あなたの目には、千年も、昨日のように過ぎ去り、夜回りのひと時ほどです。(詩編90:4)
その慈しみは世々限りなく、主を畏れる者に及びます。(ルカ1:50)
今日の旧約聖書の御言葉の直前にある3節には、このように書かれています。
「人の子らよ、帰れ」とあなたは言い
人を塵に帰らせる。
ここから明らかなとおり、今朝の御言葉は私たち人間の命の短さや儚さに注目する文脈に出てくる言葉です。神さまからご覧になれば、千年といえども過ぎ去った昨日一日ほどのものに過ぎない、いやそれどころか、夜回りのほんのひと時の間のようなもの。それくらいに、神さまからご覧になれば小さな時間に過ぎない。まして私たち人間が生きるわずか100年にも満たない時間など、神さまからご覧になれば何と僅かなことか・・・。そういう告白の言葉です。
神さまは、私たちが生まれる前から神さまです。それどころか、この世界をお造りになった方です。そして私たちが死んだあとも、神さまは変わることがありません。この世界を終わらせるのも、神さまがなさることです。想像も付かないスケールです。そして、私はほんの僅かの時間生きるものに過ぎない。小さな小さな存在です。
しかし、この詩編作者はその小ささを怖がっていません。「あなたの目には」と言っています。神さまの目からご覧になれば、私たちの人生や知りうる歴史など僅かなものに過ぎない。しかしそれを僅かなものとご覧になるのは、慈しみに満ちた神さまです。私たちはどんなに小さくても、儚くても、弱くても、神さまの御手によって命を与えられ、御手の中で生かされ、そして終わりの時を迎えます。神さまの目が私たちを見ていてくださる。だから、私たちは自分の小ささを恐れません。
「その慈しみは世々限りなく、主を畏れる者に及びます。」私たちはほんの一瞬の存在に過ぎない。しかし、神さまは永遠です。神さまの慈しみは世々限りない。この慈しみの中で、今日も私たちは自分のするべき営みを重ねることが許されているのです。
その慈しみは世々限りなく、主を畏れる者に及びます。(ルカ1:50)
今日の旧約聖書の御言葉の直前にある3節には、このように書かれています。
「人の子らよ、帰れ」とあなたは言い
人を塵に帰らせる。
ここから明らかなとおり、今朝の御言葉は私たち人間の命の短さや儚さに注目する文脈に出てくる言葉です。神さまからご覧になれば、千年といえども過ぎ去った昨日一日ほどのものに過ぎない、いやそれどころか、夜回りのほんのひと時の間のようなもの。それくらいに、神さまからご覧になれば小さな時間に過ぎない。まして私たち人間が生きるわずか100年にも満たない時間など、神さまからご覧になれば何と僅かなことか・・・。そういう告白の言葉です。
神さまは、私たちが生まれる前から神さまです。それどころか、この世界をお造りになった方です。そして私たちが死んだあとも、神さまは変わることがありません。この世界を終わらせるのも、神さまがなさることです。想像も付かないスケールです。そして、私はほんの僅かの時間生きるものに過ぎない。小さな小さな存在です。
しかし、この詩編作者はその小ささを怖がっていません。「あなたの目には」と言っています。神さまの目からご覧になれば、私たちの人生や知りうる歴史など僅かなものに過ぎない。しかしそれを僅かなものとご覧になるのは、慈しみに満ちた神さまです。私たちはどんなに小さくても、儚くても、弱くても、神さまの御手によって命を与えられ、御手の中で生かされ、そして終わりの時を迎えます。神さまの目が私たちを見ていてくださる。だから、私たちは自分の小ささを恐れません。
「その慈しみは世々限りなく、主を畏れる者に及びます。」私たちはほんの一瞬の存在に過ぎない。しかし、神さまは永遠です。神さまの慈しみは世々限りない。この慈しみの中で、今日も私たちは自分のするべき営みを重ねることが許されているのです。