2024年6月17日月曜日

2024年6月17日の聖句

新しい歌を主に歌え。まことに主は奇しき業を成し遂げられた。(詩編98:1)
 私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。(ヨハネ1:16) 

 私たちの主を賛美する新しい歌は、主の奇しき業から始まります。主がなしてくださった御業に応えて、私たちは神を賛美し、新しい歌を献げる。主がなしてくださった奇しき御業。何よりもそれは主イエス・キリストにおける神の御業です。神は独り子イエスを私たちのところへ送ってくださって、このお方は十字架にかけられ、死んで葬られた。しかし、神はこのお方を死者の中から引き上げてくださった。この御業、この事実こそ、私たちの献げる賛美の根拠です。 主イエス・キリストを仰いで、私たちは神を賛美します。キリストをたたえる新しい歌を歌います。奇しき御業を成し遂げてくださったお方を!
「私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。」恵みの上に、さらに恵みを!素晴らしい言葉です。アーメン、と心から言いたい。私たちはキリストの示してくださった溢れるほどの神の恵みに生かされている。その事実に応えて、私たちは神とその御子キリストを賛美します。 
昨日は主の日でした。礼拝から私たちの新しい一週間が始まりました。神を賛美し、主キリストの十字架にかけられたお姿を仰いで、私たちは新しい日々を歩んでいきます。キリストがあなた他と共におられます。

2024年6月16日日曜日

2024年6月16日の聖句

今週の聖句:
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカ19:10)

今日の聖句:
(主よ、)その時に応じてあなたが食べ物を与えるのを待っている。あなたが与えると、彼らは拾い集め、御手を開くと、彼らは良いもので満ち足りる。(詩編104:27~28)
(人々へのイエスの言葉)私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。(ヨハネ6:35)

主イエス・キリストご自身が私たちのためのパンになってくださいました。普通のパンは、それがどんなに美味しくて、どんなにたくさん食べて満足しても、また数時間経てばお腹が空きます。パンがつなぐ命は今日の命であって、永遠のものではありません。しかし、主イエス・キリストというパンは、今日はあっても明日になったら消えてしまうパンとは違う。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」キリストというパンを食べる者は、もう飢えることがない。もう渇くこともない。永遠の命に至るパン。それがイエス・キリスト。
私たちの肉体は飢えます。渇きます。私たちは弱い存在です。肉体は弱くても魂は不滅だ、ということもありません。私たちは肉体も魂も滅びゆく者です。今日は生きていても明日になればどうなるか分からない、小さな存在です。しかし、その滅びゆく私たちのために、キリストが命のパンになってくださいました。私たちを神の御前に生ける者とするために。
主イエス・キリスト。このお方こそ、私たちのパン、私たちの命です。キリストを信じ、キリストを仰ぎましょう。主イエス・キリストを礼拝しましょう。このお方の御手の中に私たちの永遠の命があるのですから。

2024年6月15日土曜日

2024年6月15日の聖句

正義のために進んで種を蒔き、慈しみの実を刈り入れよ。(ホセア10:2)
ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、自分の魂にこう言った。「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」しかし、神はその人に言われた。「愚か者よ。」(ルカ12:16~17,19~20)

今日の新約の御言葉にはとても面白い言い回しが登場します。「金持ちは、自分の魂にこう言った。『魂よ・・・。』」あまり普通は、自分の魂に何か語りかけようとは言わないと思います。ユダヤ人の感覚では普通なのでしょうか?例えそうだとしても、とても興味をひく言い回しではないでしょうか。
この「魂」という単語は、ギリシア語では「プシュケー」という字を書きます。この言葉は、渇いた喉のように水を求めてあえぐ、弱くて脆い人間存在を現す言葉なのだそうです。そうとすると、先ほどの「自分の魂に言った」というのは、どうしても満たされず、いつも渇いていて、何かを求めている自分の内奥に向かっていった言葉、ということになると思います。どうしても満たされないその渇望を埋めるために、この人は畑の豊作でもってそれを埋めようとしました。お金やものに囲まれることで満たされない心を満たそうとする思いは、現代人と同じです。私たちにもよく分かる。
ところが、神さまのこの人への言葉はとても厳しいものです。「愚か者よ」とおっしゃるのです。なぜか。この金持ちはこの夜の内にも死ぬ。そうしたら、ため込んだその財は一体誰のものになるのか。お金は死を前にして何の役にも立たない。結局、渇きをごまかすだけで本当に癒やしているわけではないのです。
これは主イエスのなさった譬え話です。そうであるからこそ、逆に、そこまでおっしゃる主イエスさまは私たちの魂の渇きを完全に満たしてくださいます。「正義のために進んで種を蒔き、慈しみの実を刈り入れよ。」ほかの誰でもなく主イエス・キリストに正義と慈しみを求めるものは、必ず満たされます。その渇きを癒やされる。「義に飢え渇く人々は、幸いである」とおっしゃった主イエスさまは、必ずご自身の慈しみをもって私たちを満たしてくださる。私たちはそのことを信じてよい。御言葉は私たちにそう語りかけます。

2024年6月14日金曜日

2024年6月14日の聖句

主の神殿の基礎がすえられたことで、すべての民は主を賛美して喜びの叫びを上げた。(エズラ3:11)
イエス・キリストというすでに据えられている土台のほかに、誰も他の土台を据えることはできません。(1コリント3:11)

教会は、今この世界に建てられている主の神殿です。その基礎、土台はイエス・キリストご自身です。建物は土台作りが一番大事です。土台がしっかりしていなければ、その上に立っている建物がどんなに見栄えよく見えても、何かがあればすぐに倒壊してしまいます。主の神殿の基礎はイエス・キリスト。この土台の上に建っていれば、絶対大丈夫です。私たちに例えどんなに大嵐や大地震に見えることがあったとしても、大丈夫です。キリストご自身が堅固な土台になってくださるから。
この土台であるイエス・キリストというお方は、十字架にかけられた方です。十字架の上で苦しまれたお方が私たちの土台になってくださった。だから私たちは、苦しみ、弱さを憶えてくださった神の子に従って、この世での信仰の生活をなしていきます。
この世界にはたくさんの成功や豊かさの物語があります。そういう魅力的な物語を土台にした方が現実的なのではないか、と思わせる力があります。十字架なんて言っていないで成功や豊かさを土台に据えた方が世の人にも魅力的なのではないか。世界の物語は、キリストにとってかわる土台に成り代わろうとする。しかし私たちは私たちのために十字架にかけられた方を救いと信じます。このお方がくださる救い以外の何ものも自分の救いとは信じません。キリストとその十字架以外の一体何が嵐の日に私たちを建たせる土台足りうるでしょうか?
ひたすらにキリストを仰ぎ、キリストを信じ、キリストに祈ります。このお方に示された神の愛を仰ぎ、私たちは生きていきます。

2024年6月13日木曜日

2024年6月13日の聖句

(モーセの言葉)私があなたがたに命じる言葉を、すべて守り行いなさい。それに付け加えたり減らしたりしてはならない。(申命記13;1)
(イエスの言葉)私の教えは、私のものではなく、私をお遣わしになった方のものである。この方の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである。(ヨハネ7:16~17)

神が命じる言葉、神の言葉であるからこそ、それに付け加えたり減らしたりしてはならない、と言います。言葉を付け加えたり減らしたりするのは、自分に都合が悪いからです。自分にとって都合の良いように改変しようとしてはならない。なぜなら、神の言葉だから。
新約聖書の時代の少し後に、マルキオンという人がいました。この人はルカによる福音書と一部のパウロの手紙を中心とした新約聖書だけを正典と認め、旧約聖書は必要ないと考えたそうです。自分に都合の良いように神の言葉を減らしてしまいました。マルキオンまでいくと少し極端かもしれません。しかし、旧約聖書の神さまは厳しい神さま、裁きの神さまとしてあまり考えないようにするという気持ちは、多くの人に多少なりとも覚えがあるところではないかと思います。
ところが神の言葉は私たちの創作ではなく、神ご自身の御言葉です。そうであるからこそ、私たちはそれを付け加えたり減らしたりせずに耳を傾けることが大事なのではないでしょうか。それは主イエスご自身が大切になさったことです。キリストは父なる神様から教えられたとおりに私たちに教えてくださいました。だからこそ、私たちはキリストの言葉に聞けば父なる神様の御心を知ることができます。キリストの語る御言葉にこそ、神の思いが十全に現されています。私たちはほかの誰でもなくキリストに耳を傾ける。付け加えることも、減らすこともなく。今日の私たちがこのお方に耳を傾け、このお方の証ししてくださった福音に従うものでありますように。

2024年6月12日水曜日

2024年6月12日の聖句

(あなたは)御手の業を治めさせ、あらゆるものをその足元に置かれた。(詩編8:7)
私には、すべてのことが許されています。しかし、すべてのことが益になるわけではありません。私には、すべてのことが許されています。しかし、私は何事にも支配されはしません。(1コリント6:12)

使徒パウロは言います。「私には、すべてのことが許されています。」私たちは、キリストにあって究極の自由をいただきました。すべてが許されている。あらゆる掟も、戒めも、習わしも、人目も人間関係も私たちを縛ることはない。しかしパウロは同時に、その自由を自分の放埒の言い訳や、自分の欲望のための屁理屈にはしません。「しかし、すべてのことが益になるわけではありません。」「私は何事にも支配されはしません。」
同じ事を、改革者ルターは「キリスト者の自由について」という名著にこのように書きました。
「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。
キリスト者はすべてのものに仕える(ことのできる)僕であって、だれにでも服する。」
キリストが私を自由にしてくださった。誰にも服することはなく、すべてにおいて主人として生きる。しかし、私はその自由をどのように用いるのか。私は、与えられた自由をキリストと隣人のために用いることができる。すべての人の僕、奴隷として生きる自由にキリストが私を招いてくださった。キリストご自身がそうしてくださったように。
キリストは私たちを自由にしてくださいました。私自身の欲のためではなく、隣人を愛し、仕える自由へと招いてくださいました。それは、キリストご自身が生きられた自由と同じ自由なのです。

2024年6月11日火曜日

2024年6月11日の聖句

平和のための助言には喜びがある。(箴言12:20)
できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。(ローマ12:18)

今日の新約聖書の御言葉は「できれば」と始まっています。聖書の言葉としては意外な感じを受けるのではないでしょうか。「できれば」などという留保をつけないで、「あなたがたは、すべて人と平和に過ごしなさい」と言い切った方が聖書らしいような気がします。もう一つ、意外と言えば、ここには「せめてあなたがたは」と、「せめて」という言葉もあります。これも聖書っぽくないような気がしないでしょうか。
聖書は、私たちの現実を本当に深く知っているのだと思います。私たちがどんなに簡単に復讐心に燃え、独善的であり、平和とほど遠いのか。そんなこの世界の現実を悲しみながら、「せめてあなたがたは」と言っているのだと思います。しかしなお、私たちは自分の罪の現実をまざまざと見せつけられる毎日です。平和ということにおいて、本当に私たちの抱えている現実は厳しい。だからこそ「できれば」と言わないわけには行かない私たちです。
しかし、なお、私たちは同時に知っています。キリストが私たちの平和になってくださったことを。そして、神は私たちの心に平和を求める願いを与えてくださっていることを。だから「平和のための助言には喜びがある」のです。誰もがその喜びを知っている。だから、誰もが平和を求めている。キリストが私たちの平和として、平和の福音として、私たちの間に来てくださったから、私たちには希望があります。
神さまにしか打ち立てることのできない平和を求めて、へりくだって祈りを捧げる一日でありたいと願います。

2024年6月10日月曜日

2024年6月10日の聖句

モーセとアロンはファラオのもとを訪れ、彼に言った。「主はこう言われる。『私の民を去らせ、私に仕えさせよ。』」(出エジプト10:3)
この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。ですから、しっかりと立って、二度と奴隷の軛につながれてはなりません。(ガラテヤ5:1)

かつて奴隷であった私たちをキリストが解放し、自由にしてくださった。だから私たちは二度と奴隷の軛につながれてはならない。聖書はそう言います。モーセとアロンがファラオのもとから旅を導き上ったように、神はご自分の民をご自分に仕えさせるために、奴隷の軛から解放してくださいました。
ところが、私たちが聖書を読んで知らされるのは、せっかく自由にしていただいた神の民はその後の荒れ野での旅路に耐えられずに、何度も何度も、絶えず、エジプトに戻りたいとつぶやき、叫んでいたということです。奴隷に戻りたかったのです。自由であることを捨て、奴隷の軛につなげられたかった。「二度と奴隷の軛につながれてはなりません」と言いますが、自分で好き好んで、自らその軛を求めている。そこに私たちの姿がある、と聖書は鋭く指摘します。
私たちは、何の奴隷なのでしょう。私たちは何に仕えさせられているでしょう。何が私たちをキリストから引き離そうとしているでしょう。キリストを信頼しましょう。繰り返し、繰り返し、何度でも悔い改めてキリストの御許に帰りましょう。キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すものは何もないのです。キリストの示してくださった神の愛の中へ、今日、立ち返りましょう。

2024年6月9日日曜日

2024年6月9日の聖句

今週の聖句:
すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。(マタイ11:28)

今日の聖句:
神は私の道を見つめ、私の歩みのすべてを数えていないのだろうか。(ヨブ31:4)
五羽の雀は二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽でさえ、神の前で忘れられてはいない。(ルカ12:6)

先日子どもたちの小学校の運動会があって、代休で月曜日が休みでした。久しぶりに子どもと同じ日にお休みになったので、皆で動物園に行きました。お昼ご飯のおにぎりを食べていると、どこからともなく雀が飛んできました。何かくれないかと期待していたのでしょう。
雀は、動物園では飼育されないと思います。どこにでもいる小さな鳥。それどころか主イエスの時代のイスラエルでは、きっと食用ということだと思いますが、五羽ひとまとめになって売られていた。アサリオンというのは、労働者の一日分の賃金の十六分の一に相当する額なのだそうです。貧しい労働者のお腹を満たす食材だったに違いない。そんな雀のたった一羽でさえ神は覚えておられる、と主イエスはおっしゃいます。「ましてあなたがたは」と主イエスはおっしゃっているのではないでしょうか。小さな一羽の雀を覚えておられる方は、あなたのことをなおさら憶えていてくださる。決してあなたをお忘れになることなんて無い!
私たちの今日一日の小さな歩みも、主イエス・キリストの御手の内にあります。キリストの慈しみ、神の御目から私たちが失われることはない。神の慈しみに信頼して、今日一日を歩んでいきましょう。

2024年6月8日土曜日

2024年6月8日の聖句

父と母が私を見捨てようとも、主は私を迎え入れてくださいます。(詩編27:10)
(パウロの手紙)そして、私の肉体にはあなたがたのつまずきとなるものがあったのに、あなたがたは蔑んだり、忌み嫌ったりせず、かえって、私を神の天使のように、そればかりか、キリスト・イエスのように受け入れてくれました。(ガラテヤ4:14)

パウロには何かの持病か障害かがあったようです。「私の肉体にはあなたがたのつまずきとなるものがあった」とパウロ自身が書いています。それが何かは詳しく書かれていないので分かりません。ただパウロはそのために人から差別される経験をしていたに違いない。世間では自分の肉体の弱さのために蔑まれる経験をしていたのでしょう。それなのに、教会の人々は自分を忌み嫌わず、むしろ主キリストご自身のように自分を受け入れてくれた、と言っています。
この御言葉と合わせて与えられている今日の旧約では「父と母が私を見捨てようとも」と言っています。私は自分が親になってつくづく思いますが、親の愛なんて本当に小さいし、限りあるし、無償でも何でもありません。それでも、我が子はかわいいし、周りの人がどんなに蔑んでも一緒になって蔑むということは考えられないことです。ただ、それでもやはり親なんて所詮は一人の人間、しかも罪人に過ぎない。その愛は「愛」と呼ぶにはほど遠い現実を抱えています。「父と母が私を見捨てる」というのは、現に起こっている現実です。
しかしそれでも、主なる神は私を迎え入れてくださいます。そして、その主の愛に生かされる教会は、自分の抱える躓きをも吹き飛ばすようにして、キリストご自身のように私を受け入れてくれる。神の愛を映し出す愛がここにある。パウロは教会で現に起きているその現実を喜んでいるし、そして、それは私たちの間でも起こっていることです。神の愛が教会に花開いています。

2024年6月6日木曜日

2024年6月6日の聖句

恐れるな。私はあなたと共にいる。(イザヤ43:5)
ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私はあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。」(使徒18:9~10)

恐れるな、と神は私たちにお命じになります。「恐れるな、語り続けよ。黙っているな。」福音を証しし続けよ、と神はおっしゃるのです。福音は、私たちがそれを証しするのを待っています。神ご自身がそれを願っておられます。私たちがキリストの愛を証しし、隣人の前に証人として生きることを、神が望んでいてくださる。そのために「私はあなたと共にいる」と約束してくださいます。
毎日の生活の中で、神さまを信じるがゆえに喜んで生きること。神に祈るがゆえに絶望しないこと、悲しみの中でも深い喜びを知っていること。それは、証しの業です。私たちが神と共に生きるから勇気を持って歩みうること。それが、神が私たちに願っておられるキリストの福音の証言ではないでしょうか。
私たちの前に広がっている現実は、キリストの福音とは矛盾します。それは、2000年前からずっとそうです。パウロは「恐れるな」と言われました。恐れるべき現実、福音に逆らう現実が目の前にあったからです。しかし、神は必ず共にいてくださる。私たちはこの約束からしか得ることのできない慰めや喜びを知っています。神は必ず共にいてくださる。だから、私たちは目の前の現実の「ゆえに」ではなく、目の前の現実「にもかかわらず」福音を証しする。キリストの愛から私たちを引き離す者はどこにもいないからです。

2024年6月5日水曜日

2024年6月4日の聖句

命が衰えようとするとき、私は主を思い起こした。
私の祈りはあなたに届いた。(ヨナ2:8)
何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。(フィリピ4:6)

神は憐れみ深いお方です。私たちの祈りを待っていてくださいます。私たちの願いに耳を傾けてくださいます。神さまは、優しい方です。
今日の旧約の御言葉で与えられているのはヨナ書です。預言者ヨナの記録。この人はニネベという都に行って、人々に悪からの悔い改めを語れと神に命じられました。ところがヨナはそれを拒んで正反対の方角へ逃げました。ニネベは、ヨナたちイスラエルにとっては宿敵であるアッシリアの首都です。敵国に行けと言われたのでヨナはそれを拒否した。
その後、ヨナにはいろいろなことがあって大きな魚に呑み込まれてしまった。その魚の腹の中で献げた祈りが、今日私たちに与えられている御言葉です。「命が衰えようとするとき」というのは、ヨナが神の命令に背いて、その結果魚に呑み込まれてしまったときのことです。しかしそんなときの祈りの言葉にさえも神は耳を傾けてくださった。主なる神さまはヨナを救ってくださいました。
「何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。」この「何事も」というのは、本当に「何事も」です。どんなことも思い煩わずに、神に打ち明け、祈っていい。むしろ神はどんな祈りでも待っていてくださいます。自業自得、神に背いたからこんなことになったと自分で自分を裁くしかないときにも、私たちは神に祈っていい。むしろ、神はそのようなときに祈ることを待っていてくださいます。最悪の罪は、祈らないことです。自分をキリストから切り離してしまうことです。最低最悪の罪人だと自分を責めるその時にこそ私に祈れ、と神は命じておられるのです。

2024年6月4日火曜日

2024年6月3日の聖句

主は言われた。「私の臨在が先立って進み、あなたを安息へ導く。」(出エジプト33:14)
したがって、安息日の休みは、神の民にまだ残されています。(ヘブライ4:9)

主ご自身が私たちと共にいて、そして先立って進み、私たちの行く道を導いてくださいます。私たちは旅人。信仰者は旅する神の民です。この旅は行く当てのないの旅ではありません。私たちには目指すべき行く先があります。私たちは神の国を目指して旅をしている。神の国、それは私たちにとっては全き安息です。私たちは安息に至るための旅を続けている。安息を目指して私たちは今生きている。聖書はそう言うのです。
主の臨在がいつでも、どんなときにも私たちに先立ってくださるというのは、本当にありがたいことです。私たちは神さまと関わりの無いところに向かっていくのではない。必ず神が共にいてくださいます。
しかしそれは、私たちにとって都合の好いことが必ず起こると約束するものではないし、私たちの困難がいつでも取り除かれると保証するものでもない。今は忍耐のときです。神の国へ導き入れられるときを、私たちは忍耐して待たねばならない。神はどうして何もしてくださらないのだとか、神は私をお見捨てになったのかとか、そう思ってしまうことは私たちにも起こるでしょう。しかし、十字架にかけられたキリストはどのようなところにも共にいてくださいます。私たちは神と共に、しかし都合の好い奇跡を当てにせずに生きていきます。全きキリストへの信頼をもって。悲しみの淵にも臨在しておられるキリストの導きに従って。
私たちの旅路の目指す場所には、全き安息があります。それは確実なことです。ですから、神を信じ、キリストを信頼して今日の日を生きていきましょう。キリストが導き入れてくださる安息を待ち望みつつ、今日の日を生きていきましょう。

2024年6月3日月曜日

2024年6月3日の聖句

主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたがた天と地をお造りになったのです。(列王記下19:15)
ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。(ローマ10:12)

同じ主が、すべての人の主でいてくださる。神さまは私たちが考えているよりも遙かに大きく、想像も付かないほど偉大なお方です。私たち人間はずっと小さくて、思うことや考えることも狭くて小さいものに過ぎません。だからすぐに自分は絶対に正しいと思い込んでしまって、自分の考えや価値観に従わないのは悪いことだと判断してしまう。しかし、ユダヤ人にもギリシア人にも神でいらっしゃるお方は、私たちが例えどのような出自であり、どのような人生を生きてきたのだとしても、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かに恵んでくださるお方です。神さまは気前の良いお方です。私たちの卑小さに神さまを押し込めることはできないのです。
「主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたがた天と地をお造りになったのです。」王たちの王であり、神々の神でいらっしゃるお方は、この世界の天と地とそこに満ちるすべてのものをお造りになりました。神さまはその長くて力強い御腕をもって、この世界にご自分がお造りになったすべてのものを守り、支え、今日も保っていてくださいます。
すべての人を今日も生かす神の豊かな恵みが、私たちの今日をも生かしてくださっています。主イエス・キリストを仰ぎ、キリストをほめたたえる一日を生きていきましょう。

2024年6月2日日曜日

2024年6月2日の聖句

今週の聖句:
あなたがたに耳を傾ける者は、私に耳を傾け、
あなたがたを拒む者は、私を拒むのである。(ルカ10:16a)

今日の聖句:
命あるかぎり、恵みと慈しみが私を追う。
私は主の家に住もう。日の続く限り。(詩編23:6)
(信じた者たちは)毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。(使徒2:46~47)

「私は主の家に住もう。日の続く限り。」これが私たちの願いです。主の家、主がおられるところに私も住み、日の続く限り主の御許に憩いたい。私たちの願いはこれです。
私たちは神を礼拝し、御言葉に聞き、共にパンを裂いて主の聖餐を祝います。主の家に私たちはこのようにして憩う。神を礼拝するために、神を愛するために私たちは生まれました。キリストご自身でいらっしゃる神の言葉、キリストがそのお体を裂いて与えてくださった命のパンによって、私たちは生きています。そうやって私たちは主の家に住むのです。
「命あるかぎり、恵みと慈しみが私を追う。」私を追うのは、悪い何かや私を責めたてる何かではありません。神の恵みが、神の慈しみが私を追ってくださる。主イエス・キリストの憐れみの中に私も生かしていただいている。キリストの平和の内に、私たちは憩うことができるのです。

2024年6月1日土曜日

2024年6月1日の聖句

6月の聖句:
モーセは言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」(出14:13)

今日の聖句:
私は主の前に自分の胸の内を注ぎ出していたのです。(サムエル上1:15)
(女は)背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし初め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。(ルカ7:38)

ハンナという一人の女性が主なる神さまの御前で祈っていました。彼女は自分の胸の内を主に注ぎ出していた。これこそ、祈りです。祈るというのは自分の胸の内を主に注ぎ出すこと。
ハンナが祈っているのを間近で見ていた祭司エリは、情けないことに、彼女が酔っ払っているのだと勘違いしました。エリ自身の信仰生活すらも疑わしくなるような誤解ですが、しかし他方では、祈りについての深い示唆を与えるエピソードでもあります。祈るというのは、他人からよく見えることとか、いかにも敬虔そうに見える営みではないのだと思います。他人から見たら酔っているだけに見えるかもしれない。しかしそこには必死になって、外見なんて気にする余裕もなく、主だけに向かって心を注ぎ出す一人の信仰者がいるのです。
主イエスの足元で泣いていたこの女も同じだったと思います。周りにいた者たちは迷惑がりました。しかし主イエスだけが彼女の思いを知り、受け止めてくださいました。主イエスは彼女の注ぎ出す胸の内を誰よりも深く想ってくださったのです。
今日、私たちも祈りつつ生きていきたいと願います。ただキリストに、ただ神にだけ向かって、私たちの胸の内を注ぎ出して祈る一日を過ごしていきましょう。

2024年6月17日の聖句

新しい歌を主に歌え。まことに主は奇しき業を成し遂げられた。(詩編98:1)  私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。(ヨハネ1:16)   私たちの主を賛美する新しい歌は、主の奇しき業から始まります。主がなしてくださった御業に応えて、私た...