2023年10月31日火曜日

2023年10月31日の聖句

私たちは皆、汚れた者のようになり、私たちの正義もすべて、汚れた衣のようになりました。(イザヤ64:5)
息子は彼に言った。「お父さん、私は天に対しても、あなたの前にも罪を犯しました。私はもはや、あなたの息子と呼ばれるに値しません。」しかし父は僕たちに言った。「早く一番よい衣服を持ってきて、彼に着せなさい。」(ルカ15:21~22)

今日10月31日は宗教改革記念日と呼ばれる日です。この言葉が最も一般的に通じやすく、教科書にさえ載っているので私もこの表現を使っていますが、あまり適切な言い方ではないとも思っています。宗教改革が始まったドイツでは、単に「改革の日」と呼びます。「宗教」を意味する文字ではない。ルターに始まった改革運動は、宗教を改革したわけではありません。むしろ、信仰のあり方、あるいは教会のあり方を改革する運動でした。
この改革は95箇条からなる公開質問状に端を発します。その第一の命題はこのように言います。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めなさい・・・』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのです。」ぜひ暗記するべき名文です。主イエスは私たちに全生涯の悔い改めをお求めになった。しかもそれはお金を払ってお札を買えば(贖宥状、いわゆる免罪符のことです)済むということではなくて、内的に悔い改め、また生き方が変わるものであるはずだ、と訴えます。
今日与えられている御言葉は、あの失われた息子と父との対話です。悔い改め、もう息子と呼ばれる資格はありませんと告白する息子を父は迎えます。子として迎えます。同じように、神は私たちをご自分の息子として、娘として迎えてくださいます。父の腕の中に帰る私たちの姿、それが悔い改めです。
「私たちは皆、汚れた者のようになり、私たちの正義もすべて、汚れた衣のようになりました」と言うとおり、私たちがどんなに汚れていても、どんなに罪深くても、父である神は迎えてくださいます。私たちの帰りを待っていてくださいます。息子、娘と呼ばれる資格のない私。それでも神は迎えてくださる。そのことを信じ、私たちは大胆に罪を悔い改める。そういう日ごとの悔い改めに生きる一日を、私たちは生き始めています。

2023年10月30日月曜日

2023年10月30日の聖句

義の業は平和となり、義の収穫は永遠の平安と安全である。(イザヤ32:17)
あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。(1ヨハネ2:29)

「義の業は平和となり!」素晴らしい言葉です。そして、私たちの知恵ではなかなか実現されない言葉でもあると思います。人間の感情の中でも、正義感はかなり厄介なものの一つだと思います。自分が正義だと思ってすることを、私たちはなかなか反省することができません。正義だと確信して、他の人の立場や別の正義の可能性を考えないで行動してしまうことのなんと多いことか。そして、そのために周りを傷つけたり仲違いするしかない結果をもたらしてしまう。
一見すると、声の大きな人や立場の強い人の意見が通っていると、平和に見えます。しかし、ただ周りが我慢し、何も言えないでいるだけでは平和ではありません。正義の虜になるとそれが分からなくなってしまう。
しかし聖書ははっきりと言います。義の業は平和となる。義の収穫は永遠の平安と安全である。更に新約聖書の御言葉が続きます。「あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。」
聖書が言う「義」とは、御子イエス・キリストの正しさに適う意味での「義」です。私たちの独り善がりな正義感が生み出す義ではない。キリストの御目がご覧になって明らかになる義。それは、神の愛に適う義と言って差し支えありません。神の義と愛は一つです。独り子を私たちに下さった神が見せてくださる義。それは平和に違いありません。
私たちはキリストの前にへりくだり、キリストの愛にひれ伏し、キリストの平和を喜んで生きていく。そこに生まれる平安の実りを共に分かち合うようにと、主は私たちを招いてくださっています。

2023年10月29日日曜日

2023年10月29日の聖句

今週の聖句:
悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:21)

今日の聖句:
(主の言葉)誰におびえ、誰を恐れたのか。不誠実になり、私のことを心にかけることもなかったとは。(イザヤ57:11)
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アッバ、父よ」と叫びます。(ローマ8:15)

私たちの口に「父よ」という祈りの言葉が上ること、それがもうすでに私たちが神の霊を受けている証拠だ、と言います。しかも神の霊は私たちを神の子とする霊だと言う。神はご自分を信じる私たちを神の子とし、その証しとして、私たちの口にも神を父と呼ぶ祈りをご自身の霊によって授けてくださっているのです。
私は神の子。その事実を私たちは信じ、神の子として新しい一週間の旅路に出発します。怯えること、恐れること、私たちはあるかも知れない。しかし、私たちは私たちをご自分の子としてくださる方を見上げて歩んでいます。だから、私たちは恐れない。怯えない。神が父でいてくださるからです。父でいてくださる神が共におられるから。
今日は主の日を迎えています。神を礼拝します。私たちは心を合わせて、神を父と呼んであがめます。主イエス・キリストが私たちの間にいてくださることを信じて、神を礼拝する。まことの神の子である方が私たちに先立って、「父よ」と祈り、その祈りを私たちにも授けてくださいました。主イエスさまの口まねをして、私たちも祈ります。心を合わせて、私たちも祈りに打ち込む一日を過ごしていきましょう。

2023年10月28日土曜日

2023年10月28日の聖句

見よ、慰めを失うのではないかと私は気がかりだった。あなたはしかし、私の魂を滅びないようにと大切に受け入れてくださった。というのも、あなたはすべての私の罪をあなたの背後に投げ捨ててくださったからです。(イザヤ38:17)
これによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます。心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存知だからです。(1ヨハネ3:19~20)

今日の旧約聖書に「慰め」と書いてあります。慰めというと、一般的にはあまり積極的な意味を持たないことも多いのではないかと思います。現実の惨めさを無視して、本当の憐れさをごまかすようなありさまというような意味合いで使われることも多い言葉のようにも思います。
ところが、聖書は非常に積極的に慰めを語ります。神が私の魂が滅びないように、大切に受け入れてくださる。それが私の慰めだと言うのです。そのために神が私の罪を背後に投げ捨ててくださった。この事実こそ私の慰め。聖書はそのように言います。
聖書を読んで気づかされるのは、私は慰めを必要とする惨めで、憐れな存在だということです。しかしその惨めさや憐れなありさまは、世間一般で評価されるようなものとは少し違うのではないでしょうか。私の惨めさ、憐れさは、罪人であることに根本的な理由があります。ハイデルベルク信仰問答では、私の惨めさは、愛をもって生きることのできない惨めさだと言います。神を愛することも人を愛することもできない私という人間の惨めさ。それが私の罪人としての姿に他ならない。
神は、そんな惨めな私の罪を背後に投げ捨ててくださいました。そのような私の心の責められるべきところを、神が真理によって新しくしてくださいました。主イエス・キリストにあって、神が私をご自分のものとしてくださった。その事実こそ私の慰めです。どのようなときにも、どのような私であっても、髪の毛一本に至るまで神は私をご自分のものと宣言してくださっている。この確かな事実によって、私たちの一日が支えられています。

2023年10月27日金曜日

2023年10月27日の聖句

主は私の命の力、誰の前で私は恐れる必要があろう。(詩編27:1)
私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(フィリピ4:13)

「主は私の命の力」。素晴らしい言葉です。主は私の命の力。私の命を立たせ、恐れを吹き払い、私を死から救ってくださるのは、主なる神に他ならない。主は、私の命の力!この信仰告白を私たち自身の告白としたい。そのように願います。
旧約聖書が書かれたヘブル語では、「命」という言葉と「存在する」という言葉がとてもよく似ています。ここのところは、もしかしたらそういう響きも持っていたのではないかと思います。ただいまここに生きているというだけに留まらない、私というこの存在の根源を支える力、それは主なる神様。この方が私の力となり、私を守る盾になり、砦となってくださる。「誰の前で私は恐れる必要があろう」!
今、どうでしょうか。恐れてはいませんか。自分の存在があやふやになってはいないでしょうか。私たちの力であり、私たちの根源を支えてくださっているのは、ほかの誰でもなく神様です。人からの評価でも、自分の持ち物でも、自負でもない。私たちは、私たちを造り、今も支えてくださる力、主なる神様によって完全に守られています。
「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」これもまた力強い言葉です。キリストが私を強くしてくださる。そのことに完全に期待し、信頼して良いし、神様は必ず私たちがどんなことでもすることのできるようにしてくださる。
「どんなことでもできる」と言ったときに、それは、私たちの欲望を何でもかなえられるとか、自分の好き勝手に何でもできるという意味でないことは明らかです。私を強くしてくださる神によって、私はどんなことでもできる。ですから、私たち自身の、あるいは他者の救いのために、神は私に何でもさせてくださるということに違いない。私たちはキリストがお始めになった神の御支配に仕えるために、何でもさせていただける。
主イエス・キリストこそ、私たちの力です。私たちを救う神の力強い愛そのものです。キリストの力強い恵みと祝福が、今日もあなたにありますように。

2023年10月26日木曜日

2023年10月26日の聖句

朝ごとに私を呼び覚まし
私の耳を呼び覚まして
私が弟子として聞くようにされる。(詩編50:4)
ティアティラ市出身の紫布を扱う商人で、神をあがめるリディアと言う女も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。(使徒16:14)

「主よ、私の耳を開いてください。」聖書の御言葉に耳を傾ける私たちの祈りです。主が私の耳を開き、語られる御言葉を私の耳に入れてください。私たちはそう祈ります。主の日の礼拝でも、聖霊の照らしを求める祈りを献げています。聖霊なる神様ご自身が私の耳を開き、また光を照らして、私に御言葉を聞かせ、悟からしめてください、と私たちは祈る。そうでなければ、どうして御言葉を聞き、また理解することができるでしょうか。私たちに福音を届け、私たちがそれを聞き、理解することができるようにしてくださるのは、神様ご自身の御業です。
リディアはそういう主の御業に与りました。パウロの語る言葉に注意深く耳を傾けた。パウロを通して語られるキリストの福音を耳にし、それを信じ、彼女は洗礼を受け、パウロの宣教に協力するようになりました。そうやって、フィリピの教会が生まれていった。その初めは、一人の人が御言葉を注意深く聞く、という小さな出来事です。しかしその小さな出来事は、神様ご自身の御業に他ならないのです。
私たちも同じ神様の御業に与っています。「朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、私が弟子として聞くようにされる。」神様が弟子として、今朝も新しく私たちを呼び覚ましてくださったのです。御言葉によって、神さまのものとして、私たちを呼んでくださっています。

2023年10月25日水曜日

2023年10月25日の聖句

すべての人が地の果てから主へと戻ってくる。(詩編22:28)
天の国は、パン種に似ている。女がこれを取って、三サトンの小麦粉に混ぜると、やがて全体が膨らむ。(マタイ13:33)

小麦粉に水や塩そしてパン種、つまりイーストを入れ、こねて、しばらく置いておくと、生地は見事に膨らんできます。焼くと美味しいパンができる。天の国はそれとよく似ている、と主イエスは言われます。パン種が小麦粉を膨らませるように、天の国は大きく膨らむ。
粉と塩があるだけでは、いくら混ぜても発酵しません。パン種が入ることで、それまででは考えられなかったほどに大きく膨らんで、ふっくらして、美味しいパンになる。ここでのパン種というのは、神の言葉、すなわち福音のことでしょう。御言葉が私たちの間に入ると、私たちを膨らませる。天の国はそうやって私たちの間に広がっている。
この主イエスのお言葉を初めて聞いたのは、主イエスと一緒に旅をした弟子たちです。この話を聞いて、どんな気持ちになったのでしょうか。全体が膨らんで、パンのように大きくなる天の国。ところが足元の自分たちを見てみると、わずか数人でイエス様に付いて行っているだけです。ほんの小さな、それこそ小麦の粉のように風が吹けばどこかに散らばってしまうような私たちです。イエス様の言葉はあまりにも途方もなかったのではないかと思います。
今日の旧約の言葉はこのように言います。「すべての人が地の果てから主へと戻ってくる。」ここでも「すべての人が」や「地の果てから」と言っていますが、これもまたあまりに途方もない言葉です。私たちの小さな頭では考えられないし、私たちの視野狭窄の目ではとても見ることができない。しかし、主イエス・キリストはご覧になっている。天の国が大きく膨らみ、そこにはすべての人が、地の果てからやって来るのだ、と。
私たちは自分の持っている常識や判断力ではなく、キリストが私たちの間で始めてくださっている御業を信じ、キリストに期待しましょう。主イエスさまの約束は確かであって、期待し、待ち望んで間違えのない言葉です。主イエス・キリストが約束した天の国は、必ず私たちの間にあるし、必ず膨らむのです。

2023年10月24日火曜日

2023年10月24日の聖句

わが神、主よ。
なんと多いことでしょう。
あなたがなさった希しいみわざと
私たちへの計らいは。
あなたに並ぶ者はありません。(詩編40:6)
このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。(コロサイ2:3)

現代人である私たちは、とかく勘違いしがちだと思います。昔の人よりも今の方が賢くなっている、と。昔は何でもかんでも神頼みをしたり、非科学的な世界観で物事を考えたりしていた。しかし今は人間がもっと賢くなり、世の中は便利になり、健康になり、自由になった。
しかし、明らかに勘違いです。むしろ人間はどんどん愚かになっているのではないかとさえ思います。愚かな過ちをくり貸し、皆が共に生きるはずの自然を壊し、愚かな戦争に飽きることなくそれどころか激化し、心の内にある「本音」はインターネットなどで垂れ流され、際限なく人を傷つけるばかりです。それは、私たちが神様を蔑ろにし、神様を無視しているからです。そこにこそ私たちの愚かさと悲惨の根本的な理由がある。
「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」キリストの内にこそ、知恵と知識の宝が隠されてあるのだと言っています。この事実への確信や信頼がどんなに私たちにとって大切であり、かけがえのない宝なのか。そのことが急所ではないでしょうか。
キリストの内に秘められた知恵と知識。それは、この世界は神がお造りになったのであり、神の「良し」という祝福の中にあるということです。それは、私たちは神を蔑ろにし愚かな過ちの淵にうずくまっているけれど、そんな私たちのところへ光であるキリストが来てくださっているということです。それは、このキリストが十字架にかけられ、三日目に復活させられ、真の王として神の右に座しておられるということです。この知恵と知識こそ、私たちを照らす光です。
キリストの光に照らされたとき、私たちはこの世界は神の愛がこもった贈り物であることを知ります。私たちの命の本当の尊さを知ります。他者が本当に尊い存在であること、キリストの命がかけられた存在であることを知ります。キリストの光の中で、私たちは、今味わっている苦しみや痛みにも必ず意味があり、必ず永遠の祝福に至るのだと知ることができるのです。このキリストの知恵と知識の宝が今日もあなたの道を照らしています。

2023年10月23日月曜日

2023年10月23日の聖句

この方は生きておられる神で永遠におられる。またその王国は滅びることがない。(ダニエル6:27)
すべてを神はキリストの足の下に置き、キリストを教会に、すべての上に立つ頭として与えられました。(エフェソ1:22)

神はすべてのものをキリストの足の下に置かれた、と御言葉は言います。キリストがすべてのものの王として支配しておられる。キリストこそまことの王、私たちを支配するお方。それが私たちの信仰に他ならない。
キリストという言葉は、ヘブル語のメシアという言葉のギリシア語訳です。メシアは「油を注がれた者」という意味で、伝統的に王、預言者、祭司の三つの職位が考えられ、主イエスこそメシア、即ち真の王、預言者、祭司と呼ばれる。その通りですが、その中でもまずもっとも大事なのは「王」です。主イエスはメシア、キリスト、真の王です。王として私たちを支配しておられる。すべては王であるキリストの足の下にひれ伏している。
私たちを支配しようとするものはこの世にたくさんあります。今も戦争が起きている場所があります。国民を戦争に駆り立て、戦地に送り出し、命をかけさせる力はこの世の王としての力のもっとも発揮される場面であるのかも知れない。いや、戦地でなくても、いろいろなところでこの世には私たちの命をかけさせるようなものがあるのではないでしょうか。ルターは「あなたの娘を献げることができるもの、それがあなたの神だ」と言ったそうです。王や神のような顔をして私たちを支配する価値観やシステム、この世の声は、一体どのようなものなのでしょうか。
永遠なる神様、私たちの真の王であるお方は、慈しみに満ちた主イエス・キリストです。私たちの命を求めるよりも先に、この王は私たちのために命を献げてくださいました。私たちに先に手を伸ばし、私たちをご自分のものとし、私たちへの祝福の手を決して惜しむことなく伸ばし続けてくださる王様です。
私たちの今日一日も、この王の御支配の中での一日です。王キリストの御支配の中を、今日も私たちは生きていくのです。

2023年10月22日日曜日

2023年10月22日の聖句

今週の聖句:
人よ、あなたには告げられている。何が良いことで何を主があなたに要求されているのか。それは神の言葉以外何も心にとめないこと、愛を行い、神の前にへりくだることだ。(ミカ6:8)

今日の聖句:
あなたは兄弟を心の中で憎むのではなくて、あなたの隣人をいさめなさい。そうすれば彼のことで罪を負うことはない。(レビ19:17)
兄弟姉妹、もし人が何かの間違いに襲われるならば、また柔和な精神で正しく助けなさい。(ガラテヤ6:1)

隣人を自分の兄弟、また姉妹と呼び、柔和な心を持って接する。その人が罪を犯したならいさめ、間違いに襲われたときには柔和に、正しく助ける。憎しみや怒りによって接するのではなく、柔和な心で。聖書はそのように言います。
言葉にすると簡単ですが、本気でこの言葉にしたがおうと思ったら本当に難しい言葉です。ただ単に、一般的に言って隣人を大事にしましょうという話ではありません。兄弟、または姉妹と呼ぶほどに近しい隣人です。その人を憎む自分が正しいと思えるような事態が発生しているときが問題になっている。怒って当然だというような状況です。そんなときに、しかし、柔和な心でというのです。一般論ではなく、具体的な顔がある話です。
そのような思いを持って今週の聖句に目を向けてみても、やはり同じ難しさを感じます。「人よ、あなたには告げられている。何が良いことで何を主があなたに要求されているのか。それは神の言葉以外何も心にとめないこと、愛を行い、神の前にへりくだることだ。」御言葉のみに心を向け、また、愛を行い、神の前にへりくだる。私たちが正義と慈しみに生きることを求めるところに神様の御心がある。
思えば、主イエスさまが私たちにしてくださったのはまさにそういうことです。具体的なこの私のために、キリストは愛を貫いてくださいました。神様を蔑ろにする具体的なこの私のために、神様は独り子を下さいました。神様は、ここに生きているこの具体的な私のために、愛を尽くしてくださったのです。だから私は生きられる。
その事実を、謙遜に受け入れたいと願います。神様の憐れみだけが私を生かしてくださっている。そして、私を正義の人ではなく柔和の人として生きるよう導いてくださっています。

2023年10月21日土曜日

2023年10月21日の聖句

主がよりどころである人は、流れのほとりに植えられた木のようで、その根は小川の中にまで伸びてくる。干ばつの年が来ても心配せず、止むことなく実りをもたらす。(エレミヤ17:7,8)
神の霊は実りとして良きものを豊富に成長させます。つまり、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。(ガラテヤ5:22~23)

神様は私たちにご自分の霊、聖霊を送ってくださいました。私たちの「信じたい」、「祈りたい」という小さな願いも、すでに神様の霊が働いているという確かな徴です。たった一言、「神様」と、「父よ」と祈る言葉が口に上ってくるのも、神様ご自身の霊のお働きに他ならない。私の内でも働いてくださっている神の霊。この方は、父なる神様や主イエスさまと同じように、私たちの信ずべき神様ご自身に他なりません。
神の霊は私たちの内に働き、私たちに実りを結んでくださいます。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。七つの実りがここで挙げられている。私たちは、自分は愛に満ちているとか、自分は親切な人間だとか善意に溢れているとか、そういうことはなかなか言えません。自分の実態がそれとはかけ離れていると知っている。しかし、神の霊は私たちが信ずべき神様です。この方が生きて働いてくださっていることも、私たちの信ずべき事柄です。神は私の内にも働いて、愛の実りを、喜びの実りを、他の実りも結んでくださっている。この私に起きる神の出来事についても、私たちは神様のお働きとして信じるのです。
「主がよりどころである人は、流れのほとりに植えられた木のようで、その根は小川の中にまで伸びてくる。干ばつの年が来ても心配せず、止むことなく実りをもたらす。」この「流れ」というのは、神様の御言葉という生ける水の流れ、命の水ではないでしょうか。私たちは御言葉に生かされ、神の霊のお働きによって、豊かな実りを結ぶ。御言葉も聖霊も、神様の側のお働きです。私自身の内側を見つめても可能性は見いだせませんが、神様は何でもできるお方ですから。神様を信じましょう。この私にも、神の霊が豊かな実りを結んでくださる、と。

2023年10月20日金曜日

2023年10月20日の聖句

主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセと語れた。(出エジプト記33:11)
(イエスの言葉)私はもはや、あなたがを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。(ヨハネ15:15)

主イエスさまは私たちのことをご自分の友と呼んでくださいます。すごいことです。今、パソコンでこの文章を打っていたら、「友」のところが「供」と変換されていました。「主イエス・キリストの供」。確かに、その方が文章としては自然なのかも知れません。主イエスさまにお供させて頂いている従者。本来はそういう関係でしかないはずなのに、主イエスさまは私たちをお供ではなく、ご自分の友、友人、友だちと呼んでくださっているのです。なんということでしょうか。
私たちはキリストの友だちです。友と供とも違いは、一体どこにあるのか。「僕は主人のしていることを知らない」と主イエスは言われます。主人が指示したことを、僕はただその通りにする。主人が何を思い、どうしてそうするのかということを僕は知る必要がありません。ところが私たちはキリストの友だちです。キリストがそう呼んでくださった。友だちである私たちに、主イエスさまは、父から聞いたことをすべて伝えたとおっしゃいました。私たちはキリストから聞いて、父なる神様の御心を知っている。包み隠さず教えてくださった。それはあなたたちが私の友だからだ、と主イエスは言われます。
父なる神様の御心。それは、ご自分の独り子をお与えになるほどに世を愛してくださった御心です。御子を十字架にかけた私たちのために和解の手を伸ばしてくださった御心です。私たちはキリストに教えていただいて、神様の御心を知っている。そうである以上、私たちはキリストの友に他ならない。
ですから、今日、キリストと父なる神様を信頼して過ごしましょう。私たちを友だちと呼んでくださる主イエスさまがいてくださいます。

2023年10月19日木曜日

2023年10月19日の聖句

(主の言葉)私に敬意を払うものに、私は同じく敬意を払う。しかし、私を侮るものは侮られる。(サムエル上2:30)
あなたは神の恵みの豊かさ、根気強さ、忍耐を見誤っているのか。神の恵みがあなたを回心へ導いているのを分かっていないのか。(ローマ2:4)

親しき仲にも礼儀ありという言葉がありますが、私たちの神様への関係はどうなのでしょうか。神様には恵みが豊かに満ち、根気強く、忍耐をもって私たちを扱ってくださいます。そうでなかったとしたら、どうでしょうか。私たちは生きていかれるのか?神様が罪を厳しく処罰し、過ちをお赦しにならない方だとしたら、私たちにはどうすることもできません。神様がもしもご自分の造った命を顧みないお方だとしたら、私たちには生きる術がありいません。しかし神さまは恵み豊かな方ですし、根気強く私たちを導き、忍耐を持って私たちの罪を忍んでくださいます。だから、私は生きられる。
その神さまの恵みを、根気を、忍耐を見誤って神様への礼儀を欠き、当然のように考えるとしたら、それはとても大きな罪であると言わねばならないのだと思います。「私に敬意を払うものに、私は同じく敬意を払う。しかし、私を侮るものは侮られる」と主ご自身が言われます。
私たちは人間にはペコペコして礼を尽くすように心がけますが、神様に対しては平気で失礼な態度をとってしまうことがあるのではないでしょうか。聖なる神様の御前に居住まいを正し、礼をもってへりくだることは、具体的な信仰の振る舞いとして大事なことであるのではないでしょうか。どんなに偉い人間だって及ばず、どんなに脅威的な権力も強固なシステムも決して及ぶことのない、偉大で聖なる神様の御前に、私たちは生きているのです。そのことをわきまえる一日を、主の御前に始めていきたいと願います。

2023年10月18日水曜日

2023年10月18日の福音

私は知っています。
主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ
乏しい人のために裁きをしてくださることを。(詩編140:3)
貧しい人々は、幸いである
神の国はあなたがたのものである。(ルカ6:20)

聖書を読むと、貧しい人に向かう神様の目には特別なものがあります。「主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ、乏しい人のために裁きをしてくださる」。そして、主イエス・キリストは「貧しい人々は、幸いである」と宣言なさいます。
この世の現実は、神様のこのまなざしとはかけ離れています。貧しいというのは、本当に大変なことです。生きるか死ぬかということを意味するし、最低限の尊厳が守られた生活をするためにも、貧しさというのは大きな脅威です。それだけに主イエスのこの御言葉は、私たちにとっては破格の福音宣言ではないでしょうか。主イエスにしか言うことができない言葉です。なぜなら、貧しい人の幸いは「神の国はあなたがたのものである」と言うことのできる方によって保証されて初めてリアルなものになるし、本当に幸いがここにあるということのできる内実が与えられるからです。
ここで一つ注意したいことはこの主イエスの宣言を、私たちが何もしない口実にしてはならない、ということです。主イエスの言葉を聞いて、聞いただけで終えてしまって、貧しい人のための幸いに自分自身がなろうとしないということはあってはならないのだと思います。主イエスが貧しい人の幸いを宣言したとき、そこには、私たちへの促しも含まれているのではないでしょうか。この主イエスの御言葉を聞いているあなたも、貧しい人への祝福になってほしいという願いが込められているのではないでしょうか。
主イエスの語る福音は私たちを新しくします。私たちを福音に生きる者にする。キリストの言葉が拓く新しい幸いに、私たちは招かれています。

2023年10月17日火曜日

2023年10月17日の聖句

主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らは彼らはあなたをその手にのせて運び足が石に当たらないように守る。(詩編91:11~12)
主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、幼子とその母を連れてエジプトに逃げなさい。そして私が言うまでそこに留まっていなさい。」(マタイ2:13)

新しくお生まれになった王イエスを拝むために東から来た占星術の学者たち。彼らは約束された王を捜していましたが、最初は王宮へ行き、ヘロデ王と会いました。王を捜すなら王宮に行くというのは当然であろうと思います。ところがヘロデは学者たちの言うことを聞いて恐ろしくなりました。王の誕生の知らせを聞いたからです。学者たちがイエスと会い、自分たちの国に帰った後、ヘロデは新しい王イエスを殺すために、二歳以下の男児を皆殺しにしようと決断してそれを実行に移しました。
ところがそのとき、間一髪、主の天使の促しによって父ヨセフと母マリア、幼子イエスはエジプトに逃れたのです。「起きて、幼子とその母を連れてエジプトに逃げなさい。そして私が言うまでそこに留まっていなさい。」
主イエスは、ヘロデのかけ声一つで一捻りにされてしまう弱い者になって私たちの間に宿られました。もしかしたらこの時に一緒に殺されていたかもしれなかったのです。そうしたら、神様のご計画も挫折してしまっていたかもしれません。それくらい弱い者になるリスクを引き受けてくださいました。
弱くなってくださった主イエスが、私たちを守ってくださいます。「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らは彼らはあなたをその手にのせて運び足が石に当たらないように守る。」私たちにはその手は見えません。幼子イエスが間一髪でエジプトに逃れたように、私たちも先が見えないところで、どうなるか分からず、あまりにもか弱い自分であることを恐れながら進まないと生けないかもしれない。しかし、必ず神は守ってくださいます。私たちはそのことを大胆に信じ、決して神を試みることなく、信じ切ってキリスト者としての道を歩んでいきましょう。主イエス・キリストの恵みと祝福が、今日もあなたにありますように。

2023年10月16日月曜日

2023年10月16日の聖句

私たちの罪に従って私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報復されることもない。(詩編103:10)
互いに赦し合いなさい、神があなた方をキリストにあって赦してくださったように。(エフェソ4:32)

シモン・ペトロが主イエスに、人が自分に罪を犯したら何回赦すべきか、7回までですかと尋ねたことがありました。主イエスはそれに対して、七回どころか七の七十倍まで赦しなさいとおっしゃいました。
主イエスがおっしゃったのは、もちろん、490回赦せということではないでしょう。私たちにとっては七回赦すのだって大変です。仏の顔も三度までと言いますが、七回我慢した後の八回目を迎えたときの怒りはすさまじいものになるに違いない。まして490回なんて、考えるだけでも恐ろしい・・・。
主イエスは、数えるのをやめろとおっしゃったのではないでしょうか。そうやって相手の罪を見るのではなくて、あなた自身が神様からどんなに深く赦され、どんなに大きな神の赦しに生かされているかをよく知ってほしい、というのが主イエスのおっしゃったことだと思います。
「互いに赦し合いなさい、神があなた方をキリストにあって赦してくださったように。」キリストにあって神が赦してくださった。それが私たちのすべてです。それは490回どころではない。無限の赦しです。限りない赦しの恵みに私たちは現にあずかっている。それが私たちの人間関係の基だと主イエスはおっしゃるのです。
もしも神様が私たちの罪にしたがって私たちを公平に扱うのだとしたら、私たちはもう生きてはいかれません。神がもはや私の罪を数えないでいてくださるからこそ、私は生きられる。それが私たちの原点です。

2023年10月15日日曜日

2023年10月15日の聖句

今週の聖句:
私を癒やしてください、主よ
そうすれば、私は救われます。(エレミヤ書17:14)

今日の聖句:
義なる人は貧しい者の抱える事柄を理解している。(箴言29:7)
宴会を催すときには、むしろ貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。(ルカ14:13~14)

ある人がこのような詩を残しているそうです。

私どもの豊かな地にいらっしゃい、
貧しい人、弱い人を愛するあなた。
けちから、無分別から、
私ども人間の心を目覚めさせるために。
私どものぜいたくから、
飢えねばならない人の救いを生み出してください。

宴会の話を、主イエスがなさっています。宴会に誰かを招くとき、多かれ少なかれ、自分の得になることは何かを考えながら行動してしまいす。それは具体的な便益である場合もあるし、その人と一緒にいることで得られるであろう楽しい時間である場合もあると思います。
主イエスは、むしろお返しをすることができない人を宴会に招けとおっしゃいます。彼らはあなたにお返しができない。だからあなたは幸いだ、と言うのです。驚くべき言葉です。私たちの普通の感覚とは違います。主イエスは、神の下さる報いだけを考えておられるのです。神が貧しい人や不自由を覚えている人を重んじておられるのだから、あなたも彼らを重んじ、愛せよ。そうしたときに彼らはあなたに何も返すことができない。だから、いい。貧しい人に代わって、神があなたに報いてくださるのだから。主イエスはそう言われる。貧しい人、お返しのできない人を愛するその時にこそ、私たちは人間のこころを目覚めさせていただくのです。

2023年10月14日土曜日

2023年10月14日の聖句

あなた自ら保証人になってください。ほかの誰が私の味方をしてくれましょう。(ヨブ17:3)
誰が罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。(ローマ8:34)

例えほかの誰が味方になってくれなくても、神が味方なら、神が私の保証人になってくださるなら、それで十分。ヨブはそのように言います。
ヨブはあるとき、突然、何の理由もなくたくさんの苦しみに遭いました。財産を失い、子どもたちを失い、自分も恐ろしい皮膚病にかかり、苦しみを嘗め尽くした。友だちが来て慰めようとしてくれていましたが、次第に、お前が何か悪いことをしたからこのような災いが降ってきたに違いないと言ってヨブを苦しめるようになってしまいました。
しかしヨブは、例え誰がわかってくれなくても、誰に理解してもらえなくても、神が私の保証人になってくださればそれだけでいい、他に誰も味方になってくれなくても、神だけが味方ならそれでいいと言ったのです。だから、ヨブはただ神だけを呼びました。神に訴えました。かなり率直な言葉で自分の思いをぶつけました。聖書を読む人の中には、ヨブは言い過ぎだ、やはりヨブは神様に罪を犯しているとジャッジする人もいるほどです。しかし神さまはヨブの姿勢をお喜びになりました。ご自分に信仰をぶつけるヨブを、神様が喜んでくださったのです。
例え誰が私たちに敵対しようとも、誰が私を憎もうとも、神は私の味方でいてくださる。私たちもそのことを信じています。「誰が罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。」主イエス・キリストが私たちの味方なので、私たちは何者をも恐れることはない。どんな苦しみも、権威も、権力も、力も、しがらみも、私たちをキリストに示された神の愛から引き離すことはできないのです。

2023年10月13日金曜日

2023年10月13日の聖句

天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。
その手を押さえて何をするのかと言いうる者は誰もいない。(ダニエル4:32)
ですから、神の力強い御手の下でへりくだりなさい。そうすれば、しかるべき時に神はあなたがたを高くしてくださいます。(1ペトロ5:6)

神の力強い御手。それは、天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる、と言います。あまりにも途方もなくて、何と言ったらよいのかも分かりません。天も地も治める神様の大きくて、力強くて、果てしない御手。私たちにはあまりにも大きい。
その神様の御前に、私は一体何者でしょう。神様に造られたもの、神の御言葉が生み出し、神の御手が支えてくださる命。神は私が何者だからこのようにしてくださるのか。神は無に等しい者をご自分の前に覚え、高くしてくださいました。
だから、私たちはただただ神様を礼拝し、賛美するだけです。このお方が私を御心に留め、愛してくださったからです。この神様を仰ぎ、礼拝することこそが私の幸いであるし、私が人間らしく生きうる場だからです。
天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる神の御手は、この私に伸ばされ、私を支えてくださっている御手。その驚くべき、そして恐るべき事実を受け入れ、神様の御前にへりくだってその手に込められた慈しみを受け入れることこそ、神を信じるということではないでしょうか。私たちの今日一日も、この神の御手が支えてくださっています。

2023年10月12日木曜日

2023年10月12日の聖句

側にいてください、主よ、私の神よ。
あなたの慈しみに従い私を助けてください。
ペテロは強風を見て怖くなり、また沈みかけたので叫んだ。「主よ、助けてください。」イエスはすぐに手を伸ばして彼を掴んで言った。「信仰の薄い者、何故あなたは疑ったのか。」(マタイ14:30~31)

主なる神様、私たちの神様は、必ず私たちの側にいてくださいます。「側にいてください、、主よ、私の神よ。」この祈りを聞き、必ず私たちを助けてくださるお方です。私たちは神様の慈しみを信じています。
神様を信じるというのは、神様の慈しみを信じるということです。神様がいるとか、神様は偉大だということに留まらず、その神様の慈しみがこの私にも向けられているというあり得ないような事実を信じることです。だから、逆に不信仰というのは、神様の慈しみを疑うということに他ならない。神様は私のことなんて気にしておられない、私のことなんてどうでも良いと思っている。そういう思い込みは、不信仰です。
ペテロは湖で舟に乗っていましたが、途中、逆風のためにどうにもならなくなってしまいました。舟に主イエスは乗っておられなかった。ところが主イエスは湖の上を歩いて、ペテロらが乗る舟に近づいてこられた。ペテロは、主が来てくださったことを知ると、私も湖の上を歩いてあなたのところまで行かせてくださいと言った。よろしいと言われて歩き出した。しばらくは湖の上を歩いた。ところが、ペテロは強風を見て怖くなった。すると、沈んでしまった。それで、主イエスが手を伸ばして助けてくださったのです。
ペテロは主イエスではなく強風しか目に入らなくなってしまいました。風にあおられて襲いかかる波、揺れる舟。イエスのことはもはや目に入りません。恐怖に心が支配される。それが、不信仰です。しかし主はおっしゃいます。恐れずに信じよ、と。
今、あなたの目には何が映っていますか?主イエスを見つめていますか?波ではなく、風ではなく、沈んでしまいそうな自分ではなく、主イエスに目を注ぎましょう。主だけにこの目を向けましょう。そのとき、必ず恐れから解放され、信仰をもって私たちの立つ湖を見つめ直すことができるのです。

2023年10月11日水曜日

2023年10月11日の聖句

主よ、あなたは苦難にある貧しい者たちの砦、
横暴な者たちが荒れ狂うとき、
嵐を前にした避けどころ、
暑さに直面したときの日陰であられた。(イザヤ25:4)
私たち生きているものは、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。(2コリント4:11)

私たちは、苦難の時に思い起こすことができます。神様が私たちの避けどころとなってくださっていることを。神様が嵐の日に私たちを守ってくださっていることを。神が日陰となって私たちを照りつける太陽のような苦しみから守ってくださっていることを。
だから私たちにとっては、もはや苦難の意味が変わっています。苦難は単に苦難で終わるのではない。ただ苦しいだけのものではない。神がこの苦難の逃れ場となってくださっている以上、この苦難にも意味はある。主イエス・キリストにあって、この苦しみにも必ず意味がある。
そのことを使徒パウロはこのように言います。「私たち生きているものは、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。」私たちの苦難は、主イエスさまの死がこの肉体に現れたのだ、と言います。かなり大胆な言葉です。しかし、真実の言葉です。私の苦しみは、単に私だけの苦しみではない。私の苦難は私がただ苦しんでいるだけではない。主イエス・キリストの御苦しみの一端を味わわせて頂いている。キリストに連なる意味があるのです。
私たちは、神が私の苦難に連帯してくださった以上、私もまた隣人の苦しみに寄り添い、苦しむ人と共に生きるように召されているのではないでしょうか。隣人のための苦しみこそ、キリストが私のために負ってくださった苦しみではないでしょうか。
私たちは、今日、キリストの愛の道に招かれているのです。

2023年10月10日火曜日

2023年10月10日の聖句

私は、あなたの中に貧しく、小さき民を残しておく。彼らは主の名に、信頼するだろう。(ゼファニヤ3:12)
世で取るに足らない者、軽んじられている者を神は選んだ。無に等しい者を選んだのは、世で何者かである者を打ち砕くためです。そしてどの人間も神の前で誇ることがないようにするためです。(1コリント1:28~29)

神様は、敢えてこの世の小さな者、軽んじられている者をお選びになったのだ、と聖書は言います。聖書の別のところでもこのように言われています。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は、地上にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。あなたがたがどの民よりも数かが多かったから、主があなたがたに心を引かれて選んだのではない。むしろ、あなたがたがは、どの民よりも少なかった。(申命記7:6~7)」神様がお選びになるのは、強かったり多かったり見所があったりする者ではない、と言います。むしろ、弱く、少なく、小さく、この世では評価されない者をお選びになる。
そうです。だから、私も救われた。だから、私も選んで頂けた。
私たちは神様の御前に、何一つ誇ることができません。ここは褒めてほしいとか、認めてほしいと主張出来るようなものは何一つない。ただ恥じ入り、無に等しい自分を神様にただただお任せするだけです。
神様は慈しみに満ちたお方です。貧しく、小さき民をご自分のものとして選び、ご自分の宝としてくださいます。私たちは神様の御前に誇るのではなく、へりくだって、自分のあるがままの小ささや弱さに正直になるしかない。神様にも隣人にも、自分を大きく見せることをやめて、神様に与えられた姿のままで、無に等しい者を愛してくださる神様を賛美し、このお方のすばらしさを証言する者として歩ませてください、と願うだけです。

2023年10月9日月曜日

2023年10月9日の聖句

不正な富は助けにならないが、義は死から救う。(箴言10:2)
(ザアカイのイエスへの言葉)主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれからから脅し取った物があれば、四倍にして返します。(ルカ19:8)

ザアカイは主イエスさまと出会いました。ザアカイが上った木の下に主イエスがやって来て、彼に声をかけたのです。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」主イエスは、「今晩泊めてくれないか」とはおっしゃいませんでした。「今日は、あなたの家に泊まることにしている!」主イエスはもう決めていたのです、ザアカイのところに泊まろうと。
これが救いです。主イエスが私のところに来て、とどまってくださる。私がお迎えするよりも前に、主イエスも方から私のところにいてくださる。これこそ救いです。
主をお迎えして、ザアカイは言いました。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれからから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」これまで、ザアカイはお金に依存して生きてきました。徴税人としての立場を悪用して、人々からだまし取り、脅し取り、私腹を肥やしてきました。彼は町中の嫌われ者だったと強く推察されます。ますますお金にのめり込んだのではないでしょうか。ザアカイは不自由でした。お金の奴隷でした。
しかし、主イエスが来てくださった今や、彼は自由です。お金に縛られることなく、これまで命のように考えていたお金を、貧しい人に分け与えることが出来るようになった。主イエスは私たちを自由にしてくださいます。私たちがお金や、物や、評判や、その他その類いの物に縛られるとき、キリストは私たちを訪れて自由にしてくださる。私たちはもはや何者にも縛られることなく、自由な愛に生きることができる。他者のために自分のものを献げる自由に生き始めるのです。それは、私たちを救うのが自分のための富ではなく、キリストの義だからです。
キリストが今日も私たちを訪れてくださり、私たちを自由にしてくださいますように!

2023年10月8日日曜日

2023年10月8日の聖句

今週の聖句:
神を愛する者は、自分のきょうだいも愛するべきです。これが、私たちが神から受けた戒めです。(1ヨハネ4:21)

今日の聖句:
くじは好ましい土地を私に引き当て、そこは私にとって素晴らしい嗣業となりました。(詩編16:6)
神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。(2コリント9:8)

今日の旧約聖書の御言葉として6節が与えられていますが、5節から一続きに改めて読んでみたいと思います。上掲の訳と違いますが、聖書協会共同訳をご紹介します。

主はわが受くべき分、わが杯。
あなたこそ、私のくじを決める方。
測り縄は麗しい地に落ち
私は輝かしい相続地を受けました。

この詩編16:5~6は、神殿で仕えるレビ人がその職に任じられる礼拝で読まれた御言葉なのだそうです。レビ人は祭司と共に礼拝に仕え、他者のために祈ることをその使命とする。改革者マルティン・ルターは、キリスト者は皆隣人のために祈る祭司とされている、と言いました。洗礼は祭司としての任職式です。私たちはキリストにあって、隣人のための祭司であり、レビ人です。
神様が私たちの受けるべき分を定めてくださいました。私たちのために麗しい地を神が選んで与えてくださった。私たちが隣人のために祈り、神様に執りなしの祈りをする報酬は、神様が私たちに与えてくださっている。
この光栄な務めを、喜んで果たしましょう。神が与えてくださるあらゆる恵みに応えて、神がくださる一つひとつの善いものに応えて、喜んで祈りの務めを果たしましょう。共に生きる隣人のための祈り。この喜ばしい務めのために、私たちの新しい一週間が始まります。

2023年10月7日土曜日

2023年10月7日の聖句

(エレミヤの祈り)聞き入れてください。主よ、聞き入れてください。そうすれば、民は知るでしょう。主、あなたが神であり、彼らの心を再びあなたへと戻してくださったことを。(列王記上18:37)
(イエスのペトロへの言葉)しかし、わたしは、あなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:32)

私たちは神様を信じています。キリストを信じています。しかし聖書を読んで知らされることは、私たちが神を信じるその信仰は、神が与えてくださったものだ、ということです。驚くべきことです。わたしの心から湧き上がってくる信仰心や思いである以前に、神様がわたしの内に働いてくださって、その信仰を与えてくださるという事実です。
今日の新約の御言葉は、主イエスが弟子のペトロにおっしゃった言葉です。この後、ペトロは主イエスを裏切ることになる。主イエスは予めそのことを予告なさいました。ペトロはそれを打ち消して、絶対に裏切らないと啖呵を切りました。主イエスはそんな彼に、あなたは必ず裏切ることになると告げた。しかしそうやってペトロを突き放してしまったのではない。それと同時におっしゃった。「しかし、わたしは、あなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」この先ペトロはイエスを裏切り、信仰者として完全に倒れてしまう。信仰を失う。しかし、その信仰をペトロが失うことのないように、主イエスは祈っていてくださる。ペトロは立ち直ることができる。
私たちに信仰を与えてくださったのも、それに挫折してぺちゃんこになったときに再び立ち直らせてくださるのも、神様です。主イエスさまの祈りが私たちを支えてくださる。私たちは、ペトロと同じように立派な信仰者でもなければ信じることや愛することに挫折するダメなやつにすぎないかも知れません。しかし、そんなわたしの信仰がなくならないように、主イエスが祈っていてくださる。信じられないほどありがたいことです。
信じましょう。主イエスが祈っていてくださることを。だからわたしも大丈夫なのだと、信じましょう。キリストの祈りによって支えて頂いているわたしなのだということを信じて、今日の日を歩んでいきましょう。

2023年10月6日金曜日

2023年10月6日の聖句

私の声に聞き従え。そうすれば、私はあなたがたの神となり、あなた方は私の民となる。(エレミヤ7:23)
(イエスの言葉)あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。(ヨハネ8:31)

主イエスさまの御声。神の言葉。この声に聞き、この言葉に従う。それが、神を信じるということです。神さまの御言葉こそ、私たちの命です。
今日の新約聖書には主イエスの言葉が伝えられています。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」ヨハネによる福音書第8章を見ると、これは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言った言葉のようです。イエスさまと出会い、信じ始めていた。ところがイエスと実際に話してみると、次第に躓き始めます。そしてしまいにはイエスに向かって悪魔呼ばわりまでするようになります。彼らはイエスを信じたいと思いましたが、イエスの言葉に留まることができませんでした。怒りとか、怒りを引き起こす自分の思い込みとか、信じることによって自分が変わっていくことへの恐れとか、そういう思いが邪魔をしたのかも知れません。
今、私たちの心の中はどうでしょう。怒りや思い込みや恐れに支配されてはいないでしょうか。心の中のわだかまりが、主イエスを信じることを邪魔します。しかし、主イエスが私たちに語りかける言葉は、いつでも福音の言葉です。良い知らせです。今日、新約聖書の御言葉として掲げられている言葉に続くのは、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」という言葉です。主イエスは私たちを自由にしてくださる。怒りから、思い込みから、恐れから、キリストが私たちを自由にしてくださる。だから、イエスの言葉に一心に耳を傾けましょう。よく聞きましょう。そして、それを受け入れ、イエスの言葉に留まりましょう。私たちの怒りや恐れは、私たちがそれに留まるほどの価値がありません。むしろ自由をもたらす真理の言葉にこそ、私たちに命を与える尊い価値があるのです。

2023年10月5日木曜日

2023年10月5日の聖句

主がイスラエルの家に告げられた良いことは、一つもたがわず、すべて実現した。(ヨシュア21:45)
群衆のすべてはイエスにより行われたすべての輝かしい御業を喜んだ。(ルカ13:17)

主イエス・キリストにあって、神の福音はすべて、あますところなく、完全に実現しました。キリストが私たちの間にひとりのみどりごとしてお生まれになり、生き、苦しみ、十字架にかけられた。そして三日目に復活し、そのキリストと弟子たちは再び出会った。主イエスのなさった一つひとつの御業によって、神は私たちの間で福音を成就してくださいました。
キリストが宣言したとおり、神の国は来た。神の支配がもう既に始まっている。私たちは神の国を生きる神の民です。キリストによってこの福音が成就しました。私たちはキリストを仰ぎ、このキリストの福音を喜び、共に神を礼拝します。主イエス・キリストの恵みと祝福がここにあるからです。
日曜日に入会式をいたしました。ひとりの姉妹がさがみ野教会のメンバーとして加わってくださった。こういうとき、私たちは、教会ということを考えるきっかけを与えられます。教会はキリストの福音を頂き、その輝かしい御業を共に喜び、キリストを礼拝する群れです。神様は私たちを独りぼっちの信仰者にはなさらず、教会の枝にしてくださいました。私たちは声を合わせてキリストに賛美を献げ、共にキリストの言葉に耳を傾けます。主イエス・キリストの恵みと祝福を喜び、約束に違わぬ神の祝福を共に喜んで、この時を一つの教会として歩んでいくのです。

2023年10月4日水曜日

2023年10月4日の聖句

主であるあなたの神は、あなたを良い地へと導かれる。小川や水源があり、水が地深く流れる地です。(申命記8:7)
神はご自身を証ししないでおられたのではなく、多くの良いことをなさっています。あなたがたに天からの雨を、実りの季節に与えられ、あなたがたを養い、あなたがたの心を喜びで満たしてくださいます。(使徒14:17)

今日の新約聖書の御言葉は、パウロがリストラという小アジアの町へ伝道しに行ったときの言葉です。この町でパウロは足の不自由な人を癒やした。それで町の人が驚いて、パウロを神々の化身だと騒ぎ立てました。「ゼウス」とか「ヘルメス」と一行のことを呼び始めた。パウロたちは衣を引き裂いて、叫んで、それをやめさせました。私たちはただの人間であり、福音を伝えに来た者に過ぎない。天と地と海にあるすべてのものをお造りになったまことの神を信じてほしい。そして、言ったのです。「神はご自身を証ししないでおられたのではなく、多くの良いことをなさっています。あなたがたに天からの雨を、実りの季節に与えられ、あなたがたを養い、あなたがたの心を喜びで満たしてくださいます。」
神様は私たちに命を与え、私たちが生きるために必要な雨も晴れも、季節の実りも、すべてを与えてくださる方。神様のくださる一つひとつの良い物で私たちは命を長らえている。そうやって、神様はずっとご自分の慈しみを示してきてくださった。そのことに気づいてください、と訴えた。
確かにパウロの言うとおりです。神様はこの地に生きる私たちすべての人々のために、良い物を与えてくださいました。この地に満ちる良い物は、神様がご自身を証しなさった恵みの足跡です。私たちはこの世界に満ちる神の愛の中に生かされている。「主であるあなたの神は、あなたを良い地へと導かれる。小川や水源があり、水が地深く流れる地です。」
人間は、すぐに誰かや何かを神に祭りあげようとします。自分の必要を満たしてくれたり、すごい力を持っていたり、自分の欲を満たしてくれたり、さみしさを埋めてくれたり。いろいろな動機はあります。しかし、そのような神ならぬ者ではなく、あなたや私を造り、今日もその命を保ってくださっている真の神様の慈しみを仰ぎ、このお方を礼拝しましょう。主の慈しみが、今日もあなたを覆っています。

2023年10月3日火曜日

2023年10月3日の聖句

神よ、私を守ってください。私はあなたを信頼します。(詩編16:1)
私たちを誘惑に遭わせないでください。(マタイ6:13)

今日の新約の御言葉は、主の祈りの一節です。主イエスがご自分の弟子である私たちに教えてくださった祈り。主は「私たちを誘惑に遭わせないでください」と祈るように教えてくださいました。主イエスは私たちがどんなに誘惑に弱いのか、罪に誘われやすいのかをよく知っていてくださるのです。その上で、私たちに襲いかかってくる誘惑に自分の力で勝てとはおっしゃらない。「誘惑に遭わせないでください」と、祈るようにお命じになりました。誘惑の問題は、私たちにとっては祈りの課題なのです。
もしも、もっと精神力を鍛えろとか、根性を見せろとか、性根が悪いのがいけないとか、そういう話だったら、辛かったと思います。しかし主イエスはそうはおっしゃらなかった。これは祈りの課題、祈るべき事柄。私たちは誘惑の中で神様に助けを求めて良い。いやそれどころか、そういう私たちの祈りを神様は待っていてくださるのです。ありがたいことです。
「神よ、私を守ってください。私はあなたを信頼します。」神様は必ず私たちを守ってくださるお方です。そのことを信頼して、私たちは祈る。誘惑の中、私たちが罪に陥らないように。自分の弱さが情けなくて、自分が嫌になってしまうとき。神を信じるというよりも、別の道の方が現実的に見えるとき。それでも私たちは祈る。「神よ、私を守ってください。」神を信じ、神に従うことこそが私たちの最高の幸せだからです。神を信じ、神に心や生き方を向けるとき、私たちは本当に自由になるからです。「私たちを誘惑に遭わせないでください。」主イエス・キリストが教えてくださったとおり、私たちは今日も祈ります。

2023年10月2日月曜日

2023年10月2日の聖句

主がその民の傷を包み、その傷を癒やされる日。
月の光は太陽の光のようになり、
太陽の光は七倍となり、七日分の光のようになる。(イザヤ30:26)
キリストの傷により、あなた方は癒やされたのです。(1ペトロ2:24)

すごい言葉です。「月の光は太陽の光のようになり、太陽の光は七倍となり、七日分の光のようになる。」考えられないような明るさ。この上ないほどの光に包まれる日、それが救いの日だと言います。それは「主がその民の傷を包み、その傷を癒やされる日」です。
聖書はしばしば救いを光のイメージで描きます。神がはじめに混沌とした地や暗闇に包まれた深淵の面におっしゃったのは「光あれ」です。こうして光が造られた。地を覆う闇、密雲に包まれる民に輝く主の光、主の栄光の光を受けて、預言者は神の民に向かって「起きよ、光を放て」と語りかけました。クリスマスの夜、闇を主の栄光が照らしました。救いの光がこの世に宿ったのです。そして救いの完成を描くヨハネの黙示録にも「この都には、それを照らす太陽も月も、必要ではない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである」という言葉があります。神様ご自身が私たちの光になって、照らしてくださる。
月は太陽の光のようになる。太陽の光は七倍になる。神様の栄光の光がそうやって私たちを照らすのです。私たちはもはや闇の中にいない。主の光の中に生かされている。
この光は、優しい光です。太陽の七倍というとまぶしくて仕方ないようにも思います。でも、そういうことではないでしょう。サングラスは必要ない。暗闇の中でうずくまっている私たちに命を与え、私たちを混沌から救う光。救いの光。神様の優しさと美しさが私たちを闇から救うのです。命の光です。「キリストの傷により、あなた方は癒やされたのです」と言うとおり、私たちはキリストの光の中で癒やされ、救われ、神の愛を知った。
ここに救いがある。ここに光がある。聖書は、私たちに神の救いの光を見せているのです。今日も、私たちは神の光に照らされています。

2023年10月1日日曜日

2023年10月1日の聖句

10月の聖句:
御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの人であってはなりません。(ヤコブ1:22)

今週の聖句:
すべての目はあなたを待ち望んでいます。あなたは、時にかなって彼らに食物を与えられます。(詩編145:15)

今日の聖句:
私こそ主、この地に慈しみと公正と正義を行う者。(エレミヤ9:23)
義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々のために平和のうちに蒔かれるのです。(ヤコブ3:18)

「私こそ主」と、今日の旧約聖書で神様はおっしゃいます。
旧約聖書で「主(しゅ)」と翻訳される言葉は、主なところでは二つあります。一つは、「主(あるじ)」という意味の一般名詞。もう一つは、神様のお名前を表す固有名詞。古来、神様のお名前を表す言葉が出て来るとそれを発音することを避け「私の主」と読み替えていました。そういう伝統を引き継いで、日本語の聖書でも神様のお名前は「主(しゅ)」と翻訳されています。
「私こそ主」という今日の御言葉は、神様のお名前を意味する「主」です。神様が御自らのお名前を名乗っておられる。私は私として、この地に慈しみと公正と正義を行うのだと宣言しておられます。ご自分の御名にかけて、主なる神様は慈しみ、公正、正義をこの地にもたらしてくださる。
現代はいろいろなものが相対的になって、混乱が深まっている時代だと思います。何が正しいのか、何が悪なのか、はっきりとした線引きがとても難しい。確かに物事にはいろいろな面があるので、一方から見た正義が他方からは悪だということは当然なのかも知れません。しかし、私たちが忘れがちになってしまうのは、神様からご覧になってどうなのか、ということではないでしょうか。神様の慈しみに適っているのか、神様の公正適っているのか、神様の正義に適っているのか。
私たちの慈しみや公正や正義は独り善がりになりがちです。私たちの思う平和は人を犠牲にした上での平和でしかないかもしれない。だからこそ、「私こそ主」とおっしゃるお方、他ならぬイエス・キリストの父である方を信頼し、この方がキリストを通して示してくださった平和の道に従っていきたいと願います。

2024年11月11日の聖句

イスラエルの子らは帰って来て、彼らの神である主と彼らの王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって近づく。(ホセア3:5) 誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。(マタイ7:8) 私たちは求めることが許されています。「誰でも、求める者は受け、探す...