2021年6月15日火曜日

2021年6月15日(詩編149)

詩編149
ハレルヤ。
主に新しい歌を歌え。
忠実な人々の集いで賛美の歌を。(1節)
主はご自分の民を喜びとし
苦しむ人を救いによって輝かせる。
忠実は人々は栄光の内に大いに喜び
床に伏していても喜び歌う。(4~5節)

私たちが新しい歌を歌って賛美する神さまは、私たちの賛美に先立って私たちをご自分の民として喜んでくださっています。私たちの賛美は、神さまの喜びにこだまして始まります。しかも、その喜びは私たちのための喜び、私たちをご自分の民として喜んでくださっている喜びなのです。
神さまの愛が親の愛に例えられることがあります。親は子どもをどんなときにも、そこにいるだけで愛し、喜ぶ。そのような観点から語られることが多い。しかし私自身人の親になってみてつくづく思い知らされたのは、親の愛なんて、小さなものに過ぎないという現実です。自分の気持ちに簡単に左右されるし、子どもの心を受け取り損ねることなんてしょっちゅうです。子どもを自分の思い通りにしようとしてしまう過ちを、いつでもどの親でも起こす可能性があります。
しかし、神さまの愛はそうではありません。「主はご自分の民を喜びとし」というこの喜び、喜びを生み出す神の愛は、期待はずれな者、駄目な者への愛です。価値に反する者への愛です。愛に値しない者が、そこに生きている。神さまはそのことを喜んでくださいます。しかも、救ってくださるのです。私たちをご自分のものとして買い戻してくださいます。
だから、私たちは神さまの愛を喜び、尊び、神さまの栄光をほめたたえます。私たちが健康なときも、病の床にいるときにも。私たちの生きているときにも、死にゆくときにも。私たちをどのようなときにもご自分のものとして愛してくださる方の前に、私たちは今日も賛美をささげて生きていきます。

2021年6月14日月曜日

2021年6月14日(詩編148)

詩編148
地上から  主を賛美せよ。
海の竜たちよ、すべての深淵よ
火よ、雹よ、雪よ、霧よ
御言葉を成し遂げる激しい風よ
山々よ、すべての丘よ
実を結ぶ木よ、すべての杉の木よ
生き物よ、すべての獣よ
地を這うものよ、翼のある鳥よ
地上の王たちよ、すべての民よ
高官たちよ、地上のすべての支配者よ
若者もおとめも
老人も子どもも共に。
主の名を賛美せよ。(7~13節)

讃美歌550番に「大地よ、星々よ」という歌があります。とっても楽しい歌で、この詩編第148編から生まれた讃美歌です。最初はこの詩編の言葉をほとんどそのままになぞるようなかたちで「大地よ、星々よ、主に向かって歌え」と始まります。神さまのすばらしい御業を崇め、賛美の声を献げようと言います。興味深いのは2節からのところです。
機械やハンマーの音、主に向かって歌え
働く人たちも 歌え、新しい歌
と歌うのです。もちろん機械なんて聖書の時代にはなかったわけですが、現代の人間が働く営みもまた神を賛美している。神さまに造られた山々や木々、動植物や雹や雪や霧と共に、神を賛美している。すてきな讃美歌だと思います。
私たちの今日の営みも、神さまを賛美するものでありますように。私たちの握る包丁の音、鍋で煮炊きする音、ペンを走らせる紙の音、キーボードを叩くパソコンの音、土を耕す音、すべての営みから響く音が神を賛美するものでありますように。

2021年6月13日日曜日

2021年6月13日(詩編147)

詩編147
馬の勇ましさを喜ばず
人の健脚も望まない。
主はご自分を畏れる人々を
その慈しみを待つ人々を望む。(10~11節)

神さまの基準は、私たちの常識とはかけ離れていると思います。馬の勇ましさも人の健脚も、軍事的な強さを保証します。軍事的な強さは、そのまま、地政学的な安全に直結します。21世紀でも似たようなものでしょうが、この時代はなおのこと軍馬や兵士の力が命に直結する大問題であったはずです。それなのに、言うのです。「馬の勇ましさを喜ばず、人の健脚も望まれない。」言うまでもなく、誰が喜ばないのか、誰が望まないのかといえば、神さまです。神さまは、勇ましい軍馬の力強さ、健脚な人の体力、そのようなものを望まないのだ、と言うのです。常識外れです。私たちの神さまは、規格外の方です。
この問題は、新約聖書の時代になると、割礼の問題というかたちになりました。割礼は旧約聖書の最初の頃には神さまの契約のしるしとして重要な意味を持ちました。ところがやがてユダヤの民族性の象徴となり、新約聖書の時代には、他の人を退ける閉鎖性のしるしになりました。そして、割礼を受けている自分というふさわしさが一番大事になってしまい、神さまの入る余地がなくなってしまった。と、このように説明をすると、割礼は問題だと多くの人が感じると思います。ところが当時のユダヤ人からしたら、自分たちのアイデンティティそのものです。神さまを信じてきた自分たちの信心の証しです。当然のこととして、大切なもの。それが常識でした。ところが、救いは割礼によらないと聖書は言うのです。ただ神の恵みによってのみ。ただ信仰によってそれを頂くのみ。軍馬も兵士も割礼も、人間の力が人間を救うということが共通しています。しかし神さまはそれを退けられます。神さまは規格外、私たちの常識の外におられるのです。
ですから、今朝の詩編は言います。「我らの主は大いなる方。力に富み、その英知には限りない。」神さまの英知が私たちの英知と異なり、もっとすばらしく偉大であるのは、考えてみれば当然のことです。しかし私たちはついつい自分の常識を神さまに押しつけようとします。馬の勇ましさも人の健脚も、神さまも認めてしかるべきだと思ってしまう。しかし、神さまは私たちを人が見るようにはご覧になりません。「主はご自分を畏れる人々を、その慈しみを待つ人々を望む。」神を畏れ、神の慈しみをこいねがう者を、神さまは決して軽んじられないし、そういう者を喜んでくださる。私たちは神の慈しみに信頼し、このお方を待ち望みます。

2021年6月12日土曜日

2021年6月12日(詩編146)

詩編146
幸いな者、ヤコブの神を助けとし
  望みをその神、主に置く人。
天と地と海と、そこにあるすべてのものを造り
  とこしえにまことを守る方。
虐げられている人のために裁きを行い
  飢えた人にパンを与える方。
主は捕らわれ人を解き放ち
主は見えない人の目を開き
主はうずくまる人を立ち上がらせ
主は正しき人を愛し
主は寄留の者を守る。
みなしごややもめは支えるが
悪しき者の道は滅びに至らせる。(5~9節)

主なる神様は、この世の虐げられている人を、この世と一緒になって虐げるようなことを決してなさらない。天と地と海と、そこにあるすべてのものをお造りになった方は、虐げられた人、飢えた人を心に留め、連帯する方です。捕らわれ人、見えない人、うずくまる人、正しき人、寄留の者、みなしごややもめ。彼ら彼女らは人間の歴史の中で、ずっと軽んじられてきました。特に現代のような生産性やスピード、成果で人間の価値がはかられる時代にはなおのことです。
3節に「諸侯を頼みとするな」とあります。今の私たちの生活に即して言えば、社会の中で身分の高いお金持ちや社会的地位のある人、有名な人、実績を上げている人、皆に注目されている人、といったところでしょうか。誰もが無意識に重んじ、近づきたいと思う人々。聖書の基準からすると、彼らを愛したところで何のよいことにもならないのだと思います。彼らは愛しやすいからです。愛への報いを期待できるからです。それに対して虐げられている人々はお返しをすることができないのです。
神さまの愛は、お返しができない人への愛です。だから、神の愛を「恵み」と言います。恵み深い神は軽んじられている人共にいます。この恵み深い愛によって、私も生かされている。それが真実なことです。

2021年6月11日金曜日

2021年6月11日(詩編145)

詩編145
主は恵みに満ち、憐れみ深く
怒るに遅く、慈しみに富む方。
主はすべてのものに恵み深く
その憐れみは造られたものすべての上に及ぶ。(8~9節)

高らかな賛美、主なる神様をほめたたえる賛美の声が上げられています。

わが神、王よ、あなたを崇め
代々とこしえに御名をたたえます。
日ごとにあなたをたたえ
代々とこしえに御名を賛美します。(1~2節)

代々とこしえに、と言っています。かつての神の民が賛美を献げ、今私たちも神を礼拝している。そしてとこしえに、私たちの後の世代も神を崇める。しかも「日ごとに」です。日ごとに神を賛美する喜びにあずかる。昨日もそうであり、そして今日も。神を賛美することで力を受けて生きていきます、という神さまへの信仰の告白です。
それは、主の恵みと憐れみによって始まります。私たちの信仰の出発点は、いつでも神さまの恵みと憐れみです。私たちの信心深さや宗教的な求めが出発点にあるのではありません。私たちの真剣な問いや人生への疑問が私たちを神さまへと導いたというのでもありません。私たちの内にも何らかの求めはあるでしょう。しかしその求めを呼び起こしたのは神さまの御声であり、神の憐れみによって私たちは神さまに向かっているのです。
この憐れみによって、私たちは生きていきます。神の憐れみは、神さまが「怒るに遅」いことに表されています。神さまが短気な方でいらしたら、私はもう生きてはいないでしょう。主は忍耐して、私をまだ生かしてくださっている。神の憐れみが私に命を与えてくださっています。
このお方を賛美し、崇め、神の御前に今日の日を生きる。それが私たちの願いです。「願わくば、御名を崇めさせたまえ」こそ、私たちの祈りです。

2021年6月10日木曜日

2021年6月10日(詩編144)

詩編144
主よ、人とは何者なのか
  あなたがこれを知るとは。
人の子とは何者なのか
  あなたがこれを思いやるとは。
人間は息に似ている。
その日々はさながら過ぎゆく影。(3~4節)

人とは何者なのか、と驚きの声を上げています。主が知ってくださり、思いやってくださっているという事実に驚いています。人間は本来は息のように消えていく存在。小さな、本当に儚い、弱い存在です。
5節からのところを見ると、神さまがお造りになった自然世界が描写されています。山々、稲妻、大水。それらは本当に大きくて圧倒的です。ましてこのような世界を造り、支配しておられる神さまについては想像することさえできないほどの方です。そんな神さまが人を知り、人の子を思いやってくださる・・・。人間は小さく弱い、儚い存在に過ぎません。しかしその弱くて儚い人間は、神がこれを覚え、思いやってくださる存在でもあります。その恵みの事実に圧倒され、言葉を失っている。それがこの詩編なのではないでしょうか。
ですから言うのです。「神よ、私はあなたに新しい歌を歌おう」と。神さまをほめたたえ、賛美の歌を献げます。神さまがこの私のことをも心に止めてくださり、思いやってくださる恵みの事実に圧倒され、この口にはもはや賛美しか上ってこないのです。

幸いな者、このような民は。
幸いな者、主を神とする民は。(15節)

主を信じる者の幸い、それは神の恵みに圧倒されることです。圧倒的な恵みによって私たちを愛してくださる方に栄光と誉れがありますように!

2021年6月9日水曜日

2021年6月9日(詩編143)

詩編143
私は過ぎ去った日々を思い起こし
あなたの行ったことを一つ一つ思い返し
御手の業に思いを巡らします。
あなたに向かって両手を広げます。
私の魂は荒れ果てた大地のように
  あなたを慕います。(5~6節)

朝に、あなたの慈しみを聞かせてください。
私はあなたに信頼しています。
歩むべき道を知らせてください。
私はあなたに向かって魂を高く上げます。(8節)

この詩編は敵が追い迫り、自分の命が地に踏みにじられ、霊は萎え果て、心がおののく人の祈りの言葉です。苦しみ、嘆きながら、神さまを呼び求めています。神さまに救いを求めて叫んでいます。
「私は過ぎ去った日々を思い起こし」ます、と言います。ただ昔を懐かしむというのではありません。神さまの御業を思い起こすのです。何のために思い出すのか。昔はよかったけど今は違うと言って絶望するのではありません。そこに現れた神の慈しみを確認し、神さまをなおのこと慕い求めるのです。神さまに救いを求めて、祈るのです。そういう切実な祈りの言葉が、この詩編です。
「朝に、あなたの慈しみを聞かせてください」という言葉が私は好きです。きっと、この詩編は夜の祈りなのでしょう。眠ることのできない思いで一日を振り返り、顔を思い出したくもない相手のことで頭がいっぱいになってしまう。そんな心を神さまの恵みと慈しみに向けるのです。そして床に就き、朝を迎えたときにはあなたの慈しみを聞かせてください、と祈ります。祈りながら寝ます。「私はあなたに信頼しています。」なぜなら、神さまの慈しみはどんなときにも絶対だからです。私が悲しんでいるとき、神さまのことを忘れてしまっているときでさえ、神さまの慈しみに変わるところは一切ない。そのことを信頼し、床に就くのです。
今日、私たちを夜を迎えたとき、同じように祈って床に就きましょう。主が、今日もあなたと共にいてくださいますように。

2021年6月8日火曜日

2021年6月8日(詩編142)

詩編142
声を張り上げ、主に向かって叫び
声をかぎりに、主に向かって恵みを求めよう。
御前に嘆きを注ぎ出し
御前に苦しみを告げよう。(2~3節)

1節を見ると、この詩編は「ダビデが洞穴にいたとき」の祈りだ、と書かれています。ダビデが洞穴にいたときというのは、サムエル記上第24章に書かれている出来事です。当時のサウル王は若くて人望のあるダビデを恐れ、遂には迫害し、命を狙いました。王の追っ手から逃れたダビデは洞穴に隠れた。その時のことです。
自分を付け狙う者から逃げて、ダビデは祈ります。「声を張り上げ、主に向かって叫び、声をかぎりに、主に向かって恵みを求めよう」と。神さまの御前に嘆きも苦しみも注ぎだして、神さまに自分の素直な気持ちを祈ります、と言うのです。ダビデは自分をしつこく狙って危害を加えようとするサウル王に心を向けるのではなく、神さまに祈ることに自分のすべてを傾けました。「私の霊が萎え果てるときも、あなたは私の小道を知っておられる」。この道に敵が罠を仕掛けようとも、神さまがどうか私を救ってください・・・。
洞窟で祈るダビデに絶好の機会が訪れます。ダビデが奥にいるその洞窟になんと当のサウルが入ってきて、用便を始めたのです。サウルを討つなら絶好の機会、文字通りに千載一遇です。ところがダビデは主なる神様ご自身が王として立てたサウルを殺すことを良しとせず、サウルが洞窟から出たところで後ろから声を掛け、結果的にこのときはサウルと和解することになりました。
主に向かって叫び、自分の苦難を訴え、助けを求めた者の姿がここにあります。祈りを通して、ダビデの敵との向き合い方が新たにされたのです。私たちが主に向かって救いを求めるとき、私たちは変わることになります。神さまの聖なるお取り扱いを受け、私たちは新しくして頂くのです。これが私たちも招かれている聖なる体験です。

2021年6月7日月曜日

2021年6月7日(詩編141)

詩編141
私の祈りがあなたの前に
  香として供えられますように。
高く上げた両手が夕べの供え物となりますように。
主よ、私の口に見張りを置き
私の唇の戸を守ってください。(2~3節)

ヨハネの黙示録に、この詩編と響き合うような描写が見られます。「巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老はおのおの、竪琴と、香で満たされた金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである」(ヨハネの黙示録5:8)。神さまの前に、私たちの祈りはかぐわしい香が立ち上るようにして届き、神さまがそれを聞いてくださっている。ヨハネは天に届く祈りを幻の内に目撃したのです。
「私の祈りがあなたの前に、香として供えられますように。」私たちもそのことを願いながら祈りを献げます。朝に夕に私たちは祈ります。この詩編では特に夕べの祈りのことを言っています。夕方、日が落ちるとき、私たちは神さまに祈りを献げる。夕べの供え物として私の祈りを受け入れてください、と願いつつ。
ボーレンというスイス人の牧師が、朝と夕べの祈りを教えてくださいました。使徒信条を唱える、というのです。朝には、今日会う人のことを思い、その人のために神がこのことをしてくださったと使徒信条を唱える。夕べには今日会った人を思い起こし、この人のために神がしてくださった御業を覚えて使徒信条を唱える。そういう祈りを教えてくださいました。
この詩編ではこのように言っています。「主よ、私の口に見張りを置き、私の唇の戸を守ってください。」この言葉の後に「私の心を悪事に向けないでください」と続いていることから、私の唇から悪い言葉が出ることがないように、神さま私の唇の戸を守ってくださいと言っているのだと思います。噂話や悪口、無責任な批判。そういった言葉から私の唇を守ってください。そのために欠かせないのが、ボーレン先生が教えてくださった祈りではないかと思います。私の目の前にいるこの人のために、キリストが何をしてくださったのか。この人を神がどんなに愛しておられるのか。そのことに気付いたとき、私たちの唇は救われるのではないでしょうか。
私たちの唇に上る言葉が人を貶めるものではなく、神さまによい香りとして献げられる祈りの言葉でありますように。主よ、私たちを試みに遭わせず、悪より救いだしてください。

2021年6月6日(詩編140)

詩編140
私は主に言いました。
「あなたはわが神」と。
主よ、嘆き祈る私の声に耳を傾けてください。
主よ、わが主よ、わが救いの力よ
戦いの日にあなたは私の頭を覆ってくださった。(7~8節)

この詩編は「邪悪な人間から私を助け出し、暴虐の者から私を守ってください」と言っているとおり、自分を苦しめる者からの解放を祈り求める詩編です。誰にでも、この詩編が解放を求めているのと同じ悩みを抱えることは起こりえます。人の悪意や敵意にさらされたり、妬みのために理不尽な怒りを向けられたりすることは、誰にでもあることでしょう。そういうときにも、私たちは神さまに助けを求めて祈るのです。「主よ、悪しき者の手から私を保護し、暴虐の者から私を守ってください」と。
人から憎しみを向けられたとき、一見するとその相手に問題があり、自分はそんな不当な要求に応じて自分を変える必要はない、と思ってしまいます。ところが神さまの前で事柄を捉え直してみたときに、むしろ本当は、自分と神さまとの問題だということに気付くことが起こる。自分を苦しめる者が変わってくれるのを待つのではなく、神さまの前で、自分は一体何者なのかと新しく問い直すのです。
「あなたはわが主」と主に言った、と最初に引用した7節で言っています。主なる神様を呼び求めることができれば、もしかしたら、問題のいちばん大きな部分は解決されてしまっているのかも知れません。神さまは必ず私たちの嘆きの声、祈りの言葉を聞いてくださいます。
13節にはこのようにあります。
「私は知っている
主が苦しむ人の訴えを取り上げ
貧しい人のために裁きを行うことを。」
主は、苦しむ人や貧しい人に耳を傾けてくださいます。自分ではどうする力も持たない人、ただ嘆くことしかできない弱い人を、神さまは放っておかれることはないのです。

2021年6月5日土曜日

2021年6月5日(詩編139)

詩編139
神よ、私を調べ、私の心を知ってください。
私を試し、悩みを知ってください。
御覧ください
  私の内に偶像礼拝の道があるかどうかを。
とこしえの道に私を導いてください。(23~24節)

この詩編は、主なる神様が私のすべてを知っておられることへの絶対的な信頼と、それゆえの圧倒的な安心感を歌いきったものです。私のすべてを知っておられる神さま。この方は、母の胎にいる私を知っておられた。それどころか、母の胎内に私をくみ上げたのは、このお方に他ならない。今では医療技術が飛躍的に発展しましたから、まだ母の胎にいる子どもの映像を見ることができます。技術の発展はいろいろなことを可能にしました。しかし、人間に命を造ることができると考えるとしたら、それは傲慢です。ですから「子どもを作る」という言葉は間違っています。それは神さまの領域であって、人間が自分の力でどうこうできるという考えそのものが間違っている。
命が生まれる先の話だけではありません。命の終わりについても、人間は無知ですし、無力です。ところが神さまは、私たちの命の終わりについてもすべてを知っておられます。「陰府に身を横たえようともあなたはそこにおられます」。私たちは生きているときにも死ぬときにも、神さまの手の中にいるし、私たちは神さまのものです。
12節の言葉がとても印象的です。
闇もあなたには闇とならず
夜も昼のように光り輝く。
闇も光も変わるところがない。(12節)
私たちが闇だと思っているところ、夜も死も、あるいは他の絶望も、いかなるものも神さまに比べれば闇とは言えない。どんなに深い闇であっても、神さまがお造りになったものです。闇を造った方は闇よりももっと濃い闇でもある。しかしその方が光をお造りになった。神さまの前では、夜も昼のように光を放っている。光も闇も神さまの手の中にあるからです。
私たちの心は揺れ動きます。ときに偶像礼拝の道に傾いてしまいます。偶像礼拝とは、目に見えるものや自分の考えを神さまに押しつけ、神さまが自分の期待する振る舞いをしてくれるはずだと決めつけることです。不安や悩みはしばしば偶像礼拝を生み出す。しかし、悩みの日に思い起こしましょう。神さまは私のすべてを知っておられ、昼も夜もお造りになった方だ、と。私のすべてを知っておられる方が、私の生きているときも死ぬときにも、慈しみに道が手を私から話すことは決してなさらない。そのことを信じて、神さまの御前に、今日も歩んでいきましょう。

2021年6月4日金曜日

2021年6月4日(詩編138)

詩編138
たとえ私が苦難の中を歩んでいても
あなたは私を生かし
手を伸ばして敵の怒りを防ぎ
右の手で私を救ってくださる。
主は私のためにすべてを成し遂げてくださる。
主よ、あなたの慈しみはとこしえに。
御手の業を止めないでください。(7~8節)

この詩編は、2節のところではこのように言っています。
あなたの慈しみとまことのゆえに
  御名に感謝を献げる。
神さまの慈しみとまことを覚え、神さまの御名に感謝をささげ、神さまをほめ歌う。神さまへの感謝、そして賛美。それに生きる信仰者の祈りがこの詩編です。神さまへの賛美は、神様ご自身の慈しみによって、私たちの口に生まれます。神さまの慈しみとまことに生かされていることに気付いたとき、私たちは神さまを賛美しないわけにはいかなくなります。喜びに突き動かされるからです。
神さまの慈しみに、いかにして気付くのか?「たとえ私が苦難の中を歩んでいても、あなたは私を生かし・・・」と言います。苦難から解放されたから気付くのではない。抱えていた問題が解決したから神さまの慈しみを信じるのではない。苦難の中を歩んでいても、それでも神が私を生かしてくださっているという事実を知ったとき、そこにある神の慈しみに気付くのです。神が私を敵から守っていてくださること、神の右の手が私を救ってくださっていること。苦難の中で、神の慈しみが私を覆っていてくださっていることを、知るのです。
「主は高くおられ、低くされた者を顧みる」という言葉もあります。とても印象深い言葉です。主はどんなに高くおられても、低く地面にはいつくばっている者を見逃されることがありません。必ず、神さまは低い者を憶えていてくださる。だから、私たちは身も心も低くして、神さまの栄光をほめたたえましょう。身をかがめて神を賛美するとき、神さまが私たちを引き上げてくださいます。

2021年6月3日木曜日

2021年6月3日(詩編137)

詩編137
バビロンの川のほとり
  そこに座り、私たちは泣いた
シオンを思い出しながら。
そこにあるポプラの木々に琴を掛けた。
私たちをとりこにした者らがそこで歌を求め
私たちを苦しめる者らが慰みに
「我らのシオンの歌を一つ歌え」と命じたから。
どうして歌うことができようか
異国の地で主のための歌を。(1~4節)

ユダ国はバビロンという国に滅ぼされました。バビロンは強大な国で、当時の中近東の覇者でした。かつてバビロンがあったのは、現在のイラクの辺りです。ユダ国の主立った者たちは遠くバビロンの地まで強制移住させられました。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。この詩編はそういう捕囚民の祈りの言葉です。
バビロンに流れる川のほとりで、涙を流した。シオンを思い出して。かつて神殿で神を礼拝した日々を、皆で声を合わせて神を賛美した日々を思い出して。しかし今や、この遠い異国バビロンの地では、主を賛美する歌が、支配者の慰みにされています。宴会の芸として披露することを強要されています。何という屈辱・・・何という理不尽。かつての礼拝の日々を思い起こし、何人かの信仰者たちが川のほとりで泣いているのです。
私たちも、日本というキリスト者が超マイノリティの社会に生きていて、どこかで似たような思いをしたことがあるのではないでしょうか。信仰のために恥ずかしい思いを強いられるようなこと、神を信じる真心を馬鹿にされたこと、キリストへの愛を気味悪がられたこと、数えていけばきりがないのではないでしょうか。
バビロンの川のほとりで流された涙を、神は必ず憶えていてくださるに違いありません。私たちも、どんなときにも神を覚え、神の前に生きていきましょう。必ず、神さまは私たちを救ってくださることを信じて。キリストがこの屈辱を共に苦しんでいてくださることを確信して。
今日も、主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。

2021年6月2日水曜日

2021年6月2日(詩編136)

詩編136
主に感謝せよ。まことに主は恵み深い。 慈しみはとこしえに。
神々の中の神に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
主の中の主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
ただ一人大いなる奇しき業を行う方に。 慈しみはとこしえに。(1~4節)

私たちが低くされていたとき
  私たちを思い出し 慈しみはとこしえに。
敵から私たちを助け出した方に。 慈しみはとこしえに。
すべての肉なるものに糧を与える方に。 慈しみはとこしえに。
天の神に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。(23~26節)

この詩編は合唱用の讃美歌に違いないと思います。「主に感謝せよ。まことに主は恵み深い」といった上のパートを歌う者。ソリストなのか複数なのか。あるいは神を礼拝するために上ってきた礼拝者たちかも知れません。その賛美に合わせてコーラス部隊が歌うのです、「慈しみはとこしえに」と。あるいはその逆でしょうか。神殿で仕えるコーラス隊が上のパートを歌い、礼拝者たちはその声に合わせて「慈しみはとこしえに」と声を合わせて歌ったのかも知れません。いずれにしても、そのような礼拝の姿を想像するのは楽しいことです。私たちも同じ神さまを礼拝している。同じ神の慈しみをほめたたえ、同じ神の前に膝をかがめているのです。なんとすばらしいことでしょう。
この詩編では、5節から22節までで、神さまが天と地とすべてのものをお造りになり、エジプトから救い出し、荒れ野の旅路を導いて約束の地を与えてくださるまでのことが歌い上げられています。聖書の歴史をそのまま讃美歌にしています。こういう聖書の歴史のことを、「救済史」と呼びます。神さまが私たちを救ってくださる、救いの歴史のことです。救済史を想起し、神を賛美する。
私たちはこの歴史の続きを知っています。やがて彼らは罪に罪を重ねて破滅し、バビロンに連れて行かれ、しかしそこから解放されました。約束の地に帰って神殿を再建し、神を礼拝します。そして、預言者たちが告げた救い主を待ちました。やがて、一人のおとめが身ごもり、生まれた男の子。この方が救い主メシアであって、罪を犯したことがないのに罪人の手にかかって十字架にかけられ、三日目に復活し、天に上り、聖霊をおくって教会を生み出しました。この方は世の終わりまで、私たちと共にいてくださいます。私たちも、救済史の一部を生きているのです。私たちもこの歴史を想起し、神を賛美します。
それは、神が私たちの弱いときに私たちを救ってくださったからです。私たちが強く、見込みがあり、いい人だから救ってくださったのではありません。何の値打ちもない私たちのために独り子イエスを与え、値なく私たちをご自分のものとしてくださいました。この神の慈しみが、とこしえにあなたにありますように。昨日そうであったように今日も、そして明日も。

2021年6月1日火曜日

2021年6月1日(詩編135)

詩編135
ハレルヤ。
賛美せよ、主の名を。
賛美せよ、主の僕たちよ
主の家に
我らの神の家の庭に立つ人たちよ。(1〜2節)

主の家、神の家の庭に立つ人たちに向かって言います。「賛美せよ、主の名を」と。私たちも神を礼拝するとき、神の御前に祈りを献げるとき、主の家にいます。神の家の庭に立っています。私たちも神を賛美し、主の名を心を合わせてほめたたえます。まことに恵み深い主をほめたたえ、その名の麗しさを喜び、私たちがこの方の宝とされたことを誇ります。私たちは主のもの、その民です。主に養われる羊の群れです。だから、私たちは主を賛美し、神をほめたたえるのです。
この方にまさるものは何もありません。この世にどんなにたくさんの神々と言われるものがあったとしても、主に並び立つものなどありはしない。天と地と海と、そこに満ちるすべてのものをお造りになった方、今もそれらを支配しておられる方。この方を賛美するとき、私たちは世界とつながるのです。

国々の偶像は銀と金
人の手が造ったもの。
口があっても語れず
目があっても見えない。
耳があっても聞こえず
口には息もない。
それを造り、頼る者は皆
偶像と同じようになる。(15~18)

天と地と海をお造りになった神に対し、偶像は人間が作ったものに過ぎない。語ることも見ることも聞くことも息をすることさえもできない。いちばんの問題は「それを造り、頼る者は皆、偶像と同じようになる」ということです。偶像に頼れば偶像のようになる。言葉を失い、見ることも、聞くこともできない。息もできなくなる。言葉から言葉としての意味を失われ、見たいものしか見ず、聞きたい言葉しか聞こうとしない。最後には息も詰まってしまう。そういう現代社会の姿をここに見ないわけにはいかないと思います。今こそ神に立ち帰り、神の前にへりくだり、神を礼拝する。それこそ、私たちが人間らしく生きる道なのです。

2021年6月15日(詩編149)

詩編149 ハレルヤ。 主に新しい歌を歌え。 忠実な人々の集いで賛美の歌を。(1節) 主はご自分の民を喜びとし 苦しむ人を救いによって輝かせる。 忠実は人々は栄光の内に大いに喜び 床に伏していても喜び歌う。(4~5節) 私たちが新しい歌を歌って賛美する神さまは、私たちの賛美に先立...