「主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。」フト思う。なぜ、夜ごとなのだろうか。詩編作者はさらに言う。「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」。夜になると死の世界がぐっと近づいてくる思いに駆られることがある。夜にこそ、主の励ましが必要で、主の諭しを求める。だから、「わたしは絶えず主に相対して」いる。そうでなければ、どうして平安に生きられようか。
2016年4月28日木曜日
2016年4月24日日曜日
ヨハネによる福音書21:1-25「主を知る喜び」
「神」聖書の告げる「主なる神」さまは、私たちの口で表現し得ないお方です。人間の理解を超えるお方です。捉えても捉えても、捉えきれないお方ですから、神ご自身をお伝えすることは不可能なのです。となると、説教するというのは、人間には決してできないことと言える。そして、理性的に考えれば、その通りなのだと思います。私はいままでずっと、自分の中に響いている「お前の語る神は神ではない」という声と戦っておりました。今もなお、戦っているのです。その意味で、信仰の戦いとは、何にもまして自分との戦いです。自分の知っていることと、聖書の告げることとの間での戦いです。私たちは聖書の言葉を聞く時、自分の常識とぶつかることは当然です。「聖書は、いったい何を言っているのだ?」そう思う方が、純粋に聖書の言葉を聞けていることが多いのです。しかしなお、その言葉を聞き続けるかどうかが、私たちに問われていることだと思います。
「主を知ると言うことは?」ヨハネ福音書21章は、復活後の主イエスが姿を現す場面です。福音書の描くことは、不思議です。4節などを見ると、「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」とあります。実際に主イエスが来られたときに、私たちもまた、その方を主であると認めることができるかどうか、これは非常に大きな問題です。私たちは問いたくなります。「どうしたら私たちは主イエスを知ることができるのでしょう?」主イエス・キリストを私たちが知るということは、まことに奇跡的な出来事なのです!
「全知者を知るということ」主を知り、主を信じるということが、あまりにも私たちから遠いことであるとわきまえていたペトロ。彼は信仰の挫折を経験した人物でした。主を3度も知らないと言いました。しかし、それでも主イエスは問われたのです。「ヨハネの子、シモン。あなたはわたしを愛するか。」この質問は、本当に心えぐられる質問です。人間的な言葉を失ったペトロは、どのように応えたら良いか分からなかったはずです。しかし、もはや根拠を自分にはおかず、主に根拠を置く言葉で応えるしかなかったですし、応えることができるようになっていったのです。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」全知全能のお方を知るということは、私たちに根拠を置くいっさいの言葉を投げ捨てることです。すべてをご存じのお方が、「わたしを愛するか」と私たちに問い、私たちはこの方の言葉で「愛していることを、あなたはご存じです」と応える。そこに自由があり、希望があります。私たちの歩みが、主を知る一週間でありますように。それは自由であり、喜びの歩みなのです!
2016年4月21日木曜日
詩編第15篇「完全な道を歩くには」
伝統的な罪の悔い改めの祈りに、「わたしは思いと言葉と行いとによって罪を犯しました」という告白がある。近年、更に「怠惰によって」とも付け加えられている。いずれにしても、これらにおいて「完全な道を歩き、正しいことを行う人」は主の幕屋に宿り、聖なる山に住み、とこしえに揺らぐことがない。自分を見ると悲しくなる。キリストに救って頂くより他ない。キリストがわたしの思いも言葉も行いも必ず清めてくださると信じて。
2016年4月17日日曜日
ルカによる福音書4:16-21「良い知らせがあります!」
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたときに実現した。」主イエスはそうおっしゃいました。「今日」です。昨日でも、明日でもありません。神を礼拝し、キリストの言葉に聞く「今日」、福音を告げる聖書の言葉が実現したのです。今日、この礼拝でキリストはそうおっしゃいます。「あなたがたが耳にしたとき」は直訳すると「あなたがたの耳の中で」という意味です。わたしはこの表現が好きです。わたしの耳の中で、福音が本当のことになるのです。何とすばらしい事でしょう。キリストはおっしゃいます。そのことを信じてほしい。いや、福音を経験してほしいと、私たちを招いておられます。キリストがこのときに朗読し、実現したと宣言された聖書の言葉は、これです。「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」12日までの一週間、フィリピンのイロイロ市にある姉妹教会を訪れました。現地の教会が子どもたちのために行っているプログラムを見学しました。歌をうたい、ダンスをし、聖書を読んで、子どもたちの一番の楽しみはお昼ご飯を食べることです。ここに参加している子どもたちの多くは貧しい家庭から来たのです。皆で楽しそうにご飯を食べていました。プログラムの後にある子のおうちにお邪魔しました。とても小さく、貧しい家です。イロイロ教会の長老さんがそこでおっしゃっていました。私もこの地域の出身だ。とても貧しかった。今、私と同じところに生まれた子どもたちが主イエスの福音を聞いている、神の愛を知らされている。神さまは本当にすばらしい事をしてくださった。「貧しい人に福音を告げ知らせるために」キリストが来てくださったのです。教会がキリストの手となり足となって、貧しい人に主の恵みの年が来たと宣言されているのです。「主の恵みの年」というのは旧約聖書に登場するヨベルの年のことです。50年に一度、全ての借金が帳消しになる特別な年です。神が造られた人間も、社会も、素晴らしいものです。しかし、時間と共に経済力の多寡や生まれついてのハンディキャップのために社会は歪みます。そういう歪みを正すのがヨベルの年、主の恵みの年です。現在、世界の富裕層上位62人が保有する資産の合計は、下位36億人が保有する資産の合計と同じなのだそうです。明らかに歪んでいます。ただ、私は考えないといけないと思います。「貧しい人に福音を告げ知らせるため」というのは、私たちが貧しくてかわいそうな人を見つけて、良い事をしてあげて、気持ちよくなるため、という意味ではありません。「捕らわれている人に解放を」、「圧迫されている人を自由に」の解放と自由は同じ言葉で、他の箇所では「赦し」という意味で使われています。罪の赦しです。この社会の歪みを生み出すものは一体何か?それは他ならぬ私たちが捕らわれている罪です。強欲の罪、貪欲の罪です。一体どうしたら解放されるのか?社会システムが良くなれば良いのか?道徳的に諸国民が向上すれば良いのか?非現実的です。この歪みを正すためには、主の恵みの年が必要です。自由・解放の年が。キリストは、その時が来たと宣言されるのです。
2016年4月14日木曜日
詩編第14篇「たこつぼ社会でただ神を信じる」
「貧しい人たちの計らいをお前たちが挫折させても、主は必ず、避けどころとなってくださる。」このようなものは負け犬の遠吠えに過ぎない。そのように言う人もいるだろう。「誰も彼も背き去った」のだ。主に従う者はいない。日本はたこつぼ社会だと言った人がいる。同調圧力が強い社会の中、皆が右を向いているのに、一人で違う方を見られるだろうか?信仰など空しいとの大合唱が響く。ただひたすらに、十字架のキリストを見上げよう。
2016年4月10日日曜日
サムエル記下第7章1-29節「主の作られる神の家」
早天祈祷会で「日々の聖句」(ローズンゲン)を用いています。土曜日に指定された聖書箇所にはどちらも「共に・一緒に」という言葉がありました。礼拝は唯一、人間が利害関係を抜きにして〈共に〉集まることのできる場所だと思います。人間的には、「礼拝して何の意味があるの?」「何の得もないじゃないか…」と言いたくなるような時間であるかもしれません。ですが、神さまの目からすれば十分に価値のある時間なのです。たとえ、礼拝に行くのが億劫だという気持ちであっても、いやそういう時こそ、「あなたが来てくれてありがとう」と神さまは思われるのです。
本日の説教題を「主の作られる神の家」としました。不安の立ち込める時代にあって、教会はどのような歩みをしていかなければならないのか。さまざまな問題を感じつつも、見て見ぬふりをしながら毎日を過ごしていることがあるかもしれません。しかし、そんなときに聖書が言う言葉は、「静かにしていなさい」というものです。「一生懸命祈れ」「たくさん奉仕をしろ」などとは決して言わない。むしろ逆。「静かにしていなさい」と聖書は語ります。これは目の前を海、背後を敵陣にしたときのモーセの言葉です。
神さまにはすでに計画があります。本日の聖書箇所、サムエル記下第7章では、「主があなたのために家を興す」(7:11)と書かれています。主イエス・キリストも同様に「わたしはわたしの教会を建てる」(マタイ16章)と言われます。教会・神の家を建てるのは、ほかの誰でもなく主なのです。それゆえに、私たちはこの約束を期待して待ち続ける者なのです。私たちの頑張りが少ないから、努力が足りないから、教会が建たないなどということは決してない。すべての御計画は主にある。
ダビデはこの約束を聞き、祈りました。長い祈りでしたが、特にご一緒に注目したいのは、「御言葉の通りになってください」(7:25)という祈り。そして、「それゆえ、僕(しもべ)はこの祈りをささげる勇気を得ました」(7:27)という箇所です。私たち信仰者は、神の言葉、神の約束があってはじめて祈れる者になれる。もし御言葉が無ければ祈る勇気すらないのです。どんな願い事をしても、叶うかどうかわからない。期待して残念な結果を見るのであれば、はじめから期待しない方がましだと心のどこかで思ってしまう。
ですから、私たちは常に、「主が教会を建ててくださる」この約束の御言葉をいつも覚えながら祈る者になりたいのです。たとえ不安が目の前にあっても、主の約束は変わりません。御言葉に根差して祈り続けましょう。
本日の説教題を「主の作られる神の家」としました。不安の立ち込める時代にあって、教会はどのような歩みをしていかなければならないのか。さまざまな問題を感じつつも、見て見ぬふりをしながら毎日を過ごしていることがあるかもしれません。しかし、そんなときに聖書が言う言葉は、「静かにしていなさい」というものです。「一生懸命祈れ」「たくさん奉仕をしろ」などとは決して言わない。むしろ逆。「静かにしていなさい」と聖書は語ります。これは目の前を海、背後を敵陣にしたときのモーセの言葉です。
神さまにはすでに計画があります。本日の聖書箇所、サムエル記下第7章では、「主があなたのために家を興す」(7:11)と書かれています。主イエス・キリストも同様に「わたしはわたしの教会を建てる」(マタイ16章)と言われます。教会・神の家を建てるのは、ほかの誰でもなく主なのです。それゆえに、私たちはこの約束を期待して待ち続ける者なのです。私たちの頑張りが少ないから、努力が足りないから、教会が建たないなどということは決してない。すべての御計画は主にある。
ダビデはこの約束を聞き、祈りました。長い祈りでしたが、特にご一緒に注目したいのは、「御言葉の通りになってください」(7:25)という祈り。そして、「それゆえ、僕(しもべ)はこの祈りをささげる勇気を得ました」(7:27)という箇所です。私たち信仰者は、神の言葉、神の約束があってはじめて祈れる者になれる。もし御言葉が無ければ祈る勇気すらないのです。どんな願い事をしても、叶うかどうかわからない。期待して残念な結果を見るのであれば、はじめから期待しない方がましだと心のどこかで思ってしまう。
ですから、私たちは常に、「主が教会を建ててくださる」この約束の御言葉をいつも覚えながら祈る者になりたいのです。たとえ不安が目の前にあっても、主の約束は変わりません。御言葉に根差して祈り続けましょう。
2016年4月6日水曜日
詩編第13篇「主の顔を私にお見せください」
「いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。」神の御顔が見えない。その代わりに見えるのは、敵の顔ばかりである。日々の嘆きは心を去らない。私が死の眠りに就くことがないようにしてくださいと祈る。そのようなわたしを見て敵が喜ぶことのないように、と。つまり、悔しいからだ。よく分かる。いつでも私の脳裏にあるのは自分を見下すあの顔ばかり。だからこそ「あなたの慈しみにより頼みます。」主よ、心を引き上げてください。
2016年4月3日日曜日
使徒言行録3:1〜10「美しき証人として生きよ」
今日は第3章1節からですが、第2章43節からのところをみると、最初の教会の姿が描かれています。とても和気あいあいとしているようです。皆心を一つにして、財産や持ち物を売り払って、各々の必要に応じて、皆がそれを分け合っていました。なんと幸いな時間でしょう。しかし、教会はそこに留まりません。世界へと出ていきます。祈るために。「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれてきた。・・・彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。」祈りの道はこの世の惨めな現実から離れてしまうのではありません。まさに、そのような現実のただ中を進みます。しかも、彼は生まれつき足が不自由でした。自分の力の及ばない不条理に苦しみ、嘆く人々のただ中で祈るのです。ペトロとヨハネの祈りは、この人と向き合うことから始まりました。彼らは一緒にこの男をじっと見つめます。そして、言うのです。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」私たち教会には金や銀はありません。そういう実力を発揮してこの世の惨めさに立ち向かうことはできません。私たちには、ただ、イエス・キリストの名しかないのです。ただそれだけで勝負するには覚悟が必要です。それは牧師であっても伝道師であっても、教会員であっても同じです。しかし、私たちはこれだけを持ってこの世界に出ていきます。なぜなら、イエス・キリストの名には力があるからです。ある人には癒しをもたらす力があるのです。わたしもその事は身近なこととしてよく知っています。しかし、病気や困ったことをただ解決するためだけの信仰では信仰とは呼べないでしょう。イザヤ書第40章には慰めのメッセージが語れます。慰めを必要とする人が目の前にたくさんいたに違いない。しかし、そこで預言者が語った慰めは、罪の赦しによる慰めでした。「あなたの罪は赦された。あなたは救われた。」イエス・キリストの名によって、私たちはこの福音を生き、宣べ伝えます。しかし、誰もがその言葉を喜んで聞いてくれるわけではありません。それは当然です。この世界は痛んでいるのですから。必ずしも「美しい」とは言い得ないこの世界の現実、教会の現実、自分自身の現実に直面します。イエスは、この世界に出ていく私たちに、そこでキリストの名による罪の赦しの福音を告げるように、そのための十字架を背負うようにと、私たちを招いておられるのです。その十字架は重い。しかし、その重みに傷つくことによってしか、自分が赦された罪の重さを知ることはできません。ペトロとヨハネはイエスの名による福音を告げるときに言いました。「私たちを見なさい」と。伝道は「私を見てください」という言葉から始まります。この私の罪さえも、神は赦してくださったのです、という言葉です。この言葉を告げる者は美しい。イエスの美しさによって美しくなる。だから私たちは言います。「キリストがあなたの罪をも赦してくださった。」聞く人は、まだその事を知りません。なぜなら、世界が痛んでいるからです。赦しや愛を告げる言葉に飢えているのに、聞こえてこないからです。本気にしない。しかし、福音を携える者は本人に先だって知っている。神はあなたを救ってくださった、と。キリストという光に照らされた美しい姿を知っているのです。
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2024年11月11日の聖句
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神によって私たちは力を振るいます。(詩編60:14) きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。(ローマ12:1) 今日の二つの御言葉がいっしょに掲げられているというのは本当に面白いなと思います。神によっ...
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