2024年6月29日土曜日

2024年6月29日の聖句

若き日に、あなたの造り主を心に刻め。災いの日々がやって来て「私には喜びがない」と言う齢(よわい)に近づかないうちに。(コヘレト12:1)
(私は)ここをたち、父のところへ行って言おう。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」(ルカ15:18~19)

今日与えられている新約聖書の御言葉は、主イエスのなさったたくさんの譬え話の中でもことのほか印象深い「失われた息子」の話に出て来る言葉です。父親の元を飛び出して遠い外国に出奔した息子。主イエスはこの父の姿に託して神の愛を、そして息子の姿に託して私たちの現実をお話になりました。
息子は、父、つまり神のもとから離れて生きることが自分らしい人生だと思い込んでいました。自分の欲望を満たし、好きなように生きることが幸いだと考えていました。ところが、お金がなくなり、誰も周りにいなくなって、自分がとても惨めな存在だということに気付きました。
「若き日に、あなたの造り主を心に刻め。災いの日々がやって来て「私には喜びがない」と言う齢に近づかないうちに。」
喜びを失い、自分という存在を支えてくれると思ってきたものが実は頼りにならないことに気付いたとき、私たちは一体どうしたら良いのか。「あなたの造り主を心に刻め」と、聖書は言います。主イエスは、あなたの父である神を思い起こし、神の御許に帰れ、とおっしゃいます。このお方にこそ私たちの幸いが、私たちの喜びがあるからです。主イエス・キリストを知り、造り主である神を、今こそ仰ぎましょう。

2024年6月28日金曜日

2024年6月28日の聖句

私の心は主に信頼し、私は助けられ、心は喜び躍る。私は歌を献げて主に感謝する。(詩編28:7)
だから、イエスを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。(ヘブライ13:15)

旧約の時代、神の民は動物をいけにえとして献げて神を礼拝していました。手塩にかけて育てた動物の血を流し、その犠牲をもって、心から神さまを礼拝していました。今日の新約聖書には「賛美のいけにえ」という言葉があります。私たちは、旧約の民が時間と労力を注いで育てた動物をいけにえとして献げたのと同じ思い、同じ信仰をもって神を礼拝し、心からの賛美を神に献げます。神を賛美し、神の恵みをたたえることこそ、私たちの喜びです。
「私の心は主に信頼し、私は助けられ、心は喜び躍る。私は歌を献げて主に感謝する。」代々の信仰者が歌をもって神を賛美してきたということは、私たちにとってはかけがえのない贈り物です。私たちも歌をうたって神を賛美します。心を込めて歌い、喜びをもって賛美を献げます。例え私たちは小さくても、天の大軍の歌声に私たちの歌も響いています。私たちも神を賛美する天使たちの一員になって神を礼拝しています。
主イエス・キリストの父である神様。私たちはこのお方の御名をほめたたえ、絶えず神に賛美を献げます。今日も、私たちは神を賛美するために生きています。私たちの歌を、祈りを、信仰を、喜びを、神へのいけにえとして、心から献げましょう。

2024年6月27日木曜日

2024年6月27日の聖句

角笛のように、あなたの声を上げよ。
私の民にその背きの罪を告げよ。(イザヤ58:1)
イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。(マルコ4:17)

主イエス・キリストの赦しの御言葉を聞き、信仰を与えられて知ることは、自分がどうしようもない罪人であるという事実です。キリストの愛に触れ、キリストの憐れみを知り、キリストの福音を聞いたとき、私たちは初めて自分がどんなにひどい罪人なのかという事実を知ります。
「角笛のように、あなたの声を上げよ。私の民にその背きの罪を告げよ。」
キリストは、私たちに教えてくださいました。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈ることを。そう聞くと、自分はどうも赦せない、人の罪を赦すことは本当に難しいと思います。確かにそれはそうですが、本当に難しいのは、自分が赦して頂かなくては生きられない惨めな罪人であると知ることです。一万タラントン赦されたから生き延びている惨めな人間であると知ることです。自分の罪の悲惨な現実が、しかし赦されていることを骨身に染みて知ったら、赦すものとしてしか生きられないのではないでしょうか。
「悔い改めよ。天の国は近づいた。」主イエス・キリストはそう宣べ伝えられます。天の国は近づいた。神の御支配、神の憐れみが支配する国はもうここまで来ている。あなたのところにまで!主はそう宣言してくださいます。悔い改めて、あなたのために響いている赦しの福音を聞け、と主は言われるのです。キリストの赦しの御言葉が無ければ生きられない惨めさを知り、しかしなお告げられている赦しの言葉を信じる。それこそ、悔い改めです。

2024年6月26日水曜日

2024年6月26日の聖句

主の行われた奇しき業を、
奇跡と主の口から出る裁きとを心に留めよ。(詩編105:5)
どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(1テサロニケ5:18)

主がしてくださったことを心に留めよ、と聖書は言います。主がしてくださったこと、その奇しき業、奇跡、主の口から出る裁き。本当はそれらはいつも私たちの前にあるのに、私たちはそれをすぐに忘れ、あるいは見逃してしまっているのではないでしょうか。
そうすると、いつの間にか私たちの心は不平不満でいっぱいになってしまいます。神さまは何もしてくださらない、祈っても知らんぷりばかりしている。でも本当は、神さまはいつも私たちのために素晴らしい御業をしてくださっている。それなのにこちらが気付かないだけ・・・というのが本当のことなのかもしれません。
「どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」ここに「キリスト・イエスにおいて」とあります。私たちの感謝はキリストにあって自分や周りを見つめ直すときに生まれるのではないでしょうか。キリストの愛がこの私においても実現している。神さまは「それが見えないのか」、と私たちにおっしゃっているのではないでしょうか。
キリストを見上げ、キリストのしてくださった十字架と復活の御業を思い起こし、今日の一日を歩んでいきましょう。主イエス・キリストの内に神がしてくださったことは、この私のためにしてくださったことです。キリストの出来事を胸に刻んでいただきましょう。

2024年6月25日火曜日

2024年6月25日の聖句

聞け、心のかたくなな者たち、正義から遠ざかっている者たちよ。私は私の正義を近づけた。それは遠くはない。(イザヤ46:12~13)
人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。(ローマ10:10)

心を柔らかくして、主イエスさまへの愛と信仰を抱くことができますように。今日、新しい思いでそう祈りたいと願います。
「聞け、心のかたくなな者たち、正義から遠ざかっている者たちよ。私は私の正義を近づけた。それは遠くはない。」私は心頑なではないか。この御言葉を読むと、そう思わないわけにはいきません。心固く、主なる神さまからの愛を拒み、主を愛することを拒んではいないか。正義から遠ざかり、自分の思いに固執しているのではないか。しかし、聖書はそんな私たちに告げます。「私は私の正義を近づけた」と神が言ってくださっている、と。神が近づけてくださった。私たちが正義の名に値するものになれたとか、私たちが心がけを変えることができたとか、そのようなことではなく、神がご自分の正義を私たちに近づけてくださった。
その神の正義そのものでいらっしゃるイエス・キリストが私たちの間に来てくださいました。私たちのところにキリストが来てくださいました。キリストに示してくださった神の愛を信じ、このお方への信仰を告白する一日を生きていきたいと願います。一人での祈りの内に、隣人と共に生きる歩みの内に、キリストへの愛が実る一日でありますように。

2024年6月24日月曜日

2024年6月24日の聖句

(主よ、)あなたの憐れみが私を訪れ
私を生かしてくださいますように。(詩編119:77)
私は、こう祈ります。あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになりますように。(フィリピ1:9)

主なる神さまの憐れみに生かされて、私たちも愛の人として生きられますように。それが私たちの願いです。
使徒パウロの祈りの言葉が記されています。「あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになりますように。」愛が豊かになるためには、深い知識とあらゆる洞察が必要だ、と言います。
愛するとは想像することだ、とある人に言われたことがあります。相手が何を思い、何を願い、あるいはどうして悲しみ、何が本当に必要なのか。そういったことを想像し、相手に寄り添い、心から心への言葉を語りかけ、するべきことをする。想像力を伴う思いやりが愛するということに他ならない。そういう愛には、深い知識とあらゆる洞察が必要です。自分がしたいと思うことを押しつけたり、勝手な気持ちで振る舞ったり、見当違いのことをしたりするのではなく、相手を知り、理解し、思いやりをもって寄り添う力が、愛する力です。
そのような愛を神が私たちの内に豊かにしてくださいますように。パウロはそう祈ります。私たちも同じように祈りたい。祈りつつ、今日も新しい思いで隣人と出会いたいのです。

2024年6月23日日曜日

2024年6月23日の聖句

今週の聖句:
互いに重荷を担いなさい。そうすればキリストの律法を全うすることになります。(ガラテヤ6:2)

今日の聖句:
私は兄弟たちにあなたの名を語り伝えよう。(詩編22:23)
(パウロの手紙)きょうだいたち、どうか知っておいてほしい。私が告げ知らせた福音は人によるものではありません。(ガラテヤ1:11)

福音、それは人から生まれたものではありません。私たちには自分の問いがあり、生きる上での問題があります。しかし、私たちは「十字架」が答えであるような問いをもっていたでしょうか?私たちは「罪の赦し」や「復活」が答えであるような問いをもっていたでしょうか?主イエスは私たちが聞きたいことではなく、本当に聞くべきことをお語りくださいます。私たちに命を与える福音を、キリストは私たちに告げ知らせてくださいます。
私たちは神の子の十字架の死を福音として信じています。私たちは人の子の復活からでしか聞こえてこない福音を信じています。私たちは罪の赦しと体の甦りを信じている。神が私たちに聞かせてくださる良き知らせを、私に命を与え、私たちを一つの民として共に生かす神の言葉と信じている。人によるのではない福音によって、私たちの「今日」は保たれています。
福音の言葉を与えてくださる神の御前に、今日私たちは頭を垂れて祈り、心を合わせて賛美を献げます。主イエス・キリストに栄光がありますように。

2024年6月22日土曜日

2024年6月22日の聖句

主よ、憐れんでください。私は病み衰えています。
主よ、癒やしてください。私の魂は震えおののいています。(詩編6:3,4)
(イエスの言葉)すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。(マタイ11:28)

主よ、憐れんでください。主よ、癒やしてください。これは、私たちの祈りです。私たちも同じように祈り、神に願います。病み衰え、魂が震えおののく日、私たちはただひたすらに神に祈り、神に救いを求めてあえぎます。
そんな私たちに、主イエスさま御自身が語りかけてくださいます。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」
本当にありがたい言葉です。主イエスさまは私たちの負っている重荷の重さも、そのために私たちが衰え、おののいていることも全部知っていてくださいます。私たちをご自分のもとへ招いてくださいます。「私のもとに来なさい!」このキリストの招きの御声こそ、私たちの救いではないでしょうか。
キリストは、御許に来た私たちを休ませてくださいます。私たちはキリストの御側で重荷を下ろして、息をつくことができます。私たちを迎えてくださる主イエスさまの愛が私たちを憩わせてくださいます。
今日、私たちは、私たちを招いてくださるキリストの御声に静かに耳を傾けましょう。私たちの魂に安息をくださるキリストの御言葉に一心に向かいましょう。私たちの救いはこの方にあるのですから、このお方への祈りを絶やすことなく今日の日を生きていきましょう。

2024年6月21日金曜日

2024年6月21日の聖句

殺してはならない。(出エジプト20:13)
(イエスによる弟子たちへの言葉)私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。(ヨハネ15:12)

やっぱり主イエスさまです。すばらしい御言葉です。しかしその前に、「殺してはならない」という十戒の御言葉。これがもうすでに大切な言葉です。私たちの社会では、本音のところでこの言葉が侵害されています。積極的に人を殺しはしなくても、生きるための資を削り取ったり、希望をもって誰もが生きられる環境を蔑ろにしたりしながら、私たちの社会は消極的に人を殺してはいないか。あるいは、戦争や死刑という形であからさまな人殺しが続いているのではないか。そういう私たちに、聖書は「殺してはならない」とはっきりと命じます。
しかし主イエスは「殺してはならない」と言うにはとどまらない。「殺すな」という十戒の掟は否定形の命令法で書かれています。「○○するな」という禁令です。ところが主イエスは肯定的な命令のかたちで、積極的にすべきことを教えてくださいました。「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。」こんなこと、ほかの誰に言いうるのでしょうか?
主イエスはおっしゃいます。「私があなたがたを愛したように」と。主イエスさま御自身が私たちを愛してくださった。私の愛をまねてごらん、と主はおっしゃるのです。主イエスさまが私たちに示してくださった愛。それは、友のために命を捨てる愛です。奴隷になってかがんで足を洗ってくださる愛です。そうやって主イエスのまねをして、へりくだって自分を献げる愛にあなたたちも生きられる、私のまねをしてごらんと主イエスはおっしゃいます。主イエスさまの愛が私たちに先立っています。

2024年6月20日木曜日

2024年6月20日の聖句

あなたがたは、私たちの神、主と心を一つにしなければならない。(列王記上8:61)
(パウロの手紙)後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(フィリピ3:13~14)

すごく前向きな言葉です。元気づけられる人も、却ってまぶしすぎて目を背けたくなる人もいるかもしれません。後ろのものを忘れられたらどんなに善いだろう、前のものに全身を向けられたらどんなに楽だろう。そう思ってしまうことだってあるのではないかと思います。
しかし、それでもなおこの御言葉に力を頂いているということも、私たちの現実だと思います。それは、「神がキリスト・イエスによって上へと召して」という言葉から来る力ではないかと思います。神さまが私たちを上へと招いてくださっている。「上」というのは、もちろん、ご自分のおられるところへ、という意味でしょう。しかもそれを「キリスト・イエスにあって」と言います。この言葉がなかったら絶望的です。しかし神はキリストにあって私たちをご自分のところへ招いてくださっている。だから、やはりこの御言葉は慰めではないでしょうか。
この「キリスト・イエスによって」という言葉は「キリスト・イエスの中で」という字を書きます。神は私たちを上へ召すために、私たちをキリスト・イエスの中に置いてくださっている。そうすると、神のもとへ招くためにキリストの中にいさせてくださっている、ということになる。私たちは、今既にキリストの中に置かれているし、キリストの中に生かされている者として神の御もとへ走って行く、と言うのです。
だから、私たちは後ろのものを忘れます。私たちをキリストのものとしてくださった神さまに心を向けます。そこに私たちの喜びがあるから。慰めがあるから。私たちをキリストの中に生かしてくださっている神が、私たちを迎えてくださっているからです。

2024年6月19日水曜日

2024年6月19日の聖句

私の民よ、心して聞け。私の国民よ、私に耳を傾けよ。教えは私から出て、私は私の公正をもろもろの民の光とする。(イザヤ51:4)
シメオンは神をほめたたえて言った。「私はこの目であなたの救いを見ました。これは万民の前に備えられた救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの栄光です。」(ルカ2:28,30~32)

主なる神さまの公正が私たちの光だ、と聖書は言います。公正や正義。私たちも求めています。ところがどんなに社会を見回してみても見えてこない。新聞を開いても、テレビをつけてみても、聖書が言うような公正が見つからない。自分の考える公正を押し通そうとし、しかし現実にはそうならず、そうやって湧き上がる怒りが社会を席巻しているようにも思います。神さまから出る公正とは、一体何でしょうか?私だけ、私たちだけではなく、もろもろの民を照らす光となる神の公正とは一体何か。
シメオンもやはり言っています。「私はこの目であなたの救いを見ました。これは万民の前に備えられた救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの栄光です。」異邦人を含めすべての民を照らす光がある、と言うのです。
神さまの光は、すべての人を照らす光です。一部の人だけ、選ばれた人だけを照らす光ではない。異邦人も含めたすべての人のための光。だからこそ、救いの光と言いうる光なのではないでしょうか。
神さまの光は私たちの正義感や思惑には収まりません。神さまの光はもっと大きく、素晴らしい。私たちは、神とその御子の光をただひたすらに仰ぎます。

2024年6月18日火曜日

2024年6月18日の聖句

私の掟を与え、法を知らせた。人がこれを行うことによって生きるためである。(エゼキエル20:11)
神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。(1ヨハネ4:9)

神さまが私たちにお与えになった律法は、私たちを愛による新しい生へと導き出します。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なる神を愛すること。そして、隣人を自分自身のように愛すること。愛が律法を全うする。愛することおいて神の御心が見えてくる。
「私の掟を与え、法を知らせた。人がこれを行うことによって生きるためである。」「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。」
今日私たちに与えられている二つの御言葉は、どちらも、私たちが生きるためにと言います。神が与えてくださった掟は、私たちがそれによって生きるようになるため。神が独り子イエスをお遣わしになったのは、私たちがこのお方によって生きるようになるため。神は私たちが生きることを望んでくださっているし、そのために、私たちの道標として「愛すること」を示してくださいました。
主イエス・キリストが体現してくださった愛こそ、私たちの生きる道です。キリストをまねて、私たちも愛をもって生きたいと願います。キリストをまねたいと願う私たちを、神さまは、必ずキリストに似たものにしてくださると信じています。

2024年6月17日月曜日

2024年6月17日の聖句

新しい歌を主に歌え。まことに主は奇しき業を成し遂げられた。(詩編98:1)
 私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。(ヨハネ1:16) 

 私たちの主を賛美する新しい歌は、主の奇しき業から始まります。主がなしてくださった御業に応えて、私たちは神を賛美し、新しい歌を献げる。主がなしてくださった奇しき御業。何よりもそれは主イエス・キリストにおける神の御業です。神は独り子イエスを私たちのところへ送ってくださって、このお方は十字架にかけられ、死んで葬られた。しかし、神はこのお方を死者の中から引き上げてくださった。この御業、この事実こそ、私たちの献げる賛美の根拠です。 主イエス・キリストを仰いで、私たちは神を賛美します。キリストをたたえる新しい歌を歌います。奇しき御業を成し遂げてくださったお方を!
「私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。」恵みの上に、さらに恵みを!素晴らしい言葉です。アーメン、と心から言いたい。私たちはキリストの示してくださった溢れるほどの神の恵みに生かされている。その事実に応えて、私たちは神とその御子キリストを賛美します。 
昨日は主の日でした。礼拝から私たちの新しい一週間が始まりました。神を賛美し、主キリストの十字架にかけられたお姿を仰いで、私たちは新しい日々を歩んでいきます。キリストがあなた他と共におられます。

2024年6月16日日曜日

2024年6月16日の聖句

今週の聖句:
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカ19:10)

今日の聖句:
(主よ、)その時に応じてあなたが食べ物を与えるのを待っている。あなたが与えると、彼らは拾い集め、御手を開くと、彼らは良いもので満ち足りる。(詩編104:27~28)
(人々へのイエスの言葉)私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。(ヨハネ6:35)

主イエス・キリストご自身が私たちのためのパンになってくださいました。普通のパンは、それがどんなに美味しくて、どんなにたくさん食べて満足しても、また数時間経てばお腹が空きます。パンがつなぐ命は今日の命であって、永遠のものではありません。しかし、主イエス・キリストというパンは、今日はあっても明日になったら消えてしまうパンとは違う。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」キリストというパンを食べる者は、もう飢えることがない。もう渇くこともない。永遠の命に至るパン。それがイエス・キリスト。
私たちの肉体は飢えます。渇きます。私たちは弱い存在です。肉体は弱くても魂は不滅だ、ということもありません。私たちは肉体も魂も滅びゆく者です。今日は生きていても明日になればどうなるか分からない、小さな存在です。しかし、その滅びゆく私たちのために、キリストが命のパンになってくださいました。私たちを神の御前に生ける者とするために。
主イエス・キリスト。このお方こそ、私たちのパン、私たちの命です。キリストを信じ、キリストを仰ぎましょう。主イエス・キリストを礼拝しましょう。このお方の御手の中に私たちの永遠の命があるのですから。

2024年6月15日土曜日

2024年6月15日の聖句

正義のために進んで種を蒔き、慈しみの実を刈り入れよ。(ホセア10:2)
ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、自分の魂にこう言った。「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」しかし、神はその人に言われた。「愚か者よ。」(ルカ12:16~17,19~20)

今日の新約の御言葉にはとても面白い言い回しが登場します。「金持ちは、自分の魂にこう言った。『魂よ・・・。』」あまり普通は、自分の魂に何か語りかけようとは言わないと思います。ユダヤ人の感覚では普通なのでしょうか?例えそうだとしても、とても興味をひく言い回しではないでしょうか。
この「魂」という単語は、ギリシア語では「プシュケー」という字を書きます。この言葉は、渇いた喉のように水を求めてあえぐ、弱くて脆い人間存在を現す言葉なのだそうです。そうとすると、先ほどの「自分の魂に言った」というのは、どうしても満たされず、いつも渇いていて、何かを求めている自分の内奥に向かっていった言葉、ということになると思います。どうしても満たされないその渇望を埋めるために、この人は畑の豊作でもってそれを埋めようとしました。お金やものに囲まれることで満たされない心を満たそうとする思いは、現代人と同じです。私たちにもよく分かる。
ところが、神さまのこの人への言葉はとても厳しいものです。「愚か者よ」とおっしゃるのです。なぜか。この金持ちはこの夜の内にも死ぬ。そうしたら、ため込んだその財は一体誰のものになるのか。お金は死を前にして何の役にも立たない。結局、渇きをごまかすだけで本当に癒やしているわけではないのです。
これは主イエスのなさった譬え話です。そうであるからこそ、逆に、そこまでおっしゃる主イエスさまは私たちの魂の渇きを完全に満たしてくださいます。「正義のために進んで種を蒔き、慈しみの実を刈り入れよ。」ほかの誰でもなく主イエス・キリストに正義と慈しみを求めるものは、必ず満たされます。その渇きを癒やされる。「義に飢え渇く人々は、幸いである」とおっしゃった主イエスさまは、必ずご自身の慈しみをもって私たちを満たしてくださる。私たちはそのことを信じてよい。御言葉は私たちにそう語りかけます。

2024年6月14日金曜日

2024年6月14日の聖句

主の神殿の基礎がすえられたことで、すべての民は主を賛美して喜びの叫びを上げた。(エズラ3:11)
イエス・キリストというすでに据えられている土台のほかに、誰も他の土台を据えることはできません。(1コリント3:11)

教会は、今この世界に建てられている主の神殿です。その基礎、土台はイエス・キリストご自身です。建物は土台作りが一番大事です。土台がしっかりしていなければ、その上に立っている建物がどんなに見栄えよく見えても、何かがあればすぐに倒壊してしまいます。主の神殿の基礎はイエス・キリスト。この土台の上に建っていれば、絶対大丈夫です。私たちに例えどんなに大嵐や大地震に見えることがあったとしても、大丈夫です。キリストご自身が堅固な土台になってくださるから。
この土台であるイエス・キリストというお方は、十字架にかけられた方です。十字架の上で苦しまれたお方が私たちの土台になってくださった。だから私たちは、苦しみ、弱さを憶えてくださった神の子に従って、この世での信仰の生活をなしていきます。
この世界にはたくさんの成功や豊かさの物語があります。そういう魅力的な物語を土台にした方が現実的なのではないか、と思わせる力があります。十字架なんて言っていないで成功や豊かさを土台に据えた方が世の人にも魅力的なのではないか。世界の物語は、キリストにとってかわる土台に成り代わろうとする。しかし私たちは私たちのために十字架にかけられた方を救いと信じます。このお方がくださる救い以外の何ものも自分の救いとは信じません。キリストとその十字架以外の一体何が嵐の日に私たちを建たせる土台足りうるでしょうか?
ひたすらにキリストを仰ぎ、キリストを信じ、キリストに祈ります。このお方に示された神の愛を仰ぎ、私たちは生きていきます。

2024年6月13日木曜日

2024年6月13日の聖句

(モーセの言葉)私があなたがたに命じる言葉を、すべて守り行いなさい。それに付け加えたり減らしたりしてはならない。(申命記13;1)
(イエスの言葉)私の教えは、私のものではなく、私をお遣わしになった方のものである。この方の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである。(ヨハネ7:16~17)

神が命じる言葉、神の言葉であるからこそ、それに付け加えたり減らしたりしてはならない、と言います。言葉を付け加えたり減らしたりするのは、自分に都合が悪いからです。自分にとって都合の良いように改変しようとしてはならない。なぜなら、神の言葉だから。
新約聖書の時代の少し後に、マルキオンという人がいました。この人はルカによる福音書と一部のパウロの手紙を中心とした新約聖書だけを正典と認め、旧約聖書は必要ないと考えたそうです。自分に都合の良いように神の言葉を減らしてしまいました。マルキオンまでいくと少し極端かもしれません。しかし、旧約聖書の神さまは厳しい神さま、裁きの神さまとしてあまり考えないようにするという気持ちは、多くの人に多少なりとも覚えがあるところではないかと思います。
ところが神の言葉は私たちの創作ではなく、神ご自身の御言葉です。そうであるからこそ、私たちはそれを付け加えたり減らしたりせずに耳を傾けることが大事なのではないでしょうか。それは主イエスご自身が大切になさったことです。キリストは父なる神様から教えられたとおりに私たちに教えてくださいました。だからこそ、私たちはキリストの言葉に聞けば父なる神様の御心を知ることができます。キリストの語る御言葉にこそ、神の思いが十全に現されています。私たちはほかの誰でもなくキリストに耳を傾ける。付け加えることも、減らすこともなく。今日の私たちがこのお方に耳を傾け、このお方の証ししてくださった福音に従うものでありますように。

2024年6月12日水曜日

2024年6月12日の聖句

(あなたは)御手の業を治めさせ、あらゆるものをその足元に置かれた。(詩編8:7)
私には、すべてのことが許されています。しかし、すべてのことが益になるわけではありません。私には、すべてのことが許されています。しかし、私は何事にも支配されはしません。(1コリント6:12)

使徒パウロは言います。「私には、すべてのことが許されています。」私たちは、キリストにあって究極の自由をいただきました。すべてが許されている。あらゆる掟も、戒めも、習わしも、人目も人間関係も私たちを縛ることはない。しかしパウロは同時に、その自由を自分の放埒の言い訳や、自分の欲望のための屁理屈にはしません。「しかし、すべてのことが益になるわけではありません。」「私は何事にも支配されはしません。」
同じ事を、改革者ルターは「キリスト者の自由について」という名著にこのように書きました。
「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。
キリスト者はすべてのものに仕える(ことのできる)僕であって、だれにでも服する。」
キリストが私を自由にしてくださった。誰にも服することはなく、すべてにおいて主人として生きる。しかし、私はその自由をどのように用いるのか。私は、与えられた自由をキリストと隣人のために用いることができる。すべての人の僕、奴隷として生きる自由にキリストが私を招いてくださった。キリストご自身がそうしてくださったように。
キリストは私たちを自由にしてくださいました。私自身の欲のためではなく、隣人を愛し、仕える自由へと招いてくださいました。それは、キリストご自身が生きられた自由と同じ自由なのです。

2024年6月11日火曜日

2024年6月11日の聖句

平和のための助言には喜びがある。(箴言12:20)
できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。(ローマ12:18)

今日の新約聖書の御言葉は「できれば」と始まっています。聖書の言葉としては意外な感じを受けるのではないでしょうか。「できれば」などという留保をつけないで、「あなたがたは、すべて人と平和に過ごしなさい」と言い切った方が聖書らしいような気がします。もう一つ、意外と言えば、ここには「せめてあなたがたは」と、「せめて」という言葉もあります。これも聖書っぽくないような気がしないでしょうか。
聖書は、私たちの現実を本当に深く知っているのだと思います。私たちがどんなに簡単に復讐心に燃え、独善的であり、平和とほど遠いのか。そんなこの世界の現実を悲しみながら、「せめてあなたがたは」と言っているのだと思います。しかしなお、私たちは自分の罪の現実をまざまざと見せつけられる毎日です。平和ということにおいて、本当に私たちの抱えている現実は厳しい。だからこそ「できれば」と言わないわけには行かない私たちです。
しかし、なお、私たちは同時に知っています。キリストが私たちの平和になってくださったことを。そして、神は私たちの心に平和を求める願いを与えてくださっていることを。だから「平和のための助言には喜びがある」のです。誰もがその喜びを知っている。だから、誰もが平和を求めている。キリストが私たちの平和として、平和の福音として、私たちの間に来てくださったから、私たちには希望があります。
神さまにしか打ち立てることのできない平和を求めて、へりくだって祈りを捧げる一日でありたいと願います。

2024年6月10日月曜日

2024年6月10日の聖句

モーセとアロンはファラオのもとを訪れ、彼に言った。「主はこう言われる。『私の民を去らせ、私に仕えさせよ。』」(出エジプト10:3)
この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。ですから、しっかりと立って、二度と奴隷の軛につながれてはなりません。(ガラテヤ5:1)

かつて奴隷であった私たちをキリストが解放し、自由にしてくださった。だから私たちは二度と奴隷の軛につながれてはならない。聖書はそう言います。モーセとアロンがファラオのもとから旅を導き上ったように、神はご自分の民をご自分に仕えさせるために、奴隷の軛から解放してくださいました。
ところが、私たちが聖書を読んで知らされるのは、せっかく自由にしていただいた神の民はその後の荒れ野での旅路に耐えられずに、何度も何度も、絶えず、エジプトに戻りたいとつぶやき、叫んでいたということです。奴隷に戻りたかったのです。自由であることを捨て、奴隷の軛につなげられたかった。「二度と奴隷の軛につながれてはなりません」と言いますが、自分で好き好んで、自らその軛を求めている。そこに私たちの姿がある、と聖書は鋭く指摘します。
私たちは、何の奴隷なのでしょう。私たちは何に仕えさせられているでしょう。何が私たちをキリストから引き離そうとしているでしょう。キリストを信頼しましょう。繰り返し、繰り返し、何度でも悔い改めてキリストの御許に帰りましょう。キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すものは何もないのです。キリストの示してくださった神の愛の中へ、今日、立ち返りましょう。

2024年6月9日日曜日

2024年6月9日の聖句

今週の聖句:
すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。(マタイ11:28)

今日の聖句:
神は私の道を見つめ、私の歩みのすべてを数えていないのだろうか。(ヨブ31:4)
五羽の雀は二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽でさえ、神の前で忘れられてはいない。(ルカ12:6)

先日子どもたちの小学校の運動会があって、代休で月曜日が休みでした。久しぶりに子どもと同じ日にお休みになったので、皆で動物園に行きました。お昼ご飯のおにぎりを食べていると、どこからともなく雀が飛んできました。何かくれないかと期待していたのでしょう。
雀は、動物園では飼育されないと思います。どこにでもいる小さな鳥。それどころか主イエスの時代のイスラエルでは、きっと食用ということだと思いますが、五羽ひとまとめになって売られていた。アサリオンというのは、労働者の一日分の賃金の十六分の一に相当する額なのだそうです。貧しい労働者のお腹を満たす食材だったに違いない。そんな雀のたった一羽でさえ神は覚えておられる、と主イエスはおっしゃいます。「ましてあなたがたは」と主イエスはおっしゃっているのではないでしょうか。小さな一羽の雀を覚えておられる方は、あなたのことをなおさら憶えていてくださる。決してあなたをお忘れになることなんて無い!
私たちの今日一日の小さな歩みも、主イエス・キリストの御手の内にあります。キリストの慈しみ、神の御目から私たちが失われることはない。神の慈しみに信頼して、今日一日を歩んでいきましょう。

2024年6月8日土曜日

2024年6月8日の聖句

父と母が私を見捨てようとも、主は私を迎え入れてくださいます。(詩編27:10)
(パウロの手紙)そして、私の肉体にはあなたがたのつまずきとなるものがあったのに、あなたがたは蔑んだり、忌み嫌ったりせず、かえって、私を神の天使のように、そればかりか、キリスト・イエスのように受け入れてくれました。(ガラテヤ4:14)

パウロには何かの持病か障害かがあったようです。「私の肉体にはあなたがたのつまずきとなるものがあった」とパウロ自身が書いています。それが何かは詳しく書かれていないので分かりません。ただパウロはそのために人から差別される経験をしていたに違いない。世間では自分の肉体の弱さのために蔑まれる経験をしていたのでしょう。それなのに、教会の人々は自分を忌み嫌わず、むしろ主キリストご自身のように自分を受け入れてくれた、と言っています。
この御言葉と合わせて与えられている今日の旧約では「父と母が私を見捨てようとも」と言っています。私は自分が親になってつくづく思いますが、親の愛なんて本当に小さいし、限りあるし、無償でも何でもありません。それでも、我が子はかわいいし、周りの人がどんなに蔑んでも一緒になって蔑むということは考えられないことです。ただ、それでもやはり親なんて所詮は一人の人間、しかも罪人に過ぎない。その愛は「愛」と呼ぶにはほど遠い現実を抱えています。「父と母が私を見捨てる」というのは、現に起こっている現実です。
しかしそれでも、主なる神は私を迎え入れてくださいます。そして、その主の愛に生かされる教会は、自分の抱える躓きをも吹き飛ばすようにして、キリストご自身のように私を受け入れてくれる。神の愛を映し出す愛がここにある。パウロは教会で現に起きているその現実を喜んでいるし、そして、それは私たちの間でも起こっていることです。神の愛が教会に花開いています。

2024年6月6日木曜日

2024年6月6日の聖句

恐れるな。私はあなたと共にいる。(イザヤ43:5)
ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私はあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。」(使徒18:9~10)

恐れるな、と神は私たちにお命じになります。「恐れるな、語り続けよ。黙っているな。」福音を証しし続けよ、と神はおっしゃるのです。福音は、私たちがそれを証しするのを待っています。神ご自身がそれを願っておられます。私たちがキリストの愛を証しし、隣人の前に証人として生きることを、神が望んでいてくださる。そのために「私はあなたと共にいる」と約束してくださいます。
毎日の生活の中で、神さまを信じるがゆえに喜んで生きること。神に祈るがゆえに絶望しないこと、悲しみの中でも深い喜びを知っていること。それは、証しの業です。私たちが神と共に生きるから勇気を持って歩みうること。それが、神が私たちに願っておられるキリストの福音の証言ではないでしょうか。
私たちの前に広がっている現実は、キリストの福音とは矛盾します。それは、2000年前からずっとそうです。パウロは「恐れるな」と言われました。恐れるべき現実、福音に逆らう現実が目の前にあったからです。しかし、神は必ず共にいてくださる。私たちはこの約束からしか得ることのできない慰めや喜びを知っています。神は必ず共にいてくださる。だから、私たちは目の前の現実の「ゆえに」ではなく、目の前の現実「にもかかわらず」福音を証しする。キリストの愛から私たちを引き離す者はどこにもいないからです。

2024年6月5日水曜日

2024年6月4日の聖句

命が衰えようとするとき、私は主を思い起こした。
私の祈りはあなたに届いた。(ヨナ2:8)
何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。(フィリピ4:6)

神は憐れみ深いお方です。私たちの祈りを待っていてくださいます。私たちの願いに耳を傾けてくださいます。神さまは、優しい方です。
今日の旧約の御言葉で与えられているのはヨナ書です。預言者ヨナの記録。この人はニネベという都に行って、人々に悪からの悔い改めを語れと神に命じられました。ところがヨナはそれを拒んで正反対の方角へ逃げました。ニネベは、ヨナたちイスラエルにとっては宿敵であるアッシリアの首都です。敵国に行けと言われたのでヨナはそれを拒否した。
その後、ヨナにはいろいろなことがあって大きな魚に呑み込まれてしまった。その魚の腹の中で献げた祈りが、今日私たちに与えられている御言葉です。「命が衰えようとするとき」というのは、ヨナが神の命令に背いて、その結果魚に呑み込まれてしまったときのことです。しかしそんなときの祈りの言葉にさえも神は耳を傾けてくださった。主なる神さまはヨナを救ってくださいました。
「何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。」この「何事も」というのは、本当に「何事も」です。どんなことも思い煩わずに、神に打ち明け、祈っていい。むしろ神はどんな祈りでも待っていてくださいます。自業自得、神に背いたからこんなことになったと自分で自分を裁くしかないときにも、私たちは神に祈っていい。むしろ、神はそのようなときに祈ることを待っていてくださいます。最悪の罪は、祈らないことです。自分をキリストから切り離してしまうことです。最低最悪の罪人だと自分を責めるその時にこそ私に祈れ、と神は命じておられるのです。

2024年6月4日火曜日

2024年6月3日の聖句

主は言われた。「私の臨在が先立って進み、あなたを安息へ導く。」(出エジプト33:14)
したがって、安息日の休みは、神の民にまだ残されています。(ヘブライ4:9)

主ご自身が私たちと共にいて、そして先立って進み、私たちの行く道を導いてくださいます。私たちは旅人。信仰者は旅する神の民です。この旅は行く当てのないの旅ではありません。私たちには目指すべき行く先があります。私たちは神の国を目指して旅をしている。神の国、それは私たちにとっては全き安息です。私たちは安息に至るための旅を続けている。安息を目指して私たちは今生きている。聖書はそう言うのです。
主の臨在がいつでも、どんなときにも私たちに先立ってくださるというのは、本当にありがたいことです。私たちは神さまと関わりの無いところに向かっていくのではない。必ず神が共にいてくださいます。
しかしそれは、私たちにとって都合の好いことが必ず起こると約束するものではないし、私たちの困難がいつでも取り除かれると保証するものでもない。今は忍耐のときです。神の国へ導き入れられるときを、私たちは忍耐して待たねばならない。神はどうして何もしてくださらないのだとか、神は私をお見捨てになったのかとか、そう思ってしまうことは私たちにも起こるでしょう。しかし、十字架にかけられたキリストはどのようなところにも共にいてくださいます。私たちは神と共に、しかし都合の好い奇跡を当てにせずに生きていきます。全きキリストへの信頼をもって。悲しみの淵にも臨在しておられるキリストの導きに従って。
私たちの旅路の目指す場所には、全き安息があります。それは確実なことです。ですから、神を信じ、キリストを信頼して今日の日を生きていきましょう。キリストが導き入れてくださる安息を待ち望みつつ、今日の日を生きていきましょう。

2024年6月3日月曜日

2024年6月3日の聖句

主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたがた天と地をお造りになったのです。(列王記下19:15)
ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。(ローマ10:12)

同じ主が、すべての人の主でいてくださる。神さまは私たちが考えているよりも遙かに大きく、想像も付かないほど偉大なお方です。私たち人間はずっと小さくて、思うことや考えることも狭くて小さいものに過ぎません。だからすぐに自分は絶対に正しいと思い込んでしまって、自分の考えや価値観に従わないのは悪いことだと判断してしまう。しかし、ユダヤ人にもギリシア人にも神でいらっしゃるお方は、私たちが例えどのような出自であり、どのような人生を生きてきたのだとしても、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かに恵んでくださるお方です。神さまは気前の良いお方です。私たちの卑小さに神さまを押し込めることはできないのです。
「主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたがた天と地をお造りになったのです。」王たちの王であり、神々の神でいらっしゃるお方は、この世界の天と地とそこに満ちるすべてのものをお造りになりました。神さまはその長くて力強い御腕をもって、この世界にご自分がお造りになったすべてのものを守り、支え、今日も保っていてくださいます。
すべての人を今日も生かす神の豊かな恵みが、私たちの今日をも生かしてくださっています。主イエス・キリストを仰ぎ、キリストをほめたたえる一日を生きていきましょう。

2024年6月2日日曜日

2024年6月2日の聖句

今週の聖句:
あなたがたに耳を傾ける者は、私に耳を傾け、
あなたがたを拒む者は、私を拒むのである。(ルカ10:16a)

今日の聖句:
命あるかぎり、恵みと慈しみが私を追う。
私は主の家に住もう。日の続く限り。(詩編23:6)
(信じた者たちは)毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。(使徒2:46~47)

「私は主の家に住もう。日の続く限り。」これが私たちの願いです。主の家、主がおられるところに私も住み、日の続く限り主の御許に憩いたい。私たちの願いはこれです。
私たちは神を礼拝し、御言葉に聞き、共にパンを裂いて主の聖餐を祝います。主の家に私たちはこのようにして憩う。神を礼拝するために、神を愛するために私たちは生まれました。キリストご自身でいらっしゃる神の言葉、キリストがそのお体を裂いて与えてくださった命のパンによって、私たちは生きています。そうやって私たちは主の家に住むのです。
「命あるかぎり、恵みと慈しみが私を追う。」私を追うのは、悪い何かや私を責めたてる何かではありません。神の恵みが、神の慈しみが私を追ってくださる。主イエス・キリストの憐れみの中に私も生かしていただいている。キリストの平和の内に、私たちは憩うことができるのです。

2024年6月1日土曜日

2024年6月1日の聖句

6月の聖句:
モーセは言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」(出14:13)

今日の聖句:
私は主の前に自分の胸の内を注ぎ出していたのです。(サムエル上1:15)
(女は)背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし初め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。(ルカ7:38)

ハンナという一人の女性が主なる神さまの御前で祈っていました。彼女は自分の胸の内を主に注ぎ出していた。これこそ、祈りです。祈るというのは自分の胸の内を主に注ぎ出すこと。
ハンナが祈っているのを間近で見ていた祭司エリは、情けないことに、彼女が酔っ払っているのだと勘違いしました。エリ自身の信仰生活すらも疑わしくなるような誤解ですが、しかし他方では、祈りについての深い示唆を与えるエピソードでもあります。祈るというのは、他人からよく見えることとか、いかにも敬虔そうに見える営みではないのだと思います。他人から見たら酔っているだけに見えるかもしれない。しかしそこには必死になって、外見なんて気にする余裕もなく、主だけに向かって心を注ぎ出す一人の信仰者がいるのです。
主イエスの足元で泣いていたこの女も同じだったと思います。周りにいた者たちは迷惑がりました。しかし主イエスだけが彼女の思いを知り、受け止めてくださいました。主イエスは彼女の注ぎ出す胸の内を誰よりも深く想ってくださったのです。
今日、私たちも祈りつつ生きていきたいと願います。ただキリストに、ただ神にだけ向かって、私たちの胸の内を注ぎ出して祈る一日を過ごしていきましょう。

2024年7月27日の聖句

貧しい人が(主に)永遠に忘れられ、苦しむ人の希望が滅びることは決してない。(詩編9:19) イエスは言われた。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」(ルカ6:20) 「貧しい人々は、幸いである」と主イエス・キリストは宣言なさいます。キリスト以外の一体誰にそ...