2024年8月30日金曜日

2024年8月30日の聖句

主の計らいは代々に立つ。(詩編33:11)
キリストにあって私たちは、御心のままにすべてのことをなさる方のご計画に従って、前もって定められ、選び出されました。(エフェソ1:11)

今日の新約には「御心のままに」という言葉があります。もっと精確に言えば「神の御心」ということになります。神さまのご意志。この手紙で使徒パウロはこのことをとても大切にしているようです。手紙の冒頭でも既に「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから」と、自分が使徒とされたのは神の御心によると証言しています。
あるいは、4節のところでも「天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました」と言っています。これも「御心」と言うべき事柄です。神がその御心によって、天地創造の前に既に私たちを選び出してくださっていた。神の御心、神の計画によって、私たちは今このように生かされている。
聖書は本当にスケールの大きな事柄を伝えます。ある人がいることを考慮に入れた計画を、その人が生まれる前に立てることなどできません。この世に存在しない人に対する計画は、ただの空想に過ぎません。私たちには人の生・未生や生き死にを計算に入れることはできませんし、もしかしたらそれは許されないことなのかもしれません。ところが神さまはそうではない。私たちの命の造り主であり、それを保っておられる方は、私たちが生まれる前どころかこの世界を創造する前に既に私たちの命に対する計画を持っておられた。しかも、そのご計画は私たちをキリストにあって選び、救ってくださる計画です。
だからキリストにある神の計画は、私たちの思いを遙かに超えて大きく、広く、素晴らしい計画に違いありません。すべての人を神の愛に招く命と希望の計画を、神は備えてくださっていると私は信じています。

2024年8月29日木曜日

2024年8月29日の聖句

烏の子らが神に叫び求め、食べ物がなくてさまようときに烏に餌を備えるのは誰か。(ヨブ38:41)
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神なのです。(1コリント3:7)

誰も見向きもせず、気にも留めない烏の子。そのたった一羽の鳴き声に耳を傾け、小さな烏の子を養ってくださるお方がいる。神さまの御手は本当に大きく、慈しみに満ちています。私たちはその手の長さも力強さも、そしてそこにある大いなる慈しみも、究めることができません。私たちはただただ神様の御前に畏れをもってへりくだり、神の御業を仰ぎ、神をたたえるだけです。
「ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神なのです。」
これはパウロの手紙の中に出て来る言葉です。パウロがこの教会の最初の伝道に関わった。その後、アポロという別の伝道者がやって来てその働きを引き継いだ。パウロは植え、アポロは水を注いだ。二人とも、あるいはここに名前が記されていないたくさんの人たちも、自分に与えられた役目を果たし、神と教会のために仕えた。しかし、成長させてくださったのは神です。だから大切なのは成長させてくださる神さまに他ならない。
私たちには神さまの手の業を計り知ることができません。私たちの思いも、力も、計画も、遙かに超える神さまの御業。その果てを見極めることはできない。だから、私たちは神の御業を待ち望み、神を信頼して、自分に与えられた役目を忠実に果たします。どのようなときにも、何が起こっているときにも、神のご計画を信じて。

2024年8月28日水曜日

2024年8月28日の聖句

今こそ、心を尽くし、魂を尽くして、あなたがたの神、主を尋ね求めなさい。(歴代誌上22:19)
フィリポはナタナエルに出会って言った。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」(ヨハネ1:45)

私たちは今一体何を尋ね求めて生きているのでしょうか?私たちにとって、いちばん大切なもの、欠かせないものは一体何でしょうか?
フィリポは、主イエスとの出会いを喜んで、ナタナエルに伝えました。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」この方こそ私たちが尋ね求めてきたお方、この方こそ私たちの慕うべきお方!本当に喜んでそのことをナタナエルに伝えたに違いありません。このお方こそ、私たちの渇きを癒やしてくださるまことの神です。まことの神に出会った。その喜びがほとばしるような言葉です。
私たちもフィリポと一緒に信じましょう。主イエス・キリスト、この方こそモーセも預言者たちも求めてきた救い主!この方こそ私たちの魂の渇きを癒やしてくださる救い主!ここに救いがあるのです。私たちはもう決して他の所に救いを求める必要はないし、このお方の下さる命の水をしっかりと飲みたいのです。日ごとに!
この救いを求めている人が私たちの周囲にもたくさんいます。まだそのことを、その人は気付いていないかもしれません。主イエス・キリストに示された神の愛が必要ない人はいないと私は信じています。キリスト。このお方を、今こそ尋ね求めましょう。

2024年8月27日火曜日

2024年8月27日の聖句

主の諭しはまっすぐで、心を喜ばせる。(詩編19:9)
イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(ルカ11:28)

首や腰が痛くて整骨院に行って治療して頂くと、自分がどんなに姿勢が悪かったのかということに気付かされます。意識しないと良い姿勢を保つのはなかなか難しい。悪い姿勢の方が楽な気がしてしまいます。ところが本来は、体にとっては良い姿勢でいることの方が自然だし、体そのものにとっては楽なはずです。悪い姿勢が癖になってしまうと、体がおかしくなってしまいます。
「主の諭しはまっすぐで、心を喜ばせる。」私たちの心の姿勢を整えるのは、主の諭しです。神さまの言葉、神のご命令に従って生きるとき、私たちは本当の自分らしさを取り戻す。本当に私らしく生きることができる。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」
体の姿勢も同じですが、自分の心がけや根性でそれを正そうと思っても、すぐに疲れて厭になってしまいます。長年かけて身についた癖はなかなか直らないし、体や心の構造が歪んでいたとしたら、心がけではなく治療が必要です。私たちの「心の歪み」を治すのは、キリストの愛だけです。主イエス・キリストのご慈愛が私たちをまっすぐにする。「主の諭し」、それをキリストは愛の律法として教えてくださいました。私たちに愛することを求めるお方は、私たちに先んじて私たちを愛してくださったお方です。私たちに神の愛を告げる神の言葉が、私たちの心をまっすぐにする。私たちの心を柔らかくします。
主イエス・キリストの十字架の言葉によって、私たちの心をまっすぐにして頂きましょう。私たちの歪み、固まった心を、主イエスさまの限りない愛によって柔らかくして頂きましょう。

2024年8月26日月曜日

2024年8月26日の聖句

あなたは死から私の魂を、躓きから私の歩みを救いだしてくださいました。神の前、命の光の中を進み行くために。(詩編56:14)
(イエスは)子どもの手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩き出した。(マルコ5:41~42)

私たちはやがて眠りに就きます。私も、あなたも。そして愛する人も。長い眠りです。しかしその眠りは永遠の眠りではありません。私たちは「永眠」という言葉を使いません。必ず、主イエス・キリストが私たちの手を取って起こしてくださいます。「タリタ、クム」と言って。「少女よ、起きなさい!」私たちの耳にもキリストの言葉が響き、私たちが死の床から起こされる復活の朝が必ず来ます。
「あなたは死から私の魂を、躓きから私の歩みを救いだしてくださいました。神の前、命の光の中を進み行くために。」
キリストは私たちの魂を死から救いだしてくださいました。それは私たちが神の御前に生きるためです。私たちが命の光の中を進んでいくためです。神の光の中に生かすために、キリストは私たちを起こしてくださいます。
今日も、私たちは命をいただいて新しい一日に出発します。キリストの下さった命を、私たちは今日も生き始めています。キリストの光の中に私たちの一日も置かれています。ですから歩きましょう、共に。神の光の中を!

2024年8月25日日曜日

2024年8月25日の聖句

今週の聖句:
(キリストの言葉)この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。(マタイ25:40b)

今日の聖句:
(主よ、)あなたに感謝します。あなたは私に答え、私の救いとなってくださいました。(詩編118:21)
これは、私たちの救い主である神の前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人が救われて、真理を認識するようになることを望んでおられます。(1テモテ2:3~4)

神は、すべての人が救われることを望んでいてくださいます。私のことも、あなたのことも、神は救い出すことを望んでおられる。聖書はそう言います。いやそれどころか「すべての人の救い」です。私たちの思いを遙かに超えて、すべての人が神に救われ、真理を認識するようになることを望んでおられるのです。
私たちは、自分の理解できるところや自分の手の及ぶところだけに、神さまの御業を小さく、狭く留めてしまいがちです。しかし神さまの御業はもっと大きく、もっと広く、果てしない。すべての人の救いをお喜びになる方は、そのためにご自分の御子をも私たちに与えてくださるお方です。
私たちは喜んでこのお方を礼拝します。このお方の救いをほめたたえて、私たちは喜んで賛美します。私の救い、私の望みでいてくださる神の御前に、私たちは今祈りを捧げているのです。

2024年8月24日土曜日

2024年8月24日の聖句

見よ、私はあなたの過ちを取り除いた。あなたに晴れ着を着せよう。(ゼカリヤ3:4)
父親は僕たちに言った。「急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足には履物を履かせなさい。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」(ルカ15:22,24)

私たちの父でいてくださる神さまは、私たちをご覧になって言ってくださいます。「この息子は、この娘は、死んでいたのに生き返った!」私たちは神に対して死んでいました。この息子と同じように神を捨て、神の御前から姿を消していたからです。しかし、惨めに帰って来たこの息子を喜んで迎え入れ抱きしめてくださった方は、私たちをも同じようにしてくださいます。「わたしの子よ、お前は死んでいたのに生き返った!いなくなっていたのに見つかった!」
死んでいたのに生き返った者に、神は、「いちばん良い衣」を着せてくださいます。「見よ、私はあなたの過ちを取り除いた。あなたに晴れ着を着せよう。」神さまは、ご自分の前にふさわしい装いを私たちのために準備してくださって、私たちに晴れ着をまとわせてくださいます。
私たちのために神が準備してくださった最高の晴れ着、それは主イエス・キリストご自身ではないでしょうか。「主イエス・キリストを着なさい(ローマ13:14)」と聖書は私たちに命じます。これまでとは異なる新しい服をまとって、新しい存在として生きる道が私たちのために準備されている。別の箇所でもパウロはキリストを着た者についてこのように言っています。「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。・・・さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です。(コロサイ3:12,14)」主が私たちに装わせてくださった晴れ着を着て、今日生きていきましょう。

2024年8月23日金曜日

2024年8月23日の聖句

私が「足がよろめく」と言ったとき
主よ、あなたの慈しみが私を支え
思い煩いが私の内を占めるときも
あなたの慰めが私の魂に喜びを与える。(詩編94:18~19)
私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ。(2コリント12:9)

神さまが私たちに示してくださる恵み、私たちを生かす神の慈しみ。それは、この足がよろめかないようにすることではありません。私たちから思い煩いが消えてなくなることではないのです。困ったことがなくなり、何の心配もなくすることが神の恵みではない。そうではなくて、私の足がよろめくときにも神の慈しみが私を支えてくださる。思い煩いにこの心が占領されてしまうときにも、神の慰めが私の魂に喜びを与えてくださる。神の恵みは、私たちのために悩みのない世界を造ることはしない。足がよろめき、思い煩いに覆われているときにも私を生かしてくださる。それが神の恵みです。
私たちのための神の力は、私たちの弱さの中で完全に現れるからです。すごい言葉です。「完全に」現れると言っています。神の力が私の弱さにおいて完全な形で現れる。弱きを覚える日に私を支え、弱い私をなお生かしてくださるところに神の恵みが完全な形をとっている。
私たちのために、私たちと同じ弱い肉体をお取りになった主イエス・キリストの憐れみは、私たちのよろめく足に現されます。私たちの思い煩いに覆われた心に現されます。完全に!キリストの憐れみにすがって、今日の日を歩んでいきましょう。

2024年8月22日木曜日

2024年8月22日の聖句

主はこう言われる。もしあなたが立ち帰るならば、私はあなたを立ち帰らせる。(エレミヤ15:19)
(イエスの言葉)誰も人々の前で私を認める者は、私も天の父の前で、その人を認める。(マタイ10:32)

主なる神さまに立ち帰ること、主イエス・キリストを人々の前で認めること。神さまは、私たちが身も魂も、思いだけではなく言葉も行動も、神のものとして生きることを求めておられます。
今日の新約の御言葉の少し前のところで、主イエスはこのようにおっしゃっています。「体は殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな。」ここからのつながりで考えると、「人々の前で私を認める者は」の「人々」というのは、私たちの体を殺そうとする者たちということであるのかもしれません。しかも、キリストへの信仰を認めようとせず、迫害して襲ってくる者たちということかも知れません。そうすると、「主イエスを認める」というのは、かなり切迫した場面での信仰を問われていることになります。
実際にそういう場面に立たされたときに自分がどうふるまうのか。そう考えると、非常に心許ないです。正直言って、失敗すると思う。しかしきっと大事なのは、そうやって自分にばかり向かう目を神に向けることなのだと思います。主イエス・キリストが私をも父の御前で認めてくださること。私が立ち帰ったとき、それは神ご自身が立ち帰らせてくださっていたのだという事実。私たちの目を、そうやって主なる神さまのしてくださることに向けたい。
今日の私たちの歩みが、自分の心許なさではなく神ご自身に向かうものでありますように。

2024年8月21日水曜日

2024年8月21日の聖句

天におられる神に向かって、両手と共に心を上げよう。(哀歌3:41)
あなたがたの中に苦しんでいる人があれば、祈りなさい。喜んでいる人があれば、賛美の歌を歌いなさい。(ヤコブ5:13)

旧約聖書の哀歌はその名の通りの「哀しみの歌」。神の民ユダがバビロンに滅ぼされて壊滅し、捕囚として強制連行された後の時代を背景とした言葉です。「天におられる神に向かって、両手と共に心を上げよう。」哀しみのどん底、絶望の深まったところで、ただただ神に祈っている。それ以外に何もできないからです。天におられるかに向かって、両手を上げて祈る。ただ「手を上げる」という恰好をするのではなくて、心を上げて、神の御前に祈りを捧げる。
まさに、ヤコブの手紙が語りかけていることがなされていたのです。「あなたがたの中に苦しんでいる人があれば、祈りなさい。」苦しみの中で祈りを捧げた。ここに慰めがあります。苦しんで祈る者の声を、神は必ず耳を傾けて聞いてくださる。私たちはそのことを信じています。
ヤコブの手紙はさらに言います。「喜んでいる人があれば、賛美の歌を歌いなさい。」私たちは時に喜びの中で過ちを犯します。神を忘れてしまう。喜びの中で傲慢になってしまう。しかしそんなとき賛美の歌を歌い神の御前に身をかがめよう、と聖書は勧めます。私たちの生きる場所は神の御前です。苦しんでいるときにも、喜んでいるときにも、私たちは神の御前に生きている。生かされている。だから私たちは苦しみの中で祈り、喜びの日に神を賛美します。

2024年8月20日火曜日

2024年8月20日の聖句

(アブラハムの)僕は、主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうと、黙って彼女を見ていた。(創世記24:21)
彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロを私のために選び出しなさい。私が前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。(使徒13:2~3)

今日の新約聖書の御言葉は、初代教会の祈りの足跡が記されています。最初の教会は、祈ってバルナバとサウロを宣教旅行に送り出しました。異邦人への宣教が具体的に始まっていきます。最初の教会の大きな転換点を迎えたのです。
この時彼らが祈ったということが本当に大事です。「祈る」というのは、私たちの人間としての業を一度すべてやめてしまうということです。沈黙し、すべての業を停止し、ただ神の御前に出て神からの答えを待つ。ところが私たちの周りにはいろいろな声が溢れています。埋め尽くされています。現代社会であればなおのこと、スマホやテレビからいろいろな声が響いています。私たちが祈ることを阻害します。祈らなくても検索すれば、あるいは誰かに相談すれば済んでしまうと私たちは思えてしまいます。そういう環境が周りにそろっている。しかし、最初の信仰者たちは異邦人に福音を宣べ伝えるという新しい教会の歩みを始める決断を、自分たちの業を停止し、沈黙し、ただ祈ることだけによって始めました。人間としての業を超えた業に仕えるからです。神ご自身の御声に聞くのでなければ始めることができないからです。
アブラハムの僕も、沈黙しました。ただ成り行きに任せたのではありません。神ご自身が自分の旅路をどのように導くのかを見極めたのです。(詳しい経緯は、創世記第24章をお読みください。)
私たちも、沈黙しましょう。沈黙してただ神の御言葉だけに耳を傾けましょう。私たちの周りに響くたくさんの声も、自分の内に響いているあらゆる声も沈黙し、ただ神がお語りくださるのを待ちましょう。聖なる沈黙、聖なる待望へと、私たちは今招かれています。

2024年8月19日月曜日

2024年8月19日の聖句

怒りを解き、憤りを捨てよ。
怒りを燃やすな。それはただ悪を行うに至る。(詩編37:8)
誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい。(1テサロニケ5:15)

「怒り」の困った事実は、それが燃えるとき、私たちの内に自分は絶対に正しいという確信が生まれることです。自分は絶対に正しい、それが分からない相手が悪い。激しい怒りであっても静かな怒りであっても、怒るとき私たちはそう思い込んでいます。だからこそ怒っている、と言うこともできるかもしれません。
ところが後から冷静になって振り返ってみると、あんなに確信できていた自分の正しさが非常に怪しいものに過ぎなかったということは珍しくありません。あるいは持続する怒りのために、自分の悪を認めずに相手の悪いところばかりを探してしまうということもあるかもしれません。私たちの怒りは神の義を実現しないのです。「怒りを燃やすな。それはただ悪を行うに至る。」
私たちの指針は、いつでも、主イエス・キリストご自身です。「誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい。」これこそ、主イエスさまが私のためにしてくださったことではないでしょうか。悪をもって悪に報いることなく、すべての人に善を行われる。ここにこそキリストのなさった御業がある。私たちはキリストをまねたいと願います。キリストのように隣人と共に生きたいと願います。それは、キリストのように神を愛し、神の愛の中で生きるということから生まれる新しい歩みです。主イエス・キリストの憐れみと平和を求めて、私たちは今日も生きていきます。

2024年8月18日日曜日

2024年8月18日の聖句

今週の聖句:
傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心の火を消すことがない。(イザヤ42:3a)

今日の聖句:
あなたは人間を、神に僅かに劣る者とされ、栄光と誉れの冠を授けられた。(詩編8:6)
主イエスは、ご自身の神としての力によって、命と敬虔とに関わるすべてのものを、私たちに与えてくださいました。それは、私たちをご自身の栄光と力ある顕現とで召された方を、私たちが知ることによるのです。(2ペトロ1:3)

主イエス・キリストが私たちに与えてくださったもの。それは、命と敬虔とに関わるすべてのもの。しかも、主ご自身を知ることによって、私たちはそれらのすべてを与えられるのだ、と言います。
「命と敬虔とに関わるすべてのもの」。私たちに命を得させるもの。私たちが神の御前で敬虔に生きるためのもの。それは、「信仰」と言い換えても良いのかもしれません。私たちに信仰を与えてくださったのは、「私たちをご自身の栄光と力ある顕現とで召された」キリストご自身に他ならない。主イエスさまが私たちに信仰を与えてくださった。私たちに命を得させるために。私たちが神の御前でふさわしく敬虔に生きるために。
今日の旧約の御言葉はこのように言います。「あなたは人間を、神に僅かに劣る者とされ、栄光と誉れの冠を授けられた。」神に僅かに劣る存在として、神は私たちをお造りになった。そうとすれば、神に与えられた命を感謝して生きること、神の御前に敬虔にへりくだって生きること、それは神に造られた私が本当の意味で「私らしく」生きるということです。主イエス・キリストを仰ぎ、キリストが召してくださった信仰をもって生きることこそ、私が私らしく生きる道。聖書はそのように語りかけています。

2024年8月17日土曜日

2024年8月17日の聖句

(ダビデの祈り)あなたは御言葉のために、御心のままに、この大いなる業をすべて行ってくださいました。(サムエル下7:21)
あなたがたがキリストのものであるなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。(ガラテヤ3:29)

神が行ってくださった大いなる御業。ダビデは、その神の御業のお陰で私は今ここにいます、と祈っています。私を生かし、こうしてここに置き、この場所を与えてくださったのは、神さまです。キリストのものとして、約束による相続人として、神が私を選んでくださった。
先日、高座教会である長老のお話を聞きました。ご自身のサラリーマン生活を振り返りながら、どうやって神さまを信じてきたのか話してくださいました。たくさん転勤を経験し、苦労したこともたくさんあったけれど、神が自分をそこに置いてくださったと信じているとおっしゃっていました。
神さまは私たちのために、救いのために一番よいことをしてくださいます。それは私たち一人ひとりにとっての救いであるのと同時に、この世界の救いのためでもあります。神の国の完成のために、私たち一人ひとりを御心のままに、それぞれの場所に置いてくださっている。私たちをキリストのものとして、それぞれの場所に植えてくださいました。
私たちには神さまの御心はあまりに大きく、果てしなく、見渡すことも悟り尽くすこともできません。しかし、そこには限りない慈しみが込められていて、私たちの最高の幸せは神に全幅の信頼を置くことであると、私は信じています。神があなたをそこに置き、神の御業のお陰であなたは生きている。キリストの恵みが今日もあなたにありますように。

2024年8月16日金曜日

2024年8月16日の聖句

あなたの父と母を敬いなさい。(出20:12)
だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。(ローマ15:7)

主イエス・キリストが私たちを受け入れてくださった。この事実こそが、私たちの人間関係のすべてです。キリストがそうしてくださったように、私たちも互いに相手を受け入れ、愛し合って生きていきたい。それが私たちの願いです。
ところが、私たちの現実はなんとそこから遠くかけ離れていることでしょう。ちょうど、主イエスがしてくださった一万タラントンの譬え話のように。一万タラントンという天文学的な借金をしていたひとりの僕。返せるわけのない借財を、王がすべて帳消しにしてくれました。ところがその帰り道に彼は自分が100デナリオン貸している仲間に出会うと、首を絞めて牢に入れてしまった。主イエスは、本当に私たちを深くご存じです。赦されたことを簡単に忘れ、だからこそ仲間を赦すことができない。誰もが思い当たる節がある(「ある」というよりも、むしろ「ありすぎる」と言った方が良いかもしれません)話ではないでしょうか。
キリストが私たちを受け入れてくださいました。一万タラントンの負債をすべて帳消しにしてくださいました。私たちはただただキリストの憐れみのお陰だけで生きています。「互いに相手を受け入れなさい」というのは、ただひたすら、キリストが受け入れてくださったという事実に立ち返り続けることでだけ拓かれる道ではないでしょうか。

2024年8月15日木曜日

2024年8月15日の聖句

私は主、あなたの神、奴隷にされていたエジプトの地からあなたがを導きだした者である。私は軛を砕き、あなたがをまっすぐに立たせて歩かせた。(レビ記26:13)
私はもはや、あなたがを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。(ヨハネ15:15)

主イエス・キリストは、私たちをご自分の友と呼んでくださいます。私たちはキリストの友です。キリストの友だちとして、私たちは生きている。
ここで「友」と比較されているのは、僕です。日本語訳の聖書では少し柔らかく「僕」と翻訳していますが、「奴隷」という字です。主イエスは私たちを奴隷とは呼ばずに「友」と呼んでくださいます。
かつて私たちは奴隷だった。罪の奴隷、死の奴隷です。死の恐怖のために支配された奴隷だった。死を恐れ、そのことでもって軛につながれ、罪の赴くままに虐げられて生きてきた。その私たちの死をキリストが引き受けてくださって、十字架の上で神に棄てられ、私たちと同じひとりの兄弟になってくださった。私たちを奴隷ではなく友として獲得するために。主イエス・キリストのお陰で、私たちはもはや奴隷ではなく神の友にして頂いたのです。
「私は主、あなたの神、奴隷にされていたエジプトの地からあなたがを導きだした者である。私は軛を砕き、あなたがをまっすぐに立たせて歩かせた。」
神さまは、ご自分の友である私たちをまっすぐに立たせて歩かせてくださいます。罪に支配されず、神のものとして、神の御前に生きる新しい命に生かして頂いている。それが、今日私たちに与えられている命の出来事です。

2024年8月14日水曜日

2024年8月14日の聖句

あなたの神、主は、あなたの手の業すべてを祝福し、この広大な荒れ野の旅路を見守ってくださった。(申命記2:7)
萎えた手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。(ヘブライ12:12)

「この広大な荒れ野の旅路」。私たちの旅路は、広大な荒れ野を進む旅です。私たちは観光旅行をしているわけではなく、また、整備された道を進んでいるわけでもない。一人の人間として、神に導かれるままに、荒れ野を進んでいる。
だから、私たちの手は旅路の厳しさのために萎えるし、歩き疲れて膝も衰えます。自分で以前の力強さを取り戻すことも、まっすぐ確かな歩みを回復することもできない。人間的に見て、私たちの旅路は険しく、遠い。
今週、私たちは主にあって愛する友の家族の葬りをいたしました。私たちキリスト教会にとって、葬式は礼拝です。神を礼拝することで、私たちは愛する人を葬ります。だから、教会でする葬式はすべて「教会葬」です。葬式は教会の業です。私たちは広大な荒れ野の旅を続け、手が萎え膝が衰える。しかし、主が私たちの手の業をすべて祝福してくださっていると信じています。私たちは弱い存在で、この旅路に耐えきれないこともあるかもしれない。しかし、神が私たちを力づけてくださいます。「萎えた手と衰えた膝をまっすぐにしなさい」と優しく語りかけ、励ましてくださる。
主イエス・キリストが私たちと同じ肉体の弱さを知り、私たちと同じように死んで、陰府にまで降っていかれた。その事実が私たちの慰めです。このお方だからこそ、私たちを誰よりも深く慰めてくださいます。私たちの手を、膝を、主が支えてくださいます。

2024年8月13日火曜日

2024年8月13日の聖句

新しい歌を主に歌え。
全地よ、主に向かって歌え。(詩編96:1)
(弟子たちは神を賛美して言った。)「主の名によって来られる王に祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光があるように。」(ルカ19:38)

イエス・キリスト。このお方は、主の名によって私たちのところへ来られた王様です。まことの支配者、私たちの神でいらっしゃる方。このお方を本当に王様らしくお迎えするということが、わたしたちの信仰者としてのあり方です。
主イエス・キリストをまことに王様らしくお迎えする、神の子らしくキリストをお迎えする。それは、このお方を賛美してお迎えするということです。「主の名によってこられる王に祝福があるように」と言っています。キリストが私たちを祝福してくださるというのはなじみ深い言葉ですが、ここではその逆で、私たちがキリストを祝福すると言っています。「祝福する」と翻訳されている単語ですが、「良い言葉」という字でできています。通常日本語に翻訳するときは、神から私たちに向かうときには「祝福」と、人間から神に向かうときには「賛美」と翻訳されます。つまり、祝福と賛美は同じ言葉で言い表されている。どちらも「良い言葉」です。
キリストをほめたたえ、キリストに平和や栄光を帰すとき、私たちはキリストを祝福している。恐れ多いことです。しかし賛美というのは、そういうことです。「新しい歌を主に歌え。全地よ、主に向かって歌え。」私たちはキリストを賛美し、ほめたたえ、祝福し、キリストを崇めて生きていく。それこそがまことの王でいらっしゃるキリストの御前にふさわしい私たちのあり方であると信じているからです。主イエス・キリストのお名前がほめたたえられますように。

2024年8月12日月曜日

2024年8月12日の聖句

主よ、私はあなたの救いを望みます。(詩編119:166)
これらのことを証しする方が言われる。「然り、私はすぐに来る。」(黙示録22:20)

主なる神さまの救いを待ち望む私たちに、キリストが言ってくださいます。「然り、私はすぐに来る。」
私たちは一体どうしたら救われるのか?自分が自覚している問題や痛みだけのことではありません。知っていて、あるいは知らずに犯して罪から、一体どうしたら救われるのでしょう?この世界のどうしようもない現実は、一体どうしたら救われるのでしょう?戦争があり、弱い者が蔑ろにされ、貧しい人が尊厳を奪われるこの世界は、一体どうしたら救われるのか?「自分には特に問題もないし、救われる必要もない。」そう言ってのける人もいるかもしれません。自分には問題がなくても、周りにとってはあなた自身が問題なのかもしれない。一体どうしたら、私たちは救われるのでしょう?
「主よ、私はあなたの救いを望みます。」ここで、「あなたの救い」と言っています。主なる神さまが下さる救いです。主が下さる救いでなければ、私たちの根本的な救いにはならないのです。
私たちは、主なる神さまの下さる救いを待ち望みます。ですから、キリストが再び来てくださるのを待ち望みます。キリストが来て、救いを完成してくださるのを待ち望む。神の国を完成してくださるのを私たちは待ち望んでいる。「然り、私はすぐに来る。」この御言葉を心に刻んで、私たちは今日もキリストを待ち望みます。

2024年8月11日日曜日

2024年8月11日の聖句

今週の聖句:
神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお与えになる。(1ペトロ5:5b)

今日の聖句:
私自らが聖なる者であることをあなたがたに示す。私があなたがたを、イスラエルの地、あなたのたがの先祖に与えると誓った地に導き入れるとき、あなたがたは私が主であることを知るようになる。(エゼキエル20:41~42)
信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになっている土地に出て行くように召されたとき、これに従い、行く先を知らずに出て行きました。(ヘブライ11:8)

今日の旧約聖書の御言葉は、イスラエルの人々が遠くバビロンという国に捕囚として連れて行かれてしまった時代を背景としています。彼らは国が崩壊し、土地も失い、信仰の基盤も揺るがされ、何もかもがメチャクチャになっていました。そんな時代に神が言ってくださるのです。
「私自らが聖なる者であることをあなたがたに示す。私があなたがたを、イスラエルの地、あなたのたがの先祖に与えると誓った地に導き入れるとき、あなたがたは私が主であることを知るようになる。」
この「あなたがたの先祖に与えると誓った土地」というのが、今日の新約にあるとおりに、アブラハムに与えるとおっしゃった地のことです。信仰によってアブラハムが受け継ぐという約束をいただいた。その地に再びあなたたちを導き入れようと神が言ってくださる。そうやって、救いの出来事が具体的なイメージをもって描かれたのです。
大切なことは、私たちが主なる神さまを知ることです。このお方こそ私たちの神、主イエスさまが「父」とお呼びになった神さまであると深く知ることです。救いを目の当たりにしたときにそのことを知る、と神さまはおっしゃいます。神を知ることと私たちが救われることとは一つのことです。私たちは神を知り、神を崇め、神の御前に礼拝して生きていきます。
私たちは神を礼拝することで神を知ります。神を礼拝することこそ、私たちの生きる目的なのです。

2024年8月10日土曜日

2024年8月10日の聖句

主なる私は公正を愛し、不正な強奪を憎む。(イザヤ61:8)
きょうだいを踏みつけたり、欺いたりしてはなりません。主はこれらすべてのことについて正しく裁かれるからです。(1テサロニケ4:6)

私たちの人間関係には、主がその間に立っておられます。私たちは互いに直接結び合わさっているのではなく、キリストを媒介にして一つになっている。だから、聖書は私たちの他者との関わりを「兄弟姉妹」と呼びます。主イエス・キリストを信じる者として、共に生きる人はキリストを長兄とする弟や妹たち。私たちはキリストにあって兄弟姉妹であり、同じ神を「父」と呼んで祈る神の家族です。
だからこそ、聖書は言います。「きょうだいを踏みつけたり、欺いたりしてはなりません。主はこれらすべてのことについて正しく裁かれるからです。」神が兄弟姉妹として結びつけてくださった人を踏みつけたり、欺いたりできますか?そのように問うのです。
私たちの人間関係は、その間に神がおられる。主なる神が私たちの間を正しく裁かれる。キリストを信じる者として互いの関係を結んでいるか、キリストの出来事を前にして誠実に生きているか?
「主なる私は公正を愛し、不正な強奪を憎む」と主は言われます。神の御前に、私たちの振る舞いをもう一度振り返ってみましょう。主キリストが示してくださった神の真実の御前に、私たちの人間関係をもう一度点検しなおしてみましょう。そして思い起こしたいことは、私たちの対によって破れ、崩れてしまったところに、新しい神の御業が始まっているという事実です。

2024年8月9日金曜日

2024年8月9日の聖句

死に捕らえられた人を助け出せ。殺戮を前におびえる人への助けを惜しむなら、たとえ「知らなかった」と言っても、心を見極める方はそれを調べる。(箴言24:11~12)
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(1コリント12:26)

死に捕らえられた人。殺戮を前におびえる人。この世界には、そのような境遇に置かれた人がたくさんいます。あまりにも悲惨な現実を前に、私たちは自分の無力さを覚えないわけにはいかないし、一体自分に何ができるのかと途方に暮れます。しかし同時に思います。現時点で自分の手の届かない事柄について思いをはせることや、自分と関わりのない方を捕らえる死について心を痛めることはとても大切なことで、尊い思いです。しかし同時に、自分の手の届かない方については一度神にお委ねして、この人たちのために真剣に祈ることがなおのこと大切です。そして、私たちは今自分が遣わされているところで何をするのかということを、さらにはっきりと問われているのではないでしょうか。
今日の新約ではこのように言われています。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」この「部分」というのは、体の部分という意味です。私たちは一つのキリストの体であって、一人ひとりはその部分だと言っている。ある人はキリストのお体の手かもしれないし、ある人は足かもしれない。いろいろな個性があり、強い人も弱い人もいる。しかし体がそうであるように、どの部分であっても「必要ない」ということはあり得ない。それどころか、弱く見える部分がかえって必要。そして、一部の苦しみは体全体の苦しみだし、一部の誉れは体全体の喜び。そのように言います。
つまり、一つの体としてつなげられているという事実が、死に捕らえられ、殺戮を前におびえる人を助けるという私たちの生き方への動機だと言うのです。隣人の苦しみや悲しみを前にして、私たちは同じキリストのお体の一員として共に生きています。私たちの間に主イエス・キリストの愛と憐れみが実る私たち教会の歩みでありますように。

2024年8月8日木曜日

2024年8月8日の聖句

主がヨセフと共におられたからである。主は、彼のなすことが順調に運ぶようにされた。(創世記39:23)
これに対し、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。(ガラテヤ5:22~23)

ヨセフは12人兄弟の11男。父には二人の妻と二人の側女がいて、兄たちは全員ヨセフとは母が違います。父はヨセフの母であった女性を愛していたので、その愛妻が初めて生んだ息子であるヨセフを殊の外かわいがりました。ヨセフ自身もそれを鼻にかけていた。彼は兄たちの妬みを買い、いろいろあって遠い外国、エジプトに売り飛ばされることになりました。エジプトでもいろいろなことがあって、ヨセフは牢獄に捕らわれます。しかしその牢獄の中ででも、しかもあんなヨセフのために、神はすべてのことを守ってくださいました。ヨセフは看守の信頼を得て、看守は牢の中のことをヨセフに任せるようになります。聖書は「主がヨセフと共におられたからである。主は、彼のなすことが順調に運ぶようにされた」と評価し、伝えています。神が御業を進めておられたのです。
私たちの性格が良いのか悪いのかというのとは異なる次元で神は御業をなさっています。今日の新約には「これに対し、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」とあります。霊の結ぶ実。「霊」というのは、聖霊のことです。神の霊です。神ご自身の霊が私たちの内に愛や喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という実りを結んでくださる。私たちがいい人か悪い人か、という話ではありません。神ご自身の霊が私たちを新しくしてくださるというのです。私たちに結ぶ神の御業の話です。
自分のこだわりや自己評価、自分の思い描く自画像を捨てて、神さまに自分を明け渡すことが大切なのではないでしょうか。私よりも、神さまの方が私をよく知っておられる。その点で神を深く信頼し、自身の人格をも神に委ねることが大切なことではないでしょうか。

2024年8月7日水曜日

2024年8月7日の聖句

主を畏れることは知恵へと導く諭し。(箴言15:33)
世は神の知恵を示されていながら、知恵によって神を認めるには至らなかったので、神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。(1コリント1:21)

知恵ある人の言葉は、本当に素晴らしいものだと思います。今日の新約聖書はコリントの信徒への手紙。ギリシアにある町コリントの教会へ送られた手紙です。ギリシアは哲学に代表される知恵の言葉が積み重ねられた国家でした。「哲学」と翻訳されている言葉は、もともとは「知恵を愛する」という字を書きます。コリントの人々も知恵を愛し、思索を深め、この世界や人間についての素晴らしい哲学を発展させました。その実りは今日に至るまで残っています。2000年以上の時を経て響き続ける知恵の言葉。
しかし、そのような素晴らしい知恵の実りであっても、できないことがある。「世は神の知恵を示されていながら、知恵によって神を認めるには至らなかった」。人間は、その知恵の粋を集めても神を知るには至らなかった。知恵を極めれば神を知ることができる、というのでない。神は「宣教という愚かな手段」によってご自分を示してくださいました。宣教。知恵に足りなく、不完全で、甚だ欠陥だらけな私たちの言葉によって、神はご自分を現すことを良しとなさったのです。
宣教の始まりは、そもそも、神の御子が一人の女から生まれ、私たちの間に肉を取って宿ってくださったという事実から始まります。私たちと同じ弱い体をもって生き、十字架にかけられて殺されたという出来事から宣教が始まりました。神ご自身が私たちのために愚かな手段をとってくださった。私たちのために独り子を十字架にかけたのです。
私たちは拙い言葉で、しかし心を込めて語ります。このお方こそ、私たちの救い主。私たちのための神の子。神の愛のしるし、と。どんなに言葉を尽くしても足りない。しかし、精一杯に福音を語ります。主イエス・キリストを仰ぎ、キリストを信じ、キリストの御前に私たちは生きていきます。私たちは愚かになって、ただ神が見せてくださる十字架の光の中で神を信じて生きていきましょう。

2024年8月6日火曜日

2024年8月6日の聖句

(神よ、)私が床であなたを思い起こし、
夜回りのとき、あなたに思いをはせるなら
あなたは必ずわが助けとなってくださる。(詩編63:7、8a)
主は、私たちのために死んでくださいました。それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるためです。(1テサロニケ5:10)

床(とこ)に身を横たえて眠るときにも、夜中に起きて夜回りの番に就くときにも。私は主に思いをはせ、主は必ず私の助けとなってくださる。本当に生活の実感がこもった、すてきな祈りの言葉です。夜、床の中で神を思う。床に横たわっていても眠れないときもあります。悶々とし、鬱々としながら、まんじりともせずに夜を過ごすときもあるでしょう。「夜回り」は、恐らく兵士の不寝番のことでしょう。私たちは兵士ではなく同じ意味での夜回りはしていないかもしれません。しかし、育児のため、介護のために夜眠れずに過ごすこともあるでしょう。夜勤の仕事をして、皆が眠るために夜を守ることもあるかもしれません。愛する人の置かれた厳しい現状のために心を痛め、辛い思いで朝を迎えることだってあるのではないでしょうか。
そういう夜、主にはせる思いを主は御心に留めてくださいます。主が私たちの助けとなってくださいます。私たちのどのような夜も主の御手の中にある。私たちはそのことを信じています。
「主は、私たちのために死んでくださいました。それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるためです。」私たちの夜を支える御言葉です。そして、私たちに昼を導く御言葉です。十字架にかけられたキリストが私たちと共に生きてくださっています。主の恵みと祝福は今日もあなたの上に必ずあります。

2024年8月5日月曜日

2024年8月5日の聖句

主があなたがたの前を行き、イスラエルの神がしんがりとなるからだ。(イザヤ52:12)
(イエスは)通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見て、「私に従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。(マルコ2:14)

主なる神さまは私たちの先頭に立ってくださいます。私たちの前を行き、進むべき道に導いてくださる。しかしそれだけではない。神はただ私たちの前を行かれるだけではなく、しんがりをも務めてくださいます。私たちの一番最後にいてくださって、私たちが敵に襲われることのないように守っていてくださいます。先頭を進むのも、しんがりを守るのも、私たちの主なる神さまです。
主イエス・キリストが私たちをご自分の道へ導いてくださっています。「私に従いなさい」と。キリストが進まれる道。それは神を愛し、隣人を愛する道です。キリストは神に仕え、仕え抜いて、神の御心に従いました。キリストは隣人を愛し、悲しむ者と共に悲しみ、喜ぶ者と共に喜んでくださいました。受けるよりも与える方が幸いだとその身をもって教えてくださいました。私たちはキリストの道に導かれています。キリストが私たちの先頭に立って。そして、キリストに従い神に従うために私たちが覚える苦難に対し、私たちのしんがりを守って私たちに祝福をくださっています。
今日も一日、主イエス・キリストの恵みと平安があなたにありますように。キリストの十字架の愛があなたの歩みに力強く、そして優しく示されますように。心から祈っています。

2024年8月4日日曜日

2024年8月04日の聖句

今週の聖句:
幸いな者。
主を神とする国民、
主がご自分のものとして選んだ民。(詩編33:12)

今日の聖句:
主は何事も御旨のままに行われる。
天と地において、海とすべての深い淵において。(詩編135:6)
怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。(ローマ12:11)

今日の旧約の御言葉に「天と地において、海とすべての深い淵において」と書かれています。この「天と地において」というのは、なんとなく分かる気がします。私たちの生きるこの大地でも、神の御支配すなわち天の国においても、神は何事も御旨のままに行われる。しかしそれだけではなく「海とすべての深い淵において」とも言っています。これは一体何か。
恐らくこの「海」は(聖書の中ではしばしば象徴的にこのようなイメージを持って用いられるのですが)、死を象徴する力のことだと思います。主なる神さまは死に対しても権威を持っておられる。それは「深い淵」でも変わることがありません。私たちの知っている底よりももっと深い、どん底。「陰府」と言ってもよいのかもしれません。しかし海も深い淵も、神の御業を妨げることはできない。例えどこであっても、「主は何事も御旨のままに行われる」のだ。
この世界のどこにおいても王でいらっしゃるお方の御前に生きるからこそ、私たちの生き方が定まってきます。主は私たちをこの世界のどこにいても、死の力に呑み込まれたときにも、陰府のどん底に身を横たえていても、ご自分の御旨に従って、私たちを憐れみ、助け、愛し抜いてくださるのです。

2024年8月3日土曜日

2024年8月3日の聖句

御名を知る者はあなたに信頼する。
主よ、あなたは尋ね求める人をお見捨てにならなかった。(詩編9:11)
(イエスの言葉)私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。(ヨハネ6:37)

主イエスは、ご自分のもとに来る人を決して追い出さないと言ってくださいます。なんと恵み深い言葉でしょう!私たちはどんなときにも、どんな私であっても、安心して主イエスの御許に行ってよいのです。主イエスに祈って良いし、主イエスに思いの丈をお告げして良い。主は決して私たちを追い出すことなく、私たちを抱きとめてくださいます。
聖書は最初のほんの数章で、神さまが愛と慈しみを込めてお造りになった人間が神さまを裏切ってしまったことを伝えています。そんな人間のところに来た神様は、「どこにいるのか」と言って探しておられました。聖書は、私たちを探しに来てくださった神さまのお姿を伝えています。この時だけではありません。ずっと、神さまは私たちに「どこにいるのか」と探してくださっています。
失われた息子たちの父親もそうです。弟息子の帰りを待ちわび、怒って家に入ろうともしない兄息子を招きつつ待っていてくださいます。神は私たちを見捨てることなく、待ち続けてくださっています。
私たちが先に神を探し、神を求めたのではありません。神が私たちを求め、私たちを探してくださいました。このお方は私たちを決して見捨てることなく、見放すこともなさらない。主イエス・キリストの恵みと平安が、私たちすべての者に約束されているのです。

2024年8月2日金曜日

2024年8月2日の聖句

(神よ、)あなたは地を震わせ、引き裂かれました。どうかその裂け目を癒やしてください。地が揺らいでいるのです。(詩編60:4)
弟子たちはイエスを起こして、「先生、私たちが溺れ死んでも、構わないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ、静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。(マルコ4:36~39)

ダビデ王があるとき、王として過ちを犯したことがありました。神がお怒りになり、ダビデに裁きを告げます。ダビデに神はこのように問いかけました。「七年間の飢饉があなたの国を襲うことか。三ヶ月間、敵の前を逃げ回り、敵に負われることか。三日間、あなたの国に疫病が起こることか。」その内のどれにするかを選べ、と言うのです。それに対してダビデ王はこのように答えました。「大変な苦しみだ。主の手に陥らせてほしい。主の憐れみは深い。人の手には陥りたくない。(サム下24:14)」こうして、ダビデは主ご自身の手でくだされる罰を選び、疫病に疫病が蔓延しました。
この災い自体は大変な苦しみです。しかしここには、私たちのような現代を生きる者が失っている知恵があるように思います。私たちは、震災や疫病のような苦しみに遭うと、すぐに神を否定し、呪うような言葉を口にします。神がおられるのに何でこのようなことが?神は何をしているのか?そんな神は信じるに値しないのではないか?
今日の旧約の言葉ではこのように言っています。「あなたは地を震わせ、引き裂かれました。どうかその裂け目を癒やしてください。地が揺らいでいるのです。」神ご自身の手で揺らいでいるからこそ、その裂け目を癒やすこともこのお方にはおできになる。そう信じています。神の御手による災いであるからこそ、主のあわれみの深さにすがることができる。私たちの失った絶対的な信頼が、ここにあるのではないでしょうか。
神は、湖を「黙れ、静まれ」と言って叱り、凪にすることがおできになる方です。その力がある。私たちはこの力ある方が慈しみに満ちたお方であることを信じましょう。私たちに分からないことや恐ろしいことをも、神の憐れみにすがりつつ御手に委ねる知恵を持ちましょう。神の憐れみは深い。人間よりもずっと深い。この方こそ、私たちを心配し、私たちを癒やし、救ってくださるお方です。

2024年12月13日の聖句

モーセは顔を隠した。神を見るのを恐れたからである。(出エジプト記3:6) イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」彼らが目を上げてみると、イエスの他には誰もいなかった。(マタイ17:7~8) 今日の新約聖書の御言葉は、ある高い山での出来事...