2018年12月30日日曜日

コリントの信徒への手紙一第8章8から16節「平和な生活を送るために」


 正月を迎えると、家族と過ごしたり、家族を思ったりする機会が増えるかもしれません。そんな時には、7節の言葉を思い出したいと思います。「人はそれぞれ神から賜物をいただいている」。私たちの家庭生活は、夫婦でも親子でも、一人であっても、それぞれに神から与えられた賜物です。賜物という言葉は、もともとはギリシア語で「カリスマ」という字です。カリスマ美容師とかカリスマ店員とか言ったりもします。特別な才能や個性を持った人といった意味で使われているのでしょうか。しかしもともとカリスマというのは、贈り物という意味です。私たちの家庭生活は、神が下さった贈り物、カリスマ。それが、私たちの生きる毎日の生活を考える上での、一番大切なことではないでしょうか。
 家庭生活のことは、その当事者でなければ分かりません。特に夫婦のことは、一番近くにいる子どもにだって分からない。今朝の御言葉が宣言するのは、その夫婦生活も、神さまの御前にあるということです。夫婦の暮らしも、神さまが働いておられる領域だ、ということです。「信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされている」と言います。聖なる者というのは、神さまのものだということです。こどもたちが、神様の子どもであるのと同じように、神を信じようとしない夫も妻も、もうすでに神様のものなのだと言います。神様は、私たちの家庭の中でも働いておられるのです。私たちは、そのことを見くびっているのかもしれません。
 結婚して夫や妻と家庭生活を営んで、やがて自分一人だけが教会に行くようになり、神を信じた。あるいは、結婚前からそうであったかもしれません。それに対して夫や妻は理解してくれたり、そうでなかったりします。時には、自分が神を信じたがために家庭の中が平和でなくなってしまうこともあるかもしれません。でも、キリストと出会い、キリストを愛したとき、自分の大切なこの人にもキリストの愛を知ってほしいと思うのは、自然なことです。しかし拒否されたり、なかなか入ってきてくれないと、悲しいですし焦ります。何とかしてこの人を救わなくちゃと、苦しくもなります。そんなときに聖書の言葉が目に飛び込みます。「妻よ(夫よ)、あなたは夫(妻)を救えるかどうか、どうして分かるのか。」そんなことを言われると、突き放されたような気がしてさみしくなります。しかし、これは本当は私たちを自由にする解放の言葉です。わたしの愛するこの人を救うことは、神様が責任を持ってくださるのです。この人はもうすでに聖なる者、神のものになっているのですから。
 ですから、私たちは、主イエスの力を見くびってはならないのです。キリストは私の家庭でも働いておられるのだということを。11節にある「夫のもとに帰りなさい」の「帰る」は「和解する」という字です。これはコリント二5:18-21を見ると、キリストがしてくださった御業を指す言葉です。神がキリストにあって私と和解してくださったから、私も和解の使者に、平和の使者になれる。私たちの生きる家庭は、キリストが和解の業を進めておられる、神の働かれる場所なのです。

2018年12月27日木曜日

詩編第132編「神の慈しみに生きよう」

ダビデ王が情熱を込めた事業。それは、十戒が納められた契約の箱を迎えることだった。「わたしの目に眠りを与えず、まぶたにまどろむことを許すまい。主のために一つの場所を見いだすまでは。」ダビデの主への愛と献身の真心が込められた祈りだ。しかし、神はダビデの信仰に更なる真実で応えてくださった。「わたしの慈しみに生きる人は、喜びの叫びを高くあげるであろう。」主を愛する者は、もっと大きな愛で愛されていることを知る。

2018年12月23日日曜日

詩編第113編「クリスマスの歌が、あなたの口にも」

 今日の説教後の讃美歌は262番「聞け、天使の歌」というものです。「聞け、天使の歌『御子には栄光、地には平和あれ、世の人々に。』」最初のクリスマスに羊飼いらが聞いた天使の歌です。私たちは、ただ聞くだけではありません。天使の歌を聴いて、一緒に歌います。あの夜、飼い葉桶に寝かされた乳飲み子を見つけに行った羊飼いたちも、やはり天使の歌をうたいながらベツレヘムに向かったのでしょうか。神学生の時、合唱部でクリスマスにメサイアを歌いました。救い主の預言から始まり、主イエスの誕生、生涯、十字架、そして復活を歌い上げます。メサイアのクライマックスは、やはりハレルヤ・コーラス。「ハレルヤ」とはヘブライ語で「主を賛美せよ」という意味です。今朝の詩編第113篇の冒頭にも登場しています。「ハレルヤ、主の僕らよ、主を賛美せよ、主の御名を賛美せよ。」ハレル(賛美せよ)が三度も繰り返されています。これは、私たちを賛美に巻き込む詩編です。「今よりとこしえに、主の御名がたたえられるように。日の昇るところから日の沈むところまで、主の御名が賛美されるように。」賛美は、時間も、場所も乗り越えます。私たちが信じ、賛美している神さまは、マリアが賛美し、ダビデが賛美した神さまと同じ方です。日の昇るところから、日の沈むところまで、世界中のあらゆるところで神を賛美しています。アメリカのルイビルでも、ブラジルのジョタカ村でも。それだけではない。私たちの目の前にいて礼拝をしている子どもたちも、その孫だって、同じ神を賛美し、「ハレルヤ」と天使と一緒に歌うのです。
 「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」しかし、いと高きところにおられるはずの神の子イエスは、もう、高い所におられません。「わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く起き、なお、低く下って天と地を御覧になる。」天よりも高い神の子イエスは、しかし、低く下ってこられました。この「下る」という字は、詩編147:6でも遣われています。そこでは「逆らう者を地に倒される」の「打ち倒す」と翻訳されています。投げ捨てると言っても良い言葉です。神さまは、ご自身を投げ捨てて、引く地に下ってこられた。その低く投げ捨てられたお姿が神の栄光だ、と言います。
 私たちの社会は、高く上に登ることにばかり価値を置いているように感じます。今年は自然の脅威にさらされた年でした。夏のすさまじい暑さ。西日本豪雨。北海道の地震。しかし、私たちの社会はどうだったのでしょう。災害と呼べる暑さの中で社会的関心が集まっていたのは、その時期に開催されるオリンピックへの心配でした。サマータイムを導入しなければマラソンができないと真剣に議論していました。西日本豪雨の後、今も屋根にブルーシートをかける家があるといいます。それをよそに万博開催に浮かれています。私たちの社会は、あまりにも上を見ることだけを大切にしてしまい、神さまを忘れてしまったようです。神は、御自分を投げ捨てて、私たちのところへ低く下ってきてくださいました。この世の弱い人、乏しい人、生産性がないと切り捨てられる人のところへ来て、共に苦しみながら肩を抱き上げてくださいます。それが、キリストが飼い葉桶に生まれたということです。だから「地には平和」と歌える。ここに神の栄光が現れているのです。

2018年12月20日木曜日

詩編第131編「母の胸にいる幼子のように」


母の胸にいる幼子は、ひたすら母に注目する。その一挙手一投足に喜び、安心する。そして、平安の内に、眠りにつく。「わたしは魂を沈黙させます。母の胸にいる幼子のようにします。」私たちの魂は、どうなのだろうか?私たちの心が驕り、高くを見、大きすぎることを追い求めるとき、私たちの心は騒ぐ。そこでは主を待ち望むことがない。主こそが救いだとわきまえたい。主に与えられた分に応じて、忠実に、ひたすら神を求めていきたい。

2018年12月16日日曜日

コリントの信徒への手紙一7:1-7「賜物としての人生」

 わたしが学生の頃に出会った、少し年下のあるキリスト者がいました。彼は言いました。「自分は、独身に召されているのではないかと思う」と。若い私には本当に衝撃的な言葉でした。どうしてそう思うに至ったのか、もっと詳しく聞かせてもらえばよかったと思います。ただほとんど確実だとわたしが思うのは、彼は、今朝私たちに与えられているこの聖書の御言葉を、何度も繰り返し読み、向き合ってきたに違いない、ということです。「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい」とパウロは言いました。わたしはその後結婚して、今は子どもまで与えられました。しかし、主からの問いとして、彼のあの言葉は今でも消えていません。
 今朝の聖書の御言葉は、一見すると、とても結婚に対して後ろ向きなように見えます。「みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また女はめいめい自分の夫を持ちなさい」と言っている。妥協策だと言っているようです。しかし、他のところ、例えばエフェソのしんとへの手紙などで、パウロは結婚の尊さについても語ります。夫と妻との関係を、キリストと教会との関係になぞらえて語ります。パウロは結婚生活の尊さやすばらしさも認めていたに違いない。ただ、どうしてそれをすばらしく尊いものと言いうるのか、というその急所に私たちの目を向けさせようとしていたのではないかと思います。
 「人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」と言います。結婚するか独身でいるか、それは神がそれぞれに与えてくださった賜物だと言うのです。私たちが結婚をするのか、それとも独身なのか、いずれにしてもそれは神に与えられた人生です。神に与えられたものとして、私たちの人生は尊いのです。それが急所です。
 1節では、「そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい」と言っています。この「男は女に触れない方がよい」という部分は、コリント教会がパウロに主張した言葉ではないかと思われます。コリント教会のあるものは、肉体を軽んじ、性的放縦な生活を送る者がいました。しかしその反対に、性を汚れた者として徹底した禁欲生活を主張する者もいたのです。それで、パウロに教会から送った手紙に、そのようなことを書いた。性を含む結婚生活は、尊いものではない、と。しかし、考えてみれば、この肉体も、肉体が性欲を持つという事実も、神が与えてくださったものです。神に造られたものとして、この肉体も尊いのではないでしょうか。
 創世記が伝える最初の夫婦のアダムとエバ。神は人が寝ているときにその妻を造りました。伴侶はただただ神に与えられた賜物なのです。夫婦となった二人は、しかし、蛇に唆されて神を捨てました。その時から、夫婦は支配し、支配される関係になってしまいました。夫婦生活が主導権争いの場になってしまった。ところが、パウロは言います。「妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っています。」全くの夫婦同権を主張します。神の前で生きるとき、夫婦の関係も新しくなる。私たちはそれぞれに賜物として与えられた人生を、神の前で生きる恵みに招かれています。

2024年11月11日の聖句

イスラエルの子らは帰って来て、彼らの神である主と彼らの王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって近づく。(ホセア3:5) 誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。(マタイ7:8) 私たちは求めることが許されています。「誰でも、求める者は受け、探す...