2015年7月12日日曜日
創世記第22章1から19節 「望み得ないのに、なお信じ」
コロンビアやブラジルには私たちの姉妹教会があります。コロンビアで出席したモンテネジョ教会は山間の小さな村にありました。元気な賛美の歌声とダンス、熱心な祈りがささげられていました。さがみ野教会とは礼拝のスタイルがずいぶんと違いましたが、同じカンバーランド長老教会の姉妹教会であることに感動を覚えました。新しい人に出会い、見たことのないものを見るのは、貴重なことです。神さまがここでも御業をなさっているのだと知りました。私たちが今信じて礼拝しているのと同じ神さまです。座閒でも大和でも相模原でも、神の国の福音を宣べ伝えるために、神さまご自身が今日も働いてくださっているのです。神さまがなさることを見る信仰者のまなざしを、神がわたしたちにも開いてくださいますように▼アブラハムに神が彼の愛する独り子、彼の息子のイサクを献げるようにと言われました。イサクが生まれたとき、アブラハムは既に齢100歳を数えていました。大事な跡取り息子です。なぜ、神さまはこのようなことをおっしゃるのか?アブラハムは繰り返し問うたことでしょう。1節には「これらのことの後で、神はアブラハムを試された」と書いてあります。神に試された、試練に遭ったのです。ブラジルでは日本から移民した人たちの話を聞きました。人間として耐えられる限界を超えた試練に遭った方がおられます。子どもを亡くした方もおられます。神さまなぜですかと問う言葉さえ失う出来事であったことと思います。神はアブラハムを試された。何を試されたのでしょうか?自分の信仰のためなら喜んで子どもを犠牲にすることをでしょうか?そうではないと思います。「イサクは言った。『火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。』アブラハムは答えた。『わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。』」アブラハムは神ご自身が焼き尽くす献げ物にする小羊を備えていてくださると信じていました。この「備える」という字は直訳すると「見る」という字です。神が見ていてくださる将来がある、とアブラハムは信じました。自分の目に見える現実はそれに逆らいます。「なぜ?」と問わないわけにはいかないし、神がご覧になっているものは自分の目にはまだ見えません。しかし、神はこの子が生きるべき将来を見ていてくださるとアブラハムは信じたのです。だから、目指す地に着いたとき、彼は息子を手にかけようとさえしました。神がご覧になる将来を信頼し続けたのです▼果たして、神は彼をおとめになりました。この山での出来事を覚えて、「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。」この「備える」も、先ほどと同じく「見る」という字です。神がご覧になる将来を信じる信仰者の姿がここにあります。
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