2023年2月28日火曜日

2023年2月28日の聖句

主よ、深い淵の底からあなたに叫びます。
わが主よ、私の声を聞いてください。(詩編130:1~2)
その盲人は「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。(ルカ18:38~39)

ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください。主よ、憐れんでください。
これは、私たちの祈りです。叫びです。呻きです。息を吸いながら「主よ」と、そして吸いながら「憐れみたまえ」と祈る伝統があります。「主よ、憐れみたまえ。」これは「キリエ」と呼ばれる教会で大切にされてきた祈り、また讃美歌でもあります。私たちが使っている讃美歌の中にもキリエの歌があります。私の友人にはお嬢さんにきりえちゃんと名付けた人もありました。それほど教会の中で大切に祈られてきた言葉です。
主よ、ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください。
主はこの祈りに必ず耳を傾けてくださいます。「先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、私を憐れんでください』と叫び続けた。」その声を聞き、主イエスは立ち止まってこの盲人を呼んでくるようにおっしゃいました。誰が叱っても、止めさせようとしても止まることのない私たちの祈りに主は耳を傾け、私たちを呼んでくださるのです。
だから、私たちは主を呼び求めます。どんなに絶望的で、どん底にあっても、どこにいようとも主を呼び求めます。「主よ、深い淵の底からあなたに叫びます。」光が見えない場所、失望、涙を流しながらも、私たちは主に叫びます。主を求めます。「主よ、憐れんでください。」私たちがどんなに深い淵の底にいたとしても、その声がキリストに届かないということはありえない。なぜなら、キリストは深い淵の底にまで、いやもっと深い陰府にまで降ってきてくださったからです。
「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください。」今日の私たちの祈りとして、この祈りと共に呼吸をいたしましょう。

2023年2月27日月曜日

2023年2月27日の聖句

主は来られる、地を裁くために。主は義によって世界を裁き、もろもろの民を公平に裁かれる。(詩編98:9)
主よ、あなたを恐れず、御名をあがめない者がいるでしょうか。あなただけが聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しい裁きが明らかにされたからです。(黙示録15:4)

私たちが告白している使徒信条には、主イエスが神の御許から再び私たちのところへ来られ、生きている者と死んだ者とを裁かれるという告白があります。私たちはキリストが再び来られること、そして裁きをなさることを信じています。
昨日の日曜日の礼拝では「御国を来たらせたまえ」という主の祈りの言葉に集中をしました。御国を来たらせたまえ、それは主なる神様が私たちのところへ来られて私たちの王となられるということです。王として、主は何をなさるのか。裁きをなさる。聖書はそのように言います。キリストの裁きが行われる。
私は、まだ裁判を経験したことがありません。しかし何かあった時に公正な司法手続きが行われるという信頼は、社会にとってとても大切なものだということはよく分かります。過ちを犯してしまえばそれが裁かれ、適正な償いと更正の措置がなされる。もしもそうでなければ、悪いことをしても野放しだったら、あるいはある特定の人だけがお目こぼしにあずかるのだとしたら、社会の正義への信頼は崩れてしまいます。そうなったら、社会の秩序も保てなくなってしまう。
ですので、例えばスピード違反でなぜか自分だけが狙い撃ちにされているとなれば納得がいかないし、警察検察が悪いことをしているはずの偉い人を放っておいていると見るとすごく厭な気持ちになります。
主イエスの王としての裁きは義による裁きであり、もろもろの民への公平な裁きだと言います。主イエスは世界の王として私たちを公平に裁かれる。神の義によって裁かれる。私たちの尺度ではなく、私たちの好みや限られた情報によってではなく、主がご自身の義と公正をもって裁きをなさる。そのことに私たちは信頼していい、と聖書は言います。
私たち人間の営みは疵だらけです。不完全です。裁きも、やはり不完全です。しかしキリストの裁きはそうではない。だから、正義を信じる純粋さをもちたいと思います。そして、キリストの正義はご自身が十字架にかけられたことによって貫かれたことを、心に刻みましょう。キリストの御名に、私たちの救いが確かにあることを信頼しましょう。

2023年2月26日日曜日

2023年2月26日の聖句

今週の聖句:
悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。(1ヨハネ3:8b)

今日の聖句:
主が罠からあなたの足を守ってくださる。(箴言3:26)
イエスの祈り:わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネ17:15)

今日私たちに与えられている新約聖書の御言葉は、主イエスさまの祈りの言葉です。十字架にかけられるほんの数時間前、弟子たちと一緒に食事をした席で主が祈られた祈りの言葉です。とても長い祈りです。ヨハネによる福音書は第17章の丸々一章分をかけて主イエスの祈りを紹介しています。「大祭司の祈り」とも呼ばれます。祭司とは、神と民との仲立ちをし、礼拝を司り、民のために祈りをする人のことです。中でも大祭司は、神の前に民のためのささげ物をする。そして神の臨在の幕屋に入って犠牲のささげ物の血を流す人です。主イエスさまはまさしく私たちのための大祭司となって神に祈り、また私たちのためにご自分の小羊のような肉と血を神に献げてくださいました。
その方が、私たちのために祈っていてくださいます。「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」私たちを悪い者から守ってください!主がそのように祈っていてくださいます。私たちは悪い者を避けるために世を離れた隠遁生活をするのではなく、あるいはこの世は悪いところだと言って教会に閉じこもって世を裁くのでもなく、神が私たちを悪から守ってくださることを信じて、この世で生きていきます。キリストが私たちを遣わしておられるからです。私たちはこの世を旅する神の民です。
「主が罠からあなたの足を守ってくださる。」この言葉の通り、神が私たちをすべての罠や罪から守ってくださいますように。そうでなけれれば、どうして私たちが神の御目の前でなお生きることができるでしょうか。主が今日も私たちの足を守り、私たちの出で立つのも帰るのも守ってくださいますように。今日私たちを支えるのは、主キリストの祈りです。私たちの精神力や根性や心の高潔さではありません。あるいは信仰という私たちの徳でもない。ただただキリストだけが、そしてキリストの祈りに応えた父なる神が、私たちを守ってくださいます。今日、そして明日も。

2023年2月25日土曜日

2023年2月25日の聖句

主の言葉を聞け。この地に住む者を主は告発する。この地には真実も慈しみもなく、神を知ることもないからだ。(ホセア4:1)
あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。(ヤコブ1:5)

狛江での強盗や、それを引き起こしたさまざまな特殊詐欺について、連日いろいろなメディアで取り上げられています。若い人が食べ物屋で悪質ないたずらをし、それをSNSに投稿したものがひろまって、たいへんな騒ぎになりました。その過ちを犯してしまった若者は、再起できないのではないかというほどのたいへんな批判に晒されています。裁きの心が吹き荒れています。他方では在留外国人への慈しみが乏しく、あるいは貧しかったり働けなかったりする人に対する非難や自己責任を問う言説もやむことがありません。
聖書は、そんな私たちの社会に向かって言うのです。「主の言葉を聞け。この地に住む者を主は告発する。この地には真実も慈しみもなく、神を知ることもないからだ。」主なる神様の告発です。ここで神様は、若者が過ちを犯してしまったり、他人に迷惑をかけたり、人に世話にならなければ生きていかれないことを告発してはおられません。それを赦せず、真実も慈しみもない社会であることを告発しておられます。過ちを犯した人が再起できること、弱者が重んじられ、その尊厳が守られること。マイノリティが人間らしくいきられること。神様が望んでおられるのは、むしろそのようなことです。
なぜ、私たちの造ってきた社会はそうではなくなってしまったのか。それは「神を知ることもないから」だ、と指摘されている。神を知ることをやめたとき、私たち個人も、私たちの社会も、化け物になってしまいます。人間らしさを失って、人を食い物にし、慈しみは不効率でシステムに乗らないズルや無駄だと言い放つようになってしまう。神を追い出す社会は、神の代わりに悪魔に身を売り渡している。
「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」今日の二つの御言葉のつながりでは、真実や慈しみを生み出す神に頼る信仰が「知恵」と呼ばれています。神を知り、畏れ敬う知恵です。それは神に求めるのでなければ私たちが抱くことができないものです。ここに、私たちの謙遜さが求められています。神の御前にへりくだって、神を求め、慈しみと真実を求める。そこに私たちの世界の再生の道がある。「御国を来たらせたまえ」と私たちは今日祈ります。

2023年2月24日金曜日

2023年2月24日の聖句

私はあなたがたと永遠の契約を結ぶ。(イザヤ55:3)
神の約束はすべて、この方において「然り」となったからです。それで、私たちはこの方を通して神に「アーメン」と唱え、栄光を帰するのです。(2コリント1:20)

「アーメン」といえば、キリスト教会の合い言葉のような言葉です。教会に一度も言ったことがないという人でも、「アーメン」というこの言葉は恐らく誰でも聞いたことがあるのではないかと思います。中にはキリスト者のことを指して「アーメンさん」と言う人だっているのではないかと思います。そこまで浸透しているこの「アーメン」という言葉ですが、「真実に、本当に」という意味のヘブル語です。私たちは祈りの最後に、この祈りを真実に神に献げてるために「アーメン」と言います。主が必ずこの祈りを聞いてくださると信じて。
しかし考えてみると、私たちの普段口にしている言葉は必ずしもいつでも真実で本当の言葉とは限りません。たまにはちょっとした嘘をつくこともありますし、大勢に影響がなければ少しのごまかしだってないわけではありません。そういう私たちの口から出て来る「アーメン」に、本当のところ、どれだけの意味があるのでしょうか。
主イエスは私たちに、ご自分の名前で神に祈るようにと教えてくださいました。「主イエス・キリストのお名前で祈ります」と私たちは言って、その上で「アーメン」と言います。そうでなければ祈れないからです。私たちの祈りの真実や本当さは、主イエスさまの真実にかかっています。キリストこそ、私たちの祈りを本当に「祈り」にしてくださるお方なのです。
「神の約束はすべて、この方において『然り』となったからです。それで、私たちはこの方を通して神に『アーメン』と唱え、栄光を帰するのです。」ここで『この方』と呼ばれているのは、主イエスさまです。主イエスさまにおいて、神様から私たちへの約束はすべて然りとなり、私たちの存在もまたキリストのお陰で然りとなりました。だから、私たちはこのお方のお名前にすべてをかけて、「アーメン」と言って祈る。
「私はあなたがたと永遠の契約を結ぶ。」神の約束、キリストの真実は永遠だと聖書は言います。永遠の真実をもって私たちをご自分のものとし、私たちを救う約束を果たしてくださる方に、私たちは今日も祈りを献げているのです。

2023年2月23日木曜日

2023年2月23日の聖句

立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。(エゼキエル33:11)
私たちを、悪からお救いください。(マタイ6:13)

今日の旧約聖書の御言葉を、11節全部を改めて読むとこのように書かれています。
「彼らに言いなさい。私は生きているーー主なる神の仰せ。私は悪しき者の死を決して喜ばない。むしろ、悪しき者がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、お前たちの悪しき道から立ち帰れ。イスラエルの家よ、あなたがたがどうして死んでよいだろうか。」
一読すると忘れることのできない言葉です。私たちの心を揺さぶります。神様の、私たちを決して失うまいとする情熱に心を動かされます。「私は生きている」と言っています。「神は生きておられる」となると、聖書の中でしばしば誓いの宣言として登場します。ここでは神様がご自身にかけて誓っておられる。それほど確かな御心だということなのでしょう。ご自身が生きておられることにかけて、主なる神様がおっしゃる。それは、悪人の死を喜ばないという御心です。悪のために私たちが身を滅ぼし、そればかりか神様の御前に失われたものとなり、罪の中に死んでいくことを神様は決して喜ばれない。神様は私たちを求め、私たちが神様の御許に立ち帰って生きることを喜んでくださる方です。
神様は、いつでも私たちを招いてくださっています。それは、私たちが神様の御許に憩うまでは、決して安らぎを得ることができないからです。私たちは神様によって、神様に向けて造られたので、神様のもとに立ち帰るのでなければ、魂の平安を得ることができない。その私たちを、神様は待っていてくださる。
「私たちを、悪からお救いください。」神は私たちがこう祈るのを喜んでくださいます。喜んで、私たちを救ってくださる。この方の愛の中へ、今日、帰って行きましょう。

2023年2月22日水曜日

2023年2月22日の聖句

主に向かって歌い、主をほめたたえよ。主が貧しい者のいのちを、悪を行う者どもの手から救い出されたからだ。(エレミヤ20:13)
マリアの言葉:私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。この卑しい仕え女に、目を留めてくださったからです。(ルカ1:46~48)

今日は灰の水曜日です。「灰の水曜日」とは受難節の始まる日です。受難節は主イエスさまの復活を記念するイースターの前、6つの日曜日を除いた40日間を指します。ですので、必ず水曜日になる。この日を「灰の」水曜日と呼ぶのは、教会の中にはこの日に集まって祈りをし、額に灰を塗るという習慣を持つものがあるからです。灰は悔い改めや嘆きの象徴です。主イエスを十字架にかけた自分の罪を悔い、悲しみ、十字架に向かって行かれたキリストの御前に祈りをする日々として大切にされてきました。
そういう水曜日、受難節を始めるに当たって今日の御言葉が与えられているというのはたいへんふさわしいことであると思います。「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。この卑しい仕え女に、目を留めてくださったからです。」ここで「私の魂は」と言っています。魂というのは、幽霊のような霊魂ではなく、あるいは単に人間の内奥というだけでもありません。弱くてもろく、崩れ去ってしまうような、水もなくカラカラに渇ききった人間の儚さ、そういうものを抱えた人間存在を指す言葉です。私たちという弱くてもろい存在そのもののあえぎのようにして、神を賛美し崇める歌が生まれてくる。
私たちは、キリストが十字架にかかってくださったから救われました。それ以外の理由はありません。私たちは卑しく、神様の御前に顔をあげることのできない者です。ところが、神様はそのような私たちに目を留め、救いだしてくださいました。その事実が私たちの口に賛美を上らせます。
実は受難節には一つの伝統があって、ハレルヤ唱を歌わない習慣があるのだそうです。受難節の間は喜びの表現を差し控えるのです。ただし、私たちの教会では特にその伝統を引き継いでいるわけではありません。ですから受難節でも歌います。また、ハレルヤ唱を歌わない伝統を持っている教会でも、日曜日は別です。日曜日にはやはりハレルヤと歌う。日曜日は主の復活の記念日だからです。だから、受難節は「日曜日を除く40日間」なのです。この受難節の初めの日に私たちに与えられた御言葉は、これから始まる40日間の私たちの祈りです。キリストのゆえに神をほめたたえ、魂からの賛美を献げ、キリストを仰ぐ祈りの日々を送っていきましょう。

2023年2月21日火曜日

2023年2月21日の聖句

ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ、今、このしもべの咎を取り去ってください。」(サムエル記下24:10)
私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。(1ヨハネ1:9)

今日の旧約聖書の御言葉はダビデ王の祈りの言葉です。「大きな罪を犯しました」と言っていますが、何をしたのでしょうか。ダビデは、イスラエルとユダの人口調査をした。彼は司令官ヨアブに命じます。「ダンからベエル・シェバに至るまでイスラエルの全ての部族の間を巡り、民の人口を調べ、私に民の数を知らせなさい。」ところがそれを聞いてヨアブは「王様はなぜ、このようなことを望まれるのですか」と言って、一度王をいさめてこの命令を思いとどまらせようとしました。しかし、「ヨアブと将軍たちに対する王の命令は厳しかったので」、ヨアブらは民の調査に向かった、と聖書に書かれています。そして調査の結果、イスラエルに80万人、ユダには50万人の兵役に就くことのできる者がいると明らかになった。だが、民を数えたことはダビデにとって良心の呵責となり、冒頭の悔い改めの祈りが出てきたのです。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ、今、このしもべの咎を取り去ってください。」
人口調査の一体何がいけないのでしょうか。なぜ、それが悔い改めなければならない罪なのでしょうか。そして実際、この祈りの後、神からの裁きが告げられることになっていきます。事実として、神の御目にも適わないことだった。なぜでしょうか。
その理由は直接ここには書かれていません。もしかしたら、人口調査をするというのはダビデにとっては民が神のものであるということを忘れ、自分のもののように考えるということだったのかも知れません。金勘定をするように民の人数を測った。そこにダビデの罪が潜んでいたのかも知れない。
私たちが自分が何かをするとき、間違っていると分かっていてしてしまうこともありますが、それと気づかずにしてしまうこともあります。自分で自分の罪に気づけないことも多いのです。しかしそれに気づいたとき、神様は私たちがダビデのようにその罪を告白し、悔い改めることを待っておられます。「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」
ダビデはこの他にもたくさんの過ちを犯してきました。取り返しのつかないこともたくさんありました。それでも、ダビデは悔い改める人でした。神様の御許に立ち帰る人でした。それがダビデという人の信仰でした。私たちは罪を犯さない完璧な人間になることを求められているのではなく、罪人を招くキリストの御許に帰るように、招かれています。

2023年2月20日月曜日

2023年2月20日の聖句

女から生まれた人間は、その人生も短く、苦悩に満ちている。咲いては枯れる花のように、逃げ去る影のように、とどまることがない。(ヨブ14:1~2)
私たちには、この地上に永続する都はありません。むしろ、来たるべき都を求めているのです。(ヘブライ13:14)

人の人生は短く、苦悩に満ちている。母の胎を出たときから墓に埋められるときまで、それは瞬く間のことであり、その間の苦しみは多い。古今東西、誰もが同じように感じ、また知ってきたことです。いのちの儚さ、短さ、弱さ、空しさ。どうしたってごまかしようがない。だから命には意味がない、人生には意味がないと諦めるのか、あるいはそれでも意味があると言いうのか。問題はそこだと思います。
ヨブ記は、まさに不条理で、意味が分からない人生の苦しみを問題にします。義しい人だからといって好いことが起こるわけではなく、どれほど無垢に生きてもその報いがあるわけでもない。不条理です。悪人が栄え、善人が滅びていく現実を嘗め尽くしたヨブの言葉。「女から生まれた人間は、その人生も短く、苦悩に満ちている。咲いては枯れる花のように、逃げ去る影のように、とどまることがない。」
しかし、それでもヨブは叫び続けます。呻き続けます。「あなたが呼べば、私は答えます。あなたの手の業を尋ね求めてください。(14:15)」神様に向かって、この不条理な世界から呼びかけている。私を呼んでください、あなたの御手の業をどうぞあなた様ご自身が尋ねてください。そうやって訴えます。どんなに現実が不条理で、自分の周囲を取り囲む社会の実相がデタラメだったとしても、それでも私たちの命には意味があります。人生は無意味ではない。神はヨブの訴えを聞いてくださっています。例えそうでなくても、私たちは神に従うことを止めない。
それは、私たちが自分の命を超えた救いを見ているからです。「私たちには、この地上に永続する都はありません。むしろ、来たるべき都を求めているのです。」来たるべき都。新しいエルサレム。この世界の完成。その時を私たちは待ち望んでいる。そうでなければ、どうしてこの世界の現実を見つめながら神を信じ続けることができるでしょうか。もしもこの世のことだけを望んでいるのだとしたら、私たちの信仰は無意味です。しかし私たちは実際には、死によって滅びることのない都を待ち望んでいます。私たちの命を完成させる完全な救いを待ち望んでいます。この神の救いが、不条理なこの世界で私たちを立たせるのです。

2023年2月19日日曜日

2023年2月19日の聖句

今週の聖句:
今、私たちはエルサレムへ上って行く。そして、人の子について預言者が書いたことはみな実現する。(ルカ18:31)

今日の聖句:
昼は主が私に慈しみを届けてくださり、夜は私が自らのいのちの神に向かって歌と祈りを捧げる。(詩編42:9)
イエスは群衆を解散させると、独りとなり、祈るために山に登られた。そして日が暮れても、ただ一人、そこにおられた。(マタイ14:23)

創世記第一章には、神が天と地とそこにあるすべてのものをお造りになったときのことが書かれています。一日一日、毎日、同じように締めくくられています。「夕べがあり、朝があった。第一の日である。」これと同じように、夕べがあり、朝があり、一日また一日と刻まれていきました。夕べも朝も、神様がお造りになったものです。だから私たちは夕べにも朝にも神様の創造の御業を仰ぎ、神が造ってくださった夕べを歌と祈りをもってほめたたえ、そして神が造ってくださった昼に神の慈しみを喜んで毎日を過ごします。
ところで、この創世記の言葉は「夕べがあり、朝があった」と夕べから始まっています。聖書の世界では、一日は夕べから始まりました。日没からです。日が暮れると、新しい一日になる。昔のことですから、夕べになって暗くなったら、もうすることは一つしかありません。寝るだけです。一日の始まりは休息から始まる。自分の仕事からではない。休むことからです。神が働いてくださっているから。寝ているとき、私たちは神の慈しみだけに支えられている。
主イエスは夕べになってもなお祈っておられました。夕べになり、日が暮れて、闇夜の中でも起きて働いていてくださる神様に祈ったのです。夕べも支配しておられる方、闇夜の中でもご自分の慈しみでこの世界を保っていてくださる方。この方に主は祈られた。
昼にも、神は私たちに慈しみを届けてくださいます。私たちは昼の光の中でも神を賛美し、神を礼拝し、神の聖なるお名前をほめたたえます。夕べも昼も神が造り、私たちに贈ってくださったからです。主イエス・キリストの父である神の恵みと慈しみを味わう夜であり、昼でありますように。
今日、キリストの恵みがあなたにありますように。祝福を祈ります。

2023年2月18日土曜日

2023年2月18日の聖句

あなたさえ私のところにいてくださるのであれば、私は天地の何をも問題としません。(詩編73:25)
私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。(ローマ8:38~39)

今朝の新約聖書の御言葉は、私が最も愛する御言葉の一つです。私の葬式の時にはぜひここを読んでほしいと、かねてより思ってきました。この御言葉は、ひたすら、その目を主イエス・キリストだけに注いでいます。主キリスト・イエスある神の愛。ただそれだけです。キリストが示してくださった神の愛は私を決して離すことがない。例え相手が何ものであろうとも。「死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、他のどんな被造物も。」これは大いなる解放です。自分の至らなさや弱さからも解放され、私を神の愛から引き離すすべての力から解放されます。ただキリストに示された神の愛だけがあり、その愛は決して私を離すことがない。どんなものにもそれは不可能です。
「あなたさえ私のところにいてくださるのであれば、私は天地の何をも問題としません。」この「あなたさえ」というのは、本当にすばらしい言葉です。あなたさえ。主よ、あなたさえいてくだされば。私たちは主イエス・キリストと、キリストを私たちに送ってくださった父なる神様に目を注ぎ、そのことによって救いと慰めを得る。それが、救いということではないでしょうか。
今日の新約を、著者パウロが「私は確信しています」と「始めていることも心に残ります。ただあなたさえ、主キリストに示された神の愛だけ。それだけでいい。そして、そのことを「私は確信しています」と言う。そこに救いがある。私がどのようなものであっても神が私を救ってくださる。その確信が私を生かす。
神の力ある愛の中に、今日もあなたは生きている!聖書は私たちにそのように語りかけています。

2023年2月17日金曜日

2023年2月17日の聖句

主よ、あなたの業はいかに豊かなことか。
あなたは知恵によってすべてを造られた。
地はあなたの造られたもので満ちている。(詩編104:24)
私たちの主、また神よ。あなたこそ、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、万物はあなたの御心によって存在し、また造られたからです。(黙示録4:11)

今日の御言葉は、この世界の秘密を語っています。「あなたは万物を造られ、万物はあなたの御心によって存在し、また造られたからです。」この世界にある万物は、神に造られ、神の御心によって存在している。神がこの世界を保っていてくださる。だから、この世界はすばらしい。この世界には意味があり、この世界に存在するすべての命は尊い。神がお造りになったものだからです。神が負ってくださっているからです。神の慈しみが、この世界にはあふれている。それが、聖書の語るこの世界の秘密です。
秘密と言っても、聖書は一ページ目からずっとそのことを語り続けています。「初めに神は天と地を創造された。」しかし、私たちの目からそのことは直接確認することができません。同じ世界を見て偶然の産物だと言う人もいるし、あるいは人間社会の悪や不条理を見て神を否定する人もいくらでもいます。しかしそれでも、聖書は訴えます。「あなたは万物を造られ、万物は御心によって存在し、また造られた」と。神がこの世界をお造りになった事実は誰が否定しようとも変わらない。この世界は偶然の産物ではない。神が望んでくださったから存在している。この世界に悪がはびこり、不条理ばかりであっても、主イエス・キリストがその一番底辺に立って私たちを支えてくださっている。だから希望がある。神が私たちを必ず救ってくださる。
だから、私たちは神を賛美します。神をほめたたえ、礼拝します。「主よ、あなたの業はいかに豊かなことか。あなたは知恵によってすべてを造られた。地はあなたの造られたもので満ちている。」この世界を造り、命を与え、私たちを愛し、保っていてくださる方。この方こそ、賛美されるべき方。この方こそ、礼拝されるべきお方。神の愛のゆえに。神の偉大な、聖なるお名前を私たちはあがめます。ただキリストだけに栄光がありますように。

2023年2月16日木曜日

2023年2月16日の聖句

苦難の中から私が主に呼びかけると、主は答えてくださった。(ヨナ2:3)
イエスの言葉:それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えている。恐れることはない。(ルカ12:7)

「恐れることはない。」これが、今日主イエス・キリストが私たちに言っておられることです。「恐れることはない。」このキリストの言葉に聞き、恐れずに今日の日を生きていきたい。
預言者ヨナの言葉が書かれています。ヨナはニネベの都に行って、そこにいるアッシリアの人々に預言するように神に命じられます。しかしヨナは行きたくなかったので、東に行くべき所を西に向かい、港で舟に乗って逃げました。そのためにヨナが乗った舟は嵐に遭い、ヨナは他の人たちに海に放り込まれてしまいました。すると大きな魚がやって来てヨナを丸呑みにした。今日の旧約はヨナが魚の腹の中で献げた祈りの冒頭です。
「苦難の中から私が主に呼びかけると、主は答えてくださった。」ヨナを襲った苦難は、殆ど死そのものです。難船しかけるほどの大嵐も、海に放り込まれることも、魚に呑み込まれることも、どれもこれも、殆ど死にかけているような状態です。そのどれもが彼の罪が招き寄せたものです。ヨナにとっては考えられないような大きな苦難です。それでも、苦難の中からご自分を呼ぶ者を、神様は無視なさいませんでした。主は答えてくださる。
「それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えておられる。」神様が私の髪の毛の本数までもご存じであるのなら、私の心にあるものも全部ご存じであるに違いありません。私の心に秘めた思い。それはヨナのような、偏屈で自分勝手な思いです。しかしそういう自分の心根が招き寄せた苦難の中でご自分を呼ぶ声であっても無視しないでいてくださるお方が、私の声にも耳を傾けてくださいます。
だから、恐れるなとキリストは言われます。全部をご存じの神があなたの声に耳を傾けているから、と。主イエス・キリストによってあらわされた神の憐れみが、今日、私たちを支えてくださいます。

2023年2月15日水曜日

2023年2月15日の聖句

それゆえ、私は再びこの民を、驚くべき業によって驚かす。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。(イザヤ29:14)
群衆は、口の利けない人がものを言い、手の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を崇めた。(マタイ15:31)

群衆が目撃した出来事、それは主イエス・キリストが来られたときに起きた出来事です。キリストが訪れたとき「口の利けない人がものを言い、手の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになった」のです。驚くべき奇跡です。
「口の利けない人がものを言い」とあります。そこで今日の旧約聖書ですが、少し前のところから続けて読んでみると、今日の新約との深いつながりが分かります。知恵あると思われている者たちの知性が暗くなっている。それは、人々がただ口先でだけしか神を敬うことなく、その心が遠く離れてしまっているから。聡明なはずの者の英知が隠れてしまっている。それは神をおそれ敬うことをやめて人間の言い伝えや戒めを覚え込んでいるだけだから。つまり、神を無視し続けた結果、私たちの口に上ってくる言葉や知恵がとても空しいものに成り下がっている、と指摘している。知恵ある者の知恵が滅びてしまった。悟りある者の悟りが隠されてしまった。これは、私たちの話です。
しかし、主イエスは口の利けない者の口を開いてくださいます。私たちの知恵は神を無視してむなしくなってしまうけれど、主イエスが来られたとき、私たちの閉ざされた口を開き、暗くなった知に光を与えてくださる。私たちが口を開いて神を敬う知恵の言葉を語らせてくださる。それがキリストが来られたときに起こる奇跡です。キリストの出会いによって私たちに起こる奇跡です。
主を畏れることは、知恵の始めです。私たちの口を開いてくださるのは、神様ご自身です。神を恐れ敬う知恵を私にもお与えください。そのように、祈ります。

2023年2月14日火曜日

2023年2月14日の聖句

それでも神は、清い心を持つすべての人々に向けられた、イスラエルの慰め。(詩編73:1)
心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。(マタイ5:8)

イスラエル、すなわち神の民。私たちのことです。私たちの慰め、それは神様ご自身です。神様こそが私たちの慰め。「それでも神は、清い心を持つすべての人々に向けられた、イスラエルの慰め。」神様が何かをしてくださるからとか、自分にとってどういう御利益があるからとか、そういうことではない。神様ご自身が私たちの慰めだと言うのです。本当にすばらしい言葉です。これこそ真理です。
聖書はそういう信仰に生きたたくさんの人たちの証言の書です。例えば使徒パウロです。彼はこのように言います。「それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのはなおさらのことです。敵であったときさえ、御子の死によって神と和解させて頂いたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。このキリストを通して、今や和解させていただいたからです。」パウロは神を誇っている。神を喜んでいる。主イエス・キリストを慰めとしている。なぜか。キリストが私を神と和解させてくださったから。
そうとすると、最初に私は神様が何をしてくださるからとか、どういう御利益があるからということではなくと言いましたが、そうではありませんでした。キリストはこれ以上ない「御利益」を私に下さった。私を神と和解させてくださった。私を神につなげてくださったのです。だから、私はキリストを慰めとし、神を喜んで今生きている。
「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。」主イエス・キリストは言われます。心の清い人々、それはただ純粋に神にだけ向かう人です。キリストを単純に信じる人です。キリストを喜び、キリストを慰めとする。その人は神を見る。神はご自分を信じる者に、ご自分を現してくださる。この最高の幸せに、私たちは今日招かれています。

2023年2月13日月曜日

2023年2月13日の聖句

あなたの前から私を退けず、聖なる霊を私から取り去らないでください。(詩編51:13)
徴税人は遠く立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人の私を憐れんでください。」(ルカ18:13)

主イエスの話されたたとえ話です。ファリサイ派の人と徴税人、二人の人が祈るために神殿に行った。ファリサイ派の人は堂々とした祈りをしました。ところが徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら祈っていました。私たちにはファリサイ派というととても悪いイメージがついてしまっていますが、当時の人たちからは尊敬された人々でした。敬虔な信仰者と思われていました。ファリサイ派の人たちがする祈りは立派な祈りだと皆が思っていました。
敬虔さを皆が評価するというのは、今でも同じです。もしも新聞であるキリスト者が紹介されるようなことがあれば、この人は敬虔なキリスト者であるといった書き方をされるのではないかと思います。敬虔さは人が評価する指標になるし、そこで敬虔を測る基準になるのは、祈りの立派さや目に見える振る舞いでしょう。
その点、徴税人は最悪です。普段の行いは悪く、神殿に来てもおどおどして祈っているのかいないのかもよく分からない。とても敬虔とは言えない。
スイスに生きたルードルフ・ボーレン牧師がこのような祈りを残しています。「私は、ぜひ喜んで敬虔でありたい、と願っております。しかし、私が、私自身や他の人々に知覚する敬虔というものとなりますと、私には気に入りません。聖なる神よ、私には十分に分かっています。この敬虔なるものが、何よりも、あなたのお気に召さないことを。私どもが依然として怠惰で生温くあり続けることがありませんように。祈りにおいて。そうではなくて、私どもが、まだそうなっていないものに、私どもそのものを変えてください。」
この祈りには「修練」という題がついています。祈りの修練、それは人が評価する敬虔さからの脱却です。そうではなく、神様の御前に祈りを注ぎ出す。「神様、罪人の私を憐れんでください。」私たちは聖なる神様の御前で祈っています。そこに、人からどう見られるか、どう評価されるかという軸は入り込む余地がありません。そうではなくて、神様の御前に未だなっていないものになる。すなわち、憐れみを求める一人の罪人として祈る。そこに祈りの道がひらかれるのです。

2023年2月12日日曜日

2023年2月12日の聖句

今週の聖句:
今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。(ヘブライ3:15)

今日の聖句:
あなたがたは、あなたがたの神である主を愛し、万事その道を外れず歩むことに、よくよく心を配りなさい。(ヨシュア22:5)
私に仕えようとする者は、私に従ってきなさい。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。(ヨハネ12:26)

この半年、カルト宗教の話題をいろいろなところで目にします。そして、それに触れるととても悲しい気持ちになります。何々をしてはならない、さもないと地獄に行く。あなたの不幸の原因は、こういう間違いを犯してきたからだ。その類いのことを教えられてきた、と当事者たちが証言をしている。悲しいことです。そのような教えが跋扈することも、魂が渇いてあえいでいる人がそのような教えの虜になってしまうことも。そして、よく気をつけないと私たちもそういった「分かりやすい」説明に陥ってしまいますし、そうなってしまってはキリストの教会ではなくなってしまいます。
「あなたがたは、あなたがたの神である主を愛し」と今日の御言葉は言います。主を愛すること。そして、主を愛して自由になること。そこに真理がある。聖書が私たちに伝えるのは、何よりも神さまの愛です。この絶対的な神の愛の中で、始めて私たちは自分に間違いがたくさんあること、自分の存在に深く悪が食い込んでいることをしりました。しかし、神さまはそんな私たちを愛してくださっています。神の愛の中で、始めて自分がどんなに邪悪で、どうしようもなく、ダメであるかをしりました。しかし神さまの愛は何ら変わらないのです。私たちは、何の功績もなく何もできないのに、神さまは私よりも先に愛して救ってくださいました。
私たちは愛する主イエスさまの側近くにいたいと願います。「私に仕えようとする者は、私に従ってきなさい。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。」主はご自分の愛の中へ、私たちを招いてくださっています。キリストの無限の愛が、憐れみが、恵みが、私たちを生かします。私たちは、私たちを愛してくださる神さまによって、祝福の中に生かされています。
今日は日曜日です。主の日です。主イエス・キリストを仰ぎましょう。神さまの愛の中に生かされている幸いを味わいましょう。キリストの福音を、すべての人が求めています。渇いた魂が救いを求め、邪な教えに惑わされている。キリストの愛がこの地を潤し、キリストの愛が渇いたたましいを癒やしてくださいますように。この地に生きるたくさんの人々のために、祈りをもってこの週を歩み出します。

2023年2月11日土曜日

2023年2月11日の聖句

私の魂を牢獄から引き出してください。
あなたの名に感謝するために。(詩編142:8)
だから、もし子があなたがたを自由にすれば、あなたがたは本当に自由になる。(ヨハネ8:36)

今日の旧約は詩編第142編の言葉です。ぜひ聖書を開いてこの詩編を開いて読んで頂ければと思います。とても弱り切ってしまった思いを吐露する言葉が並んでいます。「御前に嘆きを注ぎ出し、御前に苦しみを告げよう。」「私に気を留める人などいない。逃げ場も失われ、私の魂を気遣う人もいない。」「私の叫びに心を向けてください。私は弱り果てました。追い迫る者から私を助けてください。彼らは私よりも強いのです。」このような言葉が並んでいます。決して長い詩編ではありません。それだけに、弱り切った存在の深みが助けを求めて、神さまの前であえいでいる、その呻きが伝わってきます。そして、これは私たち自身の詩編ではないでしょうか。
私たちにも、この詩編でなければ表現できない思いがあるのではないでしょうか。私たちにもこのような絶望の詩編によってでなければ言語にできない苦しみがあるのではないでしょうか。
「私の魂を牢獄から引き出してください。」詩編はそのように言っています。この「牢獄」とは何のことか。実際に、誰かに、あるいは何かに捕らえられたり、自由を奪われたりするようなこともあるかも知れません。しかしもしかしたらそれだけではなく、私たちの魂(存在の深み)が罪の牢獄に捕らえられて、どうしたって自由になることができないで苦しんでいるということもあるのではないでしょうか。もうこれ以上罪を犯さず、人を傷つけたり神さまを悲しませたりしたくないと願っても、どうすることもできない自分の現実に苦しむこともあるのではないでしょうか。いやそれ以前に、あの罪この罪というよりももっと根本的に、自分の存在に生まれついて染みついている邪悪なものに苦しまないでしょうか。主なる神さまは、私たちを牢獄から引き出し、自由にしてくださる方です。
「だから、もし子があなたがたを自由にすれば、あなたがたは本当に自由になる。」人の子、すなわち主イエス・キリストは私たちを自由にするために十字架にかかってくださいました。私たちはキリストと出会い、キリストを信じ、今や自由です。私たちは罪赦され、新しくなって生きている。それが私たちが信じ、受け入れている福音です。主イエス・キリストは私たちを自由にしてくださったのです。

2023年2月10日金曜日

2023年2月10日の聖句

良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。(イザヤ52:7)
足には平和の福音の備えをはきなさい。(エフェソ6:15)

なんと美しいことか!聖書はそのように言って驚いています。驚くほど美しいもの、それは足です。山々を歩き回る者の足です。今のような立派な靴ではなくサンダルのような履物を履いていたのでしょう。埃だらけ、泥だらけの足です。歩いたのはゴツゴツした岩だらけの山だったかもしれません。傷つき、血にまみれた足だったことでしょう。しかし、その足のなんと美しいことか!その足が山々を歩き回って良い知らせを伝えたからです。平和の福音を告げた足だからです。「あなたの神は王であられる」と告げ知らせたからです。
私たちカンバーランド長老教会の宣教師はすでに明治期から日本で伝道をしていました。へールという二人兄弟の宣教師が、それぞれの家族と共に遠い米国から明治になったばかりの日本へやって来ました。まだキリシタン禁令の高札が下ろされていない時代です。たいへんな使命感をもってやって来たことでしょう。彼らは和歌山や三重の山々をわらじを履いて行き巡り、福音を告げ知らせました。平和の福音、良い知らせ、「あなたの神は王であられる」と宣べ伝えたのです。その足の麗しさを、神は決してお忘れにならないでしょう。
今日、私たちも、私たちが出て行く場所へ神の良い知らせを携えて出て行きます。私たちの足を神さまが憶えていてくださいます。私たちの足を美しくしてくださるのは、この知らせを預けてくださった神さまです。この福音は、「平和の福音」です。神さまが私たちとの間を平和にしてくださった。神さまが和解の手を伸ばしてくださった。もしも、私たちが携えるのが争いの知らせとか呪いの知らせとか、「あなたじゃダメだ」とか「それでは足りない」とか、そのような知らせだったら、それを知らせる者の足は全然美しくなかったと思います。私たちは神さまの預けてくださった平和の知らせを告げるために、今日、出て行きます。私たちの足を神さまが守ってくださいますように。

2023年2月9日木曜日

2023年2月9日の聖句

主なる神の前に静まれ。主の日は近づいているからだ。(ゼファニヤ1:7)
だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。(マタイ24:44)

主の日。主イエス・キリストが再び来られる日です。それは完成の日であり、裁きの日であり、救いの日です。そして、もしかしたら私たちの信仰生活の中でもっともリアリティを失っている日であるかも知れません。
聖書が書かれた時代、主の日はすぐにでも来ると考えられていました。すぐに主イエスは来て救いを完成してくださる。多くの人がそう信じ、待ち望んでいた。ところが、なかなか主イエスは来てくださらない。「終末の遅延」と言われたりもします。いつまで待っても来てくださらない主イエス。いつしか、主が再び来られるという知らせ自体がリアリティのない空手形のように扱われるようになった。あるいはそうでなければ、まるでファンタジーのように、非現実的な物語のように語られることにもなりました。いずれにしても、「主の日」が私たちの信仰生活に積極的な意味を持たなくなってしまったように思います。そしてそれはかなりまずいことだと思います。
クリストフ・ブルームハルトという、今から100年くらい前のドイツでとても大切な存在であった牧師がいます。この人は、毎晩、主がいつ来られてもはせ参じることができるように馬車の準備をしてから床に就いたそうです。主が来られることへの具体的な待望に生きていました。そうすると、自分の生き方が主を待ち望むということを基準に建て直されることになります。私の生き方は、主をお待ちするということにふさわしいのか。主イエスさまを待ち望む生活をしているのだろうか。それが自分を見つめる基準になります。
主の日、主が再び来られる日。それは、救いの完成の日です。主が再び来てくださらなければ、私たちは救われないのです。もしも主が来てくださらなかったら、私たちは救われないままになってしまう。だから、私たちは主を待ち望みます。そして、「来てください」と祈ります。
ですので、「主の日」は私たちにとっては議論や懐疑の対象ではなくて、待ち望み、それによって生活が見つめ直される、実際的な救いの目標です。主を待ち望みましょう。主は必ず約束の通りに来てくださいます。それがいつなのか、どのような形なのか、それは私たちには分かりません。しかし、私たちのために十字架にかけられ、葬られ、復活させられた方は、必ず私たちを完全に救うために再び来てくださいます。主を待ち望むことこそが、今日私たちの生きる意味なのです。

2023年2月8日水曜日

2023年2月8日の聖句

まことに私たちの心は主を喜び、私たちは聖なる御名に依り頼む。(詩編32:21)
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。(1テサロニケ5:16~17)

聖書は、神さまとの私たちとの関係の中でも根本的に大切なのは喜びだと言います。「いつも喜んでいなさい。」ファリサイ派や律法学者たちはとてもキチンと律法を守ってちゃんと生きていましたが、福音書を読む限り、喜んで神さまを信じていたようには見えません。わたしがこうやって真面目に生きているのだから神さまはわたしを救ってくださるに違いないという取引のような関係を考えていましたから、当然の帰結なのだと思います。しかし主イエスは喜んで神の国の福音を語り、喜んで罪人や徴税人と食卓を囲み、喜んで彼らの友になり、喜んで彼らに救いを宣言なさいました。喜び。私たちと神さまとの関係の根本にあるとても大切なものです。
少し前の日曜日にご紹介した「雪ノ下カテキズム」でも、まず最初に喜びを問うことから始めていました。「あなたが、主イエス・キリストの父なる神に願い求め、待ち望む、救いの喜びとは、いかなる喜びですか。」主イエス・キリストにあって神を信じることは喜び。そして、神に救って頂くことは大いなる喜び。このカテキズムでは、救いの喜びとは主イエス・キリストの父である神様を「私の父、私たちの父」とお呼びする喜びだと告白しています。神さまを父とお呼びして祈る喜びです。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。」祈ることと喜ぶこととは一つです。喜びから祈りが生まれるし、祈ることは喜びそのものです。私たちは神さまの御前にでて「私たちの父よ」とお呼びして祈ることができるのです。絶えず祈りつつ、私たちは私たちを救ってくださった主イエス・キリストを喜んで生きていきます。
喜びがあまり感じられない日もあることでしょう。昔は喜んでいたなとさみしい気持ちになることもあるかも知れません。しかし、主イエスさまが私たちのためにしてくださった事実は、昔も今も少しも変わっていません。神さまの愛に変わるところは一つもないのです。神を父と呼ばせてくださるキリストの愛がわたしを覆ってくださいますように。今日、そのように祈ることから始めてみませんか?

2023年2月7日火曜日

2023年2月7日の聖句

雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ55:10~11)
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それは叶えられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。(ヨハネ15:7~8)

主イエス・キリストの言葉、神さまの御言葉は、出来事を起こします。天から降ってきた雨が大地を潤すように。それによって芽が出て生い茂り、種を結び、人や動物の糧となるように。神さまの御言葉が神さまの口から出たら、必ずそれは出来事を起こす。しっかり雨が降ったのに大地が潤わないことはありません。雨が降ったのに地面につく前に天に戻ってしまうことなどないのです。それと同じように、神さまの口から出た一つひとつの言葉も、神さまのもとに空しく戻っていくことはない。それが神さまの約束です。
ですから、神さまの言葉を蔑ろにして無視するというのは、雨が下から上に戻るほどに不自然でいびつなことです。「わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら」と主イエスはおっしゃいます。キリストが語りかけた言葉は私たちの内に必ずとどまって実を結ぶ。私たちがそれを妨げてしまうとしたら、それは逆さまなことです。
しかし、神さまの言葉は私たちよりも強い。御言葉が語られれば、必ず出来事が起こります。福音の出来事です。私たちを大地として御言葉は根を張って実を結び、神さまはそれによって栄光をお受けになる。私たちからしたら途方もない約束です。
私たちが自分を省みてみれば、本当に力は乏しく、手は空である上に短くて力もなく、途方に暮れるばかりです。自分がしなければならないこと、取り組まなければならない使命。それは大きくて途轍もなく、どうしていいのか分かりません。しかし、神さまの御言葉は必ず実りをもたらします。福音の実りです。神さまの愛の実です。御言葉です。御言葉が私たちの救いです。福音が私たちの内に出来事を起こし、私たちを新しくし、私たちが神の祝福の基として立ちうるようにしてくださるのです。

2023年2月6日月曜日

2023年2月6日の聖句

頑固で臆病なものは心。誰がそれを探り当てられようか。主なる私こそが心を調べ、腹の内を試し、その行いに応じてすべての人に与える。(エレミヤ17:9~10)
善を行い、倦むことのないようにしましょう。諦めずにいれば、キリストの時に至り、私たちも刈り取ることになるからです。(ガラテヤ6:9)

心を探り当てることができるのは、主なる神さまただお一人だけだと言います。表面的に見えていることや、普段の言葉や行動の端々に感じられるところで、私たちは簡単に人を判断してしまいがちです。それに、そういうことができる人をとても頭がいいと思いがちでもあります。洞察力や人間観察力が深いとびっくりしてしまうことも少なくありません。しかし、私たちの見えるところはほんの一部でしかありません。私たちの目に見える他人の言動を生み出す背景に何があるのか、私たちに知るよしもない思いや、心の中にあるものがあるに違いない。他の人の心への謙遜さは、とても大切なのだと思います。自戒を込めて、そのように思います。
「頑固で臆病なものは心。誰がそれを探り当てられようか。主なる私こそが心を調べ、腹の内を試し、その行いに応じてすべての人に与える。」主なる神さまだけが、人の心の中にあるものを本当にご存じです。頑固で臆病な心を本当に知っておられるのは神さま。自分でも知らない私のことを、神さまはご存じです。だから、私たちは他人の心だけではなく自分自身の心についても、神さまに対して謙遜になることが大切なのだと思います。私たちは自分自身のことだって知ったような顔はできないのです。
私たちは、自分のことを諦めてしまうのがもしかしたら早すぎるのかもしれない。仕方がないからとか、自分はこの程度だからと考えるのが、もしかしたら早すぎるのかもしれません。神さまは、私たちの心に神を求める憧れの心を植え付けてくださいました。善を行いたいという願いを与えてくださいました。私たちは自分でもそのことに気づいていないかもしれないし、その心を塞いでしまっているかもしれません。しかし、神さまが植え、神さまが育ててくださっている心が私たちの内にも根付いています。
「善を行い、倦むことのないようにしましょう。諦めずにいれば、キリストの時に至り、私たちも刈り取ることになるからです。」御言葉に応え、善を行い、キリストに向かって生きる願いを私たちに与えてくださったのは、神さまです。私以上に私のことをご存じでいてくださる方が、私のこころに神さまに向かう願いを与えてくださいました。倦むことなくキリストを求め、今日の一日を生きていきましょう。

2023年2月5日日曜日

2023年2月5日の聖句

今週の聖句:
私たちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、私たちはあなたの前に嘆願を献げるのです。(ダニエル9:18b)

今日の聖句:
幸せな日には幸せであれ。不幸な日にはこう考えよ。人が後に起こることを見極められないように、神は両者を造られたのだ、と。(コヘレト7:14)
空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。(マタイ6:26)

主イエスはおっしゃいます。「まして、あなたがたは」と!私たちの天の父である方、神さまは、空の鳥を養ってくださいます。鳥は自分で種を蒔くことも、刈り入れることも、倉に納めることもしません。ところが、私たちの天の父であるお方は鳥を養ってくださいます。鳥たちが生きているのは、神さまの深い慈しみがあってのことです。まして、あなたがたは!主イエスは言われるのです。空を飛ぶ鳥を養ってくださる神、天の父が、ましてあながたのことをお忘れになることがあろうか!
そこにあるのは完全な信頼です。神さまの、天の父としての慈しみへの信頼です。絶対の慈しみ、変わることのない愛への完全な信頼。主イエスさまのこの信仰に、私たちも招かれています。私たちはこれから先のことについて無知です。幸せな日もあれば不幸な日もあります。未来を知ることはできません。しかし、無知であってよい。見極められる必要はない。あなたの天の父がそれを備えてくださっているから。だから、幸せの日にはそれを楽しめばいい。明日のことを思い煩う必要はない。あなた方の天の父が、あなたに変わってあなたの明日を心配し、無限の慈しみを持ってあなたを養ってくださるから。それが聖書の私たちへのメッセージです。
今週の聖句では「私たちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに」とあります。神さまの慈しみには、私たちの側の理由がありません。神さまご自身の慈しみが私たちに向けられている。それはまったくの無償の贈り物です。神さまは天の父として、私たちに無限の慈しみを注いでくださっています。

2023年2月4日土曜日

2023年2月4日の聖句

ヤコブの誓い:そこで私は、あなたが与えてくださるすべてのものの十分の一をあなたに献げます。(創世記28:22)
わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。(2コリント9:6)

献金を考えるときに大切なことは、献金のあまりで生活をする、という考え方だと思います。お給料を頂いて一ヶ月生活をして、貯金もして、その余りを出すというのは献金ではない。お給料を頂いたらまず神さまに献げるものを取り分け、その余りで自分の生活をするという順序の転換が大事です。すべては神さまのもの。自分で稼いできたようであっても、働くことのできる健康も、働くための能力も、これまでの人生の巡り合わせも、全て神さまが与えてくださいました。私たちが生きるために必要なものの全部は、神さまが下さったものです。だから、献金は、自分の得たものの一部が神さまの取り分ということではなく、自分の手にあるすべては神のものだという信仰告白の表現です。ですから、今日の旧約にある「十分の一」というのも、後の九割は好きにしていいということではなく、全部が神のものであるという代表としての十分の一です。
神さまは私たちが生きるために必要なものを全部準備してくださっています。その基本的な信頼、それが私たちの生活に実際的な意味を持つ信仰です。
今日の旧約に書かれたヤコブの言葉は、ヤコブが兄エサウから祝福を奪い取り、家にいられなくなって遠い伯父の家に逃れたときのものです。ベテルでヤコブは神と出会いました。アブラハム、イサクに与えたこの土地をあなたとあなたの子孫に与えるという約束をヤコブ自身が聞きました。その場所でヤコブは神を礼拝し、「そこで私は、あなたが与えてくださるすべてのものの十分の一をあなたに献げます」と約束しました。この出来事が私たちに伝えているのは、献金は神の恵みへの応答だということです。ヤコブは家族とも一緒にいられなくなり、プラスマイナスゼロではなく、完全なマイナスの状態で神と出会いました。そのような私をも神は見捨てず、約束の中に置いてくださっているという事実を知らされて、自分自身を神に献げることを誓った。神の恵みが先にあります。
神さまは私たちに必要なものを必ず準備してくださいます。そのことを信じ、大胆に神さまの御前に生きていきましょう。必ず、神さまは天の窓を開いて私たちを恵んでくださいます。

2023年2月3日金曜日

2023年2月3日の聖句

あなたがたはどうしてすべてを逆さまにしてしまうのか。あたかも粘土が陶工に等しいとでも言うように、作品が自分の作者について「彼は私を造っていない」と言い、彫像が自らの造り手について「彼は何も理解していない」などと言うのか。(イザヤ29:16)
実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。(エフェソ2:10)

私たちは神の作品。嬉しい言葉です。自分という存在への理解が変わります。私も神の作品なのだと私たちは信じて良いし、更にはそのことを知るべきです。私という存在の根本を支える事実です。
一口に作品と言っても、用途によってその尊卑は全然違います。尊い目的のために造られたものであれば作品自体も尊く扱われますが、賤しいことのための道具はそれ自体が賤しいものと見なされる。私たちは神の作品。何のために造られた作品なのか。私たちは「良い行いをするために」造られました。そうであるならば、私たちは神さまのお造りになった良い作品に違いありません。しかも、私たちはキリスト・イエスにあって造られました。わたしたちは神の作品として造られたとき、その最初からすでにキリスト・イエスにあって造られている。だから、わたしたちは根本から良いものとして頂いています。わたしたちがキリストにあって造られたのは悪しき業のためではなく良い業のため。私たちに命を与えられた根にあるもの、そして私たちが向かうべき先にあるもの、そのすべてがイエス・キリストご自身だと聖書は言います。すごいことです。
だから、神の作品として、神がお造りになった目的に適う私でいたいと願います。我が家では平日の朝はテレビで幼児番組が流れています。しばらく前にこんな歌が放映されていました。「あさおきられない、めざましどけい。さむがりな、ゆきだるま。むしいがにがてな、むしかご。はたらきものの、なまけもの。ひとりになりたい、いくら。あつまって、ひるねして、おやつたべて、でたこたえ。いいんじゃない、いいんじゃない、うん、いいんじゃない。またね。」とっても優しいメロディで、癒やし系の歌です。確かに誰かに押しつけられた「らしさ」を強要されのはつらいことです。無理を強いられて疲れ切ってしまうこともあります。ただ、私は同時に思います。他の人間や社会の要求ということではなく、神さまとの関わりで考えると、この歌は少し違うかな、と。私たちが神さまに造られた者としての自分らしさを失ってしまっては、「うん、いいんじゃない」とは言えない。神さまは私たちを尊いことのために造り、キリスト・イエスにあって命を下さいました。キリストにある私らしさ、神さまが愛を込めて造ってくださったものとしての私らしさは、祝福です。神の子、神に造って頂いたものであることを大事にしたい。そこにこそ私たちの本当の癒しがあるのですから。

2023年2月2日木曜日

2023年2月2日の聖句

わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている。(エレミヤ1:12)
イエスの言葉:私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。排するためではなく、完成するためである。(マタイ5:17)

今日の旧約聖書の「見張っている」というのはかなり強い言葉ですが、この強さも驚きすぎて拒まずに御言葉に耳を傾けたいと思います。
私たちはキリストの恵みによって、信仰を通して救われました。神さまの一方的な贈り物として、救いの恵みを頂きました。そこには何の条件もなく、また私たちの素質も見所も関係なく、ただただ神さまの憐れみと慈しみがあるだけです。聖書はそれを神の愛と言います。
神さまが私たちを救ってくださったのは、私たちがこの後はキリストにしたがって生きるためです。そして私たち救われた者の側から考えても、自然な思いとして神さまに喜んで頂きたいと願います。キリストの一方的なご慈愛で救って頂いたからこそ、キリストに喜んで頂きたいというのは自然な思いです。そしてキリストは、私たち救って頂いた者が生きるためのガイドラインを下さっています。新しい命へのキリストのご命令です。
「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。排するためではなく、完成するためである。」律法や預言者というのは、旧約聖書という意味です。主イエスさまは旧約聖書を廃止するためではなく、完成するために来られた。例えば主イエスは言われます。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。きょうだいに腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。・・・。」主イエスは「殺すな」というのは文字通りの殺人だけではなく、きょうだいに腹を立てることから既に始まっている、と言われます。姦淫、離縁、偽りの誓い、復讐など、旧約聖書のいろいろな戒めについて、とても厳しく更新しておられる。
しかしそれは単に厳格にしたということではなく、律法や預言者教えていることの精神や急所を私たちに告げたのではないでしょうか。文字通りの殺人を犯さなければそれでいいというのではなく、怒りが私たちの心を覆うときに一体何が起きているのかを鋭く見ておられます。その上で、神さまに従って生きること、神の愛と憐れみに応答して生きるとはどういうことなのかを問い直しています。心を失った字面に縛られがちな私たちを、本当に神の愛の中で生きるとは何を意味するのかという神の恵みの事実に引き戻す。それがキリストのしておられることではないでしょうか。

2023年2月1日水曜日

2023年2月1日の聖句

今月の聖句:
サラは言った。「神は私を笑わせてくださいました。」(創世記21:6)

今日の聖句:
わたしに立ち帰れ、と万軍の主は言われる。そうすれば、わたしもあなたたちのもとに、立ち帰る。(ゼカリヤ1:3)
(主は)一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。(2ペトロ3:9)

今月の聖句はアブラハムの妻サラの言葉です。アブラハムとサラには子どもがいませんでした。しかし神さまは、「私はあなたを大いなる国民とし、祝福し・・・」と約束しておられました。また、天に輝く数えきることのできない星を見せながら、「あなたの子孫はこのようになる」とおっしゃいました。ところが、いつまで経っても子どもは生まれませんでした。アブラハムは主の約束を笑いました。それでも主は約束を取り消すようなことはなさいませんでした。そしてやがて、主の使いが夫妻のところを訪れ、来年の今頃にサラは男の子を産んでいると言った。それを聞いてサラも笑いました。主の使いはそのことを咎めましたが、サラは笑ったことを認めませんでした。
そしてあの約束から一年後、サラは神の約束の通りに男の赤ちゃんを出産しました。この一年、アブラハムとサラはどんな思いをしながら過ごしてきたのでしょう。何度も語り合ったに違いありません。私たちは主の約束を笑った。主を侮り、信じなかった。少しずつ大きくなっていくサラのお腹を見つめながら、その原点に繰り返し立ち戻ったに違いありません。やがて約束の通りに息子が誕生したとき、サラは「神は私を笑わせてくださいました」と言った。息子はイサクと名づけられました。彼は笑う、という意味です。
主なる神さまは、アブラハムにもサラにも、ご自分を信じる道を準備してくださっていました。彼らが主を侮る笑いの中に沈んでいくことではなく、ご自分のもとに立ち返ることを望んでおられました。「わたしに立ち帰れ」、それは聖書が一貫して告げる神さまから私たちへのメッセージです。「わたしに立ち帰れ。」主なる神さまは、今日、私たちにも呼びかけておられます。
それは、私たちの一人でも滅びてしまうことは神さまの御心ではないからです。「わたしに立ち帰れ」、それが今日私たちが聞く神のメッセージです。

2024年2月24日の聖句

私はあなたがたに以前にもまさる幸いをもたらす。こうしてあなたがたは私が主であることを知るようになる。(エゼキエル36:11) (パウロの手紙)あなたがたのところに行くときは、キリストの祝福に満ちあふれて行くことになると分かっています。(ローマ15:29) ありがたい言葉です。「私...