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2019年8月13日火曜日

2019年8月13日(歴代誌下35〜36)


今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一12、歴代誌下35~36、コヘレトの言葉8

歴代誌下35~36;
すばらしい過越祭を、国民と共に、大いなる喜びのうちに献げたヨシヤ王でしたが、エジプトとの戦争で死んでしまいました。その後のユダは坂道を転げ落ちるようにして転落の一途をたどり、ついにバビロニアに滅ぼされてしまいました。国の要人たちは遠くバビロニアまで捕囚民として連れて行かれてしまいました。
その時のこと、歴代誌はこのように伝えています。「これは主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地が安息を取り戻すためであった。荒廃の全期間、すなわち七十年が満ちるまで、地は安息を得たのである(36:21)」。人々がその地からいなくなることで、大地は始めて安息を取り戻した、と言います。なんと厳しい言葉でしょうか・・・。しかし、これが人間と世界との関係なのかもしれません。「実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています(ローマ8:22)」。この世界のすべてが救いの時を待ち焦がれて、呻いています。
ユダの地が、民がいなくなることによって安息を取り戻したというのは、民の罪が招いた苦しみに呻いていたということでしょう。私たちの生きるこの世界が呻いているのも、やはり、私たち人間の罪が招いた苦しみといわねばならないと思います。救いの時を、この世界が待っています。
歴代誌の終わりは、並行していた列王記とは違いました。捕囚から70年後、ペルシャの王キュロスにより、捕囚民解放の布告が出ました。その希望を見せています。私たち人間にとっても、この世界のつくられたすべてのものにとっても、神が救ってくださる救いの時、イエス・キリストが再び来てくださる時、その終わりの時が来るまで希望は完成しないのでしょう。それまでなお呻きの時が続きます。しかしこの苦しみから、必ず神が救ってくださいます。

2019年8月12日月曜日

2019年8月11日(歴代誌下33〜34)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一11、歴代誌下33~34、コヘレトの言葉7

歴代誌下33~34;
三人の王が登場しています。マナセ、アモン、ヨシヤ。マナセとアモンは主の目に悪とされることを行い、ヨシヤは主の目に適う正しいことを行いました。マナセの行動について、聖書は「主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国民の忌むべき慣習に倣って、主の目に悪とされることを行った(33:2)」と言っています。マナセ、あるいはその息子アモンの行動の基準は、「諸国民の慣習」でした。周りのみんなが何をしているかを基準にして、自分の王としての行動を決めていたのです。マナセは王ですから、彼の王国の統治の行動基準は周囲の行動であり、自分のしたいことをしていた、と言って良いと思います。
それに対して、ヨシヤ王は父や祖父とは違う基準を持っていました。彼は主の神殿で発見された主の律法を基準として生きることを誓ったのです。「王は自分の場所に立って、主の前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記された契約の言葉を実行することを誓った(34:31)」。ヨシヤは主から頂いた「法」を基準として、自分の王としての振る舞いを定めたのでした。
私たちの国は、法の支配のもとにある国ということになっています。国の統治のために権力者は法をつくりますし、権力者は憲法によって支配されます。どんなに偉い人間も、法を蔑ろにしたり犯したりすることは許されません。最近いろいろな場面で法が軽んじられていることには、警戒すべきでしょう。ともあれ、法に支配されるというのは、どんなに偉い人であっても人間が自分のしたいままに支配することを許さない、というシステムです。これがすでにヨシヤたちが活躍した紀元前7世紀に重んじられていたのです。
もちろん日本はキリスト教国でも何でもありません。しかし日本にいるキリスト者たちには、国の支配者の振る舞いが神の前でどのようなものであるのかを見定める責任があります。「諸国民の習慣」を基準として、結局は人間が好き勝手に振る舞っているのか、あるいは法に従い、自分の好き勝手な支配をするのではない道を進むのか。主が与えてくださった律法に従うなら、貧しい者を蹂躙したり、奴隷から搾取したりすることはできなくなります。日本の法律は聖書の律法そのものではありませんが、同じ問いは、神様から私たちに向けられているのではないでしょうか。

2019年8月11日日曜日

2019年8月11日(歴代誌下31〜32)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一10、歴代誌下31~32、コヘレトの言葉6

歴代誌下31~32;
「ヒゼキヤは、祭司とレビ人の組み分けを決め、その組に従って、祭司とレビ人それぞれの務めに応じて、主の陣営の門の中で焼き尽くすいけにえや会食のいけにえを献げ、感謝をし、賛美するように定めた(31:2)」。こうして、ささげ物を整え、神殿に仕えるレビ人たちの働きの割り振りを整えました。第31章に書かれている様子は、まるで出エジプトの民が、モーセに導かれてレビ人の仕事を整え、神様の幕屋に仕えて礼拝を献げていったプロセスをたどり直しているように見えます。そのようにしてヒゼキヤの礼拝改革は進み、「彼は、神殿の奉仕について、律法と戒めについて、主を求めるために始めたすべての事業を、心を尽くして行い、成し遂げた(31:21)」のでした。
その後、アッシリアのセンナケリブ王が攻めてきました。その圧迫は大変強く、ユダ王国も戦況は大変不利で、滅亡寸前という所まで行ってしまいました。アッシリア軍はユダの人々の士気を落としてやろうと、彼らの信仰に揺さぶりをかけます。「お前たちは何を頼りにして、包囲されたエルサレムにとどまっているのか。『我々の神、主がアッシリアの王の手から救われる』と言って、お前たちを唆し、飢えと渇きで死なせようとしているのはヒゼキヤではないか(32:10~11)」。さらにアッシリアがこれまで滅ぼしてきた国々を引き合いに出して、「私の先祖が滅ぼし尽くしたこれらの諸国民の神々のうち、どの神が自分の民を私の手から救い出したのか。お前たちの神は、お前たちを私の手から救い出すことができるとでも言うのか(14節)」と言って見せます。「このようにして彼らは、エルサレムの神について、人の手で造ったこの地の民の神々と同じように語ったのである(19節)」。
私たちには、誰にでも苦難があります。困難があります。もっとも苦しいことは、その苦しみの中で信仰が否定されることではないでしょうか。神を信じることが無意味だと、自分自身の声なのか人の言葉なのか、そのような言葉が響くことではないでしょうか。ヒゼキヤ王とユダの人々は、この苦しみを忍耐しました。主が彼らを救ってくださいました。「それ以来、彼はすべての国々から仰ぎ見られるようになった(23節)」。しかしもしかしたら、私たちの苦難はいつまでたってもなくならないかもしれません。それでも私たちが神の愛を信じ続け、神様の父としての御手を信頼し続けることができるのは、イエス・キリストによって神が私たちに示してくださった愛が、何よりも確かであるからです。この神の愛から私たちを引き離すものは、何もありません。だから、私たちは心を尽くし、力を尽くしてこの方を愛し、礼拝するのです

2019年8月10日土曜日

2019年8月10日(歴代誌下29〜30)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一9、歴代誌下29~30、コヘレトの言葉5

歴代誌下29~30;
ヒゼキヤ王は主の目に適う正しいことを行いました。彼は主の神殿を修理し、レビ人や祭司たちと共に礼拝を整えました。神を神としてあがめ、礼拝することを何よりも大切にしました。まず「私たちの先祖は背信し、私たちの神、主の目に悪とされることを行い、主を捨てた(29:6)」と、罪の悔い改めから始めました。具体的には、父アハズ王の時代などのことを考えていたのだろうと思います。自分がまだ責任を負っていない時代、先の時代の事柄について、神様の前に真摯に悔い改めた。そのことから、ヒゼキヤの礼拝改革は始まりました。これ自体、私たちへの鋭い問いであると思います。
そして彼らはいけにえを献げ、神を賛美し、献げ物をしました。「彼らは主を賛美して喜び、ひざまずいてひれ伏した(29:30)」。神を賛美するとき、私たちは本来の自分になります。神様がまことに神様らしく礼拝され、賛美されるとき、始めて私たちも自分を取り戻します。神に逆らってきた父アハズの時代は、一つの言い方をするなら神から離れて自分を取り戻そうとした時代と言ってもいいのかもしれません。あの喪われた弟息子のように、神から離れることで自分らしくなれると思い込んでいた。しかし、自分を取り戻す喜びは、神を礼拝するときにこそ経験するのです。
そのようにして彼らが始めたのは、過越祭でした。過越祭は出エジプトを記念した礼拝です。神様に救って頂いたという原点に帰る祭です。「あなたがたの神、主は恵みに満ち、憐れみ深い方である。そのもとにあなたがたが立ち帰るなら、御顔を背けることはない」(30:9)。神の恵みと慈しみに立ち帰るために、私たちも神様の御許へ進み出て、礼拝を献げます。明日、主の日に、神様の御前に私たちは進み出ていきます。

2019年8月9日金曜日

2019年8月9日(歴代誌下27〜28)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一8、歴代誌下27~28、コヘレトの言葉4

歴代誌下27~28;
ユダ国のアハズ王は、主の目に適う正しいことは行いませんでした。ここでの正しいか正しくないかという基準は、神に従うか否か、という一点につきます。まことの神のみを礼拝し、そのような国作りをするか。王たちはその一点で評価されていますが、アハズはその点で主の目に適う王ではありませんでした。それで、「その神、主は彼をアラムの王の
手に渡された(28:5)」のでした。アハズは神に敵対し、神の怒りを自ら招いたのです。
それで、アハズ王は策を練ります。気鋭の超大国アッシリアに助けを求めました。軍事同盟を結んで守ってもらおうと考えたのです。「その頃、アハズ王はアッシリアの王たちに使者を送り、助けを求めていた(16節)」。しかし、アハズが考えていたようにはうまくいきませんでした。「アッシリアの王ティグラト・ピレセルは、アハズに向かって攻めて来て、アハズを苦しめ、助けなかった。アハズは主の神殿、王宮、高官の家の財産を供出させ、アッシリアの王に差し出したが、彼の助けにはならなかった。このアハズ王は、その苦難の時にも、なお主に背いたのである(20~22節)」。アハズとしては、本当に惨めなことです。タコが自分の足を食うように、一番大事なはずのものまでアッシリアに献げ尽くしました。しかしアッシリアは助けてくれなかった。それで、彼はどうしたのか。「彼は自分を打ったダマスコの神々にいけにえを献げ、『アラムの王たちの神々は、王たちを助けている。私もその神々にいけにえを献げよう。そうすれば彼らは私も助けるだろう』と言った(23節)」。何という奴隷根性でしょう。しかし、結局それもただ人々にとってのつまずきとなるだけで、何ら助けにはならなかったのでした。
アハズの一番の問題は、政治的手腕がなかったとか、世界情勢を見誤ったとか、大国に取り入るのがうまくなかったとか、属国根性がいけないとか、そういうことではありません。神様に頼らず、目に見える確かそうなもの(軍事同盟や大国の力)に頼ったことです。それで、一番大切なはずの信仰を売り渡してしまったのでした。
私たちにとってのアッシリアは、何者でしょう。私たちが本当は売り渡してはならないものとは、一体なんでしょうか。神様の前で自分がどう生きているのか、神からご覧になってどういうものであるのか。静かに思い巡らして、一日を始めたいと思います。こう祈りつつ。「我らを試みに遭わせず、悪より救いいだし給え」と。

2019年8月8日木曜日

2019年8月8日(歴代誌下25〜26)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一7:25~40、歴代誌下25~26、コヘレトの言葉3

歴代誌下25~26;
ユダのアマツヤ王。「彼は主の目に適う正しいことを行ったが、誠実な心でそうしたわけではなかった(25:2)」。それでも彼は自分の父を殺害した家臣を殺しましたが、その子どもたちは殺しませんでした。律法の書が命じていることに従ったからです。あるいは金で雇ったイスラエルの勇士について、神の人が「王様、イスラエルの軍を同行してはなりません。・・・あなた自身が力強く戦いに臨みなさい(25:7~8)」と言った言葉にも従い、勇気を奮い起こして戦いました。しかし、一番肝心な所で過ちを犯しました。「アマツヤはエドム人の討伐から帰った後、セイル人の神々を持ち込み、これを自分の神として立て、その前にひれ伏して香をたいた(14節)」。預言者がアマツヤ王に言います。「なぜあなたはこの民の神々を求めるのか。あなたの手から自分の民を救い出すこともできなかったのに(15節)」。アマツヤはその言葉に怒りました。
次の王はアマツヤの息子であるウジヤ。彼は最初は良かったのですが、神を畏れることを教えた指導役の人物、ゼカルヤが死んだ後はその道から離れてしまいました。「彼は強くなると、心が驕り高ぶり、身を滅ぼすことになった。彼は自分の神、主に背き、主の聖所に入り、香をたく祭壇の上で香をたこうとした(26:16)」。ウジヤは自分をいさめるs祭司の声に耳を傾けようとはしませんでした。
アマツヤもウジヤも、誠実な心でなかったとは言え、最初は神に従っていました。しかし次第に力をつけると傲慢になった。そして、周囲の預言者や祭司の忠告に耳を傾けなくなりました。神の言葉は、私たちにとって耳障りなことがあります。そのようなときにこれを捨てるのか、それとも耳を傾けてなおその言葉に聞くのか。今の私たちの社会は、悔い改めに気づかせる言葉を総力を挙げて排除しているように思います。それはアマツヤやウジヤに見られた傲慢です。私たちは傲慢の罪の虜になっていないか。悔い改めは、神の前での解放なのです。

2019年8月7日水曜日

2019年8月7日(歴代誌下23〜24)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一7:1~24、歴代誌下23~24、コヘレトの言葉2

歴代誌下23~24;
ユダの王アハズヤ、彼の妻はアハブ。エリヤと対立したイスラエルの王です。アハズヤは戦死しました。アハズヤの兄弟の息子たちも殺されました。その結果、「アハズヤの家には国を治める力を持つ者がいなくなった(22:9)」。アハズヤの家というのは、つまりダビデの家です。主イエスに連なっていく系図です。それがほとんど断絶寸前まで来ていたのです。
ところがアハズヤの息子が主の神殿に匿われており、やがて成長してユダの王となりました。ヨアシュ王です。ヨアシュは小さな頃から主の神殿で過ごし、祭司ヨヤダが彼を信仰者として育て、ヨヤダが存命であった間は主に仕えて生きていました。「ところがヨヤダの死後、ユダの高官たちが王のもとに来て、ひれ伏した。その時、王は彼らの言うことを聞き入れた。彼らは先祖の神、主の神殿を捨て、アシェラと偶像に仕えた(24:17)」。亡くなった妻子ヨヤダの息子(ゼカルヤという名です)がヨアシュ王のところへ来て、悔い改めるようにと迫ります。「だが、ゼカルヤに対する陰謀が企てられ、彼は王の命令により主の神殿の庭で石で打ち殺された。ヨアシュ王は、彼の父ヨヤダが示した慈しみを思い起こさず、その息子を殺したのである(21,22節)」。
何というひどい裏切りでしょう。しかも、よりにもよって主の神殿でゼカルヤを殺した。神様にも、人にも恥ずかしく、取り返しのつかない蛮行です。
私は思いました。自分の命の恩人、年端もいかない子どもの時分からの恩も忘れて彼を裏切り、その子をさえ手にかけてしまう恩知らず。それは、まさに神様と私たちとの関係なのではないか、と。神様に対する私たちの裏切りは、それだけひどくて恥ずかしく、取り返しのつかない蛮行なのではないか。そう思わされます。神の子イエスの御前に、裏切りを悔い改めつつ今日の歩みを始めます。

2019年8月6日火曜日

2019年8月6日(歴代誌下21〜22)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一6、歴代誌下21~22、コヘレトの言葉1

歴代誌下21~22;
「主はヨラムに対して、クシュ人の近くに住んでいたペリシテ人とアラブ人の霊を奮い起こされた」。
ヨラムというのはユダの王の名前です。彼の妃の父はアハブ。イスラエルの王であり、預言者エリヤと激しく対立していたあの王が義理の父です。ヨラム王はアハブの道を歩みました。ヨアブは「ユダの山々に高き所を造り、エルサレムの住民に淫行を行わせ、ユダを惑わせた(21:11)」。この「淫行」は偶像礼拝のことです。ヨアブ王はユダの人々を神から離れさせ、信仰から引き離してしまったのでした。
そのヨラムについて、預言者エリヤを通じて裁きの言葉が告げられました。「それゆえ、主は大いなる災いをもって、あなたの民、子ども、妻、財産のすべてを打たれる(15節)」。その裁きの担い手として、冒頭のペリシテ人とアラブ人を神様がお立てになった、と言っていたのです。
ヨラムは、徹底的に間違っていたかもしれませんが、曲がりなりにも神様を信じていた人でした。ペリシテ人もアラブ人もそうではありませんでした。しかし、神様は神様を信仰しているわけではない人の手によって、神様を信じているつもりの人を裁かれます。厳しいことです。しかし、思えばファリサイ派は、神を信じているつもりでした。そのことを誇っていました。その誇りのために、彼らは主イエスをも裁きました。これは私たちへの厳しい問いであると思います。
神様の前に、隣人の前に、謙遜であるとはいかなることであろうかと問われる思いがしました。へりくだって、神を求めて生きることを、神様が私たちに求めておられるからです。主イエスさまの憐れみによってしか生きられない私、不信仰な私を憐れんでくださいと主イエスに祈って、今日という日を始めたく願います。

2019年8月5日月曜日

2019年8月5日(歴代誌下19〜20)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一5、歴代誌下19~20、箴言31

歴代誌下19~20;
「明日、彼らに向かって攻め下りなさい。この時、彼らはツィツの坂を上って来る。あなたがたはエルエルの荒れ野の前、谷の端で彼らに出会うが、その時は、戦う必要はない。しっかり立って、主があなたがたを救うのを見なさい。ユダのエルサレムの人々よ、恐れてはならない。おののいてはならない。明日、彼らに向かって出撃しなさい。主があなたがたと共におられる(20:16~17)」。
この御言葉を聞いて私が思い出したのは、母教会で出会ったひとりのキリスト者でした。学校の先生をしていましたが、教師生活の最後を自ら志願して素行の悪い学校で過ごしました。自ら願ったとはいえ、やはり学校に行くのは辛いことでもあった。その時、毎朝出勤するとき、主の祈りを唱えながら学校に向かっていたそうです。
学校の先生にとっての生徒がそうであるように、私たちの毎日の戦いは、相手を打ち負かす戦いではないことが多いかもしれません。しかし、主が共にいてくださるのでなければ、私たちはもう一歩も前に進むことができない。それはヨシャファトと同じです。
「しっかり立って、主があなたがたを救うのを見なさい。」私たちにはもう無理だというときにも、神様は働いていてくださいます。私たちが立つのは、主の業を見るためです。私たちの力が尽きるときにも、私たちはおののかなくて良い。主が戦ってくださるからです。主の戦いについて行けばいい。
主の戦いに私たちを呼び出す招集ラッパが、今吹き鳴らされています。

2019年8月4日日曜日

2019年8月4日(歴代誌下17〜18)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一4、歴代誌下17~18、箴言30

歴代誌下17~18;
ユダ国は新しい王ヨシャファトの治世にありました。「主は彼の手によって王国を揺るぎないものとし、ユダのすべての人々はヨシャファトに貢ぎ物を納めた。彼は大いに富と栄誉に恵まれた。ヨシャファトの心は主の道に励み、ユダから高き所とアシェラ像を取り除いた(17:5,6)」。しかし、彼を唆す誘惑もありました。「ヨシャファトは富と栄誉に恵まれたが、アハブと姻戚関係を結んだ(18:1)」。アハブは、妻イゼベルと共に預言者エリヤと対決をしたあのイスラエルの王です。ヨシャファトの息子の妻がアハブの娘だったのです。
「ヨシャファトは富と栄誉に恵まれたが」と受動形の表現になっていますが、もちろん、それを恵んだのは神様だという意味でしょう。ところがヨシャファトは目に見える安全策と判断して、アハブと姻戚関係を結ぶ政策に出ました。このことはヨシャファトによっては神様から引き離す誘惑になりました。
「数年の後、彼(ヨシャファト)がサマリアのアハブのもとに下ると、アハブは彼とその民のために多くの羊と牛を屠り、ラモト・ギルアドに攻め上ろうと彼を唆した(2節)」。まさに、ヨシャファトにとっては「唆し」だったのだと思います。ヨシャファトとユダ国が主の道に励むために全く必要のない戦争だったのですから。
結局、アハブとヨシャファトの戦争は失敗に終わり、アハブはこの戦で命を落とします。預言者ミカヤが語る主の言葉が、そこで力を持ちました。ミカヤは他の預言者たちがアハブへの忖度から王に耳心地良い言葉に終始したのを尻目に、空気を読まずに真実を語りきりました。アハブのヨシャファトへの甘言は唆しでしたが、ミカヤのアハブへの厳しい言葉は、まさに「預言」というべき神のメッセージでした。私たちは神様の支配に自分を従わせる預言の言葉に聞くのか、自分を守るための計算を応援してくれるだけの唆しの言葉に聞くのか。どちらの道を歩むのか、主の前に問われているのではないでしょうか。

2019年8月3日土曜日

2019年8月3日(歴代誌下15〜16)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一3、歴代誌下15~16、箴言29

歴代誌下15~16;
ユダの王アサは神に従い、正しいことを行う人でした。預言者アザルヤはアサ王のところに来て言います。「長い間、イスラエルにはまことの神もなく、教える祭司もなく、律法もなかった。しかし彼らは、苦悩の中でイスラエルの神、主に立ち帰り、主を求めたので、主は彼らに現れてくださった(15:3~4)」。アサは、この言葉を聞いて勇気を奮い起こしました。そして「ユダとベニヤミンの全土から、またエフライムの山地で攻め取った町から、憎むべきものを追放し、主の廊の前にある祭壇を新しくした(8節)」。
しかし、アサ王にある時このようなことが起こりました。北王国イスラエルがユダに攻めてきたのです。その時、王は主の神殿と王宮の宝物庫から取り出した金や銀をアラムの王に贈り、ユダとアラムの軍事同盟のゆえにイスラエルとの同盟を破棄してほしいと頼みます。アラムとの情勢が悪化すればイスラエルが退却すると計算したのです。アラムの王はそれに応じ、イスラエルはアサの思惑どおりに退却していきました。
ところが、ハナニという人がアサ王の所に来て言います。「あなたはアラムの王を頼りとし、あなたの神、主を頼りとしなかった。・・・主の目は全地を行き巡り、心が主と一つである者たちに御力を示す。このことについて、あなたは愚かなことをした。今後、あなたには戦争が続く(16:7,9)」。私たちも、耳にするとグサリと刺さる言葉です。私たちは何を頼りにしているのでしょうか。アサ王は、神様を信じていなかったわけではありません。だから、ハナニに怒りました。しかし、信じていることと実際に生きていることとが乖離してしまったのでしょう。実際に主を頼りとして生きることが、できなかったのです。
そう考えると、自分はアサだと思います。さらにこの後、彼は足の病にかかりました。「その病の中でも、彼は主を求めず、医者を求めた(12節)」。もちろん、医者に行くのが不信仰ということではありません。病気になったらちゃんと病院に行ってください!ただ、私たちの命を本当に一番そこから支えているのは、神様です。そのことは決して忘れてはならない。このひとりの王は、私たちにそのことを問いかけています。

2019年8月2日金曜日

2019年8月2日(歴代誌下13〜14)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一2、歴代誌下13~14、箴言28

歴代誌下13~14;
「しかし、我々には主が神であり、我々が主を捨てることはない(13:10)」。神に背き、金の子牛を拝む北王国に向かって、南王国の王であるアビヤが言いました。この「しかし」という言葉が、心に残りました。南王国は確かにダビデの直系にあたりますが、イスラエル全体で見ると12部族中の僅か2部族に過ぎません。数の上から言えば、マジョリティは北なのではないかと思います。しかし、少数であっても、主なる神様に従う道を選ぶ、とアビヤ王は言ったのだということになるのだと思います。
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り替えて戴き、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい(ローマの信徒への手紙12:2)」。
この世に倣い、調子を合わせるというところに、私たちの遭う誘惑の多くがあるように思います。みんながしているから、みんながそう言っているから、出る杭は打たれるから・・・。しかし、何が神に喜ばれることであり、どのように生きることを神が望んでおられるのかは、必ずしも世間の目と一致するわけではありません。私たちは、その点でしっかりと識別しなければならないのではないでしょうか。
「アサはその神、主の目に適う良いこと、正しいことを行った(14:1)」。彼は、神ならぬ神を取り除きました。私たちがまっすぐに神を信じ、神に従って生きる道はいかなる道なのか。今日一日を始めるにあたって、主イエス・キリストの御前にあって、静かに思い巡らし、祈りつつ歩み出したいと願います。

2019年8月1日木曜日

2019年8月1日(歴代誌下11〜12)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一1、歴代誌下11~12、箴言27

歴代誌下11~12;
分裂した北王国を取り戻そうと、南王国ユダのレハブアム王は北に攻め上ろうとしますが、神様がそれをお止めになります。「攻め上ってはならない。兄弟と戦ってはならない。それぞれ自分の家に帰りなさい。このことは私から出たのである(11:4)」。こうして、北と南の分裂は確定的になります。ところが、北からレビ人たちが南にやって来ました。「レビ人は自分の牧草地と所有物を捨てて、ユダとエルサレムに向かった。彼らが主の祭司であることを、ヤロブアムとその子らが拒み、高き所、山羊の魔神、自分で造った子牛のためにヤロブアム自らが祭司を立てたからである(15節)」。そして、「彼らは三年間、ユダの国を強くし、ソロモンの子レハブアムを励ました。彼らが三年間、ダビデとソロモンの道を歩んだからである(17節)」。
ところが、その道は順調には進みませんでした。「レハブアムは王権を確立し、自らが強くなると、主の律法を捨てた。イスラエルのすべての人々も彼に倣った(11:1)」。結局、レハブアムは主を捨ててしまった。その理由は自分が強くなったからだと言います。考えさせられます。困ったときだけ神を求め、なんとか軌道に乗ったらすぐに忘れてしまう。私たちの実態をそのまま映し出すような存在なのかもしれません。
レハブアムと国民らは、主を捨てたために、主ご自身に捨てられてしまいました。「あなたがたが私を捨てたので、私もあなた方を捨てて、シシャクの手に渡す(12:5)」。レハブアムもユダの人々も、せっかくレビ人が集結し、神様を信じる国を造り励ましと力を頂いたのに、転がり落ちるときはあっという間でした。神様の御前にへりくだり、いつもこのような神を捨てる罪の姿が私の原点だと知り、悔い改めつつ歩んでいきたいと思わされます。

2019年7月31日水曜日

2019年7月31日(歴代誌下9〜10)

今日の通読箇所:エフェソの信徒への手紙6、歴代誌下9~10、箴言26

歴代誌下9~10;
第9章はイスラエル史上最大の、まさに絶頂の時代。第10章は一転して、イスラエルの歴史が転がり落ちていく最初の時の記録です。ソロモンの噂を聞きつけてやってきたシェバの女王、彼女は異邦人です。しかし彼女はソロモンの知恵に触れ、イスラエルのすばらしい繁栄を目撃して、言います。「あなたを王座に着け、あなたの神、主のために王とすることをお望みになった、あなたの神、主はたたえられますように。あなたの神は、イスラエルをとこしえに続くものとするほど愛しておられるので、公正と正義を行うために、あなたを王とされたのです(8~9節)」。ソロモンの知恵はそれに触れた者が神を賛美せざるをえないものでした。神の人々への愛を、異邦の女王までもが感じ、それをほめたたえるほどのものでした。私たちも、そのような神様の恵みの証言者たりたいと心から願います。
第10章に登場するソロモンの息子のレハブアムは、そうではありませんでした。彼は臣民に優しい言葉をかけた方がいいという父の代からの臣下の声を退け、居丈高に振る舞って彼らを制圧せよという若い友達の声に耳を傾けました。レハブアムのものを発送する課程には、神様の影はとても薄かったように思えてなりません。結局、ヤロブアム率いるイスラエルのほとんどど、レハブアムの国とは分裂してしまいました。
私たちの口から出る私たちの言葉は、今日、どのようなものであるのでしょうか。聞く者を造り上げ、神の恵みへとその心を向ける言葉に生きるのか、自分を大きく見せようとする誘惑に負けたところから出てくる言葉に生きるのか。そう問われているように思います。

2019年7月30日火曜日

2019年7月30日(歴代誌下7〜8)

今日の通読箇所:エフェソの信徒への手紙5、歴代誌下7~8、箴言25

歴代誌下7~8;
「ソロモンが祈り終えたとき、火が天から降って、焼き尽くすいけにえと会食のいけにえを焼き尽くし、主の栄光が神殿に満ちた。祭司たちは神殿に入ることができなかった。主の栄光が神殿に満ちたからである(7:1~2)」。
神殿に仕えて働くべき存在である祭司たちでさえ、主の神殿に入ることができませんでした。主の栄光が神殿に満ちたからです。それは、祭司でさえもそこに入ることを躊躇するような、人間としての畏れを呼び起こす出来事であったのだと思います。
礼拝は、聖なる空間を作ります。荘厳な礼拝堂は聖なる空間だ、ということではありません。例えどのような場所であっても、そこで献げられている礼拝という行為が聖なる空間を作るのです。もちろん、礼拝のプログラムに沿った何事をすれば聖なる空間を自分たちで作り出してやれる、ということではもちろんありません。礼拝において神がご自身を顕してくださるならば、神の栄光が礼拝で示されるならば、神が共にいてくださるという事実のゆえに、そこは聖なる空間になるのです。
神様がご自身を顕してくださるとは何を意味しているのか?新約の時代を生きる私たちの信仰からすれば、それは、私たちが主イエス・キリストのことを知り、このお方を愛する、ということであろうと思います。私たちが礼拝で十字架のキリストと出会い、このお方の愛の言葉を聞き、キリストの復活の喜びに触れるならば、それはなんと神の栄光に満ちた出来事なのでしょうか。キリストが私たちと出会っていてくださる礼拝において、神は私たちにご自身を示しておられ、その栄光によって私たちを包み込んでいてくださいます。

2019年7月29日月曜日

2019年7月29日(歴代誌下5〜6)

今日の通読箇所:エフェソの信徒への手紙4、歴代誌下5~6、箴言24

歴代誌下5~6;
主の神殿の一番大切な場所は、至聖所。そこには主の契約の箱が安置されています。園はこの中には、二枚の石の板だけが入っています。十戒です。ですから、神殿の中心には、神様の言葉が刻まれた板がある、ということになります。鏡や珠、剣などをご神体としてまつるのではない。箱や板を神として拝むのではない。そこに刻まれた神の言葉を聞き、神を礼拝し、その言葉をもって語られる神のご意志に従って生きる。それが、ソロモンの時代から今日まで続く礼拝の姿です。
第6章は、ソロモンによる神殿奉献の祈りです。列王記にも同じ場面でのソロモンの祈りが記録されていましたが、改めて歴代誌で読み直してみて、思いました。この歴代誌は、イスラエルの民がバビロンに戦争で敗れて捕囚となり、それから解放された頃に書かれたものです。つまり、自分たちが散々神に背き、その結果、今こうして祖国は崩壊し、信仰共同体も瓦解してしまった。「あなたに罪を犯したため、あなたの民イスラエルが、敵に打ち負かされたとき、立ち帰って御名をたたえ、この神殿で祈り、憐れみを乞うなら、あなたは天からそれを聞き、あなたの民イスラエルの罪を赦し、彼らとその先祖にお与えになった土地に彼らを帰らせてください(6:24~25)」。この祈りは、歴代誌の最初の読者には本当に強い思いをかき立てられるようなものであったに違いありません。そして、それは私たちも同じはずです。主よ、私たちの祈りを聞き、主イエスの御名のゆえに罪を赦してください。私たちもそう祈るのです。
第6章の最後の祈りが、私の心に残りました。「神である主よ、今、立ち上がってください。あなたご自身も、その力の箱も、あなたの憩いの場にお進みください。神である主よ、あなたの祭司たちが、救いの衣をまとい、あなたの忠実な人々が、恵みの内に喜びますように。神である主よ、あなたが油を注いだ人を拒まず、あなたの僕ダビデに約束した慈しみを、思い起こしてください(41~42節)」。私たちも、同じ約束に加えられた神の民の一員。神への感謝と信仰を持って、今日という日を歩んでいきましょう。

2019年7月28日日曜日

2019年7月28日(歴代誌下3〜4)

今日の通読箇所:エフェソの信徒への手紙3、歴代誌下3~4、箴言23

歴代誌下3~4;
「ソロモンは、エルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建設を始めた(3:1)」。それはダビデの人口調査の後に祭壇を立てた、オルナンの麦打ち場のあった場所です。「そこは、主がソロモンの父ダビデにご自身を現され、ダビデが準備していた場所であり、かつて、エブス人オルナンの麦打ち場があった所である」。
それでは、エルサレムはいかなる場所であったのか。「ダビデとイスラエルのすべての人々はエルサレムに向かった。そこはエブスと呼ばれ、その地にはエブス人が住んでいた。エブスの住民はダビデに『ここには来られまい』と言ったが、ダビデはシオンの要害を攻め落とした。これがダビデの町である(歴代誌上11:4~5)」。エルサレムは、かつてダビデがエブス人から奪った場所でした。だから、イスラエルの人々はこれをダビデの町と呼びます。
そのエルサレムのモリヤ山に、神殿が建てられた。この『モリヤ』も、聖書中では特別な意味を持つ場所です。「神は言われた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして私が示す一つの山で、彼を焼き尽くすいけにえとして献げなさい』(創世記22:2)」。そしてアブラハムは主に従い、イサクをまさに生け贄として屠ろうとしたその時、神がその手を止められました。神はアブラハムが神に従うものであるかを試し、彼は従い、アブラハムは神の備えてくださっていたイサクとは別の生け贄を献げることができました。主の備えを、彼は知ったのです。
その山に、今神殿が建てられようとしています。思えば、すべての備えは神がしてくださいました。もちろんダビデが備え、人生をかけて準備者となり、ソロモン自身の知恵を尽くした捧げ物であったと思います。しかし、そのすべてが神ご自身の備えです。礼拝は、神ご自身が私たちのために備えてくださっていることを知る時なのです。

2019年7月27日土曜日

2019年7月26日(歴代誌下1〜2)

今日の通読箇所:エフェソの信徒への手紙2、歴代誌下1~2、箴言22

歴代誌下1~2;
今、この歴代誌と共に読んでいる箴言は、「イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言(箴言1:1)」と呼ばれ、ソロモンの名に帰されています。毎日こうして少しずつ読み進めてみると、その知恵の素晴らしさは時代を超えて現代にも生きるものだと思わされます。ソロモンがそのような知恵をどこから得たのか。それは神に与えられたものだ、と聖書は言います。「あなた方願ったのは、私の民を治めるための知恵と知識だった。あなたには知恵と知識が与えられる」(歴代誌下1:11~12)。そして、知恵を求めたソロモンが父から受け継いだ大事業が、神殿建築でした。つまり、ソロモンの知恵と神殿に象徴される礼拝とは、深く結びついている、ということではないでしょうか。
神殿を建てるために、ソロモンは人の助けを借りました。「彼はまた、ティルスの王フラムに人を遣わして言った。『あなたは父ダビデに、彼の住む王宮を建てるためにレバノン杉を送ってくださいましたが、私も、わが神、主の名のために神殿を建てようとしています。・・・私の家臣たちをあなたの家臣たちと共に働かせ、大量の木材を準備したいのです』」(2:2~3a、8)。彼がこうしてフラムの助けを借りようとしたのは、「天も、天の天も、主をお入れすることはできないのに、一体誰が主のために神殿を建てる力を持っているというのでしょうか。主のために神殿を建てるというこの私は、一体何者でしょうか。ただ主の前に香をたくためだけの者です」(5節)と言っているとおり、この大事業の前にどんなに自分が小さくて非力であるのかを、よくわきまえていたのです。だから、他者の助けを素直に借りることができました。
助けてください、手伝ってくださいということは、時に、とても難しいことです。しかし、私たちにはひとりではできないこともたくさんあります。神様に仕えることは、特にそうなのだろうと思います。ひとりで礼拝を完成させることはできないないし、ひとりですばらしい信仰者になることもできません。隣人の存在が、どうしても必要です。『助けて』と言える、それが教会なのです。

2026年7月30日の聖句

自分の神を知る民は揺るがず行動する。(ダニエル11:32) 聖なる方、真実な方がこう言われる。「あなたは忍耐についての私の言葉を守った。だから試練の時に、私もあなたを守ろう。」(黙示録3:7,10) 今日の御言葉は「忍耐」と言います。必ず試練の時が来る。苦しみの時に忍...