2023年6月30日金曜日

2023年6月30日の聖句

倒れたら、起き上がらない者がどこにいようか。背いたら、立ち帰らない者がどこにいようか。(エレミヤ8:4)
(使徒たちの主への言葉)私どもの信仰を増してください。(ルカ17:5)

今日の旧約の御言葉は、すぐ後にこのように続きます。「どうして、この民エルサレムは背く者となり、いつまでも背き続けているのか。彼らは欺きに固執して、立ち帰ることを拒む。」普通は、転んだら起き上がるものだ。ところが神の民であるはずの者たちは背いても背きっぱなしで神の御許に立ち帰ろうとしない。これはどうしたことか、と主は言われるのです。そのようなことは不自然だ、あり得ないことだ、という深い嘆きがここにある。転んだらそのまま転びっぱなしになっているように、背きっぱなしになるのはおかしくないか、と主は言われます。
私たちにとっての本当に自然な生き方は、主に立ち帰ることです。主なる神さまの御許から出て行くこと、主に背くことがあたかも自然な生き方であるかのように、この世界では吹聴されています。しかし本当はそうではない。自然なのは神さまに知らん顔することではなくて、神さまに向かって生きることです。主の御許に帰ることです。それなのに、その不自然なことがおきている、と主は言われます。
倒れても倒れたままになっているのは、駄々っ子です。倒れたままで泣き叫んで自分の要求を通そうと駄々をこねる子どものようです。
ところで、今日の新約の御言葉は使徒たちの主イエスへの願いの言葉です。これに対して主イエスはこのようにおっしゃいます。「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『根を抜き、海に植われ』と言えば、言うことを聞くであろう。」ほんの僅かな、からし種一粒ほどで良い、とおっしゃいます。肝心なのは、信じるということ。大きいか小さいかではない。ほんの小さな信仰でもあれば、山のように動かないと思い込んでいる事柄も言うことを聞くようになる。
私たちはついうっかりすると、神に背き、駄々をこねる自分が自然なこと、当たり前のことだと思い込んでしまいます。しかし主イエスはおっしゃいます。からし種一粒ほどの信仰で良い。とにかく私を信じて欲しい、と。その信仰は主ご自身が祈りに応えて与えてくださることでしょう。山をも動かす信仰、私たちの不信仰をも動かす信仰を。キリストの恵みの出来事は、私たちの内にもう始まっているのです。

2023年6月29日木曜日

2023年6月29日の聖句

主は、恐るべき勇士のように、私と共におられます。(エレミヤ20:11)
私を強め、忠実な者とみなしてくださった、私たちの主キリスト・イエスに感謝します。(1テモテ1:12)

私たちの主であるキリスト・イエスは、私たちを強めてくださいます。主にあって私たちは強く、忠実な者になる。
旧約聖書の申命記は、荒れ野での40年の旅の最後にモーセが民に語りかけた説教です。これからヨルダン川を渡って、神が与えると約束してくださったカナンの地に入っていこうとしています。そんなときに、このようなことがありました。今、民がいるのはヨルダン川の東側です。これからヨルダン川を渡り、西岸に入っていく。ところが、イスラエルの民の中のルベン族、ガド族、マナセ族の半分は、ヨルダン川東岸に所有地を与えられることになりました。そうすると、彼らは既にヨルダン東岸で所有地を得ているので、わざわざ西岸に行かなくても、自分たちの生活には不自由しないことになります。自分たちの安住の地は既に得ている。ところがモーセは彼らに言ったのです。「あなたがたの神、主は、あなたがたにこの地を所有させてくださる。すべて勇敢な者たちよ、あなたがたは武装して、同胞であるイスラエルの人々に先立って進んでいかなければならない。(申命記3:18)」ルベン、ガド、マナセの半数の人々に向かって、モーセは、却ってあなたたちこそ先頭に立って戦うべきだ、と言うのです。他の人々が安息にあずかるために、あなたたちが先頭に立って勇敢に戦うのだ、と言います。
信仰には、ある強さが必要です。それは自分が得をするための強さだとか、自分の取り分を増やすための強さだとか、自分を大きく見せたり威張ったりするための強さではありません。他の仲間たちのための強さです。自分ではなく、隣人のための強さです。
神様ご自身、私たちのためにご自身の強さを示してくださいました。「主は、恐るべき勇士のように、私と共におられます。」私たちと共にいてくださるのは、強い方です。私たちは勇気を与えられる。信じる勇気、生きる勇気、共に生きる勇気を。
主イエス・キリストの恵みと祝福が、今日もあなたにありますように!

2023年6月28日水曜日

2023年6月28日の聖句

あなたの慈しみとまことのゆえに、御名に感謝を献げる。あなたは御名と仰せを大いなるものとされた。(詩編138:2)
あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、生ける神の言葉によって新たに生まれたのです。(1ペトロ1:23)

神の言葉を「朽ちない種」と言っています。当然のこととして、「朽ちる種」もあることになる。朽ちる種とは何のことでしょうか?
今日の箇所の少し前に、同じ「朽ちる」という言葉が登場しています。このようにあります。「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、銀や金のような朽ち果てるものによらず、傷も染みもない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」ここでは銀や金について「朽ちる」と言っています。
朽ちる種というのは、銀や金に代表されるような、私たちが価値あるものと思い込んでいるあらゆるものということなのかも知れません。私たちの社会生活は、お金の価値を基準にまわっています。お金が紙くずのように価値のないものとなってしまったら、市民生活がどんなに深刻に損なわれるか、私たちも歴史から学ぶところです。しかし、だからといって、お金に代表される人間の営みやそれが生み出す力が、果たして神さまの御前に力を持つのかといえば、そうではないと聖書は言います。銀や金などやがては朽ちるものに過ぎない。「人は皆草のようで、その栄えはみな草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」
私たちは朽ちることのない種である神の言葉によって生み出されました。私たちは福音を告げる神の言葉によって生み出されました。命を与え、神の国の到来と救いを宣言する神の言葉が私たちを造り出してくださった。この事実は永遠に確かです。永遠に変わることのない、神の言葉の約束だからです。

2023年6月27日火曜日

2023年6月27日の聖句

すべて肉なる者は知るようになる。私が主、あなたの救い主、あなたの贖い主であることを。(イザヤ49:26)
(イエスの言葉)私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。(マタイ28:18~20)

主イエス・キリストご自身の命令です。すべての民に、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けよ、と主は言われます。洗礼は、今ここにおける神の救いので出来事です。洗礼によって私たちはキリストに接ぎ木されます。洗礼によって私たちはもはや外国人でも寄留者でもなく、神の民の一員にされます。洗礼によって私たちは神の家族にされます。洗礼の水によって古い私は死に、今や新しい命に生きている。洗礼によって、私たちはキリスト弟子とされたのです。すべては、キリストのご命令によって始まりました!
洗礼の命令を授けるにあたって、キリストは「私は天と地の一切の権能を授かっている」とおっしゃいました。キリストはご自分が神から授けられた権能に基づいて、私たちに救いを宣言し、その徴として洗礼をお授けになる。
このキリストの権能について、今日与えられている旧約の御言葉ではこのように言っています。「すべて肉なる者は知るようになる。私が主、あなたの救い主、あなたの贖い主であることを。」キリストは私たちの権威ある主、救い主、贖い主。
キリストが権威ある救い主ということは、この救いが何よりも確かだということではないでしょうか。私たちはキリストを信じても救われたのか救われていないのかよく分からない、ということはありえない。キリストの救いは確かです。永遠の神さまの御前での確かな救いです。
改革者マルティン・ルターは、信仰の試練に遭い、揺らぐとき、自分の心に言い聞かせたそうです。「マルティン、お前は洗礼を受けている。お前は洗礼を受けている。」自分自身がどんなに不確かで、揺れ動いてしまうとしても、自分自身がどんなにあやふやだったとしても、洗礼によって付けられた徴は決して消えません。キリストの確かな救いの徴なのです。神の出来事がこの私にも起こっている。私たちはそのことを信じます。自分に授けられた洗礼を思い起こして!

2023年6月26日月曜日

2023年6月26日の聖句

死の陰の谷を歩むとも、私は災いを恐れない。あなたは私と共におられ、あなたの鞭と杖が私を慰める。(詩編23:4)
私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません。(2コリント4:8~9)

今日の新約聖書のコリントの信徒への手紙を書いたのは使徒パウロです。彼は福音を宣べ伝えるために、たくさんの苦難を味わった人です。迫害され、後ろ指さされ、投獄されたり鞭で打たれたりしました。「四方から苦難を受けても」と言っていますが、文字通り、四方から、逃れ場もないような苦難を受け続けていました。
更にキリスト者ではない人から迫害されただけではなく、教会の仲間からもなかなか理解されず、心ない言葉も浴びせられました。パウロはただキリストの恵みだけに集中したので、人間の力の及ぶところを増やしたいと思う人たちからは疎んじられたのです。
四方から苦難を受けていた。しかし、それでもなお「行き詰まらず」と言います。例え途方に暮れることがあっても失望しない。迫害されても見捨てられないし、倒されても滅びない。なぜ、そこまで言うことができたのか。なぜ、途方に暮れてもなお希望を抱くことが出来たのか。それは、主イエス・キリストの命が宝のように私の身においても輝いているから。イエスの命が現れるためなら、私はいくらでも弱くなるし、私の小ささを喜ぼう、とパウロは考えていたのです。
それはちょうど、あの詩編第23編の信仰とぴったりと重なります。「死の陰の谷を歩むとも、私は災いを恐れない。あなたは私と共におられ、あなたの鞭と杖が私を慰める。」神が私の羊飼いでいてくださるから、私には乏しいことがない。例え私が死の陰の谷を行かねばならないときにも、主が共にいてくださるから。それだけが私の慰め。そのように告白します。私たちの信仰です。キリストが共にいてくださる。だから、私は失望しない。私は神を信じ、キリストを仰いで、この時にあっても希望を抱くのです。

2023年6月25日の聖句

今週の聖句:
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカ19:10)

今日の聖句:
預言は定めの時に成就します。たとえ遅くなっても待ち望みなさい。(ハバクク2:3)
それゆえ、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、互いに心から愛し合いなさい。(1ペトロ4:7~8)

預言者ハバククの時代も、今も、信仰の大切なことは同じなのだと、今日の御言葉を読んで思います。「預言は定めの時に成就します。たとえ遅くなっても待ち望みなさい。」ハバククは国が外国に攻められる非常に苦しい時代を生きていたようです。苦しみの時代に救いを待ち望んでいた。「預言は定めの時に成就します。たとえ遅くなっても待ち望みなさい。」必ず救いの時が来る。「たとえ遅くなっても」と言います。苦しみが大きければ大きいほど、救いがなかなか訪れないことは厳しく、辛い試練の時です。しかし、必ず成就する。神がお定めになったときに。だから待ち望もう。預言者ハバククはそのように励まします。
今、私たちは主イエス・キリストが来てくださるのを待ち望んでいます。キリストが来て、私たちを救ってくださるのを待ち望んでいる。キリスト教会はそれを待ち望んで、もうすでに2000年間待っています。しかし、必ず神が定めたときにキリストは来てくださる。私たちは希望を持ってキリストをお待ちしている。
だから、待つ者には待つ者なりの生き方があります。「それゆえ、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、互いに心から愛し合いなさい。」祈り、愛し合う。キリストをお待ちしているからこそ。望みを持って、私たちはキリストを信じます。この時が試練の時であっても、キリストは私たちのところへ来てくださるから。その約束の中で、私たちは今日の一日を歩んでいるのです。

2023年6月24日土曜日

2023年6月24日の聖句

人よ、何が善であるのか。そして、主は何をあなたに求めておられるのか。神の言葉だけを守り、慈しみを愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むことである。(ミカ6:8)
互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。(フィリピ2:5)

今日の新約では「互いにこのことを心がけなさい」と言っていますが、ここだけでは何のことなのかが分かりません。そこで前のところを見てみると、このように書かれています。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。」そして、「互いにこのことを心がけなさい」と続いています。
ユストゥス・ゲゼニウスという人がこのような祈りの言葉を残しているそうです。「どうか私に、あなたが私にしてくださったことを、他の人たちに対して行わせてください。そして私の隣り人を愛し、私利私欲でなく、うわべだけの偽善でなく、あなたが私にお示しくださいましたように、ただ純粋な愛だけによって、喜んですべての人に仕えることを。」
主イエス・キリストが私にしてくださったことを、私にもさせてください。それが私たちの祈りです。キリストの愛の御業。それが私たちのただ一つの出発点です。
「人よ、何が善であるのか。そして、主は何をあなたに求めておられるのか。神の言葉だけを守り、慈しみを愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むことである。」神の言葉ご自身でいらっしゃるキリストが私たちことを考え、注意を払い、へりくだって私たちを愛してくださいました。主イエス・キリストの愛の導きによって、私たちの新しい一日が始まっています。キリストに、賛美。

2023年6月23日金曜日

2023年6月23日の聖句

主はモーセに言われた。「あなたと共にいる民は皆、主の業を見るであろう。」(出エジプト記34:10)
イエスはガリラヤ中を歩き回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒やされた。(マタイ4:23)

主イエス・キリストはガリラヤ中を歩き回り、ご自分の業をなさいました。諸会堂で教え、福音を宣べ伝え、民衆の病を癒やされた。キリストの御業がガリラヤのあらゆるところで進められていった。人々は主の御業を見たのです。
やがて主イエスは天にお帰りになりました。今は、2000年前のあのときと同じ意味では主イエスは地上を歩いてはおられない。主イエスは天に昇り、父なる神の右に座しておられる、と使徒信条は告白しています。それは一方ではさみしく感じることです。どこかに行けば主イエスにお目にかかれて、直接その声を聞き、手に触れることが出来たらどんなにいいことかと思います。しかし、もしも主イエスが今も地上のどこかにおられるとしたら、私たちは主とお目にかかるために飛行機に乗って何日もかけて旅をしなければならないことでしょう。世界中の人が主イエスと会おうとしているでしょうから、順番待ちの予約をしても何年も待たなければならないかも知れません。実際には、主イエスが今地上におられても、直接お目にかかるのは殆ど不可能です。
ところが主イエスは今や天にお帰りになった。そしてご自分の業、主の業を、ご自分の体としてお立てになった教会に預けました。教会は、今、主イエス・キリストの御業を担い、この地でこれを行います。「イエスはガリラヤ中を歩き回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒やされた。」キリストのお体である教会は、今、それぞれのガリラヤで、小さなキリストになって主の御業を行うために歩き回っている。私たちは教会を通して、キリストと出会っています。
私たちが今日する小さな愛の業は、私たちを通して働いてくださるキリストの御業です。キリストが今日も生きて働いてくださっている。私たちの手を、足を、口を、耳を通して!

2023年6月22日木曜日

2023年6月22日の聖句

主よ、私たちとのあなたの契約を心に留めて、それを破らないでください。(エレミヤ14:21)
神は真実な方です。この方によって、あなたがたは神の子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。(1コリント1:9)

「神は真実な方です。」この事実こそが私たちの救いです。神が真実な方でいてくださるから、私たちは救われる。そうであるならば、この神の真実とは一体いかなることなのでしょうか。
「真実」というこの言葉は、人間に使うと「忠実」と翻訳されることの多い言葉です。例えばマタイ25:21では「良い忠実な僕」の忠実という言葉です。この忠実な僕は任されたものに真実をもって誠実に仕えた。そのような僕を、主人は「忠実だ」と言います。
神さまは私たちのために忠実にふるまってくださいます。あまりにももったいない言葉です。しかし事実、神さまはそのようにふるまってくださる。それでは何に忠実なのか?ご自分が私たち人間と結ばれた契約に、ということになろうと思います。「主よ、私たちとのあなたの契約を心に留めて、それを破らないでください。」主なる神さまはご自分の立てた契約に忠実にふるまってくださり、それを破ることなく、私たちを救ってくださるお方です。
聖書は、繰り返し繰り返し、神さまが人と契約を結ばれた、と伝えています。ノアの時代の洪水の後、虹の契約を結ばれた。アブラハムやその子らとの契約。シナイ山でのモーセたち神の民との契約。ダビデ王との契約。・・・そのように、神さまは人と向き合い、契約を結んでこられた。ところが聖書は、私たち人間が神さまとの契約にいかに不誠実であったかを告発します。アブラハムも、モーセと神の民も、ダビデも、誰一人とっても、神さまの御前に忠実を貫いた人はいませんでした。神さまと私たちとの関係は、私たちの忠実さによっては保つことが出来ません。ただただ、神さまが真実な方で、神さまが忠実な方でいてくださるから。ただそれだけの理由で、私たちは神の恵みの契約にあずかって救われたのです。
神ご自身の真実。ただそれだけが私たちの救いです。神が真実な方でいてくださるから私たちは救われた。主イエス・キリストの真実が今日もあなたと共にあります。

2023年6月21日水曜日

2023年6月21日の聖句

心の苦悩から解き放ち、苦難から私を引き出してください。(詩編25:17)
(イエスの言葉)あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。(ヨハネ16:33)

今日与えられている主イエスのお言葉は、私にとっては最愛の聖書の御言葉の一つです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」私たちには世で苦難がある。主イエスはそのことをご存じです。一般的にそういうものだと知っているのではありません。世というのは、苦しいこともあるものだよねという他人事の話でもない。ほかの誰でもなく主イエスさま御自身が世で苦難を味わわれました。主イエス・キリストご自身が、使徒信条の語るとおり、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架にかけられたのです。私のために、あなたのために、キリストは苦しみ、ご自分を献げてくださいました。
だからこそ、キリストは私たちのいちばん側近くにおられて言ってくださいます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」そのキリストが世に勝った。既に。もう既にキリストは世に勝っておられる。私がこの方を苦しめた。私たちがこの方を十字架にかけた。そこに私の罪がある。この世では、苦しめられる者は敗者と見なされます。そうではないでしょうか。一体誰が、この世で惨めな思いをしたいでしょうか。誰が貧しくなりたいと思うでしょうか。一体誰が、自分の願いが蔑ろにされ、人々から侮られ、仲間はずれにされ、後ろ指を指されたいと思うでしょうか。ところが、主イエス・キリストは、そうやって無力になってかけられた十字架の上で、この世に勝っておられるのです。神の愛が十字架の上で勝利した。私たち罪人をそれでもなお愛し、私たちを神の御許に引き上げ、キリストは世に勝利してくださった。私たちの罪に、神の愛が打ち勝ってくださったのです。
だから、私たちは勇気を出します。主イエス・キリストにあって。勇気を持ってキリストを仰ぎ、心を奮い立たせてキリストの愛を信じます。そこに私の救いがある。そこに私の喜びがある。私たちはそのことを信じています。

2023年6月20日火曜日

2023年6月20日の聖句

主はすべてを失った者の祈りを顧み、
その祈りを軽んじられませんでした。(詩編102:18)
何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。(フィリピ4:6)

今日の旧約の御言葉は、本当に慰め深い言葉です。「主はすべてを失った者の祈りを顧み、その祈りを軽んじられませんでした。」これは旧約に書かれている言葉ではありますが、この言葉が本当に余すところなく真実であることが決定的に示されたのは、やはり、主イエス・キリストにおいてではないでしょうか。キリストこそ、私たちのためにすべてを失いました。ご自分の子なる神としての存在、尊厳、ご自分の命までも献げ尽くしてくださいました。御子はすべてのものを手放し、私の罪のために陰府にまでくださった。この方が私たちの祈りを顧みてくださいます。このお方は私たちの拙い祈りを決して軽んじることなく聞いてくださいます。「主はすべてを失った者の祈りを顧み、その祈りを軽んじられませんでした。」私たちはキリストにあって、この詩編の言葉に心から「アーメン」と言います。
だからこそ、私たちにとって祈りは喜びです。神さまに祈ることが出来る、神さまがそれを喜んで受け入れてくださる。その事実は私たちの大きな喜びです。「何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。」キリストに示された憐れみをもって、神が必ず祈りを聞いてくださるから。私たちは思い煩うことなく祈り、神に感謝し、神に自分の求めを打ち明けます。キリストをくださった神さまが、必ず、最もよい答えをくださるのですから。
主イエス・キリストにあって、今日のあなたの祈りの歩みに祝福がありますように!

2023年6月19日月曜日

2023年6月19日の聖句

あなたを捨てる者は皆、恥じ入る。命の水の泉である主を捨てたからだ。(エレミヤ17:13)
(神の言葉)渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。(黙示録21:6)

私たちは本当に幸いなことに、水に不自由しないで済む生活を送っています。それで普段はあまり意識しないで済んでいますが、私たちは水を飲まなければ死んでしまいます。渇けば死んでしまう、脆くて弱い存在です。主イエスさまは十字架の上で「渇く」とおっしゃいました。主イエスさま御自身が、私たちの渇く喉の苦しみを知り、水を求めて呻かれたのです。私たちの弱さを、キリストが負ってくださいました。
そのお方が私たちに言ってくださいます。「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。」渇く私たちに、キリストが飲ませてくださる。渇きを癒やし、私たちの魂を生き返らせてくださる。それがキリストの約束です。
しかも、その水はただの水ではなくて「命の水の泉」から汲み出す水です。今日の旧約の御言葉を手がかりにするなら、この命の水の泉は主ご自身です。主は私たちに命を与えるために、ご自身を命の水として飲ませてくださる。私たちが本当に生きるものとなるために。
主イエス・キリストと出会って、私は癒やされました。私の魂は命を得ました。それは、キリストを信じる私たちの誰もが経験したことではないでしょうか。キリストの愛が、キリストの十字架が、私に命を与えてくださった。キリストの光に照らされて、私は今日も生かされている。
私たちのために差し出されたキリストという命の泉の水である聖書の御言葉が、今日も、私たちの魂を生き返らせてくださっています。

2023年6月18日日曜日

2023年6月18日の聖句

今週の聖句:
すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。(マタイ11:28)

今日の聖句:
天はあなたのもの、地もまたあなたのもの。
世界とそこに満ちるものは、あなたが礎を築いたもの。
北も南もあなたが創造された。(詩編89:12~13)
万物は御子によって、御子のために造られたのです。御子は万物よりも先におられ、万物は御子にあって成り立っています。(コロサイ1:16~17)

この世界は、神がお造りになった世界。しかも、「万物は御子によって」造られた、と言います。御子イエス・キリストによって造られたというのは、天と地、この世界に対する大いなる信頼です。お造りになった神さまへの信頼、しかも御子によって造ったという主イエスへの信頼。御子にあって見せてくださった慈しみと愛に、この世界は満ちている。聖書はそう言い切ります。
更に、万物は「御子のために造られた」と告白しています。人間は、ついつい、この世界は自分たちのためにあると勘違いをします。だから自然環境を平気で破壊してしまうし、弱い立場の人を慮ることなく欲しいがままに自分のものにしてしまう。しかしこの世界は御子のために造られた。言葉を換えれば、この世界とそこにあるものは、神の子の栄光が現れるために存在している。私も、あなたも、この世界も、そこにあるすべてのものも。
このお方は万物に先立っておられ、万物は御子によって成り立っている。私の命の根拠は主イエスさまにある。私たちは、まだ生まれないとき、どこにもいませんでした。無でした。死ねば、肉体だけではなく霊も魂もすべて滅びます。しかしそんな私たちに先立っておられるイエス・キリスト、そして永遠におられる神の御子が御心に留め、滅びから救ってくださる。
私たちの生きているときにも死ぬときにも、決して変わることのないキリストにある神の愛へと、今、私たちは招かれているのです。

2023年6月17日土曜日

2023年6月17日の聖句

神々の神、主は語りかけ、日の出る所から日の沈む所まで、地に呼びかける。(詩編50:1)
神の国は、目に見える形で来るものではありません。「見よ、ここだ」とか、「あそこだ」とか言えるものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。(ルカ17:20~21)

「見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」すごい言葉です。そして、ありがたい言葉です。神の国はあなたがた、即ち私たちのただ中にある!私たちは、神の国を探してどこかの聖地へ巡礼する必要がありません。神の国にたどり着くために高い山に登る必要も、地の果てまで行く必要もない。神の国は私たちのただ中に。
ただし、主イエスは「神の国はあなたの心の中にある」とはおっしゃいませんでした。「あなたがたのただ中に」。神の国はある、私とあなたのただ中に。主イエスは私たちを、独りぼっちで、孤独に救おうとはなさいません。私たちが共に生き、共にキリストを仰ぐそのただ中に神の国を来たらせてくださいます。私たちが一つのキリストの体として共に生きることこそが私たちの救いです。神の国は私たちの間にあるからです。
明日は日曜日です。教会は主の日の礼拝を献げます。「教会」は、ギリシア語ではエクレーシアと言います。「呼び出す」という意味の言葉です。神に呼び出された者たち、神に呼び集められた者たち。その人たちが共同で神を礼拝する。私たちは共に生きることで神の国を生きている。
「神々の神、主は語りかけ、日の出る所から日の沈む所まで、地に呼びかける。」この詩編の言葉で最初に祈った信仰者は、まさか、こんな地の果てで、何千年も経った後に、同じ神さまの語りかけを聞くものがいるだなんて考えてもみなかっただろうと思います。しかし神さまは世界中どこででも、どのようなときにも、私たちに呼びかけてくださいます。神の国を私たちの間にもたらすために、私たちを呼び集めてくださっている。
明日は主の日です。主なる神さまの呼びかけに応えて、私たちは一つの教会として、この地に来た神の国を生きているのです。

2023年6月16日金曜日

2023年6月16日の聖句

今日、主に反逆して主に従うことをやめるなど、絶対にあり得ないことです。(ヨシュア22:29)
ある人たちの習慣に倣って集会をやめたりせず、かえって励まし合いましょう。(ヘブライ10:25)

ヘブライ人への手紙は著者も宛先も分からない手紙です。一つの推測では、アポロという伝道者がローマの教会に送ったものではないか、と考えられているようです。しかも、もともと説教として語った言葉だったのではないかと推測されていると聞きます。本当かどうかは分かりません。もしかしたらそうなのかも知れません。とても魅力的な想像です。
そうだとしたら、私たちにとっては身近な手紙です。ローマはキリスト者にとっては異教社会です。周りには同じ信仰の仲間が殆どいない。キリスト者として生きることに苦労しているマイノリティです。「ある人たちの習慣に倣って集会をやめたりせず、却って励まし合いましょう」という言葉も、そうすると、よく意味が分かります。日曜日にわざわざ時間を割いて礼拝に行くような習慣を持たない社会です。周りには誰もそういう人がいない。礼拝生活に生きることに意味なんて見出してはいない。そういう周囲の習慣に合わせて、礼拝をおろそかにする人が少なくなかったのでしょう。しかし、そうではなくて励まし合いなさい、と言うのです。
私たちにとって、神さまを礼拝して生きることは、かけがえのない宝です。私たちを造り、愛をもって命を与え、私たちのために独り子さえも与えてくださった神さまへの愛に生きるとき、私たちは自分らしく生き始めます。主イエスさまの御許に憩うとき、私たちは本当に安らぎを得る。しかしその幸いに生き続けることには忍耐が必要です。砂をかむような思いで信仰生活を送らねばならないときもあるし、意味が分からなくなってしまうこともあります。だからこそ、神さまは私たちを教会という共同体の一員とすることによって救ってくださいました。私たちには教会という家族が必要です。
今日、この御言葉に聞いている私たち一人ひとりは、キリストのお体、教会の一つの枝です。今、キリストの祝福の内に一日が始まっています。

2023年6月15日木曜日

2023年6月15日の聖句

私は二度と彼らから顔を隠さず、わが霊をイスラエルの家に注ぐーー主なる神の仰せ。(エゼキエル39:29)
この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます。(ローマ8:16)

私は二度と彼らから顔を隠さず!主なる神さまはそう言ってくださいます。神さまは私たちからその御顔を隠そうとはなさらない。それはちょうど、洪水の後に、「この度起こしたようなような、命あるものをすべて討ち滅ぼすことはもう二度としない」とおっしゃったのとよく似ていると思います。神さまは私たちから御顔を隠すことなく、私たちを滅ぼすことはなさらない。なんと深い憐れみ、なんと深い愛でしょう。私たちがどんなに罪に汚れ、神さまをどれほど蔑ろにしているかを誰よりもご存じの方が、それでもなお言ってくださる。「私は二度と彼らから顔を隠さ」ない!
私たちから御顔を隠さない神さまは、私たちにご自分の霊を注ぐとおっしゃいます。神の霊が注がれたときに私たちに何が起こるのか。「この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます。」この霊、神の霊は、私たちが神の子どもであることを証ししてくださる。神の霊、それは私たちを神の子としてくださる霊です。
小さな子どもは親の顔を見ます。何をしていても、時々ふっと振り返って親の顔を見る。そのとき親がこちらを向いていてくれると本当に安心して、また遊び始めます。私たちの父である方、神さまは私たちから御顔を隠すことがない。どんなときにも私たちを見つめておられる。私たちを子として迎えるために。私たちが「父よ」とお呼びして祈るのを待って、私たちを子とするご自分の霊を注いでくださいました。
私たちは神の子です。神が私たちを子としてくださいました。だから、私たちは大丈夫。神さまの御顔の前に生きているのですから。

2023年6月14日水曜日

2023年6月14日の聖句

私の魂は主を誇り、苦しむ人は聞いて喜ぶ。(詩編34:3)
喜びなさい。あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい。主は近いのです。(フィリピ4:4~5)

主イエスさまを信じるとは、どういうことでしょうか。主イエスを信じる。それは、主イエスを愛するということです。イエス様が大好きになることです。何か小難しい理屈を覚えること、立派な善行を積むこと。そういうことも大事なのかも知れませんが、それ以上に、ほかの何よりも、主イエスさまを愛する。そのことをこそ、神さまは私たちに求めておられるのです。
「私の魂は主を誇り」と言います。主なる神さまを誇る私たちの心を、主ご自身が喜んでくださいます。私の神さま、私の主である方、それはイエス・キリスト。私のために弱く貧しい一人の人間になってくださった方です。ただお一人の神ご自身である方が私のために小さな赤ちゃんになってくださいました。弱くて脆い私と同じ者になってくださいました。それだけではありません。私の弱さも労苦も苦しみも悲しみも、すべてを知り、ほかの誰よりも私を憐れんでくださるお方。この方が私を愛してくださった。それでも神を拒み、救いを退ける私の罪がイエスを十字架にかけた。ところが、神はこの方を墓から引き上げ、私たちの救いの初穂にしてくださいました。私たちの救い主はイエス・キリストです。私はこの神を誇る。この方が大好きです。
「私の魂は主を誇り、苦しむ人は聞いて喜ぶ。」苦しむ人の慰め、悲しむ人の救い。このお方の慰めによって、私たちは生きる。だから、私たちはキリストを喜びます。このお方に私の救いがあるから。この愛に満ちたお方が私を救ってくださるから。私のためにも、あなたのためにも、私たちの隣人のためにも。主イエス・キリスト。この尊いお名前によって、私たちの今日一日が始まります。

2023年6月13日火曜日

2023年6月13日の聖句

主よ、あなたが語られたように、あなたの大きな力を現してください。(民数記14:17)
マリアは言った。「神は私に大いなることをしてくださいました。神は力強く、その御名は聖なるものです。」(ルカ1:49)

今朝の新約の御言葉は、天使がマリアのところへ来て彼女の胎に赤ちゃんが宿ることを告げた後、自身ととてもよく似た経験をしたエリサベトのところへ行ったときの賛歌です。「神は私に大いなることをしてくださいました。」それは、彼女から偉大な人、いと高き方の子、神の子がお生まれになることです。この世にまたとない最も大いなること、偉大なことを、神さまはひとりのおとめの身に起こしてくださいました。
マリアに現れた大いなることは、マリアひとりだけには留まりませんでした。マリアから始まった神さまの大いなる御業は、すべての人にまで及ぶほどに大きく、すばらしく、偉大な御業でした。マリアの胎から産まれた子は本当に神の子で、十字架にかけられ、復活し、神の右に座しておられるお方です。このお方の御名によって私たちは救われる。マリアだけではない。私たちすべての者を救う大いなる神の御業がここに始まりました。
だから、マリアは歌います。「神は私に大いなることをしてくださいました。神は力強く、その御名は聖なるものです。」神さまはご自分の聖なるお名前にかけて、私たちのための大いなる御業を行ってくださいました。神さまは、私たち罪人を救うことによってご自分のお名前を聖く保とうとお望みになったというのです。驚くべき言葉です。罪人を罪人ととして罰し、滅ぼすことによって聖さを貫くというのが普通ですが、罪人である私たちのためにご自分の子を与え、十字架の死と復活によって救うことによって聖さを貫かれたのです。
私たちを今日生かしているのは神さまの偉大なる御力。神さまの聖なるお名前。畏るべきその事実によって、私たちは今日神さまの御前で生きるための命を与えられています。

2023年6月12日月曜日

2023年6月12日の聖句

私の悩みと労苦を見て、私のすべての罪を赦してください。(詩編25:18)
言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の正しい人にまさる喜びが天にある。(ルカ15:7)

罪を悔い改める者を、神さまは決して捨てません。主は必ず罪を悔い、悩み、苦しむ者を御許に引き寄せてくださいます。主は憐れみ深いお方だからです。
今朝の新約の御言葉は、失われた羊の譬え話の最後のところです。100匹の羊を持つ羊飼いがいて、その内の一匹を見失ったとすれば、その一匹が見つかるまで探し回る。そして見つかったら、家に帰り、友だちや近所の人々を呼び集めて宴会を開くに違いない、という話です。失われた一匹の姿に託して、「罪人」と主イエスはおっしゃいます。私たちが罪を犯すというのは、あの一匹の羊のように、神さまの前から失われたものになる、ということです。神さまのところからいなくなってしまう。
羊は、迷子になってしまったら、もう自分ではどうすることもできないのではないかと思います。羊飼いに見つけてもらわなければ。悔い改めるというのは、結局のところ、キリストに見つけて頂くということでしかないのではないでしょうか。私たちの深い自己省察や、生き方を改める立派な決心ではなく、それ以前に、キリストが私たちを見つかるまで探してくださり、私たちを見つけ出し、見つけたことを喜んでくださるという、キリストの憐れみに触れること、それこそが悔い改めのすべてではないでしょうか。
「私の悩みと労苦を見て、私のすべての罪を赦してください。」私たちには、自分がしてしまったことのもたらすたくさんのイヤな結果がついて回ります。後悔しても仕切れないことがたくさんあります。しかしそれが神さまの御前に、本当にゆるされないような罪なのだと気づくことが出来るのは、ここまで探しに来てくださったキリストとの出会いによってでしかないのです。キリストに見つけて頂かなくては、私たちはどうすることもできない。そして、キリストはもう既に私たちを見つけ、私たちのところにまで来てくださいました。
今日も、キリストの恵みと祝福によって生かされる一日でありますように。

2023年6月11日日曜日

2023年6月11日の聖句

今週の聖句:
あなたがたに耳を傾ける者は、私に耳を傾け、あなたがたを拒む者は、私を拒むのである。(ルカ10:16a)

今日の聖句:
あなたたちが背き続けてきた主に立ち帰れ。(イザヤ31:6)
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。(1テモテ1:15)

聖書は驚くべきことを言います。
今日の旧約の御言葉、「あなたたちが背き続けてきた主に立ち帰れ。」これは、もしかしたら当然と言えば当然の言葉であるのかもしれません。私たちが神さまに背いたのであれば、神さまから離れてしまったのであれば、その神さまのもとに立ち帰らねばならないというのは、物事の道理だと思います。そして、立ち帰るというのは、やはり行いを改めるとか、神さまを改めて信じるようにするとか、そういうことではないでしょうか。
ところが今日与えられた新約では、そういう理屈に合わないことを言います。「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。」私たちが神さまの御許に立ち帰らなければならないはずなのに、神さまの方が私たちのところへ来てくださった、と言うのです。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」。立ち帰るのは私たちではなく、実際には神さまだった。主イエス・キリストが、神さまの御許にちっとも立ち帰ろうとしない私のところへ来てくださった。キリストが近寄ってきてくださった。聖書はそのように言うのです。
これでは、物事の道理が通らないと思います。背いたのが私であれば、帰るべきは私の方です。それなのに、私たちの主イエス・キリストは、背いた私の方にご自分から来てくださり、救ってくださった。
主イエスさまを信じるという信仰も、あるいは私たちが生き方を改めるというのも、すべてはキリストが来てくださったという事実からしか始まりようがない。キリストの憐れみがすべての出発点です。主イエス・キリストの愛と憐れみによって、私のところへ来てくださった神ご自身によって、私の新しい歩みが始まる。聖書はそのように言います。

2023年6月10日土曜日

2023年6月10日の聖句

私が疲れた魂を潤し、衰えたどの命も満ち足らせる。(エレミヤ31:25)
心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。(マタイ5:3)

私たちが疲れて、更には疲れ切ってしまうとき。もはや命が衰え、どうすることも出来なくなってしまったとき。主なる神さまは私たちの疲れた魂を潤し、衰えた命を満ち足らせてくださいます。主なる神さまが私たちを癒やし、魂を生き返らせてくださいます。主なる神さまのもとに、私たちの命がある。
主イエス・キリストは、その命を、何よりも御言葉によって与えてくださいます。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」これは主イエス・キリストでなければ言うことのできない言葉です。福音の言葉によって、キリストは私たちを生かしてくださる。
心の貧しい人。キリスト者である哲学者、今道友信さんは、この貧しいといいうのは、乞食のように貧しいという意味だと言います。「乞食」という言葉は今では不快語、あるいは差別語として使われなくなりました。そのことに注意を促しつつ、しかしなおそうとしか表現出来ないと言います。無一文で、自分ではもはや生きる術がなく、もらわないとどうしようもない。だから、頂けるものは何でもありがたく頂戴する。自分の魂が実はそれほど貧しく、どうしようもないことを知り、そうであるからこそ頂けるものを待ち望んで、それを感謝して頂くしかない。主イエス・キリストが下さるものを待ち望むしかない。そういう心の貧しい者は幸いだ、と主イエスはおっしゃった。
私たちの魂が飢え、渇き、絶え入りそうなとき、主なる神さまは私たちを癒やし、慰め、守ってくださいます。主が私たちを救ってくださる。私たちはただそれを待ち望み、この方に救いの望みをかけるだけです。主と、その御言葉が私たちに命を与え、私たちを新しく生まれさせてくださる。その恵みと祝福は、今、私たちの前に差し出されています。

2023年6月9日金曜日

2023年6月9日の聖句

あなたの神、主はあなたのために呪いを祝福に代えられた。あなたの神、主は、あなたを愛されたからである。(申命記23:6)
私たちの主の忍耐強さは救いであると考えなさい。(2ペトロ3:15)

主の忍耐強さ。それこそが私たちの救いです。主が私たちのために忍耐してくださったからこそ、主は私をも憐れんでくださり、愛してくださった。それが私のすべてです。
今日の旧約の御言葉はこのように言っています。「あなたの神、主はあなたのために呪いを祝福に代えられた。あなたの神、主は、あなたを愛されたからである。」ここだけだと少し分かりにくいのですが、これはバラムという人がイスラエルの民に呪いをかけようとしたという話が背後にあります。バラムが異邦の王の命令によってイスラエルを呪おうと何度か試みた。しかし、ことごとく失敗した。彼らを呪おうとした呪いはすべて祝福に変えられてしまった。そういう話です。
私たちの生きるこの世界にも、そこかしこに呪いの言葉がはびこっています。人を憎む心から生まれる言葉。本当なら人前で口にすることが許されないような罵詈雑言。自分勝手な心から吐き出されるつぶやき。ほかでもなく自分自身の心の中に、普段は人に見えないようにしていても、そのような呪いの言葉が渦巻いていることを私たちは知っています。
しかし、神さまは私たちの呪いを祝福に代えてくださるお方です。そのために、主なる神さまが深く忍耐して、私たちを救ってくださいました。呪いの中に埋もれ混んでいる私たちを救いだし、祝福の中へと移してくださいました。だから、私たちもまた神の祝福の中に生きている。
私たちの目に見える現実、私たちの心の中にある現実は、悲しく、どうしようもないものでしかない。しかし、神さまはその呪いを祝福に代えることがお出来になる方。そして、実際、深い忍耐を持ってそうしてくださいました。主イエス・キリストが、今や私たちの内に住んでいてくださる。だから、私たちは、私たちの内にも働くキリストの恵みを信じましょう。あなたはもはや呪いではなく祝福の内に生きているのです。

2023年6月8日木曜日

2023年6月8日の聖句

(ボアズのルツへの言葉)あなたがその翼のもとに逃れて来た主から、豊かな報いがあるように。(ルツ2:12)
キリストは来られ、遠く離れているあなたがたにも、また近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせてくださいました。(エフェソ2:17)

ルツはダビデ王から見ると曾祖母に当たる人物です。ルツはユダヤ人ではなく、モアブ人でした。モアブ人とユダヤ人は犬猿の仲、宿敵のような存在でした。ルツは不思議な神さまの導きにあずかってボアズの妻となり、二人の間に産まれた子オベドはエッサイの父となり、エッサイの息子たちの末っ子がダビデと名付けられた。
モアブの女ルツ。ユダヤ人から見ると、恐らく神さまから最も遠いところにいる人ということになったのではないかと思います。しかし、彼女は主の翼の下に逃れてきた。ボアズはそのように言います。確かに遠く離れていたのかも知れない。ところが主なる神さまは、ご自分の御許に逃れてくるものを必ず受け入れ、御許に引き寄せてくださる。豊かな報いがある。
私たちも同じではないでしょうか。私たちも、そもそもは神を知らず、神と関わりなく生きてきた。そんな私たちがご自分の翼の下に逃れてくるのを神さまは受け入れてくださり、母鳥がその雛を守るように私たちを守ってくださいました。だから、私たちは今ここにいるのです。
「キリストは来られ、遠く離れているあなたがたにも、また近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせてくださいました。」主イエス・キリストにあって、もはや遠く離れているものも近くにいるものもありません。誰もが招かれ、誰もが主の御翼の陰で憩うことができる。主イエスさまの守りが今日も豊かにありますように。主なる神さまの御許にある雛のように、神さまの御許で憩う一日でありますように。

2023年6月7日水曜日

2023年6月7日の聖句

あなたがたの神、主があなたがたに命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたがたは生きることができます。(申命記5:33)
これまでに書かれたことはすべて、私たちを教え導くためのものです。それで私たちは、聖書が与える忍耐と慰めによって、希望を持つことができるのです。(ローマ15:4)

聖書の御言葉こそ、私たちに、主イエスさまにある忍耐と慰めを与え、命を与える、神の言葉です。聖書は、とても長い時間をかけて、本当にたくさんのいろいろな人が関わって生み出されてきました。その時代その時代の問いがあり、嘆きや希望があり、悲しみや喜びがありました。神を求め、祈って生きた私たちと同じ信仰者。そんな人々の一つひとつの言葉が結集され、不思議な神さまの導きによって、救い主キリストを証言する書、正典として語り始めました。聖書は私たちに語りかける神さまの御言葉です。
「これまでに書かれたことはすべて、私たちを教え導くためのものです。それで私たちは、聖書が与える忍耐と慰めによって、希望を持つことができるのです。」
私たちは聖書の御言葉によって希望を抱きます。聖書の教えるところに従って生き、私たちは神のものとして生きていく。「あなたがたの神、主があなたがたに命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたがたは生きることができます。」
聖書こそが、私たちの信仰と生活の規範です。聖書が私たちの人生の羅針盤として、生きるべき道を示す。それは、より高度な倫理道徳に適う道ということよりも、むしろ、私たちがキリストと出会い、キリストの愛を知り、私たち自身もキリストを愛するための道です。聖書は私たちを主イエス・キリストと引き合わせる。だからこそ、聖書は私たちに「この道を行け」と語りかけるのです。
今日の私たちの行くべき道が、聖書の御言葉によって照らされますように。主イエス・キリストと共に、そしてキリストに従って、私たちが歩むことができますように。そのために、主の慰めに満ちた御言葉の光が、今日、あなたを照らしてくださいますように。

2023年6月6日火曜日

2023年6月6日の聖句

神である主は、あらゆる野の獣、あらゆる空の鳥を土で形づくり、人のところへ連れて来られた。人はあらゆる家畜、空の鳥、あらゆる野の獣に名を付けられた。(創世記2:19,20)
五羽の雀は二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神の前で忘れられてはいない。(ルカ12:6)

五羽の雀が二アサリオンで売られている。2000年前のパレスチナでごく普通に、どこででも見かける光景だったのでしょう。一アサリオンは、一デナリオンの十六分の一。一デナリオンは労働者一日分の賃金に相当する金額です。二アサリオンは、ですから、大した金額ではありません。それで雀を五羽も買えてしまう。一羽にしたら・・・微々たるものに過ぎない。恐らく、そうやって安く買えることのできる雀を食べて、日々を過ごしていたのでしょう。一羽の雀なんて、可食部分はほとんど無かったと思います。当時の貧しい人の食卓。その食卓に載る一羽の雀さえ神はお忘れになることがない、と主イエスはおっしゃいます。
神は天の父でいてくださる。空を飛ぶ小さな雀も、神がお造りになったものです。神は小さな鳥一羽だって決して忘れることはない。ご自分がお造りになったのですから。神さまのその慈しみから外れてしまうことなんて、あり得ないのです。
主イエスは続けておっしゃいます。「それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れることはない。あなたがたは、たくさんの雀よりも優れた者である。」雀一羽をお忘れにならない神さまが、ましてあなたたちをお忘れになることがあろうか、と主は言われるのです。ありがたい言葉です。ありがたい慈しみです。私たちはこの神さまの父としての慈しみの中で、今日という新しい一日を迎えているのです。

2023年6月5日月曜日

2023年6月5日の聖句

父は子にあなたの真実を知らせる。(イザヤ書38:19)
あなたがたは、このように、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストの内に根を下ろし、その上に建てられ、教えられたとおり信仰によって強められ、溢れるばかりに感謝しなさい。(コロサイ2:6~7)

ここに「キリストにあって歩みなさい」とあります。これは、キリストの内を歩みなさい、という字で表されています。私たちはキリストの内、キリストの中を歩んでいく。それが主イエス・キリストを受け入れた者の歩む道だ、と言います。
キリストを受け入れるというと、自分の心の中にキリストを納めるというような印象を受ける言葉です。ところが聖書はそうは言わないで、キリストを受け入れるというのは、私たちの方がキリストの中に入っていくこと、そしてそこを歩んでいくことだ、と言います。私たちはキリストに受け入れて頂いている。私たちはキリストに受け入れられていることを受け入れる、ということではないでしょうか。
それは、キリストの内に根を下ろして、その上に建てられることでもあります。切り花は数日で枯れてしまいます。鉢植えの花は手入れをすれば長持ちしますが、しかしある限界を持っている。しかし地植えして根を下ろし、しっかりと大地に根を張った植物は強い。私たちはキリストという揺るぎない大地に根を下ろす。水も養分もキリストが下さるし、また、私たちを照らす光もまたキリストご自身に他ならない。更に、それはキリストの上に建てられることです。今度は建物のように、私たちはキリストの上にしっかりと建つ。どんな大嵐や地震が襲ってきても打ち勝つことができるのは、キリストという大地が揺るぎないから。私たちではなくキリストの確かさが私たちを救う。
私たちは、ただキリストに生かされているだけです。キリストの愛が私たちを生かし、私たちを立たせ、私たちを確かにする。だから私たちは今日もキリストの内に歩んでいくのです。

2023年6月4日日曜日

2023年6月4日の聖句

今週の聖句:
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。(2コリント13:13)

今日の聖句:
主は、その歩まれるすべての道で正しく、あらゆる御業において慈しみ深い。(詩編145:17)
あなたがたの間で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を完成してくださると、私は確信しています。(フィリピ1:6)

先週の日曜日はペンテコステでした。ペンテコステの翌週の日曜日は、教会の伝統的な暦では「三位一体の主日」と呼ばれます。三位一体。神さまが父、子、聖霊なる神さまでいらっしゃることを言い表す言葉です。礼拝の最後に告げられる祝福の言葉は、三位一体なる神様の御名による祝福です。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。」三位一体なる方、永遠なるお方の御名によって告げられる祝福。これは、私たちのあり方如何にかかわることのない、神さま御自らの確かさによって与えられる祝福です。
このお方について、今日の御言葉はこのように言います。「あなたがたの間で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を完成してくださると、私は確信しています。」神様ご自身が私たちの間で善い業を始めてくださった。神の子キリストが飼い葉桶に生まれ、十字架にかけられ、復活し、約束の聖霊が送られた。クリスマス、イースター、ペンテコステに起こった一つひとつの善い業が私たちに命を与え、私たちを救ってくださった。この善い業をお始めになった三位一体なる神様は、その御業を必ず完成してくださる。神さま御自らの手で完成してくださる。私たちはそのことを信じています。
神さまの慈しみの中で、今日も私たちは生きていきます。そして、主イエスさまの恵みと祝福をあがめるために、私たちは礼拝へと上って行きます。

2023年6月3日土曜日

2023年6月3日の聖句

あなたの王があなたのところへ来る。彼は正しき者であって、勝利を得る者。へりくだって、ろばに乗ってくる。(ゼカリヤ9:9)
へりくだった人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。(マタイ5:5)

主イエス・キリストは私たちの王として来られました。王が私たちのところへ来られた。私たちは「ホサナ」と叫んでこのお方を迎えた。ホサナ、それは「救ってください」という意味です。王キリストに救いを求め、喜んで王の到来をお迎えした。ところが、その数日後に王である方を十字架にかけた。兵士たちは「ユダヤ人の王、万歳」と言って侮辱し、十字架の罪状書きには「これはユダヤ人の王である」と書かれていました。イエスは「王」として処刑されました。誰もそれを信じることなく、ただイエスを侮辱するためだけに言っていることですが、しかし不思議なことに「王」と呼ばれて殺されたのです。しかし、聖書の御言葉は私たちの思いを超えて成就します。
「あなたの王があなたのところへ来る。彼は正しき者であって、勝利を得る者。へりくだって、ろばに乗ってくる。」
私たちのところへ来られたこの方は、本当に王だったのです。しかも、へりくだった王。ろばに乗る柔和な王です。王イエスの正しさは、へりくだりによって示されました。私たちの知っている世の常では、正しさとへりくだりはしばしば矛盾します。正しい人は優しくないことがよくあります。あるいは、自分の正しさに固執するとへりくだりを忘れてしまうと言うこともできるのかも知れません。しかし、私たちの真の王は正しく、勝利を得、しかもへりくだったお方です。ろばに乗るお姿によってご自分の正しさを示してくださる方。だからこそ、この方は甘んじて十字架におかかりになったのです。王であるご自分に憎しみや悪意を向ける者を蹴散らすことで正しさを貫くのではなく、へりくだることによって、しかも十字架に死に至るまで徹底してへりくだることで、ご自分の正しい王たるお姿を貫いてくださいました。
「へりくだった人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。」この御言葉はほかの誰よりも、まず、主イエス・キリストご自身によって成就しました。へりくだり、全地の王でいらっしゃるお方が、私たちを招いておられます。へりくだりと柔和の道へと。

2023年6月2日金曜日

2023年6月2日の聖句

この場所に私は平和を与えるーー万軍の主の仰せ。(ハガイ2:9)
キリストの平和があなた方の心を支配するようにしなさい。この平和のために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。また、感謝する人になりなさい。(コロサイ3:15)

「この平和のために、あなたがたは召されて一つの体とされたのです。」平和のために、というのは本当にすてきな言葉です。私たちが神さまから招かれて一つの体にされたのは、平和のためです。争うためとか、憎しみ合うためではない。平和のために、私たちは神に招かれた。
しかも、一つの体になるように、私たちは呼び出された。一つの体。もちろん、キリストの体である教会のことでしょう。神さまは私たちによって、今もこの世にキリストのお体をおいていてくださる。これはもともとはコロサイのキリスト者たちに宛てて書かれた手紙。この教会にはいろいろな人がいたようです。「ギリシア人とユダヤ人、割礼のある者とない者、未開の人、スキタイ人、奴隷、自由人」という言葉も登場しています。そのようないろいろな人がいた。そして、この人たちは単にいろいろな人がいると言うだけではなく、利害が対立したり、価値観が衝突したりするような人たちです。しかし、遠くにいる者も近くにいる者も、キリストにあって神が私たちを一つの体にしてくださった。そこに平和が生まれている。
ですので、この平和は「キリストの平和」と呼ばれています。主イエス・キリストが私たちの間を平和にしてくださった。その奇跡を、パウロはここに見ている。キリストの出来事は、私たちが一つのキリストのお体にされているというところに既に始まっている。私たちはキリストの十字架が生み出す平和にあずかっている。
「この場所に私は平和を与える」と、主なる神さまは言われます。平和は神が与えてくださいます。キリストの福音によらなければ得ることのできない平和に、私たちも招かれているのです。

2023年6月1日木曜日

2023年6月1日の聖句

主は死を永遠に呑み込んでくださる。(イザヤ書25:8)
私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、なんとかして死者の中からの復活に達したいのです。(フィリピ3:10~11)

私たちが受け取った福音、そして私たちが宣べ伝える福音は、「主は甦られた」という知らせです。十字架にかけられたキリストは甦られた。だから、十字架もまた救いなのです。キリストは私たちの罪のために十字架にかけられた。それが私たちへの愛のしるしであり、救いの証しであるのは、キリストが死者の中から甦らされたからに他なりません。もしもイエスが十字架にかけられて死んだままだとしたら、私たちの信仰には意味なんてなくなってしまう。それどころか、私たちはありもしない救いを期待する惨めな者に過ぎなくなってしまいます。しかし事実はそうではない。主は甦られたのです。十字架にかけられたキリストは今も生きておられる。だから、十字架のキリストは私たちの救い主であり、私たちの希望です。
キリストの復活の福音は、すべてを新しくします。私たちの苦しみにも悲しみにも、あるいは死にも意味を与えます。「私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、なんとかして死者の中からの復活に達したいのです。」キリストの復活の力によって十字架が救いの徴であるように、私たちも自分の十字架を背負うことには意味がある。私たちはキリストの苦しみにあずかり、その死にあやかるなら、またその復活のお姿にもあずかるのです。
この世界を支配するのは、罪と死と悪の力ではありません。どんなにこの世を覆う悪の力が強くても、どんなに希望が見えない現実が広がっていても、この世界は神さまのものです。神は私たちを救ってくださる。私たちに襲いかかる死の力がどんなに強くても。私たちに絡みつく罪の力がどんなにしぶとくとも。私たちを支配する悪の力がどんなに恐ろしくても。キリストは私たちを必ず救い、神のものとして生かしてくださいます。「主は死を永遠に呑み込んでくださる」からです。

2024年12月13日の聖句

モーセは顔を隠した。神を見るのを恐れたからである。(出エジプト記3:6) イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」彼らが目を上げてみると、イエスの他には誰もいなかった。(マタイ17:7~8) 今日の新約聖書の御言葉は、ある高い山での出来事...