2024年10月31日木曜日

2024年10月31日の聖句

ある者は戦車を、ある者は馬を誇る。
しかし私たちは我らの神、主の名を誇る。(詩編20:8)
この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。(使徒4:12)

今日、10月31日は宗教改革記念日です。1517年10月31日にマルティン・ルターという修道士がヴィッテンベルクの城教会の門扉に公開質問状を張り出しました。そこから始まった教会改革のうねりが、今日の私たちの教会を生み出しています。今日はその記念日です。
改革者ルターは讃美歌を愛していた人物でした。たくさんの讃美歌を作りました。その中でも最も有名なものの一つが「神はわがやぐら」という讃美歌です。「神はわがやぐら、わが強き盾。苦しめるときの近き助けぞ。」力強い旋律と共に、このように歌います。
今日私たちに与えられている御言葉は言います。「ある者は戦車を、ある者は馬を誇る。しかし私たちは我らの神、主の名を誇る。」戦車や馬といった目に見えて強いものを人々は誇る。しかし、私たちはそうではない。私たちは私たちの神である主のお名前を誇る。この方こそ私たちを救ってくださるお方。私たちの神。私たちはこの方に頼る。神はわがやぐら!
「この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」主イエス・キリストとその父でいらっしゃる神。そのお名前こそ私たちの救い。尊い、麗しいその御名を私は誇る。
今日、この賛美の心を抱いて歩んでいきましょう。神をほめたたえ、誇りとし、神の御名を崇めて一日を歩んでいきましょう。キリストに、賛美。

2024年10月30日水曜日

2024年10月30日の聖句

主は恵みの倉である天を開いて、あなたの地に季節に応じて雨を降らせ、あなたの手の業すべてを祝福される。(申命記28:12)
私の愛するきょうだいたち、こういうわけですから、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの苦労が、主にあって無駄でないことを知っているからです。(1コリント15:58)

私たちには「今・ここ」しか見えないので、自分のしていることの意味が分からないこと、見えなくなってしまうこと、疑ってしまうことが多々あります。しかし私たちは信仰をもって、自分の苦労が無駄でないことを信じています。主にあって!主なる神さまの御手の内に、私たちの労苦は無駄ではない。私たちはそのことを信じています。
「主は恵みの倉である天を開いて、あなたの地に季節に応じて雨を降らせ、あなたの手の業すべてを祝福される。」
雨も晴れも、私たちにはコントロールすることはできません。自分のしていることも、それがどんなに丹精込めてしたことであっても最後は自分の力の及ばないところがあります。私たちはそれを「運命」のようなわけの分からない力に支配されているとは考えません。主なる神さまが雨の日も晴れの日も備え、恵みに満ちた御手の業で私たちの手の業を祝福してくださる。私たちはそのことを信じています。
だからこそ、「しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい」という御言葉に促され、主に与えられた自分のすべきことをする。主に与えられた私の務めに、今日励みます。

2024年10月29日の聖句

主が知恵を授け、主の口から知識と英知が出る。(箴言2:6)
イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。」(マタイ11:25)

知恵と英知は主が授けてくださるもの。聖書はそう言います。現代人の感覚としては、むしろ逆だと思います。「神を信じる」ということと知恵や英知とは対立する。あるいは、神を信じるなどというから無知蒙昧な人間になる。もはや感覚的に、そのように考えられているのではないでしょうか。
主イエスはおっしゃいます。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。」神の知恵はこの世の知者や賢者ではなく、幼子に示された。知恵から遠い、愚かだと思われていた者に神の知恵が示されたと言います。
使徒パウロも同じように言います。きっと今日の主イエスさまのお言葉をパウロも耳にして言ったのではないかと思います。このように手紙に記しています。「知恵ある者はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。(1コリント1:20)」それは、私たち人間の知恵にとっては愚かでしかない十字架につけられたキリストによって神が私たちを救ってくださったからです。だから私たちは喜んで愚かになります。神が下さる知恵、十字架のキリストという知恵だけでいい。
私たちを救うこの知恵は、神が示してくださって私たちに知らされました。幼子のように、神の言葉を慕い求め、神の言葉に信頼し、このお方をほめたたえる。それが私たちの知恵です。

2024年10月28日月曜日

2024年10月28日の聖句

あなたは私の魂を陰府に捨て置かれない。(詩編16:10)
イエスは(マルタに)言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25~26)

「あなたは私を陰府に捨て置かれない。」私たちは、やがて死んでいくものです。脆くて、弱い存在です。健康であっても病気になるし、若くてもやがて老います。いや、健康であっても若くても、私たちの命は今日どうなるかも分かりません。死は、私たちが知らなくても私たちの目の前にあります。しかしそれでも、主なる神さまは私たちを陰府に捨て置くことはなさいません。私たちの命は必ず終わりを迎えるし、私たちはいつか葬られるときが来る。私たちは土の塵に過ぎません。しかし、そんな私たちを神は見捨てず、見放さず、陰府に捨て置くことは決してなさらない。それが聖書の約束です。
主イエス・キリストがその約束を確かなものとしてくださいました。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」主イエス・キリストご自身が私たちの命でいてくださる。墓から復活したキリストの命を私たちは生きることができる。私たちは死んでも生きる。
この言葉は、自分の兄弟を亡くしたばかりの一人の女性に語りかけられたものです。愛する人を失った私たちにも、キリストは同じように語りかけてくださっています。「このことを信じるか」と、ご自分の命を与えるという約束を込めて私たちに語りかけてくださっています。

2024年10月27日日曜日

2024年10月27日の聖句

今週の聖句:
赦しはあなたのもとにあります。あなたが畏れられるために。(詩編130:4)

今日の聖句:
聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。(申命記6:4)
働きにはいろいろありますが、すべての人の中に働いてすべてをなさるのは同じ神です。(1コリント12:6)

今、「多様性」という言葉が盛んに語られています。さまざまな個性や背景や事情を持っている人がいることを重んじ、その多様なあり方を尊重しようという考えであると思います。それはとても大切なことで、「統一」とか「規律」とか言ったときに、それはしばしば多数の意見を当たり前として少数者に押しつけるということになりかねません。多様性が認められない社会は少数者にとっては恐怖そのものであると思います。
ただ他方ではこの言葉があまり良くない仕方で乱用されているようにも思います。自分の欲望を正当化するために「多様性」という言葉が使われている場合もあります。本来は、変えられないものや少数であるために侵害される尊厳を大切にするための考え方であるように思います。
今日の御言葉は、主なる神さまはただおひとりの神でいらっしゃるということを語っています。私たちは唯一の神を信じている。すべての人の内に働いておられるのは唯一の神。私たちはこのお方が限りない愛と慈しみ満ちておられる方でいてくださると信じています。そのことは私たちの社会に一体何をもたらすのでしょうか。私たちは少数者のあり方を尊重し、自分のために人の口を塞ぐのでもなく、私たちを今ある私に造ってくださった神を信じ従うために、この社会をどのように形成していくのか。私たちの生きるこの世界に何を寄与することができるのか。一人のキリスト者として、私たちにもそれぞれ問われているように思います。

2024年10月26日土曜日

2024年10月26日の聖句

主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。(詩編23:1)
(イエスの言葉)私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(ヨハネ10:11)

今日の旧約聖書の御言葉は、日本聖書協会共同訳が引用されています。この新しい翻訳が出版され実物を手にして、割とすぐにこの詩編の翻訳を確かめました。以前の新共同訳も素晴らしい翻訳でしたが、この詩編の冒頭については少し残念でした。「主は羊飼い」と訳していた。ところが今回の聖書協会共同訳では「主は私の羊飼い」と「私の」という大切な言葉がキチンと訳出されています。この言葉があるかないかで意味が全然変わってきます。ヘブル語の原文には「私の」という字があるので、あるべき言葉が復活しました。
「主は私の羊飼い。」この私のための羊飼いになってくださったのです。このお方は私の羊飼いとして言ってくださいます。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」私たちの羊飼いでいてくださるイエス・キリストは良い羊飼い。このお方の良さは、ご自分の羊である私たちのために命を捨てるところに現れているのだ、と言うのです。破格の羊飼いです。実際に家畜である羊のために命を捨てる羊飼いなどいるでしょうか。考えられません。絶対いません。羊がどんなにかわいかったとしても、羊と人間とは違います。まして神と人間とはもっともっと違います。造り主と被造物です。ところがこのお方は私たちのためにご自分の命を捨ててくださいました。あり得ないほどの「良い羊飼い」でいてくださるのです。
主イエス・キリストは、今日もあなたを緑の野に伏させてくださり、憩いの汀に伴ってくださいます。キリストの恵みが今日もあなたにありますように。

2024年10月25日金曜日

2024年10月25日の聖句

諭しを捕らえて放さず、それに従え。
それはあなたの命だ。(箴言4:13)
だがあなたは、自分が学んで確信した事柄にとどまっていなさい。あなたは、それを誰から学んだかを知っており、また、自分が幼い頃から聖書に親しんだきたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに至る知恵を与えることができます。(2テモテ3:14~15)

私たちの信仰は、聞くことから始まります。神の言葉を聞くこと、主イエス・キリストに聞くことによって始まります。
それは、人間関係が、他者に耳を傾けることから始まるのと同じです。自分のことばかり話したり、不要なアドバイスばかりしたりする人は健全な人間関係を築くことができません。一方が偉くて他方が従うとか、一方通行でしかないものを関係が構築できていると勘違いするか、そういったことになってしまうでしょう。フラットで良好な関係、健全な人間関係の基礎は、相手の言葉に耳を傾け、相手の言わんとするところを聞く、という奉仕です。「聞く」というのは神に託された尊い奉仕です。
私たちは、神の言葉に聞いているでしょうか。隣人の言葉には耳を傾けているでしょうか。聖書を開き、じっと耳を澄まして御言葉に聞くこと。目の前にいる隣人の言葉に、自分の口を挟まずに耳を傾けること。そうやって「聞く」ことから、私たちのために備えられている命の賜物があることを、私たちは知ることができるのです。

2024年10月24日の聖句

命の泉はあなたのもとにあり、あなたの光によって、私たちは光を見ます。(詩編36:10)
それは命であった。この命は人の光であった。(ヨハネ1:4)

私は小学校5年生のときからボーイスカウトに入っていました。春と夏に少し長いキャンプがありました。特には春はまだ野外でテントを張るには寒く、なかなか大変だった思い出があります。もちろん炊事もすべて外で行います。寒くて暗い夜、冷たい水で食器を洗う。惨めな気持ちになりました。しかしそれでも、闇夜の中でも懐中電灯を照らすと少しホッとしました。小さな光が点ると、元気が湧いてきます。光には不思議な力があると思います。
聖書は主イエス・キリストについて証言します。「それは命であった。この命は人の光であった。」主イエス・キリストは光。古代教会が生み出した信条では、キリストを「光からの光」と告白しているものもあります。すてきな言葉です。私たちはキリストという光に照らされている。
しかもこの光は「命」です。命そのもの。なんと温かく、希望に満ち、慰め深いことでしょう。神は私たちをキリストという光で包んでいてくださる。この命の光によって私たちは望みの中に置かれているのです。
今日私たちが闇のような絶望やたじろいでしまうような恐怖に見舞われるとしても、そんな私たちをキリストという命の光が照らしてくださっていて、そこに望みがあるのです。神の光の中を、歩んでいきましょう。命の光に照らされて、今日も生きていきましょう。

2024年10月23日水曜日

2024年10月23日の聖句

年老いた時、私を見捨てず、私が力衰えても、捨て去らないでください。(詩編71:9)
(ペトロへのイエスの言葉)よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。(ヨハネ21:18)

今日の新約聖書の御言葉は主イエスがシモン・ペトロに告げたお言葉です。これに続いて福音書記者のナレーションのような言葉が記されています。今日の箇所から続けて、改めてご紹介します。
「よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すことになるかを占めそうとして、イエスはこう言われたのである。
聖書にはシモン・ペトロの最期は伝えられていません。伝説では皇帝ネロの迫害下、ローマの都で逆さ十字架につけられて死んだと言われています。ポーランドの作家シェンケーヴィチの名作『クオ・ワディス』という小説の最後で迫害の嵐吹きすさぶローマへ向かうペトロの姿が描かれています。忘れられない場面です。
ペトロの殉教は単なる伝説や小説の中のお話ではない。この人は実際に殉教しました。まさに「年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれ」たのです。それでは、そのようにして死んだペトロは神に見捨てられたのでしょうか。神は「年老いた時、私を見捨てず、私が力衰えても、捨て去らないでください」という祈りを無視なさったのでしょうか。
そのようなことは考えられません。ペトロの死をも通して、神の栄光が現されました。だからこそペトロはキリストを信じてキリストに従い続けたのです。このキリストの言葉に身を委ねた。神は私を見捨てず、力衰えたときにも私を決して捨てない。私たちがどのような死を迎えるにしても、神は私を決してお見捨てにはならない。私たちはそのことを信じて、私たちの生きているときも死ぬときも、自分がキリストのものであることを慰めとします。

2024年10月22日火曜日

2024年10月22日の聖句

あなたがたは私の証人ーー主の仰せ。(イザヤ43:10)
(イエスの言葉)あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。(使徒1:8)

私たちを主イエスさまの証人とするのは、神ご自身の霊、聖霊です。神は私たちにも聖霊を送ってくださっています。私たちをキリストの証人として派遣するために。
「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで」と主イエスはおっしゃいました。エルサレムは弟子たちが今いる場所。主イエスが十字架にかけられた町です。ユダヤにとっては首都ですが、当時の世界から見たら辺境の地、世界史の周縁でした。しかしその町の小さな家の一室に弟子たちが集まって祈っているとき、約束の聖霊が降りました。弟子たちは主イエス・キリストの復活の証人として生き始めます。ユダヤ国の各地で伝道しました。やがてサマリアにも行きました。サマリアはかつては同じ国の仲間でしたが歴史のいろいろな経緯の中で他民族と雑婚し、信仰の上でも道が異なるものとなり、ユダヤとは非常に仲が悪くなっていました。弟子たちはサマリアにも主イエス・キリストの証人として進んでいきました。
「さらに地の果てまで」と主イエスはおっしゃいます。使徒言行録の最後は使徒パウロがキリストの証人としてローマへ行くところで終わります。ここに記されている「地の果て」とはローマです。当時の世界の中心です。しかしその地の果てにまで福音は届けられた。キリストの復活の証人が聖霊に促されてローマまで行って福音を語ったのです。
私たちも同じ聖霊をいただいています。私たちもキリストの証人です。キリストの喜びの福音を証しするために、私たちも今日神に遣わされています。

2024年10月21日月曜日

2024年10月21日の聖句

私はこの民を私のために造った。彼らは私の誉れを告げるであろう。(イザヤ43:21)
しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められます。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるなら、私たちこそ神の家なのです。(ヘブライ3:6)

「確信と希望に満ちた誇り」。私たちは何を誇りとして生きているでしょう。今日の旧約にこのようにあります。「私はこの民を私のために造った。彼らは私の誉れを告げるであろう。」これこそ、私たちの誇りです。私たちは主なる神のために造られた神の民。私たちは目的もなくただ生きているのではありません。自分の個人的な自己実現とか、欲望を満足させるためとか、あるいは社会やシステムが押しつける役割を果たすために生きているのでもない。私たちは神のために造られ、神のために生きている。神のため、それは、私たちが神の誉れを告げることです。私たちは神の誉れ、栄光、神のすばらしさを証しし、また賛美するために造られた。それが私たちの誇りです。
神さまは私たちを愛してくださいました。神さまは私たちに独り子を下さいました。この神をたたえ、神を礼拝し、神のものとして生きる。私たちはそのことを喜ぶし、私たちは神のものとされたことを日ごとに覚えて生きていきます。
昨日、日本中会の「さんびの集い」という集会がありました。いろいろな教会の、若い人からシニアまで、本当にいろいろな人が神さまを賛美する音楽を演奏してくださいました。喜びに溢れた時間でした。私たちは神の誉れを告げるとき、神に与えられた命を十分に生きていると言えるのです。神を賛美し、誇りを持って信仰者としての人生を生きていきましょう。主イエス・キリストを喜びとして!

2024年10月20日日曜日

2024年10月19日の聖句

今週の聖句:
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマ12:21)

今日の聖句:
主は(エレミヤに)言われた。「さあ、私はあなたの口に私のことばを授けた。」(エレミヤ1:9)
(パウロの手紙)私は衰弱していて、恐れに捕らわれ、ひどく不安でした。私の言葉も私の宣教も、雄弁な知恵の言葉によるものではなく、霊と力の証明によるものでした。あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためでした。(1コリント2:3~5)

「私は衰弱していて、恐れに捕らわれ、ひどく不安でした。」これがパウロのコリント伝道の初めでした。パウロは人をうならせるような雄弁や、誰からも尊敬されるような知恵をもって勇んでコリントに向かったわけではなかった。衰弱し、恐れ、不安の中でコリントへ向かった。しかし却ってそのお陰で、パウロはただただ十字架の言葉だけに徹し、主イエス・キリストの霊の力だけにより頼んで伝道したのです。主が授けてくださる十字架の言葉だけでパウロは伝道しました。
私は牧師として説教の務めを託され、この働きをするときにいつも思います。十字架にかけられたキリストを証しするだけの言葉を語りたい、と。キリストを紹介し、今生きて働いておられるキリストを証言する。私たちの信仰生活はキリストの言葉によって始まり、進み、完成します。聖書は私たちにキリストを伝えます。私に命じられているのは何か巧いことを言ったりいい話をしたりすることではなく、愚かに十字架のキリストに徹すること。パウロはそう言います。
主が授けてくださる言葉によって福音を語ることができますように。今日、世界中の教会で与えられた務めに仕える説教者たちのために、どうかお祈りに憶えてくださいますように。

2024年10月19日土曜日

2024年10月19日の聖句

神よ、私が老いて白髪になってもどうか捨て去らないでください。
あなたの腕の業を、力強い業を来たるべきあらゆる代に語り伝えるその時まで。(詩編71:18)
アンナという女預言者がいた。彼女はやもめになり、八十四歳になっていた。そして神殿を離れず、夜も昼も断食と祈りをもって神に仕えていた。ちょうどその時、彼女も近づいてきて神に感謝を献げ、エルサレムの贖いを待ち望んでいる人々に幼子のことを語った。(ルカ2:36,37~38)

アンナ。この人がこれまでどのような人生を生きてきたのか、どのような信仰生活を送ってきたのか、それは分かりません。ただ聖書が伝えているのは、おとめの時に嫁いで、僅か七年で夫と死に別れたこと、その後はやもめとして生きてきたこと。それだけです。恐らく、夫を亡くした後、預言者として主のために仕えてきたのでしょう。このひとりの女性が幼子イエスと出会ったのです。
主イエスがお生まれになってすぐの時です。両親は律法に定められたとおりに幼子を主に献げるためにエルサレムの神殿へやって来た。彼らはそこでシメオンという人と出会います。シメオンはその幼子が神の備えてくださった万民のための救いだと言った。その時、一緒に幼子イエスと出会ったのがアンナでした。
アンナは本当に嬉しかったと思います。自分のこれまでの人生はこうして主イエスと出会うためのものだったと、喜んでそう思ったはずです。そしてアンナは幼子イエスとの出会いを自分だけのものにはせず、その喜びを証ししたのです。「ちょうどその時、彼女も近づいてきて神に感謝を献げ、エルサレムの贖いを待ち望んでいる人々に幼子のことを語った。」こうしてキリストの力強い御業が私たちの間に宣べ伝えられだしたのです。私たちも、そのような証人のひとりです。

2024年10月18日の聖句

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、痛みの人で、病を知っていた。(イザヤ53:3)
人の子は異邦人の引き渡されて、嘲られ、侮辱され、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。(ルカ18:32~33)

人の子、主イエス・キリストは十字架にかけられました。旧約聖書と新約聖書が言うとおりに、このお方は十字架にかけられた。軽蔑され、見捨てられ、痛み、病む人として、キリストは十字架に苦しみました。異邦人の手に渡され、嘲られ、侮辱され、唾をかけられ、鞭打たれ、殺されました。打ち叩かれ、砕かれたこの方こそ、私たちの救い主、私たちの神の子です。
十字架にかけられたキリストのお姿を、私たちはいつでも仰ぎます。いつも繰り返し、捨てられ、侮辱されたこのお方の苦しみに目を注ぎます。ここに私たちの救いがあるからです。私たちが与えた苦しみです。私たちが吐きかけた唾です。私たちの嘲りをこのお方が一身に引き受けてくださったのです。
私たちの救いは、罪の赦しです。神の子を侮辱して殺した罪。これが私たちの根本の問題です。私たちが神を殺した。そこに私たちの罪がある。私たちは一体どうして生きることができるのか。
「そして、人の子は三日目に復活する。」私たちの手にかかって殺されたイエス・キリストを、神は三日目に復活させました。これが私たちへの神の判決です。この復活させられた神の子が私たちを裁く。このお方は、私たちのために「彼らをお赦しください」と祈ってくださいます。私たちの前に立つ神の子がかけられた十字架を、私たちのための神の愛のしるしにしてくださいました。私たちをご自分と同じように復活させることをキリストは御心としてくださいました。
十字架にかけられ、死者の中から引き上げられたお方を、今日も私たちは仰いで生きていきます。

2024年10月17日木曜日

2024年10月17日の聖句

あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも、あなたを滅ぼすこともない。(申命記4:31)
何事でも神の御心に適うことを願うなら、神は聞いてくださる。これこそ私たちが神に抱いている確信です。(1ヨハネ5:14)

私たちの神である主は憐れみ深い神!なんと素晴らしく、なんと慰めに満ち、なんと心を打つ御言葉でしょう。「あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも、あなたを滅ぼすこともない。」何度でも、この御言葉を思い起こし、心に刻み、味わいたい。主なる神さまの憐れみによって私たちは生かされています。私たちの人生も、私たちの過ごす一瞬一瞬も、主なる神さまの憐れみが包んでいてくださいます。
「憐れみ」というのは、その相手のために心を動かし、自分の肉体までも痛むほどに相手を思い、自分を滅ぼすほどに相手の痛みに心を寄せることです。しかし、私たちはどうでしょう。神が憐れみにその胸を焼くほどに私たちを愛してくださっていることに対し、私たちはふさわしいものを少しでもお返ししているのでしょうか。むしろ自分の現実を思うと、神さまをどれだけ深く傷つける私であるか、考えないわけにはいきません。もしも主なる神さまがそのように憐れみに満ちたお方でなければ、私たちは一瞬のうちに滅ぼし尽くされても何の文句も言えない存在です。
今日の新約の御言葉では、このように言います。「何事でも神の御心に適うことを願うなら、神は聞いてくださる。これこそ私たちが神に抱いている確信です。」神の御心に適う願い、それは私たちが神を愛することであり、隣人を愛することでしょう。私たちを愛してくださった神を愛することを第一の願いとして生きていきたい。神の憐れみを求め、神の愛に生かされて、私たちの今日一日は進んでいきます。

2024年10月16日の聖句

野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うことにまさる。(箴言15:17)
(イエスは)一人に生活の苦しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」(ルカ21:2~4)

今日の旧約聖書の御言葉は、言うまでもないことですが「野菜は健康によい」という話ではありません。この時代、恐らく肉はごく一部の裕福な人しか口にできないものだったのでしょう。しかも「肥えた牛」です。贅沢の極みです。しかしどんな贅沢をし、美食で自分の舌を喜ばせるような生活をしていようとも、その人に愛がなければなんと空しく、悲しく、淋しいことでしょうか。「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うことにまさる。」まさにその通りです。
それでもやはり私たちは贅沢をしたいとまでは言わなくても、おいしいものを食べたいし不自由のない生活を送りたい。それが正直な気持ちです。愛し合うか憎み合うかといのとはまた別の次元で、私たちだってごく普通の、人並みの生活をしたい。
主イエスは、私たちの普通の生活の基準とは違うまなざしをもって私たちをご覧になっています。貧しいか金持ちか、たくさん献金したかそうではないか、そのようなことでキリストは人を判断なさらない。神への真心の愛を献げ、自分のすべてを神に預ける信仰をキリストはお喜びになります。今日の御言葉は私たちへのチャレンジに満ちています。私たちの人生の喜び、私たちの求めているもの、私たちの本音のところでの価値観、そのようなものを問うているように思います。そして、キリストは私たちをご自分に従う幸いな道へと招いておられるのです。

2024年10月15日火曜日

2024年10月15日の聖句

天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。その僕である私たちが立ち上がって再建する。(ネヘミヤ2:20)
私たちの主イエス・キリストご自身と、私たちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを与えてくださった、私たちの父なる神とが、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い行いをし、善い言葉を語る者としてくださいますように。(2テサロニケ2:16~17)

今日の旧約聖書の聖句はネヘミヤ記から与えられています。ネヘミヤが生きたのは、ユダの国がバビロンという大国に滅ぼされ、人々が捕囚されてから何十年も経った後のことです。いろいろな世界史的な状況の変化があり、ユダヤの人々の一部が故国に帰ることが出来るようになりました。ネヘミヤは廃墟となって何十年も経過したエルサレムに帰り、瓦礫の中に新しい城壁を再建する事業に携わった人物です。
その人が言います。「天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。」この言葉は、自分たちの身勝手な願いを神がかなえてくださるという意味ではありません。瓦礫の中に希望を再建し、再び人々が神を礼拝する場を整えようという帰還民の願い、神を礼拝するために仕える「私たち」のなすことを神が成功させてくださる、ということです。神に仕え、隣人のために働く私たちを、神が成功させてくださる。だから私たちは主の僕としてこの再建の事業に仕える。
私たちの日ごとの業も同じではないでしょうか。神に仕え、隣人に仕える。共に神を崇めるために。私たちの前にいる「この人」にもキリストの愛を届けるために。私たちは希望をもっています。どのような状況にあろうとも、主イエス・キリストにあって、神の永遠の慰めと確かな希望をいただいている。神が私たちの小さな愛の業を必ず成功させてくださいます。善い行いと善い言葉とをもって、私たちはキリストと共に隣人に仕えるのです。

2024年10月14日の聖句

息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。(詩編150:6)
私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が、世の始まる前と同じく、今も、また世々限りなくありますように。(ユダの手紙25)

今日私たちに与えられているユダの手紙では、神さまのことを「私たちの救い主である唯一の神」とお呼びしています。そう、神さまは私たちの主であり私たちの唯一の救い主です。神さまを「私たちの唯一の救い主」とお呼びすることができるというのは本当に嬉しいことです。
もしも神さまが私たちへの怒りに満ちた神だとか、あるいは逆に私たちに無関心な神だったら、どうでしょうか。私たちにはどこにも救いがありません。しかしまことの神さまはそのようなお方ではない。このお方は私たちの救い主である唯一の神!なんと素晴らしい賛美の言葉でしょう。
神への賛美の言葉として「私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が」ありますようにと言っているということにも心をひかれますただ単に「神に栄光、威厳、力、権威がありますように」というだけなら、もしかしたら賛美としては当然の内容だとも言えるかもしれません。しかしここではそれだけではなくて、それらのものが「私たちの主イエス・キリストを通して」神にありますように、と言っている。キリストを通して、私たちは神を賛美することができる。キリストを通してというのは、キリストのしてくださった御業の故に、ということでしょう。キリストによって示された神の恵みのゆえに、ということでしょう。私たちはキリストを通して神を賛美する。
その賛美が「世の始まる前と同じく、今も、また世々限りなく」神にありますようにと言うのです。天地が造られる前、神さまだけがおられた神さまの時間。その永遠の時に神が抱いておられた栄光が、世々限りなく、私たちの命や営みを超えて、神ご自身のものでありますように。
この果てしない神を賛美する言葉が、今日の私たちの言葉でありますように。

2024年10月13日日曜日

2024年10月13日の聖句

今週の聖句:
何が善で主は何を求められるか。公正と慈しみを愛し行って謙遜に神と共に歩むことである。(ミカ6:8)

今日の聖句:
(自分の兄弟に語ったヨセフの言葉)あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変えられました。(創世記50:20)
呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい。(ルカ6:28)

私たちの小さな目では見渡せないこと、この耳では聞き取ることのできないこと、私たちの狭くて限りある知恵では悟ることのできないことがあります。神は私たちの間に渦巻く悪や悪い心、憎しみさえも善に変えることがおできになるお方です。私たちの悪い意図さえも神は用いることがおできになって、それをも通してご自身の御心を行うことが神にはおできになる。
私たちにそのすべてを悟ることはできません。しかし神さまはどのようなことであっても、ご自分の御心に適うように導き、私たちをご自分の御心に適う祝福へと導いてくださるお方です。
だからこそ、私たちには新しい生き方が必要なのでしょう。「呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい。」私たちは、神が私の呪いさえも用いて善を行うことがおできになると信じている。だからといって、自分の好きなように人を呪って良いということにはなりません。却って、呪うことではなく愛することに、相手の侮辱に憎しみで返すのではなく良い者で返すことに、私たちは招かれているのではないでしょうか。キリストが私にしてくださったように、私たちも「愛する」という勤めに召されているのです。

2024年10月12日土曜日

2024年10月12日の聖句

(主は言われた。)私に近づく者によって、私が聖なる者であることを示し、民全体の前に栄光を現す。(レビ10:3)
このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。(ローマ5:1)

今日の旧約聖書の御言葉ですが、そのもともとの文脈での意味は、もしかしたらローマの信徒への手紙から私たちが聞き取るメッセージとは正反対に聞こえるかもしれません。
レビ記第10章では、ナダブとアビブという二人の祭司が聖書の規定に反した香をたいて神を礼拝し、そのために主の前から火が出て二人が死んだ、という出来事が記されています。恐ろしいことです。そして、「私に近づく者によって、私が聖なる者であることを示し、民全体の前に栄光を現す」と続きます。ナダブとアビブの誤った、自分勝手な礼拝に死をもって報いることによって、神の聖なる事が示されたのだ、という話です。
私たちには、かなり異様に響く話ではないでしょうか。しかし、神さまが聖なるお方だというのは、神さまは私たちとは異質な存在だということです。私たちがこの方の前に立てば死ぬしかないようなお方だということです。増して自分勝手に、自分が良いと思う仕方で、いい加減に神を礼拝すればその報いは死以外にはあり得ない。神が聖なるお方だというのは、私たちにとっては恐ろしい事実です。私たちはその事実をすぐに忘れます。そして神を嘗めているのです。
しかし聖書は一貫して、神は聖なるお方だと証言します。その聖なるお方、私たちとは異質な方が私たちに手を伸ばしてくださいました。神が伸ばしてくださった手は、イエス・キリストと呼ばれています。「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。」私たちは汚れた者なのに、私たちは卑しい者なのに、死ぬべき私たちに神が平和の手を伸ばしてくださった。この事実が私たちを救うのです。
ですから、一見すると全く正反対のことを言っているように見える今日の二つの御言葉は、実は同じ事を言っている。聖なる神が私たちを救ってくださった。その事実の造り出す恵みの出来事を告げているのです。

2024年10月11日金曜日

2024年10月11日の聖句

赦しはあなたのもとにあります。
あなたが畏れられるために。(詩編130:4)
イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23:34)

すごい言葉です。私たちの持っている常識とは異なる言葉です。「赦しはあなたのもとにあります。あなたが畏れられるために。」普通は「裁きはあなたのもとにあります」とか「あなたは正しく罪人を罰する方です」と言って、それは「あなたが畏れられるために」と続くのではないでしょうか。ところが聖書はそのように言いません。「赦しはあなたのもとにあります。あなたが畏れられるために。」神が私たちの罪を赦してくださるお方だから、私たちはこのお方を畏れないわけにはいかない、と言うのです。このお方の赦しの深さを私たちが知るとき、私たちは神を畏れる。私たちが自分の罪の報いを受け、裁かれるときではない。罪の赦しの下でわたしたちは神を畏れます。
この御言葉は、主イエス・キリストにおいてこそ最もはっきりと現されました。キリストの十字架の上での御言葉です。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」私たちは自分が何をしているかを知らない。私たちがしていることが神の子を十字架にかけ、神の独り子を殺し、神に背いていることであると、私たちは知らない。ところがキリストは、その知らない私たちのために罪の赦しを求める祈りを捧げてくださっています。神は、このキリストの祈りを聞いてくださったのです。
私たちはこの神を畏れます。このように祈ってくださったキリストを畏れます。このお方にしか私たちの救いはない。私たちのためになお罪の赦しを告げてくださるキリストを私たちは救い主と信じる。キリストの御名が崇められますように。

2024年10月10日木曜日

2024年10月10日の聖句

見よ、彼らは今言っている。「私たちの骨は干からび、望みは消え失せ、私たちは断ち切られた」と。それゆえ預言して彼らに言え。「神である主はこう言われる。私の民よ、見よ。私はあなたがたのための墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げる。」(エゼキエル37:11~12)
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活し、自然の体で蒔かれ、霊の体に復活します。自然の体があるのですから、霊の体もあるわけです。(1コリント15:42,44)

「私たちの骨は干からび、望みは消え失せ、私たちは断ち切られた。」そのように言っています。死を前にした人間の絶望。死は、単に自然の摂理として生物の終焉を迎えるということでは収まりません。自然現象として命の終わりが来るということでは済みません。私たちは滅びる。死の向こうに希望がないことが、私たちの問題の根本にあるのではないでしょうか。昔の人の方がそのことを真剣に考えていました。死は私たちよりも遙かに日常の問題でした。私たちは死を見つめなくなりました。昔も今も、死という現実は何ら変わるところがないはずなのに。そして、死を前にして私たちも言わざるを得ないのです。「私たちの骨は干からび、望みは消え失せ、私たちは断ち切られた」と。
神さまは、やがて墓以外に行く場所を持たない私たちのために墓を開き、墓に出口を設けてくださいました。私たちは心も体も魂も、すべてが朽ち果てるものです。私たちは死んで滅びるべきものです。ところが神はキリストと同じように私たちを復活させてくださいます。朽ちるものは朽ちないものに復活し、自然の体は霊の体になる。神の御前で、私たちは死を超えた希望を与えられている。
だから、私たちは今生きるこの生においても希望があるのです。死を超える望みを与えられているから。この営みは無駄ではない。死んで無になるものではない。キリストがおられます。キリストの手が私たちに伸ばされています。あなたを死から救うために。

2024年10月9日水曜日

2024年10月9日の聖句

御手が私を造り、堅く立たせてくださいました。
私に悟らせ、あなたの戒めを学ばせてください。(詩編119:73)
(パウロの言葉)そういうわけで、しっかり立って、私たちが言葉や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。(2テサロニケ2:15)

今日の新約に出てくる「私たちが言葉や手紙で伝えた教え」というのは、主イエス・キリストの福音のことです。福音の言葉をしっかりと思い起こし、それを固く守り続ける。そうやって私たちがしっかり立つことを求めているのです。
固く守り続けること、しっかり立ち続けること。本当に大切なことです。忍耐とか根気とか、そういうことを私たちはあまり好みません。御言葉を聞いてその時だけ心動かされたり、その場限りの感動を味わったりするだけではなく、従い続ける。それが、キリストを信じるということなのだと思います。
それは祈りなくして成り立ちません。「御手が私を造り、堅く立たせてくださいました。私に悟らせ、あなたの戒めを学ばせてください。」神さまの御言葉を聞き、従って生きること。そこにこそ私たちの最高の幸せがあると信じ、代々の信仰者たちは生きてきました。私たちもそういう信仰者の一員として加えられています。ですからこの祈りを共にしたい。「私に悟らせ、あなたの戒めを学ばせてください」という祈りをささげて、私もひとりの信仰者として喜んで生きていきたい。そう願います。

2024年10月8日火曜日

2024年10月8日の聖句

今こそ、あなたがたは主を畏れ、真心と真実をもって主に仕えなさい。神々を取り除き、主に仕えなさい。(ヨシュア24:14)
神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ではない神々の奴隷となっていました。だが、今や神を知ったのに、いや、神に知られたのに、どうして、再び奴隷になることを望んで、あの無力で貧弱なもろもろの霊力に逆戻りするのですか。(ガラテヤ4:8~9)

世の中には「本来神ではない神々」が溢れています。世間の当たり前の価値観の多くが密かに神々の顔を隠し持って人間を支配しようとします。それはスマホから飛び込んでくるいろいろな刺激、その中でも特にSNSの「イイね」かもしれません。あるいは「安心・安全・便利・快適」やそれに類するキャッチコピーになるかもしれないし、他の人と同じであることによって得る安定感かもしれません。変化を拒む心や、自分はこれでよいと凝り固まる頑固さかもしれません。私たちは誰を神としてあがめているでしょうか。私たちは一体誰のものとして生きているのでしょうか。
「今こそ、あなたがたは主を畏れ、真心と真実をもって主に仕えなさい。神々を取り除き、主に仕えなさい。」私たちは、私たちにご自身を示して知らせてくださった神を信じます。いや、このお方は私たちが知っている以上に私たちを知っていてくださいます。私たちを主イエスにあってご自分の子としてくださいました。私たちはもはや奴隷ではなく、神の子にしていただき、「父よ」と祈る恵みにあずかりました。それなのに、どうして私たちは再び他の神々に自分を委ねることができるでしょうか。真心から、まことの神に仕えたい。
主イエス・キリストを、朝毎夜毎に仰ぎましょう。キリストの愛と憐れみを喜びましょう。私たちの神の子としての真実は、ただだ他キリストご自身が示してくださった神の真実によって始めていただいたからです。

2024年10月7日月曜日

2024年10月7日の聖句

私たちの過ちが私たちに不利な証言をしても、主よ、御名のために事をなしてください。(エレミヤ14:7)
もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたをお赦しになる。(マタイ6:14)

主イエスさまが教えてくださったこと。神が私たちに求めておられるのは、私たちが神に赦していただいたように私たちも人の過ちを赦すこと。これだ、と主イエスはおっしゃいます。私たちが他人の過ちで傷つけられ、迷惑をかけられ、被害を蒙ったときにそれを赦すこと。それが神の御心だ、と主イエス・キリストはおっしゃるのです。
私たちにとってこれほど身近で、しかも難しい命令はないと思います。一般的に問題ある人や悪そうな人を受け入れるというだけでも大変です。それどころか主イエスは、自分に迷惑をかけ過ちを犯した人を赦せ、とおっしゃるのです。
きっと、私たちはその難しさを通してしか、神の赦しがどんなに大きく深い恵みであるのかが分からないのだと思います。私が骨身に染みて神の赦しの恵みに感謝できるのは、自分の罪がどんなに醜悪で、赦しがたく、ひどいものであるのかが分かったときです。しかし、私には残念ながらそれは分からない。自分が赦せないという経験を経なければ。
いや、もっとちゃんと考えるなら、それでも分からないのが私たちです。私たちは、自分の「赦せない」を正当化します。赦せないのは当然だとすぐに開き直ります。私たちが本当に神の赦しの恵みを知るのは、キリストの十字架の苦しむお姿を仰ぐときなのだと思います。私のために苦しんでおられる神の御子を仰ぎ、そのお姿に圧倒されることによってしか、私たちは自分の罪を知ることができない。しかしそれは同時に、私の罪の大きさなど及びもつかないほどに圧倒的な神の憐れみとキリストの愛の力のすさまじさの中での出来事以外のものではありません。キリストの十字架の前に、罪人の私たちは身をかがめ、この方を崇めるばかりです。

2024年10月6日日曜日

2024年10月6日の聖句

今週の聖句:
すべてのものがあなたに目を向けて待ち望むと、
あなたは時に応じて食べ物をくださる。(詩編145:15)

今日の聖句:
見よ、諸国民は手桶の滴のように、天秤の埃のように見なされる。(イザヤ40:15)
神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです、異邦人の神でもあります。(ローマ3:29)

神は、ユダヤ人の神であり、異邦人の神でもいらっしゃいます。キリスト者の神であり、キリスト者ではない人の神でもあります。すべてのものを造り、生み出し、すべてを支配しておられる神。私たちが信じるのは、天と地のすべてを支配しておられる神です。
そのような神様からご覧になったら、確かに私たちは手桶の滴、天秤の埃でしかないでしょう。神さまの目に留まらないでしょうし、いてもいなくても分からないくらいに小さなものに過ぎません。しかし、そのような私たちに神は御心を留めてくださいます。ただの一滴に過ぎず、小さな埃の粒に過ぎない私たちを神は憶えていてくださり、愛してくださっている。
一体、私たちは何者なのでしょう。私たちが何者なので、神は私たちを憶えてくださるのでしょう。
私たちは何者でもない。ただ神の憐れみのゆえに、ただ神の愛の深さのゆえに、神は私たちを覚え、今日も私たちを御心に留めてくださっているのです。

2024年10月5日土曜日

2024年10月5日の聖句

御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の座を辱めないでください。(エレミヤ14:21)
神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けたりなさいませんでした。(ローマ11:2)

私たちが神様に退けられたとしても、一体何と文句を言うことができるでしょう。神が与えてくださった人生を粗末にし、不足に文句ばかりつぶやき、神がお造りになった世界を破壊し、隣人を傷つけることに鈍感・・・。そして何よりも、神さまを蔑ろにし、神の子を十字架につけた私たちです。神に退けられ、捨てられても何の申し開きもできません。
しかし、それでも神さまは憐れみを求める私たちの祈りに耳を傾けてくださいます。「御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の座を辱めないでください。」ここで、「御名のために」と言っています。御名、というのは神さまのお名前のことです。私たちを捨てては神さまのお名前に傷が付きますと言っている。かなり大胆な物言いです。図々しいと思います。しかし、私のためにとか、私にも良いところがあったと思いますとか、そのようなことが一切言えない、何の申し開きもできないと知っているからこそ、神さまのお名前しか頼るものがない、ということではないでしょうか。
神さまは、私たちを愛してくださっています。「神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けたりなさいませんでした。」退けるべき私たち、捨てるべき私たちを、神さまは退けず、捨てず、ご自分の民として新しくしてくださいます。神は私たちを愛し抜いてくださいます。あなたの今日一日も、この神の愛の中で始まっているのです。

2024年10月4日金曜日

2024年10月3日の聖句

私の目はあなたの仰せを思い焦がれ、絶え入りそうです。いつ私を慰めてくださるのか、と問いかけます。(詩編119:82)
憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。(ヘブライ4:16)

神さまは私たちを招いてくださっています。ご自分の御許、ご自身のそば近くに。聖なるお方です。罪深く、汚れた私です。しかし、私たちは神の御前に出ることが許されています。「憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。」
今日の新約の御言葉は本当にすごい言葉です。神の憐れみが、神の恵みが私たちを神の御前へと連れ出してくださいます。神の御前で私たちは堂々としていられる。「敷居が高い」という言葉があります。本来は不義理をしたために相手のところへ行きにくい状態を指します。まさに私たちにとって礼拝は敷居が高い場所です。神さまに不義理な私は、神の前に堂々と出られるわけではない。それでも神の方が私を招いてくださっている。堂々と進み出ることができる。
しかも、「時宜に適った助けを受けるため」と言います。神さまは私たちを助けてくださる。「私の目はあなたの仰せを思い焦がれ、絶え入りそうです。いつ私を慰めてくださるのか、と問いかけます。」私たちの欠け、しかも神さまにしか埋めることのできない欠け。私たちは神さまに求めるし、神の助けを必要としている。神はあなたを慰めるために、今日も御言葉を語りかけ、祈りへと導いてくださっている。神があなたのいる部屋の戸を叩いておられます。開けてほしい、私だ、と神が呼びかけておられます。

2024年10月3日木曜日

2024年10月3日の聖句

(主は)僕の言葉を成就させ、使者の計画を実現させる。エルサレムについては、「人が住むようになる」と。ユダのそれぞれの町については、「再建され、その廃墟を私は復興させる」と。(イザヤ44:26)
私たちは、預言の言葉をより確かなものとして持っています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗いところに輝く灯として、この言葉を心に留めておきなさい。(2ペトロ1:19)

預言者の前には、戦争に敗れ、滅んでしまった都があります。瓦礫の山となり、人の住むことのできない場所です。かつては賑わい、この場所で人々が神を礼拝していた。それが今やただの廃墟になってしまった。
ところが神さまの約束の言葉が響きます。「(主は)僕の言葉を成就させ、使者の計画を実現させる。エルサレムについては、『人が住むようになる』と。ユダのそれぞれの町については、『再建され、その廃墟を私は復興させる』と。」
聖書の約束の言葉は「こういう状況だから希望がある」という種類のものではありません。状況が少しずつ好転し始めているから、とは言いません。頑張ればなんとかなるから、ということではない。目の前には希望がない、新しくなる気配もない。しかし、それにもかかわらず。この「にもかかわらず」に信仰が働きます。私たちは目の前の状況にもかかわらず、神が新しい出来事を始めてくださると信じています。
私たちの生きる世界は暗い。どこにも希望が見えない。しかし、明けの明星は必ず輝く。キリストという明けの明星です。キリストという希望のしるしです。私たちはキリストとその御言葉によって確かになる神の救いを待ち望んでいます。私たちは目の前の状況「にもかかわらず」働いてくださる神を信じ、その救いを待ち望みます。

2024年10月2日水曜日

2024年10月2日の聖句

彼らは飢えることも渇くこともなく、熱風も太陽も彼らを打つことはない。彼らを憐れむ方が導き、水の湧く所に連れて行かれるからだ。(イザヤ49:10)
主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください。(ヨハネ4:15)

私たちの魂の渇きを、飢えを、主イエスさまはよく知っていてくださいます。その上で、私たちを決して放っておいたり捨てたりなさらずに、私たちに命の水をくださいます。「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください。」私たちも同じように訴えるし、私たちにもキリストが下さる命の水が必要なのです。そんな私たちに神は応えてくださいます。「彼らは飢えることも渇くこともなく、熱風も太陽も彼らを打つことはない。彼らを憐れむ方が導き、水の湧く所に連れて行かれるからだ。」
キリストを慕い求めましょう。あなたに命の水をくださる方です。キリストを信じましょう。この方の与える命の水の泉は、あなたの魂の渇きと飢えを確かに癒やしてくださるからです。
この世界には私たちを潤すと喧伝するまがい物がたくさんあります。しかしどんなに物に囲まれても、欲望を満たしても、他人の物を自分の物にしたとしても、私たちの魂はそれではどうにもなりません。キリストにしか癒やすことのできない渇きがあるのです。私たちの本当に求めているもの、私たちが本当に必要としているのは、キリストに示された神の愛です。主のもとへ行きましょう。私たちがもはや渇くことのない命の水を、この方が尽きることなく準備してくださっています。

2024年10月1日火曜日

2024年10月1日の聖句

10月の聖句:
主の慈しみは絶えることがない。その憐れみは尽きることがない。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は尽きることがない。(哀歌3:22~23)

今日の聖句:
主よ。私は国々の中であなたに感謝し、御名をほめ歌おう。(詩編118:50)
主よ、誰があなたの名を畏れず、崇めずにおられましょう。聖なる方は、あなただけです。(黙示録15:4)

賛美は、感謝から始まります。数えましょう、私たちの生活の中に散りばめられている神の恵みを。それは密やかで控えめですから、私たちがしっかり探さないと見逃してしまいます。神さまはこれ見よがしにご自分の贈り物をお与えになるのではなく、私たちの生活の中に、そこにあることが自然であるかのように備えてくださいます。私たちは朝になると太陽が輝くこと、晴れた日も雨の日もあること、暑さと寒さが巡ることを神の恵みとして覚え、感謝しているでしょうか。私たちの周りに隣人がいること、教会の営みが今日も献げられていることに感謝しているでしょうか。キリストのお体のために感謝をもって献身しているでしょうか。
賛美は感謝から始まります。私たちを取り囲む神の恵みに気付き、覚え、感謝をささげましょう。神のお名前をほめたたえ、賛美を献げ、神を崇めましょう。聖なる神、主イエス・キリストの父なるお方、天と地の造り主。主の御名を崇め、主を礼拝して、今日の一日を過ごしていきましょう。

2025年1月20日の聖句

あなたにとって、主がとこしえの光となり、あなたの神があなたの誉れとなる。(イザヤ60:19) (イエスの言葉)私を見る者は、私をお遣わしになった方を見るのである。私を信じる者が、誰も闇の中にとどまることのないように、私は光として世に来た。(ヨハネ12:45~46) 主イエス・キリ...