正月を迎えると、家族と過ごしたり、家族を思ったりする機会が増えるかもしれません。そんな時には、7節の言葉を思い出したいと思います。「人はそれぞれ神から賜物をいただいている」。私たちの家庭生活は、夫婦でも親子でも、一人であっても、それぞれに神から与えられた賜物です。賜物という言葉は、もともとはギリシア語で「カリスマ」という字です。カリスマ美容師とかカリスマ店員とか言ったりもします。特別な才能や個性を持った人といった意味で使われているのでしょうか。しかしもともとカリスマというのは、贈り物という意味です。私たちの家庭生活は、神が下さった贈り物、カリスマ。それが、私たちの生きる毎日の生活を考える上での、一番大切なことではないでしょうか。
家庭生活のことは、その当事者でなければ分かりません。特に夫婦のことは、一番近くにいる子どもにだって分からない。今朝の御言葉が宣言するのは、その夫婦生活も、神さまの御前にあるということです。夫婦の暮らしも、神さまが働いておられる領域だ、ということです。「信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされている」と言います。聖なる者というのは、神さまのものだということです。こどもたちが、神様の子どもであるのと同じように、神を信じようとしない夫も妻も、もうすでに神様のものなのだと言います。神様は、私たちの家庭の中でも働いておられるのです。私たちは、そのことを見くびっているのかもしれません。
結婚して夫や妻と家庭生活を営んで、やがて自分一人だけが教会に行くようになり、神を信じた。あるいは、結婚前からそうであったかもしれません。それに対して夫や妻は理解してくれたり、そうでなかったりします。時には、自分が神を信じたがために家庭の中が平和でなくなってしまうこともあるかもしれません。でも、キリストと出会い、キリストを愛したとき、自分の大切なこの人にもキリストの愛を知ってほしいと思うのは、自然なことです。しかし拒否されたり、なかなか入ってきてくれないと、悲しいですし焦ります。何とかしてこの人を救わなくちゃと、苦しくもなります。そんなときに聖書の言葉が目に飛び込みます。「妻よ(夫よ)、あなたは夫(妻)を救えるかどうか、どうして分かるのか。」そんなことを言われると、突き放されたような気がしてさみしくなります。しかし、これは本当は私たちを自由にする解放の言葉です。わたしの愛するこの人を救うことは、神様が責任を持ってくださるのです。この人はもうすでに聖なる者、神のものになっているのですから。
ですから、私たちは、主イエスの力を見くびってはならないのです。キリストは私の家庭でも働いておられるのだということを。11節にある「夫のもとに帰りなさい」の「帰る」は「和解する」という字です。これはコリント二5:18-21を見ると、キリストがしてくださった御業を指す言葉です。神がキリストにあって私と和解してくださったから、私も和解の使者に、平和の使者になれる。私たちの生きる家庭は、キリストが和解の業を進めておられる、神の働かれる場所なのです。