、これからピラトのもとでローマの権威による裁判に移送されることになる。しかしまず、同じ神を信じている者たちの手でイエスは裁かれ、罪ある者とされました。
なぜ、主イエスは裁かれたのか?「お前はほむべき方の子、メシアなのか」という大祭司の問いに「私がそれである」と答えたからです。イエスの罪は神の子、メシアであることです。イエスが神の子であるから、私たちのためのメシアであるから、イエスは「死刑にすべきだ」と言われました。
イエスは神を冒瀆していると言いますが、本当にそうなのか?私たちは今や知っています。この方が本当に神の子であることを。この方が本当にメシアであることを。主イエスは、本当のことしか言っていません。本当のことを言うイエスを、私たち人間の世界は受け入れませんでした。
主イエスの「私がそれである」という言葉を中心にして、その前には最高法院でのイエスに不利な証言、その後にはペトロの証言が記されています。最高法院でのたくさんの人たちの証言は、すべて偽証でした。ペトロも、呪いの言葉さえ口にしながらイエスを知らないと証言しました。主イエスの「私がそれである」という言葉を中心に、前にも後にも、人間の偽りの言葉が書かれています。
主イエス様という光に照らされると、私たち人間の嘘が明るみに出ます。イエスがメシアだから死刑にすべきだと言い、そのイエスと一緒に生きる人間だと言うことを否定するために嘘をつく。イエスという光が、人間の偽り者だという本性を明るみに出します。
しかし、主イエスはご自分の真実にかけて、ペトロにすでに言っていてくださいました。「あなたがたは皆、私につまずく。・・・しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く。」ガリラヤで、弟子たちと再会するためです。イエス・キリストという光は私たちの偽りを暴露します。しかし、この光の中で、そのような偽り者を捨てない神の愛と、私たちは出会っているのです。

2024年12月13日の聖句

モーセは顔を隠した。神を見るのを恐れたからである。(出エジプト記3:6) イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」彼らが目を上げてみると、イエスの他には誰もいなかった。(マタイ17:7~8) 今日の新約聖書の御言葉は、ある高い山での出来事...