2022年9月30日金曜日

2022年9月30日の聖句

あなたの目には、千年も、昨日のように過ぎ去り、夜回りのひと時ほどです。(詩編90:4)
その慈しみは世々限りなく、主を畏れる者に及びます。(ルカ1:50)

今日の旧約聖書の御言葉の直前にある3節には、このように書かれています。
「人の子らよ、帰れ」とあなたは言い
人を塵に帰らせる。
ここから明らかなとおり、今朝の御言葉は私たち人間の命の短さや儚さに注目する文脈に出てくる言葉です。神さまからご覧になれば、千年といえども過ぎ去った昨日一日ほどのものに過ぎない、いやそれどころか、夜回りのほんのひと時の間のようなもの。それくらいに、神さまからご覧になれば小さな時間に過ぎない。まして私たち人間が生きるわずか100年にも満たない時間など、神さまからご覧になれば何と僅かなことか・・・。そういう告白の言葉です。
神さまは、私たちが生まれる前から神さまです。それどころか、この世界をお造りになった方です。そして私たちが死んだあとも、神さまは変わることがありません。この世界を終わらせるのも、神さまがなさることです。想像も付かないスケールです。そして、私はほんの僅かの時間生きるものに過ぎない。小さな小さな存在です。
しかし、この詩編作者はその小ささを怖がっていません。「あなたの目には」と言っています。神さまの目からご覧になれば、私たちの人生や知りうる歴史など僅かなものに過ぎない。しかしそれを僅かなものとご覧になるのは、慈しみに満ちた神さまです。私たちはどんなに小さくても、儚くても、弱くても、神さまの御手によって命を与えられ、御手の中で生かされ、そして終わりの時を迎えます。神さまの目が私たちを見ていてくださる。だから、私たちは自分の小ささを恐れません。
「その慈しみは世々限りなく、主を畏れる者に及びます。」私たちはほんの一瞬の存在に過ぎない。しかし、神さまは永遠です。神さまの慈しみは世々限りない。この慈しみの中で、今日も私たちは自分のするべき営みを重ねることが許されているのです。

2022年9月29日木曜日

2022年9月29日の聖句

ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこの僕に告げられるのですか。」(ヨシュア5:14)
イエスはひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。(ルカ22:41~43)

ヨシュアはモーセのあとを引き継いで、ヘブライ人たちを約束の地に導いたリーダーです。これからいよいよ約束の地に入っていこうとしたとき、ヨシュアは抜き身の剣を手にした人が自分に向かって立っているのを見ました。ヨシュアは尋ねます。「あなたは私たちの味方か、それとも私たちの敵か。」すると、その人は言いました。「いや、私は主の軍勢の長である。今やって来たのだ。」それで、ヨシュアはひれ伏して言ったのです。「わが主は、何をこの僕に告げられるのですか。」そこでこの人はヨシュアに告げました。「履物を脱ぎなさい。あなたが立っている場所は聖なる所である。」
この人は主の軍勢の長でした。別の言い方をすれば、天の使いです。天の使いがヨシュアに、ここは聖なる場所、神がおられる場所だと告げたというのです。これからヨシュアとヘブライ人たちが入っていく約束の地は、神がおられる所、聖なる場所。神さまの御前でこれからの日々が始まるのだ、と天使は告げました。
私たちの日々も、神さまの御前にあります。神さまの御前に出たとき、ヨシュアはひざまずいて祈りました。私たちプロテスタント教会は、祈りの恰好についてあまり真剣に考えた来なかった嫌いがあるように思います。ヨシュアは顔を地につけて伏し拝みます。そして、主イエス・キリストはひざまずいて祈っておられます。主がゲツセマネで祈っておられる内容と、ひざまずいておられるというお姿とは、切っても切れない関係にあるのではないでしょうか。
私たちも、祈るときの自分の姿に気を払うことは、とても大切であると思います。改革者マルティン・ルターは、朝夕の祈りを具体的に指導した書物の中で、跪いて、あるいは立って祈ることを勧めています。私たちは神さまの御前で祈り、神さまの御前で一日を過ごしていきます。神さまの御前、聖なる場所に生きる者として、(健康や状況の許す中で)私たちも祈り手としての恰好に気を払ってはどうでしょうか。

2022年9月28日水曜日

2022年9月28日の聖句

主がその民を慰め、エルサレムを贖われた。(イザヤ52:9)
闇が過ぎ去り、すでにまことの光が輝いているからです。(1ヨハネ2:8)

何と明るく、希望に満ちた言葉なのでしょう!
主なる神さまは、私たちにまことの光を照らしてくださいました。私たちは自分のいる所は闇の中だと思い込んでいるかも知れません。しかし、それは事実ではないのです。「闇が過ぎ去り、すでにまことの光が輝いているからです。」この「すでに」という小さな言葉が本当に大切な一言です。すでに、まことの光は輝いている!もう、私たちは暗闇の中にいない。光の中にいる。聖書はその事実に気づかせます。
でも、それは、具体的に言ってどういうことなのか?私を包んでいる暗闇に光が輝いているというのはどういうことなのか。聖書にそう書いてあるというのは分かったけれど、実際には何を意味しているのか?
すでにまことの光が輝いている。その光は、主イエス・キリストに他なりません。暗闇そのもののこの世界に、すでに主イエス・キリストという光は訪れて、入ってきてくださった。あの2000年前のクリスマスの日に始まったことです。主が地上を歩いた30年間のことです。主が十字架にかけられたあの日、復活をした三日目のあの日、まことの光がこの暗闇の世界に輝きました。この光は今も消えていない。今も、私たちを照らし続けています。
「主がその民を慰め、エルサレムを贖われた。」この「贖う」という言葉には、家族としての責任を果たすという意味があります。借金で身売りしなければならない家族を買い戻す。もう一度家族として迎える。「贖う」というのはそういう意味です。神さまは私たちの家族として、私たちを買い戻してくださいました。だから、私たちは光の中にいます。私たちは罪の力や暗闇の力に、もはや支配されていません。キリストの光の中に生きています。
今日も、主イエス・キリストの祝福がありますように。心から祈っています。

2022年9月27日火曜日

2022年9月27日の聖句

自分の神を知る者は強くなり、それにふさわしく行動する。(ダニエル11:32)
信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの娘の子と言われるのを拒んだ。(ヘブライ11:24)

モーセはヘブライ人の子でしたが、エジプトで生まれました。彼が生まれたころ、エジプトではヘブライ人の人口が増え、エジプト人たちは脅威を感じるようになってきました。そこでファラオはヘブライ人を奴隷にし、過酷な労働を課しました。しかしヘブライ人はますます増えていく。そこで、ファラオはいよいよヘブライ人を嫌悪し、男児が生まれたらすぐに殺すようにと助産師たちに命じたのです。ところが助産師たちは神を畏れていたのでファラオの命令に背いた。そこで、ファラオは次に全国民に対して、男児が生まれたらナイル川に放り込むように命じた。
そんなときに一人の男児が生まれました。母は生まれたばかりの我が子のかわいくて、川に放り込むことなんてできませんでした。パピルスでかごを作り、葦の茂みに置いた。するとそこへファラオの王女が水浴びに来て赤子を見つけ、不憫に思って自分で引き取って育てたのです。王女はその子にモーセと名前を付けました。こうしてモーセはヘブライ人でありながらエジプトの王女の子として育てられることになったのです。
しかし、やがて成長したモーセはその立場を良しとはしませんでした。「信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの娘の子と言われるのを拒んだ。」なぜか。同胞ヘブライ人たちがエジプト人らに過酷に追い使われているのを目の当たりにしたからです。自分一人がファラオの娘の子として、王宮で安穏と暮らしていることを拒んだのです。しかし、ここはエジプトです。ファラオの娘の子であれば、エジプト中のすべての富みは意のままであり、権力もあり、好き勝手に生きることができます。力のある立場です。ファラオの娘の子と呼ばれるのを拒むというのは、この世の力を手放すということです。モーセはそれらを手放しました。
「自分の神を知る者は強くなり、それにふさわしく行動する。」私たちは、信仰によって、モーセと同じようにこの世の力を手放すことができるのでしょうか。本当に大切なことは何か、本当に私たちの力になるのは何なのか。私たちは静やかな心で識別し、選び取りましょう。主を喜ぶこと、主に依り頼むこと、主を信じることこそ、私たちの力なのです。

2022年9月26日月曜日

2022年9月26日の聖句

私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。主よ、あなたは私の神だからです。(エレミヤ31:18)
イエスはトマスに言う。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)

主イエス・キリストは、トマスにおっしゃいました。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」彼が、自分の指をイエスの手の釘の後に入れなければ、この手を槍で刺されたイエスの脇腹に入れなければ決して信じないと言ったからです。しかも、主イエスは、怒りを込めてこのようにおっしゃったのではありません。トマスがいる部屋に入ってきて、「あなたがたに平和があるように」と言って、その上であのように言ってくださいました。何と深い愛でしょう!何と優しい方でしょう!
そして、主イエスは何と深くへりくだったお方でしょう。トマスの言葉は、とても失礼です。主イエスの手の釘の跡も、脇腹の槍の跡も、トマスや私たちのために負った傷跡です。そこに手を入れなければ信じないだなんて、本当に失礼な言葉です。ところがイエスさまはそれを優しく受け入れ、トマスに手を差し伸べてくださいました。こんなにも優しい主イエスさまが、私たちの神さまなのです。本当にありがたいことです。
「私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。主よ、あなたは私の神だからです。」この祈りの言葉は、私が神さまの御許に帰ることができるとしたら、それはあなたが帰らせてくださるからです、という意味です。私たちは自分の力で神さまのところに帰りうる立派な信仰をもっているのではない。神さまが招いてくださり、神さまが信仰を与えてくださるから、神さまの御許に帰ることが初めてできる。主イエスがトマスの前にご自分の釘打たれた手を差し出すように、神さまは私たちのために帰る道を備えてくださっています。
今日も、私たちの歩む道が神さまの御許へ帰るための道でありますように。祝福を祈ります。

2022年9月25日日曜日

2022年9月25日の聖句

主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。(詩編121:3)
私たちの主イエス・キリストは、あなたがたを最後まで堅く保ってくださいます。(1コリント1:7~8)

神学生のとき、渋沢教会で一年間の研修を受けました。今さがみ野教会で毎週ご一緒に礼拝を献げている浜崎孝先生が当時の牧師でした。礼拝前、奉仕者が集まって祈りを捧げます。そのとき、浜崎先生はよくこのように祈っておられました。「今日もあなた様の寝ずの番をいただいて朝を迎え・・・。」神さまは私たちのために寝ずの番をしてくださっています。主に守られて、私たちは眠りから覚め、朝を迎えます。
出エジプト記には、過越の夜、ヘブライ人たちがエジプトを脱出するために主なる神さまが寝ずの番をしてくださった、と書かれています。「その夜、主は、彼らをエジプトの地から導き出すために、夜通し見張りをされた」(出12:42)。今も、主なる神さまは私たちのための寝ずの番をして、私たちを奴隷の家から導き出してくださっています。
「主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。」まどろむことなく、私たちの足元を守ってくださる方です。私たちの信仰の足はこのお方のお陰でよろけることがありません。いや、よろけて転んでしまったと思うときにも、実は神さまが支えてくださっています。転がった私を抱き起こしてくださいます。そのために、神さまはまどろむことなく、夜通し守っていてくださいます。
「私たちの主イエス・キリストは、あなたがたを最後まで堅く保ってくださいます。」最後まで、という力強い言葉が書かれています。イエスさまは、私たちを堅く保つことを途中で放り出してしまうことがない。最後まで。しかも「堅く」保つというのも、やはりとても力強い言葉です。私たちには恐ろしいことやよろめいてしまうことも起きます。私たちは人間として、とても弱い存在です。しかし、主が味方なら恐れはありません。主が昼も夜も、まどろむことなく守ってくださっています。今日も、主の寝ずの番にあずかって、私たちはこの朝を迎えたのです。

2022年9月24日土曜日

2022年9月24日の聖句

わたしは、ぶどう酒のかすの上によどみつつ、心の中で「主は良いことも、悪いこともしない」と言っている者どもを罰する。(ゼファニヤ1:12)
あなたは、「私は裕福で、満ち足りており、何一つ必要なものはない」と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。そこで、あなたに勧める。豊かになるように、火で精錬された金を私から買うが良い。自分の裸の恥をさらさないように、身にまとう白い衣を買い、また、見えるようになるために目に塗る薬を買うが良い。(黙示録3:17~18)

「心の中で『主は良いことも、悪いこともしない』と言っている者ども」というのは、一言で言って、神さまを嘗めていることに他ならない。自分が何をしたって、神さまはどうせ何もしないし遠くから眺めているだけなのだから、どうだっていい、と嘯いている。あるいは、心の中で神さまを小さく見積もっている。これは預言者ゼファニヤを通して語られた神さまの御言葉です。この預言者は、そうやって神さまを嘗めている人を「ぶどう酒のかすの上によどみつつ」というイメージで表しました。どういうことなのでしょうか。ぶどう酒のかすというのは、実を搾った後に残る皮とか種とか軸など、本来は取り除くべきゴミのことだろうと思います。どうしても入り込んでしまうが、そのまま残してしまうと、せっかく作ったぶどう酒の味が落ちてしまいます。それがよどんでいる。私たちの心の有り様のことなのかも知れません。本当のぶどう酒の価値を損なうかすが残ったままになってしまっている。それが、「どうせ神さまなんて・・・」というつぶやきになって現れているのかも知れません。
そんなとき、実は、私たちは自分自身の姿にも気づけなくなっている、と今日の新約の御言葉はいっています。自分が本当は惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であるのに、十分満ち足りていると満足してしまっている。確かに外面的には本当に裕福です。毎日不自由なく食べられています。しかし、神さまの前に、どうなのでしょうか。
それが見えるようになるために、目に塗る薬を買え、と言っています。ぶどう酒のかすを取り除けということでしょう。しかしそのためには、神様ご自身に取り除いて頂かなくては、どうしようもない。主イエスは、何度も繰り返し、聖霊を受けなさいと弟子たちにお命じになりました。聖霊、それは神様ご自身の霊です。神さまご自身を頂かなくては、私たちは自分で自分を清めること、見えるようになること、かすを除くことができないからです。しかしキリストは、私たちが神のものとして生きるために必要な聖霊を与える、と約束してくださいました。私たちが祈るとき、既に、私たちはその霊にあずかっているのです。

2022年9月23日金曜日

2022年9月23日の聖句

主は、あなたがたをご自分の民とすることを良しとされた。(サムエル上12:22)
あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。(エフェソ2:8)

若いころ、初めて海外を旅行したときに、パスポートを落としてしまったことがありました。米国のアトランタ空港の乗り換えのときに出して、その後、うまくしまえておらずに落としてしまったようです。ローカル線に乗り込んで、いよいよ目的地に着くぞというときに手荷物を確認してみたら・・・中にパスポートが入っていなかったのです!青ざめるというのはああいうことを言うのでしょう。何しろまだ20歳にもなっていない若者の一人旅の最中です。本当に生きた心地がしませんでした。
「主は、あなたがたをご自分の民とすることを良しとされた」と書かれています。ご自分の民。自国民ということです。例えば海外旅行中にパスポートをなくせば、領事館の人はその人のために骨を折ってくださることでしょう。それは、その人が自国民だからです。もっとひどいトラブルに巻き込まれれば、地元警察と協力をして救出のために尽力してくれるのだと思います。彼が自国民だからです。神さまは、私たちをご自分の民としてくださいました。私たちは神さまのもの。それは、神さまが私たちをご自身のものとして守ってくださる、ということです。
私たちはこの世を旅する神の民です。神の国の民です。この旅には困難もありますが、それ以上に大きな喜びがあります。私たちの旅は天の本国を目指す旅だからです。私たちは自分の力によってではなく、神さまの力によって天の国の民にして頂きました。神さまの恵みが私たちを神の国に招き入れているのです。「あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。」
結局、私の落としたパスポートは数日後に見つかりました。私を迎え入れてくださった教会の方が尽力してくださいました。そうです。私は最初から、キリストの教会という一番頼りになるふるさとに守られていたのです。
今日も、あなたに祝福がありますように。

2022年9月22日木曜日

2022年9月22日の聖句

万軍の神、主よ、誰があなたに並びえましょうか。
力強い方、主よ、あなたのまことがあなたを囲みます。(詩編89:9)
私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を知らせてくださいますように。(エフェソ1:17)

今日の新約聖書の御言葉には、このような句が続きます。
「そして、あなたがたが神を深く知ることができ、心の目が照らされ、神の招きによる希望がどのようなものか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、また、私たち信じる者に力強く働く神の力が、どれほど大きなものかを悟ることができますように。」
私たちが神さまを知ることも、神さまが下さる希望を知り、どんなに豊かな恵みをいただくのか、神さまの力がどれほどすばらしく私たちを守ってくださるのかを悟ることも、すべて神さまが下さる啓示の霊によるのだ、と言います。神様ご自身が私たちにご自分の恵み深さを知らせてくださるのだ、というのです。
主イエス・キリストの神、栄光の父。この方を知り、信じ、この方の恵みに生かされるのは本当に幸いなことです。この方は深いまことの愛のお方であり、私たちに命を与え、今日も保ってくださっています。私たちが悪の虜になることのないように、主イエス・キリストを与えてくださいました。
今日の旧約聖書の詩編の御言葉はこのように言っています。「万軍の神、主よ、誰があなたに並びえましょうか。力強い方、主よ、あなたのまことがあなたを囲みます。」ここで特に注目したいのが、「あなたのまことがあなたを囲みます」という言葉です。神様ご自身のまことが、神さまを取り囲んでいる。まことの中に神さまがおられる。神さまはそのまことに満ちた御心を私たちに知らせてくださいました。私たちは神さまの慈しみとまことによって、いつどのようなときにも、神さまのものです。
今日一日の私たちの歩みも、私たちがどこに行こうとも、何をしようとも、キリストが私たちの慈しみ深い神でいてくださいます。だから、今日も、平安の内へと出かけて行きましょう。

2022年9月21日水曜日

2022年9月21日の聖句

主をほめ歌え、主は大いなることをされた。これを全地に知らせよ。(イザヤ12:5)
パウロとバルナバはアンティオキアに到着すると教会の人々を集めて、神が彼らを通じて行われたすべてのことと、諸国の民に信仰の門を開いてくださったことを報告した。(使徒14:27)

今日の新約聖書の御言葉は、パウロとバルナバが宣教旅行から帰ってきたときのことを伝えています。彼らをこの旅に送り出した母教会は、アンティオキア教会。この教会について、使徒言行録は「そこは、二人が今成し遂げた働きをするようにと、神の恵みに委ねられて送り出された所である」と伝えています。パウロとバルナバはこの教会から神の恵みに委ねられて宣教の旅に派遣されました。これは決定的な出来事でした。旧約聖書から始まって、これまでの間、主なる神さまを信じる信仰は基本的にはユダヤ人の信仰でした。ところがキリストは全世界へと福音を宣べ伝えるようにと命じ、遂に教会はその言葉の通り、ユダヤ人ではない人々、つまり異邦人にも福音を伝えた。パウロとバルナバの旅はそのための旅でした。
「パウロとバルナバはアンティオキアに到着すると教会の人々を集めて、神が彼らを通じて行われたすべてのことと、諸国の民に信仰の門を開いてくださったことを報告した。」
今や、諸国の民に信仰の門が開かれたのです。だからこそ、ユダヤから場所も文化も時代も遠く隔たった私たちにまで、福音が届けられました。
「主をほめ歌え、主は大いなることをされた。これを全地に知らせよ。」この詩編は、福音の事実への驚きと喜びです。「主は大いなることをされた。」私たちは、他の一切のありとあらゆること、どのようなことよりも大いなる神さまの御業を仰ぎました。主イエス・キリストの出来事です。これを仰ぎ、賛美し、この福音の事実によって救われるのは、全地に生きるすべての民です。私たちも全地の民の末席に座って神をほめたたえています。
今日、私たちは大いなるキリストの御業を覚えて、神を賛美しましょう。そのとき、私たちは全世界の神の民とつながって、一緒になって神を賛美しています。このような福音から遠く離れたわたしの所にまで、キリストの命の知らせがもたらされたのです。

2022年9月20日火曜日

2022年9月20日の聖句

私は私の僕に霊を授け、彼は諸国民に公正をもたらす。(イザヤ42:1)
あなた方も知っているように、支配者と見なされている人たちは自分の民を隷属させ、強大な者たちが己の力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい人は、皆に仕える者となりなさい。(マルコ10:42~43)

主なる神さまは、ご自分の僕でいらっしゃるイエス・キリストに力を授け、キリストは私たちすべての人々に公正をもたらしてくださいました。公正をもたらす。別の訳し方をすれば、裁きをもたらすとか、正義をもたらすという字が使われています。
私たちもいろいろなニュースや報道で毎日のようにこの世の権力者の不正や犯罪的な行為を知らされます。公正な裁きにかけられることもあれば、逃げおおせてしまうこともあります。あるいは、トカゲの尻尾を切るようにして、一番の問題に届かずに終わっているのかなと感じざるを得ないこともあります。どうしたら公正や裁き、正義がもたらされるのだろうと暗い気持ちになります。そうすると、普通は、もっと法の規制を強化しようとか、警察や検察が厳しく取り締まろうとか、そういうことになると思います。何も権力者の振る舞いだけでなく我々庶民の間でも、最近治安が悪くなったのではないかといったような漠然とした不安感を話すときに、警察の取り締まりの強化ということが考えられるようになる。
それも一定程度必要なことだと思います。しかし私たちが覚えたいのは、主イエスはそれで問題が解決するとはおっしゃっていないということです。キリストは正義や公正をもたらすために何をなさったのかと言えば、徹底して、私たちの僕や奴隷になって仕え抜かれた、ということです。「あなた方も知っているように、支配者と見なされている人たちは自分の民を隷属させ、強大な者たちが己の力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい人は、皆に仕える者となりなさい。」
主イエスのユニークな点は、謙遜に振る舞っていればいつか皆の尊敬を得られますよ、とはおっしゃっていないことです。偉そうに振る舞わず、皆の役に立つことをしていれば、いつか支配者の位置に座ることができる。主はそうおっしゃいません。徹底して仕え抜きました。私たちの前にかがみ込んで足を洗い、僕のまま十字架にかけられました。キリストは私たちの奴隷になり、そうすることによって私たちを悪の支配から自由にしてくださいました。公正を実現したのは、私たちに仕えぬいたキリストです。
私たちには大きな力がありません。もしかしたら、それが仕えるということの本質なのかも知れない。仕えるというのは小さくなることです。しかし私たちがキリストに仕え、隣人に仕えるとき、キリストご自身がお始めになった神の国が私たちの間でも実現しています。私たちはキリストがそうしてくださったように愛に生き、そうすることによってこの世界に神が望んでおられる公正を生み出すことができるのです。

2022年9月19日月曜日

2022年9月19日の聖句

主は不正にあえぐすべての者のために、正義と公正を行う。(詩編103:6)
私を信じる者が、誰も闇の中にとどまることのないように、私は光として世に来た。(ヨハネ12:46)

土曜日にウィリアム・イェン牧師の追悼集会が行われました。ウィリアム先生は香港のシーリン教会の牧師として長く仕えておられました。香港の政情が中国共産党の激しい締め付けによって厳しさを増していく中で、ウィリアム先生は民主化を目指して声を挙げておられた。遂に当局に厳しく監視されることになり、国外に逃れざるを得なくなってしまいました。当初は台湾へ、その後、スコットランドへ。スコットランドで新しく伝道を始めた矢先に新型コロナウイルス感染症で逝去されました。ちょうど一年前のことです。
土曜日の集会では、中国キリスト教史を専門に研究している先生が、ウィリアム先生を巡る香港の社会情勢や当時の教会の動き、そしてウィリアム先生の残した信仰的遺産について話してくださいました。講師の先生は、しきりに、香港は今闇が深まっていると指摘しておられました。表面上は平穏な生活を送れているようであっても、その実、締め付けは厳しい。いつ教会に直接的な介入が行われていくことになるか分からない。「夜は更け、昼が近づいた」というローマの信徒への手紙に書かれている言葉が紹介されました。まさに、今の香港はこの御言葉の通り。夜が更けている。闇が濃くなっている。しかし、昼は近い。キリストがもたらす夜明けを待ち望んでいる。
今日の二つの御言葉は、そういう私たちの世界への希望の言葉です。「主は不正にあえぐすべての者のために、正義と公正を行う。」「私を信じる者が、誰も闇の中にとどまることのないように、私は光として世に来た。」主イエス・キリストの光は、この世界の暗闇がどんなに国、深くても、私たちがその闇の中に留まることのないように確かに照らしてくださっている。私たちはその輝きを待ち望む。キリストは必ず私たちのところに再び来てくださるから。
主イエス・キリストの光を求めて、今日、私たちも祈りましょう。キリストの恵みの光が、あなたに照らされますように。

2022年9月18日日曜日

2022年9月18日の聖句

イスラエルの人々は主の言葉に従って出発し、主の言葉に従って宿営した。(民数記9:18)
言葉であれ行いであれ、あなたがたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。(コロサイ3:17)

エジプトを脱出し、荒れ野を旅する神の民。神さまは彼らの旅路を導くために、昼は雲の柱、夜は火の柱によって行く道を示しました。彼らは出発するのも留まるのも、神に従って決めていたのです。「イスラエルの人々は主の言葉に従って出発し、主の言葉に従って宿営した。」
同じように、私たちの目の前に雲の柱や火の柱がいつでもあったらどんなに分かりやすいことでしょう!しかし神さまは、あのときの神の民になさったのと同じようはしてくださいませんでした。いや、荒れ野の旅路を終えて約束の地に入った後、もはや目の前に雲の柱や火の柱が立つことは二度となかった。神の民は揺籃期を終えて、自分で判断し、自分で神の言葉に静かに耳を傾けて決断する自立期に入った、ということなのだと思います。私たちも、今、目に見える雲の柱や火の柱を目印にするのではなく、当初から聖書に書いてあるとおり、「主の言葉に従って」自分の道を決断します。
ただ、神さまは私たちを野放しになさったのではなく、はっきりとした羅針盤を示してくださいました。「言葉であれ行いであれ、あなたがたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。」私たちはイエス・キリストの御足の後に従って歩んでいきます。今生きておられるキリストは、今日どこに向かっておられるのでしょう。私のこの生活の中、私の行くべき所に、キリストはどのように歩んでおられるのか。私たちはキリストを私の道のヴィジョンとして頂き、この方に従って今日も歩いて行くのです。

2022年9月17日土曜日

2022年9月17日の聖句

正義と公正は王座の礎。
慈しみとまことはあなたの前を進みます。(詩編89:15)
ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着けなさい。(コロサイ3:12)

主イエス・キリスト。この方こそ私たちのまことの王です。「正義と公正は王座の礎」と書かれています。王キリストの座っておられる王座の礎は、正義と公正。キリストという王さまは、正義と公正によって私たちを治める。
それだけではありません。「慈しみとまことはあなたの前を進みます。」これも驚くべき言葉だと思います。多くの場合、私たちの知っている正義と公正は、とても冷たいものになるからです。血の通っていない正義、人の息づかいを失った公正。ところがキリストはそうではありません。「慈しみとまことはあなたの前を進みます。」王キリストにおいては、正義と公正、そして慈しみとまことが矛盾しないのだ、と聖書は言います。
まさに、福音書が伝えるキリストはそういう方です。正義と公正、慈しみとまこと。キリストは余すところなくそれらを示してくださいました。そうであるからこそ、キリストは十字架にかかったのだということに他ならないのではないでしょうか。
このお方の御前で、聖書は私たちに命じます。「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着けなさい。」神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、と言います。キリストの王としての御支配に生きる者として(それは、言い方を変えれば神の国に生きる者として、ということです。)、私たちは深い慈愛、親切、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい、と言います。一言で言えば、キリストのまねをしよう、ということです。私たちはキリストのまねをして生きていく。
野球の好きな息子が、一所懸命に選手のまねをしています。投げるまねや打つまねをします。想像の翼を拡げている。好きで、憧れているからまねしたいのでしょう。私たちも、キリストのまねをしましょう。キリストの正義と公正、慈しみとまことを。私たちの大好きなイエスさまのまねを。神さまは少しずつでも、私たちを本当にキリストに似たものにしてくださるのですから。

2022年9月16日金曜日

2022年9月16日の聖句

私の民は、平和な牧地、安全な家に住むことになる。(イザヤ32:18)
こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。(エフェソ2:19~20)

本当に悲しいことに、今も戦争をしている国があります。当事者になると恐らく分からなくなってしまう、しかし傍から見ているとよく分かることは、両国がまったく違う物語に生きている、ということです。片方の国にはその国の、他方の国にもそちらの国の物語があり、おのおの自分の物語の中で正当性を持ち、自分が正しいと信じている。それは歴史という物語であったり、安全保障という物語であったり、経済という物語であったりします。全部、それぞれ別々の物語を生きている。
それは何も国と国の間だけの話ではありません。個々人の間にもあらゆるところに物語があり、現代では多くの場合、それぞれの物語が対立していて、分断され、対話することもできなくなっているのではないでしょうか。
聖書は言います。「あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民」だ、と。これまではそれぞれ自分だけの物語を生きてきたのかもしれない。そのために孤独であり、敵対し合ってきたのかも知れない。しかし私たちは、この私をも天の国の民としてくださったキリストの物語を生きているではないか、と。キリストが命を献げて私を愛し、罪から救ってくださった。それこそが私たちすべての人に共通する物語であり、私たちはキリストの愛のゆえに一つになることができる。言うまでもないことですが、この場合の「物語」にはフィクションという意味は一切ありません。私たちはキリストのリアルな血によって結ばれた神の家族です。私たちは使徒たちや預言者たち(つまり、聖書)を土台とし、キリスト・イエスご自身が要石となった家(つまり、教会)に住んでいます。私たちはもはや一人ではない。敵対や分断しているのではない。キリストの赦しの愛に結び合わされています。
「私の民は、平和な牧地、安全な家に住むことになる。」キリストの愛が生む平和に、私たちは生かされている。だから、私たちは平和を作り出すものとして生きることができますように、と神さまに祈りつつ、今日の日を生きていきます。

2022年9月15日木曜日

2022年9月15日の聖句

軽率に言葉を操る人は剣のように刺し傷を与える。しかし知恵ある人の舌は癒やしを与える。(箴言12:18)
平和に役立つことや、互いを築き上げるのに役立つことを追い求めようではありませんか。(ローマ14:19)

剣のように刺し傷を与える軽率な言葉。人を癒やす知恵ある言葉。私たちの口に上っている言葉は、どういう言葉なのでしょうか。自分では熟慮して、人のためにと思っていても、実際には全然そうではないということも珍しくないのかも知れません。自分の意図や「つもり」を裏切る言葉が口に上って、気づかぬうちに相手を深く傷つけているかも知れません。そう考えると、とても怖いことです。
できれば平和に役立つ言葉、他者を築き上げる言葉を口にしたいと願います。しかし、実際に自分の口に上っているのは一体どういう言葉なのか。今日の聖書の御言葉は、そのことを深く考えさせるものです。
この問題は私たちの愛の質を問う問いでもあると思います。自分では愛のつもりであっても、実際には自分一人で愛しているつもりになっている過ぎず、とても身勝手な自己愛によって行動しているだけということはないでしょうか。愛に根ざす心から生まれた言葉なのか、利己心に根ざす心から生まれた言葉なのか、それが剣のように刺し傷を与える言葉なのか、癒やしの言葉なのかを決めるのではないかと思います。
そうであるならば、私たちの祈りは、「愛を下さい」ではないでしょうか。隣人を愛する愛を、主よ、私にもお与えください。私たちはそう祈ります。私たちを真実に愛してくださった主イエスさま。この方が与えてくださった愛に私も生きることができますように。キリストの100分の1にもならない、なりようのない私です。しかし、どうか私にも真実に愛に生き、愛の言葉を口にすることができますように、主よ、憐れんでください。
そのように祈りつつ、今日の一日を始めます。

2022年9月14日水曜日

2022年9月14日の聖句

神は語る:あなたが苦難の中で呼ぶと、私はあなたを助け出した。(詩編81:8)
パウロは書く:主は側にいて、私を強めてくださいました。(2テモテ4:17)

今日の二つの御言葉を何度も繰り返し読みながら、一つのことに気づきました。「あなたが苦難の中で呼ぶと、私はあなたを助け出した。」「主は側にいて、私を強めてくださいました。」今日の旧約の御言葉は神さまから私たちへの言葉、そして新約の御言葉は一人の信仰者による言葉です。どちらも、日本語では過去形に翻訳されています。苦難の中で呼び求めるものを助けてくださったことも、主が側にいて私を強めてくださったことも、どちらも既に起きたことです。過去形で語られるべき、今はもうある事実です。私たちは神さまが苦難の中で呼び求める私に答えてくださった、という事実のなかで生きています。私たちは、主が側にいて私を強めてくださったという事実を生きているのです。
今日与えられたこの聖書の御言葉を読んで、私は、自分は本当に忘れっぽいなと思います。神さまが助けてくださったたくさんのこと、神さまが励ましたり強めたりしてくださったことを簡単に忘れてしまう。神さまの恵みを数えるのではなくて、足りないところや不平不満ばかりをいつまでも覚えている。そのように思います。
ですから、どうかあなたの与えてくださった一つひとつの恵みを数えさせ、憶えさせてください、と祈ります。「主は側にいて、私を強めてくださいました」とあります。そうであるからには、神の恵みを覚える信仰をも神様ご自身が与えてくださることでしょう。神さまへの感謝の心も、神様ご自身が備えてくださるに違いありません。だから、神さまがしてくださることへの素直さを胸に、今日の一日を生きていきたいと願います。

2022年9月13日火曜日

2022年9月13日の聖句

主は私の力、ほめ歌、また私の救い。主は私の救いとなられた。(詩編118:14)
どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)

「どうか、希望の神が」と書き始めて、祈願の言葉を記しています。使徒パウロは神さまを希望の神とお呼びしています。神さまは希望の神。これこそ信仰の言葉です。神を信じるとは、神に望みを置くということです。神様にあって希望を抱くということです。
使徒パウロは別の手紙でこのように書いています。「私たちは・・・死にかけているようでいて、こうして生きており、懲らしめを受けているようでいて、殺されず、悲しんでいるようでいて、常に喜び、貧しいようでいて、多くの人を富ませ、何も持たないようでいて、すべてのものを所有しています」(2コリント6:9~10)。
神さまに望みをかけているからこそ生まれる言葉です。死にかけているようでいてとか、悲しんでいるようでいてとか、そういう言葉はすべてパウロ自身のこの時の実際の外面的状況なのでしょう。普通に考えたら希望する要素なんて一つもないような苦しみの中にいる。しかし、パウロは希望を持っています。どのような外見的な状況にもかかわらず私は希望には希望があり、喜んでいて、豊かです。神さまが希望だからです。
そういう喜びから、賛美が生まれます。「主は私の力、ほめ歌、また私の救い。主は私の救いとなられた。」この賛美は平安を生じさせます。聖霊が私たちの内にはたいてくださっています。私たちは神をほめたたえ、神からいただいた希望を喜び、神さまへの祈りと感謝と賛美をもって今日の一日を歩んでいく。そのように、主イエス・キリストにある神の恵みが私たちを今日も立たせてくださいます。我が事として、その事実を信じましょう!

2022年9月12日月曜日

2022年9月12日の聖句

それは私たちが聞いて知っていること。私たちの先祖が語ってくれたこと。それを私たちは息子たちに隠さず語り告げよう。(詩編78:3~4)
ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイ10:8)

主イエス・キリストの福音は、宣べ伝えられることを欲しています。福音そのものが、宣教されることを待っています。聖書が伝える福音の言葉は、今、ここでの言葉として宣言されることを聖書それ自体が求めているのです。
「それは私たちが聞いて知っていること。私たちの先祖が語ってくれたこと。それを私たちは息子たちに隠さず語り告げよう。」
私たちも、福音を聞いて信じました。それを私たちに語り聞かせてくれる人がいたからです。私たちの信仰の祖は、私たちにキリストの福音を聞かせ、語り、私たちの心にキリストの愛を届けてくれたのです。だから、「それを私たちは息子たちに隠さず語り告げよう」と言います。息子にも、娘にも。教会の子どもたちにも。あるいは私たちの家族の子どもたちにも、若い人にも、年を取っている人にも。隣近所の人にも。私たちの周りにいる人たちに福音が伝えられることを福音そのものが待っているし、実は、神さまに造られたすべての人が福音を待っているのではないでしょうか。
「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」私たちは福音をただで受けました。神さまが下さった宝を、何の対価もなく頂きました。私たちも受け取った宝を次の人にバトンタッチします。
今日一日の私たちの歩みが、福音というキリストが下さったこの宝にふさわしいものでありますように。神さまが私たちの歩みを清めてくださって、私たちを通して福音が証言されるものとなりますように。そのために、神さまが私たちに聖霊を送ってくださいますように。
今日一日の祝福を祈っています。

2022年9月11日日曜日

2022年9月11日の聖句

サウルはダビデに言った:自分の敵を見つけたとき、その敵を無事に去らせる者があろうか。お前が今日、私にしてくれたことに対し、主が豊かに報いてくださるであろう。(サムエル上24:20)
誰にも悪をもって悪に報いてはなりません。すべての人に対して善を計らうよう心がけなさい。(ローマ12:17)

サウルはイスラエルの初代国王。そしてダビデにとっては恐るべき敵でもあります。最初はダビデはサウルの臣下でしたが、ダビデがあまりに人望に篤く人気があったのでサウルは次第に嫉妬し、命を付け狙うようになりました。国王としての圧倒的軍事力を持って彼を追跡し、殺そうとしていた。ところがあるときサウル自身の命をダビデが取ることも可能な状況にあったとき、ダビデはサウルを傷つけなかった。その事実に感謝を伸べたのが、今日の言葉です。
「自分の敵を見つけたとき、その敵を無事に去らせる者があろうか。お前が今日、私にしてくれたことに対し、主が豊かに報いてくださるであろう。」
ダビデはまさに悪をもって悪に報いることなく、自分の敵に対しても善を計ったのです。それがダビデの信仰でした。
ハンスーヨアヒム・エックシュタインという人が、このようなことを言ったそうです。「私たちとってはしばしば赦すことは難しいのです。その際私たちにとってそのことが簡単なものになりますように。」私にとって赦すことを容易にさせてください、と祈っています。赦すことのできない心に支配されることなく、赦しの心に生きることができますように、と。
ダビデがサウルを赦したのは、神さまとの関わりからサウルを見つめたからです。私たちと私たちの敵との間にも、神さまがおられます。この方は私たちの人間関係を新しくしてくださいます。今日、9月11日に、そのことを思います。

2022年9月10日土曜日

2022年9月10日の聖句

ダニエルは、屋上の部屋の窓をエルサレムに向かって開いていた。彼は日に三度、ひざまずき、祈り、自分の神に感謝した。(ダニエル6:11)
望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。(ローマ12:12)

キリスト教会に伝わるふるい言葉に「祈りの法、信仰の法」というものがあります。この場合の「法」というのは法律という意味ではなく、「やりかた」といった意味であると思います。どう祈っているかということが、その人がどう信じているかということだ、ということでしょう。私たちはどのように神に祈り、そしてどのように神を信じて毎日過ごしているでしょうか。
ダニエルはエルサレムから遠く離れたペルシアにいます。異なる神々を信じている人たちの中に生きています。私たちと同じような状況です。しかし彼は日夜祈っていました。「ひざまずき、祈り、神に感謝」して過ごしていました。この姿勢が、ダニエルの信仰そのものでした。
今日私たちに与えられている新約聖書の御言葉でも、このように命じています。「望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。」「ひたすら祈りなさい」と言います。その祈りは、望みを抱く喜びであり、苦難への忍耐です。喜びと忍耐を祈りにおいて発揮し、神さまに向かって私たちの「今」を、「今日この日」を献げて、祈りの内に朝や昼や夜を迎えていく。ダニエルも、今朝のローマの信徒への手紙を書いた使徒パウロも、そのように祈り、信じていました。これまで神を信じる無数の信仰者たちが、そのように祈ってきました。私たちの周りに、神を信じる幸いの証人として立っています。
今日、私たちも祈りましょう。祈りつつ一日を過ごしていきましょう。私たちの祈りを神は聞いてくださいます。その祈りが立派な言葉にならなくても、呻きであっても、神は耳を傾けてくださいます。祈りという最高の幸せに、神は私たちを招いてくださっています。

2022年9月9日金曜日

2022年9月9日の聖句

主よ、私を癒やしてください。そうすれば私は癒やされます。私を救ってください。そうすれば私は救われます。(エレミヤ17:14)
医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マルコ2:17)

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」というと、いかにも当たり前のことを言っているように感じます。ところが続く言葉によって、まったく当たり前ではない、新しい言葉に変貌します。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」これは、本当にたいへんな言葉です。罪人というのは、考えられるかぎりで社会の中で一番見下げられている人、というイメージだと思います。しかしただ単に「嫌われ者」と書いてあるのではなくて、ここでは特に「罪人」と呼ばれています。これは、神さまとの間が安らかではなくなってしまっている、ということです。神さまが招いているのは、神さまに対して罪を犯し、人からも見下げられている人だ、と主イエスは言っておられるのです。
失われた息子は、父を捨てて、父のもとを離れてしまったから、遂には豚飼いにまで身をやつしてしまいました。(ユダヤ人にとって豚は汚れた動物ですので、私たちにとっての豚飼いとは意味が違います。豚飼いになったというのはユダヤ人、神の民であることを放棄したという意味になります。)この息子は放蕩をして道徳的に悪かったから悲惨なのではなく、この譬え話に登場する父、つまり神さまを捨てたから、神さまの前で失われてしまった。惨めな彼を助けてくれる人はいませんでした。ただ父だけが彼を愛し続け、彼を迎えてくれました。
「主よ、私を癒やしてください。そうすれば私は癒やされます。私を救ってください。そうすれば私は救われます。」神さま以外に、一体誰が私を癒やし、救ってくださるのでしょうか。私は神さまを離れてしまったから、今惨めなのです。その惨めさは神様ご自身が癒やし、救ってくださいます。私たちがどんなに駄目でも、どんなに嫌われ者でも、どんなに神さまを深く傷つけたのだとしても、神さまはそれでも私を見捨てずに、愛してくださっています。
キリストは病人を癒やす医者として来てくださいました。罪に病む私を癒やし、救うために、キリストは来てくださったのです。

2022年9月8日木曜日

2022年9月8日の聖句

見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。(マラキ3:1)
それからすぐに、霊はイエスを荒れ野へ追いやった。イエスは40日間荒れ野にいて、サタンの試みを受け、また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。(マルコ1:12~13)

40日間荒れ野にとどまり、誘惑を受けておられた主イエス。そこには野獣もいました。そして、天使たちがイエスに仕えていた、と聖書は伝えています。不思議な書き方です。天使たちが仕えていたのなら、40日も断食などせず、天使が食べ物を運んでくれれば良かったのに。
不思議と言えば、もう一つ不思議なことがあります。今日は12節からですが、11節を見ると、洗礼を受けたイエスさまに天から神さまの声が響きました。「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言います。そして、12節はこう続きます。「それからすぐに、霊はイエスを荒れ野へ追いやった。」この「霊」というのは聖霊、つまり神様ご自身の霊です。主イエスは神さまが「あなたは私の愛する子」と言われた言葉を聞いて、それからすぐに同じ神さまご自身の霊に追いやられて荒れ野へ行きました。どうして、神さまはご自分の愛する子を荒れ野へ追いやるのでしょうか。
主イエスが荒れ野で40日間も過ごしたことも、そもそも神さまによって荒れ野へ追いやられたことも、それが神の愛する子としての救い主の振る舞いだったということだと思います。そうでなければ私たちが救われないから。なぜなら、私たちが生きるこの世界がまさに荒れ野の様相を呈しているからです。
神さまは、荒れ野に生きるキリストのために天使を遣わします。旧約聖書でもすでに「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える」と言われています。私たちも、キリストに仕えて、この荒れ野の世界で生きています。キリストが救い主としての御業をなし、その御業にこの世界の人々を与らせるために、私たちの手を天使の手として欲しておられます。
今日、私たちがなすこと、語る言葉、それらはキリストに清められて、キリストに仕える天使のわざとして用いられます。キリストのための天使として、私たちは今日も遣わされます。

2022年9月7日水曜日

2022年9月7日の聖句

万軍の主よ、あなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。(詩編84:2)
二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。(マタイ18:20)

今日、この二つの御言葉が一緒に与えられているというのは、すばらしいことだと思います。主なる神さまのお住まい。その場所を慕い求め、憧れるような旧約聖書の言葉が書かれています。恐らく具体的には、旧約の時代ですからエルサレムの神殿ことを思っていたのでしょう。神殿、それは皆が集まって礼拝を献げ、祈りを捧げるための場所です。
この神殿はソロモンが建築しました。何年もかけて神殿を造り、これを神さまに献げるときに彼は祈りました。「神は果たして地上に住まわれるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。」「夜も昼も、この神殿に目を向けてください。ここは、あなたが、『そこに私の名を置く』と仰せになった所です。あなたの僕がこの所に向かって献げる祈りを聞き入れてください」(列王記上8:27,29)。
神さまを「神殿」という建物の中に閉じ込めることはできません。どんなに立派な像でも、神秘的な祭具でも、樹齢が高い木や大きな岩であっても、物を神さまに見立てて人間の手に収めることなどできません。神さまがこの天も地もお造りになったのであって、人間が神を造ったのではない。そうであれば、私たちが神さまに何か適当な家をあつらえることなんて不可能です。しかし、この神殿は神さまがご自分の名を置くと言ってくださった場所です。ソロモンはそのように祈ります。ですから、どうかこの所での、あるいはこの所に向かう私たちの祈りにあなたの耳を傾けてください。
このソロモンの祈りも深い信仰から生まれており、そのことに驚くばかりですが、しかし主イエスはもっとはっきりとおっしゃいました。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」神さまはある特定の場所をご自分の住まいとなさるのではなく、神を信じ、共に祈る者の交わりの中におられる、と。神は私たちの間にいてくださる。私たち神を信じて祈る者の間にご自身の御名前を置いてくださる。
ですから、私たちは独りぼっちで祈るのではなく、心を合わせて共に祈ります。一つの思いになって、一つのキリストの体として神を礼拝します。今日一日の私たちの歩みも、教会というキリストの体の一部分としての一日です。私たちは、孤独ではないのです。

2022年9月6日火曜日

2022年9月6日の聖句

憐れみと赦しは私たちの神、主にあります。(ダニエル9:9)
徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄ってきた。(ルカ15:1)

主イエスさまの側に近づく人々。彼らは徴税人や罪人でした。徴税人は租税の仕事をしていました。しかし今の税務署の職員とはずいぶん違う存在でした。今でも税を集める人は憎まれ役ではありますが、この時代の調整人は不正を働くことが半ば公然と認められていた。現代のイメージでいえば、ヤクザか何かに近いと思います。みかじめ料のように、どんなに不当でも彼らの言うままに従うしかない。ですから徴税人は町一番の鼻つまみ者です。それに、ここには「罪人」と呼ばれる人たちもいます。何らかの理由で律法を守って生きることのできない人たち。具体的にどういう人なのかは書かれていません。恐らく、病人や娼婦たちも含まれていたのではないかと思います。「罪人」と呼ばれる人たちは被差別民、あるいは賤民と見なされていました。
しかし、主イエスは徴税人や罪人のところへ行き、彼らと食卓を囲み、親しく福音を語りかけました。だから、彼らは主イエスのもとへ近寄ってきます。イエスの話を聞くために、イエスの口から語られる福音を聞くために。ここにいる徴税人や罪人たちは、私たちのことです。私たちもキリストの口から語られる御言葉を聞くために、主の御側に近寄ります。罪の赦しを告げるキリストの福音を聞かなくては、私たちは生きることができないからです。
「憐れみと赦しは私たちの神、主にあります。」主イエス・キリスト、このお方こそ、神の憐れみと赦しそのものです。イエスさまの側に行けば神さまの憐れみと赦しについて聞けるというのではなくて、キリストこそが神の憐れみと赦しそのものです。私たちはキリストと出会い、このお方によって神の愛を知るのです。
ですから今日、新しい思いをもってキリストに近寄りましょう。このお方の御言葉に耳を傾け、キリストの言葉を思い起こしながら一日を過ごしましょう。ここにこそ、私たちを救う神の愛があるのです。

2022年9月5日月曜日

2022年9月5日の聖句

母親が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。たとえ、母親たちが忘れても、私たちはあなたを忘れない。(イザヤ49:15)
だから、私たちは、はばからずにこう言うことができます。「主は私の助け。私は恐れない。」(ヘブライ13:6)

「母親が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。」絶対にそのようなことはあり得ない。決してあり得ない。そういう答えが続く問いです。母親は決して自分の乳飲み子を忘れない。自分の胎内の子を憐れまないことなど、決してあり得ない。
私はここで「憐れまずにいられようか」と、「いられない」という表現を使っていることが特に心に残りました。そうせずにはいられない。憐れまないわけにはいかない。もうそれは理屈ではない、ということでしょう。
しかし私たちは、他方では、親の愛が絶対ではないということも知っています。母であろうとも、ほんの僅か一瞬であっても我が子を忘れ、胎の子よりも自分を優先してしまうことだって起きるかも知れません。新聞やニュースでそういう事件を見聞きすることもあるし、自分自身のこととして省みたときに、どのようなときにも親としての愛を優先したとは言い切れないかも知れない。
ところが神さまは言われます。「たとえ、母親たちが忘れても、私たちはあなたを忘れない。」神さまは何があっても、絶対に私たちをお忘れになることがない。例え母の愛が有限であったとしても、それでも神さまの愛は無限で絶対であり続ける。神さまが私たちへの憐れみを控えることは、どのようなときにも決してない。
神さまは、独り子をお与えになるほどに私たちを愛してくださいました。神さまの愛はどのようなときにも確かです。キリスト・イエスによって示された神の愛から私たちを引き離すものは、何一つないのです。
だから、私たちは、はばからずにこう言うことができます。「主は私の助け。私は恐れない。」この言葉を口ずさんで、今日の一日の歩みに出て行きましょう。どのようなときにも主は私の助けてでいてくださる。私には何も恐れることはない。御言葉の通り、今日も神さまの守りがあなたにありますように。

2022年9月4日日曜日

2022年9月4日の聖句

主よ、あなたは離れないでください。
私の力よ、早く助けに来てください。(詩編22:20)
私たちは、神が私たちに耳を傾けてくださることを知っています。(1ヨハネ5:15)

日本にも古来たくさんの詩がありますが、それらの多くは花鳥風月や人の心を歌ったものが多いのではないかと思います。しかし聖書の詩編はそれとは少し違い、どれも、神さまへの祈りの言葉です。聖書の詩編は祈祷集です。私たちはこの言葉を自分自身の祈りとして祈ることができる。詩編は、そういう言葉です。
「主よ、あなたは離れないでください。私の力よ、早く助けに来てください。」まさに、これは私たちの祈りではないでしょうか。神さま、離れないでください。私と一緒にいてください。どうか早く助けてください。そのように祈りながら、神さまを「私の力よ」とお呼びしています。私の力は、神さま。他の、この世で力と思われているものを自分の力とするのではなく、ただ神様を力と依り頼む。だからこそ、この祈りは切実です。「主よ、あなたは離れないでください。私の力よ、早く助けに来てください。」
詩編を自分の祈りとして献げると、自分でも気づかなかった自分の心に気づきます。詩編は偉大なる魂への配慮者です。私は、本当は孤独でした。本当は助けを必要としていました。これは神さまにしか埋めることのできない穴です。他の力では、ますますむなしくなるだけです。ですから神さま、私の力よ、早く助けに来てください!
このように祈る者を、神さまがお見捨てになることは決してありません。「私たちは、神が私たちに耳を傾けてくださることを知っています。」必ず神さまは私たちの祈りに耳を傾けてくださり、私たちを救ってくださいます。そのことを信じて、私たちは今日も祈ります。どうぞ、祈りの言葉が見つからないときは詩編を開いてください。そこには祈りの宝があふれています。神さまは必ず、私たちの祈りを聞いて私たちと共にいて、私たちを助けてくださいます。

2022年9月3日土曜日

2022年9月3日の聖句

隠されたことは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、とこしえに私たちとその子孫のものである。(申命記29:28)
イエスは祈る:私は彼らに御名を知らせました。また、これらからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。(ヨハネ17:26)

私たちには、私たちに起こるすべての出来事の意味を知ることができません。どうしてこのようなことになるのか分からないこと、この出来事にどういう意味があるのか計り知れないことがたくさんあります。自分を納得させようとして何らかの意味づけをしても、心の中でどこか消化できない気持ちを抱えたままになってしまうことも、あるのではないでしょうか。
聖書は言います。「隠されたことは、私たちの神、主のものである。」だから私たちには分からないことがあっても大丈夫だということです。私たちはすべてを知って、差配し、計算し、納得できないと人生を支配できない、ということではありません。私たちには、自分自身に起こる出来事であっても自分の手には余ること、神さまの領域に属することがある。そして、私たちに起こるすべてのことについて、神さまが責任を負っていてくださるのです。
むしろ私たちは自分に隠されたことに悩むよりも、明らかにされたことに誠実であることが大事なのです。「現されたことは、とこしえに私たちとその子孫のものである。」神さまが現してくださった事について私たちが与えられた責任を全うするために、神さまは必要なものをすべて備えてくださっています。
そしてキリストが私たちに啓き示してくださった究極の秘儀は、神様ご自身のことです。「私は彼らに御名を知らせました。また、これらからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。」神さまの愛に満ちたお名前、主イエス・キリストの父なる神様というお名前を私たちは知り、神さまからあふれる恵みを知らされました。だから、大丈夫です。私たちに分からないことはたくさんあるけれど、しかし目に見えるものも見えないものも、すべてのものを愛を込めてお造りになった主イエス・キリストの父なる神さまの御手の内に、私たちはいるのですから。

2022年9月2日金曜日

2022年9月2日の聖句

神が私たちを祝福してくださり、地の果てのすべての者が、神を畏れますように。(詩編67:8)
私たちの主、また神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、万物はあなたの御心によって存在し、また造られたからです。(黙示録4:11)

主イエス・キリストはご自分の弟子たちに祈りを教えてくださいました。中でも今日思い出したいのは、「御国を来たらせたまえ」という祈りです。神さま、あなたの御国が来ますように。神の国が来ますように。私たちはキリストに促されて、そのように祈ります。御国を来たらせたまえ!
神の国が来る。それは、キリストの救いが来るということです。神さまはすべての者の造り主です。この世界にあるすべてのもの、すべての命、すべての人間の造り主。神さまが私たちを形づくり、ご自分の命の息を私たちの鼻に吹き入れて、私たちは生きるものになりました。「万物はあなたの御心によって存在し、また造られた」と賛美される方です。
だから、神の国という救いは、神さまがお造りになったすべての人、すべての命、すべてのものに及ぶ救いです。私たちも、この世界も、すべての造られたものも、神さまの国が来ること、救いが実現することを待ち望んで、今呻いています。呻きながら、救いのときを待ち望んでいます。
「神が私たちを祝福してくださり、地の果てのすべての者が、神を畏れますように。」すべての人を救う神の愛が私たちにもたらされています。私たちは、私たちを造り、命を与えてくださった神さまを礼拝することこそが最高のしあわせだからです。悲しみの日の慰めであり、疲れ果てたときに再び翼を張って昇るための励ましだからです。
主なる神さまに、栄光と誉れが世々限りなくありますように。アーメン。

2022年9月1日木曜日

2022年9月1日の聖句

私があなたを呼び求めるとき、あなたはそばに来て、「恐れるな」と言われました。(哀歌3:57)
求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。(ヨハネ16:24)

「求めなさい。そうすれば受けます」と主イエスは言われます。他の福音書でも、「求めなさい、そうすれば与えられる」と主イエスはおっしゃっています。こういう言葉を聞くと、少し、私の心はうずきます。祈っても、その通りになるとは限らない・・・という、信仰者であれば誰でも経験する事実が立ちはだかるからです。
しかし他方では、何でも一所懸命に願えば私たちの望むとおりになるとか、たくさんの献金をすれば願いが叶うとか、そういうふうに聖書が教えていないということは、私たちの信仰の本質にかかわる大切なことだと思います。なぜなら、神さまは主イエス・キリストというお方においてご自身を現してくださいました。キリストは神様のご身分にありながらご自身をむなしくして、僕である人間の姿をとってくださいました。十字架にかけられるまで、徹底してへりくだりを貫いてくださいました。神さまがお示しになった栄光や豊かさは、十字架のキリストと、キリストの復活によって示されました。それなのに、この方に救って頂いた私が世のうらやむ御利益を楽しむというのは、どこか違っていたのかも知れません。
「求めなさい。そうすれば受けます」と言ったとき、主イエスはこの直前で「私の名によって祈りなさい」とおっしゃいました。私たちは十字架にかけられた方のお名前で神さまに祈ります。キリストのお名前で何事であっても神さまに祈るとき、私たちは喜びで満たされます。神さまは最も尊いこと、キリストに示された神の愛に最も適うことをしてくださると信じているからです。
「私があなたを呼び求めるとき、あなたはそばに来て、「恐れるな」と言われました。」今日の旧約聖書のこの言葉は、哀歌の一節です。社会の崩壊の中での悲しみの言葉です。しかし絶望の中で、神がそばに来て「恐れるな」と言ってくださっていることを知ったのです。ここに望みがある。私たちの希望はこのお方にある。私たちはそのことを、他ならぬ祈りによって確信するのです。

2024年12月13日の聖句

モーセは顔を隠した。神を見るのを恐れたからである。(出エジプト記3:6) イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」彼らが目を上げてみると、イエスの他には誰もいなかった。(マタイ17:7~8) 今日の新約聖書の御言葉は、ある高い山での出来事...