2022年7月31日日曜日

2022年7月31日の聖句

私から遠く離れないでください。苦難が近づき、助けてくれる人はいません。(詩編22:12)
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさいません。(1コリント10:13)

今日の新約聖書の御言葉には、このような言葉が続きます。「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」この御言葉は私にとってはとても思い出深い御言葉です。
私が神学生のとき、ちょうどのこの季節に四国の教会に夏期伝道実習に行きました。高知と愛媛にある六つの教会です。それらの教会の六人の牧師たちが夏に合宿をして説教の勉強をしていて、それに私も参加させて頂きました。その時に取り組んだ聖書の言葉が今日の御言葉を含むコリントの信徒への手紙一第10章1から13節だったのです。何日かかけて聖書の御言葉を読み、一緒に勉強をしましたが、話し合いの中心は「逃れる道とは一体何か」ということでした。神さまが準備してくださる逃れる道って、一体何のことなのか。どこにその道があるのか、どういう道なのか。具体的に言ってどういうことか。そんなことを来る日も来る日も語り合いましたが、よく分かりませんでした。もうその合宿も最後が近づいたとき、ある牧師が言いました。もしかしたら、「逃れる道」が一体何なのか、具体的に言ってどういう道なのか、そんなことはどうでも良いんじゃないか。むしろそれよりも大切なことは「神は真実な方です」の方ではないか。神の真実に信頼できれば、「逃れる道って一体何なのか」という理屈に捕らわれないで済むんじゃないか。
神は真実な方です。私たちも、その事実に信頼しましょう。私たちには、耐えられないと思うような試練が降りかかってきます。もう限界だということがある。しかし、それでもなおキリストをお与えになった神の真実は変わることがない。あの時のことも真実な神さまの御手の内にあるのです。神は決して私たちから遠く離れることはないし、誰も助けてくれなくても、神さまは共にいてくださいます。神は御自身の真実にかけて、私たちに伴い続けてくださいます。
神は真実な方です。この事実こそが私たちを救います。私たちの思うとおりにならなくても、私たちの願ったのとは違う現実を生きていたとしても、神の真実がキャンセルされてしまうことは決してありえません。神は御自身を偽ることがおできにならないのですから。神の真実が私たちを支え、私たちを導き、私たちを試練の中にあっても生かす真理の光なのです。

2022年7月30日土曜日

2022年7月30日の聖句

私たちは私たちの神、主に仕え、その声に聞き従います。(ヨシュア24:24)
イエスはピラトに言った:私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。(ヨハネ18:37)

以前、検察官から電話がかかってきたことがありました。曰く、「○○さんという人を知っていますか」という問い合わせでした。聞いたことのない名前でしたので、その旨伝えて電話は終わりました。正直に言って、かなり緊張しました。検察は容疑者を起訴するか否かを決める権利をほぼ独占し、国家の司法権において大きな権力を持っています。自分は権力に弱いのだなと思い知らされました。
ピラトが、イエスさまを裁いている場面です。ピラトはローマから派遣された総督です。当時のユダヤの国はローマに支配されていましたから、実質的にピラトはユダヤの国の最高権力者です。彼だけがユダヤの中で死刑を執行する権限を持っていた。だからユダヤの中では権力側にいたはずの祭司長たちもピラトに媚びへつらって、イエスを死刑にしてもらうために策を弄しました。ピラトはこの世の権力の代表者です。
「私たちは私たちの神、主に仕え、その声に聞き従います。」主こそ神、主に仕え、主の声に聞き従います。それは、この世の権力者の声に聞き従わないということでもあります。もしも世の権力が神に逆らうことを強いたり、自らを神であるかのように振る舞い、それに従うことを良しとしたりするならば・・・私たちはそれに従わずに神に従います、という宣言です。
しかしそれは実際的にはすごく難しいことです。私は検察官からのちょっとした電話でさえも、それが自分に直接関係がなかったのにもかかわらず、情けないことにうろたえてしまいました。まして、70年前のあの戦争のときのような状況だったら・・・と考えると、私は自分が尊敬するあの戦争のときを生きたキリスト者のように振る舞えないのではないかと考えざるを得ません。
主イエスはおっしゃいます。「私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。」主イエス・キリストが証しした真理とは、神の愛を告げる真理です。私たちのために独り子を下さった神の真理です。私は私を信じられない。しかし、神さまの真理は絶対です。どんなときにも変わることがない。私の精神力や根性はひん曲がっています。しかしキリストの証しする真理は、いつでも真理であり続けます。この真理の言葉、神の言葉が私に必要な知恵や力を与え、私を新しくする力を持っている。私はそのことを信じています。だから、今日も御言葉を聞きます。

2022年7月29日金曜日

2022年7月29日の聖句

正しき者の小道は輝き出る光のようだ。ますます光を増し、真昼の輝きとなる。(箴言4:18)
愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもですが、私たちがどのようになるかは、まだ現されていません。そのことが現されるとき、私たちはそのようになることは知っています。彼をありのままに見るからです。(1ヨハネ3:2)

今日の新約聖書の御言葉は、後半のところで「そのことが現されるとき、私たちはそのようになる」と言っていますが、「その」が連続していて何のことだかよく分かりません。聖書協会共同訳を見ると、「そのことが現されるとき」の「その」に「御子」とも訳せるという訳注がついています。そして、「私たちはそのようになる」の「そのように」には「神に似たもの」と訳されている。つまり、御子イエス・キリストが現されるとき、私たちは神に似たものになる、と言っているのです。
神さまは私たちをご自分の子どもにしてくださいました。私たちは神さまの子ども。世を愛する神さまは、私たちすべてのものをご自分の子どもとして迎え入れてくださった。「あなたは神の子」と聖書は私たちを呼びます。
神の子どもである私たち。しかし、私たちがやがてどうなるのかは誰にも分からない。ここでは、死の先に何があるかということを見ているのだと思います。私たちは死んだらどうなるのか、誰にも分からない。どんなに頭のいい人が書いた本を読んでも分からないし、正直なところ牧師にだって分かりません。聖書がほとんど沈黙しているからです。ただ一つ確かなことは、私たちはキリストに似たものになるということです。神さまの子どもとして迎え入れて頂いた私たちは、やがて、神の独り子イエス・キリストと似たものになる。私たちの命の終わりに何が待っているのか、私たちの愛するすでに亡くなった人たちが今どうなっているのか、私たちには分かりません。ただ、私たちはキリストに似た神の子として神さまに迎えて頂く。そのことだけを信じれば、それでいいのです。
「正しき者の小道は輝き出る光のようだ。ますます光を増し、真昼の輝きとなる。」その道は光だ、と言います。私たちは暗闇の中を生きるのではない。暗闇の中で死ぬのでもない。闇としか言えないほど本当に苦労に苦労を重ねたとしても、そこにはイエス・キリストの光があります。キリストの光が照らしているし、その光の中でキリストが手を広げていてくださる。この終わりの時を目指して、私たちは今日一日の旅路に出て行くのです。

2022年7月28日木曜日

2022年7月28日の聖句

空しさを抱える者たちは、恵みを捨てている。(ヨナ2:9)
世は欲と共に過ぎ去ります。しかし、神の御心を行う者は誰でも、永遠にとどまります。(1ヨハネ2:17)

得てして私たちは、空しい思いになるのは神さまの恵みが足りないからだとか、神さまが自分に無理難題を押しつけているからだと思いがちです。しかし、聖書は言います。「空しさを抱える者たちは、恵みを捨てている。」真相は逆で、私たちが神の恵みを捨てているからこそ、私たちは空しくなってしまうのだ、というのです。
これは預言者ヨナの言葉です。ヨナは神さまから宿敵アッシリアの都ニネベに行って伝道するようにと神に命じられました。ヨナはニネベの人々を憎んでいたので、それとは反対方向に位置するタルシシュ行きの舟に乗り込みます。すると舟は嵐に遭い、ヨナは同舟の人々に海へ放り込まれ、大きな魚に飲み込まれてしまった。今日の御言葉はこの魚の腹の中での祈りです。
「空しさを抱える者たちは、恵みを捨てている。」それは、ヨナ自身のことであったのかも知れません。私たちは恵みを捨てていないでしょうか。私たちは何を大切にしているのでしょうか。私たちは空しくなってはいないでしょうか。
「世は欲と共に過ぎ去ります」と今日の新約聖書の御言葉は言います。今、世間を騒がせているカルト宗教があります。権力と結びつくことで、彼らは何をしたいのでしょうか。私たちの信仰は彼らの教えとは全然違いますが、あのような集団の存在は私たちへの戒めであり、問いでもあると思います。私たちは世の欲に心を奪われてはいないか、私たちは主イエスがしてくださったように愛と慈しみを生きているのか、と。
「神の御心を行う者は誰でも、永遠にとどまります」と、更に聖書は言います。私たちは、自分たちが神さまの御心を行っていますだなんてそう簡単に口にすることはできません。神さまの御心に生きたいと願っていますが、私たちの存在が神さまの御心に適うものだと平然と言ってのけることはできない。私たちは、ただただキリストの憐れみにすがるだけです。神の恵みを求めるだけです。私たちは神の恵みを捨てるのではなく、世の欲に心を奪われるのではなく、私たちを愛し、世を愛し、私たちすべての者のために御自身を献げてくださったキリストを信じます。キリストの恵みを。キリストの憐れみを。主イエス・キリスト。この方こそ神の愛そのものであり、この世のために神が与えてくださった独り子、私たちすべてのもののための救い主なのです。

2022年7月27日水曜日

2022年7月27日の聖句

ただひとり大いなる奇しき業を行う主の中の主に感謝せよ。
慈しみはとこしえに。(詩編136:3,4)
規定の病を患った者の中の一人は、自分が癒やされたのを知って、大声で神を崇めながら戻って来た。そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した。(ルカ17:15~16)

「規定の病」というのは日本聖書協会共同訳が造った新しい訳語ですが「旧約聖書の律法が規定している病」という意味です。この病は皮膚病でした。律法の中で、皮膚病はある独特の響きを持つ病でした。皮膚は人間の内側と外側の境界です。その境界が病気になり、崩れてしまうこともある。律法の考え方として、物事の境界を定め、区別をすることがとても大事に考えられていました。それで、人間自身の境界が崩れる病が特別視されていたのです。日本語でも昔は「天刑病」という言い方がありますが、同じような響きだったのだと思います。そして、何語であろうとも、今では決して容認されない言葉です。まさに、主イエス・キリストはそのような見方をなさいませんでした。病む者に対して、それが皮膚であろうと足であろうと、極みまで相手を憐れみ、その痛みを共に負い、手を伸ばして患部に触れ、癒やしてくださいました。私たちの主イエス・キリストは、苦しむ人に向かって、お前の苦しみは天から来た刑罰だとはおっしゃらずに、かえって私たちのために苦しんでくださったお方です。
規定の病を患っていた10人の人たちがいました。彼らは人の側に行ってはいけないと定められていたので、遠くから主イエスに「イエス様、先生、私たちを憐れんでください」と叫びます。すると主イエスが癒やしてくださった。ところが、イエスさまのところに戻って来て感謝したのは、その中のたった一人の人だけでした。自分の苦しみや辛さを神さまに訴える人は多くても、私のための主の憐れみを、まさに私のための憐れみとして感謝し、主イエスの愛を信じて主を愛するようになる人は少ないのかも知れません。私たちを、例え誰が差別し、嫌い、揶揄したとして、主イエスさまはそのようには決してなさらない。私をとことんまで愛し、憐れみ、私と共にいてくださる。そのことを知り、信じ、主イエスの前に歩んでいきたい。あの10人の中の一人のように。
「ただひとり大いなる奇しき業を行う主の中の主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」これが、今日の私たちの賛美です。これが、今日の日の私たちの感謝です。主イエス・キリストの愛の中で、主イエス・キリストの豊かな恵みの中で、私たちは神を賛美して今日の日を歩んでいきましょう。

2022年7月26日火曜日

2022年7月26日の聖句

もろもろの民にその業を知らせ、その名が崇められていることを告げよ。(イザヤ12:4)
ヨハネは書く:私は、一人の天使が天の真ん中を飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、部族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携え、大声で言った。「神を畏れ、神に栄光を帰しなさい。」(黙示録14:6~7)

今日の新約聖書の御言葉はヨハネの黙示録の言葉です。ヨハネの黙示録は象徴的な書き方をしているので私たちにはなかなか分かりにいところもあります。それで、怪しげな新興宗教のようなものに好き勝手に使われてしまうようなことも起きます。確かに黙示録は自分勝手に好きなことを言うために使ってやろうと思えばそうしやすい面もありますが、やはり、聖書の言葉を「使ってやろう」というのは不遜な態度です。聖書は、聖書自身が語ることを聞き、私たちが従うことを求めます。そして聖書は、特に今日のヨハネの黙示録は、一体何を訴えているのか。それは「神を礼拝せよ」ということに尽きると私は信じています。様々な不思議な言い方をしていますが、それらはすべて「神を畏れ、神に栄光を帰しなさい」という天の声のこだまです。
私たちは神さまを礼拝し、神さまの御前にひれ伏し、神さまに賛美を献げます。それこそが私たちの最高の幸せだからです。礼拝は、私たち人間が、まさに神に造られたところの人間になる時であり、場です。私たちは神を礼拝するために造られた。
今日の御言葉は二つとも、同じ特徴を持っています。「もろもろの民にその業を知らせ、その名が崇められていることを告げよ。」「地上に住む人々、あらゆる国民、部族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携え、大声で言った。」もろもろの民、地上に住むあらゆる人々、部族や言語が違っていても、すべての一つに、福音が告げ知らされる。すべての人が神を礼拝するために。私たち人間には、神を礼拝することがなくてはならないからです。
神さまを、礼拝しましょう。今日、私たちが生きるそれぞれの場所で。私たちの生き方、今日一日の過ごし方が、神を崇めるものとなりますように。主を愛し、隣人を愛し、キリストがしてくださったように互いに仕え合う一日を送りましょう。私たちの愛を通して、神さまはご自分の栄光を現し、ご自分への礼拝として、私たちのキリストに倣う歩みを憶えてくださるからです。

2022年7月25日月曜日

2022年7月25日の聖句

ダビデはその神、主を通して強くあることを知っていた。(サムエル上30:6)
使徒たちは主に言った。「私たちを信仰で強くしてください。」(ルカ17:5)

ダビデがまだ王になる前の話です。ダビデの先代であるサウル王はダビデに激しく嫉妬し、彼を憎んでいました。ダビデはサウルの臣下でしたが、もはやイスラエルにはいられなくなってしまいます。それで、ダビデは外国に逃れました。そしてペリシテというイスラエルにとっては宿敵と言える国に身を寄せ、この国のためにダビデも戦った。ペリシテの王はダビデにツィクラグという町を与えました。しかしやがて、ダビデはペリシテも追われることになる。そのようなことがあってダビデがツィクラグに戻ったときです。今度はアマレクというまた別の国の者たちがツィクラグに襲ってきた。ダビデが戻ると、既に町は火で焼かれ、たくさんの人々が捕虜として連れ去れてた後でした。ダビデ自身の妻や子どもも連れ去られていました。今日は30:6の後半が与えられた御言葉ですが、改めて前半から、聖書協会共同訳で見てみるとこのように書かれています。
「ダビデは非常な苦境に立たされた。というのも人々は皆、自分の息子、娘の子とで苦しみ、ダビデを石で打ち殺そうとまで言い出したからである。だがダビデはその神、主を信頼して揺るがなかった。」
ツィクラグの町の人々はダビデを憎みました。ダビデのせいで自分たちがこんな酷い目に遭っていると考えたからですこの厄介者のダビデを殺して、アマレクにお願いして捕虜になった家族を帰してもらおうと考えたとしても、不思議ではありません。しかし、ダビデは主を信頼し、揺るぎませんでした。どんな苦境の中にあっても、どんなにつらくても、主を信頼し続けました。ダビデはただ信仰によってのみ、立つことができたのです。果たして、ダビデはアマレク人を追跡し、捕虜やぶんどられたものを奪還することができました。それは、ただただ彼が主を信頼して立つことができたからということであって、それ以外の理由はないのです。
私たちは誰を信頼しているでしょうか。私たちは自分の弱さや身を取り巻く苦境のすさまじさや、どうすることもできない環境を信じてはいないでしょうか。神さまを信頼する以上に、不信仰を信じてしまってはいないでしょうか。ダビデはただ主だけを信頼した。それ以外には何もありませんでした。そして、他には何も必要なかったのでしょう。主を信頼する幸いに、私たちも招かれています。

2022年7月24日日曜日

2022年7月24日の聖句

川とその流れは神の都に、いと高き方の聖なる住まいに喜びを与える。神はその中におられ、都が揺らぐことはない。(詩編46:5~6)
見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となる。(黙示録21:3)

私たちの救いが完成するとき、新しい天の都が私たちのもとに降りてくる、とヨハネの黙示録は語ります。この辺りはあまりにも私たちの想像を絶していて、ヨハネの書きぶりも非常に象徴的な言い回しと言うこともあり、一体どういうことになるのかよく分からないところが多いと思います。新しい天、新しいエルサレム。それがどんなにすばらしい場所なのか。それは、まだ誰にも分からない。完成の時を待つよりほかありません。既に地上の生涯を終えた者たちも、黙示録によれば、神を礼拝しつつ完成の時を待っているようです。
それがどういう場所なのかはよく分かりませんが、ただ一つ確かなことがあります。「神の幕屋が人と共にあり」と書かれています。荒れ野を旅する神の民の真ん中に、神の幕屋がありました。それは礼拝を献げる場所であり、神が語りかける場所でした。神の幕屋は、神が共におられるというしるしでした。新しい天の都には新しい幕屋がある。つまり、この新しい天の都においては、神さまは完全に私たちと共におられるということを意味します。「神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となる。」神さまは、私たちと共にいてくださる。それが救いの完成で起こる出来事です。完全に神は私たちと共におられる。その事実を使徒パウロは「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります」と表現します。神さまと顔と顔とを合わせ、私たちは神を仰ぐことが許される日が来る。これが、聖書が語る救いの完成です。私たちは神の御前に進み出る。
神の都は私たちの安心・安全を満たす場所、私たちの欲望の充足ではなく、神さまに満たして頂かなくては癒やされることのない根源的な魂の渇きを癒やす場所です。私たちが神の御前に出る場所。神が私たちと共にいてくださり、御自ら私たちの神となり、私たちをご自分の民としてくださる場所です。この天の都を目指す旅路を、今日も私たちは歩んでいる。そして、礼拝はこの都の先取りに他ならないのです。

2022年7月23日土曜日

2022年7月23日の聖句

うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたが何をするにしても、そのすべてにおいて主、あなたの神があなたと共にいるからだ。(ヨシュア1:9)
それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。(2コリント12:10)

今日の旧約聖書の御言葉は、主なる神さまがモーセの後継者であるヨシュアに語られた言葉です。モーセと民は40年間の荒れ野の旅を終え、遂に約束の地に入っていく。モーセはかねて主がおっしゃっていたとおり、約束の地を前にして死にました。ヨシュアがモーセの後のイスラエルの人々の指導者になりました。まさに今、ヨシュアと民は約束の地に入ろうとしています。しかし、そこには先住の人々がたくさんおり、まさにうろたえ、おののくような現実が目の前にあったのです。
神さまが与えてくださった恵み深くて新しい出来事を前にして、うろたえたりおののいたりしてしまう。とても個人的なことですが、一昨日、息子が10歳の誕生日を迎えました。10年前に初めて親になったときも、あるいは二人目や三人目の子が与えられたときも、やはり、本当に嬉しい神さまの恵みの贈り物でありながら、同時にうろたえやおののきを呼び起こす出来事でもあります。ヨシュアは、そうした中で約束の地に向かって一歩足を踏み入れ、進んで行くことを神に命じられたのです。
これに対し、新約聖書のコリントの信徒への手紙で、使徒パウロは「私は、弱いときにこそ強い」と言っています。自分は弱い。サタンから送られた使いによる刺が自分の肉体に食い込んでいる。弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりとも言っていますが、パウロ自身の内的な弱さも、パウロの外から来る外的な困難も、あらゆる痛みがパウロを襲っていました。しかし、「私は、弱いときこそ強い」とパウロが言い得たのは、神の恵みが私の弱さの中で働いていることを知っていたし、そのことを信じていたからです。神の恵みによって、私は弱くても強い。
私たちを生かすのは神の恵みです。私たちにうろたえやおののきを呼び起こすような外形的な事情があるときにも、やはり神の恵みが私たちを生かします。「神の」恵みであることがポイントです。神が与えてくださったものとして目の前のことを受け止めなおすとき、私たちは私たちに力を与え、生かし、今立たせてくださっている神がおられることに気づくのです。

2022年7月22日金曜日

2022年7月22日の聖句

主がほめたたえられますように。主は約束どおり、ご自分の民イスラエルに安住の地を与えてくださいました。(列王記上8:56)
安息日の休みは、神の民にまだ残されています。(ヘブライ4:9)

安息日の休み、と書かれています。安息日の休みについては、十戒の第四戒で「安息日を覚えて、これを聖別しなさい」と命じられています。
旧約聖書には出エジプト記第20章と申命記第5章の2箇所に十戒が伝えられています。内容はほぼ同じですが、この安息日の戒めについての理由説明が違っています。出エジプト記の伝える十戒では、安息日を覚え聖別する理由は「主は六日のうちに、天と地と海と、そこにあるすべての者を造り、七日目に休息された。それゆえ、主は安息日を祝福して、これを聖別されたのである」と、天地創造にあるとしています。これに対して申命記の伝える十戒では、その理由を「あなたはエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が、力強い手と伸ばした腕で、あなたをそこから導き出したことを思い出しなさい。そのため、あなたの神、主は、安息日を守るようあなたに命じられたのである」と、出エジプトという救いの出来事に見ています。
「安息日の休みは、神の民にまだ残されています。」安息日の休みは、レジャーのための休みではありません。主なる神さまがこの世界をお造りになったこと、その方が私たちを救ってくださったことを覚え、この方をあがめるための日です。私たちは今どういう休みを得るために「安息日」という一日を過ごしているでしょうか。神さまを覚え、祈り、神さまをほめたたえるために、神さまはこの日を定めてくださいました。それは私たちが安息日にしっかり休んで、神さまを覚えることで人間らしく生きることができるようになるからです。
私は最近息子の小学校に出入りするようになって、校長・教頭・教務といった学校運営の責任を負っておられる先生方と話をするようになりました。初めての経験です。先生方の働き方についても伺うことがあります。聞きしにまさる激務でした。しかし何も教職員に限らず、いろいろな職業や業種で、働き方が問われています。それは、私たちが安息をどうしても必要としているからです。心身の健康のために必要なことはもちろんですが、それ以上に、創造によって明かされる自分という存在のルーツ(存在の根拠)や出エジプトによって明かされる神に救われた私の今(実存)を神さまの御前で修正しなければ、私たちは根本的にやっていかれないのではないでしょうか。私たちは神の前で憩うのでなければ真の安らぎを得ることができない。そして、キリストは私たちを確かな安らぎに入れてくださる方です。
私たちの今日一日の歩みも、神が与えてくださる安息に向かうための一歩なのです。

2022年7月21日木曜日

2022年7月21日の聖句

私があなたのすべての行いについてあなたのために贖いをするとき、あなあたは自分の道を思い起こし、恥じることになる。ーー主なる神の仰せ。(エゼキエル16:61,63)
神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます。(2コリント7:10)

今日の旧約のエゼキエル書で「贖いをする」という言葉があります。どういう意味で使われているの言葉なのかと興味を持ったので調べてみると、ほとんどは「罪の贖い」とか「命を贖う」などの意味で使われていました。ただ、別の興味深い使い方もありました。創世記6:14に「箱舟には小部屋を設け、内側にも外側にもタールを塗りなさい」とあります。神さまがノアに箱舟の造り方を指示しているところです。この中の「塗りなさい」という言葉が、先ほどの「贖う」というのと同じ言葉です。面白い言い回しだと思います。この言葉には「覆う」という意味がある。罪の贖いというのは、従って、罪を覆って見えなくしてしまう、といった意味合いになるのだと思います。
「私があなたのすべての行いについてあなたのために贖いをする(すなわち、罪を覆ってしまう)とき、あなあたは自分の道を思い起こし、恥じることになる。」主なる神さまはそのように言われます。
普通、罪を覆って見えなくしてしまうと言われると、裸を布で覆って見えなくするみたいに、恥が隠される、恥ずかしいところを人目につかなくするという印象を受けます。しかし、神さまはそのようには言われません。神さまは私たちの罪を覆ってしまう、私たちの罪をもはや見ないでいてくださる。しかしそれは、なかったことにはならない。私たちの生き方が曲がってしまった事実は残る。そのことは私たちにとっては恥のままです。そうであるにも拘わらず、神さまはもはやそれに注目し、私たちを責めることはなさらない。神さまは御自身の目から私たちの恥を取り去ってくださるのです。
私たちはその事実を前にして、ただただ畏れをもって感謝するよりほかありません。罪を悔い改め、神さまの御前に恥じ入りつつ、赦してくださった神さまをほめたたえます。「神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます。」恥じ、悔いるしかないこの罪を、神さまは赦し、もはやご覧にはならない。神の圧倒的な赦しの恵みが、私たちをもう一度立ち上がらせてくださるのです。

2022年7月20日水曜日

2022年7月20日の聖句

あなたは私の守り、私の盾。
あなたの言葉を私は待ち望みます。(詩編119:114)
百人隊長は言った:主よ、私はあなたを我が家にお迎えできるような者ではありません。ただ、お言葉をください。そうすれば私の家来は癒やされます。(マタイ8:8)

主の御言葉への全き信頼。この詩編の祈りをした信仰者も、主イエスに部下の癒やしを願った百人隊長も、主が語り出す御言葉への全き信頼によって生きています。主の言葉こそが私を生かしてくださる。この私に、主の言葉が命を与える。私たちもそのことを信じています。
先日、植村環牧師の説教を聞く機会がありました。日本の第一世代の牧師である植村正久牧師のご息女で、御自身がやがて牧師として神さまの召命を受けた。日本では二人目の女性の牧師になったそうです。1890年、明治23年のお生まれです。今回は、牧師たちの説教の学びのために、植村先生が長く牧会した日本キリスト教会柏木教会が説教の録音テープを提供してくださって、肉声を聞きました。とても力強い、朗々たる口調でした。説教を聞いている人たちに語りかけようという思いの強さを感じました。そして、それだけではなく、聖書の御言葉への絶対的な信頼を感じさせる説教でした。あまり小難しい義論を紹介するようなことではなく、むしろ、これまで先生御自身が一人のキリスト者として聞き取ってきた聖書の御言葉に絶対的に信頼し、聖書が語りかけることをそのまま伝えたいという情熱に溢れているな、と感じました。
御言葉への信頼。この信頼は、私たちを生かします。日本が戦争に突き進んでいく時代から戦時中、そして戦後というたいへんな時代を神の言葉に生かされて、生きぬいたこの一人の信仰者の姿は、私たちの道標です。私たちも神の言葉に信頼し、キリストが語りかけてくださる福音に信頼して、この時代を生きていきます。
そしてあの百人隊長は、自分自身のために信じたのではなく、部下のために信じました。部下のために、キリストが一言おっしゃってくだされば必ず癒やされると信じていた。隣人のために、私たちも福音を信じましょう。キリストは私たちのことも、私たちの周りにいる人たちのことも、癒やし、救い、神の愛と祝福を与えることがおできになるのです。

2022年7月19日火曜日

2022年7月19日の聖句

主の使いは主を畏れる者の周りに陣を敷き、彼らを助け出した。(詩編34:8)
主の天使が入ってきて、光が部屋を照らした。天使はペトロの脇をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。(使徒12:7)

旧約聖書の列王記にエリシャという預言者が登場します。あるとき、エリシャのいた町をアラムという外国軍が包囲したことがありました。エリシャの召使いは恐れ、エリシャに「どうしたらよいでしょう」と言って震え上がってしまいます。するとエリシャは言いました。「恐れることはない。私たちと共にいる者のほうが、彼らと共にいる者よりも多いのだ。」すると、主なる神さまがこの従者の目を開いてくださいます。彼は気づきました。「そこで彼が見てみると、山やエリシャを取り囲む火の馬と戦車で満ちていた。」主なる神さまは彼らを守ってくださいました。(列王記下第6章)
主なる神さまの守りは私たちの目には見えません。しかし、私たちは「主の使いは主を畏れる者の周りに陣を敷き、彼らを助け出した」という御言葉を信じています。必ず神さまは私たちに必要な助けを与えてくださるし、事実、天の軍勢が私たちを取り囲んでいる。私たちの目は開けていなくてそれが見えませんが、神さまは必ず私たちを支えてくださっています。
今日の新約聖書では、使徒ペトロに起こった出来事が伝えられています。「主の天使が入ってきて、光が部屋を照らした。天使はペトロの脇をつついて起こし、『急いで起き上がりなさい』と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。」天使がペトロのいる部屋に入ってきたと書かれていますが、この「部屋」というのは、牢獄のことです。ペトロは牢獄で二本の鎖につながれていました。そこには二人の番兵が立って見張っていた。ところが主の天使がペトロのところに来て、鎖を外し、彼を牢の外へ連れ出しました。ペトロは牢から出てきた。教会の仲間たちもそのことが信じられず、喜びのあまりに気が変になったのかとさえ思うほどでした。
神さまの助けは私たちの目には見えません。私たちの願いを超えている。例えそこが牢獄であったとしても、例え鎖につながれていたとしても、神さまは私たちを起こすことがおできになるし、私たちを自由にすることがおできになる。教会の仲間でさえも信じることのできないほどのことを、神さまはなさいます。
今日、私たちの目にはそれが見えなくても、天の軍勢が私たちを取り囲んでいます。私たちを揺り起こし、目を開き、私たちを立たせ自由にするために、神は私たちと共にいてくださいます。

2022年7月18日月曜日

2022年7月18日の聖句

エレミヤは言った:娘であるわが民の傷のゆえに私の心は嘆いた。ギルアドには香油がないのか。そこには医者がいないのか。(エレミヤ8:21,22)
イエスは弟子たちに言う:あなたがたが町に入って迎え入れられたら、差し出される物を食べなさい。そして、その町の病人を癒やし、「神の国はあなたがたに近づいた」と言いなさい。(ルカ10:8~9)

「娘であるわが民の傷のゆえに、私の心は嘆いた。」この言葉は神さまがエレミヤという一人の預言者を通して明らかにした御自身の御心でもあるでしょうし、また同時に、エレミヤ自身の嘆きでもあるのではないでしょうか。エレミヤ自身、深く嘆き、涙を流しています。「ギルアドには香油がないのか。そこには医者がいないのか。」誰にも癒やされることなく、その傷がどんどん深くなっていく。このままでは死に至ってしまう。そういう人々の姿を見つめながら、この預言者は涙を流している。
エレミヤは続けて言います。「私の頭が水源であったなら、私の目が涙の泉であったなら、昼も夜も私は泣くであろう、娘であるわが民の刺し貫かれた者たちのために。」涙を流して、人々が深く傷つき、その傷を本当に癒やしてくださる神さまのもとに帰ろうともせず、ますます悪くなっていくさまを見つめ続けている。エレミヤはただ泣いているだけで何もしなかったのではありませんでした。神さまの言葉を語り続け、神さまの御許に帰ろうと言い続けました。しかし、誰も聞いてくれませんでした。聞いてくれなくても、エレミヤは語り続けました。昼も夜も、涙を流しながら福音を語り続けました。
それは、やがて主イエスさまの弟子たちに引き継がれます。主イエスは弟子たちに命じました。「あなたがたが町に入って迎え入れられたら、差し出される物を食べなさい。そして、その町の病人を癒やし、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。」私たちに託された言葉は「神の国は近づいた」です。この福音こそが私たちを根本から癒やすからです。私たちは「地獄が迫っている」とか、「たたりがあるぞ」とか、そのような言葉ではなくて「神の国は近づいた」という、まさしく福音、良い知らせが託されている。この言葉こそが、深く傷つき、癒やしを切に必要とし、行き惑っている私たち人間が本当に必要としている福音です。
私たちにも、エレミヤのように福音を語るための悲しみが重なるかも知れません。しかし、キリストにある喜びと慰めがそれにもまして豊かに与えられることでしょう。主イエス・キリストのために、私たちはこの世界へ送り出されていきます。

2022年7月17日日曜日

2022年7月17日の聖句

主よ、私の口を守り、私の唇を守ってください。(詩編141:3)
悪い言葉が唇にのぼることのないように。言葉にするならば、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い言葉を語りなさい。(エフェソ4:29)

主イエスさまは教えてくださいました。「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と祈ることを。主イエスはよくご存じです。私たちが誘惑に弱く、試みの中ですぐに悪に傾いてしまうことを。私たちが悪の力から自由になるためには、神さまの助けがなくてはならないことを。主イエスは私たち以上にそのことをよくご存じです。
特に私たちの罪が鮮明に現れてしまうのが、唇です。口をついて出てくる言葉で、これまでどれだけ罪を重ねてきたことでしょう。この口から飛び出してくる言葉のために、どれだけたくさんの人を傷つけてきたことでしょう・・・。何かを口にするとき、あるときには自分が絶対に正しいと信じ込んでいます。あるいは別のときには、特に何も考えずに口から言葉が飛び出しています。そうでなければ、自信がなかったり臆病になって何をしゃべって良いのか分からないときもあるかも知れません。しかしいずれにしても、言葉を選ぶ基準が、結局は自分が感情的にすっきりしたいからだとか、相手を自分の思い通りにしたいとか、特に何も考えもせずになんとなくの不用意であったり、自分が悪く思われないようにということだけを気にしていたり・・・。舌は疲れを知らない悪に満ちている。
しかし、そうではない言葉を口にするように、と聖書は私たちに言います。「悪い言葉が唇にのぼることのないように。言葉にするならば、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い言葉を語りなさい。」聞く人に恵みが与えられるような言葉。本当に、そういう言葉が口から出て来るなら、なんてすばらしいことでしょう!しかし私の実態は・・・。
だからこそ、私たちは祈ります。「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と。そして、ここでは具体的にこのように祈っています。「主よ、私の口を守り、私の唇を守ってください。」この祈りの積み重ねの中、主イエスさまは私の唇を清め、新しく聖なるものに造りかえてくださると信じます。キリストの御業を私の唇に行ってください。切に、そのように祈ります。

2022年7月16日土曜日

2022年7月16日の聖句

主よ、たとえ私が苦難の中を歩んでいても、あなたは私を生かす。(詩編138:7)
あらゆる場合において、私たちは自分を神に仕える者として証明しているのです。大いなる忍耐、苦難、困窮、行き詰まりにあってもです。(2コリント6:4)

今日の御言葉を読むと、私たちの信仰はキリストの復活によって根本的に新しくなったのだということを思わされます。もっとちゃんと言えば、キリストの復活によって新しくなったと言うよりも、むしろキリストの復活によって始まった、あるいはキリストの復活によって可能になったということでしょうが、しかしやはり、キリストの復活が私たちの信仰のあり方を新しくしたという言い方もそう間違っていないと思います。
「あらゆる場合において、私たちは自分を神に仕える者として証明しているのです。大いなる忍耐、苦難、困窮、行き詰まりにあってもです。」十字架にかけられたキリストは、私たちの忍耐が必要な苦難、困窮、行き詰まりの日、そこに共にいてくださいます。私たちのどんな苦難も、困窮も、行き詰まりも、キリストがご存じないものは一つもありません。このお方は十字架を前にして、ゲツセマネの園で汗を血の滴りのように流し、「私は死ぬほど苦しい」と言い、「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」と祈りました。十字架の上では「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。十字架の上におられるキリストは、私たちのどのような苦しみも絶望も私たちが知っている以上に知り、私たちと共におられ、あるいは私たちに代わって、私たちの罪が支払う報酬である死を甘んじてお受けになったのです。
しかしそれも、もしもキリストがただ死んだだけであれば、何の意味があったでしょう。偉大な宗教指導者が死んだだけであったら、私たちと何の関わりがあるのでしょう。キリストは、そうではなく、墓から甦られたのです。神はキリストを復活させたのです。私たちはキリストのお姿によって知ります。どんな苦難も、困窮も、行き詰まりも、それが行き止まりではない、と。キリストは私たちに代わって死に、そして私たちの代表として復活させられました。「主よ、たとえ私が苦難の中を歩んでいても、あなたは私を生かす。」
神は私たちをキリストにあって新しい命に生かしてくださいました。私たちはその事実の証人です。キリストにあって、私たちは行き詰まっても絶望せず、苦難の中でも喜びを知り、困窮の日にも救いを信じることができます。私たちはキリストの復活の証人なのです。

2022年7月15日金曜日

2022年7月15日の聖句

神の救いは彼を畏れる者に近く、慈しみと誠実は出会い、義と平和が口づけする。(詩編85:10,11)
私たちは信仰によって義とされた今、私たちの主イエス・キリストを通して神との間に平和を得ています。(ローマ5:1)

「慈しみと誠実は出会い、義と平和が口づけする。」本当に美しい、すばらしい御言葉です。何度も読んで、今日の私たちの指針にしたいと願います。「慈しみと誠実は出会い、義と平和が口づけする。」
この詩編第85編は「(主なる神さまが)民の過ちを取り除き、その罪をすべて覆ってくださった(3節)」と言っているとおり、神さまの救いを喜び、神さまをほめたたえる詩編です。あるいは、「我らの救いの神よ、私たちを元に返し、私たちに対する憂いを鎮めてください(5節)」とも言っているので、救いを求めて神に祈っている詩編でもあります。
救いを確信しつつ、救いを求める。感謝しつつ祈願する。それが私たちの信仰生活です。私たちはキリストの愛を知り、信じ、そうであるからこそ「救ってください」と神さまに祈ります。この詩編第85編もそういう祈りの言葉ではないでしょうか。
だからこそ、神さまに向かって告白します。「慈しみと誠実は出会い、義と平和が口づけする」と。神さまが必ず救ってくださることを信じ、神の慈しみと誠実が出会って、私を義とし、私たちとの間を平和にしてくださる。そのことを信じ、神との間の平和を喜んでいる。
「私たちは信仰によって義とされた今、私たちの主イエス・キリストを通して神との間に平和を得ています。」使徒パウロが私たちに伝える救いも、神との平和です。神さまと私たちとの間が、今や不倶戴天の仇ではなくて平和で平安になっている。私たちはキリストに救われた。
他者と平和に過ごすことが難しい私たちです。親子であっても兄弟であっても夫婦であっても、仲間であっても友人であっても他人であっても、平和に過ごすのは容易なことではありません。しかしキリストは私たちの平和になってくださいました。何よりも私たちを神の前で平和にしてくださいました。そして、私たちを隣人との間の平和の使者としてくださった。キリストの十字架こそ慈しみであり、まことであり、私たちの義と平和なのです。

2022年7月14日木曜日

2022年7月14日の聖句

主はすべてのものに恵み深く、その憐れみは造られたものすべての上に及ぶ。(詩編145:9)
父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる。(マタイ5:45)

主なる神さまは、すべてのものに恵み深い!造られたすべてのものに神の恵みは及ぶ。この確信こそが信仰ではないでしょうか。神さまは「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる」と主イエスさまはおっしゃいます。あの人には太陽を昇らせるけれどあの人には昇らせないとか、こっちの人には雨を降らせるけれどそっちの人には降らせないとか、そのようなことを神さまはなさらない。私たちが善い者であっても悪い者であっても太陽を昇らせ、正しくても正しくなくても雨を降らせてくださる。
神さまの愛は普遍的です。誰に対しても、あまねくのばされる神さまの愛の手。差別なく、私たちが思っているよりもはるかに長くて確かな手です。そして、神さまの愛は不変的です。いつまでも、どこまでも、永遠の神の愛。神さまは独り子をお与えになったほどに世を愛された。世を愛した。この世界を、神の前に私たちがどんなに曲がっていて、邪であったとしても、それ以上に神の愛は誰にでも向けられていて、いつまでも変わることがないのです。
主イエスさまはこのように私たちを愛する神さまを「父」と呼んで紹介してくださいました。神さまは私たちの父として私たちを愛し、私たちの父として、私たちが例えどのような者であったとしても私たちに太陽も、雨も与え、神の恵みをもって私たちを生かしてくださいます。
私たち、神がお造りになったすべての者に向けられた神の憐れみの中で、私たちの今日一日の営みもなされていきます。今日の天気も、神が与えてくださったものです。神の愛と恵みの中で、どうぞ平安の内に今日の日の歩みを重ねられますように。祝福を祈っています。

2022年7月13日水曜日

2022年7月13日の聖句

私は、彼らの中で生き残った者たちを、私の名声を聞いたことのない人々のところへ送る。そして、彼らは私の栄光を人々の間で告げる。(イザヤ66:19)
全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。(マルコ16:15)

「彼らの中で生き残った者たちを」と言っています。これは、私たちのことではないでしょうか。イザヤ書のこの御言葉が語られた最初のときには、特に歴史的に個別の出来事を考えていたに違いないのでしょうが、これを現代の私たちが聖書の御言葉として読むときに、これは私たちのことだと信じて読むということもまたゆるされていると思います。今日、なお命与えられて生きている私たちを、神さまがこの世界に派遣しておられる。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」とキリストが言われたとおり、私たちが遣わされたのは福音のためであり、私たちは福音を託されて、この全世界へと派遣されています。
福音を宣べ伝えるために。福音は、旧約聖書で「彼らの中で生き残った者たちを」と言っているとおりに、命の福音です。私たちのこの肉体の命だけに留まらない、神さまの御前での命。私たちはキリストの復活によって与えられる命の福音に生かされ、私を生かすキリストの福音をこの世界に宣べ伝える。
キリストの福音を宣べ伝えるために、私たちは神さまによって、この世界に送り出されています。キリストがあなたを愛している、と。キリストの平和がここにある、と。キリストがいつでもあなたとと共におられる、と。私たちは福音を告げ知らせ、あるいは生き方で証しし、キリストの愛を届けるために、この世界へ出て行きます。
「全世界に行って」と言います。全世界です。「私の名声を聞いたことのない人々のところへ」と言います。全世界の、まだ神さまを知らない人のところへ。私たちは言って、キリストの福音を証しし、宣言し、その福音に生きる。
おととい、思わぬ事から出席することになった、座間市教育委員会が主催する会議に出てきました。小中学校の教育の指針についての話し合いに参加し、ほんの少し、思うところを話しました。大したことはできませんでしたが、僅かにでも福音の香りが届けば、と願います。私たちが出て行くところは、神に遣わされた場所です。私たちが出会う人は、キリストに引き合わされた人です。私たちのする仕事は、神に託された使命です。そのところにあって、キリストの福音の証し人として生きたい、と心から願います。

2022年7月12日火曜日

2022年7月12日の聖句

主はわが力。(ハバクク3:19)
私たちが労苦し、闘っているのは、生ける神に望みを置いているからです。(1テモテ4:10)

私たちは労苦し、闘っている。使徒パウロはそのように言います。この手紙は若き伝道者テモテに宛てて書いた手紙。テモテや、テモテが仕える教会を思い、彼らのために言葉を編んだのでしょう。そしてその手紙を私たちも聖書の御言葉として聞いている。使徒パウロは私たちに言います。私たちは労苦して闘っているのだ、と。
誰と、何のために闘っているのか。この章の最初から見ると、「後の時代になると、惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるものがいます」と言っています。更に「このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです」と言う。惑わす霊、悪霊との戦い、偽り者との戦い。これは、悪霊が支配する邪な時代に信仰者として生きる闘いです。
他者を見下して、独善的に、英雄のような気分で闘っているのではない。そのようなことは明らかです。主イエスは邪な私たちをとことんまで愛し抜いてくださいました。信仰の闘いは、愛の闘いでもあります。偽善と邪のために、食べ物や結婚について誤った禁欲主義が横行する、ともパウロは言います。しかし、食べ物も結婚生活も、信仰をもって感謝して受ければすばらしいもの、神が与えてくださったもの。愛を持って感謝して生きるというのは、自由で、魅力的な生き方です。キリスト者としての自由な生へ私たちは招かれ、キリストにある生への闘いに、私たちは赴いている。
これは悪霊との闘いです。単に自分の心の弱さとか、自分に厭なことをいう人の存在とか、社会の曲がった様子とか、それだけでは済まない。人間の力を超えた悪霊の支配を見ている。だからこそ、神こそわが力と信じ、何よりもキリストの愛を信じて、私たちは強くなることができる。
信仰は私たちを自由にします。信仰は私たちに愛を与えます。主イエス・キリストの力によって、今日、私たちは強くなれるのです。

2022年7月11日月曜日

2022年7月11日の聖句

主よ、わが力、わが砦、苦難の日のわが逃れ場よ。(エレミヤ16:19)
私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望しません。(2コリント4:8)

主なる神さまは私の力、私の砦。主こそが私の苦難の日に逃れるべき場所。そう告白しています。預言者エレミヤの言葉です。エレミヤは苦難の連続の人生でした。しかも、神さまを信じ、神さまに仕えたからこそ受けた苦難でした。エレミヤは苦しみや悲しみを骨の髄まで味わった人です。そういう一人の信仰者が言います。「主よ、わが力、わが砦、苦難の日のわが逃れ場よ。」主こそが私の力でいてくださり、私が苦難から逃れるための砦でいてくださる。主なる神さまを信じ、主に仕え、主に信頼する一人の信仰者がここにいる。私たちの信仰の大先輩の告白です。
使徒パウロも同じ苦しみと、同じ慰めを知っている人です。パウロもキリストの使徒としていき、そのためにたくさんの苦しみを受けました。石を投げられ、牢につながれ、鞭で打たれました。難船も経験したし、貧しさや渇きの中で過ごしたこともしばしばでした。しかし、パウロもまた告白します。「私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望しません。」
四方から苦難を受けてもというのは、ただならぬ事です。何かがあって、なんらかの対応を考えた。ところがうまくいかない。それが何度も何度も繰り返される。もうどうすることもできない。手は尽くしたけれど、どれもうまくいかない。「四方から」というのは、そういう状況を思わせます。しかし、パウロは言います。「私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず」と。
ここで大切なのは、「私たちは」と言っていることではないでしょうか。パウロのような特別な信仰者であれば行き詰まらないけれど、私たちのような凡人ではにっちもさっちもいかない、というのではないのです。「私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず」です。私たちも同じ信仰に生きているはずだ、とパウロは言います。さらに、私たちは「途方に暮れても失望しません」とも言う。途方に暮れることはたくさんあります。私たちは案外すぐに失望してしまう。失望が「すぐ」である分、慰めも「すぐ」のお手軽なもので済ませてしまう。結局、根本的には何も変わらない。ところが、パウロにしてもエレミヤにしても、この人たちの慰めは、私が神のものだという福音の事実であったのではないでしょうか。私は私を愛してくださるキリストのもの。だから、四方から苦難を受けても行き詰まらないし、途方に暮れても失望しないで済む。キリストが新しい御業を始めてくださると、いつも信じているからです。

2022年7月10日日曜日

2022年7月10日の聖句

見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、あなたがたも私の手の中にある。(エレミヤ18:6)
あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。(フィリピ2:13)

私という人間を造り、無だったのに存在する者とし、形を与え命を与えてくださったのは、主なる神さまです。私たちは神が造ってくださった作品。陶工が粘土から器を作りあげるように、神さまが私たちを造ってくださいました。それが私の命の根源、私たちの命の根です。
神さまは私たちの外から見て分かる形を造っただけではなくて、わたしたちの内側もお造りになった。私たちの願うことや思うこと、私たちの心も、神さまがお造りになったものです。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」だからこそ、神さまがお喜びになることを願い、その実現のために仕えていきたいです。
今日のエレミヤ書の御言葉は、前後を一緒に読むと、ここだけを抜き出したのとはかなり印象が変わります。預言者エレミヤが陶工の家に行った。すると陶工はろくろを回して造った自分の作品を壊して、自分の気に入った他の器に作り替えていた。エレミヤは陶工の家でそうやって仕事をしている様子を見ました。すると、神さまはエレミヤにおっしゃいます。「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、私もあなたがたにしえないだろうか」と。
神さまがお造りになった作品である私たちには、神さまが込めた願い、神さまの御心やご意志があるはずです。それを無視することは、器が自分には食べ物ではなくて汚物を入れてくれと主張するようなものです。陶工はそんなことのために器を作ったのではない。私たちの心の良心や、志への願いといった思いは、神さまが私たちに造ってくださった心のしるしです。それを無視して生きれば、私たちは、自分という存在を裏切ることになってしまう。そしてそれ以上に、私たちを造ってくださった方への裏切りです。
私たちは神さまを賛美し、礼拝し、隣人を愛するために造られました。神さまの美しさを映し出すために、私たちは造られました。麗しい器として、神を畏れ、敬い、神の御前に歩んでいきましょう。

2022年7月9日土曜日

2022年7月9日の聖句

主が彼らに乾いた地を行かせたときも、彼らは渇かなかった。主は彼らのために岩から水を流れさせた。(イザヤ48:21)
イエスは言う:渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。(ヨハネ7:37)

福音書を開くと、主イエスさまがたびたび一人で祈りに打ち込んでおられるご様子が記されています。主イエスは一人寂しい場所に退いて祈りをなさった。そういう祈りの時間の積み重ねが、信仰生活です。昨日、私たちの生きる国の憲政史に残るであろう大事件が起きました。心が落ちつかずに過ごされた方も多いのではないかと思います。そういうときこそ、今日私たちは祈りに打ち込みましょう。一人、さみしい場所に退いて祈り、主イエスさまと共に過ごしましょう。私たちには他にはないのです。
聖書は、神を信じる者には困ったことが起こらないとは言いません。「主が彼らに乾いた地を行かせたときも」と言っています。乾いた地を行くときが必ず来る。しかも、他でもなく主なる神さまが私たちにそういう道を歩かせるのです。エジプトを出たヘブライ人たちが荒れ野を進んだように、私たちの信仰生活は荒れ野の旅路です。私たちの旅は乾いた地と不可分です。必ず乾いた地、苦難の地を通らなければならない。しかし、神さまはそういう場所に私たちをただ放り込んで終わりということではなくて、私たちのために岩から水を流れさせて、私たちが渇かないようにしてくださいます。私たちは荒れ野を旅する。乾いた地を生きねばならない。しかし、神は私たちのために岩から水を湧き出せてくださる。それが、聖書の私たちに伝えることです。
ここで、神さまは「岩から」水を流れさせると言われています。そして更に主イエスは「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい」と言われる。主イエス御自身が岩になって、私たちのための命の水はこの方から湧き出てくる。キリストは、私たちのための岩です。岩は、私たちの知識や力や可能性の範囲内では、水が湧いてくることがありません。硬い岩を突き崩して井戸を掘るのはたいへんです。ところが私たちの目からは一見すると無価値だったり、可能性がなかったりする岩から水が湧き出てくる。それは、主イエスがかけられた十字架のことです。十字架は死刑の道具です。残忍な処刑道具です。しかし、十字架にかけられて殺された方が私たちに命を与える泉になってくださる。私たちの力や知識や可能性の外から、神さま御自身が命の水を与えてくださるのです。
主イエス・キリストの恵みと平和が、今日もあなたにありますように。

2022年7月8日金曜日

2022年7月8日の聖句

私はあなたがたの業が結ぶ実に従って、あなたがたに報いるーー主の仰せ。(エレミヤ21:14)
失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。(ガラテヤ6:9)

「失望せずに善を行いましょう」と聖書は私たちを励まします。善を行うとき、私たちはいつでも失望と隣り合わせだからです。こんなことをしても無駄なんじゃないか、誰も認めてくれないじゃないか、もう疲れた・・・。一度でも真剣に善を行いたいと志したことあれば、そういう失望や無力感は誰でも知っています。だから、聖書は私たちを励まします。「失望せずに善を行いましょう。」
なぜ、善を行わなければならないのか。動機はいろいろだと思います。ある人は、善いことをして人に認めてもらいたい、評価してもらいたい、と思います。いや、ほとんどの人はそう思うのではないでしょうか。ボランティア活動やなにかをすると、SNSで報告したくなる。もしかしたら、どこかに誉めてほしいという下心が働いているようなところがあるのかも知れません。
あるいは、そういう下心にさもしさや浅ましさを感じ、善いことをするべき理由は、それが善いことだからだ、と言う人もいます。善いことは善いことだからするべきことであって、他の下心や利得を求めるような動機からするべきではない、と言う。確かに高潔で美しい心構えですが、抽象的な絵空事になりかねません。人間の心は、そこまで立派ではないのが現実な気がします。(少なくとも私は、どうしたってさもしい下心をいつだって否定できないのが現実です。)
聖書は、少し違う観点から善い業を薦めているように思います。「私はあなたがたの業が結ぶ実に従って、あなたがたに報いるーー主の仰せ。」主が報いてくださる、と言います。人間からの報いを期待して、人にほめてほしくて善いことをするのではない。自分のアイデンティティを満足させるために慈善を行うのではない。主が何をお喜びになるのか、主が私に何を望んでおられるのか。その所から出発して、主が期待しておられる善い業に生きよ、そうすれば他の誰でもなく主があなたを認め、報いてくださるだろうと言うのです。
私は、この言葉には解放される思いがします。私は主からの誉れを求めて良いし、他方では人からの誉れに振り回されなくて良い。主の御目の前で生きている。それが私の軸なのだと聖書は伝えています。

2022年7月7日木曜日

2022年7月7日の聖句

主よ、あなたの御手によってあらゆる者を大いなる者、力ある者となさいます。(歴代誌上29:12)
イエスは子どもたちを引き寄せ、手を置いて祝福された。(マルコ10:16)

神さまの御手、主イエスさまの御手。主はその御手によって私たちを祝福し、大いなる者、力あるものとしてくださる、というのです。今日の新約聖書、マルコによる福音書が伝える子どもたちを祝福する主イエスさまのお姿は、本当に美しいお姿です。私が特に大好きなのが、「手を置いて祝福された」というこの「手」という言葉が、原文や英訳を見てみると複数形で書かれているということです。ですからもっと正確に訳せば「両手を置いて祝福された」ということになります。主イエスさまが子どもたちの頭の上に両手を置いて祝福してくださっている。想像するだけでも本当に美しく、このお姿そのものが「福音」と呼ぶにふさわしいと私は思います。
私たち神を信じる者は、誰もが神さまの子どもです。だからこそ、主イエスは「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とおっしゃったのです。神さまの子どもとして、神の国を受け入れ、喜び、神さまのものとして生きることが私たちにとって一番私らしいからです。一番自然なあり方だからです。私たちは神に愛されている神の子ども。そんな私たちの頭の上に、主イエスは両手を置いて祝福してくださいます。
「主よ、あなたの御手によってあらゆる者を大いなる者、力ある者となさいます。」ここには、神が「あらゆる者を」その御手によって大いなる者とし、力ある者としてくださる、と言っています。あらゆる者。主イエスさまの手は、誰に対しても隔たりなく伸ばされます。主イエスさまの手は私たちが思っているよりもずっと長くて、届かないところはないのです。あらゆる人を祝福するためにのばされる主イエスさまの御手として、私たちはキリストの祝福の使者として今日一日の業に遣わされていきます。

2022年7月6日水曜日

2022年7月6日の聖句

あなたにとって、主がとこしえの光となり、あなたの神があなたの誉れとなる。(イザヤ60:19)
私たちがイエスから聞いて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。(1ヨハネ1:5)

「神は光であり、神には闇が全くない。」これが、私たちに届けられた福音の言葉です。神は光、しかも、「あなたがたにとって、主がとこしえの光となり」と言っているとおり、今日は光っていても明日は切れてしまう蛍光灯とか、電池が切れたら暗くなってしまう懐中電灯ではありません。主は私たちのとこしえの光。いつまでも、どこまでも、主なる神様ご自身が私たちを照らしてくださいます。
神学校に通っていた夏休みに、四国にあるいくつかの教会で実習をさせて頂きました。その中の一つ、宿毛市にある教会で、夏のキャンプに参加しました。土佐の山間の野営施設でテントを張ってキャンプをした。その夜、空を見上げるとあまりにも美しい星空に息をのみました。今でもよく覚えています、あの星の輝きを。今まで見たどの星空よりもきれいでした。自分が見てきた夜空が、どんなにか都会の灯りに星を隠されているのかを知らされました。
少し逆説的な話ですが、光は、私たちにいろいろなことを想像させます。まず、神さまの光はきっと都会の光ではなくて、太陽や星の輝きのような光ではないでしょうか。神の光ならぬ光に囲まれていると、本当に大切な光が見えなくなります。そして、私たちの闇がどんなに深いのかも、よく分からなくなってしまいます。
私の大好きな、キリストの光を証しする御言葉があります。「この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。(黙示録21:23)」ここでは先ほどのイメージから更に進んで、太陽や月さえももはや必要ないと言っています。神様ご自身が、キリスト御自身が私たちの光、明かりになってくださるから。太陽や月さえももう必要なくなる日が来る。
そして今も、神さまは私たちを照らす光でいてくださいます。私たちの心や存在そのものが暗闇に包まれる時にも、神さまは光です。私たちが自分の罪の闇に気づかない時にも、キリストが私の明かりとなって照らし続けてくださっています。今朝の光の中で、主イエス・キリストの光を求めて、一日を始めましょう。

2022年7月5日火曜日

2022年7月5日の聖句

アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記15:6)
信仰による人々こそ、アブラハムのこどもたちです。(ガラテヤ3:7)

アブラハムは主なる神さまに呼ばれて、75歳の時に生まれ故郷を離れて旅を始めます。神が与えると約束した地に向かって。アブラハムと妻サラとの間には子どもがいませんでした。しかし主なる神さまはアブラハムに約束したのです。「私はあなたを大いなる国民とし、祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福の基となる。」
しかしその後、何年もアブラハムには子どもが与えられませんでした。ですから、主なる神さまが再びアブラハムに臨み、「あなたの受ける報いは非常に大きい」とおっしゃったとき、アブラハムは「私に何をくださるというのですか」「あなたは私に子孫を与えてくださいませんでした。ですから家の僕が後を継ぐのです」と言いました。そう応えないわけにはいかなかった。
ところが、主なる神さまはアブラハムに重ねて言われます。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなた自身から生まれる者が跡を継ぐ。」「天を見上げて、星を数えることができるなら、数えてみなさい。」「あなたの子孫はこのようになる。」それで、アブラハムは主を信じました。
私たちには、人間としての限界や、自分の計算ではどうにもならないことや、まったく見通しが立たなくて絶望することがあるのではないでしょうか。私たちにはもうどうすることもできない。アブラハムが「家の僕が跡を継ぐのです」と言ったのは、そういう限界での言葉だったのだと思います。しかし、神さまはアブラハムや私たちには想像も付かないことをなさいます。だから、私たちはただ信じるだけです。主なる神さまが始めてくださる新しい出来事に、私たちの想像が及ばないことを、私たちの力の限界の外にあることを、神さまはなさることができる。私たちは神さまを信じ、神さまに期待し、神さまを待ち望みます。神さまは、ご自分を信じる者を義としてくださいます。
現代は、信じることの価値を徹底的に貶めた時代です。信仰の尊さがこれほど見下げられた時代があったのでしょうか。神なんて信じないことが人間らしいあり方だという言説が広く受け入れられています。しかし私たちも、アブラハムの子です。私たちには確かに力がないし、どうすることもできないことだらけだし、周囲が手放しに信仰を重んじてくれるわけではないけれど、私たちは神さまを信じます。この方は慈しみに富み、私たちのために独り子をも与えてくださる深い愛のお方だということ、私たちの想像を超えて恵み深い方だということを私たちは信じ、ただ信じるゆえに、信仰の子として生きていきます。

2022年7月4日月曜日

2022年7月4日の聖句

これらはすべて私の手が造ったもの
これらはすべて私のものであるーー主の仰せ。
私が目を注ぐのは、
苦しむ人、霊の打ち砕かれた人
私の言葉におののく人。(イザヤ66:2)
イエスは祈る:真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの言葉は真理です。(ヨハネ17:17)

「真理によって、彼らを聖なる者としてください。」主イエスさまの祈りです。十字架にかけられる前の夜、主イエスが弟子たちのために祈った祈りです。私たちのための祈りです。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。」私たちを神さまが聖なる者としてくださいますように、と主イエス・キリストが祈ってくださいます。
聖なる者というのは、その人が清らかな人物であるとか、聖なる雰囲気を身にまとっているとか、そういうことではないと思います。聖なる者、それは、神さまとの関係の話です。神さまのもの、もっとはっきり言えば神さまの所有物である、ということです。キリスト者という言葉は、キリストのもの、ということです。洗礼を受けた者は皆キリストのものです。キリストの所有物、キリストの焼き印を身に帯びています。キリストは私たちを聖なる者としてくださいと神さまに祈りました。そしてキリストの祈りが空しく地に落ちるなどということは考えられません。私たちは神様にあって聖なる者です。
「これらはすべて私の手が造ったもの、これらはすべて私のものであるーー主の仰せ。」私たちは、神さまのものです。だから、神のものとして私たちは「私が目を注ぐのは、苦しむ人、霊の打ち砕かれた人、私の言葉におののく人」という言葉を福音の言葉として聞きます。私たちの苦しみの日にも、悲しみの日にも、神さまは私たちをご自分のものと宣言してくださいます。私たちの霊が打ち砕かれ、悔い改めの祈りを捧げる時、私たちが神さまの御言葉に恐れおののく時、神さまはそれを喜んで受け入れてくださいます。私たちが神さまのものだからです。
私は不確かですし、心は移りゆくし、どうしたって自分は当てにならないけれど、私を御自身の聖なる者とすると宣言する神の言葉は確かです。「あなたの言葉は真理です」とキリストが言われる通りです。神さまの福音の宣言の中、私たちは新しい一日を始めていくのです。

2022年7月3日日曜日

2022年7月3日の聖句

神を畏れる人はすべてここに来て、聞け。神が私に成し遂げてくださったことを語ろう。(詩編66:16)
パウロは書く:わたしが今生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。(ガラテヤ2:20)

神さまが私に成し遂げてくださったこと。それは、私も聞いて受け継いだことです。聖書に書いてあるとおり、キリストは私たち罪人のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したことです。復活したキリストは弟子たちと会い、たくさんの人たちと出会い、その後パウロにも会い、そしてこの私にも出会ってくださいました。私が今生きているのも、キリストが私に出会って、御自身にある神の愛を届けてくださったからです。「わたしが今生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
私は、私のためにご自分の身を献げてくださった神の子イエス・キリストの愛によって保たれているし、神さまの祝福の中に置かれている。こんなに根本的で、力強く、何者にも負けることのない事実はありません。キリストの愛が今私の生き得る土台です。
先週一週間、私も私なりに忙しくて、うまくいかないこともあり、あまり良好な精神状態ではないなと思うこともありました。そういうときは、自分がどういうふうにものを考え、周囲にどういう態度を取れば良いか、方向を見失ってしまうようなこともあります。でも、そういうときにこそ、今日の御言葉を思い出したいです。「わたしが今生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」この御言葉は、私がどういう者なのかとか、どういう品性なのかとか、どういう生き方をしてきたのか、そういうことよりも、主イエス・キリストがいかなるお方なのかということに集中しています。キリストが私に、私たちに何をしてくださったのか。その事実への信仰が私の生を定める、と言うのです。こんなに心強いことはありません。
今日は日曜日。特に、聖餐を祝う日曜日です。どうぞ、礼拝にお越しください。聖餐に、主イエスさまが御自身を献げて与えてくださったお体にあずかりましょう。もしも健康状態などのことで礼拝堂にまで足を伸ばすことが難しければ、牧師をお呼びください。聖餐をご一緒に祝うために、伺います。私たちを生かすのは、私たちのために御自身を献げてくださったイエス・キリスト、このお方への信仰なのです。

2022年7月2日土曜日

2022年7月2日の聖句

私が暁の翼を駆って、海のかなたに住もうとも、あなたの手は私を導き、右の手は私を離さない。(詩編139:9~10)
イエスは言う:見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:20)

暁の翼。朝日のことでしょう。イスラエルであれば、荒れ野の向こうの地の果てから差し込んでくる朝日。そんな荒れ野の向こうの海のそのまた向こう、海のかなたに私が住もうとも、と言います。私たちで言えば、まさしく海のかなたのそのまた向こうから差し込む朝日。あるいは、宇宙のかなたの太陽と言っても良いと思います。いずれにしても遙か遠く、たどり着くことのできないほど遠くの果て。例え私がそこまで逃れ、神さまから離れようとしたとしても、と聖書は言うのです。例えそのようなところに行こうとも、「あなたの手は私を導き、右の手は私を離さない。」
これが、私たちの信仰のすべてです。例え私が愚かにも神さまから離れていき、神さまを捨てようとしても、神さまは絶対に私を捨てないし、私から離れようとはなさらない。私がどんなに神さまを裏切り、神さまには入ってこられないと思うような場所に閉じこもったとしても、神さまはそこにもおられる。
この詩編第139編は、そのことを繰り返し繰り返し言います。「どこに行けば、あなたの霊から離れられよう。どこに逃れれば、御顔を避けられよう。天に登ろうとも、あなたはそこにおられ、陰府に身を横たえようとも、あなたはそこにおられます。」例え闇の中に身を潜めても、闇だって神さまがお造りになったものですから、神様ご自身の方が闇よりももっと深い。私が神さまから離れる事なんて、できやしない。
だから、神さまが私を離さない方だから、私のような者でもキリスト者でいられるのです。他の理由なんてない。神さまは、あなたを決して離しません。神さまのその手をあなたの上に置き、あなたを祝福することを決してお止めにはならないのです。
主イエス御自身が約束してくださったのです。「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」私の不信仰の日にさえも、この約束は変わりません。どのようなときにも、キリストはあなたと共におられ、あなたを恵むことを諦めてしまうことは決してなさらないのです。

2022年7月1日金曜日

2022年7月1日の聖句

主よ、振り向いてください。私の魂を助け出し、慈しみによって、お救いください。(詩編6:5)
イエスは振り向いて、この女を見て言われた。「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを元気にした。」その時、女は元気になった。(マタイ9:22)

ある指導者が主イエスのところにやって来て言いました。「私の娘がたった今死にました。でも、お出でになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」それで、主イエスが父親と一緒に娘のところへ向かって行かれた。今日はその途上での出来事です。
12年間出血の止まらない女がいました。彼女は指導者の娘のところへ行くために進んでおられた。そこに女が後ろから近づいて、衣の裾にそっと触れたのです。「この方の衣の裾に触れさえすれば治していただける」と思ったのです。彼女がイエスの衣に触れた時、イエスが振り向いて彼女に言われます。「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを元気にした。」するとその時、女は元気になりました。
この女は、12年間出血が止まりませんでした。女性特有の病気です。肉体のつらさに加えて、社会の中で差別される病気でもありました。それで、正面から堂々とイエスさまの前に出て、あの父親のように、「手を置いてください」とお願いすることができなかったのかも知れません。後ろから近づいた時、主イエスの衣にさえ触れればいやして頂けると信じて手を伸ばした時、彼女はどういう思いだったのでしょうか。
「主よ、振り向いてください。私の魂を助け出し、慈しみによって、お救いください。」主イエスさまは、後ろからそっと衣の裾に触れた手に気づいてくださる方です。その指先に込められた祈りや言葉にならない呻き、「助けてください」という声に気づいてくださる方です。必ず主イエスは振り返って、私たちに御言葉をかけてくださいます。「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを元気にした。」
今日も、この祈りの時に主イエスさまの祝福と恵みがありますように。心から祈っています。

2022年8月15日の聖句

義しいものの小屋で喜びをもって勝利が歌われる。「主の右の手は挙げられた。主の正しさは勝利を得た。」(詩編118:15,16) 私の魂は主を称え、私の霊は神、私の救い主を喜びます。(ルカ1:46~47) 今日の新約聖書の御言葉は、主イエスさまを胎に宿した母マリアの賛歌です。「私の魂...