2021年10月31日日曜日

2021年10月31日の御言葉

私は主である。私が語ることは起こり、引き延ばされることはない。(エゼキエル12:25)
神の国は言葉の中にはありません、力の中にあります。(1コリント4:20)

言葉は、何のためにあるのでしょうか?
もちろんコミュニケーションを取るためにある。何のためにコミュニケーションを取るのか。それは何かの出来事を起こすためです。赤ちゃんは、泣くとか笑うとか、言葉にならないような言葉によって出来事を起こします。お腹がすいたとか、お尻が気持ち悪いとか、そういうことを伝えて、自分の世話をするように伝えます。すると出来事が起こる。大人の言葉はもっと複雑です。出来事の起こし方にも手が込んでいる。率直な物言いをすることもあれば、婉曲に何かを伝えたり、伝えない振りをして伝えたり。しかしいずれにしても、言葉によって何かの出来事を起こそうとする。だからこそ、無視されると傷つきます。自分の言葉が空しく地に落ちると、とてもさみしい気持ちになります。
言葉は出来事を起こすために語られる。神さまは言葉を語りかけることを通して、私たちの間に出来事を起こします。神の国は、力の中にあると言います。空しく地の落ちる言葉ではない。神の国は、それを実現させる神の力の中に実現する。私たちはこの神の力を、例えば礼拝のときに目撃しています。神さまが神の民を招集し、それに応えて神の前に集まる。私たちは神に祈り、御言葉を待ち望み、賛美を献げます。神さまが私たちを福音の出来事の中に呼び集めてくださっていることを信じて、私たちは神の前に集まっています。神の国は私たちの間にあるのです。キリストは「神の国は近づいた」と言われます。キリストがそう言われたからには、それは本当のことです。神の国は、もう私たちのところに来ています。駅員さんが「電車が来ました」と言ったら、もう電車が来ているのと同じです。神の国はもう来ている。だから私たちも神を信じるようになったし、今日も祈りによって一日を始めようとしているのです。神さまの御言葉によって、私たちに出来事が起こる。
今日、私たちは、神さまの始める出来事に開かれているでしょうか。神さまの御言葉の起こす出来事を待ち望み、その出来事を楽しみましょう。私たちに語りかけるために、神は今私たちの前に立っておられます。

2021年10月30日土曜日

2021年10月30日の聖句

私は主、あなたの医者である。(出エジプト記15:26)
日が沈むと、様々な病に悩む者たちがイエスのところに連れてこられた。イエスは一人一人に手を置いて癒やされた。(ルカ4:40)

主なる神様は、私たちの医者です。私たちの傷や痛みに優しく手を伸ばして触れ、癒やしてくださいます。しかも、主イエスは「一人一人に手を置いて癒やされた」といいます。一人ひとり、というこの言葉はなんと慰めに満ちていることでしょう。主イエスは私たちを十把一絡げに扱うのではなく、一人ひとりに手を置いてくださる。私たちの声に耳を傾け、痛みを知り、この私をいやしてくださるお方です。
そうは言っても、いくら祈っても癒やされない、私のこの痛みを神さまは癒やしてくださらない、そういう経験もしばしばです。どうしてなのか。なぜ神さまは私を癒やしてくださらないのか。ある人は、それはあなたの悔い改めが足りないからだと言います。あるいはあなたが癒やされないのは、それが神さまの御心だからだと言います。そのような言葉はまったく間違っています。間違っているどころか、甚だ不遜です。誰が神さまに成り代わってそのようなことを言っていいのでしょうか?人に対する神さまの御心を騙ることなんて、私たちには許されていません。
それでは、なぜ癒やされないことが起こりうるのか?それは私たちには分からない。ただ一つ言えることは、主イエス御自身が誰よりも痛みを知り、病を知り、悲しみを知っておられる方だということです。イザヤ書第53章によれば、イエスは「多くの痛みを負い、病を知っている」、しかも「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであった」のです。それなのに「私たちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と」。この方が私たちの罪や咎をすべて背負ってくださったから、私たちは罪ゆるされ、生きることができたのです。だから、主イエス・キリストこそが私たちの医者なのです。
イエス・キリストという医者は破格の医者です。私たちを癒やすために私たちの病を負い、罪を背負ってくださいました。私たちは、今もなお肉体や心の痛み、苦しみを負わなければならないかもしれません。それはキリストの苦しみの欠けたところを補う痛みであり、苦しみです。キリストにあって、私たちの痛みには意味があるのです。

2021年10月29日金曜日

2021年10月29日の聖句

あなたのものです、主よ、王国も。あなたはすべてのものの上に、かしらとして崇められます。(歴代誌上29:11)
だから憐れみを受け、恵みにあずかり、折りに叶った助けを得るために、堂々と恵みの座に近づきましょう。(ヘブライ4:16)

主の祈りの最後の部分、「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」という頌栄の言葉は、もともと主イエスが弟子たちにお教えになった祈りではありません。後に教会が付加した神への賛美の告白です。主イエスがお教えになった主の祈りオリジナル言葉ではない。そのことははっきりしています。しかし世々の教会はこの言葉をも主の祈りの欠かせない一部として祈り続けてきました。「国と力と栄え」、これらはどれも政治の匂いがする言葉です。世の支配者たちは自分の「国」を築くことにやっきになり、そのために「力」を振りかざし、自分たちを信頼させようと「栄光」を身にまとおうとします。しかし私たちは、国と力と栄光とは、永遠に主なる神様のものであると信じ、そのように祈っているのです。
「あなたのものです、主よ、王国も。あなたはすべてのものの上に、かしらとして崇められます。」神が国を支配し、すべてのものの頭として崇められますように。私たちの国や社会を形成している原理やシステムは、どういう価値観や考えの上に造られているのでしょうか。もしもそれが消費することを豊かさのしるしだと考えるものであったり、成功することが人生の価値だと考えたりするものであったとしたら、それは主イエスの教えてくださったこととは違っていると言わざるを得ないと思います。ただ、私たち人間がすることは、例えどういう人が権力を持つにしても不可避的に、神さまから離れた国作りにならざるを得ないのかも知れません。だからこそ、私たちは祈る。「あなたのものです、主よ、王国も。あなたはすべてのものの上に、かしらとして崇められます。」神を崇め、身を低くして生きることが、私たちが人間らしく生きる第一歩だと私は信じています。

2021年10月28日木曜日

2021年10月28日の聖句

本当に、私たちの神、主のもと以外には、イスラエルの救いはありません。(エレミヤ3:23)
イエスは群衆を地面にすわらせ、七つのパンと魚を取り、感謝してからそれを裂き、弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。(マタイ15:35~36)

ここに書いてあるのとは別の出来事ですが、主イエスがガリラヤのカナというところで、婚礼の席のために水をぶどう酒に変えたという奇跡がありました。古代教会の教父の一人、アウグスティヌスという人がこの奇跡について、このような趣旨のことを言っています。主イエスがこのように水をぶどう酒に変えたという奇跡を聞くと、皆驚く。しかし、神は太陽を昇らせ、雨を降らせてぶどうを実らせ、人はそれを酒舟でぶどう酒にする。実はぶどう酒を生み出す神の奇跡はいつでも行われている。しかし人はそれを驚かない。
私がこの話思い出したのは、マタイが伝えている今日の御言葉を読んだからです。この日、主イエスは七つのパンと魚によって4000人の群衆を養いました。しかも大人の男だけで4000人と書いてありますから、総勢何人でしょうか。それをたった七つのパン、そして魚だけで。大変な奇跡です。私たちはこれを見て驚く。ところが、その4000人、あるいは女子どもも合わせたもっとたくさんのそこに集まった人たちは、毎日食事をし、水を飲み、生活を営んでいます。こうやって一度にたくさんの人が少ないもので養われたと言われれば大変な奇跡だと思いますが、実は毎日の生活も神さまの慈しみに満ちた奇跡の上に成り立っているのです。私たちが毎日を生きていること、食べていること、飲んでいること、それらは皆当たり前のことではありません。私たちを養う神さまの慈しみ深い奇跡の上に、私たちの命は保たれているのです。
「本当に、私たちの神、主のもと以外には、イスラエルの救いはありません。」本当に、そのとおりです。私たちの神、主のもとに、私たちの救いがあるし、私たちの命があるし、私たちの生活があります。この世にいるすべての人が、今日も神の慈しみの中に保たれています。神の慈しみと無関係に生きられる人なんていない。この大いなる神の愛に感謝をし、私たちのためにパンを裂いてくださるキリストの愛の中を、今日私たちは生かされているのです。

2021年10月27日水曜日

2021年10月27日の聖句

主を崇めよう、私と一緒に、共々に御名を崇めよう。(詩編34:4)
神の約束はすべて、イエス・キリストにおいて「然り」となりました。だから私たちはこの方を通して神に「アーメン」と唱え栄光を帰します。(2コリント1:20)

私たちの周りには「否」があふれています。新しい課題に直面すれば「でも、無理なんじゃないか」、何かのアイデアを考えれば「こういうよくないところがある」、あるいは他の人がしていることが気に入らなかったり、近しい人の小さな欠点が許せなかったり・・・。とにかく、私たちの周りにはたくさんの「否」があふれているのではないかと思います。ところが、神さまはそうではありません。神さまは大いなる「然り」を告げてくださっています。ちっぽけな、その場をごまかすだけ、調子を合わせるだけの「然り」ではありません。「大いなる然り」です。
「神の約束はすべて、イエス・キリストにおいて「然り」となりました。」神の約束、とこの聖書の言葉を書いた使徒パウロは言います。神の約束とは何か。例えば同じ手紙の5:18を見ると「神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ」と書いてあります。私たちは、神と敵対していた。神は私たちにとって不倶戴天の仇に他ならなかった。私たちの命の根本、存在の根幹は、神さまです。私たちに命を与えた神さまと敵対しているから、私たちは自分らしくいきられないし、人間らしさを失っている。ところが神の方から、私たちと和解してくださった。先ほどの言葉に続けて、パウロはこのように言います。「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」キリストによって、神は私たちをご自分と和解させた。だから、「神の約束はすべて、イエス・キリストにおいて「然り」となりました。」つまり、キリストによって、私たちの存在や命が根本から「然り」となったのです。神と和解させていただいたから。私たちの命の根源であるかたと、私たちはもはや敵対していないから。
私たちの周りには「否」があふれています。それは考えてみれば、私たちがいろいろなものと、知らず知らずのうちに敵対しているということなのかも知れません。自分のこだわりだったり、相手の至らなさを許せない自負心だったり、お互いの感情のしこりだったり、いろいろな理由で私たちはお互いに「否」を向け続けてしまうのかもしれません。どうやったら和解できるのか、もはやよく分からない。しかし、神さまがまず私たちに和解の手を伸ばしてくださいました。私たちに「然り」を、大いなる然りを向けて、私たちの存在を根本的に然りとし、キリストの愛の光の中に置いてくださった。ここに、私たちの口に和解の言葉が生まれるのです。

2021年10月26日火曜日

2021年10月26日の聖句

ある者は戦車を、ある者は馬を信頼する。しかし私たちは私たちの神、主のみ名に思いを寄せる。(詩編20:8)
自分に定められている競争を忍耐強く走りましょう。信仰の創始者であり、完成者であるイエスを見つめて。(ヘブライ12:1~2)

昨日、保育園に行って祝福式の礼拝のお手伝いをしました。子どもたち一人ひとりの名前を呼んで、祝福の祈りをしました。コロナの前は一人ひとりの頭に手を置いていたのですが、今保育園ではそれはできません。来年にはできればと願っています。子どもたちのための祝福の祈りをする前に、聖書のお話をしました。今週私に割り当てられていた聖書の御言葉を読みました。中風の人をイエスさまのところへ連れて来た四人の友達の話です。屋根に穴を開けて病人をつり降ろしたと放したら、子どもたちが「エー!」と言ってびっくりしながら聞いてくれました。楽しい時間でした。この子たちが、イエスを見つめて歩む人生を送ってほしいと切に願います。
「自分に定められている競争を忍耐強く走りましょう。信仰の創始者であり、完成者であるイエスを見つめて。」私たちはイエスを見つめて走るとき、行くべき道を進むことができるし、その道を走ることに勇気を持つことができるのです。
私はマラソンはしたことがありません。42キロもの距離をどんなことを考えながら走っているのだろうと思います。世界のトップアスリートでも二時間以上かかります。大変な競技です。この大変な競技も、ゴールがあるから走れるのだと思います。ゴールの場所が分からないで走り出すことはありません。10キロ地点なのか、40キロなのか、100キロ走ってもゴールにたどり着かないのか。それが分からなければどのように走ったら良いのか分からないのではないかと思います。
私たちは、キリストを見つめながら自分に定められたを走ります。私たちの人生の競争は、マラソンのように長い距離の人もいれば、短い時間で走り終える人もいます。端から見るとなだらかに見える道の人も、非常に険しい道の人もいる。それは神さまが長駄目になった競争です。距離は決まっていない。しかし、私たちはキリストを見つめて走ります。その点は同じ。そして、キリストを見つめて走るからこそ、私たちはゴールを目指して忍耐強く走ることができる。栄冠に輝くとき、必ずキリストが迎えてくださるからです。
私たちの今日一日が、キリストを見つめながら進むものでありますように。キリストの祝福の中で走る一日でありますように。

2021年10月25日月曜日

2021年10月25日の聖句

神よ、沈黙しないでください。神よ、だまり続けないでください。ご覧ください。あなたの敵が騒ぎ立ちあなたを憎む者が頭をもたげています。(詩編83:2~3)
私たちを悪より救いだしてください。(マタイ6:13)

「私たちを悪より救いだしてください。」これは、主の祈りの一節です。キリストが私たちに教えてくださった祈り。キリストは私たちに「救ってください」と祈ることを教えてくださいました。私たちは祈って良いのです。救ってください、助けてください、と。
「私たちを悪より救いだしてください。」こう祈る者は、私たちに襲いかかる悪の力を知っています。リアリストの祈りです。かつて、シモン・ペトロは自分に襲いかかる悪の力の苛烈さを知りませんでした。あるいは、嘗めていました。主イエスがペトロにおっしゃいます。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」しかしそう言われた当のシモン・ペトロは言います。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」私たちは聖書を読んで知っています。シモンはその夜の内に、イエスを知らないと繰り返して口にし、悪魔のふるいにかけられてしまったこと、そして悪魔の力に見事に負けてしまったことを。私たちを襲う悪の力は強く、私たちは弱いのです。
「神よ、沈黙しないでください。神よ、だまり続けないでください。ご覧ください。あなたの敵が騒ぎ立ちあなたを憎む者が頭をもたげています。」この詩編が「神よ、沈黙しないでください」と祈るのは、私たちが悪の力に弱いからに他なりません。悪の力に私たちは自分で打ち勝つことができない。だから、「神よ、沈黙しないでください」と私たちは祈る。「私たちを悪より救いだしてください!」
シモン・ペトロが立ち直ることができたのは、主イエスが彼のために祈ってくださったからです。やがて立ち直ったシモン・ペトロは、悪の力に立ちすくむ他の兄弟姉妹を力づけてやるために手紙を書きます。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんでいたあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことのないようにしてくださいます(1ペトロ5:8~11)。」
私たちは今日も祈ります。「私たちを悪より救いだしてください!」

2021年10月24日日曜日

2021年10月24日の聖句

私の霊があなたがたの中にとどまっている。恐れてはならない。(ハガイ2:5)
希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力により希望にあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)

今日の旧約聖書の御言葉は、ハガイ書2:5の後半にあたります。前半も含めて見てみると、このように書かれています。「ここに、お前たちがエジプトを出たとき、わたしがお前たちと結んだ契約がある。私の霊があなたがたの中にとどまっている。恐れてはならない。」神さまの霊が私たちの内にとどまっているというのは、イスラエルの民がエジプトを出たときの契約に基づくことなのだ、と言っています。
ところで、ハガイ書の1:1を見てみると「ダレイオス王の第二年6月1日」と書かれています。ダレイオス王というのは、大体紀元前550年頃の人物です。ハガイはこの時代を生きた。これに対してイスラエルの人々がエジプトを出たのがいつ頃なのかを確定するのは難しいところもありますが、おおよそ紀元前13世紀頃と考えられます。つまり、ハガイの時代(ダレイオスの時代)から考えると、エジプトを出たときの神との契約というのは、900年近く前のことになります。とてつもなく昔です。しかし、神さまは今でも昔の約束に忠実であり、その契約に従って神の霊があなたたちの中にとどまっている、と言われるのです。
キリストの時代から現代まで2000年経ちました。しかし神さまの目から御覧になれば1000年も一日のようであり、一日も1000年のようだと言います。私たちの時間の尺度で測った時間の隔たりなど、神さまにとって何ほどのことでしょう。神さまの約束が古びたり、廃れたりしてしまうことなど、決していないのです。
神の霊が私たちの中にいる。それは、どのようなときにも神が私たちと共にいてくださるということです。信仰によるすべての喜びと平安で私たちを満たし、聖霊、神の霊の力によって私たちに希望をあふれさせてくださる、それが神の霊の私たちの中での働きです。私たちも神の霊の約束にあずかっているのです。
今日も、神の霊は私たちの中にいてくださいます。それは感じることではなくて、信じることです。この私にも神の霊が働いていてくださる。そのことを信じましょう。そして信仰に喜びに満たされて、今日という一日を歩んでいきましょう。

2021年10月23日土曜日

2021年10月23日の聖句

あなたは食べて満足するとき、あなたの神、主をたたえなさい。(申命記8:10)
食べるにも、飲むにも、また何をするにも、すべて神の栄光のためにしなさい。(1コリント10:31)

今朝の御言葉はとても印象的です。「食べるにも、飲むにも、また何をするにも、すべて神の栄光のためにしなさい。」食事を頂くときに感謝の祈りをする。それは多くのキリスト者が習慣にしていることではないかと思います。神さまに、この食事をくださったこと、こうして私の命をつなぎ、養ってくださることを感謝する。ご飯が食べられるのは当たり前のことではなく、まさに文字通りに「有り難い」ことですから、その希有な恵みを神さまに感謝するのはとても大切で、美しいことであると思います。
しかしこの聖書の御言葉は、更にその一歩先に進んでいると思います。「食べるにも、飲むにも、また何をするにも、すべて神の栄光のためにしなさい。」感謝するだけではない、ありがとうございますと言うだけではない。すべて神の栄光のために。私たちが食べたり飲んだりすること、あるいはそこから始まる生活の業のすべてが神の栄光のためであること。日常の営みが神を賛美するためにささげられること。聖書は、私たちにそのように言うのです。
神の栄光のために。それは、私の人生の目的が私自身ではなく、外に向かうということを意味します。自己目的のために私たちは生きているのではない。私たちはキリストをさす指として、神をたたえる口として生きる。もしも自分自身が人生の最終的な目的だったら、私たちの行動の基準は損得だったり、そのための計算だったりにならざるをえない。ところが私たちの人生の目的が神をほめたたえることであれば、私たちは自分の損得を超えて生きることができます。賛美は、私たちを自分自身から解放します。
バッハは、自分の作曲した楽譜の最後にS.D.G.と書いたそうです。「ただ神にのみ栄光を」という意味のラテン語の頭文字。私たちの食べたり飲んだりから始まる日常のあらゆること、お風呂に入ったり掃除をしたり、通勤通学をしたり。そういうあらゆることの最後に、私たちもS.D.G.と書き記し、神の栄光のために私たちの日常を献げていきましょう。

2021年10月22日金曜日

2021年10月22日の聖句

主はいつもあなたを導き、不毛の地でも食を満たしてくださる。(イザヤ58:11)
神はキリスト・イエスの栄光のうちにある豊かさに応じてあなたがたの必要をすべて満たされる。(フィリピ4:19)

何年か前にブラジルのバイア州にある私たちの姉妹教会、マッタ・デ・サン・ジョアン教会を訪問しました。ジョタカ入植地という農村です。戦後、ブラジル政府が移民を住まわせた場所の一つでした。今は大きな農園がたくさんある場所ですが、最初はすごく痩せていて、まさに不毛の地だったそうです。入植した人々は何も育たない場所を開墾し、本当に苦労して生きてこられました。彼の地に入植した一つのキリスト者の家庭の祈りがやがて教会になったのです。
「主はいつもあなたを導き、不毛の地でも食を満たしてくださる。」この言葉を読んで、私はジョタカの教会のことを思いました。そして同時に、生半可なことでは私には口にできないことだとも思いました。文字通りの不毛の地で生き、食うことに命をかけてきた人たちのことだからです。
思えば、イスラエルの人々も同じように生きることの厳しさを知っている人々です。イスラエルが位置するパレスチナ地方はいわゆる肥沃な三日月地帯の一部で、作物はよく実った。しかしその分外国からの侵略にいつも晒されていた場所ですから、常に戦争をしていました。生きること自体が本当に厳しい戦いだったに違いありません。だからこそ、イスラエルの民は神が私たちを養ってくださることを信じ、その神様に頼って生きていました。「主はいつもあなたを導き、不毛の地でも食を満たしてくださる。」
今は食べ物を得るということが大きな社会システムの上に乗っているので私たちには気づきにくいところがありますが、しかし私たちは自分の力だけで生きることは不可能です。たくさんの人の助けを借りなければ生きられないし、根本的に、私たちの命を支えてくださる神さまに頼らなくては生きることができません。私たちを支えてくださる神さまの恵みは、何よりもキリストにおいてはっきりと表されました。「神はキリスト・イエスの栄光のうちにある豊かさに応じてあなたがたの必要をすべて満たされる。」この神の豊かな恵みによって、今日の私も支えられている。そういう一日が、始まっています。

2021年10月21日木曜日

2021年10月21日の御言葉

ルツは言った:あなたを捨て、あなたに背を向けて帰るよう仕向けないでください。あなたが住むところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。(ルツ1:16)
ユダヤ人もギリシア人もありません。奴隷も自由人も、男も女もありません。あなたがたは皆キリスト・イエスにあって一つだからです。(ガラテヤ3:28)

今日の新約聖書の御言葉はガラテヤの信徒への手紙の一節です。ガラテヤというのは小アジアの中部に位置し、つまりイスラエルの外にあります。従って、ガラテヤの教会の人々の多くは異邦人でした。この手紙を書いたパウロが伝道して生まれた教会です。十字架にかけられたキリスト、私たちのために死んでくださったキリストの恵みによって私たちは救われる。彼らはそう信じて洗礼を受け、神を信じて生きていました。
ところがパウロがガラテヤ教会から旅立って別の場所で伝道を始めた後、別の指導者がガラテヤ教会にやって来た。彼は、確かにキリストの恵みによって救われるのだが、そのためには、旧約聖書が命じているとおりに割礼を受けなければならないと説きました。ガラテヤ教会の中にはその言葉を信じて、割礼を受ける者も出てきました。
パウロはそれを聞き、嘆きます。「ああ、物わかりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが"霊"を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。」割礼を受けなければならないという教えには二つの問題があります。一つは割礼という「善行」によらなければ救われない、という問題。これを是とすると、結局人間を救うのは神の恵みではなくて人間の善行ということになります。もう一つは、割礼に潜むユダヤの民族性です。割礼は律法に定められていましたが、この時代の割礼の実際的な意味は「ユダヤ人になる」ということでした。異邦人はまず割礼でユダヤ人になって、それから神さまを信じる資格がある、ということになってしまいます。
かつて、カンバーランド長老教会の総会がアメリカで開かれると、正面に星条旗が飾られていたそうです。しかし教会は「アメリカ人の教会」ではありません。もちろん「日本人の教会」でもないし、「コロンビア人の教会」でもない。民族性を超えた場所です。やがてその旗は撤去されました。今朝の旧約のルツという女性は、やがてダビデ王の曾祖母になる人ですが、もとはモアブ人でした。モアブはイスラエルの宿敵のような存在です。しかしモアブの女がやがてダビデの家の母となり、この家系からイエスがお生まれになります。教会は民族を超えている。私たちは、いつの間にか知らず知らずのうちに何かの旗が掲げられていないでしょうか?

2021年10月20日水曜日

2021年10月20日の聖句

主は言われた。「人の故に地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼いときから悪いからだ。」(創世記8:21)
実にすべての人に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、私たちが不敬虔と欲を捨て、慎み深く正しく敬虔に生きるように教えます。(テトス2:11~12)

「人の故に地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼いときから悪いからだ。」これでは、原因と結果のつじつまが合っていません。「人の故に地を呪うことはもう二度としない」と言うのであれば、その理由は人が心に計ることがいくらかマシになっているからだとか、彼らが悔い改めたからだとか、そういうことでないと因果のバランスがとれません。それなのに、もう二度と地を呪わないのは「人が心に計ることは、幼いときから悪いからだ」と言われるのです。これでは因果が通らない。
「人が心に計ることは、幼いときから悪いからだ」という原因から出発するのであれば、もうこの地を滅ぼしてしまおうという結果を招くというのが理屈が通ります。道理を考えれば、悪いものは滅ぼそうとしかなりようがない。
この御言葉は、ノアの箱舟の最後のところで主なる神様がおっしゃったことです。洪水の後に「人の故に地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼いときから悪いから」と言われた。しかし、この話の最初はそうではありませんでした。最初、主なる神様は人が常に悪いことを心に思い計っているのを御覧になって、おっしゃいました。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけではなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」こうして、洪水が始まっていくことになります。
神さまが因果を正しく貫こうとされたら、私たちは滅ぼされるしかありません。神さまが正しく裁きをなさるのなら、私たちには生きることができません。ところが、神さまは、私たちが幼いときから悪いから、どうしようもなく悪に染まっているから、そんな私たちの故に地を呪うことはもうしないと言ってくださるのです。神さまが今地を滅ぼさないのは、私たちがいくらかマシになったからではありません。私たちが悪いから、神さまはそんな私たちを悪から救うために待っていてくださるのです。
「実にすべての人に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、私たちが不敬虔と欲を捨て、慎み深く正しく敬虔に生きるように教えます。」私たちのための途方もない神の恵み。これだけが私たちを新しくします。私たちが神さまに向かっていることができるように、神さまの途方もない、計り知れない恵みが、生まれついて悪に染まっている私たちを新しくしてくださるのです。

2021年10月19日火曜日

2021年10月19日の聖句

主はあなたがたに恵を与えようとして待つ。(イザヤ30:18)
息子はまだ遠く離れていたのに、父は息子を見つけて憐れに思い、走り寄って首を抱いて接吻した。(ルカ15:20)

ここに出て来るのは、父を拒んだ息子です。彼は、父に自分がもらうことになっている財産の分け前を要求しました。その傲慢に応えて、父は彼が生きるために必要なものを与えてくれました。しかしそれをすぐに金に換えて、父から遠く離れてしまったのです。遠い国で放蕩の限りを尽くし、結局は飢饉のために行き詰まり、かといって助けてくれる友達もいなかった。豚の餌でも食べたいと思いましたが、誰も何もくれませんでした。そこでやっと我に返った息子は父の家に帰ろうと決意し、家路についたのです。
「息子はまだ遠く離れていたのに、父は息子を見つけて憐れに思い、走り寄って首を抱いて接吻した。」
まだ遠く離れていたのに父が息子を見つけたのは、父が息子を待っていたから。他の理由は考えられません。父は息子が帰ってくるのを待ちわびて、毎日外に出て息子がいなくなった方向を見つめていたに違いない。これは、私たちの慈しみ深い神さまの父としての愛を伝えるために主イエスが話してくださった譬えです。自分を捨てた息子を待ちわびる父は、ご自分を捨てた私たちを待ちわびる神さまです。「主はあなたがたに恵を与えようとして待つ。」神さまは、私たちを待っていてくださいます。しかも、恵を与えるために待っていてくださるのです。私たちが神さまの愛を裏切り、神さまを捨て、傷つけたとしても、そんな私たちに恵を与えるために、神さまは待っていてくださいます。
ですから、私たちも神さまの御許に返りましょう。息子がそうであったように。父の家を思い出した息子のように、私たちも神さまの御許にある幸せを思い出しましょう。毎日、繰り返し、神さまの御前に返りましょう。そこにこそ、私たちの最高の幸せがあるからです。神さまの御許にこそ、私たちを本当に生かす恵があるからです。

2021年10月18日月曜日

2021年10月18日の聖句

神は言われる:苦難の時には私を呼べ、そうすれば私はあなたを助け出し、あなたは私を称える。(詩編50:15)
あなたがたの一切の心配を神に委ねなさい、神があなたがたを心にかけておられます。(1ペトロ5:7)

私たちの神さまは本当に優しい方です。私たちに並々ならぬ関心を持っていてくださいます。「苦難の時には私を呼べ」と神さまは言われます。私たちが苦難に襲われていないか、心配していないか、悩んだり苦しんだりしていないか、神さまはそういうことを心にかけて、もしも私たちが苦難の中で神を呼んだときには、私たちを放っておかずに助けてくださるのです。「苦難の時には私を呼べ、そうすれば私はあなたを助け出」す、と神さまは言われるのです。
セルフネグレクトという言葉があります。ネグレクトというと、よく育児放棄を射して遣われることが多い言葉になりました。親が子どもを育てることを拒んでしまう。虐待の一つです。それがセルフネグレクトということになると、自分への関心を持たない、自分を大切にしようとしない、自分を愛することを放棄してしまうという。具体的には不潔や不衛生、治療やケアの放置、地域での孤立などが挙げられています。そこまで極端にならずとも、実際のところそういう傾向を持つ人は少なくないのかもしれません。自分を大切にすることに罪悪感を覚えてしまったり、自分にどうしても関心が向かなかったりしてしまうのです。
神さまは、例え私が私を愛することができなくなってしまったとしても、私に関心を持ち続けておられます。神さまは、私が私を大切にするよりももっと深く、もっと豊かに、私を愛してくださっています。例え私が私を捨てたとしても、神さまは私を捨てることがないのです。だから、「あなたがたの一切の心配を神に委ねなさい」と聖書は言います。それは「神があなたがたを心にかけておられ」るからです。
「苦難の時には私を呼べ、そうすれば私はあなたを助け出し、あなたは私を称える。」私たちの賛美は、苦難の中から献げる祈りに耳を傾け、私たちを助けてくださるお方に向かいます。祈りに耳を傾けてくださる神さまが、私という存在の基盤となってくださるのです。

2021年10月17日日曜日

2021年10月17日

彼は痛めつけられたとき、進んで苦しみを受け、屠り場に引かれていく羊のように口を開かなかった。(イザヤ53:7)
キリストは罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。(1ペトロ2:23)

私たちは、キリストの犠牲の上に生きています。キリストの命の犠牲の上に生かして頂いています。キリストは、苦しみを引き受け、小羊が屠り場に引かれて凝れされるようにして十字架にかけられ、血を流しました。キリストが流した血によって、私が代わって命を与えられました。キリストが全部を引き受けてくださいました。「キリストは罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。」神さまに全部を委ねて、ご自分に降りかかることをすべて甘んじて負ってくださいました。この方の命の犠牲によって、この方が罵りや苦しみを受けたときにやり返さず、脅さず、罵らずにその身に負ってくださったことで、私は罵りや苦しみから解放されました。キリストが引き受けてくださったからです。
誰かの犠牲の上に自分の命が成り立っているというのは、できればあまり考えたくないことです。そういうのは、あまり嬉しいことではありません。しかし根本的に、私はキリストの犠牲の上に生きているということが事実です。キリストが血を流したお陰で生かされているというのが私という存在の根っこにあるのです。
その事実を知るのと知らないのとでは生き方が変わらざるを得ないのではないでしょうか。キリストが私の犠牲になってくださった。そのお陰で私は生かされている。だから、他の人を犠牲にして平気な顔をすることはもはやできません。そして、私もキリストがしてくださったように他の人のためにしたい。それがキリストに生かされている私の新しい生き方です。
どこまでも、キリストにすがらなければ生きていかれない私です。小羊キリストの憐れみによってでしか生きられない私です。そして、この方は私が高邁ですばらしい人間だから犠牲になったのではなく、私がまだ罪人であったときに、私のために死んでくださったのです。この方の死のお陰で、私は生きる者となりました。

2021年10月16日土曜日

2021年10月16日の聖句

私たちはあなたを待ち望みます、主よ、あなたの裁きの道で。(イザヤ26:8)
私たちは皆、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされなければなりません。(2コリント5:10)

運転していて、ときどきパトカーや白バイに出くわすことがあります。取り締まりでもしているのか。曲がれない交差点をうっかり曲がってしまう車を待ち伏せていたり、スピード違反の車を捕まえたり。違反していなくても、パトカーを見るとドキッとしてしまいます。
警察がいると思うと思わず居住まいを正す私たちは、神さまの御前ではどのように振る舞っているでしょうか。警察を例としてあげると、神さまも私たちが何か悪いことをしていないかと見張っているような印象を受けて、あまりよい喩えではなかったかもしれません。ただ、神さまの御前で自分は何者か、自分は神さまの御前にあってどのように振る舞い、生きてきたのかということを省みるというのはとても大切なことであると思います。私たちは誰の目を重んじて生きているのでしょうか?
それにしても驚くのは、旧約聖書の御言葉です。「私たちは待ち望みます、主よ、あなたの裁きの道で」と言っています。「待ち望みます」。主の裁きを待ち望む。主の裁きが希望だからです。もしも神さまに見張られている、神さまは私の過ちを責めていると思っていたら、待ち望むことなんてできません。旧約の時代を生きたこの信仰者は、神の裁きは私にとっては救いだと信じていたのです。
私たちは、弱いです。社会的に影響力があるわけでもなく、何らかの力を持って自分たちの理想を実現させることもできません。しかし、私たちは祈り続けます。「御国を来たらせたまえ」と。この世界の有り様がどんなに神さまの御心からかけ離れていたとしても、私たちは希望を持って神さまを待ち、神さまに祈ります。神が裁きを行って、神さまの御国をこの世に造ってくださるように、と。いや、それは、すでに始まっています。イエス・キリストにおいて。キリストがどこまでも人を愛し、へりくだり、病む人や罪人の友となり、十字架の死に至るまで従順であられた。このお方によって、神の国は始まっている。神の裁きは始まっているのです。私たちはキリストの愛とへりくだりによって裁かれている。キリストの十字架の御前に立ち帰ることこそ、私たちが神の裁きを待ち望んで生きるということなのです。

2021年10月15日金曜日

2021年10月15日の聖句

あなたの隣人を虐げてはならない。(レビ19:13)
イエスは言われる:人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。(ルカ6:31)

今朝の旧約聖書の御言葉の続きにはこのように書いてあります。「あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。」ここに書いてあることは、どれも否定的な命令形です。全部「~するな」「~してはならない」という否定形の表現になっています。隣人を虐げない、奪い取らないなど、隣人を愛するとはどういうことなのかをしてはならないことを例示することで示しています。
しかし、主イエスは違うのです。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」キリストはそう言われます。これは否定的な命令ではなく、肯定的な命令です。「しなさい」という肯定形の表現をしています。隣人を愛するとは、あなたが人にしてもらいたいと思うことを人にすることだ、と主イエスは言われます。
ここに主イエスと旧約聖書との決定的な差があるのだと思います。主イエスは愛するとは何なのかを積極的に知っておられるのです。ローマの信徒への手紙にはこのような言葉があります。「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。」この手紙を書いた使徒パウロは、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉を主イエスがことのほか重んじたことを知っていたに違いありません。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という掟は十戒にもありますし、およそどういう社会でも犯してはならないことであると思います。しかしどんな掟も、否定的なかたちの命令に過ぎない。だから「隣人を自分のように愛しなさい」というキリストの命令こそが、すべての掟や戒めを包括するのです。
「人にしてもらいたいことを、人にもしなさい。」キリストこそがそうしてくださいました。そしてキリストに愛されたたくさんの人が私のためにそうしてくれました。私も、そういう愛の人として歩みたい。そう祈りつつ、今日一日の歩みを始めます。

2021年10月14日木曜日

2021年10月14日の聖句

幸いだ、ヤコブの神を助けとし、主に自分の望みを置く者は。(詩編146:5)
毅然としていなさい、そうすればあなたがたは命を得る。(ルカ21:19)

どのようなときにも毅然としているというのは、私のような気が小さい者には難しいことです。しかし臆病というのはほめられたことではありません。そうは分かっていても、毅然とできない、つまりおびえたり怖がったりするというのは「感情」ですから、これをコントロールするのは簡単なことではありません。
「幸いだ、ヤコブの神を助けとし、主に自分の望みを置く者は」と詩編は言います。ヤコブの神、と主なる神様をお呼びしています。ヤコブというのはアブラハムの子であるイサクの子の名前です。エサウという双子の兄がいました。ヤコブは父と兄を騙し、兄の憎しみをかって家にいられなくなってしまいました。一人で遠い国の親戚の家に逃れた。石を枕にして寝たこともありました。やっとたどり着いて迎えてくれた伯父は狡猾な人で、ヤコブをずいぶん騙してたっぷり働かせました。ヤコブは人間的にほめられるような高潔な人物ではまったくありません。しかし、どんなときにも神さまを信じ続けました。「幸いだ、ヤコブの神を助けとし、主に自分の望みを置く者は。」これは、そんなヤコブが信じた神を、ヤコブのようにしがみついて放さない必死さをもって信じ、望みをおく、ということです。この神に望みを置く者は、これからは毅然として生きることができるということではないでしょうか。
私が学生時代を過ごした教会にSさんという方がおられました。中学校の教師でした。教師生活最後の任地として、市内で最も荒れた中学校に自ら望んで赴任したそうです。使命感をもってのことだと思います。しかし、それでもやっぱり怖かった。最寄りの駅から歩いて通勤をした。歩きながら、主の祈りを祈ったそうです。主の祈りを祈りながら学校へ行き、中学生たちと向き合って生きた。とても印象的な話でしたから、私もよくまねをして主の祈りを祈りながら歩きます。
今日、主が私たちと共にいてくださいます。だから、私たちは毅然として生きることができる。主に頼り、主に望みを置く者として。キリストの平和が今日もあなたと共にありますように。

2021年10月13日水曜日

2021年10月13日の聖句

主はサムエルを呼ばれた。するとサムエルは「はい、ここにおります」と答えた。(サムエル上3:4)
主はパウロに言われた。恐れるな、語り続けて黙ってはいけない。私があなたと共にいる。(使徒18:9~10)

主なる神様がサムエルという少年を呼ばれました。「サムエル、サムエル」と。最初、少年は神さまに呼ばれていることが分からず、自分を育ててくれた祭司エリが呼んでいるのだと勘違いしましたが、やがてエリは主がお呼びなのだと気付き、サムエルに神さまに答えるように諭します。そして、主がサムエルを再びお呼びになり、サムエルは答えました。「はい、ここにおります」と。
神さまは私たちのことをもお呼びです。「サムエル、サムエル」と少年の名前をお呼びになったように、私たちの名前を主が呼んでおられます。私たちにその声が聞こえているでしょうか。聞こえたとして、それが主の呼び声だと気づいているでしょうか。この少年は、夜寝ているときに呼ばれました。彼にとっては意外なことでした。神さまは私たちが予想もしていないときにお呼びになるのかも知れません。しかしそれがどのようなときであっても、サムエルのように「はい、ここにおります」と神さまに返事をして、さらに神さまが語りかける言葉に耳を傾けていきたいと願います。
主なる神様は、パウロにも語りかけられました。「恐れるな、語り続けて黙ってはいけない。私があなたと共にいる。」主がパウロにお語りになったのは、彼が神さまに与えられた使命に生きていくためでした。畏れることなく、福音の言葉を語り続けるようにと神さまがパウロを励まし、力を与えるためにお語りになったのです。
サムエルを呼び、パウロを呼んだ主なる神様は、私たちを呼んでおられます。私たちが与えられた使命に生きるように、主が私たちの名前を呼んで語りかけておられます。「恐れるな」と。

2021年10月12日火曜日

2021年10月12日の聖句

私たちが御前に祈りと信頼をもって伏すのは、私たちの義(ただ)しさによるのではなく、あなたの大いなる憐れみによります。(ダニエル9:18)
キリスト・イエスにあって、キリストに対する信仰により、私たちは確信を持って大胆に神に近づくことができます。(エフェソ3:12)

「あなたの憐れみ」、主なる神様の憐れみによって!これが私たちのすべてです。これ以外には何もない。神を信じるというのは、唯一の神がいるということを信じるということではありません。そのようなことは悪魔だって知っています。単に神が存在するとか偉大だとか、そういうことではなく、この果てしなく大いなる方が私を憐れんでくださっていると信じることです。いや、その「信じる」ということさえも私たちの信仰力のようなものではない。ただ神の憐れみの中で神の御前に生かされているという、そのことだけなのです。
だからこそ、私たちは神さまに祈ることができるし、神さまと共に生きることは私たちの計り知れない喜びです。「キリスト・イエスにあって、キリストに対する信仰により、私たちは確信を持って大胆に神に近づくことができます。」キリスト・イエスにあって、と言っています。イエス・キリストとお呼びすることが多いですが、ここでは「キリスト・イエス」とお呼びしています。「イエス・キリスト」は、イエスはキリスト、イエスは救い主という意味です。「キリスト・イエス」と順序が変わると、キリスト、救い主はイエス、この方をおいて他にはないと強調点が変わると言うことができると思います。
「キリスト・イエスにあって、キリストに対する信仰により、私たちは確信を持って大胆に神に近づくことができます。」イエスというこの救い主、他にはいない無二の愛のお方が私たちを父なる神様の御前に連れ出してくださいます。この方が私たちが大胆にも神に祈る道を拓いてくださいます。神の憐れみ、キリストの憐れみによって、私たちは神の愛の中で生きる幸いに招き入れられたのです。

2021年10月11日月曜日

2021年10月11日の聖句

これらの日の後に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである ー主の言葉ー 私の律法を彼らの心に与え、その意味を書き記す。そして私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。(エレミヤ31:33)
天と地は過ぎゆきます。しかし私の言葉は決して過ぎ去りません。(ルカ21:33)

「天と地は過ぎゆきます。」私たちからしたら、何があってもこれだけは残ると思われるものの代名詞のような、大地や天の大空。それもやがて過ぎゆく。終わりの時が来る。私たちの時間のスケールではそれがいつなのかは計り知れません。しかし、どんなものであっても必ず終わりが来ることは確かです。どんなに確かだと思われるものであっても、必ず終わりの時が来る。「しかし私の言葉は過ぎ去りません」と主イエス・キリストは言われます。キリストの言葉は決して滅びることがないのです。「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ(イザヤ40:8)」のです。
聖歌の中に「とおきくにや」という讃美歌があります。こういう歌詞です。

遠き国や海の果て いずこにすむ民も見よ
慰めもて変わらざる 主の十字架は輝けり
慰めもて汝がために 慰めもて我がために
揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けり

私はこの歌がとても好きです。この地は揺れ動く。私も揺れ動くし、変わってしまうし、確かなところは一つもない。しかし、主の十字架は揺らぐことがない。主の十字架は慰め深く輝き続けている。この地を、十字架が支えている。
キリストの十字架の言葉が私たちを助け、支え、慰めます。「私の律法を彼らの心に与え、その意味を書き記す。そして私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」と主なる神様は言われます。この「主の律法」は、キリストの御言葉と言い換えても差し支えないでしょう。私たちの心に十字架の言葉を書き込んでくださる。揺れ動く私をキリストの十字架によって立たせてくださる。こうして、私たちは神の民として生きることができる。
私たちは自分も、大地も、天も、何もかもが不安定で、不確かで、揺れ動いていても、キリストの十字架の確かさによって、キリストの御言葉の確かさによって、立ち、生きることができるのです。

2021年10月10日日曜日

2021年10月10日の聖句

ナアマンは言った:僕(しもべ)はこれからはもう、主以外の神々に焼き尽くす献げ物やいけにえを献げません。(列王記下5:17)
兄弟たち、神の憐れみにより勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生きた献げ物として献げなさい。それが理にかなった礼拝です。(ローマ12:1)

ナアマンは外国の高官でしたが、皮膚病に苦しんでいました。どうしても治らなかった。それで主なる神様にいやして頂こうと、イスラエルの預言者のところへやって来たのです。いろいろなことがありましたが最終的にいやされ、主なる神様を信じるに至りました。それで言ったのが、今日の御言葉です。
「僕(しもべ)はこれからはもう、主以外の神々に焼き尽くす献げ物やいけにえを献げません。」
これは主なる神様と出会い、この方を愛した人の言葉です。新しい宗教に帰依して新しい戒律に縛られるようになったという話ではありません。この人は主なる神さまと出会った。主の愛に触れた。それで、主を信じた。だから、生き方が変わったのです。
神さまは私たちの愛や真心を求めておられます。使徒パウロは言います。「兄弟たち、神の憐れみにより勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生きた献げ物として献げなさい。それが理にかなった礼拝です。」自分の体を、神に喜ばれる聖なる生きた献げ物として献げる。主なる神様を愛し、自分自身を献げる。パウロ自身がそういう人です。この人もキリストと出会い、その愛に触れて、人生が変わりました。まったく新しい人になりました。だから、私と出会ってくださったキリストにわが身を献げたのです。主イエス・キリストへの愛に生きるようになりました。
私たちが今日神さまに祈る祈りが、神さまへのまっすぐな愛を献げるものでありますように。私たちの賛美が、私たちの献身が、何よりも先ず神さまへの純真な愛の献げ物でありますように。

2021年10月9日土曜日

2021年10月9日の聖句

今こそ、あなたがたは主を畏れ、真心と真実をもって主に仕えなさい。(ヨシュア21:14)
イエスは言われた:私に仕えようとする者は、私についてきなさい。私のいるところに私に仕える者もいることになる。(ヨハネ12:26)

私たちは、主イエス様と共にいたいといつも願っています。キリストが共にいてくださることを願い、そしてそれを信じて毎日の生活を営んでいます。主と共にいるというのは、具体的に何を意味しているのでしょうか。主イエス・キリストは、今日、「私のいるところに私に仕える者もいる」と言われます。私たちは主に仕えることによって、主と共にいるのです。
更に、主イエス様に仕えるとは、主イエス様についていくことです。「私に仕えようとする者は、私についてきなさい。」秋だというのに何とも暑い日が続いているので季節外れですが、冬、雪が積もったときを考えてみます。道路に雪が積もっていて、まだ雪かきされていない。うまく歩かないと新雪に足を取られて転んでしまいます。そういう時には、前に歩いた人の足跡に自分の足を重ねて歩くことです。そうすれば足に雪を取らないで済むし、何が隠れているか分からない新雪に足を突っ込むよりも安全に歩けます。主イエスについていくというのは、ちょうどそれと同じように主イエスの足跡に自分の足を重ねて歩いて行くようなものです。主がなさったように私もしてみる。主イエスが振る舞ったように私も振る舞ってみる。そのようにしたときに私たちは知るのです。主が私と共にいてくださる、と。
主イエス様はどのようになさり、どのように振る舞われたのでしょうか。「今こそ、あなたがたは主を畏れ、真心と真実をもって主に仕えなさい。」まさにこの旧約聖書の御言葉そのものです。父なる神様を畏れ、真心と真実をもって父に仕える。それが主イエスの足跡です。主イエスの振る舞いには心が溢れています。見せかけだけのポーズだったり、お義理を果たすための意味のないパフォーマンスを主イエスはなさいませんでした。そこには天の父への愛があり、隣人への愛に溢れています。私たちはキリストのまねをすることでキリスト共にいるし、また逆にキリストが共にいてくださるからキリストを真似ることができる。私たちも、キリストの愛の中へ招かれています。

2021年10月8日金曜日

2021年10月8日の聖句

私の掟を与え、法を与えた。人がこれを行うことで生きるためである。(エゼキエル20:11)
真実なこと、尊ぶべきこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判のよいこと、徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。(フィリピ4:8)

私たちの心の中に良心を与えてくださったのは、神さまです。「真実なこと、尊ぶべきこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判のよいこと、徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」何が真実なのか、尊ぶべきことなのか、正しいのか、清いのか、愛すべきなのか、徳や賞賛に値することなのかを見極めることができなければ、何が本当に心に留めるべき価値あるものなのかが分かりません。「評判のよいこと」というのもあります。確かに評判が悪いことを独り善がりに重んじていても仕方がありませんが、評判がよいからと言って、必ずしも尊ぶべき、清い、徳や賞賛に値することだとも限らない。やはりその見極めは、良心だと思います。良心に照らして、人から変に思われたくないからということだったり、人と同じようにしておこうというだけではなく、真に尊ぶべきことをしているのか否か、はかるということではないでしょうか。
私たちは神さまのかたちに造られました。いろいろな意味がそこにあると思います。その一つに、良心的な存在に造られたということも含まれるのではないでしょうか。神さまは私たちを良心的な存在として造ってくださいました。人の評判だけを基準にして不真実な行いをすれば、良心が痛みます。この世ではそういう痛みを無視することが大人の知恵というようなところがありますが、やはり良心の痛みは大切です。神さまが与えてくださった痛みなのですから。
しかし、私たちの良心は、まっすぐなわけではありません。無視することもできてしまうし、自分勝手な基準で自分一人の良心になってしまうこともしばしばです。私たちはどこかが歪んでいる。だから、神さまの御言葉に耳を傾け続け、自分のこだわりではなく、何を神さまが重んじ、お喜びになるのかを問い続けることが大切ではないでしょうか。
「私の掟を与え、法を与えた。人がこれを行うことで生きるためである。」主なる神様はそのように言われます。主なる神様は、私たちが生きるようになるための御言葉を与えてくださいます。私たちを殺したり不自由にしたりするのではなく、神に造られた私らしく、自由な、そして責任的な存在として生きるように、私たちを御言葉によって新しくしてくださるのです。

2021年10月7日木曜日

2021年10月7日の聖句

私の思いを一つに保ち、あなたの名を畏れる者にしてください。(詩編86:11)
様々な異なった教えに惑わされてはいけません。(ヘブライ13:9)

ノーベル物理学賞を受賞したという真鍋淑郎さんはずいぶん前ににアメリカに渡り、米国籍を取得しました。なぜ米国籍を取得したのか、なぜ日本に帰らないのかという質問に対し、このように答えたそうです。
「日本の人々は、いつもお互いのことを気にしている。調和を重んじる関係性を築くから。」「日本の人々は、非常に調和を重んじる関係性を築きます。お互いが良い関係を維持するためにこれが重要です。他人を気にして、他人を邪魔するようなことは一切やりません。」「だから、日本人に質問したとき、『はい』または『いいえ』という答が返ってきますよね。しかし、日本人が『はい』と言うとき、必ずしも『はい』を意味するわけではないのです。実は『いいえ』を意味している場合がある。なぜなら、他の人を傷つけたくないからです。とにかく、他の人の気に障るようなことをしたくないのです。」そして、御自分は周りと強調することが苦手なことが、日本に帰りたくない理由の一つだとおっしゃっていました。
日本人には協調性があると、日本人が自称することが多いような気がします。確かに協調性はあるのかも知れません。真鍋さんのように海外に渡って日本を見る目をもっちる方が、調和を大切にしていると指摘しているのですし。ただその調和や協調は、同調圧力という暴力にもなり得ます。ほかの人と違うことを認めない、許さないという息苦しさと表裏一体です。しかしそうかと思うと、逆に現代社会は価値観が非常に混乱し、何が大切なことなのか、何が正義なのか、何が公正なのか、何が責任ある態度なのか、といったことが「人それぞれ」と言った具合に、社会的なコンセンサスがとれなくなってしまったようにも思います。良いことと悪いこととの区別がつかない。しかし、一体誰が「良いことと悪いこと」を決めることができるのでしょうか?
今日の二つの御言葉はとても示唆に富んでいます。「私の思いを一つに保ち、あなたの名を畏れる者にしてください。」「様々な異なった教えに惑わされてはいけません。」多様性があって良いのです。あるいは、それが必要です。ただ、主なる神様の御名を畏れるというところは、私たちキリスト者としては決して外せません。御言葉は「私の思いを一つに保ち」と言っています。「私たちの思い」ではない。ほかの誰でもなく私自身が主への一筋の心に生きられるように。他の教えに惑わされることなく、主を愛し、隣人を愛し、この世にあって生きていきたいと願います。私は、そこにこそこの社会の再生の鍵があると信じています。

2021年10月6日水曜日

2021年10月6日の聖句

主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、恵みに満ち、罰するのを思い直される。(ヨエル2:13)
神は、私たちを怒りにではなく、私たちの主イエス・キリストによる救いを得るように定められました。(1テサロニケ5:9~10)

神は、私たちが救いを得るように定めてくださいました。本当であれば、怒りがふさわしいはずです。裁かれて然るべきです。ところが、神さまは私たちを怒りではなく、裁きではなく、罰ではなく、救いに定めてくださいました。それは「私たちの主イエス・キリストによる救い」と書かれているとおりに、イエス・キリストというお方にあって、怒りがふさわしいはずの私たちが、キリストにある救いに定められたのだ、と言うのです。
イエス・キリスト。このお方が、私たちの人生をまったく新しく変えてくださいます。私たちはもはや、自分の駄目さや至らなさを見つめて自己嫌悪に陥らなくていいし、その逆に空威張りをしたり現実逃避をしたり、むやみに自分を大きく見せたりする必要はなくなった。イエス・キリスト。この方が私を愛し、私のために御自分の命を差し出し、私たちを救いに定めてくださったから、私たちは、もう大丈夫です。
イエス・キリスト。この方は、神の愛のしるしです。キリストを見ていると、神さまの私たちへの思いがよく分かります。私を愛し、私のためにご自身を献げたキリストに、神の御心がほとばしっています。
「主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、恵みに満ち、罰するのを思い直される。」この一つひとつの言葉を、心に刻みたいと思います。どれも、キリストのお姿そのものです。私たちは自分の姿にこだわることなく、ただキリストの恵みの深さや、憐れみ、忍耐に信頼し、平安のうちに生きることができるのです。
今日一日も、キリストの恵みと憐れみがあなたと共にありますように。

2021年10月5日火曜日

2021年10月5日の聖句

私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない。(エレミヤ31:34)
イエスについては、すべての預言者が、この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。(使徒10:43)

今日、私たちが耳にしている福音は、赦すとは忘れることだということです。「私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない。」主なる神様はそのように言ってくださいます。神さまは、もはや私たちの罪を思いおこさないと言われます。
使徒言行録に、パウロという人が出てきます。もとはサウロと名乗っていました。サウロは熱心なファリサイ派で、キリストを信じる者たちを激しく憎み、教会を迫害していました。あるとき、ダマスコの町へ行き、キリスト者たちを縛りあげてやろうと息巻いて向かっていました。ところが突然天から光が射し、サウロは倒れ込み、光の中で声を聞きました。「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」と。この声はキリストの声だったのです。サウロはキリストと出会った。
キリストは、ただ「なぜ私を迫害するのか」とだけおっしゃいました。よくもやってくれたなとか、迫害されたキリスト者たちの恨みを思い知れとか、そういうことは一切おっしゃいませんでした。北森嘉蔵という牧師が、もしもキリストがそういうふうに言ったのなら、この場は愁嘆場になっただろう、と言います。愁嘆場というのは、演劇で嘆き悲しむ悲劇の一場面です。サウロは恨み辛みや嘆き悲しみの声ではなく、「なぜ私を迫害するのか」というサウロの「今」を問う言葉を聞きました。そして、キリストはサウロに言われます。「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」キリストはサウロに将来を開いてくださった。過去の失敗をほじくり返して責めるのではなく、これからどうやって生きたら良いのかをサウロに知らせてくださったのです。
赦しは、将来を拓きます。イエス・キリスト、「この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる」のです。サウロがそうであったように、私たちもキリストと出会い、新しくなることができます。誰にでも、キリストは将来を拓いてくださいます。
しかし、わが身を振り返ると、このような赦しとはほど遠い自分の現実を考えざるをえません。自分の中には恨み辛みが吹き溜まっていて、腐ってしまっている。だからこそ、私たちにはキリストの無限の赦しが必要です。キリストの限りない愛が必要なのです。今日も、このお方の愛の手は私たちに伸ばされています。

2021年10月4日月曜日

2021年10月4日の聖句

私には顔ではなく背を向けておきながら災難に遭えば、「立ち上がって、お救いください」と言う。(エレミヤ2:27)
信仰とは望むことを確信し、見えないものを疑わないことです。(ヘブライ11:1)

神さまに顔ではなく背を向ける。それは、今日の新約聖書の御言葉とのつながりで言えば「信じない」ということです。神さまを信頼していない。本音のところでは他のものに頼っている。他のものを信頼している。だから顔が他のところを向いてしまっている、ということなのだと思います。目は他のものを見、耳は別の声を聞こうとしている。神さまを信頼し、神さまに頼ろうとしていない。それなのに、災難に遭えば、「立ち上がって、お救いください」と言う。その不誠実さを咎めています。
信じるというのは、尊いことです。大切なことです。私たちには、信じられない自分の弱さを正当化したり美化したりしてしまうことがあるのではないでしょうか。例えば、あるとき、キリストが弟子たちだけを舟に乗せて、ガリラヤ湖に漕ぎ出させたことがありました。ところがすぐにひどい逆風に襲われた。すると、イエスは夜明け頃に湖の上を歩いて弟子たちのとことへやって来ます。弟子たちは幽霊だと思って叫びましたが、イエスは「私だ。恐れることはない」と言われました。そこでペトロが、「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いて御もとに行かせてください」と願います。イエスは「来なさい」と言った。ペトロは水の上を歩いてイエスに近づいた。とこが風を見て怖くなり、沈みかけます。イエスはペトロの手を取って助けてくださいました。その時、主イエスがペトロに言われます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と。
主イエスは、信じられなくても仕方ないよね、風は強いし怖いのは仕方ないよ、とはおっしゃいませんでした。ところが私たちはすぐに信じられない言い訳をしたくなります。信じられない弱さも、イエス様はゆるしてくださる、と。確かにそうかもしれませんが、しかし主イエスはあくまでもペトロが信じることを願っておられます。疑わずに信じろと主イエスは言われるのです。私たちの目はどこに向いているのでしょうか?キリストでしょうか、それともキリストに背を向けて風を見たり、自分の身を支えてくれそうなものを探したりしていないでしょうか。キリストをまっすぐに見つめて、この方を信じれば、私たちは大丈夫です。
信仰とは望むことを確信し、見えないものを疑わないことです。信仰は、望みに深く関わります。信じているけど希望がない、ということはありえません。キリストと共にある将来を、私たちは信じているからです。

2021年10月3日日曜日

2021年10月3日の聖句

主は言われた:あなたは自分で労することも育てることもせず、ただ一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまさえ惜しんでいる。それならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。(ヨナ4:10~11)
主は憐れみに満ち、慈しみ深い方です。(ヤコブ5:11)

「主は憐れみに満ち、慈しみ深い方です。」まさに、神さまの憐れみは私たちには想像もできないほどに深く、高く、広く、長いものです。私たちからしたら常識外れなほどに、破格な愛です。
旧約聖書のヨナ書が今日の第一の聖書箇所としてあげられています。預言者ヨナは、当時の人物としては常識的な、普通の人でした。ニネベに行って、悪を悔い改めるように言え、と神さまに命じられました。しかしヨナはこれを拒んだ。なぜなら、ニネベが嫌いだったからです。ニネベを憎んでいた。ニネベはアッシリアという国の首都です。アッシリアといえば、やがてイスラエル王国を滅ぼすことになる大国です。すでにヨナや彼を含むイスラエルの人々にとってアッシリアは世界の覇権を握る超大国であり、自分たちがアッシリアを前にして風前の灯であることは明らかだったと思います。憎んでも憎みきれない敵なのです。だから、ヨナはアッシリアの首都であるニネベになど行きたくはなかった。神の命令を拒み、船によって逃げようとしましたが、嵐に遭ったり魚に食べられたりして、結局ニネベに行くことになります。神に命じられたとおり、ニネベの人々に悔い改めを迫った。するとニネベの人々はヨナの言葉を受け入れ、自分たちの悪を悲しみ、神の前にへりくだったのでした。
ヨナからすれば旅の目的が達成されたわけですが、ヨナは怒ります。「わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐強く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」つまり、ヨナはニネベの人々が悔い改めずに神に裁かれて死ねば良いと思っていた。自分がここに来て悔い改めを求めたことでニネベの人々が本当に悔い改めてしまったことが許せなかったのです。
ヨナは丘に上がって、これからニネベがどうなるのか見物し始めました。しかし、ひどい日照りで苦しかった。そこで神がとうごまの木を生えさせて、ヨナのための日陰を作ってやりました。しかし翌日、神さまは虫に木を食わせて枯らしてしまわれた。ヨナは神に怒りをぶつける。この怒るヨナに神が答えたのが、今日の御言葉です。「あなたは自分で労することも育てることもせず、ただ一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまさえ惜しんでいる。それならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。」私たちの思いをはるかに超える神の憐れみは、私が敵だと思っている人にも向かいます。それは当然だと神さまはおっしゃいます。だからこそ、私のような者さえも神の憐れみの中に入れられているのです。

2021年10月2日土曜日

2021年10月2日の聖句

一人の心が喜びを抱けば人々の顔を明るくし、一人の心が苦しめば人々の霊は沈み込む。(箴言15:13)
パウロはフィレモンへ書く:兄弟よ、私はあなたの愛から多くの喜びと慰めをえました。聖なる者たちの心が、あなたのお陰で元気づけられたからです。(フィレモン7)

新約聖書に収められているフィレモンへの手紙は、使徒パウロが「わたしたちの愛する協力者」と呼ぶフィレモンという人物への、極めて個人的な内容の手紙です。
この手紙は獄中書簡と呼ばれる手紙の一つで、パウロが牢獄に入れられていたときに書かれました。ですので9節には「年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚となっている、このパウロが」と書いてあります。獄中からパウロが友人フィレモンに手紙を書いた。用件はフィレモンの奴隷であったオネシモという青年のことです。オネシモはフィレモンのところで何らかの失敗をし、主人に大変迷惑をかけてしまった。それで主人のところを出奔してパウロのところへ逃れたようです。そして、パウロに導かれてオネシモもキリスト者になったのです。それを踏まえて、パウロはオネシモのことをフィレモンに執り成すために手紙を書きました。それがこのフィレモンへの手紙です。
パウロはフィレモンに、オネシモのことを「もはや奴隷としてではなく、、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟として」迎えてくれるように頼みます。この手紙をオネシモが持って、これからフィレモンのところへ戻っていくのです。
私は今日の箴言の御言葉はフィレモンへの手紙にぴったりだと思います。「一人の心が喜びを抱けば人々の顔を明るくし、一人の心が苦しめば人々の霊は沈み込む。」パウロはまさにフィレモンとオネシモにこういう関係になってほしかったのだと思いますし、同じキリストを信じる兄弟として、そういう関係に必ずなれると信じていたはずです。これまでは奴隷と主人でした。しかしこれからは、同じようにキリストの愛に生きる仲間です。神の子とされた兄弟です。
この手紙は私たちの共に生きる人々との関係を見つめ直すように促します。私たちはキリストにあって兄弟であり姉妹であり、共に喜び共に悲しむ家族なのです。

2021年10月1日金曜日

2021年10月1日の聖句

今、私は彼らを地の果てから呼び集める。その中には目の見えないも人も、足の不自由な人も、身ごもった女も、若い母もいる。大いなる群れがここへと戻る。(エレミヤ31:8)
イエスは言われた:ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、「もう準備ができましたので、おいでください」と言わせた。(ルカ14:16~17)

神さまが、私たちを盛大な宴会に招待してくださっています。結婚式のパーティのような、盛大で、喜ばしい宴席です。主催者は心を込めて準備します。参加者と共に喜ばしい時間を過ごすために、一緒に喜ぶために、招く方は指折り数えて準備することでしょう。私たちは、このパーティへの招待状を頂いています。
この宴会に、神さまは、ありとあらゆる人を招いてくださっています。「その中には目の見えないも人も、足の不自由な人も、身ごもった女も、若い母もいる。」目の見えない人、足の不自由な人。彼らは、きっと社会の中では厳しく差別されていたことでしょう。神さまは、目の見えない人は目の見えないままの姿で、足の不自由な人は足の不自由なままで招かれます。世間が「弱い」と言ってラベルを貼り、足の不自由な人や目の見えない人にとって住みにくい社会になっているのは、彼ら自身にある障害が理由であるよりも、受け入れられない社会の方に問題があるのだと思います。でも神さまの招きはそうではない。目の見えない人、足の不自由な人を神は招いてくださいます。
また、身ごもった女や若い女もそこにいます。彼女たちも社会的な弱者でした。女性の人権という概念は存在しなかった社会です。身ごもったマリアのためにたった一つの部屋も提供しなかった社会です。今、私たちの社会はどうなのでしょうか?神さまの宴席には、彼女たちのための席もちゃんとあります。
神さまのところから使いが来て、私たちは今招きの言葉を聞いています。「もう準備ができましたので、おいでください」。神さまが準備してくださった最高の宴会です。神さまと一緒に楽しむパーティです。ほかの何をさておいてでも、この宴会に行こうではありませんか!今、私たちはキリストの愛の中で新しい一日を始めます。キリストが今日も私を愛してくださっている。この事実を受け入れることこそ、神さまの招きに応える最初の一歩です。

2022年1月19日の聖句

貧しい者を嘲る者は自分の造り主をそしる。人の災難を喜ぶ者は罰を免れない。(箴言17:5) 憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受けるからだ。(マタイ5:7) 今回のコロナのことで痛感させられたことの一つは、苦しむ人と私との差は何もない、ということです。いつ、どこで、...