2022年12月31日土曜日

2022年12月31日の聖句

主は言われる:わたしは、わたしの家のために、見張りとして衛所に立つ。(ゼカリヤ9:8)
神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。(ローマ8:31~32)

何と力強く、心強く、はっきりとした断言なのでしょう!「神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか!」誰にも、そのようなことはできません。神様ご自身が私たちのための見張り番になってくださって、衛所に立って目を凝らし、私たちを守っていてくださいます。私たちを害することができるものは何もない。神さまの御前にあって、私たちのたましいを損なうことができるものは何一つない。それが聖書が私たちに告知する福音であり、聖書の断言するところです。
100年くらい前に生きたスイス人の牧師、また進学者にカール・バルトという人がいます。年の暮れにこの人が献げた祈りが残されています。一部分ですが、ご紹介します。
「私たちの年が来て、また過ぎ去っていきます。そして私たち自身も生き、また死んでいきます。しかし、あなたは今も、またこれからも永遠におられます。あなたの支配とあなたの真実、あなたの義とあなたの憐れみには、始めも終わりもありません。」
私たちの一年には始まりがあり、終わりがある。私たちの命にも始まりがあり、終わりがある。しかし、神さまには始まりも終わりもありません。神さまの支配にも、真実にも、義にも、憐れみにも、始まりも終わりもない。永遠だからです。神さまも、その御心も永遠です。神さまはご自身の永遠にかけて私たちの味方でいてくださり、私たちのために衛所に立っていてくださいます。
だから、神はキリストを与えてくださいました。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。」神の永遠の愛の中、私たちの一年が終わろうとしています。
この一年は、あなたにとってどのような年だったでしょうか。それがどのようなものであろうとも、神さまが味方でいてくださる事実は決して変わりません。神さまの圧倒的な、永遠の愛は絶対に変わりません。このお方の御子に現れた神の愛がどのようなときにも私たちに迫っています。

2022年12月30日金曜日

2022年12月30日の聖句

六日間は働いて、あなたのすべての仕事をしなさい。しかし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない。(出エジプト記20:9,10)
安息日は、人のために定められた。(マルコ2:27)

数年前にFIREという言葉がはやりました。「経済的自立と早期リタイア」という英語の言葉の頭文字を取った言葉だそうです。株式などに代表される資産運用で生活し、仕事は早期にリタイアする。そういう人生設計を指す言葉なのだとか。そういう生き方を志向する人も、私と同じくらいの世代の人の中にはいるそうです。或いはそれとは逆に、日本ではずっと休みなく働き詰めることが美徳とされてきました。休まず働き続けることに美しさを見、例えインフルエンザやなにかになったとしても、無理にでも休まない人を立派な人と受け取ってきたように思います。或いはそれが「当たり前」だったのでしょうか。
聖書はそのどちらとも違う労働観を持っているようです。「六日間は働いて、あなたのすべての仕事をしなさい。しかし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない。」六日間はしっかり働く。現代の流行とはまた違いますが、例えば古代ギリシアには自由人と呼ばれる人がいました。彼らは労働は奴隷に任せて、思索にふけりました。労働には積極的な意味を見出さず、知を愛することをより上位に置いた。ところが聖書は六日間働くことを求めます。不労所得であろうと何であろうと食っていければそれでいいとは言いません。もちろん、ここでの「労働」は給与が発生する職業というだけの狭い意味ではなく、現在の自分の生活を維持するための家事を含めたすべての仕事や将来世代を育てる育児、先輩世代を世話する介護など。そうやって広く捉える必要があると思います。神さまが私たちにお与えになったすべての仕事に六日間誠実に仕える。
しかし、休みなく働きづめることが美徳だともいわない。七日目には休むようにと命じられています。休息もまた神さまのご命令です。休むことによって、自分だけではなく周りの者も休むことができるようになる。こうやって休むことによって、私たちは神が七日間かけて天地をお造りになったこと、しかもその七日目は安息日であったことを思い起こす。神さまの御業のリズムを自分の生活のリズムにする。
「安息日は、人のために定められた。」神さまは私たちのことを本当に深く考えてくださっています。働くことの尊い意義も、休むことの尊い意義も、神さまの御心の中に覚えられています。神さまは私たちの働いたり休んだりする生活のリズムの中で見上げるべきお方です。神さまはご飯を作ったり職場に行ったり家族の世話をしたりしつつ祈るお方です。神さまは私たちが休み、リラックスし、休みを楽しみつつ呼び求めるお方です。このお方こそが、私たちの毎日の生活を心にかけてくださっているからです。

2022年12月29日木曜日

2022年12月29日の聖句

神が言ったことを、行わないことがあろうか。告げたことを、成し遂げないことがあろうか。(民数記23:19)
イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。(2コリント1:19)

人間関係一つを考えても、言葉への誠実さはとても大切です。言ったことに責任をもつ、すると約束したことはキチンとする、「然り」と「否」を誠実に使う。子どもにもそういうことは教えます。しかし肝心の私たち大人の世界を見てみると、言葉においてとても不誠実な現実があります。それは特段に政治がとか社会がと大上段に論評する必要もありません。私たちの多くの者が言葉における不誠実さを自分自身のこととして知っているのではないでしょうか。
ところが神さまはそうではない、と聖書は言います。「神が言ったことを、行わないことがあろうか。告げたことを、成し遂げないことがあろうか。」「イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては『然り』だけが実現したのです。」神さまは言葉に誠実なお方です。ご自分の言葉をむなしくしてしまうことは絶対になさいません。神さまにおいては、言葉が地に落ちるということは絶対にあり得ないことです。そして、言葉に誠実だというのは相手を愛するということそのものです。言葉を自分勝手にたがえたり、相手を裏切ったりすることがないということです。言葉への不誠実は、愛への不誠実です。
ですから、神さまがご自分のお言葉への誠実を貫くというのは、子どものような屁理屈で考えることができないことです。例えば、神さまはアダムとエヴァに園の中央の木の実を取って食べるな、食べたら必ず死ぬとおっしゃいました。しかし彼らがそれを食べても直ちに死ぬことはなかった。神さまは言葉をたがえたのか?神さまにおいて、御言葉は私たち罪人を愛する愛そのものです。神さまに背を向け、離れ、裏切った者をなお愛し、その罪人を追い求める神さまの愛の心こそが神さまの御言葉です。だから、キリストにおいては「然り」だけが実現したと言われている。
私たちが例えどんなに不誠実であっても、神さまはご自身の誠実を貫かれます。この方が私たちへの愛の言葉をご自分の「然り」としていてくださる。圧倒的な神の愛の言葉が今日私たちに届けられています。

2022年12月28日水曜日

2022年12月28日の聖句

わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしは神がわが助け、わが神であられることに、なおも感謝を捧げよう。(詩編42:12)
このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。(2コリント3:12)

今、うなだれてはいませんか?思いが乱れてはいませんか?詩編はかつて生きた信仰者の祈り、私たちと同じ神を信じる人の祈りです。代々のキリスト者たちが祈り継いできた祈りの言葉です。うなだれ、思いが乱れる自分の魂に向かって言います。
「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。」
この詩編は、自分の魂に向かって「何ゆえ」と言います。本当であればうなだれるはずがないのに、本来であれば思いみだれる筈がないのに、という気持ちが込められているように思います。神さまを信じている私、神さまに望みを置いている私。そのことはよく分かっている。それでも、なぜかうなだれてしまう。神を信じているのに、なぜか思いみだれてしまう。わが魂よ、何ゆえうなだれ、何ゆえ思いみだれるのか。自分自身の心の奥底に向かって問うています。
そして、さらに言います。「神を待ち望め。」うなだれ、思いみだれるけれど、神を待ち望もう。あるいは、そうであるからこそ神を待ち望もう。そのように自分自身の魂に向かって呼びかける。やはり神にしか私の望みはないから。他の一体誰を頼ろうか、他の一体どこに私の救いがあるだろうか。ただ神を待ち望め。そのように自分の魂を説得します。「わたしは神がわが助け、わが神であられることに、なおも感謝を捧げよう。」
使徒パウロは祈りの人です。今日の旧約聖書の祈りも、きっとパウロにとって愛する言葉だったに違いありません。彼は言います。「このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。」パウロは祈りで世界を変えた人です。大胆に福音に生きました。彼の大胆な生き方を支えたのは、大胆な信仰です。大胆な信仰は、ただ神が下さる望みの大胆さから生まれます。神が私の神でいてくださる。その事実を喜び、信じ、そこから力を頂いて、彼は大胆に祈り、自分の魂に大胆に呼びかけました。「わが魂よ、神を待ち望め!」今日、私たちも同じように、大胆に祈りましょう。「わが魂よ、神を待ち望め!神こそわが助け!」

2022年12月27日火曜日

2022年12月27日の聖句

かつて、引き抜き、壊すために彼らを見張っていたが、
同じように、建て、植えるために彼らを見張るーー主の仰せ。(エレミヤ31:28)
それゆえ、きょうだいたち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待ちます。(ヤコブ5:7)

かつて、神さまは私たちを引き抜き、壊すために見張っておられた。私たちの罪を裁いて滅ぼすため、ということでしょう。これ以上ない厳しい言葉ですが、よく分かることでもあります。私たちの社会は、もう今にも壊れてしまうところまで来ています。私たち社会を構成している人間の罪のために。欲望を肯定すること、消費すること、所有することなどを全面的に良しとしてきた私たちは、自分たちの欲望にもう押し潰されてしまう。神さまが留めてくださらなければ、どうしたって保ちようがない。神が裁きを決断なさるというのは、そのようなこと一つを考えても、必然のように思います。
ところが、聖書はそんな私たちを罪と滅びから救ってくださる神さまの話を私たちに聞かせます。「かつて、引き抜き、壊すために彼らを見張っていたが、同じように、建て、植えるために彼らを見張るーー主の仰せ。」かつては私たちを壊すために見張っておられた神さまは、今や私たちを建て、植えるために見張っておられる、と言うのです。聖書が私たちに伝える神さまの御心は、私たちを救うことであり、私たちがどんどん自滅していく罪の中に沈み込んでいくことではなく、神さまの愛の中に帰ることを待っていてくださる、というのです。
神さまは私たちのためにどんなに深く忍耐してくださったことでしょう。私たちの罪をどんなに忍んでくださったことでしょう。自滅していく私たち、裁かれ滅ぼされるべき私たちを、しかし神さまは忍耐し、救うことを決断し、私たちのためにご自分の御子を与えてくださったのです。
神さまの忍耐が、私たちの生き方を定めます。「それゆえ、きょうだいたち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待ちます。」私たちは今の労苦や苦労が耐えられなくなってしまいがちです。忍耐することが下手です。そんなときは、私のための神さまの忍耐を思い出しましょう。そして私たちの忍耐には、希望となる救いの約束があることを思い出しましょう。大地の実りを収穫するような喜びが、神さまの御許に準備されているのです。

2022年12月26日月曜日

2022年12月26日の聖句

彼らは、主がその僕ダビデとその民イスラエルになさったすべての恵みの御業を喜び祝い、心晴れやかに自分の天幕へと帰って行った。(列王記上8:66)
羊飼いたちは急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、彼らは、この幼子について天使が告げた言葉を人々に広めた。(ルカ2:16~17)

羊飼いたちは天使が告げた福音の出来事を実際に見るために、ダビデの町ベツレヘムへ行きました。「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と語り合いました。もしもこのとき羊飼いが天使の言うことを無視していたら、あのすばらしい出来事を目撃することはありません。彼らが天使の言葉を疑っていたら、福音のしるしをみることはできませんでした。彼らは主の促したがって、主が起こしてくださった出来事を見るために出かけて行きました。それが本当に大事なことではないでしょうか。主が始めた出来事は既に動き始めています。乳飲み子は飼い葉桶に寝かされているし、主メシアはその御業をなさっています。それを見よ、と神さまは私たちに命じておられるのです。神さまの始めた出来事をあなたも生きよ、と。
羊飼いらは、ベツレヘムの町で見たことがまさに天使の言ったとおりだったので、喜びました。神さまがお始めになった出来事を目撃し、そのことを喜んで帰って行きました。今日の旧約聖書にも似たようなことが書いてあります。「彼らは、主がその僕ダビデとその民イスラエルになさったすべての恵みの御業を喜び祝い、心晴れやかに自分の天幕へと帰って行った。」主がしてくださったことを目撃し、それを祝い、喜んで家路につく。
私たちはクリスマスに始まったキリストの出来事の証人です。私たちもキリストの誕生を、その御生涯を、十字架の死を、復活を知っています。私たちはこのお方の出来事を知り、この出来事にこそ私の救いがあると信じ、このお方を喜んで今日の日を生きていきます。私たちも羊飼いと同じ歩みをしている。私たちもキリストと共に生き始めています。
今日も、キリストの祝福と恵みと喜びが、あなたにありますように。キリストが共にいてくださいますように。クリスマスに新しく始まった歩みのために、心から祈っています。

2022年12月25日日曜日

2022年12月25日の聖句

あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、あなたがたの心をイスラエルの神、主に向けなさい。(ヨシュア24:23)
神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。(ヨハネ1:18)

今日の旧約聖書の御言葉はヨシュアの告別説教の一節です。ヨシュアはモーセの次のイスラエルたちのリーダーです。モーセに導かれてエジプトを脱出し、40年間の荒れ野の旅をし、その最後にモーセは死にました。次はヨシュアの時代になる。ヨシュアと共に人々は約束の地に入り、土地を取得していきます。土地の取得と分配が終わり、ついにヨシュアが老齢に達したとき、人々に言ったのです。
「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、あなたがたの心をイスラエルの神、主に向けなさい。」
約束の地、カナンの地、そこにはまだ現地の人がたくさんいました。彼らはそれまでの自分たちの宗教を持ち、習慣を持ち、それらが根付いた生活を営んでいた。カナンの人々が崇めていた農耕の神々と、その地での農作業とは不可分でした。他の場面でも同様です。新しい地での新しい生活は、主なる神さまを信じる信仰をいかにして守るのかという新しい課題と共に始まったのです。それで、「あなたがたの心をイスラエルの神、主に向けなさい」とヨシュアは最後に言い残したのでした。
生活と信仰とは不可分です。私たちも同じです。社会を形成する文化の中に、地場の宗教心が根付いています。それは何教なのかというよりも、むしろもっと現代の顔をしていることもあります。拝金や消費主義という顔をしているかも知れませんし、パワースポットとかスピリチュアルといったポップな雰囲気をまとっているかも知れません。約束の地に生き始めた神の民と、現代を生きる神の民である私たちは、同じ課題に直面しています。問いの急所は、私たちの心を主なる神さまに向けて生きているか、ということです。今日はクリスマスです。主イエス・キリストに目を向けるとき、私たちはただおひとりの神に目を向けています。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」キリストを仰ぐクリスマスの幸いに、今日あなたも招かれています。

2022年12月24日土曜日

2022年12月24日の聖句

彼は諸国の民に平和を命じる。(ゼカリヤ9:10)
「いと高きところでは、神に栄光があるように
地の上では、み心に適う人々に平和があるように。」(ルカ2:14)

聖書は私たちの常識に反することを命じます。今日の御言葉はまさに「命じて」いる。「彼は諸国の民に平和を命じる。」平和は、キリストから私たちへの命令です。私たちの常識は違います。命じられるものではありません。むしろ、今の時代は平和ではないとか、現実的には平和はほど遠いとか、簡単に言ってしまいます。ところが平和はキリストから私たちへのご命令なのです。
平和は、戦争がない状態という意味ではありません。主イエスご自身がおっしゃいました。「平和を造る人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」主イエスは平和を享受する人とか、平和に生きられる人とはおっしゃいません。平和を造る人々の幸いを宣言なさいます。実に平和は造るべきもの、生み出すべきものなのです。平和は積極的です。
しかしそれでも、やはり私たちの世界は平和にはほど遠い。造れと命じられても、途方に暮れるしかありません。一体どうしたら良いのか、しかも力なき庶民にすぎない私たちに一体何ができるのか、見当もつきません。クリスマスの夜に響いた天使の賛美は、私たちと同じように力のない羊飼いたちに響きました。「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心に適う人々に平和があるように。」平和は、神の栄光と合わせて語られています。私たちが神さまを礼拝することと地に平和が実現することとは、別々のことではないのです。平和は、主イエス・キリストが確立してくださると私たちは信じています。
私たちは平和を求めて祈ります。私たちには祈ることしかできない。そして、祈った者としての責任をもって、私たち自身平和を造ります。キリストが共にいて、私たちをそのための手にしてくださいます。キリストの口として、平和の言葉を私たちに必ず与えてくださいます。今日、私たちはキリストのゆえに神を賛美し、平和を来たらせてくださいと祈り、私たちの間に生まれてくださった神の子の御前に膝をかがめます。クリスマスに、キリストが私たちに神との間の平和を得さえてくださったのです。

2022年12月23日金曜日

2022年12月23日の聖句

主よ、あなたの御力のゆえに、あなたがあがめられますように。大いなる御力を、私たちは歌い、ほめ歌います。(詩編21:14)
誰もが認めるところであるように、信仰の秘儀は偉大です。「彼は肉において現れ、霊において義とされ、天使たちに姿を現し、異邦人たちに宣べ伝えられ、世にあって信じられ、栄光の内に上げられた。」(1テモテ3:16)

偉大なる信仰の秘儀。この「秘儀」というのは、「神秘」と言い換えることもできる言葉です。信仰の秘儀、信仰の神秘。秘儀というのと神秘というのとではずいぶんと受ける印象が変わります。秘儀というと、秘密のわざや一子相伝の奥義のような印象です。神秘というと「神秘体験」という言葉もあるように、超自然的なことがらのような印象を受けます。元の言葉は英語のミステリーの語源になったギリシア語の単語が使われています。
しかし秘儀と理解しようが神秘と理解しようが、いずれにしても、ここで言われているのは私たちの修行や精神統一や瞑想の果てにようやく到達することができるものではありません。その内容は明確です。
「彼は肉において現れ、霊において義とされ、天使たちに姿を現し、異邦人たちに宣べ伝えられ、世にあって信じられ、栄光の内に上げられた。」
信仰のミステリー、それは主イエス・キリストのことに他ならない。キリストが肉において現れたこと。義において義とされたこと。天使たちにそのお姿を表されたこと。この方の福音が異邦人にまで宣べ伝えられ、世がキリストを信じたこと。そして、キリストが天に上げられたこと。このキリストの出来事こそが信仰の秘儀、信仰の神秘、信仰のミステリーだと聖書は言うのです。
つまり秘儀というのは、私たちの営みによって到達することのできるうまい考えや神秘体験の類いではないということではないでしょうか。神さまが御自らお始めになり、神さまが完成なさる御業。そのキリストの出来事が私たちを救う。だから、これは秘儀であり、神秘なのです。
私たちはこの秘儀を仰ぎ、ただ神をほめたたえます。「主よ、あなたの御力のゆえに、あなたがあがめられますように。大いなる御力を、私たちは歌い、ほめ歌います。」キリストのゆえに、キリストの尊い出来事のゆえに、私たちは神をほめたたえる。クリスマスはその最高の時の一つです。私たちは、私たちに命を与え、そして死によって絶たれてしまうことのない永遠の喜びと希望を与えてくださったキリストを崇め、神さまの御前に賛美を献げます。

2022年12月22日木曜日

2022年12月22日の聖句

神を求める者よ、あなたがたの心を生き返らせよ。(詩編69:33)
マリアはザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶をした。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子が踊った。エリサベトは聖霊に満たされた。(ルカ1:40~41)

「あなたがたの心を生き返らせよ」と御言葉は呼びかけます。今の私にとっては、かなりギクッとする言葉です。生き返らせよと言われているということは、裏を返せば、心が死んでいるということに他なりません。奇しくもたった今、子育てのことで心がざらざらしていました。あなたの心は今死んでいないか、と聖書は言います。心が死ぬというのは、とても辛くて意気消沈してしまうとか、肉体の苦しみのために心も萎えてしまうとか、どうもそういうことではないような気がします。むしろ、心が罪に支配されてしまうこと。そういう現実を、聖書は心が死んでいると見ているのではないでしょうか。
「神を求める者よ、あなたがたの心を生き返らせよ。」生き返らせよ、と言われています。しかしこれは、私たちの心の持ちようを変えるとか、これからは心を入れ替えるとか、そういうことではないと思います。「神を求める者よ」と言われています。神を求めるということと、心を生き返らせると言うこととは深いつながりがあるはずです。
そのことを教えるのが、今日の新約の御言葉です。「マリアはザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶をした。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子が踊った。エリサベトは聖霊に満たされた。」お腹の中に子を宿した二人の女性が会っています。エリサベトのお腹の中の子は、マリアとお腹の中の主イエスが来てくれたことで踊りました。母エリサベト自身、聖霊に満たされました。二人の母と二人の胎児。主イエス・キリストを中心として、ここに喜びの出来事が起こっています。彼女たちの心が生き返ったのです。キリストがそこにいてくださるとき、私たちの心は罪から自由になって躍り出す。生き返る。
「神を求める者よ、あなたがたの心を生き返らせよ。」喜びの主であるキリストが私たちを生き返らせてくださることを受け入れよ、という意味ではないでしょうか。キリストはいつでも私たちの間にいてくださいます。私たちはその恵みにあずかっている。キリストの祝福が今日もあなたにありますように。

2022年12月21日水曜日

2022年12月21日の聖句

私が主を尋ね求めると、主は私に答え、あらゆる恐怖から助け出してくださった。(詩編34:5)
天使は彼に言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの祈りは聞き入れられた。」(ルカ1:13)

主は、ご自分を訪ね求める者を放ってはおかれません。お見捨てになることもありません。「私が主を尋ね求めると、主は私に答え、あらゆる恐怖から助け出してくださった。」ここに「あらゆる恐怖」と書いてあるのが心に残ります。あらゆる恐怖。私たちの心に襲いかかり、私たちを支配するあらゆる恐怖から、神さまが助け出してくださいます。
私たちにはいろいろな恐怖があります。これからどうなっていくのか分からないという将来への恐怖。理解できない他人への恐怖。心身の痛みへの恐怖。老いへの恐怖。何よりも、病や死への恐怖。他にもたくさんあるでしょう。しかし、神さまはあらゆる恐怖から私たちを助け出してくださいます。
その秘密は、何と言っても主イエス・キリストではないでしょうか。使徒信条では、主が陰府に降られたと告白します。死を味わい、陰府にまで降られた方は私たちのあらゆる苦しみも痛みも恐怖もご存じです。キリストは「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫びながら死んでいかれました。神に見捨てられた。恐怖の中の恐怖です。主はそのことを何よりも恐れました。この方がご存じではない恐怖はありません。このお方が、私たちをあらゆる恐怖から助け出してくださいます。
今日の新約聖書の御言葉は、洗礼者ヨハネの父になった祭司ザカリアへの天使の言葉です。「恐れることはない」と天使は言います。洗礼者ヨハネは主イエスの数ヶ月先に生まれました。主の道の備えをした人です。クリスマスの先駆けのような存在です。天使はマリアにも「恐れることはない」と言っていました。クリスマスは「恐れるな」という天からのメッセージが響くときです。恐れる私たちのためにキリストが来てくださったのです。このお方の恵みと平安とが、今日もあなたにありますように。心から祈ります。

2022年12月20日火曜日

2022年12月20日の聖句

ノアは主の前に恵みを得た。(創世記6:8)
人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。(ルカ18:8)

今日の新約聖書の御言葉は、主イエスのなさったたとえ話の最後の一言です。不正な裁判官の話です。神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいました。その町に一人のやもめがいた。彼女は自分のために裁きをしてほしいと裁判官にしつこく嘆願します。裁判官はしばらくの間取り合おうともしませんでした。ところがあんまり彼女しつこいので、まいってしまって、彼女の言うとおりにしてやろうと思うのです。主イエスは言われます。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
今朝の御言葉はこのようなつながりで登場する言葉です。そうだとすると、「地上に信仰を見いだすだろうか」と主イエスがおっしゃるところの「信仰」というのは、落胆せずに絶えず祈ることを意味することになります。神さまをうんざりさせてしまうほどのしつこい祈りのことです。信仰と言っても漠然とした信じる気持ちとか敬虔さとかではなく、必死に祈る者のそのあり方そのものを意味する。主イエスが再び地上に来られたとき、必死に祈る人を求めておられるのだ、とおっしゃるのです。
諦めずに、絶えず祈っていますか?自分に思わしくないことがあるとすぐに諦めたり、変に神さまに遠慮して祈ろうとしなかったりしていないでしょうか。フォーサイスという英国の牧師は「最悪の罪は祈らないことである」と言いました。私たちは祈っているでしょうか?
ノアは無垢な正しい人でした。彼の無垢さは、その後の箱舟の建築などに見える姿勢から考えるに、神さまに向かうまっすぐさであろうと思います。やはりここでも、大切なのは祈る者のあり方です。祈るとは、立派な祈りの言葉を並べることではありません。心を献げることです。ちっぽけで、取るに足らないように思えたとしても、その小さな心をまっすぐに神さまに献げる祈りを、神さまは喜んでくださる。苦悩の中から神さまに訴え、叫ぶような祈りを神さまは受け止めてくださいます。今日も、祈りの歩みに祝福がありますように。

2022年12月19日月曜日

2022年12月19日の聖句

あなたは新しい名で呼ばれる。主の御口が名付ける名で。(イザヤ62:2)
だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。(2コリント5:17)

聖書を読むと、ときどき、名前が変わる人がでてきます。アブラムは旅の途中でアブラハムという新しい名を神さまから頂きました。アブラムは「偉大な父」、アブラハムは「多くの民の父」という意味です。彼の妻サライはサラという新しい名を頂きました。サライは「王妃」という意味で、サラは「諸国民の母」という意味です。アブラハムもサラも、神がお与えになる使命にふさわしい名前を頂きました。
ヤコブはイスラエルになります。イスラエルは「神と戦う」という意味があります。ヤコブが神と夜通し格闘をしたという記事が反映している名前です。この「イスラエル」は、彼一人ではなくやがて民族の名になりました。
新約なら、ヨナの子シモンに主イエスは「ペトロ」というあだ名をおつけになります。「岩」という意味です。仲間の中では、ギリシア語のペトロという音よりも、彼らの母語であるアラム語で「ケファ」と呼ばれていたようです。ケファは岩のアラム語です。主イエスも実際にはアラム語で「ケファ」とお呼びになったのでしょう。主は彼を「岩」と呼んで、「私はこの岩の上に私の教会を建てよう」とおっしゃいました。シモン・ペトロもまた、主イエスがお与えになった使命にふさわしい名前を頂きました。
神さまは私たちにも新しい名前をつけてくださいました。「キリスト者」と私たちは今呼ばれています。この「キリスト者」という呼び名は、自分たちがそう名乗ったのではなく、直接的には周りの人たちが教会の人々をそう呼んだことが始まりです。あいつらはキリスト、キリストと言っていると、「キリスト者」と呼ぶようになった。私たちは今キリストのお名前で呼ばれています。ありがたいことです。
「だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」アブラハムもサラも、イスラエルも、ケファも、皆、神からそう呼んで頂いて、名前だけでなく存在も新しくなりました。神にあって新しい使命に生き始めました。私たちもキリストのお名前で呼ばれ、キリストにあって新しい使命に行きます。神は私たちを新しくしてくださった。主は今朝も新しく私たちを呼んでおられます。今日、私たちは新しい存在として一日を生きていきます。

2022年12月18日日曜日

2022年12月18日の聖句

主はモーセに言われた。「人に口をつけたのはだれか。それは、わたし、主ではないか。」(出エジプト記4:11)
私の言葉も私の宣教も、雄弁な知恵の言葉によるものではなく、霊と力の証明によるものでした。(1コリント2:4)

神さまは本当に不思議な方です。ご自分の福音を、人の拙い口を通して届けさせようと思し召されたのです。本当に不思議なことです。もっと別の方法を選ぶことも、神さまにならお出来になったでしょう。言葉がなくても伝わる方法も、神さまになら選べたはずです。しかし、そうはなさいませんでした。
今日私たちに与えられている旧約聖書の御言葉は、モーセに対する神さまのお言葉です。神さまはモーセに、エジプトへ行ってファラオにヘブライ人たちを解放するように言えと命じられました。しかしモーセは答えます。「ああ、主よ。以前から、また、あなたが僕に語られてからでさえ、私は雄弁ではありません。私は本当に口の重い者、舌の重い者です。」これに対して、神さまは「人に口をつけたのはだれか。それは、わたし、主ではないか」とおっしゃった。そして、行ってファラオに命じられたことを話せと言われたのです。
新約の方はコリント教会に宛てた使徒パウロの手紙ですが、この人も雄弁な知恵の言葉を語ることはできなかったようです。「パウロの手紙は重々しくて力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言われていました。(コリント二第10章にその話が出てきます。)
モーセもパウロも、人間的に見れば決して雄弁ではありませんでした。しかし、神さまはご自分の福音の言葉を彼らに託されました。彼らは自分の雄弁によってではなく、神の霊と力の証明によって、福音を宣教したのです。神の言葉を、神の霊の語らせるままに伝え、それが人々の心に届いたのでした。
キリストの教会は、同じように、神さまの不思議な御旨のゆえに言葉によって福音を伝えてきました。一人の説教者の口を通して、神様ご自身が語ってくださることを信じて。それは不思議なことです。そして、私たちの「当たり前」にはできないこと、驚くべきことです。神様ご自身が語ってくださることを待ち望み、祈りつつ、今日も私たちは礼拝を献げます。聖霊が今日も働いてくださることをただ信じて。

2022年12月17日土曜日

2022年12月17日の聖句

国々の民よ、私たちの神をほめたたえよ。
神の誉れをたたえる声を響き渡らせよ。
神は、私たちのたましいを、いのちのうちに保ち、
私たちの足を揺るがされない。(詩編66:8~9)
あなたがたを守ってつまずかない者とし、傷のない者として、喜びの内に栄光の御前に立たせることができる方、私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が、世の始まる前と同じく、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。(ユダ24~25)

「栄光の御前に立たせる」と書かれています。神さまの御前に、キリストは私たちを立たせてくださる。モーセは燃える柴を見てそこに近づいたとき、「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」という声を聞きました。彼は神と出会い、神の御前に立ったのです。預言者イザヤは高く天にある御座に主が座しておられるのを見て言いました。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、私の目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。」モーセもイザヤも、神の御前に立たされ、そのことに恐れおののきました。キリストは、私たちを栄光の御前に立たせることがお出来になる方です。私たちを神さまの御前に立たせてくださる。それは、ただならぬことです。
そのために、キリストは私たちを守ってつまずかない者とし、傷のない者としてくださった、と聖書は言います。聖なる神さまの御前でイザヤが自分の汚れを嘆いたのと同じように、私たちも、本来は神の御前に立ってはならぬ存在です。汚れているから。神さまの御前にふさわしくない。しかし、キリストが私たちを神の御前に立つことのできる者としてくださいました。キリストが私たちを傷のない者としてくださいました。キリストが私たちに神を信じる信仰を与えてくださったのです。
明日は日曜日です。主の日です。私たちは、明日、神さまの御前に出て行きます。神様と出会います。それはただならぬことです。聖なるお方の前に立つ。キリストが、そのようにしてくださいます。キリストが、神の御前にでるべきではない私を傷のない者、神の御前に立ちうる者にしてくださいます。キリストが信仰を与えてくださる。このキリストに誉れがありますように。ですから私たちは、明日、キリストに賛美を献げるために御前に出て行くのです。

2022年12月16日金曜日

2022年12月16日の聖句

主よ、あなたは私を調べ、私を知っておられる。
あなたは座るのも立つのも知り、遠くから私の思いを理解される。(詩編139:1~2)
私たちは神の中に生き、動き、存在している。(使徒17:28)

20年くらい前の私の青年時代、「自分探し」という言葉がはやっていました。そのためにたくさんの人が旅をしたり、遊んだり、悩んだりして、モラトリアム期間を思い思いに過ごしていたように記憶しています。聖書は何千年も前に書かれたのに、そんな現代的な悩みをよく知っているのだなと思います。いや、それどころか、まるで「自分探し」なんてあざ笑うかのように、もっと深く人間というものを知っているのだと思います。
「主よ、あなたは私を調べ、私を知っておられる。
あなたは座るのも立つのも知り、遠くから私の思いを理解される。」
他の誰でもなく神さまが私を知っておられる。それどころか、私も知らない私のことをも、神さまは深く知っておられる。神さまが私を調べておられるのは、究極に私をご存じということです。座るのも立つのも知っておられる。主イエスは、神は私たちの髪の毛の一筋までもご存じだと言われます。
そこまで神が私を知っていてくださるというのは、私たちにとっては何よりも喜びです。神さまは私が陰府に行っても天に昇ってもご存じです。どこにでもおられる。私を知り、究めていてくださる。私の心の喜びも、悲しみも、すべてを知り、すべてをそのみての中で受け止めていてくださる。座ったり立ったりは、自分の意思で行うことです。私たちはロボットではないので、決まったプログラムに従って動いているわけではありません。しかしそういう私たちのすることも神さまは知っておられる。私たちが誤ったこと、間違ったこと、罪を犯してしまうことをも主は知っておられる。その上で、私たちのことを極みまで愛していてくださいます。神は私を知っておられる。それは、神の究極的な愛の宣言です。
そのことを今日の新約の御言葉では「私たちは神の中に生き、動き、存在している」と言います。旧約の方では「遠くから」と言っていましたが、ここでは「神の中に」とまで言っています。私たちは神ご自身の中に生かされている。これほどの安心が他にあるでしょうか。もはや、自分を探す必要などない。それは神様の中に確かにいるのですから。

2022年12月15日木曜日

2022年12月15日の聖句

見よ、兄弟が共に住むことは、何という幸せ、何という麗しさ。主はそこで祝福ととこしえに及ぶ命を定められた。(詩編133:1,3)
一つの体の中に多くの部分があっても、みな同じ働きをしているわけではありません。それと同じように、私たちも数は多いが、キリストにあって一つの体であり、一人ひとりが互いに部分なのです。(ローマ12:4~5)

「人材」という言葉があります。辞書を引くと「才能があって、役に立つ人。有能な人物。人才。」という語釈が載っていました。よく耳にする言葉です。人材を発掘するとか、よい人材はいないか、などと言われる。しかし、これは教会にはふさわしくない言葉だと思います。聖書は人間を材料だとは言いません。才能があり、有能で、役に立つ人。これは、聖書の人間観とは違います。聖書は、私たちを体の中の部分だと言います。右手が腸に向かって、役に立つか立たないかという評価はしません。脾臓が歯茎に対して、お前は有能だとか無能だとかは言わない。どの部分も体全体のためになくてはならないからです。
キリストの体は、それぞれの部分が異なる働きをしています。それはいろいろな人材があるということではなく、キリストの体の部分がそれぞれに与えられた役割を果たし、全体として一つの体を構成している。しかも、その体はキリストご自身だと言います。私たちは一人ひとりではただの部分にすぎませんが、全体として、キリストご自身のお体を構成しているのです。だからすべての人が必要です。そして、ほかよりも弱く見える部分がかえって大切なのです。
同じことを、今日与えられた旧約聖書の御言葉では「兄弟」と表現しています。聖書は、信仰の仲間を兄弟や姉妹と呼ぶ。兄弟姉妹というのはとても面白い比喩です。夫や妻とは違って、兄弟や姉妹は自分で選ぶことができません。気が合っても合わなくても兄弟であることを止めることはできません。同じ親の元に生まれれば、一生兄弟です。私たちは神を父と呼ぶ兄弟であり、姉妹です。私たちの長兄はキリストご自身。私たちは神の家族です。そういう兄弟や姉妹が共に住んでいること、これこそ私の幸せであり麗しさだと言っています。私たちは神から永遠の命と祝福を共に頂く。
キリストのお体として、キリストにある兄弟そして姉妹として、私たちは一つの体、一つの家族。分断というようなことがしきりに指摘される現代社会にあって、キリストの教会は星のように輝くかけがえのない共同体です。

2022年12月14日水曜日

2022年12月14日の聖句

その日には、多くの国民が主に連なり、私の民となる。(ゼカリヤ2:15)
ヨハネは記す:私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数え切れないほどの大勢の群衆が御座の前と小羊の前に立っていた。(黙示録7:9)

私たちが仰ぎ望む救い、それは神の国が私たちのところに来るという救いです。それはもう始まっています。しかし、まだ完成はしていない。
今日の二つの御言葉は、神の国に生きる神の民の姿を伝えています。それは多くの国民からなる。あるいは、すべての国民、部族、民族、言語の民であって、誰にも数え切れないほど大勢の群衆だ、と言います。神の国においては、ユダヤ人なのかギリシア人なのか、西洋人なのか東洋人なのか、黄色人なのか黒人なのか、日本人なのか韓国人なのか、そのような一切の区別は関わりがない。ただ一つ。神の民ということ。神にあって呼び集められたということ。それだけです。私たちは神の民として神の御前に立つ。
「私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数え切れないほどの大勢の群衆が御座の前と小羊の前に立っていた。」
御座の前、そして小羊の前に立っている。御座、それは神のお座りになる玉座です。小羊、それはキリストを意味する。神とキリストの御前に、神の民が立っている。そこに立って何をするのか。神を礼拝する。神の民、それは神を礼拝する人々です。神の国で私たちは何をするのか。神に救って頂いて何をして過ごすのか。神を礼拝し、神に栄光を帰す。それがもっとも私らしく、もっとも神に与えられた命を有意義に、永遠の喜びにあずかっている姿に他ならない。
そう考えると、私たちは今も主の日に礼拝を献げているわけですが、それは既に始まった神の民としての祝福の前味に他ならないことが明らかになります。私たちは神を礼拝することで、すでに人種も民族も国籍も、あらゆる違いを超えて一つになる。私たちは普段は座間の片隅にある教会で礼拝をしていても、その礼拝は世界中、そして私たちがまだ見たことも会ったこともない、あるいは聞いたこともない多くの人々が献げている礼拝とつながっています。私たちは、今もう既に、神の玉座と小羊の前に立って礼拝を献げている。神の国は既に始まっています。
今日も、私たちは天国人として生きていきます。私たちはこの世界に生きる天国人。神の祝福の中を、今日も生きていきます。

2022年12月13日火曜日

2022年12月13日の聖句

あなたがたの神、主を試してはならない。(申命記6:16)
思い違いをしてはなりません。神は侮られるような方ではありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。(ガラテヤ6:7)

主イエスのところに悪魔がやって来て誘惑したとき、悪魔は神殿の屋根に連れて行って言いました。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支えると書いてある。』」すると主は悪魔に答えます。「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。」聖書の御言葉を利用した悪魔の誘惑を、主は、その急所は神を試すところにあると見抜き、拒みました。
「あなたがたの神、主を試してはならない。」今日、私たちに与えられている御言葉はこれです。そして、神を試すことは「思い違いだ」と新約聖書の御言葉は言います。そして、それは神を侮っていることに他ならないと言います。私たちの身近な人間関係に譬えても、それはよく分かります。夫が妻の愛を試す。あるいは、その逆。わざとしたことに相手がどう反応するかを試す。愛を試すというのは相手に対してとても失礼です。相手の愛を試したところで問われるのは、試しているあなたの愛はどこにあるのか、ということでしょう。相手を侮っている。
神を試さないというのは、言葉を換えれば、神の愛を信頼するということです。私たちが神の愛を信頼する根拠は、主イエス・キリストに他ならない。キリストが飼い葉桶に生まれ、貧しい人に福音を告げ知らせ、罪人の一人に数えられて十字架にかけられた。そこに現れた神のへりくだりと愛。これ以上に確かなことはありません。私たちには、神の愛を疑いたくなるようなことはいくらでも起こります。分からなくなってしまうことはたくさんあります。しかしそのようなとき、私たちは、疑いに自分の心を任せてしまうのではなく、十字架のキリストを信頼しましょう。飼い葉桶に現れた神の愛を信頼しましょう。今日、このキリストの慈しみが、何よりも確かに私たちを支えてくださいます。それは、何よりも確かなことです。

2022年12月12日月曜日

2022年12月12日の聖句

僕(しもべ)の上に御顔を輝かせ、慈しみによって私を救ってください。(詩編31:17)
あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。(エフェソ5:8)

今日の旧約聖書の御言葉には「僕(しもべ)」という言葉があります。もっと直截に訳せば「奴隷」という字です。しかも、ただの奴隷ではなく「あなたの奴隷」という字で書かれています。
おとめマリアのところへ天使が来たとき、マリアは自分を「主のはしため」と言いました。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」この「はしため」も同じです。「女奴隷」を意味する。新しい聖書協会共同訳では「仕え女」と訳していましたが、はしための方がよりよいと思います。マリアは、自分を主なる神さまの奴隷と呼んだのです。そこにマリアの信仰がある。
マリアは「私は主のはしため」と言います。今日与えられている詩編でも「あなたの僕」と自分を呼びます。他の誰でもなく、主に仕える主の僕であり、主のはしためです。主の僕、主のはしためは主の御顔の光を待ち望みます。この方が慈しみ深く私に光を向け、私を救ってくださると信じているからです。主の御顔の光の中に生かされ、私たちはもはや暗闇の中ではなく、光の中に生きている。
「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。」聖書は私たちに事実を告げます。「あなたがたは暗闇のようだから、もっと頑張って光になりなさい。光のように輝くように鍛錬しなさい。」聖書はそのようには言いません。「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。」私たちは暗闇だった。しかし、それはもはや以前のこと。今は違う。今、あなたたちは主イエス・キリストにあって光になっている。それは主イエス・キリストが御顔の光で私たちを照らしてくださっているからです。私たちはキリストの光に照らされ、今や私たち自身が光になっています。それが聖書の見る私たちの現実です。
私たちは、主の僕として、主イエスさまを見上げます。この方の御顔の光を仰ぎます。私たちにはそれ以外のことはできない。そして、それで十分です。キリストの御顔の輝きが私たちを新しくしてくださいます。私たちを暗闇から光にしてくださったこの光が、私たちばかりでなく、私たちを通してこの世界をも照らしてくださいます。私たちは、光からの光、イエス・キリストを信じます。

2022年12月11日日曜日

2022年12月11日の聖句

すべての人の道は、主の前に開かれている。(箴言5:21)
マリアは言った:ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。(ルカ1:38)

今日の新約聖書に記されているマリアの言葉を読むと、私は、神学校での同級生のことを思い出します。彼女は神学校での2級上の男性と結婚し、伝道者の家庭を築きました。夫はとても優秀な人で、米国の神学校へ博士号を取得するために留学しました。米国滞在中にお嬢さんが誕生しました。このみちゃんというお名前です。今日の御言葉からとられた名前です。「おことばどおり、このみになりますように。」
このみちゃんが誕生した後、彼女はとても重い病を得て、生死の境をさまよいました。一命を取り留め、奇跡的に回復し、今は金沢で伝道しています。少しだけ彼女の生い立ちを伺ったところでは、早くにお母様を亡くし、成人したころにはお父様も逝かれ、とても苦労して生きてきた方です。そういう方がご自分の愛娘に「このみ」という名を付けた、その万感の思いは想像するに余りある。私は今日の御言葉に触れる度にこの方のことを思い出します。
「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」そう言ったマリアの胎には、この世界を救うお方が宿りました。たった一人の、人間の女性の胎に、神の子が宿ったのです。そのために彼女はたいへんな人生を生きることになります。しかし、マリアは最も恵まれた人です。神の愛そのものでいらっしゃる主イエス・キリストと、誰よりも近くに生きたのですから。
「すべての人の道は、主の前に開かれている。」わたしの道も、あなたの道も。主は私たちの前に道を拓き、私たちが主を求めるなら主を仰ぐことができるように準備してくださっています。「お言葉どおり、この身になりますように。」私たちも同じように祈りつつ主イエスさまと共に生きる幸いに招かれているし、そう生きることができる。それが神さまから私たちへの約束です。

2022年12月10日土曜日

2022年12月10日の聖句

私の造る新しい天と新しい地が、私の前にいつまでも続くように、あなたがたの子孫とあなた方の名も、いつまでも続くーー主の仰せ。(イザヤ66:22)
東から西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に宴会の席に着く。(マタイ8:11)

すごい御言葉だと思います。今日与えられている旧約聖書の御言葉です。
「私の造る新しい天と新しい地が、私の前にいつまでも続くように、あなたがたの子孫とあなた方の名も、いつまでも続くーー主の仰せ。」
神さまがお造りになる新しい天と新しい地。神さまはご自身がお造りになったこの世界を完成し、新しくする。神の国が来る。それが聖書の根本的な約束です。救いが完成する。その新しい天と新しい地が神さまの御前にいつまでも続く。それは、よく分かります。それだけ神さまの救いは完全であって、時間と共に廃れたり意味を失ったり滅びたりしてしまうことはない。永遠なる神さまの救いですから、永遠の御国に違いありません。
驚くのはその続きです。「私の造る新しい天と新しい地が、私の前にいつまでも続くように、あなたがたの子孫とあなた方の名も、いつまでも続くーー主の仰せ。」新しい天と新しい地がいつまでも続くように、私たちや私たちの子孫の名もいつまでも続く、と主なる神様ご自身がおっしゃるのです。驚くべきことです。
少し話が変わるようですが、聖書には霊魂不滅とか、生まれ変わりの思想はありません。肉体が死んで滅びても魂は残り続けるとは考えていないのです。私たちは、肉体も霊も魂も、すべていつかは滅んでしまう。私たちは死を前にして無力です。一時的な、儚い存在です。私たちは死んでも、私たちのことを覚えてくれている人はいるということが言われる場合もありますが、それもごく僅かな時間にすぎません。どんなに歴史上偉大な人物であっても、永遠ではない。そもそも誰に覚えられていても、死を乗り越えることはできない。ところが、そんな弱くて儚い、滅びるべき私たちを永遠に御心に留めてくださる方がおられます。死を前に無力に滅びるしかない私たちを、その永遠の御国に迎え、いつまでも続く救いに加えてくださる方がおられます。その方は、ご自分のお造りになる新しい天と新しい地がとこしえに続くように、ご自分の御前に私たちの名をいつまでも続けさせてくださいます。神さまの御国に私たちはとこしえに生きる。それが聖書の伝える大いなる救いの出来事なのです。

2022年12月9日金曜日

2022年12月9日の聖句

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。(イザヤ53:4)
あなたがたが、気力を失い、弱り果ててしまわないように、罪人たちの多くの反抗を忍ばれた方のことを、よく考えなさい。(ヘブライ12:3)

神さまを信じるとは、神さまの愛を信じるということです。神さまが私たちを愛してくださっていると信じるということです。ですから、神さまが存在するとか、何らかの至高の存在があるとか、死後の世界があるとか、そういうことを信じるということではありません。この世界を造った方、私にいのちを与えた方、その方が私を愛してくださっている。それが神さまを信じるということです。
神さまは、「愛という概念」ではありません。愛という何かすばらしいものを言い表すための記号でもない。神さまは実際に、この私を愛してくださっている。そのために、主イエス・キリストというご自分の独り子を私たちの元へとお遣わしくださった。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。」神の愛そのものでいらっしゃるキリストは、私たちの病を負ってくださる方です。私たちの痛みを担ってくださる方です。私たちに代わって苦しみ、私たちに代わって罰せられた方。私たちの受けるべきのを引き受けてくださった。それが、キリストに現された神の愛です。
神は、私たちを愛してくださっています。私たちのために身代わりとして、ご自身の御子を与えてくださるほどに。他のどこにも、神の愛のように確かな愛はありません。
「あなたがたが、気力を失い、弱り果ててしまわないように、罪人たちの多くの反抗を忍ばれた方のことを、よく考えなさい。」キリストが私の罪の反抗をご自分に引き受けてくださった。その事実が、私たちの気力が弱り果て、疲れ果ててしまうときの力です。私たちは、私たちのために生き、そして死んでくださったキリストによって、弱く力果てたときに慰めを頂き、もう一度立つことができるのです。
今日も、主イエス・キリストによる慰めと平安があなたにありますように。

2022年12月8日木曜日

2022年12月8日の聖句

男も女も皆、心が整えられており、このすべてのイスラエルの人々が主への献げ物を持参した。(出35:29)
あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司になります。(1ペトロ2:5)

聖書の舞台になった時代、地域では、石を組み合わせて家を作っていました。そのイメージによって、ペトロは言います。「あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ」る。たった一つの石があるだけではただの石ですが、それが大工によって組み合わせられると、人が住むことのできる家になる。私たちは組み合わされて「霊の家」になる、と言います。すなわち、教会になる。「教会」は教会堂の建物のことではありません。生ける石である私たちが組み合わされる共同体のことです。しかも、ただ単に私たちが集まっているだけでもない。私たちは、イエス・キリストという親石によって組み合わされています。キリストが私たちの礎石になって、私たちはこのお方によって一つの聖なる霊の建物となり、一つの教会になっている。
私たちはこの聖なる建物において、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる聖なる祭司です。祭司は、民のために献げ物を神さまに献げる人たちです。旧約聖書を読むと、牛や羊や鳩などを献げる礼拝についてとても丁寧に規定されています。献げ物には、感謝の献げ物や和解の献げ物、償いの献げ物など、とてもたくさんの種類がある。神さまの御前に自分の歩みを振り返り、神さまへの真心を込めて献げる。ただ、いずれにしても、祭司は自分自身のためにそれをするのではなく、民のためにします。人々が神さまの御前に歩むことができるように、祈りを込めて献げ物をする。私たちの礼拝も、ただ私たち自身のためだけに献げるのではなく、私たちが共に生きる愛する人々のために献げます。神さまの御前に、私たちは隣人のために祈り、共に生きる仲間のための執りなしをするのです。
「男も女も皆、心が整えられており、このすべてのイスラエルの人々が主への献げ物を持参した。」この「心が整えられており」というのはとても良い言葉だと思います。私たちも心が整えられて、真心を主に献げ、愛をもって隣人のために祈りをしたいと願っています。

2022年12月7日水曜日

2022年12月7日の聖句

賄賂によって罪ある者を正しいと告げ、正しい者たちから義を取り上げる者たちには災いがあるように。(イザヤ5:22~23)
すべて真実なこと、すべて尊いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判のよいこと、また、徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。(フィリピ4:8)

ドイツのプロテスタント教会が歌っている讃美歌に、ユリゲン・ヘンキスという方が作詞したこのような歌があるそうです。
「平和を与えてください、主よ。平和を与えてください。
世界はひどい道を歩んでいます。正義が力によって決定され、嘘をつく者が上にいます。
不正が蔓延しています。強い者が勝利します。
私どもは叫びます。主よ、どれだけ長く続くのですか、と。平和のない私どもを助けてください。」
どういうメロディーの曲なのか、この作詞者がどのような人物なのかを私は知りませんが、今日、与えられた御言葉と共に心に留めたいと思います。平和を与えてください、主よ。私たちも同じように祈ります。
預言者イザヤは、社会の中で裁きが ねじ曲げられている現実を見つめています。罪ある者が正しいとされ、正しい者から義が取り上げられている。賄賂が裁きをねじ曲げている。お金が正義よりも優先度の高い価値観になってしまっている。私たちの社会はどうなのでしょう。私たちは、平和なのでしょうか。
この社会の有り様についてブツブツつぶやいたり、評論家のように論評してみせることが私たちの役割ではないのだと思います。この世界の中でキリストを見上げ、私たちは祈ります。「平和をください、主よ!」
「すべて真実なこと、すべて尊いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判のよいこと、また、徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」主イエス・キリスト。このお方こそが神の義そのもの。私たちの社会の公正です。平和は神から来る。だから私たちは祈ります。祈りつつキリストを待ち望みます。そしてこの世にあって、平和を作り出すために、神と隣人とに仕えます。

2022年12月6日火曜日

2022年12月6日の聖句

あなたの国には暴虐はもう聞かれず、あなたの領土には破壊と破滅は聞かれない。あなたは、あなたの城壁を救いと呼び、あなたの門を賛美と呼ぶ。(イザヤ60:18)
しかし、私たちは、神の約束に従って、義の宿る新しい天と新しい地とを待ち望んでいます。(2ペトロ3:13)

今日の旧約聖書の御言葉は、主なる神さまの告げる救いと平和の約束の言葉です。ですからここに登場する「あなた」は私たちのことと考えて差し支えないでしょう。私たちは、もはや私たちの国において暴虐を、私たちの領土において破滅を聞くことがない。神さまが私たちの救いとなる。武力が平和をもたらすのではない。力によって平穏がもたらされるのでもない。神様ご自身が私たちの平和。この方が私たちの平和になってくださる。そういう力強い神さまの約束のメッセージです。
クリスマスの夜、救い主キリストの誕生を祝い、天の軍勢が歌いました。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」ここでも「平和」と歌われています。救い主が来てくださった!それは私たちに平和が訪れたということに他なりません。神の平和が私たちに訪れた。
キリストが来られた。キリストは十字架にかけられた。私たちの平和として、私たちを神と和解させてくださいました。キリストが私たちの間に平和を作ってくださいました。しかしそれは、まだ完成していません。私たちはまだ苦しみ続けている。平和ではないこの世界の現実に。悪が支配するこの世界の暴力性に。私たちはキリストの約束を信じ、この世界の中で、信じるからこそ救いを待ち望んで今を生きています。
「しかし、私たちは、神の約束に従って、義の宿る新しい天と新しい地とを待ち望んでいます。」今日の私たちの一日は、キリストの救いを待ち望む一日です。キリストは再び来て、私たちの間に平和を完成してくださる。私たちをご自分の途方もない愛の中で必ず救ってくださる。その日には、キリストご自身が光となって私たちを照らしてくださいます。太陽も、月も、私たちを照らす必要がありません。キリストが私たちを照らす明かりになってくださるから。私たちの太陽はもはや沈むことがなく、月は欠けることもない。主が私たちのとこしえの光となって、私たちの嘆きの日々は終わるからです。私たちは大いなる救いの日を待ち望んで、今日を生きていきます。

2022年12月5日月曜日

2022年12月5日の聖句

御旨に適って行うすべを教えてください。あなたは私の神だからです。あなたの恵み深い霊が平らな地で、私を導いてくださいますように。(詩編143:10)
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。(ガラテヤ5:22~23

「御旨(みむね)」、神様のご意志ということです。神様のご意志に適うすべ、神様に喜んで頂ける生き方をするにはどうしたら良いか、神さま教えてください。そういう祈りの言葉です。私たち自身の祈りです。私たちも同じように願っています。神さまに喜んで頂ける生き方をしたい。神さまのご意志に適う生き方をしたい、と。しかし、どうしたら良いのでしょうか。私が勝手に神さまのご意志を決めてしまうことはできないし、神さまが何を望んでおられるのか、一体どうしたら分かるのでしょう。
それで、今日の新約聖書はガラテヤの信徒への手紙が伝える「御霊の実」が記されています。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」しかし、という逆接の接続詞から始まっています。この文章の前には「肉の実」が挙げられている。「淫行、汚れ、放蕩、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、妬み、泥酔、馬鹿騒ぎ、その他この類いのものです。」これに対して、御霊の実、つまり神の霊が私たちの内に結んでくださる実りは、と言って愛から始まってあれら9つの実りを数えている。私たちの肉の欲から生まれる実りは、神さまの御心に適わない。ところが私たちがキリスト・イエスを信じ、キリストに属し、キリストと共に自分の欲を十字架につけてしまったなら、私たちの内にはキリストご自身の霊の結ぶ実が生まれるのだ、と言うのです。
神さまの御旨は、例えば今日の私の晩ご飯についての御旨、というかたちでは現れないのだと思います。今度買う車の車種や色についての神さまの御旨を、ご託宣のように求めることはかえって間違いです。私たちの信仰は占いや運勢判断の類いとは違うからです。むしろ、私たちがキリストの十字架を仰いで愛を持って生きること、喜んで生きること、平和に、寛容を持って、親切に、善意に満ち、誠実に、柔和な心で、節制して生きることを、神さまは望んでおられます。
「そんなことできない」というのが、私たちの正直な感想かも知れません。当然です。そんな完璧なことはできない。自分の力でやろうと思っているかぎりは。私たちは自分のあり方を神さまに明け渡して、ただキリストを見つめます。私のために十字架にかかったキリストを。その私の内に、私の頑張りではなくキリストご自身の霊が働き始めている。実りを結んでいる。聖書はその現実を私たちに気づかせているのです。

2022年12月4日日曜日

2022年12月4日の聖句

牧者が自分の羊が群れから散らされているときにその羊を探すように、私は自分の羊を探す。(エゼキエル34:12)
イエスは言う:私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(ヨハネ10:11)

イスラエルにとって、羊飼いはとても親しみ深い仕事だったのでしょう。聖書には羊飼いの話がたくさん出てきます。ダビデ王もかつては羊飼いでした。主イエスは100匹の羊を持つ羊飼いがもしも一匹を失ったら、100匹を野において失われた一匹が見つかるまで探さないだろうか、というたとえ話をなさいました。主イエスがこの話をなさったとき、預言者エゼキエルを通して語られた主なる神様の御言葉を思い起こしていたに違いないと思います。
「牧者が自分の羊が群れから散らされているときにその羊を探すように、私は自分の羊を探す。」
実はこの言葉を語る前に、預言者エゼキエルは悪い羊飼いの話もしています。脂肪を食べ、羊毛を身にまとっている羊飼い。羊の群れを食い物にするばかりで、羊たちを守ろうとしない。恐らくここに出て来る羊飼いはイスラエルの国の王たちのことです。王が国民を守らずに食い物にしている。しかし、神様はそうではない。散らされてしまったご自分の羊の群れを探すために、地の底にまでも降りていてくださる。そのまことの羊飼いこそ、主イエス・キリストに他ならない。
キリストは羊飼いです。しかも、良い羊飼いです。羊を犠牲にして自分を潤す悪い羊飼いではなく、かえって羊のためにご自分を与えてくださる方です。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
この羊飼いである方は、私たちの名前を呼んでくださいます。羊は羊飼いの声を聞き分ける。主イエス・キリストはあなたの名前を呼んでおられます。主の声を聞き分け、主の導きの内に、主が招いてくださる青草の原に憩いましょう。主が招いておられます。主の御許へ。

2022年12月3日土曜日

2022年12月3日の聖句

主は、その聖なるいと高き所から見下ろし、天から地の上に目を注がれました。捕らわれ人のうめきを聞き、死に定められた者たちを解き放つために。(詩編102:20~21)
もし子があなたがたを自由にすれば、あなたがたは本当に自由になる。(ヨハネ8:36)

神様は聖なるお方。天にまします方。この世界の造り主。他に、この方に並び立つものは一つもないお方。ですから、神様の御前にある人々は皆畏れました。モーセは、燃える柴を前にして神と出会い、この方を畏れました。預言者イザヤは、天におられる神を見て、自分は滅びなければならないと言っておののきました。ソロモン王が建築した神殿の荘厳さは、聖なる神様の御前にある畏れを証言しています。
聖。それは神様の御性質です。私たちからは生まれません。だから、私たちには何が聖なのかが分からない。私たちに分かるのは汚れだけです。神様の御前にいる自分の汚れしか分からない。そして、この方は自分とは全く異なる聖なるお方だと知るとき、私たちは畏れます。恐れおののいて、神様の御前にひれ伏します。聖なる神様の御前で、礼拝が始まります。
しかし神様は、私たちからただ隔絶しているだけの方ではありません「主は、その聖なるいと高き所から見下ろし、天から地の上に目を注がれました。捕らわれ人のうめきを聞き、死に定められた者たちを解き放つために。」神は天から地に目を注いでくださる。そして、呻く捕らわれ人をご覧になってくださるお方です。
「見る」と言ってもいろいろな見方があります。最近はサッカーの話題が豊かですが、サッカーの試合を見ながら名解説を聞いていると、素人が全然気付きもしないような試合のポイントを見事に示してくれます。漫然と眺めていても気づかなくとも、見る人が見ると分かることがある。神様のまなざしは、呻く捕らわれ人に注がれます。私たちの誰も気づかない片隅にも、主の御目が注がれ散る。しかも、この方は聖なる方。何者も並び立つことのできない方。唯一の方。その方が、一人の捕らわれ人をご覧になって、解き放つために立ち上がってくださるのです。そしてそのために、主はご自分の独り子を呻く私たちのところへ送ってくださったのです。
「もし子があなたがたを自由にすれば、あなたがたは本当に自由になる。」私たちは、神の子イエス・キリストによって自由にして頂きました。そのために天から目を注いだ神様は、私たちのところへキリストを送ってくださいました。聖なるお方が私たちを救うためにここまで来てくださったのです。だから、あなたは救われた。神は共におられる。聖書はそう証言します。

2022年12月2日金曜日

2022年12月2日の聖句

主の民にあってはすべての人が預言者になり、主がご自身の霊を彼らの上に来たらせてくださることを神に願いなさい。(民数記11:29)
霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味し、良いものを大切にしなさい。(1テサロニケ5:19~21)

普通、日本語で「よげん」と言うと「予言」という字を書きます。予め言うと書く字の通り、未来に起こる出来事を言い当てるという意味を持つ言葉です。しかし聖書では「よげん」は「預言」と書きます。すばらしい翻訳をしたと思います。言葉を預かる人を預言者という。誰の言葉か?もちろん、神様の言葉です。ですから聖書に登場する預言者は、神秘的な力を発揮して未来のことを言い当てる人ではありません。神様からのメッセージを証言し、伝える人のことです。預言者は、言い換えれば「証人」です。
「主の民にあってはすべての人が預言者になり、主がご自身の霊を彼らの上に来たらせてくださることを神に願いなさい。」すべての人が預言者であるように祈りなさい、と書かれています。すべての人。神を信じる人の誰もが預言者としての言葉を語ることができるよう神に願いなさい、と言っています。
新約聖書のコリントの信徒への手紙一第14章にこのような言葉があります。「皆が預言しているところへ、信者でない人か初心者が入って来たら、その人は皆から問いただされ、皆から批判されて、心の秘密が暴かれ、そのあげく、ひれ伏して神を拝み、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と言い表すことになるでしょう。」これは、迷い込んできた初心者を皆で責めたて、詰問したり脅したりするということではありません。預言の言葉。イエス・キリストの福音の言葉を皆が語り合っているところに人が入ってきたら、その福音によって新しくされる。キリストの福音が必ずその人の心に届くはずだ、という意味です。ですから「預言」は、キリストの福音を語る言葉です。この言葉を誰もが語ることのできるよう祈りなさい!聖書はそのように言います。
今朝のテサロニケの信徒への手紙では「霊の火を消してはいけません」と言っています。民数記でも「主がご自身の霊を彼らの上に来たらせてくださること」と言っています。預言の言葉、福音の言葉は、神様ご自身の霊の力によらなければ語ることができない。聖霊が私たちに働いて、私たちが共に福音にあずかり、それを喜び、共にキリストの恵みを語り合う共同体になることができますように。私たちは祈ります。

2022年12月1日木曜日

2022年12月1日の聖句

さあ、ベテルに上ろう。苦難の日に私に答え、私の行く道で共にいてくださった神のため、そこに祭壇を造ろう。(創世記35:3)
いつも、あらゆることについて、父なる神に感謝しなさい。(エフェソ5:20)

今日の旧約聖書の御言葉は、アブラハムの子であるイサク、そしてそのまた息子であるヤコブの言葉です。ヤコブにはエサウという双子の兄がいました。当時の社会は長男がすべてを相続します。ところがあるときヤコブはエサウの長子の権利をだまし取りました。
エサウは父イサクのお気に入りでした。一方ヤコブは母に肩入れされていた。母は一計を案じ、今度はエサウが受け継ぐはずだった神の祝福をヤコブにだまし取らせます。長子の権利ばかりか神の祝福までもだまし取られたと知ったエサウはヤコブを激しく憎み、殺そうと決断します。それで、母はヤコブを自分の生家に逃がしたのでした。
命からがら家を出たヤコブは荒れ野に一人、石を枕にして寝ました。彼は夢を見ました。先端が天まで達する階段が地に据えられていて、そこを神の使いが上り下りしていた。つまり、神は私のところにまで降りてきてくださっている、神は共にいてくださるとヤコブは知ったのです。神はヤコブに語りかけます。「私はあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにしてもあなたを守り、この土地に連れ戻す。私はあなたに約束したことを果たすまで、決してあなたを見捨てない。」
目覚めたヤコブは枕にしていた石を柱として据え、油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けました。やがて母の生家へ行って結婚し、子どもを与えられ、長い年月が経ってヤコブは兄エサウのもとへ帰ります。二人は和解することができました。その後、ヤコブは再びベテルへ行きます。「さあ、ベテルに上ろう。苦難の日に私に答え、私の行く道で共にいてくださった神のため、そこに祭壇を造ろう。」自分を見捨てず、どん底の日にも共にいてくださった神に礼拝を献げるために、彼はベテルに上りました。
今日の新約聖書の御言葉も言っています。「いつも、あらゆることについて、父なる神に感謝しなさい。」あなたにも分かるでしょう、と聖書は言います。神様はいつもあなたと共にいて、どんなときにもあなたを見捨てない。ヤコブがそうであったように、あなたのことも!ヤコブの物語は、私の物語。あなたの物語です。私たちも、神が共にいてくださるベテルにいるのです。だから、神に感謝しましょう。いつも、あらゆることについて。神様の深い恵みが、今日も私たちを生かしてくださっているのですから。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...