2023年4月30日日曜日

2023年4月30日の聖句

今週の聖句:
誰でもキリストのうちにあるなら、新しい被造物です。古いものは過ぎ去り、見よ、新しいものが生まれました。(2コリント5:17)

今日の聖句:
ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」(創世記28:16)
(弟子たちの言葉)道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内に燃えていたではないか。(ルカ24:32)

キリストは、私たちの内にもう既に働き始めてくださっています。聖書を開き、御言葉を聞いている今、もう既に。私たちがそれと気づかなくても。キリストがおられるとわきまえていなくても、キリストは既に私たちの内に新しい出来事を始めてくださっています。
「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内に燃えていたではないか。」これは、イースターの日の午後、エルサレムの都からエマオ村に歩いて行った弟子たちの言葉です。その日の朝、女の仲間たちが主が甦られたという知らせを持って来た。しかし彼らは帰って途方に暮れてしまった。この二人は、歩いてエマオ村に向かいました。そこに自宅があったのでしょうか。道々、彼らはその日の出来事を語り合います。するとそこに新しい道連れがやって来た。その人は、彼らに聖書の話をしてくれた。そしてエマオに着き、彼らが家に招じて一緒に食卓につき、パンを裂いた時、彼らはその方が主イエスだったと気づいた。そして言いました。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内に燃えていたではないか。」
道々、そこにおられたのが主イエスだったことに彼らは気づきませんでした。迂闊でした。しかし、それが人間の本当のところではないでしょうか。私たちの迂闊さよりももっと大事なことは、例え主と気づかなくても、もう既に彼らの内に主が新しい出来事を始めてくださっていた、という事実です。心が燃え始めていました。
「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」私たちも、同じことを口にします。主はここにおられる。御言葉に聞く私と共に。キリストの言葉を聞く私に、主ご自身が語りかけてくださっている。私たちはキリストの語りかけによって、もう既に新しく生まれているのです。

2023年4月29日土曜日

2023年4月29日の聖句

あなたは、あなたの神、主の前にひれ伏し、あなたの神、主があなたとあなたの家とに与えられたすべての恵みを喜びなさい。(申命記26:10~11)
この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富みに望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。(1テモテ6:17~18)

私たちが生きるためにはこの世の富が必要です。お金がなければ今晩の食事も食べられなくなってしまう。自分も、家族も、生きることができなくなってしまいます。ただ、富は私たちにとってとても激しい誘惑を引き起こすものにもなります。できれば必要最低限ではなく余裕のある生活をしたいし、もう少し言えばたまの贅沢を楽しみたい。いや、本当はあまり我慢しないで毎日を生活したい。お金を求めれば、お金に飽きることはありません。そして、何よりも、お金があれば大丈夫だとなると、神様なんて必要ないという気がしてしまいます。次第に、人に対しても神様に対しても高慢になる。
お金自体が悪いものということではないのだと思います。お金はただの道具です。人間が独りぼっちとかとても小さな規模の集団生活で、自給自足をして事足りるのであれば必要ないかも知れません。しかし社会を形成して生きている以上、どうしても必要です。肝心なことは、お金にしても食べ物にしても、それらはすべて神が与えてくださったのだという謙遜を学ぶことではないでしょうか。
それはお金だけではない。今日の旧約聖書の御言葉に聞くならば、家族も同じです。家族もまた神が与えてくださった。そのことを忘れる時、私たちは家族に対しても、家族ではない人に対しても、神様に対しても高慢になります。家族には、家族の中でしか分からない幸も不幸もあります。他人にはなかなか分からない事情や歴史がある。しかし神さまはそれもご存じです。神様にあって、私たちは家族とも出会い直すことができる。神が出会わせてくださった最初の相手が、家族です。
神様は私たちに生きるために必要な一つひとつのものを与えてくださった。だから、神に与えられたものを尊びつつ、同時に神様と隣人とのために献げることを神様はお喜びになるのでしょう。主なる神様が、私たちの間におられます。

2023年4月28日金曜日

2023年4月28日の聖句

鎧を着ている者は、鎧を脱いだ者のように勝ち誇ってはならない。(列王記上20:11)
あなたがたの霊と心で、新しくなりなさい。(エフェソ4:23)

今日の旧約聖書の御言葉は、ずいぶんと不思議な言葉です。まず、この言葉を国に上らせたのは、イスラエル王国のアハブ王という人物でした。この人はイスラエル史上殆ど最悪の王の一人と言ってもいい人物です。彼の時代、エリヤという預言者がイスラエルで活動していましたが、アハブ王はエリヤを激しく憎み、執拗に命を付け狙っていました。
ところがある時、アハブ王率いるイスラエルの国はアラムという別の国に攻め込まれてしまいました。すごい数の軍勢を持って攻めてきたアラム国の王の前にアハブはなすすべ無く、意気阻喪してしまいます。金も銀も妻子も差し出せ、お前の大切にしている者は全部私のものだと言うアラムの王に対し、アハブは力なく従うしかありませんでした。しかし、国内での突き上げもあり、アハブは精一杯アラムの王の要求を突っぱねようとします。それで口にしたのが、今日の御言葉です。「鎧を着ている者は、鎧を脱いだ者のように勝ち誇ってはならない。」要するに、「嘗めるなよ」という意味だと思います。結局、神様がアハブとイスラエルを助けてくださり、彼らは敵を打ち破ることができました。
今日の旧約の御言葉は元の文脈ではこのような意味であると思いますが、不思議なことに、聖書の中のひと言として新しい文脈の中に入れられ、更に今日の新約の御言葉と一つにされることで新しい意味を持つようになりました。
「鎧を着ている者は、鎧を脱いだ者のように勝ち誇ってはならない。」「あなたがたの霊と心で、新しくなりなさい。」私たちには、軍隊の着る鎧ではなく、霊の鎧があります。神の霊がつけさせてくださる武具がある。それを脱いでしまうのではなく、しっかりと着て霊の戦いに打って出る。血肉を相手にする戦いではありません。世に跋扈する悪霊、時代の霊との戦いです。
世界は、生きたいように生きるのが幸せだと教えます。ところが聖書は、神に従う者の幸いを説きます。時代は、運が悪ければ諦めも肝心だと教えます。しかし聖書は、すべてのことを神が計画し、導いていると宣言します。私たちは聖書の御言葉に聞き、平和の福音に生かされ、聖霊が与える愛や喜び、平和、寛容などに生きていきます。それが神の霊の与える武具だからです。私たちはこれをしっかりと着て、神の遣わすところへ出て行って主のために戦うのです。

2023年4月27日木曜日

2023年4月27日の聖句

私はあなたを形づくった。あなたは私の僕。
イスラエルよ、あなたは私に忘れられることはない。(イザヤ44:21)
神はご自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。(ローマ11:1)

主なる神様の憐れみは、私たちが考えているよりも遙かに深く、確かです。神様はおっしゃいます。「私はあなたを形づくった。」これは、昔話ではありません。現代の科学的な知見からは到底受け入れることのできない神話のようなものではない。私たちの命の意味、その尊さへの力強い神様からの宣言です。「私はあなたを形づくった。」あなたは神が憐れみをかけて造り、愛を込めて生み出した存在です。
旧約の中にはこのような言葉もあります。「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。たとえ、女たちが忘れても、私はあなたを忘れない。(イザヤ書49:15)」母が自分の乳飲み子を忘れる、自分の胎の子を忘れる。およそ起こることのないはずの出来事です。しかし、悲しみを持って私たちが知っているのは、起こるはずのないことが現に起こっている、ということです。母が自分の子よりも自分を優先してしまうことは現に起こっている。自分の感情や楽しみ、あるいは生きるためにやむなく。なおのこと父については言うに及ばず、です。そして私たちはそういう自分の経験や見聞きしたこと、自分の思い込みでもって、神様の愛や憐れみにも勝手に限界をつけてしまいます。神の愛と言っても、どうせこの程度のものだろうと心のどこかで線を引いてしまう。諦めてしまう。ところが、そうではない、と神様はおっしゃいます。「たとえ、女たちが忘れても、私はあなたを忘れない。」神様の愛は、私たちの予想よりも、思い込みよりも、ずっと深くて確かです。
「私はあなたを形づくった。あなたは私の僕。イスラエルよ、あなたは私に忘れられることはない。」神様は、ご自分がお造りになった私たちに対して、最後まで責任を持ってくださいます。私たちはそのことを信じてよい。神様の祝福は私たちの想像を超えて確かなのです。
私たちには分からないことがたくさんあるし、手に余ることばかりです。「どうして」という問いは私たちから離れることがない。ところが、「神はご自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない」という聖書の御言葉を私たちは信じ続ける。それは、主イエス・キリストがおられるからです。キリストという神の愛の確かな徴が私たちの前にいてくださるからです。これは、確実なことです。

2023年4月26日水曜日

2023年4月26日の聖句

再び、喜びと歓喜の歓呼、花婿と花嫁の声、そして「万軍の主に感謝せよ、主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と叫ぶ者たちの声を聞くようになる。(エレミヤ書33:11)
実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。(テトス2:11)

今日の旧約の御言葉は、エレミヤ書に書かれた言葉だということに注意を払いたいと思います。エレミヤ書はユダの国が崩壊していく時代の預言者です。祖国がめちゃくちゃになり、皆が悲しみの底に沈んでいくような時代に、神さまの御言葉を語っていました。ユダの国の人々だけではなく、エレミヤ自身、本当に辛い思いをたくさんしながら活動した人物です。

今日の箇所の直前の10節にはこのように書かれています。
主はこう言われる。あなたがたが、「ここは廃墟で人も獣もいない」と言っているこの場所に、荒れ果て、人も住民も獣もいないユダの各地の町やエルサレムの巷に、再び声が聞こえるようになる。

ユダは既に滅亡し、エルサレムの都は廃墟になっている。かつて聞こえた賑わいも、あの日の人々の往来ももはや見る影もない。ところが、そのような目の前の現実に抗うようにして預言者は言います。「再び、喜びと歓喜の歓呼、花婿と花嫁の声、そして『万軍の主に感謝せよ、主は恵み深く、その慈しみはとこしえに』と叫ぶ者たちの声を聞くようになる。」再び、喜びの声が聞こえるようになる。花婿と花嫁の声、喜び祝い、楽しむ越え。そして、主を賛美し、礼拝し、祈る声が響くようになる。預言者は、そのように回復の言葉を語ります。

「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」あの預言者エレミヤの預言は、成就しました。悲しみの中に喜びを、破滅のただ中に救いをくださった方がおられるのです。「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」私はよくこの御言葉はクリスマスの礼拝への招きの言葉として読みます。すべての人々に救いをもたらす神の恵み。主イエス・キリストという神の独り子、揺るぎない神の恵みが現れた。私たちを救ってくださる方。私たちの平和。私たちのための神の愛。ここに、すべての人々のための救いがある。聖書はそう宣言します。

2023年4月25日火曜日

2023年4月25日の聖句

まっすぐな人には闇の中にも光が昇る。あわれみに富み、情け深く、正しい光が。(詩編112:4)
私たちの苦難は一時の軽いものであり、永遠で比べもののないほど重要な栄光を創り出します。それは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。(2コリント4:17~18)

苦難の渦中にいる時、それは永遠に続くのではないかと思われます。それに苦難は苦難でも、その事柄の性質によっては、渦中でなくなった後もその傷がずっと残るものがあります。生涯消えることのない悲しみの傷跡を受けることも、時に起こるのではないでしょうか。
聖書は私たちのそういう現実をよく知りながら、なお言います。「私たちの苦難は一時の軽いものであり、永遠で比べもののないほど重要な栄光を創り出します。」これは、主イエス・キリストを信じるからこそ口にすることのできる言葉であると私は信じています。
キリストは、神の子でありながら私たち人間の一人としてお生まれになりました。私たちの弱さに心を寄せることのできるお方です。キリストの知らない悲しみ、キリストの手の届かない痛みは、この世にありません。私たちのために十字架にかけられ、神に棄てられて陰府に降ったお方は、私たちの絶望に深い憐れみを抱いてくださいます。
私たちは、主イエス・キリストを見上げます。十字架にかけられたキリストを仰ぎます。キリストは私たちの罪のために十字架にかけられ、私たちを救うために復活させられました。キリストが私たちを支えてくださる。だから、この苦難は一時のものであると、私たちはキリストにあって信じます。キリストにあって、永遠の栄光にあずかることを私たちは信じます。
キリスト。このお方こそ、私たちの慰めであり、望みであり、平和です。キリストこそが私たちの救いです。このお方こそ、闇の中に昇る太陽、神からの憐れみの光、情け深い神の平和そのものです。このお方の光が、今日、悲しむすべての人に照らされますように。

2023年4月24日月曜日

2023年4月24日の聖句

私の魂は主を待ち望みます。夜回りが朝を待ち望むのにまさって。(詩編130:6)
神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。(ユダ21)

夜回りは、兵士たちの中で夜起き、敵の夜襲に備えます。暗闇に乗じて敵が忍び込んでこないか、襲ってこないか、緊張しながら見張っていることでしょう。夜明けの少しずつ白み明るくなっていく空は、夜回りにとっては救いの光のように見えると思います。今夜も無事に生き延びることができた。私も、他の皆も。
「私の魂は主を待ち望みます。夜回りが朝を待ち望むのにまさって。」主なる神を、私は待ち望む。しかも、私の魂が待ち望む。自分という存在の深みから、自分という人間の根底から、主なる神を待ち望む。渇いた喉のようにカサカサになって、弱り切った私は、しかし主を待ち望んでいる。夜回りが朝を待ち望むのにまさって。切に、朝の光を待ち望むようにして、主を待ち望む。救いの主、私を訪れてくださるお方を。
今日の新約聖書の御言葉はユダの手紙の一節です。著者ユダはイスカリオテのユダではなく「主の兄弟」と言われる人物です。その手紙の中で、このように言われています。「神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」神の愛のうちに自分自身を保つ、というのはとってもすてきな言葉です。自分を一体どこに見出し、保つのか。神の愛のうちに他ならない。そこにいれば、何があっても絶対大丈夫です。何しろ神様の愛の中なのです。私たちの主イエス・キリストの憐れみは、私たちを永遠のいのちに導いてくださる。私たちはキリストの憐れみを味わい、楽しみ、神の愛のうちに憩うことが許されている。
この神の救いを味わいつつ、また待ち望みつつ、今日の私たちの祈りの歩みが始まります。主イエス・キリストの祝福と恵みが、今日もあなたと共にありますように。

2023年4月23日日曜日

2023年4月23日の聖句

今週の聖句:
(キリストの言葉)私は良い羊飼いである。私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私についてくる。そして私は彼らに永遠の命を与える。(ヨハネ10:11a,27~28a)

今日の聖句:
誰かが、密かに身を隠すことができても、私に彼が見えないとでも思うのか、と主は言われる。天と地を埋め尽くしているのは私ではないのか。(エレミヤ23:24)
どの被造物もこの方の前に隠れることはありません。すべては裸であり、私たちが申し開きをしなければならない方の目にはさらけ出されています。(ヘブライ4:13)

今日の御言葉を読むと、創世記に書かれている最初の人間たちのことを思い起こします。アダムとエバ。彼らは神に食べるなと命じられていた木の実を取って食べてしまいました。すると何が起こったのか。「その日、風の吹く頃、彼らは、神である主が園の中を歩き回る音を聞いた。そこで人とその妻は、神である主の顔を避け、園の木の間に身を隠した。」彼らは神が来られることを知って、隠れたのです。
それだけは終わりませんでした。アダムとエバの息子カインとアベル。カインは地の実りを、アベルは羊の初子を、それぞれ神へのささげ物として持って来ました。ところが神様はアベルのささげ物には目を留められましたが、カインのささげ物には目を留められませんでした。それで、カインは怒って顔を伏せます。そんなカインに向かって、神様は、「どうして顔を伏せるのか」とおっしゃいます。結局カインは怒りに任せてアベルを殺しました。きっと、顔を伏せたまま殺したのでしょう。
カインが顔を伏せたことも、アダムとエバが神から隠れたことも、よく似ていると思います。神様のみ顔を避けようとした。後ろめたかったり、怒りのためであったり。動機はそれぞれですが、やはり共通して、神を避けようとしたのです。神との関係を壊したときにも、きょうだいとの関係を壊したときにも、人は神を避け、隠れ、顔を伏せました。
しかしこの天地をお造りになった方から逃れることのできる場所などありません。それは恐ろしいことのようですが、実は私たちにとっては大いなる救いの事実です。例えどこに行こうとも、神はそこにおられる。しかもこのお方は、慈しみ深いキリストとして私たちのところに来てくださったのです。私たちの羊飼い、私たちに永遠の命をくださる方が、私たちを探しに来てくださっています。私たちとの関係を結び直すために。今こそ顔を上げて、キリストの呼びかけて応えましょう。

2023年4月22日土曜日

2023年4月22日の聖句

主よ、どうか私に教えてください。終わりを迎えなければならないことを。私の人生には目的があり、私はそこから去らねばならないことを。(詩編39:5)
たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。(2コリント5:1)

私たちは、必ずいつか終わりを迎える者、死を迎える者です。真剣に、しかしユーモアを持って自分の死を見つめるというのは、とても大切なことであると思います。そして、愛する人の死を見つめるというのは、大切なことだと思います。
私の人生には目的がある、と今日の旧約では言っています。神が与えてくださった目的がある。それは人それぞれ違うし、神様との関係の中で捉えてていく事柄なのでしょう。しかし究極的には、改革者カルヴァンが言うとおりに、私たちの人生の目的は神をあがめるために神を知ることです。
ふさわしい仕方で死を見つめるというのは、しんどいことです。気を紛らわせて死と向き合うことを先延ばしにするか、死そのものの中を見つめて引きずり込まれるように落ち込んでいってしまうか。そういう両極端に陥りがちです。しかし、生きる目的がはっきりとする時に、自分の命の限界がふさわしい仕方で見えてくるのではないでしょうか。私たちは死にゆく者だけど、そんな私をキリストが支えてくださっている。
私たちは、生きている時にも、死にゆく時にも、私たちの真実なる救い主、イエス・キリストのものです。その事実に私たちの慰めがある。私たちの肉体も、今している営みも、積み上げてきた事柄も、いつかは崩れて無くなり、土の塵に帰ります。しかしキリストは私たちの永遠の救い主ですから、死んで消滅するしかない私たちを永遠の救いの御心の内に憶えてくださるのです。
今日は土曜日です。礼拝に上るための、準備の一日です。キリストの御名をあがめ、キリストの命の救いをあえぎ求めて歩む一日でありますように。キリストをあがめるために、より深くキリストを知る一日でありますように。

2023年4月21日金曜日

2023年4月21日の聖句

あなたは隣人たちに抗して、偽証してはならない。(出エジプト記20:16)
良いこと、建設的であること、必要なことを語りなさい。それにより聞く者に恵みをもたらすために。(エフェソ4:29)

本当に、そういう言葉を語る者でありたいと願います。「良いこと、建設的であること、必要なことを語りなさい。それにより聞く者に恵みをもたらすために。」誰に対しても、どんなときにも、良いこと、建設的なこと、必要なことを語ることのできる人は本当にすてきな人です。聞く者に恵みがもたらされる言葉。それは、その人自身も高めるし、周りの人を本当に幸せにします。
「聞く者に恵みをもたらす」というのは、その人の言葉を聞いて神の愛がじんわりと伝わってくるような言葉ではないでしょうか。神様を信じているとこういう人になれるのだなと、優しく伝わるような言葉。そういう言葉が口から生まれてくるような自分になりたいと本当に願います。
しかし自分の現実は、残念ながらそれとはほど遠い。それは認めないわけにはいかない。しかし、それをただ嘆いてみせるだけではなく、そのような私を新しくしてくださいと主に祈ります。少しずつでも、わずかずつでも、キリストに似たものにならせてください、と。
「あなたは隣人に抗して、偽証してはならない。」そのように命じています。隣人に関する偽りの証言が世界中にあふれかえっています。その動機は嫉妬があったり、正義感があったり、いろいろであるかも知れません。私たちは自分が正しいという確信をもって人を貶めてしまう。しかし、神様は真実な方です。私たちの偽りによってではなく、神はご自分の真実によって人をご覧になる。そして、神様はご自分の真実を、愛と慈しみに満ちたイエス・キリストという神の言葉によって示してくださいました。だから、私たちが良いこと、建設的であること、必要なことを語り、聞く者に恵みをもたらすのであれば、それはキリストが私たちの内に生きて働いてくださっているということなのではないでしょうか。
願わくは、そのようなキリストの真実を映し出す者として私たちが用いられますように。私は真実でなくてもキリストは真実なお方なのですから、このお方の真実が溢れてきますように。キリストの憐れみを請い求めます。

2023年4月20日木曜日

2023年4月20日の聖句

(主の言葉)私はこの町を守り、私のために救い出す。(列王記下19:34)
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。(ルカ12:32)

「私はこの町を守り、私のために救い出す。」驚くべき言葉です。この町を守ることが、この町に住む人たちのためだけではなく、主ご自身のためになる、とおっしゃいます。主は、主ご自身のためにこの町を守ってくださる。この町が損なわれると、主ご自身のお名前も損なわれる。主は、ご自身のために私たちを救ってくださる。
私たちは、もしかしたら「救い」をすごくスケールの小さなものにしてしまっているかも知れません。キリストが私たちに与えてくださる救いは、自分の個人的な罪悪感からの解放や、コンプレックスの解決や、自己不全感の克服のことではありません。結果としてはそれらをも含むでしょう。しかし、救いの主たる眼目は少し違うと思います。救いとは、主が王となられることです。主イエス・キリストが私たちの王として神の国が完成なさることです。だから、キリストは言われます。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」神の国をくださる!キリストがこの世界のまことの王として支配される。そうやって神ご自身の支配が実現することを聖書は「救い」と呼びます。
「私はこの町を守り、私のために救い出す。」主なる神様がそう言われる時、「この町」にはいろいろな人がいます。私にとって好ましい人もいれば、そうではない人もいる。神様を信じている人も、そうではない人もいるでしょう。それらすべての人の王として、キリストが来られる。そうであるからこそ、私たちは、主は王になれられた、神の国が来ている、という福音の知らせを宣べ伝えるのです。
「小さな群れよ、恐れるな」とキリストは言われます。私たちが恐れているからです。毎日の生活のために、私たちがどんなに恐れているのかを主はご存じです。私たちが生きるためにどんなに悲しみや嘆きを抱えているのかを、人となられたキリストは誰よりもご存じなのです。「恐れるな」とその方が言ってくださいます。神の国の王でいらっしゃる方は、私たちの弱さに同情することのできる方。他の誰よりも、一番優しい方です。慈しみの王が来られる。救いが実現する。聖書はそう宣言します。

2023年4月19日水曜日

2023年4月19日の聖句

わたしはあなたがたを救い、あなたがたは祝福となる。(ゼカリヤ8:13)
何かを自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。(2コリント3:5)

今日の新約聖書の御言葉は、本当にそうだと思います。
「何かを自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。」
例え自分が何かをしたのだとしても、それは神に命じられたことを僕としてしただけです。「私は取るに足りない僕です。するべきことをしただけです」と言うだけです。そもそも、自分に何事かを成し遂げるような才覚や力があるわけでもない。力弱く、何ものでも無い私です。
ところが、神様がそのようなものに資格を与えてくださった、と御言葉は言います。「何かを自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。」神が与えてくださった資格。神のために仕え、隣人と共に祈り、働き、他者に仕える資格。それはただ神が与えてくださる。それだけです。
そのことを、預言者ゼカリヤを通して、神様は「わたしはあなたがたを救い」と言っておられます。神様ご自身が救ってくださる。私たちにあるのは、その事実だけです。自分で自分を救うことはできません。そんな素質は自分にはないし、神様に救っていただけるだけの見所もない。ただ神の憐れみと慈しみのゆえに、ただ神だけが私を救ってくださる。それ以外には何もないのです。
しかし、神が救うとおっしゃってくださった約束は、絶対です。神様の御言葉は必ず実現する。そして神が救ってくださる時、「あなたがたは祝福となる」という約束は現実のものとなります。私たちの存在がこの世にあって祝福となる。私たちを通して、神様はこの世界に祝福を注いでくださる。
それは、一家の中に赤ちゃんが生まれ時に似ているのでないかいかと思います。一人の赤ちゃんの誕生によって、家庭の中に喜びが生まれます。祝福が生まれます。一人の幼子の存在が、周囲の人の生き方を変革します。神に救われた一人の人が底にいるという事実は、この世界にとって祝福になる。まだ神を知らない人、信じていない人にとっても、神の子とされた一人の人がそこにいるという事実が祝福となります。私たちという存在を通して、神様は私たちだけではなくこの世界への祝福を与えてくださっているのです。

2023年4月18日火曜日

2023年4月18日の聖句

イスラエルの王である主は
あなたと共におられるので
もはや災いを恐れる必要はない。(ゼファニヤ3:15)
神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。(2テモテ1:7)

「力と愛と思慮分別の霊」。神が私たちに分け与えてくださった聖霊は、力と愛と思慮分別の霊だと言います。私は、困難なことや自分の想像に余ることに直面するとすぐに臆病風に吹かれてしまいます。すぐに挫けてしまいます。しかし、臆病は不信仰です。ところが神が私たちに下さった聖霊は、私たちの力であり、愛を呼び覚まし、私たちに思慮分別を与えてくださる。神があなたに与えてくださった霊に働いていただいたら良い、と聖書は言います。
ここで、力と愛が並んで出てきていることはなんとなく分かる気もしますが、そこに「思慮分別」が加えられているのは、とても面白いことだと思います。じっくりと思いを巡らし、よく考えて、良いことと悪いこと、ふさわしいこととそうではないこと、そういったことを区別して考えること、といった意味でしょうか。ここにこうして出てきているということは、思慮分別は臆病の反対だということではないでしょうか。確かに、怖がっていると物事をちゃんと考えることができなくなってしまいます。冷静に判断することができなくなってしまう。
ここで言う冷静さとは、「イスラエルの王である主はあなたと共におられる」という確固たる現実から物事を見るということであると思います。私たちはうっかりすると、「聖書はそう言っていても、現実は・・・」などと考えてしまいます。「信仰の世界ではそうでも、私が生きている現実はそうではない。」テレビやネットが伝える世界の有り様と、聖書が伝える世界の姿とは確かに違います。しかし、「現実」を定義するのは、本当は一体誰なのでしょうか。「イスラエルの王である主はあなたと共におられる。」本当は、神であるキリストが王であり、この方は私たちと共におられる。それこそが何よりも確かな現実ではないでしょうか。確かに、今はまだそれは完成していません。しかし既に神の国は来ている。始まっている。その神の現実を見る冷静さ、そこに神の霊が与える思慮分別がある。それは臆病の霊によってではなく、神の下さる聖なる霊によって初めて見えてくる真実なのです。

2023年4月17日月曜日

2023年4月17日の聖句

遠い地で主を思い起こせ。エルサレムを心に留めよ。(エレミヤ51:50)
あなたがたはいまや、もう客人でもよそ者でもありません。聖なる者たちの同胞であり、神の家族です。(エフェソ2:19)

今日の旧約聖書の御言葉の背景になっているのは、ユダ国が完膚なきまでに崩壊した時代です。バビロンという強大な国に滅ぼされ、ユダの主だった人々は遠くバビロンの地へ捕囚として連行されていきました。ユダは滅亡しました。バビロンはチグリス・ユーフラテス川の地方で、今で言うとイランの近辺にありました。ユダのあるパレスチナからしたらとても遠い場所です。ありとあらゆる屈辱を受け、灰の中に倒れ込むような日々であったはずです。
預言者エレミヤは、このときのことを「誉れある都、喜びの町は、どうして捨てられたのか(49:25)」と言います。私たちは捨てられた。神様の御前に罪を重ね、神を蔑ろにし、社会正義を軽んじ、公正を踏みにじり、神をあがめることも畏れることもなかった。神に棄てられ、私たちは滅びた。エレミヤはそのことを徹底的に嘆きます。
今日のエレミヤ書第51章は、そういう私たちを、しかし神がやがて救ってくださるという信頼と救済の預言です。神ご自身がやがてバビロンに報復し、ユダの救いを実現してくださる。そういうことを言った上で、更に言います。「遠い地で主を思い起こせ。エルサレムを心に留めよ。」あなたたちが神に裁かれ、遠い地に追いやられたとしても、それでも神はあなたたちを救ってくださる。だから、その場所で神を思い起こせ。神を礼拝し、共に喜んだ都を思い起こせ。神があなたを救ってくださるから。預言者はそのように言います。
神様の救いの御業は、私たちが思っているよりももっともっと、ずっと大きなものです。私たちの予想や想像では及びもつかないような、すばらしいものです。捕囚の民の目には、荒廃した国土や遠い異邦の地へ強制連行される自分たちの惨めな姿しか見えませんでした。しかし預言者は、そういう現実にもかかわらず、神の救いの御業を信じ、信頼していました。そして、このエレミヤと口をそろえるかのようにして、やがて主イエス・キリストの使徒となったパウロは言ったのです。「あなたがたはいまや、もう客人でもよそ者でもありません。聖なる者たちの同胞であり、神の家族です。」私たちが例えどこにいたとしても、私たちが外国人でもよそ者でも、主イエス・キリストは私たちを救ってくださる。私たちの思いを越えて。だから、神を信頼しよう、神を愛し、神に喜んで仕えよう。聖書は私たちを神様の大いなる救いの光の中に、新しく見出しているのです。

2023年4月16日日曜日

2023年4月16日の聖句

今週の聖句:
私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださいました。(1ペトロ1:3)

今日の聖句:
主、私たちの神を高く挙げよ。その足台の前にひれ伏せ。この方は聖なる方だからだ。(詩編99:5)
使徒たちが祈った時、集まっていた場所が揺れ動いた。そして彼らはみな、聖霊に満たされて神の言葉を大胆に語った。(使徒4:31)

「主、私たちの神を高く挙げよ」という今日の旧約の御言葉は、とても興味深い言葉だと思います。主なる神様は、私たちがわざわざ高く挙げなくても、そもそも高いところにおられるはずです。私たちが殊更に祭りあげるというのも少し変な話ではないか。私は今日の御言葉を読んで、そう思いました。
しかしそうは言っても、自分の実際のところはどうなのか。神様ではなく自分を高く挙げているのではないか。主イエスご自身、「御名をあがめさせたまえ」と祈るようにお命じになりました。これも、神様のお名前は私たちがあがめなければ聖なるものにならないということではなく、神様の聖なる、あがめられるべきお名前を私たちがふさわしく礼拝することができますように、という祈りです。私の現実がそうではなくなってしまっているからです。今日の詩編も主の祈りと同じなのかも知れません。「主、私たちの神を高く挙げよ。」これは、私たち自身の信仰を問う言葉なのではないかと思います。だから、この詩編はすぐに続けて「その足台の前にひれ伏せ」と言います。
この方は、今週の聖句によれば死者の中からイエス・キリストを復活させられた方です。それによって私たちに生ける希望をくださった方です。生きている時にも死ぬ時にも決して変わることのない私たちの望みがイエス・キリストにある。だからこそ、私たちは神をあがめ、このお方の前にひれ伏します。
私たちは今日もキリストの救いを求めて、一つになって祈ります。聖霊なる神様が私たちと共にいて、私たちが互いに福音によって一つとなるように、共に働いてくださいます。

2023年4月15日土曜日

2023年4月15日の聖句

神は知恵があり、力がある。この方に対抗したものはただで留まるだろうか。(ヨブ9:4)
さても、人よ。神に訴訟を起こそうというあなたは何者なのか。(ローマ9:20)

神は私たちの祈りを喜んで聞いてくださる。私たちは神様に何を訴えても良い。一方で、それが私たちの信仰の確信です。これが祈りを支える。主イエスさまが十字架の上であげた叫びは「なぜ」でした。「神様、なぜですか。」キリストご自身の祈りです。それに、主イエスが教えてくださった主の祈りでは、私たちを救ってくださいと祈るように、主イエスご自身がお命じになりました。神様、なぜですか、救ってください、助けてください。私たちは神を信頼してそう祈ります。
しかし同時に神様は天におられる方であり、私たちとは異質な存在です。神は神であって人間ではない。神を信頼することと、なれなれしくすることとは違うことです。今日の二つの御言葉はそのことを教えます。
「神は知恵があり、力がある。この方に対抗したものはただで留まるだろうか。」「さても、人よ。神に訴訟を起こそうというあなたは何者なのか。」
神の知恵と力。この方に並ぶものは一つもない。この天と地とそこにあるすべてのものをお造りになった方。私たちは他ならぬこのお方に命をいただき、この方に祈り、この方の御前に生かされています。私たちはその事実を畏れます。
「神に訴訟を起こそうというあなたは何者なのか」と言います。神様は理不尽だと私たちが思うとき、往々にして、私たちはこの問いを忘れます。神の前に立ち、主張できる自分であるという前提を持ち、そこで本当に問われているのが自分自身であるということに気づきません。「あなたは何者なのか」と御言葉は問う。主イエス・キリストを不正とし、自分を正しいとするあなたは何者なのか?
今日の御言葉は、主であるお方こそが神であり、私たちは造られたものに過ぎないことを思い起こさせます。神をあがめ、神の御前にひれ伏して、この土曜日の備えの日を歩んでいきたいと願います。

2023年4月14日の聖句

見よ、このような時が来る、と主は言われる。私はダビデのために正しい若枝を起こす。それは王である。彼は良く治め、国に法と義を行う。(エレミヤ23:5)
キリストは全生涯にわたって、死の恐怖の奴隷でいなければならなかった者たちを解放されました。(ヘブライ2:15)

「彼は良く治め、国に法と義を行う。」神様は、そのような義しい裁きを行う王を私たちのために立てるとおっしゃってくださいます。私たちの社会では一向にそれが実現しません。国の制度やその背後にある文化が違っても(あるいはもう少し直接的に言えば、日本であろうとアメリカであろうとロシアであろうと中国であろうとイギリスであろうと・・・)、治めている王が人間であるかぎり、それは不完全なものでしかありません。不正な裁きはどこに行ってもあるし、弱い人が虐げられたり、強い者が私腹を肥やしたり、法を無視する人もたくさんいます。人間がやっているかぎり、そういう何らかの不具合は無くならないのだと思います。しかし、神が起こしてくださる若枝、まことの王である方は、私たちを良く治めてくださる。国に法と義を行ってくださる方。聖書はそのように約束します。
そういう私たちの王であられるイエス・キリストは、人間や人間が生み出す悪から私たちを解放するだけでなく、私たちの悪の親分のような死からも私たちを解放してくださるのです。「キリストは全生涯にわたって、死の恐怖の奴隷でいなければならなかった者たちを解放されました。」死が私たちを奴隷にし、私たちを支配している。
思えば、この世の支配者の支配がなぜ悪に傾いていってしまうのかというと、そこには死の恐怖が強く根を張っているからなのかも知れません。自分が生き延びるため、自分が名誉を得るため、自分が更に力を得るため。あるいは、そういう力を自分の縁故ある者への特権として引き渡したい。そういう人間の強欲は、死をごまかすための人間の姑息な生き方に由来しているのではないでしょうか。
ところがキリストは私たちを死への恐怖から自由にしてくださる。ご自身の十字架での死と復活によって、私たちを新しくしてくださる。そこにキリストの御業があります。私たちはキリストのもの。それは私たちが生きているときにそうであるのと同じように、死にゆくときにも、そうなのです。だから私たちは救われている。聖書はそう宣言します。

2023年4月13日木曜日

2023年4月13日の聖句

主よ、あなたは大いなる憐れみにより、あなたの民に終わりをもたらさず、またお見捨てになりませんでした。(ネヘミヤ9:31)
(イエスの言葉)私は生きている。だからあなたがたもまた生きる。(ヨハネ14:19)

この世界には、永遠に続くものは一つもありません。言葉にすれば至極当然ですが、普段はあまりそういうことは意識しません。無くなってみて初めて気づくということも少なくないと思います。
例えばこの三年間、コロナによって私たちの生活はずいぶん変わってしまいました。当たり前の日常と思っていたものは実はかなりもろい土台にすぎなかったことをまざまざと見せつけられました。ところが、私たちの社会はまた元のもろい土台の上に同じものを載せようとしています。砂の上に家を建てるかのようにして。
もっと良いものであっても、残念ながら永遠には続きません。親も子どもも配偶者もずっと生きていてくれるのではないし、自分自身の健康も命も限りあるものです。
ですから、移りゆくものや永遠ではないものは、本当の意味では私たちの生きる土台にはなり得ないのではないかと思います。私たちの人生が移ろいやすく、またもろいものだという事実は、とても悲しくさみしいものです。自分という存在の儚さを思わされます。
しかし、主なる神様は永遠のお方です。「私は生きている。だからあなたがたもまた生きる。」私たちにそう言ってくださったお方は、十字架にかけられましたが、神によって復活させられ、永遠に神の右におられるお方です。この方が生きておられるという事実が私たちの生きる基盤だと主は言ってくださいます。「だからあなた方もまた生きる。」
主なる神様の永遠は、「永遠の慈しみ」です。「主よ、あなたは大いなる憐れみにより、あなたの民に終わりをもたらさず、またお見捨てになりませんでした。」私たちは限りあるもの、弱くて小さく脆い土の器です。しかし、そんな私たちに神様は永遠の輝きを放つ宝を乗せてくださいました。神は私たちを見捨てることなく、神の御前にあって終わりをもたらさないと言ってくださるのです。驚くべきことです。
私たちの生きる土台は、神様ご自身です。このお方以外の一体どこへ、私たちはいくというのでしょう。永遠なる慈しみの神様以外、一体誰が私たちを救ってくださるのでしょうか。

2023年4月12日水曜日

2023年4月12日の聖句

このわたしが手で天を広げ、その万象に命じたのだ。(イザヤ45:12)
良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生じる陰もありません。(ヤコブ1:17)

ついこの前、上の娘が突然クイズを出してきました。曰く、一番早いものは何でしょう。チーターというのか、ハヤブサというのか、何かなと思って聞いていたら、答えは「光」と。あまりにも正しい答えで驚いてしまいました。光はとても不思議です。生まれたときから私たちを囲んでいます。赤ちゃんはいつから光を知覚するのでしょうか。生まれたときから薄ぼんやりと、明るいということは分かっているのでしょうか。私たちの周りにあふれています。光速度は、確かに娘が言うとおりにこの世にあるものの中で最も速い。また、光速度には不変という性質もあります。対して他の物質は光速度に近づけば近づくほど重量が変化したり、時間の流れも変わってしまったりして、相対的でしかありません。光のことを考えると、もっと科学を勉強してみたいなと思います。
その光は、神様を源としていると聖書は言います。「光の源である御父」。神様は光をもお造りになった。天地創造の初めに神がおっしゃったのは、「光あれ」ということです。光によって混沌に秩序が生まれ、夕べと朝という時間が生まれました。すべてのものは光から始まった。そしてその光は神がお造りになった。神が光の源でいらっしゃる。
「このわたしが手で天を広げ、その万象に命じたのだ」と主なる神様は言われます。イザヤ書第45章は、バビロンに捕囚にされたユダヤの人々が、やがて支配がペルシアに移り、捕囚から解放されていく時代に深く関係していると考えられています。神様が「このわたしが手で天を広げ、その万象に命じたのだ」とおっしゃるとき、それは私たちの科学的好奇心を満たすためとか、知的な疑問に答えるための言葉ではありません。これは、天を広げる御手をもって、万象に命じる御言葉をもって、私たちを救うという宣言です。神様の力強い救いのメッセージです。
先ほどの「光」の話も、物理の話をしているわけではない。光についての昔話ではない。光の源であるお方は、他ならぬ私たちの神でいらっしゃるお方だ、という宣言です。光をお造りになった方を私たちは信じている。このお方が光を造ったのであって、この方には陰がない。つまり、この方が宣言する救いのメッセージに裏心や下心は皆無なのです。私たちはこの方の光を全面的に信じ、依り頼み、この方にすべてを預けて良い。そういう信頼の告白です。
今、私たちを包む朝の光を生み出した方が、今日も私たちの救いのために生きて働いてくださっているのです。

2023年4月11日火曜日

2023年4月11日の聖句

主はあなたの避けどころ。(詩編91:9)
キリストの苦難が私たちの上におびただしく及ぶように、私たちはキリストにより豊かに慰められるでしょう。(2コリント1:5)

今日の新約聖書の御言葉は使徒パウロが書いた手紙の一節です。パウロという人は、たくさんの苦難を味わった人です。同じコリントの信徒への手紙二の中で、彼はこのように言っています。「ユダヤ人から40に1つ足りない鞭を受けたことが五度、棒で叩かれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜海上を漂ったこともありました。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難荒れ野での難、海上の難、偽兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。(11:24~27)」パウロはこういうたくさんの苦難について、今日の箇所では「キリストの苦難」と言っています。パウロにとって、苦難はキリストから溢れてわが身に及んできているものです。
そういうふうに言うと、普通は、神様は何で自分をこんな目に遭わせるのか、血も涙もない神様だ、ということになりかねません。しかし、パウロはそうではありませんでした。キリストの苦しみが満ち溢れて、私のところにまで及んでいる。それと同じように、キリストの慰めも満ち溢れて私にも注がれる。しかも、豊かに注がれる。私はキリストから来る慰めによって生かされている。苦しみも慰めも、キリストから頂いているのです。
パウロは、主イエスさまを避けどころとして生きていました。言葉の上だけではなく、本気でキリストを避けどころとしていた。ここに私の慰めがある。ここに私を救う神がおられる。そのことを信じていたのです。
私たちは苦しむとすれば、神を苦しんでいます。神と関わりのないことは一つもない。それと同じように、いやそれ以上に、私たちに慰めを豊かにくださる神を信じ、この方を仰いで、今日も歩んでいきましょう。

2023年4月10日月曜日

2023年4月10日の聖句

今週の聖句:
(キリストの言葉)私は死んでいたが、永遠から永遠へと生きており、死と陰府の鍵を持っている。(黙示録1:18)

今日の聖句:
主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。(出エジプト記14:14)
神に感謝。主イエス・キリストにより私たちに勝利を与えてくださった方に。(1コリント15:57)

主イエス・キリストは復活し、死に勝利された。私たちはその事実を福音の知らせとして聞き、その事実によって救われました。私たちが信じるか信じないかという以前に、あるいは私たちがどういう者なのかというよりも前に、キリストが死に打ち勝たれた。その事実が決定的です。私たちの信仰は最後に付いて来るものに過ぎないのかも知れません。キリストがしてくださったこと、キリストの勝利、キリストの復活が私たちにとっていちばん大切なことなのです。
「主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」私たちは静まって、ただ神を知ります。勝利者でいらっしゃる神、私たちの王キリストを、私たちは仰ぎます。
このお方は、死と陰府の鍵を持っておられると言います。死と陰府の門は、私たちにはどうすることもできません。私たちは死に対しても、死をもたらす罪の力、悪の威力に対しても、無力です。死をどうすることも私たちにはできません。しかし、私たちにはどうすることもできない死の門の鍵をキリストは持っておられる。それを解き放って、私たちを自由にしてくださいます。
更に、キリストはもうひとつの大切な鍵を教会に預けてくださいました。「私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。(マタイ16:18~19)」キリストは、ご自身の復活の福音によって私たちに陰府の門に打ち勝つ天の国の鍵を授けてくださった。私たちの証しするキリストの福音は、それだけの力を持っている。死の力に打ち勝つ鍵です。私たちは命の福音を携えて、今日、キリストに遣わされています。

2023年4月9日日曜日

2023年4月9日の聖句

私は身を横たえて眠り、また目を覚ます。主が私を支えてくださるから。(詩編3:6)
週の初めの日、朝早く、イエスは復活して、まずマグダラのマリアにご自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた女である。(マルコ16:9~10)

主は生きておられる!
これこそ、キリスト教会の最初の福音宣教の言葉です。「主は生きておられる。」あの最初の復活の朝から、キリストの教会はこの一事を福音として語り継いできました。十字架にかけられたキリストを神は甦らせた。この方こそ神の子、私たちの救い主。私たちを罪と死から解き放ってくださるお方。

主は生きておられる。だから、私たちは絶望しません。キリストは今日も生きて働いておられるからです。
主は生きておられる。だから、この方が宣言した神の国は必ず来る。この方の約束は真実だからです。
主は生きておられる。だから、私たちも死を越えて生きる望みを持っています。

私たちも、私たちの愛する人も、死を乗り越える力を持っていません。死を前に、私たちは無力です。どんなに生きたくても私たちはやがて死ぬ時を迎えます。どんなに愛していても、死ぬときには一人です。しかし、主は生きておられます。十字架にかけられ、陰府に降ったキリストが甦られたのです。死に打ち勝ち、私たちをも復活の命に生かすために。主キリストは甦り、今も生きて働いておられる。今日、イースターはその事実を祝う尊い日です。いや、それは一年に一回のイースターの日だけではない。毎週日曜日の礼拝が、キリスト復活の祝いの日です。私たちはキリストにあって死に打ち勝って生きる。その初穂となられたきりストを喜び、あがめる。それが日曜日に起きている出来事です。
主なるキリストは、やがて死んで眠りにつく私たちを支えて、目を覚まさせてくださいます。私たちはやがて死の床に就き、自分の力でも、他の人の力を借りても、起きることができなくなります。しかし主が支えてくださる。死の眠りから呼び起こすために。キリストの支えの中で私たちはやがて復活の朝を迎え、新しい復活の命をいただいて生きる。私たちはそれを信じています。今日、このイースターの日曜日、私たちに命を与えるキリストを礼拝し、この方によって喜びと平安とをいただくのです。

2023年4月8日土曜日

2023年4月8日の聖句

主は私を身の毛もよだつような穴、汚れとぬかるみばかりの穴から引き上げてくださった。そして私の足を岩の上に立たせてくださり、確かに歩めるようにしてくださった。(詩編40:3)
キリストは、肉では殺されましたが、霊では生かされたのです。こうしてキリストは、捕らわれた霊たちのところへ行って宣教されました。(1ペトロ3:18~19)

主イエス・キリストは、ポンテオ・ピラトのもに苦しみを受け、死んで葬られ、陰府に降り・・・。私たちは使徒信条に従ってそのように告白します。キリストは陰府に降っていかれた。そのことを、今日の詩編では「身の毛のよだつような穴、汚れとぬかるみばかりの穴」と表現しています。滅びの穴の淵に、キリストは降りてくださいました。
主イエスは十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。キリストは神に棄てられて死んだ。これこそが陰府だ、と改革者カルヴァンは言います。陰府というのは、私たちが昔から素朴に教えられてきた針山地獄とか血の池地獄とかそういうことではありません。神に棄てられること。それが陰府です。それは身の毛もよだつような穴に落とされることであり、汚れとぬかるみの穴の淵に落とされることです。キリストは神からも人からも呪われた者として十字架にかけられ、陰府に降って行かれたのです。
今日は受難週の土曜日です。もしかしたら、今、まさに受難週の土曜日そのものという思いを持って毎日を過ごしている方もおられるかも知れません。キリストは陰府に降り、復活の光が見えない。自分も穴の底に突き落とされている。それでは、陰府に赴かれたキリストはそこで何をなさったのか。「キリストは、肉では殺されましたが、霊では生かされたのです。こうしてキリストは、捕らわれた霊たちのところへ行って宣教されました。」キリストは捕らわれた霊に福音を宣教しておられる。神の手は陰府にまで伸ばされた。だから、もう神のあずかり知らぬ場所はない。私たちがどんなに絶望しても、そこにはキリストがおられます。そしてそのキリストは、あの朝、確かに墓から甦ったお方です。
だから私たちには、キリストにある希望があります。私たちが例えどこにいようともキリストがここにいてくださる。私たちはそのことを信じ、今日の日を祈りつつ歩んでいきます。

2023年4月7日の聖句

味わえ、見よ。主がどんなに思いやりがあるかを。この方に信頼を置くものは幸いだ。(詩編34:9)
(犯罪人の一人の言葉)「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、私とともにパラダイスにいます。」(ルカ23:42~43)

十字架刑は古代ローマの極刑です。残酷な刑罰であり、同時に、さらし者にするという意味もあったのでしょう。十字架刑では、死刑囚の頭の上に罪状書きが打ち付けられていました。主イエスの罪状書きには「これはユダヤ人の王」と書かれていました。
それを見た人々がイエスを罵って言うのです。「他人を救ったのだ。神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」メシアというのは油を注がれた者という意味ですが、第一には王を意味します。神のメシアというのは、神に立てられた王を意味する。ピラトによる主イエスの裁判も、イエスが王か否かということが争点になっていました。結局主イエスはユダヤ人の王という嘲笑を受けながら十字架にかけられたのです。
まさにこれは「嘲笑」で、誰もイエスが王などとは思っていません。王は本来は強い軍勢を率いて国を守るのが役割です。国を守るために王が第一に守るのは、自分自身の安全です。王が安泰であることが国の安泰の徴です。しかし王として十字架にかけられた方は自分自身を救おうとはしなかった。それで、人々は王イエスを嘲りました。
主イエスの横で十字架にかけられていた犯罪人は「あなたが御国に入られるときには」と言っています。「御国に」と言っている。そこからすると、この人だけが主イエスが本当に王だと信じていた、ということではないでしょうか。私たちの王である方はおよそ王らしくないお姿であり、他の諸王のように自分を救おうとはなさらず、却ってご自身を差し出して私たちに憐れみを表してくださるお方です。
ご自分を王として受け入れ、救いを求める犯罪人に主イエスはおっしゃいます。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、私とともにパラダイスにいます。」パラダイス。楽園という意味です。エデンのようなところでしょうか。そこは、何よりも主なる神様と共にいることのできる場所です。主を完全に信頼し、主の御前に生きることを喜びとし、主の憐れみによって生かされる場所です。ですから、主イエスを神のメシア、私たちの王としてお迎えしたあの犯罪人は、十字架の上で既にパラダイスを生き始めていました。キリストはご自分の憐れみを求める者を決して捨てることのない、私たちの真の王でいてくださるのです。

2023年4月6日木曜日

2023年4月6日の聖句

(洪水後の神の言葉)この地が続くかぎり、種まきと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜がやむことはない。(創世記8:22)
イエスはパンを取り、感謝して裂き、彼らに与えて言われた。「これはあなたがたのために与えられる私の体です。私の記念としてこれを行いなさい。」食事の後、同じように杯を与えて言われた。「この杯はあなたたちのために流される、私の血による新しい契約である。」(ルカ22:19~20)

今日の旧約聖書の御言葉の直前の21節にはこのように書いてあります。
「主はなだめの香りを嗅ぎ、心の中で言われた。『人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼いときから悪いからだ。この度起こしたような、命あるものをすべてすべて討ち滅ぼすことはもう二度としない。』」
これはとても興味深い言葉です。人が心に計ることは、幼いときから悪い。だから、もう二度と人のゆえに地を呪いはしない。普通は「悪いから呪う」、です。そうであれば因果の関係が成立している。ところが神様は「悪いから呪わない」とおっしゃるのです。
今日の新約は聖餐の制定の御言葉です。主は十字架にかけられる前の晩、弟子たちと共に過越の食卓を囲みました。パンを取り、ご自分の体だと言って弟子たちにお与えになった。そして、杯を取ってご自分の血による新しい契約だと言ってお与えになりました。主イエスがそのようにおっしゃった食卓でこの後弟子たちがすたのは、誰がいちばん偉いのかという言い争いでした。主イエスはペトロがこの後ご自分を裏切ることを予告なさいました。そして、ユダに裏切られて逮捕されました。弟子たちは、悪い者たちでした。私たちの代表である弟子たちです。そんな者たちのために、主イエスはご自分の体を裂き、血を流したのです。
悪い者だから、呪わない。悪い者だから、ご自分の体を裂き、血を流して救う。それが主なる神様のなさったことです。聖書は、徹底的に神様が与えてくださったと言います。私たちが神様のために何かをしたからそのご褒美に救われるのではない。徹底的に、神が私たちを救ってくださった。私たちが悪い者だからです。私たちの側にはふさわしさも何も一切ありません。ただ、神様の破格の愛のゆえに、私たちのために神がキリストを献げて救ってくださった。それが、私たちのすべてなのです。

2023年4月5日水曜日

2023年4月5日の聖句

主は正義と公正を愛される。(詩編33:5)
あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(2コリント8:9)

スイスの牧師、ルードルフ・ボーレン先生が遺著『祈る』にこのような祈りの言葉を書いておられます。
「ああ、精神の怠慢、 寛容の化粧をした 快適さ、
また異邦人に教えるよりも むしろ異邦人から学ぶこと、それはより容易い。
ああ、黙した伝令、 あなたから学ばず、 座したままの使徒。
憐れんでください。あなたの僕や仕え女たちに 命を与え、動かしてください。」
深く心に突き刺さる言葉です。読むと痛くなります。それだけに、本当のことを突いている祈りの言葉であると思います。
今日の御言葉に「主は正義と公正を愛される」とあります。現代社会において、正義と公正は殆ど「独善」と同義語のような扱いを受け、評判が悪くなってしまいました。むしろそれぞれの正義を重んじる多様性こそすばらしい、という価値観が広がっています。確かに一方では独善に陥らずに多様性を認め合うことはとても大切です。主イエスは徴税人や罪人も、異邦人も、兵士も、どのような人をも受け入れました。しかし、やはり主が愛する正義と公正ある。神様の目に適う正義がある、と聖書は言います。
それでは主なる神様が愛する正義や公正はどのようなものか。それは、主イエス・キリストに現された正義であり、公正であるはずです。聖書は言います。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」ご自身が神の子として富むお方であったにもかかわらず貧しくなり、それによって私たちを富む者にする。そこに神が愛する正義と公正がある、と言うのです。
私たちは、キリストから学びます。キリストから貧しさを学び、そこに現れた正義と公正を伝令として伝えます。神ご自身が貧しくなって、私たちを富ませてくださった。そこにある「富」は、どう考えてもこれまで私たちが求めてきたこの世の富ではないでしょう。神の御前にある豊かさ。キリストのへりくだり、しかも十字架にまで至るへりくだりが、私たちに今日問いかけています。

2023年4月4日火曜日

2023年4月4日の聖句

恐れるな、地よ、喜び、安らかであれ。主は大いなることをなされたからだ。(ヨエル2:21)
大勢の弟子たちは自分たちが見たすべての御業について、喜んで大声で賛美し始めて、言った。「祝されよ、主の名によってこられる王よ。」(ルカ19:37~38)

今日の新約聖書の御言葉は、主イエスのエルサレム入城のときのことを報告しています。大勢の弟子たちが神を賛美し、大声で言います。「祝されよ、主の名によってこられる王よ。」彼らがこう言うのは、主イエスに現れた神の力を目撃したからです。子ロバに乗ってエルサレムの都に入ってきた主イエスこそ、私たちの真の王と言って彼らは迎えた。子ロバに乗るお方に、神様の御力が現れていると信じ、主をお迎えしたのです。
「恐れるな、地よ、喜び、安らかであれ。主は大いなることをなされたからだ。」この預言者ヨエルの言葉は、主イエスを知る私たちにとっては、預言者ヨエル自身の意図や思いを超えた意味を持ち得ます。ヨエルは自分の生きた時代に、目の前にいた人々に神様のメッセージを届けるためにこのように言ったに違いありません。ところが私たちは、キリストが王としてエルサレムに入城し、十字架にかけられ、死んで、復活したことを知っています。そうやってキリストが王になられたことを知っています。そのことでもって、私たちは神様が何よりも「大いなることをなされた」ということを知らされている。そして、そうであるからこそ他の何よりも確かに「恐れるな、地よ、喜び、安らかであれ」と声を合わせて言うことができるのです。
キリストが私たちの王でいてくださるから、私たちは安らかになることができます。私たちの世界は、心騒ぐことばかりが起きます。戦争の噂は絶えることなく、今日も飢えている人や病気の人、貧しい人がたくさんいます。主よ、平和くださいと祈らないわけにはいかない。そんな私たちの王に、キリストがなってくださった。どうぞ約束の通りの平安を私たちの生きるこの地にお与えください。主よ、来てください。救ってください。私たちはそう祈り、今日の一日の歩みを始めていきます。

2023年4月3日月曜日

2023年4月3日の聖句

私は絶えず主に相対しています。(詩編16:8)
信仰の創始者であり、完成者であるイエスを仰ぎ見ましょう。この方は喜びを持つこともできたにもかかわらず、十字架を甘受され、恥を厭われませんでした。(ヘブライ12:2)

「私は絶えず主に相対しています。」その主は、十字架にかけられたお方です。使徒パウロも、ガラテヤの信徒への手紙の中でこのように言っています。「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にはっきりと示された」。どうやって示されたのか。御言葉の説教によってです。礼拝で御言葉を聞くとき、私たちの目の前に十字架にかけられたキリストがはっきりと示された。十字架にかけられたキリストに、私たちは絶えず相対している。
今日与えられている新約聖書はヘブライ人への手紙の言葉です。ヘブライ人への手紙の著者は分かりません。ただ、一つの可能性としてパウロと共に伝道に仕えたアポロの説教を書き留めたものなのではないか、とも言われています。一つの可能性として思い巡らすと、とても嬉しくなる説です。いずれにしても、今日私たちに与えられているところではこのように言われています。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスを仰ぎ見ましょう。この方は喜びを持つこともできたにもかかわらず、十字架を甘受され、恥を厭われませんでした。」主イエスを仰ぎ見よう、と呼びかけます。この方は十字架の恥を甘受し、それを厭うことがなかった、と言っている。十字架のキリストを見上げ、この方に相対する。そういうキリスト者であろう、と呼びかけています。
今日、私たちはキリストを見上げましょう。十字架にかけられたキリストを。私のために恥をお受けになった方を。この方は私たちのために十字架の上におられます。この方は私たちのために恥をお受けになったのです。私たちが気力を失い、弱り果ててしまうことがないように、このような罪人たちの反抗を耐え忍ばれた方のことを思い出しましょう。
主に相対するとき、私たちは新しくなることができる。御言葉はそのように訴えかけています。

2023年4月2日日曜日

2023年4月2日の聖句

今週の聖句:
人の子は挙げられなければならない。この方を信じる者すべてが永遠の命を持つためです。(ヨハネ3:14b,15)

今日の聖句:
私は彼らの悲嘆を喜びに変える。(エレミヤ31:13)
苦悩を抱える人たちは幸いです。その人たちは慰められるからです。(マタイ5:4)

今週の聖句にある「挙げられる」というのは、十字架の上に挙げられるという意味です。人の子、すなわち主イエス・キリストは十字架に挙げられなければならない。キリストご自身がそのようにおっしゃいます。咬みを信じる者すべてが永遠の命を持つために、キリストはご自分が十字架の上に挙げられねばならないのだ、と言われるのです。
今日は教会の暦では「しゅろの主日」と呼ばれる日曜日です。イースター、復活の主日の一週間前。今日から受難週が始まります。主イエス・キリストの十字架への歩みと、十字架でのキリストの御苦しみを覚え、祈りを献げる聖なる一週間として、代々の教会が覚えてきました。
今日の聖句では、「彼らの悲嘆」とか「苦悩を抱える人たち」といった言葉が重ねられています。キリストは、誰よりも私たちの悲嘆や苦悩をご存じです。キリストご自身がそれを誰よりも深く味わわれたからです。そのお方ご自身が言ってくださいます。「その人たちは慰められる」と。
この「慰める」という言葉は、新約聖書が書かれた言語の中で私が一番好きな単語です。「隣で呼びかける」という字を書きます。聖書の中では「慰める」とか「励ます」といった意味で使われています。苦悩を抱える人たち、悲嘆に暮れる人たち、あなたたちは幸いだ。私があなたの隣りにいる。あなたの隣りにいて、わたしの言葉を語りかける。慰めの言葉を、私があなたに語りかける。だからあなたは幸いだ。主イエスはそう言われるのです。
ここで、主イエスは単に「あなたと一緒にいる」と言ったのではなく、「あなたの隣で語りかける(=慰める)」とおっしゃったことに注意を向けたいと思います。私たちは、キリストが私の隣りにいて語りかけてくださる御言葉によって、最大の慰めを頂きます。キリストは御言葉として、ご自身を私たちに与えてくださるからです。私たちの悲嘆の中で響くキリストの言葉。それが私たちを慰め、励まし、命を与える。その命の言葉を聞かせてください、と祈りましょう。キリストは私たちを揺るぎない慰めによって支えてくださるのですから。

2023年4月1日土曜日

2023年4月1日の聖句

4月の聖句:
キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。(ローマ14:9)

今日の聖句:
主は、ご自分の大いなる御名のために、ご自分の民を捨て去りはしない。(サムエル上12:22)
私たちが真実でなくても、この方は常に真実であられる。この方にはご自身を否むことはできないからである。(2テモテ2:13)

主イエス・キリストは真実な方。しかも、常に真実な方です。キリストにはご自身を否むことがお出来にならない。ご自身の真実を違えることがお出来にならないのです。何という恵みに満ちた言葉でしょう!
「主は、ご自分大なる御名のために、ご自分の民を捨て去りはしない。」私たちはキリストに教えられて、「御名をあがめさせたまえ」と祈ります。そのご自身のお名前にかけて、神様はご自分の民である私たちをお捨てにならない。その御名は常に真実であり、私たちへの真実の愛を貫くお名前だからです。ご自分の御名にかけて、神様は私たちをお捨てにはならない。神は常に真実な方だからです。
今月の聖句も証言しています。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」私たちの主となられるために、キリストは死に、そして生きられた。死んでいる人にも生きている人にも、キリストが私たちの主になられた。すなわち、私たちの神になられた。そこにキリストの真実が込められています。私たちを生かし、私たちをご自分の民とするキリストの真実によって、私たちは生きている。私たちの生きるときにも死にゆくときにも、私たちはキリストのもの。私たちはキリストの真実に生かされている者。その確かな事実が、今日私たちを生かすのです。

2024年5月22日の聖句

主はその民を贖い、契約をとこしえに定めた。(詩編111:9) この方(イエス・キリスト)こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。(1ヨハネ2:2) 主が民をご自分のものとしてくださった。御言葉はそのように宣言します。私たちも神の民、神の...