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2019年2月19日火曜日

2019年2月19日(出エジプト記37〜38)

今日の通読箇所:ローマの信徒への手紙9:1~18、出エジプト記37~38、詩編57~58

出エジプト記37~38;
モーセを通して神様に指示されたとおりに、幕屋と礼拝で使う祭具とが造られていきます。「これらは、証しの幕屋である幕屋建設の記録である。モーセの命令に従い、祭司アロンの子イタマルの指導の下、レビ人の奉仕によるものである(38:21)」。そしてその記録を読んでいくと、箱にしても贖いの座にしても、燭台、香をたく祭壇、焼き尽くすいけにえの祭壇など、どれもが恐るべき正確さで、指示通りに造られていることに気づきます。この正確な工程を記録することに、この出エジプト記は並々ならぬ関心を抱いていることが分かります。どうしてなのでしょうか。
それは、礼拝の一つひとつが、神様のご命令に基づいていることに私たちの注意を向けさせようとしているからなのだと思います。言葉を換えれば、私たちの礼拝の出発点は、私たちの願いやニードを満たすことではなく、神様の御言葉なのだと私たちに気づかせるためです。
だから、今朝の新約の御言葉ではこのように言われていました。「従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるのです(ローマ9:16)」。私たちの思いを超える神様の憐れみが、私たちを救ってくださいます。それは、私たちのニードや願いを超えてすばらしい救いです。私たちは「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とあれました(ローマ3:24-25)」。私たちのための贖いの座は、キリストです。どんなにすばらしい意匠よりも遙かに神の恵みを映すこの方が、神の憐れみによって私たちを罪から救ってくださるのです。

2019年2月18日月曜日

2019年2月18日(出エジプト記35〜36)

今日の通読箇所:ローマの信徒への手紙8:18~39、出エジプト記35~36、詩編56

出エジプト記35~36;
新しい石の板を持って山から下りてきたモーセ。彼が最初にイスラエルの人々に命じたのは、安息日のことでした。「これは主が行うように命じられたことである。六日間は仕事をすることができる。しかし、七日目はあなたがたにとって主の聖なる、特別な安息日である。・・・あなたがたの住まいのどこであっても、安息日には火をたいてはならない(35:1~3)」。火をたいてはならないということは、料理をしてはいけないということでしょう。最も基本的な日常生活を中断しなさい、ということであろうと思います。もちろん、今、私たちは日曜日だからといって料理をしないわけではありません。むしろ、教会では食卓を囲む時間を大切にしています。新約の時代に生きる私たちなりの安息日の過ごし方があるのだと思います。しかし、その精神は変わらない。私たちは毎日の生きるための営みを中断して、その時間を神様に献げて、神の安息にあずかる聖なる日を一週間に一度過ごすのです。
その次にモーセが言うのは、神様へのささげ物のことでした。「これは主が命じられたことである。あなたがたの持ち物の中から主への献納物を取りそろえなさい。心から進んで献げる人にはすべて、主の献納ぶつとして次のものを携えて来させなさい。・・・(4~5節)」。そして、それに応えて心から進んで献げてものによって、礼拝の準備がなされました。時間を献げ、生活の資を献げることで、人生のすべてが神への礼拝であることが明らかになったのです。私たちの献げる礼拝は、ここに始まっています。

2019年2月17日日曜日

2019年2月17日(出エジプト記33〜34)

今日の通読箇所:ローマの信徒への手紙8:1~12、出エジプト記33~34、詩編55

出エジプト記33~34;
金の子牛の出来事のために、イスラエルの人々は神に言われてしまいました。「さあ、あなたも、あなたがエジプトの地から導き上った民も、私はアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『あなたの子孫に与える』といった地に、ここから上っていきなさい。・・・しかし私は、あなたの間にいて一緒に上ることはしない(33:1、3)」。モーセは、民のために執りなしの祈りをします。昨日の章でも、すでにその祈りを始めていました。そして、民のために自分自身の命をかけたモーセの祈りのために、神様はこのような民と共に歩むと言ってくださったのです。
今新約聖書で読んでいるローマの信徒への手紙でもそうですが、聖書を読むと、自分自身の罪深さに気づかされます。神様は、イスラエルの人々が約束の地にいざ入ったら、たちまち再び神様を裏切ることになると指摘なさいます。出エジプト記34:12~16です。しかし、神様は、そのような私たちであるからこそ、共に歩むと決断してくださったのではないでしょうか。
そのしるしは、34:18以下で、とつぜん除酵祭の話が始まっているところに表されています。私たちは繰り返し神様を裏切ってしまう、弱くて愚かな罪人です。そんな私たちが、神様の一方的な愛と憐れみで救われたことを思い起こす除酵祭、過越の祭を繰り返し祝って、神にすがるより他ない自分であることに気づくために、神はこの礼拝を定めてくださったのではないでしょうか。神は、私たちと共に歩んでくださっています。私たちが罪を悔い改めて、神様の御許に帰って行くために。

2019年2月16日土曜日

2019年2月16日(出エジプト記31〜32)

今日の通読箇所:ローマの信徒への手紙7、出エジプト記31~32、詩編54

出エジプト記31~32;
何と言うことか、神様の大いなる救いの御業を経験してエジプトを脱出したイスラエルの民は、主なる神様を裏切ってしまいました。彼らはアロンに言います。「さあ、私たちに先立って進む神々を私たちのために造ってください。私たちをエジプトの地から導き上った人、あのモーセがどうなったのか、分からないからです(32:1)」。アロンに言われるままに自分たちの持っていた金を供出すると、アロンはそれによって金の子牛の鋳造を造り、言いました。「イスラエルよ、これがあなたの神だ。これがあなたをエジプトの地から導き上ったのだ」と(4節)。決して許されない裏切りです。
神様ではないものを自分の神にして、その前で膝をかがめる。それは、私たちの姿であるのではないでしょうか。私たちが実は主なる神様よりも重んじているもの、聞き従っているものが、あるのではないでしょうか。
イスラエルの人々が目に見える神々を求めたのは、不安だったからです。モーセが山からなかなか下りてこなかったからです。神様が自分の期待していた答えをくださらないとき、私たちは主イエス様から離れてしまってはいないでしょうか。
今朝の通読箇所のローマの信徒への手紙にこのようにありました。「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。」「私は何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるのでしょうか。」私たちの命の源でいてくださる神様からこんなにも簡単に離れてしまう私は、惨めです。自分がしていることが分からない。しかし、神の恵みの力は、私たちの罪とは比較になりません。「私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです(ローマ8:38~39)」。神の憐れみにただすがりつつ、私たちを救う福音の言葉に、ただ「アーメン」と答えます。

2019年2月15日金曜日

2019年2月15日(出エジプト記29〜30)

今日の通読箇所:ローマの信徒への手紙6、出エジプト記29~30、詩編52

出エジプト記29~30;
「あなたが祭壇の上に献げるものは次のとおりである。毎日欠かすことなく、・・・(29:38)」。祭司は、毎日、神様へのささげ物をします。毎日の祈りのつとめを負っています。
私の祖母はとても熱心な仏教徒でした。その信仰の故に、周囲の人の尊敬を得ていました。彼女をしたって、その教えを請う人がたくさんいました。北海道に住んでいたので私は一緒に生活をしたことがないのですが、祖母は、毎朝仏前に入って長い時間念仏をし、なにがしかの祈祷をしていたそうです。とても真剣に。
祖母を思い出すと、私は一人のキリスト者として真剣な祈りに生きているのかと自問しないわけにはいきません。毎日欠かすことなく、献げるべきものがあると神様はおっしゃいました。私たちの祈りは、どうなのでしょうか?
「これは、代々にわたって会見の幕屋の入り口で主の前に献げる日ごとの焼き尽くすいけにえである。私はその場所であなたと出会い、あなたと語る(29:42)」と神様は言われます。神様ご自身が、今日、私と出会い、語りかけてくださっています。そして、この御声を聞くとき、私たちはこのように言われていることを知るのです。「彼らは、私が主、彼らの神であり、彼らをエジプトの地から導き出し、彼らのうちに住まう者であることを知るようになる。私は主、彼らの神である(29:46)」。私たちの祈りを、主の御前に、香りのよい香油のようにおささげしましょう。

2019年2月14日木曜日

2019年2月14日(出エジプト記27〜28)

今日の通読箇所:ローマの信徒への手紙5、出エジプト記27~28、詩編52

出エジプト記27~28;
主の幕屋で働く祭司のための祭服についての指示が、事細かく書かれています。「栄光と美しさを表す祭服(28:2)」と言っているとおり、すばらしく美しい意匠が凝らされていたようです。
特に印象的なのは、イスラエルの各部族の名前が彫りつけられた石です。エフォドと胸当てに、それぞれつけるようです。「二個のカーネリアンを取って、それらにイスラエルの子らの名前を彫りつけなさい。その名のうち、六つの部族の名を第一の石に、残りの六つの部族の名を第二の石に、生まれた順に彫りつけなさい(9,10節)」。「宝石はイスラエルの子らの名に合わせて十二あり、十二部族に従ってそれぞれの名を印章に彫るように彫りつける(21節)」。
そして「裁き胸当てにウリムとトンミムを入れ、アロンが主の前に出るとき、その胸の上にあるようにする。こうしてアロンは、イスラエルの人々の裁きを、主の前で常に胸の上に置いていることになる(30節)」。胸当てにはイスラエルの人々の名前が記され、彼らの名前が主の前に運ばれ、覚えられる。祭司の服はその事実を象徴しているです。
今、私たちが礼拝をするときに、特に牧師がこのような祭服を着ることはありません。教会員の名前が記された宝石を身につけることもしません。それは、私たちの名を神の右におられるキリストが、神様の御前に届けてくださっているからです。今日も、私たちの祭司でいてくださるキリストが覚えていてくださいます。私たちの祈りの生活のために、キリストが私たちの裁きを負ってくださっているのです。

2019年2月13日水曜日

2019年2月13日(出エジプト記25〜26)

今日の通読箇所:ローマの信徒への手紙4、出エジプト記25~26、詩編51

出エジプト記25~26;
「彼らが私のために聖所を造るなら、私は彼らの中に住む(25:8)」と、神が、聖所である幕屋を造るための指示をなさいました。その指示は一番奥から始まって、次第に外側に向かっていきます。
最初は「箱」です。「アカシヤ材で箱を作らなければならない(25:10)」。その箱には神に与えられた「証しの板(25:16)」を納めます。そして、その箱の蓋は「贖いの座」と呼ばれ、純金で造られます。贖いの座の両端には一対のケルビムという天的な生き物が施されます。「あなたは贖いの座を箱の上に置き、箱の中に私が与える証しの板を納めなさい。私はそこであなたに臨み、贖いの座、すなわち証の箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために命じるすべてのことをあなたに語る(25:21~22)」。
そして、幕屋の内奥から始まり、そこに納める他のものについての指示、そして幕屋につかう幕の布の作り方の指示などが今日の箇所に書かれています。
とても丁寧に、どうやって作るのかの指示が書かれています。箱はどういうものだったのか、贖いの座は、そこにいるケルビムの姿は?興味をかき立てられます。そして、実際に作った者たちにとっては、この指示に従って作られた幕屋はどんなにか誇らしいものだったのでしょうか。
しかし、神様は注意深くおっしゃっていました。「証しの箱の上にあるケルビムの間から、・・・すべてのことをあなたに語る」と。ケルビムがどんなに勇壮であったり、箱や幕がどんなに豪華であろうと、その立派さが神の臨在を保証するわけではありません。まして、どんなに豪華であっても人間が作ったものに神が宿るのではない。神はケルビムの間にある虚空から、モーセに語りかけます。
私たちの今日一日の業を、誠実に、神様におささげしたいとねがいます。しかし、それがすばらしいから、神が私たちに恵みをくださるわけではないのです。神は、私たちの手の業が及ばない聖なる虚空から、私たちに恵みを下さいます。ただ感謝をもって、神を見上げます。

2019年2月12日火曜日

2019年2月12日(出エジプト記23〜24)

今日の通読箇所:ローマの信徒への手紙3、出エジプト記23~24、詩編50

出エジプト記23~24;
「モーセは戻って来て、主のすべての言葉とすべての法を民に語り聞かせた。民は皆声を一つにして、『主が語られた言葉をすべて行います』と答えた。そこで、モーセは主の言葉をすべて書き記し、・・・(24:3-4)」。
ここでモーセが書き記した主の言葉というのは、おそらく、第20から23章までの、十戒に始まりその詳しい解説のような諸々の言葉のことであろうと思います。神様の言葉を聞き、またそれを記し、また読んで聞き、それに応える。それが神の民の初めのときからなされてきたことでした。私たちも聖書を読み、これに従い、キリストの声に聞いています。
そして、さらに話は進みます。「主は、モーセに言われた。『山に登り、わたしのもとに来て、そこにいなさい。私は彼らに教えるために、律法と戒めを書き記した石の板をあなたに授ける(24:12)」。この御言葉は、今回の私の発見でした。映画の十戒の印象が強かったせいか、第20章で十戒が授けられたとき、もうすでに石の板にそれが書かれていたような印象がありました。ところが、石の板の話はここに来て初めて登場しています。そして、続く第25章では、幕屋(礼拝施設)の建設に関する指示があります。その指示は、聖所のさらに奥の至聖所という特別な場所に安置する契約の箱の指示から始まります。この箱に石の板を入れます。その説明に先立って、神様ご自身がその石の板を書き、モーセらに授けるというのが、今朝の話です。礼拝を建て上げていく中心は、神様ご自身の言葉が刻まれた板だったのです。

私たちの礼拝はの中心は、神様の御言葉です。聖書とそこに記された神の言葉ご自身でいらっしゃるキリストが中心におられる。この方に聞き、従うことが私たちの礼拝です。モーセの時代から今まで何千年も続いてきた礼拝の中心は、神様の御言葉なのです。

2019年2月11日月曜日

2019年2月11日(出エジプト記21〜22)

今日の通読箇所:ローマの信徒への手紙2、出エジプト記21~22、詩編49

出エジプト記21~22;
「あなたが彼らの前に置くべき法は次のとおりである(21:1)」と書いてあるとおり、ここから、十戒に続いて神がお与えになった法が置かれています。その最初に奴隷が自由になる規定が置かれていることが印象的です。
さらに、12節以下には死刑にあたる罪の話。「人を打って死なせた者は必ず死ななければならない(21:12)」。どのような場合に命を持って賠償しなければならないかを定めています。「命に関わるとときは、命には命を、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、やけどにはやけどを、生傷には生傷を、打ち傷には打ち傷を持って償わなければならない(21:22)」。この規定で大切なことは、私は、命には命を、目には目を、葉には歯を・・・要求してよい、それをもって償わせろとは言っていないということだと思います。命には命をもって償わなければならない。あくまでも、人を損なったその人に対する言葉です。同じものをもって償わなければならないほど、人の命は尊くて重いのだということではないかと思います。
私は、この話が奴隷解放の話題から始まっていることに、神様の深い配慮を感じます。命の尊さ、重さは、奴隷であっても同じだと神様はおっしゃっているのではないでしょうか。あるいは、22:20以下です。「寄留者を虐待してはならない。抑圧してはならない」から始まって、寡婦、孤児、貧しい者などの社会的弱者を大切にしろ、と言われています。それは「あなたがたもエジプトの地で寄留者だったから(20節)」だと言う。あなた自身がそもそも小さく、社会の中でも見捨てられ、寄る辺ない者だった。しかし、神があなたを覚え、救い、あなたの人生も命も人格も尊いものとしてくださった。だから、あなたたちも寄留者や寡婦や孤児、貧しい者を尊く、重んじてほしい。その命は自分の命をもって賠償すべき重いものだとわきまえてほしい。神様は、そのようにおっしゃっているのではないでしょうか。

2019年2月10日日曜日

2019年2月10日(出エジプト記19〜20)

今日の通読箇所:ローマの信徒への手紙1、出エジプト記19~20、詩編47~48

出エジプト記19~20;
十戒が与えられます。その前後で、イスラエルの人々が大きな恐れに包まれたことが、丁寧に語られています。「民は皆、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音と山が煙るのを目の当たりにした。民は見て震え、遠く離れて立ち、モーセに言った。『あなたが私たちに語ってください。そうすれば私たちは聞き従います。しかし神が私たちにお語りにならないようにしてください。私たちが死なないためです』(20:18)」。また、神様ご自身が「民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、服を洗わせ、三日後に合わせて準備させなさい(19:10)」と言って、十戒を頂く日、すなわち神様の御前に進み出る日を特別に区別しなさいと言われます。
この恐れの感覚は、神を信じるものにとってはとても大切なものであると思います。私たちも、毎週日曜日に神様を礼拝して、神様の御前に進み出ています。イスラエルの人々があれだけ恐れた神様の御前に、私たちも進み出ている。そのための準備の時も、大切にしたいと思います。
日曜日の礼拝のための準備は、土曜日にもう始まっています。土曜日というドイツ語はゾンアーベントと言います。ゾンは英語のサンデーのサンにあたる言葉、アーベントは夜という意味です。日曜日の夜が、私たちの土曜日の夜にもうすでに始まっていることではないかと思います。土曜日を日曜日にそなえるために聖別する。あるいは、日曜日の朝、礼拝に来たとき、礼拝堂で心を静めて礼拝を待つということも大切です。慌ただしい日常の業をすべて中断し、神様の御前に安息日を覚え、これを聖別するのです。この日が主の安息日だからです。私たちは、私たちを救ってくださった神様の御前に集まっているのです。

2019年2月9日土曜日

2019年2月9日(出エジプト記17〜18)

今日の通読箇所:マタイによる福音書28、出エジプト記17-18、詩編46

出エジプト記17〜18;
今朝の旧約聖書の御言葉では、エジプトを出て旅を始めたイスラエルの人々が、少しずつ、神の民として成長していく様子が描かれています。始まりは、民の不満です。昨日もそうでしたが、ここでも、水がないことに不満が噴出します。15:22-27では荒れ野でやっと見つかった水が苦いという不満でしたが、ここでは、水そのものがないと言っています。「私たちをエジプトから上らせたのは何のためだったのですか。私たちや子どもたちや家畜を渇きで死なせるためだったのですか(17:3)」。
あるいは、第18章に入ると、たくさんの人がモーセの所へ相談に詰め寄っていました。モーセの舅はその様子を見て驚き、民の中から有能な人を選んで民を裁かせるようにアドバイスします。「こうしてあなたの負担を軽くし、彼らもあなたと共に分担するのです(18:22)」。
神の民は、いつの時代でも、たくさんの問題や課題を抱えているものなのかもしれません。荒れ野を旅するイスラエル人たちも何回も何回も同じような不満を口にし、そのたびに悔い改め、少しずつゆっくりと成長していきました。私たちと同じなのです。
そんなときに、彼らはアマレクと戦いました。モーセはイスラエルを祝福するために、丘の頂に立ちます。おもしろいことが書いてあります。「モーセが手を上げているとイスラエルが強くなり、手を下げているとアマレクが強くなった(17:11)」。これを読んで、ああ私たちのことだなと思います。私たちはいいときも悪いときもあり、信仰的であったり不信仰であったりします。そんな私たちの毎日は、しかし、神ならぬものとの戦いです。私たちを神から引き離そうとする悪の力との戦いの毎日です。その戦いを勝ち抜くために、私たちのための祝福の手が上げられているのです。「それからイエスは、彼らをベタニアまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた(ルカ24:50-51)」。この祝福の手は、今も上げられています。私たちのために!

2019年2月8日金曜日

2019年2月8日(出エジプト記15〜16)

今日の通読箇所:マタイによる福音書27:32-66、出エジプト記15-16、詩編45

出エジプト記15-16;
荒れ野に出て旅を始め、すぐに水がないこと、食べ物がないことへの不満が噴出します。神はそれに対し、水と食料を与えてくださいました。その食べ物は、マナと名付けられます。「イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それはコリアンダーの種のようで、白く、蜜の入った薄焼きパンのような味がした(16:31)」。どういうものなのでしょう。おいしそうに思えます。彼らは、これから始まる40年に及ぶ荒れ野での旅の間、ずっと、毎日毎日神様が与えてくださったパンであるマナを食べて、生きていったのです。
この「マナ」という名前ですが、もともとの言葉は「これは何だろう」という意味です。初めてマナを見たとき、彼らはそう言ったのです。「朝になると、宿営の周りに露が降りた。降りた露が上がると、荒れ野の地表に薄く細かいものが、地の上の霜のようにうっすら積もっていた。イスラエルの人々はそれを見て、『これは何だろう』と互いに言った(16:13-15)」。この最後の「これは何だろう」が、マナという言葉です。
ですから、荒れ野を旅するイスラエルの食事の光景は、愉快だったと思います。朝起きて外に出ると、一面に広がっているのです。『これは何だ?」が。子どもが母に尋ねます。「お母さん、今日のご飯は何?」「これは何だろう、よ。」毎日毎日、彼らは『これは何だ?』と言いながら、食事をしました。
そこには、深い暗示的な意味があります。私たちは、毎日、毎朝、主に問うことで生きているのです。主よ、これは何でしょうか?私を生かしてくださるあなたの恵みとは、一体なんでしょうか?これがあなたの御心なのですか?あなたが望んでおられることは、何ですか?私たちの問いに、神は答えてくださいます。マナ(これは何だろう)によって。ですから、問いは更なる問いを生みます。しかし、そのことを恐れなくていい。「マナでオメル升を満たし、代々にわたって保存しなさい(16:32)」。問いは、保存されます。しかしその問いは、神に覚えられています。やがて私たちがキリストと顔と顔とを合わせてお目にかかるとき、キリストご自身が私たちに答えてくださるでしょう。その日に至るまで、主に問いつつ、私たちは生きていきます。

2019年2月7日木曜日

2019年2月7日(出エジプト記13〜14)

今日の通読箇所:マタイによる福音書27:1-31、出エジプト記13-14、詩編44

出エジプト記13-14;
旧約聖書の最初にある五つの書を「律法」と呼びます。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五つです。これから読んでいくとすぐに分かりますが、この出エジプト記の後半以降は、まさに「律法」という内容になります。しかし、年が明けてからこれまで読んできたところを思い出してみると、律法というよりも物語といった感があります。日本の六法全書を見ても、物語の文体で書いた法はありません。どうして、律法なのに物語が書かれているのでしょうか?
今朝の御言葉を読むと、その理由がよく分かります。「あなたがたは、エジプトの地、奴隷の家から出たこの日を覚えなさい。主は力強い手によって、あなたがたをここから導き出されたからである。種を入れたパンは、食べてはならない(13:3)」。最後の「種を入れたパンは、食べてはならない」というところが、いわゆる戒めです。これは意味も分からない、とにかく守るべき戒めではありません。物語があるのです。主が私たちを救ってくださった出来事が。その物語を想起し、救いの御業を追体験し、今ここで私を救ってくださる神を改めて信じるための戒めです。
「初めに胎を開くものはすべて、主に献げなければならない(13:11)」。それは、主が力強い手で私たちをエジプトの地、奴隷の家から導き出してくださったからです。つまり、この物語は、私たちのアイデンティティをつくります。私は主に救って頂いたものだから、その尊い命を主にささげよう、という道を示したのが、主の律法です。
私たちにも、私たちのための神の物語があります。私たちは小羊のように裂かれ、、血を流されたキリストに救われました。足の海の底をくくり抜けるようにして、水をくぐり抜け、つまり洗礼を受けて、今生きています。これは、あなたを救ってくださる神の物語です。これは、あなた自身の物語です。

2019年2月6日水曜日

2019年2月6日(出エジプト記12)

今日の通読箇所:マタイによる福音書26:47-75、出エジプト記12、詩編42-43

出エジプト記12;
ついに、イスラエルの人々はエジプトを後にします。そのために、主なる神様が大いなる御業を行われました。「その夜、私はエジプトの地に行き巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。私は主である(12節)」。
そのために、イスラエルの人々は準備をしました。家族ごとに欠陥のない一歳の小羊を屠り、「その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る」。そして、その小羊の肉は焼いて食べます。煮てはいけません。「それを食べる時は、腰に帯を締め、足にサンダルを履き、手に杖を持って、急いで食べなさい。これが主の過越である(11節)」。そして、鴨居と柱に塗った血は主が「その血を見て、あなたがたのいる家を過ぎ越す(13節)」ためのしるしとなります。イスラエルの人々は、爾来、この出来事を記念して毎年過越祭を祝ってきました。
主イエスが十字架にかけられたのは、この過越祭の時でした。その日、過越のための犠牲の小羊が屠られ、血が流されるように、主イエスの血が流されました。その血をご覧になって、神が私たちを過ぎ越し、災いを下さないと決断してくださったのです。
この過越のよるために、主は、特別な計らいをしてくださいました。「その夜、主は、彼らをエジプトの地から導き出すために、夜通し見張りをされた(42節)」。私たちが迎えたこの新しい朝のためにも、主が夜通しの番をしてくださいました。主が与えてくださった朝、私たちはキリストの犠牲の血によって与えられた命を生きているのです。

2019年2月5日火曜日

2019年2月5日(出エジプト記9〜11)

今日の通読箇所:マタイによる福音書26:31-46、出エジプト記9-11、詩編41

出エジプト記9-11;
主なる神様がエジプトに下された10の災いのうちの最初の九つは、三つ一組になっています。①血の災い、蛙の災い、ぶよの災い。②あぶの災い、疫病の災い、腫れ物の災い。③雹の災い、ばったの災い、暗闇の災い。そして、最後の初子の災いは、最初の九つとは少し区別される、最後の決定的なものとして位置づけられているようです。
それぞれの冒頭に同じモチーフが繰り返されています。「明日の朝、ファラオのところに行きなさい(7:15)」。「朝早く起き、ファラオの前に進み出なさい(8:16)」。「朝早く起き、ファラオの前に進み出て言いなさい(9:13)」。朝、ファラオのところへ行くということが三度繰り返されています。
ただ、漫然と三回一組を繰り返すのではなく、少しずつ話が進展していきます。特に②からです。「私は、この民をあなたの民と区別して贖う(8:19)」「主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別する(9:4)」「雹はまた、野のすべての草を打ち、野のすべての木を砕いた。ただし、イスラエルの人々がいるゴシェンの地には、雹は降らなかった(9:26)」などです。これらの災いの一つのテーマは、区別です。エジプト人とヘブライ人が神様に区別されている。ヘブライ人だけひいきされているのです。10番目の初子の災いではなおはっきりします。「こうして、あなたがたは主がエジプト人とイスラエル人を区別されることを知るであろう(11:7)」。
神様が人間を区別し、ひいきするなんて、およそ神様らしくない振る舞いのように感じてしまいます。しかし、聖書の神様は、驚くべきことに、そうなさるのです。私たちが心に留めたいのは、ここでひいきされ、特別に愛されているのは、エジプトの国で追い使われ、虐げられていた者たちだった、ということです。神様は孤児や寡婦、貧しい者、病人を特に心にかけ、ひいきしてでも愛される方。それは、主イエスの歩みを思えば、よく分かること・・・。このような神様のお姿は、私たちへの一つの問いなのではないでしょうか。

2019年2月4日月曜日

2019年2月4日(出エジプト記7〜8)

今日の通読箇所:マタイによる福音書26:1-30、出エジプト記7-8、詩編40

出エジプト記7-8;
主なる神様の手によって、エジプトに10の災いがもたらされます。今朝の箇所には四つ登場しました。災いが起きるたびに、結局ファラオが心をかたくなにして、モーセの言うことを聞き入れなかったと繰り返されています。しかも、それが神様の働きなのだと言っています。「私はファラオの心をかたくなにするので、私がしるしと奇跡をエジプトの地で重ねても、ファラオはあなたがたの言うことを聞かない(7:3)」。ちょっと、ショックな言葉です。モーセやヘブライ人たちにしてみれば、すぐにファラオが聞き入れてくれて、気持ちよく送り出してくれたらどんなにいいでしょう。私たちも、似たようなことを経験しないでしょうか。どうして、神様はそのようなことをなさるのでしょう
「私がエジプトの上に手を伸ばし、イスラエルの人々を彼らの中から導き出したとき、エジプト人は私が主であることを知るようになる(15:5)」。モーセやヘブライ人たちから見て、ことがうまくいかず、相手の心がかたくなで、説得に耳を傾けてくれないとき、実はそれは私たちを救うための神様の御業の中に置かれており、しかもそれによって神様の御名が明らかになるプロセスなのです。「エジプト人は私が主であることを知るようになる。」最初、ファラオは言いました。「主とは何者か」と。この「主」は神様のお名前を表す言葉です。主とは何者か、どこの馬の骨か、どうして私が従わねばならないのか。それは、ファラオだけではなく、私たちのつぶやきです。どうして聖書が言うような愛に、柔和に生きなければならないのか?イエスとは、私の人生にとって何者か?どれほどのものか?そんな不遜な私たちにご自分の尊いお名前を教え、神様の御許に連れ戻すために、神様は働いてくださっているのです。
今日一日、神様のお名前による祝福が、豊かにあなたにありますように。

2019年2月3日日曜日

2019年2月3日(出エジプト記5〜6)

今日の通読箇所:マタイによる福音書25:31〜46、出エジプト記5〜6、詩編39

出エジプト記5〜6;
神様に命じられたとおり、モーセとアロンはファラオの下へ行って言います。「イスラエルの神、主はこう言われる。『私の民をさらせ、私のために荒れ野で祭りを行わせなさい』(5:1)」。しかし、これに対し、ファラオは言います。「主とは何者か。私がその声に聞き従い、イスラエルを去らせなければならないとは。私は主を知らないし、イスラエルを去らせはしない。(2節)」要するに、主という神はどこの馬の骨か、ということです。
この反応は、イスラエルの人々も、大して変わりません。モーセの説得にかえって反発したファラオは、イスラエル人の苦役を重くします。すると、人々はモーセに苦情を訴えます。「主があなた方をご覧になって裁かれますように。あなたがたはファラオやその家臣に私たちの立場を悪くするように仕向け、私たちを殺す剣を彼らの手に渡してしまったのです(21節)」。彼らは主なる神様は知り、信じていましたが、モーセのせいで立場が悪くなったことに怒り、モーセはどこの馬の骨かと怒ったのです
私たちが神様を信じてしたことで、却って事態が悪くなってしまうことは、ままあります。その恨みは神様に向けられたり、私たち自身に向けられたりします。そういうときに、私たちは、神様の名をかたって勝手に自分がしたのではないか、自分の勝手な思い込みなのではないかと反省することは大切です。しかし、主イエス・キリストがしてくださったように隣人を愛し、自分の十字架を負うための労苦を恐れてはならないこともまた真実です。どこの馬の骨とも分からない私たちですが、この方こそまことの神、私たちを救ってくださるキリストの父。その確信は決して失わずに、キリストが示してくださった愛の道を進みたい。そう願います。

2019年2月2日土曜日

2019年2月2日(出エジプト記3〜4)

今日の通読箇所:マタイによる福音書25:1-30、出エジプト記3~4、詩編38

出エジプト記3~4;
モーセは神の山ホレブで、神様と出会いました。神様は「モーセ、モーセ」と彼を呼び、それだけではなくご自身のお名前を、モーセに教えてくださいます。モーセと生を呼び合う関係になろうと願ってくださったのです。
名前というのは、他のものと区別するために使うものです。私は他の家の人間ではないので宮井という名前であり、宮井の中でも他のものと異なることのしるしとして岳彦という名前です。白くて砂のような形状の調味料の中でも、塩化ナトリウムを主成分として腐敗を防止したりしょっぱい味をつけたりすることのできるものを「塩」と呼びます。塩と呼べば、似た形状の他の調味料である砂糖とは区別されます。名前というのは、社会の中で他と区別し、何なのかを識別するために使うものです。
そう考えると、神様に名前は必要なのでしょうか?もしも並んで他の神々がいるのなら、他の神ではないこの神という名前が必要です。しかし、他の神などないのなら、名前は必要ないことになります。そして、私たちは、この神に並ぶものはないと信じています。
しかし、神様はご自分の名前を私たちに名乗ってくださいます。それ自体、すでに、神様の大いなるへりくだりです。では、いかなるお名前なのか?「私はいる、というものである。(3:13)」不思議な名です。さらに、「あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主(15節)」とあります。「私はいる」、そして「主」、これが神様のお名前です。
「私はいる」というのは、新共同訳では「私はある」と訳されていましたが、変わりました。「ある」というのは、物に使う存在の動詞です。「いる」は、人などの、生きたものに使います。そういうことで、訳を変更したのかもしれません。神様は哲学的な概念とか、大いなる自然の驚異のようなものではなく、私たちと共にいて、私たちと名前を呼び合う関係になりたいと願っていてくださるお方です。今、私たちはこのお方のことを「主イエス・キリストの父」と知らされ、そうお呼びすることが許されています。

2019年2月1日金曜日

2019年2月1日(出エジプト記1〜2)

今日の通読箇所:マタイによる福音書24:29-51、出エジプト記1~2、詩編37

出エジプト記1~2;
ヨセフの時代から時間が経ち、新しい時代のエジプト王は増えゆくヘブライ人を恐れ、彼らを奴隷にする政策を執りました。物語がとても豊かな箇所ですので、ぜひ聖書本文を読んでからこのメッセージを読んで頂ければと思います。
たくさんの登場人物が出てきますが、恐れ(畏れ)にまつわるイメージで見ていくことができると思います。ヘブライ人が増えすぎ、ファラオは恐れています。その言葉を聞いて、エジプト人たちも同様だったのでしょう。だから、彼らはヘブライ人たちを奴隷としてこき使いました。あるいは、大人になったモーセです。同胞が打たれているのを見て、加害者を殺してしまいました。誰も見ていなかったはずでしたが、翌日別のヘブライ人の同胞に言われてしまった。「あのエジプト人を殺したように、私を殺そうというのか」と。それを聞いて、「モーセは恐れ、きっとのあのことが知られているのだと思った(2:14)」。ファラオやエジプト人の恐れは、まさに、現代社会を覆い尽くしてしまっている恐れであるように思います。難民・移民のために自分たちの権利が侵害され、彼らの方が得をしているという根拠が曖昧な脅威感のための恐れと、そこから生まれる憎しみです。モーセの恐れ、自分の隠したはずの憎しみや暴力的な言動が知られているのではないかという恐れです
ところが、ここには別の畏れもあります。ファラオからヘブライ人の男児を殺せと命じられた助産婦です。「助産婦たちは神を畏れていたので、エジプトの王が命じたとおりにはせず、生まれた男の子を生かしておいた(1:17)」。あるいは、モーセの姉です。川に浮かぶ弟の籠を見守り、それを見つけたファラオの娘の前に進み出た彼女は、ファラオを恐れてはいなかったのでしょう。
助産婦たちがファラオを恐れなかったのは、神を畏れていたからです。私たちは、何を恐れているのでしょうか。本当に畏れるべき方を畏れているのでしょうか。

2026年7月29日の聖句

昼も夜も、わたしは涙を食物とする。 人は日夜私に言う 「あなたの神はどこにいるのか」と。(詩編42:4) (パウロの言葉)私が投獄されているのはキリストのためであると、兵営全体と、その他のすべての人に知れ渡り、主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄された...