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2019年12月19日木曜日

2019年12月19日(ミカ書7)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録19、ミカ書7

ミカ書7;
「しかし、私は主を仰ぎ見、わが救いの神を待つ。わが神は私に耳を傾けてくださる」(7節)。
この言葉が「しかし」と始まっていることが大切だと思います。そして、「私は主を仰ぎ見る」と言ったとき、この「私」が強調された言い回しをしています。しかし、私は、主を仰ぎ見ます、と告白しています。
升も秤も不正に満ち、弱者を食い物にし、勝ち組になることが正しいとされる世界です。負けることは自己責任と言われ、世間に迷惑をかければいなくなるほうがましだと後ろ指をさす世界です。しかし、告白します。
「しかし、私は主を仰ぎ見、わが救いの神を待つ。わが神は私に耳を傾けてくださる。」
この告白には、覚悟があります。主に従い、他のものには従わないという決心を込めた告白です。この覚悟や決心を支えるのは、主の慈しみです。「あなたのような神がいるだろうか。ご自分の民である残りの者のために過ちを赦し、その背きの罪も見過ごされる方。いつまでも怒りを持ち続けず、むしろ慈しみを望まれる方。主は私たちを再び憐れみ、私たちの過ちを不問にされる。あなたは私たちの罪をことごとく海の深みに投げ込まれる」(18~19節)。私も、いやこの私こそ、神に赦して頂かなければ生き得ない罪人の頭です。そのような者を神が慈しみをもって赦してくださった。「あなたのような神がいるだろうか」、主のような慈しみの深い神が。だから、ただこのお方だけに従い、この神だけを仰ぎ見ると告白するのです。
預言者ミカは、私たちの社会が抱え込んでしまっている罪と不正義を鋭い言葉で指摘します。そうであるからこそ、神の慈しみ立ち帰ろうと激しい言葉で呼びかけます。神の慈しみの深さが、確かに私たちを救ってくださるからです。

2019年12月18日水曜日

2019年12月18日(ミカ書5〜6)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録18、ミカ書5~6

ミカ書5~6;
エフラタのベツレヘムよ、あなたはユダの氏族の中では最も小さな者。あなたから、私のために、イスラエルを治める者が出る。その出自は古く、とこしえの昔に遡る。それゆえ、産婦が子を産むまで、主は彼らをそのままにしておかれる。兄弟の残りの者は、イスラエルの子らのもとに帰ってくる。彼は立ち上がり、主の力と、その神、主の名の威光によって群れを治める。彼らは安らかに住み、彼は今、大いなる者となって地の果てにまで及ぶ。この方こそ平和である。(5:1~4)
預言者ミカがこの言葉を語った時、彼は、主イエス・キリストという神の子がやがて産まれるということまで想像していたのでしょうか。以下に主の預言者といえども、まさか神がその独り子をも下さるなどとは考えていなかったのではないかと私は思います。預言者の見た幻をも超える、圧倒的に偉大で、人間の想像の及ばない主の救いの御業を、私たちはクリスマスに経験しました。最も小さい者の中から、偉大なる王がお生まれになりました。その方は主の威光を私たちに示し、私たちの平和となってくださいました。驚くべき神の救いを成就する救い主が、私たちの間に宿られたのです。
それは、どこまでも罪と不正にまみれた私たちを、神が主導権を持って救うためです。神は、私たちのためにすべての良いものを備え、私たちを生かしてくださいました。それにもかかわらず、人々は神を蔑ろにし、隣人を騙し、奪い取り、不正な升や秤を遣って私腹を肥やします。悪を重ねながら、厚かましくも神を礼拝してみせる。しかし、神は言われます。「人よ、何が善であるのか。そして、主は何をあなたに求めておられるのか。それは公正を行い、慈しみを愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むことである」(6:8)。神様は、神と隣人の前にある私たちの真心と、それにふさわしい生き方を求めておられるのではないでしょうか。それは、ほかの誰よりも、神様ご自身が私たちのために真心を尽くして、ご自身の御子をも下さったからです。
クリスマスを前にした今は、アドベントと呼ばれます。アドベントの色は紫です。ですから教会に飾られているクランツも、紫のロウソクが使われています。紫は悔い改めの象徴です。主イエス様をお迎えする私たちの心は、悔い改め。主の前にへりくだって、頭を垂れて、なお続くアドベントの日々を過ごしていきたいと願います。

2019年12月17日火曜日

2019年12月17日(ミカ書3〜4)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録17、ミカ書3~4

ミカ書3~4;
主なる神様が言われます。「私は言う。聞け、ヤコブの頭たち、イスラエルの家の支配者たちよ。あなたがたは公正を知っているはずではないか。善を憎み、悪を愛し、人々の皮を剥ぎ、その肉を骨からそぐ者たち」(3:1)。あなたたちは公正を知っているはずではないか、と主は言われます。なぜなら、それは主の教え、律法に示されているからです。ただ神だけを礼拝し、安息日を守り、殺すことなく、姦淫をせず、隣人の家を貪らないことです。神様は私たちが公正と慈しみに生きる道を教えてくださいました。私たちはそれをよく知っているはずです。しかし、それなのに、と主は言われます。「善を憎み、悪を愛し、人々の皮を剥ぎ、その肉を骨からそぐ者たち」になってしまっている、と。自分が生きるために他人を犠牲にしているのはなぜか、それは公正にもとるではないかと主は言われます。
私たちの社会は、弱い者を食い物にすることを正当化するために「自己責任」という言葉を発明しました。人にやっかいをかけることは、死なねばならないほどの悪と見なすようになりました。国家の法律では違法でなかったとしても、主の前に出るなら不正と言わねばならないことは、やはりあるのではないでしょうか。私たちの社会は、一体どうしたら救われるのでしょう。
「終わりの日に」と聖書は言います。「終わりの日に、主の家の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。そして、もろもろの民が川の流れのようにそこに向かい、多くの国民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。主はその道を私たちに示してくださる。私たちはその道を歩もう』と。教えはシオンから、主の言葉はエルサレムから出るからだ」(4:1~2)。終わりの日に、もろもろの民が主の山に向かい、そこで主の教えを求め、主の言葉をしたい求めてこれに生きる。そう約束しています。私たちが主の公正と慈しみに生きる日が来る、と言うのです。それは『終わりの日』のことです。主が起こしてくださる終わりの日の救いの出来事です。私たちの努力の末にあるのではなく、主の御業の中で、私たちも、私たちの社会も、主の救いに与る日が来るのです。その日まで、私たちの苦しみはなお続くでしょう。私たち自身の罪がもたらす苦しみであり、主の前に悔い改めねばならない過ちがなお続くでしょう。しかし、それでも、主は救いの日を来たらせてくださいます。主が、私たちのために、私たちが「剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す」(4:3)べき明日をもたらしてくださいます。「御国を来たらせたまえ!」それが、私たちの祈りです。

2019年12月16日月曜日

2019年12月16日(ミカ書1〜2)

今日の東独箇所:ヨハネの黙示録16、ミカ書1~2

ミカ書1~2;
「これらすべてはヤコブの背きと、イスラエルの家の罪によるものだ。ヤコブの背きとは何か。サマリアではないか。ユダの高き所とは何か。エルサレムではないか」(1:5)。
預言者ミカは、ちょうど北王国イスラエルがアッシリアによって滅亡させられた時代に、南王国ユダで活動した預言者です。南王国にとっても状況は悪化の一路をたどり、滅びに突き進んでいくような時代です。
最初に引用した言葉は、驚くべき言葉であると思います。ヤコブの背き、イスラエルの家の罪。それは、サマリアであると言われます。サマリアは北王国の首都です。そこには王がいますが、それだけではなく、バアル神殿もありました。サマリアで、北王国のさまざまな王朝のいろいろな王たちが神に背き、偶像礼拝を重ねてきました。そこにイスラエルの家の罪の急所があると指摘されています。
そこまではある程度分かりやい。しかし、その続きがあります。「ユダの高き所とは何か。エルサレムではないか。」ユダの高き所。「高き所」というのは、土着の礼拝所のようなものです。これについては律法で「その地のすべての住民をあなたがたの前から追い払い、すべての石像を打ち壊し、すべての鋳物の像を打ち壊し、高き所をことごとく破壊しなければならない」(民数記33:52)と定められていました。特にソロモンがエルサレムに神殿を建築し、やがて王国が分裂した後には北王国はエルサレムから離れてしまいましたから、勝手に造った礼拝所が常につまずきであり続けました。礼拝が好き勝手に変質していたからです。それに対し、エルサレムにあるのは、ソロモンの神殿です。神がその名をおいてくださる場所です。そのはずでした。それなのに、ユダの高き所、それはエルサレムだと言われてしまう。神殿という建物があるだけで、そこでの礼拝は自分勝手な、神に受け入れられるようなものではなくなっている、ということなのでしょう。恐るべき言葉です。
「あなたがたは、戦いを避けて無事に過ごそうとする者から、平和の者から外套を奪う。わが民の女たちをあなたがたは居心地のよい家から追い出し、子どもたちから、わが誉れをとこしえに奪う。立って、出て行くがよい。ここは安住の地ではない。汚れのために滅び、その滅びは悲惨である」(2:8~10)。礼拝が曲がってしまい、自分の好き勝手にやっているだけだということと、隣人同士平和に生きることができなくなっているということとは、一つのことだということなのではないでしょうか。
主よ、私たちを憐れんでくださいと祈りつつ、今日の日を歩み始めます。

2026年9月13日の聖句

今週の聖句: 一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が心にかけていてくださるからです。(1ペトロ5:7) 今日の聖句: 主は虐げられた人の砦 苦難の時の砦。(詩編9:10) みなしごや、やもめの苦労を見舞うこと、それが純粋で汚れのない父なる神への礼拝です。...